橋本忍の情報(はしもとしのぶ) 脚本家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
橋本 忍さんについて調べます
■名前・氏名 |
橋本忍と関係のある人
新珠三千代: 私は貝になりたい(1959年、東宝、監督:橋本忍) - 清水房江 国弘威雄: その口紅が憎い(1965年、長谷和夫監督、松竹) ※橋本忍との共同脚本 邦枝完二: 『白扇 みだれ黒髪』(1956年、東映京都撮影所) - 河野寿一監督作品、朝日新聞連載の小説を橋本忍が脚色。 神山征二郎: 1975年(昭和50年)には『八甲田山』(製作:橋本プロダクションほか)にチーフ助監督として務め、橋本忍、野村芳太郎、森谷司郎らと知り合った。 岡本愛彦: いろはにほへと(1959年11月20日、脚本:橋本忍) - 第14回芸術祭大賞受賞作品 岡本愛彦: 第27回「首斬り浅右衛門」(1967年10月16日、脚本:橋本忍) 山田典吾: 今井正を監督に迎え、橋本忍に依頼して冤罪審理中の裁判(八海事件)に基づいたフィクション仕立てのシナリオを作成した。 国弘威雄: 暁の挑戦(1971年、舛田利雄監督、松竹)※橋本忍・池田一雄との共同脚本 白仁裕介: 私は貝になりたい(2008年、東宝、監督:福澤克雄、脚本:橋本忍) - B・C級戦犯の元兵士 役 佐伯秀男: 『次郎長三国志 第九部 荒神山』 : 製作本木荘二郎、監督マキノ雅弘、原作村上元三、脚本橋本忍、主演小堀明男、助監督小松幹雄、製作・配給東宝、1954年7月13日公開 - 出演・「都田村の常吉」役、82分の上映用プリントをNFCが所蔵 春日太一: 2024年、『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』で第55回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 国弘威雄: 修了後橋本忍門下となり、1959年に橋本との共作『空港の魔女』(東映・佐伯清監督)でデビュー。 佐伯秀男: 『太平洋の鷲』 : 製作本木荘二郎、監督本多猪四郎、応援監督小田基義、脚本橋本忍、主演大河内伝次郎、製作・配給東宝、1953年10月21日公開 - 出演・「通信参謀」役、119分の上映用プリントをNFCが所蔵 山田火砂子: 今井正を監督に迎え、橋本忍に依頼して冤罪審理中の裁判(八海事件)に基づいたフィクション仕立てのシナリオを作成した。 影丸穣也: 私は貝になりたい(構成・橋本忍・原作・加藤哲太郎) 春日太一: 『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』文藝春秋、2023年11月。 野村芳太郎: 幻の湖(1982年9月11日公開、橋本忍監督、東宝) - 製作 長谷川初範: 1981年、脚本家・橋本忍に抜擢され、橋本プロダクション制作、東宝50周年記念映画『幻の湖』で映画デビュー。 小野寺昭: 1970年には第8回プラハ国際テレビ祭演出賞受賞作品であるNHK『ナタを追え』(橋本忍原作)で中心人物の小西順吉巡査役で出演、1971年には木下惠介ドラマ『冬の雲』の小鄕良助役で、優しくて物静かで誠実な男性を好演、雑誌の『Myojo』や『週刊平凡」でも話題になり、若い女性の間で評判になった。 加藤哲太郎: 原作 物語、構成 橋本忍 題名、遺書 加藤哲太郎 岡本愛彦: 私は貝になりたい(1958年10月31日、脚本:橋本忍) - 第13回芸術祭大賞受賞作品 萩原健一: 俳優としても脚本家・橋本忍の指名を受け松竹映画『八つ墓村』(1977年)や黒澤明の『影武者』(1980年)などに出演。 国弘威雄: 風林火山(1969年、稲垣浩監督、東宝) ※橋本忍との共同脚本 伊丹万作: 万作は、脚本家として弟子を取らなかったが、橋本忍だけには目をかけアドバイスをしており、実質的な弟子であった。 桂千穂: 入選後に経歴と性別の詐称が発覚して騒動となるが、シナリオ作家協会所属の八木保太郎や、八住利雄、橋本忍などのベテランライターが擁護して収束する。 加藤哲太郎: 哲太郎は同ドラマの脚本を執筆した橋本忍に、自分の原作権を認め、今後の再放送や映画化に際しては、光文社刊『あれから七年』を原作としてクレジットに入れるよう要求した。 平田昭彦: 私は貝になりたい(1959年、橋本忍監督) - 参謀 黒澤明: 脚本:小国英雄(12本)、菊島隆三(9本)、橋本忍(8本)、久板栄二郎(4本)、井手雅人(3本) 中村登: いろはにほへと(原作:橋本忍。 国弘威雄: いろはにほへと(1960年、中村登監督、松竹) ※橋本忍との共同脚本 |
橋本忍の情報まとめ
橋本 忍(はしもと しのぶ)さんの誕生日は1918年4月18日です。兵庫出身の脚本家のようです。
人物、その他などについてまとめました。映画、父親、卒業、退社、ドラマ、引退に関する情報もありますね。100歳で亡くなられているようです。
橋本忍のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)橋本 忍(はしもと しのぶ、1918年〈大正7年〉4月18日 - 2018年〈平成30年〉7月19日)は、日本の脚本家、映画監督。兵庫県神崎郡鶴居村(現・神崎郡市川町鶴居)に生まれる。 脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。 家業は小料理屋で、芝居好きの父親から影響を受ける。大鉄教習所卒業後、国鉄に勤務。 1938年に応召、鳥取歩兵四十連隊に入隊(階級は一等兵)するも粟粒性結核に罹り、永久服役免除され療養生活に入る。1939年に岡山県の療養所にて、隣にいた兵士の読んでいた『日本映画』という映画の本を読み、シナリオに興味を持ち、隣の兵士に「日本で一番偉い脚本家は誰か」と訊ねたところ「伊丹万作」と返ってきたため、脚本家を志す。 1942年、療養所を退所して郷里に帰った後に執筆したシナリオ『山の兵隊』を伊丹本人に送ったところ、思いがけず返信があり、以降、姫路市の軍需会社に勤務しながら、伊丹の「唯一の脚本家としての弟子」としてシナリオの指導を受ける。1946年の伊丹死去の、翌年(1947年)の一周忌の折りに、伊丹夫人より佐伯清監督を紹介される。 1949年、サラリーマン生活のかたわら、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書く。社用で上京した際に佐伯に渡していた脚本が、黒澤明の手に渡り映画化を打診される。黒澤から長編化するよう依頼され、芥川の短編小説『羅生門』も加えて加筆。最終的に黒澤が修正して完成させた脚本を基に、翌1950年に黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビューした。同作品はヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。1951年に退社して上京し専業脚本家となる。 以後、黒澤組のシナリオ集団の一人として、小国英雄とともに『生きる』、『七人の侍』などの脚本を共同で執筆する。しかし、黒澤映画への参加は1960年の『悪い奴ほどよく眠る』で終わっており、あとはその10年後に『どですかでん』で1度だけ復帰する。その後、橋本は日本を代表する脚本家の一人として名声を高めることとなる。代表作に挙げられる『真昼の暗黒』、『張込み』、『ゼロの焦点』、『切腹』、『霧の旗』、『白い巨塔』、『上意討ち 拝領妻始末』、『日本のいちばん長い日』、『日本沈没』などの大作の脚本を次々と手がけ、論理的で確固とした構成力が高い評価を得る。 1958年、KRT(現・TBS)の芸術祭参加ドラマ『私は貝になりたい』の脚本を手がける。上官の命令で、米兵捕虜を刺殺しそこなった二等兵が、戦犯として死刑に処せられる悲劇を描いたこのドラマは大好評となり、芸術祭賞を受賞した。翌1959年自身が監督して映画化し、監督デビューも果たす。しかし、作品中に登場する遺書が加藤哲太郎による『狂える戦犯死刑囚』のそれと酷似していたことから、加藤に原案者としてのクレジットを入れるよう要求されるも、橋本は『週刊朝日』からの引用であると主張し拒否、その上「このまゝ沈黙して呉れるなら十万円を出します。それは私のポケットマネーであって原作料ではない」と突き放したとされる。その後も加藤に連絡なく再放送が行われたことから、加藤は刑事告訴状を東京地検に提出したが、起訴はされなかった。 1968年、『太平洋の地獄』執筆のため、米国のロサンゼルスに長期滞在。東京へ帰った4日後にソ連のモスクワで開催された映画同盟とのシンポジウムに参加。 1973年、それまで配給会社主導で行われていた映画制作の新しい可能性に挑戦するため、「橋本プロダクション」を設立、松竹の野村芳太郎、東宝の森谷司郎、TBSの大山勝美などが参加し、映画界に新風を吹き込む。1974年に第1作として山田洋次との共同脚本で『砂の器』を製作、原作者の松本清張に原作を上回る出来と言わしめる傑作で、興行的にも大成功をおさめ、その年の映画賞を総なめにした。 続いて1977年に、森谷司郎監督、高倉健主演で『八甲田山』を発表し、当時の配給記録新記録を打ち立てる大ヒットとなった。わずか3ヵ月後に松竹で公開された『八つ墓村』(脚本担当)もこれに迫る数字をはじき出し、この年の橋本はまさに空前絶後の大ヒットメーカーぶりを示す。 数年前の『日本沈没』をあわせて、日本映画史上高額配収ランキング上位に橋本作品がずらりと並ぶという壮観を呈することになる(ちなみに、その殆どが田中友幸プロデュース作品であった)。『八つ墓村』は、この当時人気だった東宝╱角川春樹事務所の金田一耕助シリーズ(監督:市川崑、主演:石坂浩二)が綿密に構成された「合理的な謎解き」を前面に出していたのに対して、オカルティズム色を強く出した作品となった。 以後、1980年代まで脚本執筆、映画制作と精力的に活動した。 しかし1982年、脚本だけでなく製作、原作、監督もこなした東宝創立50周年記念映画『幻の湖』が、わずか2週間で興行打ち切りという憂き目にあう。その後も2本の脚本を書いたが、体調不良もあり、以後は事実上引退した状態が続いた。しかし体調回復に伴い、2006年に黒澤明との関係を語った著書『複眼の映像 私と黒澤明』を発表した。そして、2008年に中居正広主演でリメイクされることになった劇場版『私は貝になりたい』で、自らの脚本をリライトした。2000年、故郷である兵庫県市川町に「橋本忍記念館」がオープンした。 2018年7月19日9時26分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去。100歳没。 米国の映画芸術科学アカデミーは、2019年開催の第91回アカデミー賞において、逝去した映画人を悼む“In Memoriam”(イン・メモリアム)のコーナーで、橋本を追悼した。 脚本の完成度の高さ、そのスタンスから同業者に最も尊敬されている脚本家の一人であり、その影響は日本にとどまらず、世界中の製作者にも影響を与えている。 人物暗い部屋で長年作業をしていたため、強い光に当たると眩暈がする職業病を持ち、番組出演でも配慮される。「漢字が混ざるとイメージが固定されるので」と、単独執筆の場合、脚本はすべてカナタイプを使用して、片仮名でタイプしていた。このため現場のスタッフは脚本を読むのが大変だったという。 競輪ファンとして有名で、昭和40年代頃から50年代にかけては特別競輪決勝のTV中継にゲストとしてたびたび姿を見せており、寺内大吉と共に『論客』として競輪界への提言や出版物への寄稿なども行っていた。代表作砂の器のクライマックスシーンを「まくり一発」だと、競輪に例えて言及した。逮捕状請求の捜査会議までは殺人犯を追う地味で、淡々とした展開が進むが、親子遍路から映画展開が劇的に変化する。まくり一発とは競輪用語で終盤での猛追で他を追い抜き、ゴールする戦法を指す。 その他黒澤映画に三船敏郎が出演しなくなったことについて、最後となった『赤ひげ』が直接の原因ではなく、そういうことにならないといけない事情が、それ以前から積み重なっていたと思うと語った。具体例として、『蜘蛛巣城』撮影のエピソードをあげている。加えて黒澤映画は撮影期間が長く、その間、別な仕事をすれば数本分のギャラが入るから、黒澤明自身もそのことをよくわかっていたと語った。結果として両者の関係が『赤ひげ』で最後になったことは、二人にとっても不幸であったと語っている。 2024/06/13 23:16更新
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hashimoto shinobu
橋本忍と同じ誕生日4月18日生まれ、同じ兵庫出身の人
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