小玉明利の情報(こだまあきとし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


小玉 明利さんについて調べます
■名前・氏名 |
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ジャック=ブルームフィールド: 1963年には打率.335で2年連続の首位打者・ベストナインに輝くとともに、最高出塁率のタイトルも獲得し、四番打者の小玉明利と共に近鉄ピストル打線の中軸を担った。 ジャック=ブルームフィールド: 初出場:1960年7月3日、対阪急ブレーブス14回戦(阪急西宮球場)、6回裏に小玉明利に代わり三塁手で出場 大倉英貴: 1969年には小玉明利らを抑え、レギュラーの座を獲得する。 根本陸夫: 現役時代に小玉明利が入団テストを受けた際、根本は芥田に「ぜひ採用すべきだ」と進言したが、芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督になったばかりで「高校中退させるには……」と 関根潤三: この結果、小玉明利ら打線の中軸の一角に座ることになった。 山本八郎: 1963年は強肩を活かし中堅手として起用され、ブルーム・小玉明利とクリーンナップを組み、打率.280(11位)、22本塁打を記録。 醍醐猛夫: 第1号を放った時の試合は、1回裏に病気明けの毎日先発・江崎照雄から小玉明利、戸口天従の適時打、大石雅昭の犠飛でいきなり3点を先制され、さらに5回裏と6回裏にも追加点を許し、近鉄の一方的なペースで試合は進み、ようやく8回表に近鉄先発・吹田から醍醐が2ラン本塁打を放ち反撃したが、その裏さらに2点を追加され万事休す。 別当薫: 5月以降はブルームや関根潤三、小玉明利、土井正博など打線の活躍で3位に浮上すると前年優勝の東映とのAクラス争いが終盤まで続いた。 小森光生: 近鉄コーチ時代はキャンプの企画、立案も引き受けるなど小玉明利選手兼任監督を支え、野手に転向した伊勢孝夫に関根潤三・根本陸夫の打撃理論を教え込んだ。 木村貴臣: 1967年は新任の小玉明利選手兼任監督に積極的に起用され、90試合にマスクを被って先輩の吉沢岳男・児玉弘義を押し退けてレギュラー捕手となるが、1968年に監督が三原脩に交代すると、児玉にレギュラーを奪われて出場機会が半減。 芥田武夫: 1953年に小玉明利が入団テストを受けた際、捕手の根本陸夫は芥田に「ぜひ採用すべきだ」と進言したが芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督になったばかりで「高校中退させるには・・・」と躊躇した。 深見安博: 10月9日の近鉄戦第2試合(大阪)南海は筒井敬三の本塁打などで、近鉄は小玉明利の本塁打などで9回を終了し4-4の延長戦に突入。 阿南準郎: 1968年に近鉄バファローズへ移籍し、選手兼任監督を解任され、阪神へ移籍した小玉明利の代わりに三塁手として活躍。 中西太: 「素振りの音が相手ベンチまで聞こえた」という程スイングスピードが速く大きな武器であったのだが、あまりにも速すぎたために体への負担もまた大きく、腱鞘炎を患ったが、現役引退後、実は1959年に小玉明利からスパイクされたことが遠因で利き手の骨が欠けていたことが判明した。 鈴木啓示: 近鉄の生え抜き選手の監督就任は小玉明利以来26年ぶりであった。 島田光二: 小玉明利らと共に近鉄生え抜きの中心選手であり、コーチ兼任となった1967年に現役を引退。 高木喬: 翌1968年、近鉄は三原脩監督就任に伴い、小玉明利監督時代の主力選手を大幅に入れ替えることになり、菊川昭二郎と共に、清俊彦、トニー・ロイとの2対2のトレードで西鉄ライオンズへ移籍。 北川公一: 規定打席には到達しなかったものの主に俊足の2番打者として、安井智規や小玉明利と共にチャンスメーカーとしての役割を担う。 |
小玉明利の情報まとめ

小玉 明利(こだま あきとし)さんの誕生日は1935年6月10日です。兵庫出身の野球選手のようです。

引退、事件に関する情報もありますね。2019年に亡くなられているようです。
小玉明利のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 小玉 明利(こだま あきとし、本名読み:はるとし、1935年6月10日 - 2019年5月19日)は、兵庫県尼崎市出身のプロ野球選手(内野手)・監督。実弟に社会人野球で活躍し、同志社大学監督をつとめた小玉孝がいる。 神崎工業高校2年生時の1953年、近鉄パールスの入団テストを受ける。その際、捕手の根本陸夫に打撃の素質を見出され、根本は芥田武夫監督に「ぜひ小玉を採用すべきだ」と進言した。芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督に就任したばかりで「高校を中退させるには…」と躊躇したが、根本は「3年まで待つと他球団に取られる」として強引に口説いた。小玉は高校中退してプロ入団か、進級して高校生活を続けるか、という選択を迫られ、自ら高校を中退して入団の道を選んだ。 プロ入り2年目の1954年には、開幕直後からレギュラー三塁手に抜擢され、規定打席(20位、打率.264)にも到達。翌1955年には主に五番打者として起用され、打率.290(14位)の好記録を残す。1957年には開幕から四番打者に座り、その後も中心打者として活躍。1958年には打率.301(4位)と初の3割超えを達成した。同年の近鉄は29勝97敗、勝率.238とリーグ最下位に終わり、チーム打率.215と不振に沈んで、規定打席に到達した打者の中で2割を超えている選手が小玉だけという有様だった。1960年には自己最多の20本塁打を放つ。チーム成績が思わしくなく、長打力のある打者が少なかった「ピストル打線」と呼ばれた弱小球団の中で、小玉は1962年から1965年まで4年連続3割を記録するなど長きにわたって巧打者として活躍する。 小玉は、近鉄では数少ない全国区のスター選手だった。1957年から1965年にかけて9年連続でオールスターゲームに選ばれる。特に1962年から1965年は4年連続ファン投票で選出され、1963年と1965年はリーグ最多得票での出場だった。1958年のオールスター第2戦では金田正一から左翼へソロ本塁打を放ち、1963年にも第2戦で金田から左翼へ2ラン本塁打を放った。しかし活躍したときにパ・リーグが敗れることが多かったため、オールスターMVPは1度も獲得できなかった。なお、オールスター戦通算打率は.357(42打数15安打)を記録している。 1965年からは兼任コーチとなり、1966年には三塁手の定位置を新入団のマイク・クレスニックに譲り二塁手に回る。1967年には三塁手に戻り、3年連続最下位に低迷するチーム再建の切り札として31歳にして選手兼任監督となった。開幕投手に鈴木啓示を抜擢した。同年6月14日の阪急戦でダリル・スペンサーにヘルメットを投げて退場処分を受けている。5月14日には14年ぶりに単独首位に立ったが、自らが選手として出場する機会が減ったためか、チームを最下位から脱出させることはできず、近鉄はさらなる切り札として名将三原脩を招聘することとなり、小玉はわずか1年で解任された。結局、小玉が在籍中に近鉄は3位以内に入ることすらできなかった。三原の意向もあってベテランを大量に放出して体質改善を図ることになり、伊藤幸男と同時に1968年に一選手として阪神タイガースへトレードされ移籍する。 阪神でも期待され、同年5月15日には史上初となる「代打先頭打者本塁打」を放った。だが、1年間苦労の多い兼任監督を務めた影響もあり、小玉の選手としての実力は急激に衰えてしまった。1969年、小玉は通算2000安打まであと37本を残したまま34歳で現役を引退した。 小玉は投高打低の時代でプレーしながら打率3割を6回記録し、1963年から1965年まで3年連続で打率リーグ4位に位置するなど打率ベストテン入りを通算9回記録した。近鉄は2004年に球団統合によって消滅したが、小玉が近鉄で記録した1877安打は近鉄在籍選手の最多通算安打記録である。阪神時代の同僚だった村山実とは幼馴染で1968年から2年間同僚だったが、村山は小玉について「もし、彼(小玉)が神崎工高からそのまま阪神入りしていたら、紛れもなく藤村富美男の後継者としてタイガースは変わっていたかも知れんなぁ…」と語っていた。 引退後は野球評論家として活動し、その後大阪市内の印刷会社に勤務した。1999年に行われた大阪近鉄バファローズ創立50周年記念OB戦では久方ぶりに公の場に姿を見せた。 2019年5月19日、腎臓がんのため83歳で死去した。 各年度の太字はリーグ最高 132試合 59勝71敗2分 勝率.454 ベストナイン:5回(三塁手部門:1960年、1962年 - 1965年) 1000試合出場:1961年8月24日 ※史上63人目 オールスターゲーム出場:9回(1957年 - 1965年) 52(1953年 - 1954年) 2(1955年 - 1967年) 3(1968年 - 1969年) ^ “元プロ野球近鉄監督の小玉明利氏死去”. 時事通信 (2019年5月21日). 2019年6月1日閲覧。 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、220ページ ^ 「日本社会人野球協会会報1970」日本社会人野球協会 1971年 ^ ベースボールマガジン、2012年7月号、P66-P67 ^ 『週刊プロ野球データファイル』2012年59号、ベースボール・マガジン社、P34 ^ 日本プロ野球事件史―1934ー2013、ベースボール・マガジン社、2013年、P110 ^ 週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ ^ 週刊文春1979年11月8日号「近鉄30年目の優勝 勝利の美酒を知らずに去った“冬の時代の”選手たちはいま・・」p168-171 ^ 元近鉄兼任監督・小玉明利さん死去 83歳 通算1963安打の巧打の三塁手 - Sponichi Annex 2019年5月21日 兵庫県出身の人物一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 阪神タイガースの選手一覧 個人年度別成績 小玉明利 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 藤田省三 1950 - 1952 芥田武夫 1952 - 1957 加藤久幸 1958 千葉茂 1959 - 1961 別当薫 1962 - 1964 岩本義行 1965 - 1966 小玉明利 1967 三原脩 1968 - 1970 岩本堯 1971 - 1973 西本幸雄 1974 - 1981 関口清治 1982 - 1983 岡本伊三美 1984 - 1987 仰木彬 1988 - 1992 鈴木啓示 1993 - 1995 佐々木恭介 1996 - 1999 梨田昌孝 2000 - 2004 表 話 編 歴 投 小野正一 捕 野村克也 一 榎本喜八 二 仰木彬 三 小玉明利 遊 豊田泰光 外 山内和弘 / 田宮謙次郎 / 張本勲 表 話 編 歴 投 稲尾和久 捕 野村克也 一 榎本喜八 二 J.ブルーム 三 小玉明利 遊 豊田泰光 外 山内一弘 / 張本勲 / 吉田勝豊 表 話 編 歴 投 稲尾和久 捕 野村克也 一 榎本喜八 二 J.ブルーム 三 小玉明利 遊 小池兼司 外 山内一弘 / 張本勲 / 広瀬叔功 表 話 編 歴 投 J.スタンカ 捕 野村克也 一 榎本喜八 二 D.スペンサー 三 小玉明利 遊 小池兼司 外 張本勲 / 広瀬叔功 / 高倉照幸 表 話 編 歴 投 尾崎行雄 捕 野村克也 一 高木喬 二 D.スペンサー 三 小玉明利 遊 小池兼司 外 張本勲 / 広瀬叔功 / 堀込基明 日本の野球選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 選手兼任監督 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の監督 兵庫県出身のスポーツ選手 腎臓癌で亡くなった人物 1935年生 2019年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2025/03/30 11:16更新
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kodama akitoshi
小玉明利と同じ誕生日6月10日生まれ、同じ兵庫出身の人

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