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小川正太郎: 周囲の期待に違わず、小川は初戦となる春季リーグ戦、対法政2回戦で延長12回を17奪三振で完封、華々しいデビューを飾ると、そのまま早稲田のシーズン全7勝中の4勝を挙げ、六大学史上初の全勝対決となった早慶戦でも宮武三郎に投げ勝ち、それまで向かうところ敵無しといわれた慶應の連勝を20で止めた。 小川年安: 水原や宮武三郎らとバッテリーを組み、また強打の4番としてスター選手となり慶應義塾大学野球部再度の優勝に貢献。 水原茂: 香川・旧制高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)時代は、先輩・宮武三郎(のちの阪急初代主将)とともに甲子園に出場。 山下好一: 阪急では、同じく慶應義塾で活躍した宮武三郎や、同姓の山下実らと共にチームの主力として活躍。 今西練太郎: 若林忠志、宮武三郎、北井正雄、白木義一郎、大島信雄などが時折サイドスローやアンダースローで投げており、後年では平松政次がシュートのキレを出すためかサイドスローに腕を下げた投げ方もしていたようなので、今西もそのような投げ方をしていた可能性もある。 川村徳久: 他の結成メンバーには、監督の三宅大輔を始め、宮武三郎、山下実、山田勝三郎、島本義文、石田光彦がいる(結成メンバーはこの6人+川村の僅か7名しかいなく、当初阪急軍の職業野球連盟入りが危ぶまれていた)。 織田淳哉: 初登板初勝利を収めると、開幕時点でリーグ戦で勝利した投手がいないほど投手陣の不足していた早大でたちまちエースの座に就き、1年春の投手としては1927年の宮武三郎(慶応義塾大学)以来の5勝を挙げた。 堀定一: 一学年上に、宮武三郎(後に阪急でプレー)。 織田淳哉: 打者としても優れ、投手(登録)としては宮武三郎を抜く通算9本塁打のリーグ記録を樹立。 小山正明: 妻は阪急軍初期の名選手だった宮武三郎の娘。小山が合宿所で猿を飼いたいと思い立ち、週刊誌面にて猿を譲渡してくれる人を募集したところ、宮武家から返事があり、宮武家を訪れたことがきっかけだという(当時、宮武三郎は既に亡くなっており、小山自身も当初は宮武三郎の家とは知らなかったという)。 永井武雄: 東京倶楽部所属時代のチームメイトに横沢三郎や宮武三郎らがいる。 伊藤勝三: 慶應義塾大学では控え捕手に甘んじたが、社会人野球の東京倶楽部では慶大時代のチームメイトである宮武三郎らと共に活躍し、1931年に開催された第5回全日本都市対抗野球大会で優勝した。 銭村健一郎: 1927年には、神宮球場における対慶應戦をはじめ、全国を転戦し、44戦して35勝8敗1引き分けの好成績で帰米するなど、実力は宮武三郎、山下実など日本を代表する強打者を揃えた慶應、松木謙治郎らを擁する明治を上回るレベルであった。 浅野勝三郎: 阪急軍の初の公式戦となる1936年4月29日の対東京セネタース戦(甲子園)で宮武三郎の後を受け2番手投手として登板。 灰山元治: 本科2年から4番中軸を務めたが宮武三郎、水原茂らが抜けた慶應の厳しい時代で優勝は出来ず。 倉本信護: プロ1期生として阪急の設立に参加した西村正夫、宮武三郎、山下実らと主力選手として活躍。 今西錬太郎: 若林忠志、宮武三郎、北井正雄、白木義一郎、大島信雄などが時折サイドスローやアンダースローで投げており、後年では平松政次がシュートのキレを出すためかサイドスローに腕を下げた投げ方もしていたようなので、今西もそのような投げ方をしていた可能性もある。 山下実: 同期入学には宮武三郎がおり、このふたりの傑出した強打者によって慶應は黄金時代を迎えることとなる。 苅田久徳: 卒業後は父親のコネクションで東京中央放送局に就職して加入課に勤務する傍ら、野球はクラブチーム「東京倶楽部」で続け、六大学時代のライバルであった宮武三郎(慶大)とチームメイトになり、主に7番・遊撃手として同年の第7回全日本都市対抗優勝に貢献。 |
宮武三郎
宮武 三郎(みやたけ さぶろう)さんの誕生日は1907年7月23日です。香川出身の野球選手のようです。
詳細情報、参考文献などについてまとめました。卒業、現在、映画に関する情報もありますね。
宮武 三郎(みやたけ さぶろう、1907年7月23日 - 1956年12月11日)は、日本のプロ野球選手。 1936年に結成された阪急軍の初代主将。投打ともに抜群の技量を持つスター選手として学生時代から広く知られており、草創期の日本プロ野球の人気を支えた。 香川県高松市生まれ。 二番丁小学校ではすでに地元では知られた存在だった。香川県少年野球大会に優勝した高松尋常小学校チームに補強されて兵庫県の鳴尾で行われた全国大会に出場しているが、このチームにはのち宮武の後を追って高松商業~慶大に進む水原茂がいた。 香川県立工芸学校(現香川県立高松工芸高等学校)に進み、柔道のほか、撃剣、水泳、陸上競技などで活躍していたが、人材不足に悩んでいた高松商業野球部の監督が宮武の体格と抜群の運動神経に目をつけ、頼み込む形で転校させたという。高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)ではたちまちチームの主軸となり、その活躍ぶりで「四国の麒麟児」と称された。甲子園には、本田竹蔵(のち浪華商業に転校~関大~大阪鉄道管理局)、井川喜代一(のち慶大~東急コーチ)、水原茂(のち慶大~巨人軍)らとともに1925年春夏・1926年春の3度出場。1925年(大正14年)春の甲子園は5番投手兼一塁手として出場し準優勝、同年夏の甲子園では投手兼一塁手で不動の4番打者を務め、19打数7安打、打率.368を記録、全国制覇に大きく貢献した。甲子園での通算成績は、11試合45打数15安打、1二塁打、3三塁打、1本塁打、打率.333。 卒業後、慶應義塾大学に進み、いきなり1927年(昭和2年)の東京六大学野球春季リーグ開幕戦(4月29日、対東京帝大1回戦)で先発デビュー、投げては6安打完封勝利、打っては東武雄から放った神宮球場の柵越え第1号本塁打を含む3安打を記録した。1年生投手の開幕戦勝利は2007年に斎藤佑樹(早大)が記録するまで現れなかった。以後、投打にわたって野球部の主力選手として活躍する。 慶大時代のチームメイトには水原茂、山下実、浜崎真二、加藤喜作、楠見幸信、井川喜代一らがいる。加えて当時は、三原修(早大)、小川正太郎(早大)、伊達正男(早大)、伊丹安広(早大)、若林忠志(法大)苅田久徳(法大)、島秀之助(法大)、田部武雄(明大)、松木謙治郎(明大)、菊谷正一(立大)ら多くのスター選手が活躍しており、東京六大学リーグ戦はたいへんな人気を博していた。 この頃の早稲田大学は、宮武を擁する慶応に全く歯が立たたない状況にあったが、和歌山中学時代にエースとして甲子園で覇者となった名投手小川正太郎が入学すると、小川を切り札として真っ向から慶応に対峙、以後早慶の激闘が全国的に注目を浴びるようになった。特に宮武が小川と優勝を賭けて投げ合った1929年春秋の早慶戦は空前の関心を呼び、これにより野球ファンの熱狂はさらに高まることとなった。「宮武・小川時代」と称されたこの当時の早慶の名勝負の数々は、今なお語り継がれている。なお「早稲田の至宝・小川」に対して宮武は「慶應の超ド級」と言われたが、それは小川の洗練されたスタイルに対して宮武の豪快さが巨大戦艦を思い起こさせたためである。 早稲田の挑戦にもかかわらず宮武は大学時代は4度のリーグ優勝を果たし、東京六大学史上初の10戦全勝優勝も経験した。宮武在籍中の4年間、慶大は3位以下になることはなかった(1928年春の1シーズンのみ、チームの渡米遠征のため欠場)。 投手として通算61試合に登板し38勝6敗、188奪三振(勝率.864は20勝以上の投手で最高。慶大の投手としては現在まで通算最多勝利数である)。 打者としては、通算で72試合に出場、237打数72安打、7本塁打、72打点、打率.304。通算7本塁打は、のち1936年に呉明捷(早大)もマークし、1957年に長嶋茂雄(立大)に破られるまで、東京六大学野球の最多本塁打記録だった。また織田淳哉(早大)に破られるまで、70年近く投手としての本塁打最多記録でもあった。通算打点72も1968年に田淵幸一(法大)に破られるまでのリーグ記録だった。1930年の春季リーグ戦では13試合に出場、35打数14安打、打率.400を記録して首位打者に輝いている。 神宮球場では、前述の第1号スタンドイン本塁打の他、球場史上初の場外本塁打をも記録している。この場外本塁打は、1930年(昭和5年)10月4日の慶法1回戦の初回に若林忠志から放ったもので、場外にあった相撲場(現在の神宮第二球場)まで届いたことから「相撲場ホームラン」の異名がある(その翌1931年に外野スタンドが増築されているため神宮唯一の記録と思われる)。この一打の飛距離は優に150メートルはあったのではないかと伝えられている。また投手として通算3割(通算200打数以上)を記録したのは宮武以外には江川卓(法大)のみである。 このようにエースとしてチームを支える一方、屈指の長距離打者としても名をはせたことから、戦前最高の天才選手と評する人は今なお多い。 慶大卒業後は、パラマウント映画や東京白木屋に籍を置くかたわら1931年にクラブチーム・東京倶楽部に加入し、投打の中軸として都市対抗野球大会で3度の優勝をもたらす(第5回、第7回、第9回)。1931年に大リーグ選抜が来日した際は、投手として、全日本チームのメンバーに選ばれた。 1936年、結成したばかりの阪急軍に入団し、背番号1を着けた。大学卒の月給が60円だった当時、巨人軍に入団した三原修の契約金が2000円だったことで世間は大いに驚いたが、宮武はその倍以上の5000円という破格の額で契約した。宮武に最初に声をかけたのは東京セネタースで、ほぼ入団が決まっていたが、慶大時代に腰本寿監督の下でマネージャーを務めていた村上実が阪急百貨店勤務から阪急初代球団代表に抜擢されたことから阪急側が巻き返し、契約に至ったということである。 阪急の初代主将に任命された宮武は、学生時代と変わらず投手のかたわら強打者として活躍。入団1年目の1936年には打率.355、1937年には本拠地・西宮球場で球場史上初の本塁打を放った。投手としても現役最後の1938年には春秋通算で9勝を挙げている。 戦後は駒沢大学や、専売公社など実業団クラブの監督などを務めた。1956年に狭心症のため49歳で急死。 1965年、生前の功績が認められ、「特別表彰」として野球殿堂入りした。 娘は同じく後に野球殿堂入りした小山正明に嫁いでいる。 詳細情報野球殿堂特別表彰(1965年) 1 (1936年 - 1938年) 参考文献弓館小鰐『スポーツ人国記』 ポプラ書房 1934年 大道文『新プロ野球人国記③』ベースボール・マガジン社 1987年 永井正義『勇者たち』現代企画室 1978年 2024/05/24 09:58更新
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miyatake saburou
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