宮崎駿の情報(または宮﨑駿) アニメ映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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宮崎 駿さんについて調べます
■名前・氏名 |
宮崎駿と関係のある人
高坂希太郎: 宮崎駿からは「モンチ」の愛称で呼ばれている。 石岡琉衣: 好きな漫画家は宮崎駿。 江川達也: 近年は、宮崎駿やコンピュータゲーム批判をよく行っているが、その反面、江川はいくつかのゲームソフトでキャラクターデザインを担当している。 高坂希太郎: 宮崎駿監督からの信頼も厚く、同監督が「最後の長編映画」としていた『風立ちぬ』では単独で作画監督を担当している。 野見祐二: 1995年、『耳をすませば』(近藤喜文監督、宮崎駿脚本・絵コンテ、スタジオジブリ制作)の音楽を担当。 吉田聡: 宮崎駿は吉田の作品のファンであり、『バードマン・ラリー 鳥人伝説』の解説で、『湘南爆走族』を「管理社会に対する異議申し立ての傑作」と絶賛している。 黒田硫黄: 『茄子』のうちの一編「アンダルシアの夏」は単行本帯にて宮崎駿に「このおもしろさが判る奴は本物だ」と絶賛されたのち、2003年に高坂希太郎監督により劇場アニメ化。 男鹿和雄: 宮崎駿、高畑勲、川尻善昭らの作品を支えてきた日本を代表する美術監督である。 鈴木敏夫: 1981年には宮崎駿を初特集する。 桑原太矩: 定規を使わない手描きの作画は宮崎駿の影響も大きいと語っている。 近藤勝也: 最初、安彦良和を好きになり、続いて宮崎駿や大塚康生のファンになって2人が在籍したテレコム・アニメーションフィルムに入ろうとした。 北林谷栄: 1988年に公開された宮崎駿監督の『となりのトトロ』では、大垣勘太(カンタ)のおばあちゃん役を担当し、幅広い世代に名前を知られることとなった。 ロバート=ウッドヘッド: 好きなアニメ監督として宮崎駿監督と押井守監督の名を挙げている。 貞本義行: その後、細田守作品に参加した時には、本人曰く「宮崎駿みたいに」デザインが先祖返りした。 尾形英夫: 宮崎駿『風の谷のナウシカ』を『アニメージュ』(1982年 - 1994年)で連載させ、1984年春公開の同劇場版アニメ『風の谷のナウシカ』や、1986年夏公開の『天空の城ラピュタ』でプロデューサーをつとめる。 富野由悠季: 同年生まれのアニメ監督に宮崎駿や同じ虫プロ出身のりんたろうがいる。 大橋のぞみ: 崖の上のポニョ(2007年12月5日、ヤマハミュージックコミュニケーションズ) - 「藤岡藤巻と大橋のぞみ」名義、宮崎駿監督映画『崖の上のポニョ』主題歌 パット=キャロル: また、2005年に再公開された宮崎駿の『となりのトトロ』では、ディズニー版においておばあちゃんの声を担当した。 にいやなおゆき: ユリイカ・宮崎駿の世界/「『宮崎駿』とは何ものだったのか⁉︎」高橋洋、塩田明彦らとの鼎談(1997年8月臨時増刊号) 高山みなみ: 1989年には、アニメ映画『魔女の宅急便』でキキとウルスラの二役にも抜擢され、作品もヒット、一人二役は急遽決まったことで新人の自分には責任が持てないと断ろうとしたが宮崎駿から「責任は自分が持つから安心して」と言われ、自分が持てる限りのアンテナを駆使して挑戦、声優としての転機になった作品であった。 レオナルド=ディカプリオ: 出演作以外でのベスト映画に宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を挙げている。 大竹しのぶ: 宮崎駿の雑想ノート 第2話「高射砲塔」(1995年11月19日・1995年11月26日、ニッポン放送) 深作健太: 風立ちぬ(2021年、演出 TBSラジオ 宮崎駿原作) 出﨑統: 『ルパン三世』(テレビ第1作)第13話「タイムマシンに気をつけろ!」と17話「罠にかかったルパン」では、当時Aプロダクションに所属していた宮崎駿と高畑勲による改変を受けた。 五十嵐大介: 五十嵐自身は影響を受けた漫画として、小学生のときに読んでいたという藤子・F・不二雄の『ドラえもん』やつげ義春の『石を売る』、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(漫画版)などを挙げ、また愛読している作品として杉浦日向子の『百日紅』を挙げている。 音尾琢真: ハウルの動く城(2004年11月20日公開、監督:宮崎駿、スタジオジブリ) - 城の門番 役 前田旺志郎: “宮崎駿監督の漫画を舞台化した『最貧前線』 オーディオドラマ版として配信決定 (2020年6月19日)”. イープラス. 2022年11月9日閲覧。 米林宏昌: 鈴木敏夫によって広められた米林が『千と千尋の神隠し』に登場するカオナシのモデルであるという説について、本人は「ラッシュで自分の描いたカオナシのシーンを見た宮崎駿が『麻呂(=米林のニックネーム)じゃないか!(アニメの中に)入ってきた』と言ったことがきっかけでそう言われるようになった」と証言している。 前田旺志郎: オーディオドラマ版「最貧前線 ~『宮崎駿の雑想ノート』より ~」(2020年6月26日 - 7月15日 配信、水戸芸術館公式サイト) - 吉祥丸の見習い 役 ジャン=ジロー: 貞本義行はメビウスの影響でハッチングを付けた絵をテレコム・アニメーションフィルムの採用試験で描いたら、宮崎駿とメビウスの話題で盛り上がった。 |
宮崎駿の情報まとめ
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宮崎 駿(または宮﨑 駿)さんの誕生日は1941年1月5日です。東京出身のアニメ映画監督のようです。
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略歴などについてまとめました。映画、テレビ、卒業、兄弟、家族、母親、結婚、退社、現在、引退に関する情報もありますね。今年の情報もありました。宮崎駿の現在の年齢は83歳のようです。
宮崎駿のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)アニメーション映画 『ルパン三世 カリオストロの城』(脚本・監督) 『風の谷のナウシカ』(原作・脚本・監督) 『天空の城ラピュタ』(原作・脚本・監督) 『となりのトトロ』(原作・脚本・監督) 『魔女の宅急便』(脚本・プロデュース・監督) 『紅の豚』(原作・脚本・監督) 『もののけ姫』(原作・脚本・監督) 『千と千尋の神隠し』(原作・脚本・監督) 『ハウルの動く城』(脚本・監督) 『崖の上のポニョ』(原作・脚本・監督) 『風立ちぬ』(原作・脚本・監督) 『君たちはどう生きるか』(原作・脚本・監督) テレビアニメ 『未来少年コナン』(監督・演出) 最優秀アニメーション作品賞 2009年『崖の上のポニョ』 2014年『風立ちぬ』 2024年『君たちはどう生きるか』 会長功労賞 2002年 特別賞 1989年『となりのトトロ』 1998年『もののけ姫』 宮崎 駿(宮﨑 駿、みやざき はやお、1941年〈昭和16年〉1月5日 - )は、日本のアニメ監督、アニメーター、脚本家、漫画家。別名義として秋津 三朗(あきつ さぶろう)、照樹 務(てるき つとむ または てれこむ)がある。株式会社スタジオジブリ取締役、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事長、三鷹市立アニメーション美術館(三鷹の森ジブリ美術館)名誉館主(初代館主)。 東京府東京市出身。学習院大学政経学部卒業。1963年に東映動画にアニメーターとして入社。その後いくつかの会社を経てフリーとなり、その間にテレビアニメ『未来少年コナン』、初の劇場用アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』で頭角を現した。 1984年に個人事務所の二馬力を設立し、翌年に高畑勲らとアニメーション制作会社スタジオジブリの設立に参加(2005年に同社取締役に就任)。以後『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『もののけ姫』などの劇場用アニメーションを監督し、『千と千尋の神隠し』でベルリン国際映画祭金熊賞とアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した。2014年には日本人で2人目のアカデミー名誉賞を受賞した。埼玉県所沢市在住。 数千人の従業員を擁した一族が経営する宮崎航空興学の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、1941年1月5日に東京市で生まれた。比較的に裕福な暮らしをしていたという。 太平洋戦争が始まり、宮崎航空機製作所が宇都宮に移転したこともあり、幼児期に家族で宇都宮に疎開し、小学校3年生まで暮らしていた。1947年、母親が結核を発症し、以後9年間にわたり寝たきりの状態となる。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区永福町に転居。 幼少時は身体が弱かったので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫や杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『沙漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。 進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中、中学3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し、アニメーションにも関心を持つようになる。学生時代に、中学の恩師・佐藤文雄のアトリエでデッサンを独学で学び、ポール・セザンヌのような印象派に影響されている。 学習院大学に進学後、児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し赤旗で『砂漠の民』という漫画を連載していたが、アニメーションの世界へ進む事を決断する。 学習院大学を卒業し、「米帝ディズニー」に対抗するアニメの拠点を日本で作るとして、アニメーターとして東映動画に定期採用で入社し、動画などを手がける。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。 『ガリバーの宇宙旅行』のラストシーンが宮崎のアイディアで変更されるなど、早くから才能を現した。大塚康生は「あ、これはぼくより沢山絵を描いている」と感じたという。 結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1965年 - 1968年)を作り上げた。 1965年秋には、東映動画の同僚で、アニメーターの大田朱美と24歳で結婚し、その後2人の男児をもうける。 1971年、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社し、新企画『長くつ下のピッピ』を制作するためにAプロダクションに移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。 「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『パンダコパンダ』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。 高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。1974年TVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。 1978年、『未来少年コナン』(NHK)で監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はおらず、実質的には監督として現場を仕切っていた。 毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした。 その後、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世』の映画を大塚に持ちかけられ、宮崎は演出を引き受ける。その為、テレコム・アニメーションフィルム(東京ムービー新社内)に移籍し、映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。 宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって不発におわり、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。 しかしロリコンブームを追い風にヒロインのクラリスが美少女アニメファンからカルト的支持を受け、後に再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。 美術担当の小林七郎は「宮崎駿監督は大変優れた人で、常識的なセンスの中で完成度を上げていき現在のような大衆的な支持を得たが、自分で全部やりたい人で、すべてを自分の枠にはめようとする。なので、ジブリからは新しい可能性は出てこない、というのが私の考えです。」と評している。 宮崎本人は「ルパンや東映時代にやったことの大たなざらえ」と位置づけており、自らが手がけた『ルパン三世』1stシリーズのいくつかのエピソードも元ネタにしている。 この直後には、『ルパン三世 PART2』で第145話と最終回の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『天空の城ラピュタ』に登場するロボット兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『アニメージュ』副編集長で取材に訪れた鈴木敏夫と出会っている。 テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板。1981年4月に公開された『じゃりン子チエ』を監督予定だったが原作をそのまま使わない意向を示して高畑勲が監督することになった。テレビシリーズについては1981年4月から製作開始した『名探偵ホームズ』の監督に就任していたが、合作相手のイタリア側の事情で4話分が完成した段階で制作が中断した。同時期には『花王名人劇場』の枠で1981年8月に放送されたテレコム制作の『東海道四谷怪談』も最初は宮崎が監督をすることになっていたが、宮崎が推薦した大塚康生に変更になった。 この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。 宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる。 さらに、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店の徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。 映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった。 1985年に徳間書店の出資を得てスタジオジブリを設立し、以後の制作の基盤とした。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。 また1986年頃、宮崎が推薦した押井守によるルパン三世劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている。 『魔女の宅急便』(1989年)はスポンサーの意向により、当初指名されていた佐藤順一、次に指名された片渕須直が降板し宮崎が後を継いだ。本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けてジブリの労働環境を整えるため社員化を決定する。 『紅の豚』(1992年)は、もともと日本航空の機内で上映される中編として企画されたが、次第に構想が膨らみ、長編作品として公開された。 『耳をすませば』(1995年)で、脚本、絵コンテ、製作プロデューサーを担当。 1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。 2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2,350万人、興行収入308億円 と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。 2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。 2006年公開の『ゲド戦記』は、宮崎が1983年に刊行した「シュナの旅」(徳間書店刊)が原案としてクレジットされており、各所に同書に登場する設定が用いられている。また、鈴木敏夫や宮崎吾朗によれば、イメージボードやアイデアスケッチ等を書いていたようである。なお、「ゲド戦記」原作者のル=グウィンは宮崎が監督を務めることを希望していたが、息子の吾郎が監督となった。 2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。 マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル 仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。 2013年に、自身の漫画作品、『風立ちぬ』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表。 2013年、戦国時代を舞台にした漫画を執筆中であると『月刊モデルグラフィックス』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『アーマーモデリング』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。 三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた。同年11月、第87回アカデミー名誉賞を受賞。日本人としては黒澤明以来2人目の快挙となる。同時受賞となった女優のモーリン・オハラは長年の憧れで、会えたことに感動したという。同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。京都府八幡市の石清水八幡宮の本殿で奉納された。 2015年、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『毛虫のボロ』を制作中であることを明らかにした。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作はスティーブンスティーブンが担当している。 2015年5月8日、在日米軍再編における普天間飛行場の名護市辺野古移転計画に反対する辺野古基金の共同代表に就任した。同年7月13日、日本外国特派員協会の要請に応じて東京都小金井市にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく沖縄県に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて鳩山由紀夫内閣が提案した県外移設の実現を強く求めた。 2016年11月13日午後9時からNHKで放送された特別番組「終わらない人 宮﨑駿」の番組内で、宮崎が「長編企画 覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容はモザイクで隠されていたが、「2019年完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。3か月後の2017年2月24日、鈴木敏夫が「Oscar Week 2017」で、長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった。5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートし、10月28日には早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『君たちはどう生きるか』であると明かされた。 2018年5月15日、4月に死去した高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた。 2023年7月14日、『君たちはどう生きるか』が公開。9月に行われた第48回トロント国際映画祭で日本映画史上初となるオープニング作品となり、観客賞の次点第2位となる。翌年にはゴールデングローブ賞と英国アカデミー賞で日本映画史上初となるアニメ映画賞を連続して受賞し、2024年3月11日に行われた第96回アカデミー賞では自身としては2度目となる長編アニメ映画賞を受賞した。 略歴
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1945年 - 7月12日、宇都宮空襲に遭遇。 1950年 - 杉並区永福町に転居。杉並区立永福小学校、杉並区立大宮中学校、東京都立豊多摩高等学校卒。 1963年 - 学習院大学政経学部卒業。東映動画入社。なお、同年の政経学部卒業生には、麻生太郎(元内閣総理大臣)、高島肇久(JICT会長、元NHK解説委員長)、三枝輝行(阪神百貨店元社長)、有薗憲一(ベスト電器元社長)らがいる。 1964年 - 東映動画労働組合の第2代書記長に就任。なお、初代書記長は大塚康生。 1965年 - 同僚の大田朱美と結婚。 1967年 - 長男(宮崎吾朗・(財)徳間記念アニメーション文化財団理事)誕生。 1970年 - 所沢市に自宅を移す。次男(宮崎敬介・木口木版画家)誕生。 1971年 - 高畑勲、小田部羊一と共にAプロダクション(現・シンエイ動画)に移籍。 1973年 - 高畑勲、小田部羊一と共にズイヨー映像(後に日本アニメーションに改組)に移籍。 1978年 - 『未来少年コナン』で演出家に転向。 1979年 - 東京ムービーの子会社テレコム・アニメーションフィルムに移籍。 1982年 - 1月より『アニメージュ』誌上で『風の谷のナウシカ』連載開始。日米合作劇場アニメーション映画『リトル・ニモ』の準備に携わったが企画への疑問から制作から降り、11月22日、テレコム・アニメーションフィルムを退社。 1984年 - 4月、個人事務所二馬力を設立。 1985年 - スタジオジブリを設立。 1988年 - 第12回山路ふみ子映画賞を受賞。 1990年 - 東京都民文化栄誉章を受章。 1996年 - 淵の森保全連絡協議会を結成し、会長に就任。 1998年 - スタジオジブリを退社し、「豚屋」を設立。第26回アニー賞・生涯功労賞、淀川長治賞を受賞。 1999年 - スタジオジブリに所長として復帰。 2000年 - 第3回司馬遼太郎賞を受賞。 2001年 - 三鷹の森ジブリ美術館を創立し、初代館主に就任。第49回菊池寛賞、第25回山路ふみ子映画賞を受賞。 2002年 - 朝日賞、フランス国家功労勲章、パリ市勲章を受章。『Business Week』誌のStar of Asia・イノベーター部門に選出。 2003年 - 埼玉県民栄誉賞を受賞。『TIME』誌アジア電子版の「アジアの英雄20人」に選出。 2004年 - 12月、パリ造幣局美術館にて、初の個展となる「MIYAZAKI-MOEBIUS」展を開催。 2005年 - 徳間書店より独立した、株式会社スタジオジブリの取締役に就任。第62回ヴェネツィア国際映画祭・栄誉金獅子賞、国際交流基金賞を受賞。『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出。 2006年 - 日本テレビ2階・マイスタ外壁に設置される巨大時計のデザインを手掛ける。『TIME』誌アジア版の「60年間のアジアの英雄」に選出。 2008年 - スタジオジブリ社内保育園『3匹の熊の家』を竣工し、初代園長に就任。東京都小金井市名誉市民に選出。長男に息子が生まれ、初孫を授かる。 2009年 - 第2回バークレー日本賞を受賞。『Fast Company Magazine』の「ビジネスシーンで最もクリエイティブな世界の100人」の31位に選出。 2010年 - 東京都三鷹市の名誉市民に選出。 2012年 - 文化功労者。 2013年 - 9月、長編映画制作から引退すると発表。 2014年 - 第87回アカデミー名誉賞を受賞。 2015年 - 辺野古基金共同代表就任。 2017年 - 2月、長編映画制作に復帰すると発表。 2019年 - 世界幻想文学大賞生涯功労賞を受賞。 2021年 - 2月、新型コロナウイルス禍に対応するため、三鷹の森ジブリ美術館の館主に前館長の中島清文が就任。宮崎は名誉館主となった。 2024年 - 『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出(2005年に続き2度目)。 2024/06/24 16:42更新
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mataha宮﨑 駿
宮崎駿と同じ誕生日1月5日生まれ、同じ東京出身の人
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