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橋本宇太郎と関係のある人
三好徹: プロ棋士についてのノンフィクション『五人の棋士』や、関西棋院の創設者橋本宇太郎の評伝「反骨の男」(『闘う男たち』所収)などもある。 呉清源: 1946年になって戦後初めての対局として、兄弟子である橋本宇太郎八段との十番碁が行われ、8局目まで6勝2敗で先相先に打込む。 前田陳爾: 1933年の日本囲碁選手権手合では2回戦で橋本宇太郎に敗れる。 梶原武雄: 1941年の第2期本因坊戦の関山利一と橋本宇太郎の挑戦手合で、関山が2局目で病気棄権となった際、当時五段の梶原が師の関山の代理で橋本と対戦するという案が持ち上がったが、実現しなかった。 宮本直毅: 兵庫県出身、橋本宇太郎九段門下、関西棋院所属、九段。 長谷川章: 1949年に第5期本因坊戦の六・七段級予選を勝抜いて挑戦者決定リーグ入りし、4勝2敗で橋本宇太郎に次ぐ2位となる。 菊池康郎: 『圍碁』誌 高段者二子局シリーズ(1952/4-53/2月号) 10-1(○宮下秀洋、○瀬越憲作、○雁金準一、○坂田栄男、○木谷實、○鈴木為次郎、○高川秀格、○橋本宇太郎、○岩本薫、×藤沢朋斎、○藤沢秀行) 岩本薫: 1950年の第5期は橋本宇太郎に敗れる。 藤沢朋斎: 次いで橋本宇太郎との十番碁が行われるが、3局までで中止。1946年に木谷実、岩本薫、橋本宇太郎、藤沢による四強豪戦に出場するが、途中で中止となる。 宮本直毅: 『クイズ!囲碁中盤この一手 (1)-(2)』山海堂 2002年(橋本宇太郎、橋本昌二と共著) 呉清源: これは呉、藤沢朋斎、橋本宇太郎、坂田栄男、木谷実の各九段と高川本因坊の6人によるリーグ戦で、呉としては既に打ち込んだ相手との互先の対局となったが、第1期は8勝2敗の成績で優勝。 島村俊廣: 日本棋院中部会館で行われた「島村俊廣先生追善囲碁の会」には400人のファンが集まり、狂言「碁泥」上演、橋本宇太郎と藤沢秀行の公開早碁などが行われた。 坂田栄男: 橋本宇太郎不参加)に優勝、また中日五番碁(中日新聞社)で木谷実・宮下秀洋・高川格と連破する。 大森南朋: 呉清源〜極みの棋譜〜(2007年) - 橋本宇太郎 役 半田道玄: 第1期十段戦では、1回戦から鯛中新、杉内雅男、木谷實、坂田栄男を破って決勝に進出し、橋本宇太郎との五番勝負では第1局に勝ったものの、その後3連敗で準優勝に終わった。 島村俊廣: NHKラジオで放送開始されたNHK杯争奪囲碁トーナメントの第1回は、本因坊2連覇中の高川格が宮下秀洋、岩本薫を、島村利博が橋本宇太郎、木谷實をそれぞれ破って決勝進出。 橋本昌二: 以後、橋本宇太郎と並んで関西棋院の闘将として、日本棋院への対抗意識をかき立て続けた。橋本宇太郎が「大橋本」と呼ばれたのに対し、「小橋本」と呼ばれた。 藤沢秀行: 1977年 第1期棋聖戦で橋本宇太郎を破り、初代棋聖位を獲得。 呉清源: 瀬越は犬養毅や大倉喜七郎などの助力も受けて正式な招待状を送り、1928年になると準備のために弟子の橋本宇太郎四段を北京に派遣した。 前田陳爾: 1953年の第1期王座戦ではトーナメント決勝まで進み、橋本宇太郎に敗れ準優勝。 呉清源: また1933年には、読売新聞2万号記念事業の一つとして主催された「日本囲碁選手権手合」トーナメントで、決勝で橋本宇太郎に勝って優勝し、10月に本因坊秀哉との記念碁を打つ。 坂田栄男: この前年に橋本宇太郎が本因坊位を持って関西棋院の独立をしていたことから、日本棋院の本因坊奪還の期待を一身に背負っての挑戦手合となるが、3勝1敗後の3連敗で橋本に敗れる。 半田道玄: 1961年の第1期名人戦では、当時の11人の九段の一人として関西棋院から橋本宇太郎、橋本昌二とともにリーグ参加し、7勝5敗で4位の成績を残す。1963年に十段戦で橋本宇太郎に挑戦して3-1で勝利。 藤沢朋斎: この時、関西棋院の橋本宇太郎八段から争碁が申し込まれたが、実現しなかった。またこの時期、呉清源は十番碁で橋本宇太郎、岩本薫を先相先に打ち込み、高段者総当たり十番碁の成績により1950年に九段に推挙され、史上初めて同時に二人の九段が存在することとなった。 山部俊郎: 当時関西棋院が日本棋院から独立しようという動きがくすぶっている時期であり、橋本宇太郎を中心に碁界を活気付かせようという橋本宇太郎の提唱で対抗戦は行われた。 山部俊郎: 1965年本因坊戦リーグでは山部ら4人が4勝2敗(木谷実が病気欠場)でプレーオフとなり、「4人ですることはなんでも山部さんが上手ですよ」という呉清源の予想通り、藤沢秀行、橋本宇太郎を破ってに挑戦者となるが、4連覇中の本因坊栄寿(坂田栄男)に0-4で敗れる。 瀬越憲作: この第2局は五日市町吉見園(現佐伯区吉見園)で行われ、橋本宇太郎(昭宇)本因坊と挑戦者岩本薫七段の対局中、原爆が炸裂、強烈な爆風に見舞われ市内に残っていた広島支部の関係者は全員死亡、自身も被爆し、三男と甥も犠牲となった。 結城聡: 棋聖戦でも挑戦権を獲得し、関西棋院からは1977年第1期棋聖戦の橋本宇太郎以来の七番勝負登場となったが、羽根直樹棋聖に3-4で敗れた。 宮本直毅: 1949年に橋本宇太郎に入門。 藤沢朋斎: 1954年からの橋本宇太郎との十番碁にも敗れる。 |
橋本宇太郎
橋本 宇太郎(はしもと うたろう)さんの誕生日は1907年2月27日です。大阪出身の囲碁棋士のようです。
タイトル歴、著作などについてまとめました。結婚に関する情報もありますね。
橋本宇太郎(はしもと うたろう、1907年〔明治40年〕2月27日 - 1994年〔平成6年〕7月24日)は、昭和の囲碁棋士。第2、5、6期本因坊で本因坊昭宇と号する。大阪府出身、瀬越憲作名誉九段門下。1950年に関西棋院を率いて日本棋院から独立した。才気と闘志溢れる碁風で「天才宇太郎」「火の玉宇太郎」のニックネームを持つ。 1950年7月から1994年7月まで関西棋院総帥、1986年5月から1994年4月まで同棋院理事長。 1945年の第3期本因坊戦での岩本薫七段との挑戦手合において、広島市郊外の佐伯郡五日市町(現:広島市佐伯区)で行われた第2局は原爆下の対局として有名。 2014年7月18日、囲碁殿堂入り(第11回囲碁殿堂表彰)。 大阪市の天満北区北同心町の紙屋に生まれた。碁を始めたのは9歳のときで遊び場の近くにたまたま碁会所があり碁席で熱心にのぞいているとそこの人に勧められ碁の道に入る。久保松勝喜代八段門を経て、1920年に上京して方円社の瀬越憲作に入門し、1922年入段。その後若手棋士の研究会六華会にも参加。 1922年-1923年に本因坊対方円社敗退碁戦(地方新聞連盟)にて7人抜き、青年囲碁争覇戦て5人抜き。1924年に方円社特選敗退碁戦(東京日日新聞)にて8人抜き。『棋道』誌1926年3月号-1927年12月号の高段者対青年勝継戦で12人抜き。1935年に時事碁戦(時事新報)にて13人抜きなどの好成績を収め、「天才宇太郎」と呼ばれる。また呉清源来日にあたっては1928年に北京へ赴き、試験碁の相手を務めた。1925年に四段、1931年には神経衰弱で大手合欠場、1933年五段。1933年の日本選手権手合ではトーナメント決勝まで勝ち進むが、呉清源に敗れ準優勝。1934年結婚。 1943年第2期本因坊戦では、予選トーナメント決勝でかつての師久保松勝喜代に敗れたが、その久保松が急死したために、欠員補充で橋本が4名の最終リーグ入りし、3戦全勝で関山利仙本因坊への挑戦者となった。挑戦手合5番勝負の第1局勝利の後、第2局半ばで関山病気により打ちかけ、棄権となり、本因坊位に就く。この後、挑戦者決定戦2位の木谷實から挑戦が申し込まれたが、条件が合わず実現されなかった(当時の本因坊戦の規定では、挑戦者決定リーグの2位または3位の者が、6か月以内に新本因坊に挑戦できるという項目があった。ただし対局料についての規定がなく、その点で条件が合わず実現しなかったもの)。同年11月に東京を離れて郷里の宝塚に疎開し、対局時ごとに上京するようになる。1945年第3期は岩本薫の挑戦を受け、6番勝負を3勝3敗の後、翌年の再決戦3番勝負で2連敗して敗れる。 1946年、戦後最初の春期大手合で八段昇段。 1949年に、日本棋院の藤沢庫之助が大手合制度での初の九段に昇段。橋本は争碁を申し込んだが、実現しなかった。 1950年2月に、日本棋院と、1948年に法人として独立していた関西棋院の間で東西対抗戦が行われ、橋本は西軍の主将として出場し、東軍の山部俊郎五段に勝つ。この碁では黒番山部が第1着を天元に打ち、白は2手目でその石にケイマにカカるという破格の序盤で話題になった。次いで行われた勝ち抜き戦では最終局に登場し梶原武雄六段に敗れた。 1950年の第5期本因坊戦の挑戦者となり、岩本薫和本因坊に4連勝で勝って本因坊位に返り咲く。しかしこの後、これまで1期2年で行って来た本因坊戦を当の本因坊である橋本の了承もなく1期1年とする改定が行われた。この問題で関西棋院と日本棋院の対立がさらに紛糾し、関西棋院はこれまで事実上日本棋院の下部組織だった実態から、完全に独立した組織となることを宣言した。これにより日本棋院の最高位であった本因坊位が関西棋院に奪われた形となった。本因坊家が本因坊位を日本棋院に託した経緯もあり日本棋院には「本因坊位を剥奪しろ」という強硬な意見もあったが「実力で取り返すべき」という意見が大勢をしめ翌期以降の本因坊戦は、日本棋院と関西棋院の両方の棋士の参加で行われることとなった。 翌年の第6期本因坊戦の挑戦者は日本棋院の坂田栄男七段となり、挑戦手合7番勝負は東西の緊張の中で行われた。橋本は一時は1勝3敗と追い詰められたが、第5局の行われる昇仙峡に向かう途中で身延山に参詣し、対戦場に着くと「首を洗って来ました」と記者にコメントを残し、心機一転その後3連勝して防衛し、本因坊位を関西棋院に保持した。続く第7期は挑戦者の高川格七段に敗れ、本因坊位は日本棋院に奪還されたが、第6期の防衛により「棋戦への本因坊不参加」という切り札を手にした関西棋院は各種棋戦への関西棋院の参加を認めさせ、これにより日本棋院に対抗する勢力としての存続の基盤が固まったとされている。 ただこの結果、関西囲碁界は関西棋院と日本棋院関西総本部とに分裂し、「弱体の関西がさらに弱くなった。分裂は、関西のために大きな損失だった」と橋本は後年回顧している。 呉清源とは1948年と1951年の2度の十番碁を行い、橋本が先相先という結果となった。 1952年、全本因坊全八段戦出場(雁金準一に勝ち、木谷實に負け)。1954年に九段昇段。その後も各棋戦においてトップ棋士としての成績を残し、十段2期、王座3期などのタイトルを獲得。1977年の第1期棋聖戦では69歳で決勝七番勝負に進んだ(藤沢秀行九段に1勝4敗で敗れる)。1973年から7期連続で名人リーグに在籍。72歳での名人リーグ入りは最年長記録。1982年には75歳で本因坊リーグ入り。87歳での死去まで現役棋士として第一線で活躍した。 1955年1月9日、産業経済新聞社主催により「橋本・坂田の電報碁」が開催。橋本は同社大阪本社に、坂田栄男は日本棋院中央会館に陣取り、電話託送電報を用いて東西対抗戦が行われた。朝10時に始まり、夜9時12分に終局し、坂田が勝利した。 詰碁創作の名手として「東の前田、西の橋本」と言われ、1954年から始めた読売新聞(大阪版)の詰碁掲載は約40年間12,600回に及び、生涯で発表した詰碁は1万5千題ほどある。前田陳爾による「詰碁名作ベストテン」(1972年)でも古典に伍して当代の代表として「その七」に置かれている。 門下に、宮本直毅九段、宮本義久九段、東野弘昭九段、本田邦久九段ら。 タイトル歴本因坊 1943、1950、1951年 十段 1962、1971年 王座 1953、1955、1956年 NHK杯争奪戦 1956、1963年 早碁選手権戦 1970年 プロ十傑戦 1970年 関西棋院早碁名人戦 1960年 関西棋院第一位決定戦 1968、1969、1980年 大手合優勝者決戦トーナメント優勝 1936年春・秋、1938年秋 大手合優勝 甲組・第一部 1931年秋、1939年秋、1946年春 院社対抗戦 1926年 2勝1敗
対呉清源十番碁
第2次 1950-51年 呉清源 5-3-2ジゴ 橋本(橋本先相先) 対藤沢庫之助十番碁 1954-55年 橋本 7-3 藤沢(互先、6局目まで5勝1敗で橋本が先相先に打ち込む) 本因坊就位記念対局 1943年 1-1 藤沢庫之助 呉清源対本因坊三番碁
1950年 0-3(互先) 1955年 兵庫県文化賞 1969年 紫綬褒章 1973年 大阪文化賞 1977年 勲三等旭日中綬章 1981年 大倉賞 1983年 神戸市文化賞 2014年 囲碁殿堂表彰 著作『風雪の記録 宇太郎勝負碁二十番』囲碁新潮 1968年 『勝負のこころ』浪速社 1970年 『囲碁専業五十年』至誠堂 1972年 『幻庵因碩(日本囲碁大系11) 』筑摩書房 1975年 『橋本宇太郎全集』(全6巻)筑摩書房 1976年 『橋本宇太郎(上)(下)(現代囲碁大系6,7)』講談社 1980年 『激闘譜第一期棋聖決定七番勝負―藤沢秀行VS橋本宇太郎 』読売新聞社 1979年 『橋本宇太郎 詰碁歳時記』囲碁データハウス 1993年 (ゲームソフト) 『風と刻―橋本宇太郎詰碁名作選』(全三巻)松籟社 1994年 その他、詰碁の解説書等、棋書多数。 2024/05/23 04:27更新
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hashimoto utarou
橋本宇太郎と同じ誕生日2月27日生まれ、同じ大阪出身の人
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