小川直也の情報(おがわなおや) 柔道、格闘家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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小川 直也さんについて調べます
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小川直也と関係のある人
エメリヤーエンコ=ヒョードル: 準決勝では事前に組み合わせを決めるファン投票が行われ、最高得票を集めた小川直也との一戦が決定した。 小川雄勢: ^ 【柔道】小川直也氏長男の雄勢が100キロ超級で初優勝、もう1つの準決勝で両者反則負け 日刊スポーツ 2022年4月2日 小川雄勢: ^ 小川直也さん長男が初V…高校柔道・男子無差別 読売新聞 2014年3月20日 秀島大介: 1993年には大学の3年先輩である小川直也のいるJRAのサービス推進部保安企画課所属となった。 山田千鶴: 小川直也のスカパーDEハッスル!!(2004年、スカイパーフェクTV!) 佐山聡: 小川直也を指導し、岡田孝(現・三州ツバ吉)からの推薦により村上和成の参戦を認めた。1999年1月4日、伝説となる小川直也対橋本真也のシュートマッチ、いわゆる「1.4事変」の仕掛け人の一人となる。 小川雄勢: ^ 小川直也氏の長男、雄勢が3回戦敗退 柔道 日刊スポーツ 2016年11月13日 天田ヒロミ: 2013年9月28日、愛知県体育館にて開催された GENOME 28 にてプロレスリングルールにて小川直也とシングルマッチにて初対決。 武藤敬司: 以後フェイスペイントもnWoロゴをモチーフにした黒いものが中心となり、正規軍や当時プロ格闘家だった小川直也と激戦を展開した。 川田利明: 2003年5月2日、川田は新日本の東京ドーム大会の裏で行われたZERO-ONEの後楽園大会、メインイベントでもある橋本真也&小川直也組vs武藤&小島組の試合後に乱入し、「お前(橋本)が誰に勝とうが、誰を潰そうが、俺を潰すまでは全日本は潰せないぞ!」とアピールした。 神永昭夫: 神永は明治大学OBであるため、小川直也、吉田秀彦など後輩を可愛がった。 藤原喜明: 2001年、「真撃」のリングで小川直也と対戦。 ザ・グレート・サスケ: 9月にはハッスルとのコラボレーション大会「ケッパレ1」を開催、小川直也とタッグを結成した。 スコット=ホール: ケビン・ナッシュとジ・アウトサイダーズを再結成し、橋本真也&小川直也と対戦した。 小川雄勢: ^ 小川直也氏の長男、雄勢が大将戦制す!修徳が初優勝/柔道 サンケイスポーツ 2014年7月24日 アントニオ猪木: 2007年(平成19年)12月20日、有明コロシアムで行われた小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止を無視して暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。 アントニオ猪木: 2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた。 大谷晋二郎: ハッスル軍に所属し、当初は大谷晋二郎としての参加であったが、キャプテンこと小川直也から「ハッスルあちち」と命名される。 アントニオ猪木: 翌14日の告別式では358人が参列し、出棺の際には田中ケロがコールを行い『炎のファイター』が流れる中、赤い闘魂タオルを首に巻いた坂口征二、藤波辰爾、棚橋弘至、オカダ・カズチカ、中邑真輔、蝶野正洋、武藤敬司、高田延彦、藤田和之、小川直也、船木誠勝、柴田勝頼らが猪木の棺を担いだ。 小川雄勢: ^ 【柔道】小川直也の息子、全日本初出場は父と同じ5位 福田雅一: 2000年4月7日、新日本プロレス東京ドーム大会のメインイベントで行われた橋本真也対小川直也戦で、福田は橋本のセコンドについて試合を見つめたが、橋本の敗戦後は涙を流す福田の姿がテレビに映された。 大和八重子: タケル道(原案協力・監修:小川直也、週刊少年サンデー 2000年39号 - 43号、48号 - 2001年16号) 三四六: 明治大学へ進学し、小川直也や吉田秀彦を輩出した同大学柔道部で鍛錬を重ねるが、19歳の時に二度の膝半月板損傷の故障を発症、それが原因で柔道を断念。 山本宜久: 2001年のリングス退団後に真撃のリングに乱入した際、山本は小川直也をパンチで失神させ「寝言は寝て言え」と挑発したが、両者の対戦は実現しなかった。 アントニオ猪木: 12月28日には、両国国技館にて追悼イベント「INOKI BOM-BA-YE×巌流島 in 両国(猪木祭り)」が開催され、その閉会式で小川直也が継続的にイベントを行うことを宣言、締めの「1、2、3、ダー!!」は藤原喜明が行なった。 古賀稔彦: 決勝で当時最重量(95kg超級)の世界チャンピオンだった小川直也と対戦、足車に仕留められ準優勝となった。 力櫻猛: 2001年4月18日、日本武道館でのZERO-ONE旗揚げ第2戦において、小川のシュートマッチ対策として三沢のパートナーに抜擢され、小川直也&村上和成組に勝利し評価を上げる。 モハメド=ラシュワン: 1989年の世界選手権では準々決勝で小川直也に小外掛で敗れるなどして5位だった。 カイヤ: 当初はジャイアント・シルバとのシングルの予定だったが、シルバの拒否により、小川直也と組んでのタッグ戦となった。 アントニオ猪木: 1998年(平成10年)、沖縄県豊見城村(現・豊見城市)内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。 |
小川直也の情報まとめ
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小川 直也(おがわ なおや)さんの誕生日は1968年3月31日です。東京出身の柔道、格闘家のようです。
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柔道スタイル、戦績などについてまとめました。引退、卒業、現在に関する情報もありますね。小川直也の現在の年齢は56歳のようです。
小川直也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)小川 直也(おがわ なおや、1968年3月31日 - )は、日本の男性柔道家、元総合格闘家、元プロレスラー、体育学者、YouTuber。東京都杉並区出身。血液型はB型。学位は体育学修士(筑波大学大学院・2013年)。 全日本柔道選手権優勝7回(5連覇、2連覇)は山下泰裕に次ぐ歴代2位。実業団柔道ではJRA職員として活躍。長男は柔道家の小川雄勢。 私立八王子高等学校の面接試験の際には、体格のよさを後に恩師となる面接官の小野実に見込まれて、入学したら柔道をやってみないかと問われた際に、本当はラグビーに興味を持っていたが、印象を良くするために柔道をやってみたいと答え、無事合格を果たした。 八王子高校に入学後、柔道部部長である小野と監督である川野昭吾の指導によって力を付け始め、高校3年の時に金鷲旗ではベスト16、インターハイ重量級では優勝した天理高校の中谷弘に敗れて入賞はならなかったが、国体では世田谷学園高校の古賀稔彦とともに活躍して東京都の優勝に貢献した。 後の述懐では、高校3年の金鷲旗で何とか競り勝ってベスト16まで到着した時から、柔道に対する自信が付きはじめ、それまでとは何かが変わったと感じるようになったと回想していた。 因みに高校時代は柔道の2学年先輩の父が元大関・大麒麟の押尾川親方が師匠を務めていた押尾川部屋の後援者であった関係で1回押尾川部屋に見学に行ったことがある。押尾川親方からは口説き文句半分ではあろうが「君なら、いい大関になれる!」と才能を評価された。元貴闘力は「相撲やってたら結構、いいところで一緒にやってたかもしれないし。もしかしたら、若貴のいいライバルになってたかもしれないよね」と角界入りしなかったことを惜しんでいた。 1986年4月には明治大学経営学部経営学科に進学した。柔道部監督の上村春樹と助監督である原吉実(当時の上村は全日本の監督も引き受けていたために忙しく、助監督である原が道場で小川に直接指導することが多かった)の指導の下で力を付けて、11月には全日本学生(無差別)において順調に勝ち上がり、決勝では東海大学の関根英之との1年生対決を判定2-1の微妙な内容ながら制して、山下泰裕以来10年ぶりの1年生チャンピオンに輝いた(後の引退会見の時に、この試合での優勝が一番印象に残っていると述懐した)。 続く全日本新人体重別選手権大会では準決勝で日本大学の金野潤に判定負けして3位に終わった。 12月にはブラジルのサンパウロで開催された世界学生に出場して、初戦で韓国の金建秀に合技で敗れるも、その後の3位決定戦でポーランドのイェルジィ・コラノフスキを出足払で破り3位となった。また、団体戦では優勝を果たした。 1987年1月には正力国際の無差別に出場して、準決勝で当時の外国勢最強の選手と見なされていたソ連のグリゴリー・ベリチェフを払腰で破るものの、決勝では東ドイツのヘンリー・ストールに払腰で技ありを取られて2位に終わった。しかしながら、ベリチェフを豪快な一本で破ったことで、一躍マスコミから斉藤仁、正木嘉美に次ぐ重量級第三の男として注目された。 6月にはこの当時、全日本学生柔道連盟と対立関係にあった全日本大学柔道連盟が主催する全日本大学柔道体重別選手権大会で優勝したが、学生優勝大会ではベスト8で敗れた。 7月には体重別決勝で、新日本製鐵の滝吉直樹を判定で破り初優勝を果たしたことにより、世界選手権の代表候補に選ばれた。 10月の正力杯決勝では、高校の時から苦手にしていた金野を判定 (3-0) ながらも6回目の対戦にして初めて破り優勝を飾った。 11月には西ドイツのエッセンで開催された世界選手権に補欠として出向いたが、当初2階級に出場する予定だった正木が初日の95kg超級初戦でベリチェフに敗れた際に持病の腰痛を悪化させたため無差別には出場できなくなり、代わって小川が出場することになった。2回戦は指導勝ち、3回戦は判定勝ちと予選ラウンドはややもたついたものの、準決勝ではソ連のハビル・ビクタシェフを合技で下すと、決勝ではイギリスのエルビス・ゴードンと対戦して開始すぐに払腰を返されるが場外でポイントにならず、その後小外刈で技ありを取って優勢勝ちして、史上最年少の19歳7か月で世界チャンピオンとなり、一躍1988年ソウルオリンピック95kg超級代表の有力候補となった。 帰国直後に出場した選抜団体では愛知県警の秀川豊に大外返で一本負けを喫するが、チームは3位となった。 12月には史上最年少で世界チャンピオンになったことが評価されて、日本スポーツ賞大賞を受賞した。 1988年4月には推薦で全日本選手権に初出場するが、準々決勝で86kg級の選手である旭化成の大迫明伸に中盤以降何度も崩されたことによって判定で敗れて、斉藤、正木とのオリンピック代表争いから大きく引き離された。 6月には体重別の準決勝で正木を判定で破るも、決勝で斉藤に小内巻込で効果を取られて2位にとどまり、オリンピック代表にはなれなかった。 続く学生優勝大会では3位に終わった。 8月のアジア選手権無差別では準決勝で北朝鮮のファン・ジェキル、決勝でも中国の徐国清を破ってオール一本勝ちで優勝を果たした。 10月の正力杯では決勝で関根から内股で技ありを取り2連覇を達成した。 さらに全日本学生に出場して、決勝では78kg級世界チャンピオンである筑波大学の岡田弘隆がケガで棄権したため、不戦勝で2年ぶり2度目の優勝を果たした。 12月の選抜団体では3位に終わった。 続くグルジアのトビリシで開催された世界学生では、95kg超級に出場してオール一本勝ちで優勝したが、団体戦では2回戦で敗れた。 1989年3月には全日本選手権東京予選で優勝を果たすと、4月の全日本選手権では関根との史上初の大学生同士の決勝対決を横四方固で一本勝ちすることによって制して初優勝を果たした。 6月の学生優勝大会では東海大学に敗れて2位に終わった。 7月の体重別では決勝で関根を支釣込足で破って優勝を果たして、世界選手権では95kg超級と無差別両方の代表となった。 10月にはユーゴスラビアのベオグラードで開催された世界選手権に出場して、95kg超級の決勝ではキューバのフランク・モレノを横四方固、無差別の決勝ではソ連のアカキ・キボルザリゼを上四方固でそれぞれ破り、計8試合をオール一本勝ちして圧倒的な強さで2階級制覇を達成した。 翌年3月には明治大学を卒業した。 1990年4月からはJRAサービス推進部保安企画課所属となった。小川はプロレスラーに転身後、この部署で担当していた業務について事情を明かしており、「競馬はやはりギャンブルですから、熱中するあまり周りのお客様に迷惑をかける方がいるんですよ。その場合は緊急事態として怪我をさせない程度に抑えつけるというか、早い話がJRA直属のガードマンをやっていました」と解説している。 社会人になって初めての大会となる全日本選手権では準決勝で金野を注意で破ると、決勝では71kg級世界チャンピオンである平成の三四郎こと古賀稔彦との夢の対決となったが、序盤から優勢に試合を進めて7分過ぎに足車で一本勝ちして大会2連覇を達成した。大会後のインタビューでは、古賀が決勝まで上がってくることは全く予想していなかったが、JRAの監督である関勝治に小さい相手ともよく練習しておけと言われたことで、大学の3年後輩で古賀と同じくらいの体格である秀島大介とは特によく練習したことで、決勝ではスムーズに勝つことが出来たと述べた 6月には実業団体2部に出場して、JRAの優勝に大きく貢献した。7月には体重別の準決勝で金野に苦戦するが辛くも注意で勝ち上がると、決勝では関根を朽木倒の有効で破って北京アジア大会代表に選ばれた。9月のアジア大会では日本オリンピック委員会から日本選手団全体の主将に選ばれるが、95kg超級の準決勝で北朝鮮のファンに合技で敗れる予想外の結果となった。実に2年3ヶ月ぶりの敗戦であった。3位決定戦ではイランのF・ファラヒを上四方固で破った。11月の嘉納杯95kg超級決勝では金野を判定で破ると、無差別決勝でもフランスのダビド・ドゥイエを小外刈の有効で破り、2階級制覇を達成した。 1991年4月の全日本選手権では決勝で金野を判定で破り3連覇を達成した。5月の体重別は欠場したが世界選手権95kg超級代表に選ばれた。7月にスペインのバルセロナで開催された世界選手権では95kg超級の準決勝でソ連のセルゲイ・コソロトフに崩袈裟固で敗れるも、3位決定戦ではフィンランドのユハ・サロネンに反則勝ちした。当初無差別は関根が出場する予定だったが、選手団長の神永昭夫に無差別にも出場する意思があるのか尋ねられると、「やらせてください」「無差別級で優勝できなければ、ボクは現役を辞めて責任をとります」と固い決意のほどを述べたことによって、全日本監督である上村春樹が小川を無差別にも出場させることを最終的に決定した。その準決勝ではベルギーのハリー・ファンバルネベルトに小外刈を返されて先に技ありを取られるも横四方固で逆転勝ちすると、決勝ではソ連のダヴィド・ハハレイシヴィリを体落で破り、オール一本勝ちで無差別3連覇を果たした。 1992年4月の全日本選手権決勝では後輩である明治大学4年の大漉賢司を横四方固で破り4連覇を達成した。5月の体重別は欠場したが、1992年バルセロナオリンピック代表に選ばれた。7月のバルセロナオリンピックでは準決勝でドゥイエを体落と崩袈裟固の合技で下した。決勝は昨年の世界選手権決戦で破ったソ連崩壊でEUN代表となったハハレイシヴィリとの対戦であったが、開始早々に大腰で技ありを奪われると、1分を過ぎたところで小外掛で再び技ありを奪われて合技で敗退して2位に終わった。大会後のインタビューでは、オリンピックで勝ったら柔道を辞めようと思っていたと述べた。 しかし現実にはオリンピックで敗れたことにより、その責任を感じて現役を退くことも考えたが、恩師である原吉実に説得されて現役を続行することにしたとも語った。11月には嘉納杯無差別に出場して、準決勝でコソロトフを警告で破るも、決勝ではバンバルネベルトから先に小外刈で有効を取るも裏投で技ありを取られて逆転負けを喫して2位に終わった。 1993年4月の全日本選手権決勝では金野から足車で一本勝ちして5連覇を達成した。7月の体重別では決勝で関根を判定で破って優勝して世界選手権代表に選ばれた。10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では無差別に出場したが、準決勝でポーランドのラファウ・クバツキに払釣込足で敗れるも、3位決定戦でハンガリーのチェース・イムレを掬投で破った。なお、今大会で小川が3位に終わったことにより、世界選手権の無差別における日本選手の連勝記録が13連覇で止まることになってしまった。 1994年4月の全日本選手権準決勝では、大学の後輩である新日本製鐵の吉田秀彦と対戦して、前半は優勢に試合を進められるが中盤に支釣込足で大きく崩すも判定となり、1-2の微妙な内容ながら敗れて大会6連覇はならなかった。12月には講道館杯に出場するも、決勝で天理大学の篠原信一に0-3の判定で敗れた。引退後には、自分の指導者人生は小川に始まり小川で終わるとまで述べた原吉実との師弟対談において、この時期の判定に関しては納得いかず、「正直言って、俺に引退されたら困らないのかなあ、それにしては乱暴な扱いだなあと思っていましたよ」と大きな不満を抱いていたことを率直に語っていた。 1995年の2月にはフランス国際に出場するが、準決勝でドゥイエに大内刈で敗れるも、3位決定戦ではアルゼンチンのオルランド・バッチーノを足車で破った。続いてオーストリア国際にも出場するが、準決勝でオーストリアのエリック・クリューゲルに指導を取られて敗れて3位決定戦は棄権した。3月には6年ぶりに全日本選手権の東京予選に出場すると、出場権を確保したベスト8の段階で棄権した。4月の全日本選手権では決勝で篠原を横四方固で破り、2年ぶり6度目の優勝を果たした。5月の体重別準決勝では金野相手にお互いに牽制しあうあまり両者反則負けとなった。6月の実業団体1部決勝での新日本製鐵戦では吉田と対戦するが引き分けとなり、チームも2位に終わった。9月に幕張で開催された世界選手権では、準決勝でドイツのフランク・モラーに一本背負投で有効を取られて敗れるが、3位決定戦ではトルコのセリム・タタログルに足車で一本勝ちした。12月の講道館杯決勝では金野に2-1の微妙な判定ながら勝利した。 1996年2月のフランス国際では準決勝でタタログルに体落で一本勝ちすると、決勝はクバツキの棄権により優勝を果たした。4月の体重別準決勝では篠原を注意で破るが、決勝で警視庁の真喜志慶治に0-3の判定で敗れて2位に終わった。続く全日本選手権では準々決勝で金野に2-1の微妙な内容で判定勝ちすると(ちなみに、当時の全日本監督である山下泰裕はこの試合で主審を務めていたが、金野の方に旗を揚げた)、準決勝では会社の後輩であるJRAの賀持道明を横四方固で破り、決勝では日本道路公団の三谷浩一郎から掬投で一本勝ちして2年連続7度目の優勝を飾るとともに、1996年アトランタオリンピック代表に選ばれた。7月のアトランタオリンピックでは、準々決勝でクバツキから先に体落で有効を取るが終了間際に双手刈で有効を取り返されるものの3-0で判定勝ちするが、準決勝でドゥイエ相手に先に内股で有効を取られるがその後はよく攻めたものの結局ポイントを取り返せず敗れ、3位決定戦ではモラーに払巻込で敗れて5位に終わった。9月には全柔連に国際試合強化選手の辞退届けを提出し、現役を引退した。 1997年2月にはJRAを退職してフリー格闘家への転向を表明した。 現在 現在は、2006年に開設した小川道場にて道場長を務めている。 柔道スタイル柔道の特徴としては、左組み手から相手の奥襟を掴んで頭を下げさせながら、7500ccの肺活量にものを言わせてひたすら前に出て技を繰り出して相手のスタミナを消耗させ3分過ぎに仕留めることが少なくなかったことから、いわゆる「3分間柔道」と呼ばれることもあった。但し、このスタイルには無駄な時間浪費と批判する向きも合った。本人によると、自分の技は一瞬のひらめきで出てくるので得意技は特にないとのことだが、内股、小外刈、小外掛、支釣込足、体落、足車などが試合ではよく使われていた。後期になると掬い投げも多用するようになった。また、支釣込足で相手を崩して抑込技に移行するパターンもよく見られた。支釣込足や膝車では腕挫腕固を併用するパターンもよく見られた。このような関節技を併用した投げは本来ノースコアとなるが小川の場合はスコアが与えられるケースがあった。小川雄勢がこの技を引き継ぎグランドスラム・東京2017男子100kg超級決勝戦で小川直也が見守る中この技を出し技ありのスコアを主審が宣したがビデオ判定でルール通り技あり取り消しでノースコアとなった。寝技は抑込技が中心で、絞め技や関節技はあまり使わなかった。しかしながら大きな大会で抑え込一本確実な状態の横四方固からの腕緘(V1アームロック)、肩袈裟固からの腕挫腕固で勝利している。一方で学生時代に巻込技は使わないように指導されていたこともあって、巨体ながらそれを使うことはほとんどなかった。相手を問わず一本勝ちで勝利することが多かった反面、外国選手との対戦で負けた場合は一本負けが少なくなかったので、受けの点ではやや不安定な面もあった。 戦績無差別以外は全て95kg超級での成績。 1985年 - 国体 少年の部 優勝 1986年 - 全日本学生 優勝 1986年 - 新人体重別 3位 1986年 - 世界学生 無差別 3位、団体戦 優勝 1987年 - 正力国際 無差別 2位 1987年、1989年、1990年、1993年 - 選抜体重別で合計4度の優勝 1987年 - 全日本大学柔道体重別選手権大会 優勝 1987年 - 正力杯 優勝 1987年 - 世界選手権 無差別 優勝 1987年 - 選抜団体 3位 1988年 - 全日本選手権 5位 1988年 - 体重別 2位 1988年 - 学生優勝大会 3位 1988年 - アジア選手権 無差別 優勝 1988年 - 正力杯 優勝 1988年 - 全日本学生 優勝 1988年 - 選抜団体 3位 1988年 - 世界学生 無差別 優勝 1989年から1993年、1995年から1996年 - 全日本選手権で合計7度の優勝 1989年 - 学生優勝大会 2位 1989年 - 世界選手権 95kg超級 優勝、無差別 優勝 1990年 - 実業団体2部 優勝 1990年 - アジア競技大会 3位 1990年 - 嘉納杯 95kg超級 優勝、無差別 優勝 1991年 - 世界選手権 95kg超級 3位、無差別 優勝 1992年 - バルセロナオリンピック 2位 1992年 - 嘉納杯 無差別 2位 1993年 - 世界選手権 無差別 3位 1994年 - 全日本選手権 3位 1994年 - 講道館杯 2位 1995年 - フランス国際 3位 1995年 - オーストリア国際 5位 1995年 - 体重別 3位 1995年 - 実業団体1部 2位 1995年 - 世界選手権 3位 1995年 - 講道館杯 優勝 1996年 - フランス国際 優勝 1996年 - 体重別 2位 1996年 - アトランタオリンピック 5位 2024/07/01 09:37更新
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小川直也と同じ誕生日3月31日生まれ、同じ東京出身の人
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