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橋本龍太郎の情報 (はしもとりゅうたろう)
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橋本 龍太郎さんについて調べます

■名前・氏名
橋本 龍太郎
(はしもと りゅうたろう)
■職業
政治家
■橋本龍太郎の誕生日・生年月日
1937年7月29日 (年齢68歳没)
丑年(うし年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
東京出身

橋本龍太郎と同じ1937年生まれの有名人・芸能人

橋本龍太郎と同じ7月29日生まれの有名人・芸能人

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橋本龍太郎と関係のある人

司葉子: 橋本龍太郎が総理大臣だった1997年の暮れに、三船敏郎が亡くなったので国民栄誉賞を没後授与するように直訴している。


金丸信: 金丸は竹下派七奉行の中でも特に小沢に目をかけ、1989年8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は橋本龍太郎や梶山静六ら竹下に近い議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。


山本幸雄: 以後自由民主党公認で通算当選7回(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・田中六助・伊東正義・渡辺美智雄・藤尾正行・中川一郎・鯨岡兵輔・西岡武夫・三原朝雄・奥野誠亮など)。


小宮山重四郎: 1960年の第29回衆議院議員総選挙に自民党公認で埼玉2区(当時)から立候補し次点で落選するも、1963年の第30回衆議院議員総選挙に再び立候補しトップで初当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・奥野誠亮など)。


佐藤孝行: 就任記者会見では、「過ぎたるは及ばざるがごとし」と過去の罪状への質問をかわしたが、橋本龍太郎首相は「批判は承知で、考えに考え抜いた上でこの道を選んだ」。


加藤紀文: 1995年8月、村山改造内閣で同じ岡山県選出である橋本龍太郎通産相の下で通産政務次官、1997年9月からは谷垣禎一科学技術庁長官の下で科学技術政務次官を務めた。


伊東正義: 当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮などがいる。


米沢隆: しかし、総選挙に宮崎1区から新進党公認で立候補するも自民党の中山成彬に約3,000票差で敗れ、落選した(新進党は加藤六月(当時の橋本龍太郎首相の対立候補)ら一部の例外を除き重複立候補を認めていなかった)。


橋本大二郎: 兄は第82代・第83代内閣総理大臣の橋本龍太郎


安部譲二: 私立麻布中学校時代の同級生には元総理大臣の橋本龍太郎がいる。


新藤義孝: 当選後は当時の橋本龍太郎首相の出身派閥である平成研究会に入会。


渡辺嘉蔵: 平成8年 第1次橋本龍太郎内閣にて内閣官房副長官に就任。


土井隆雄: 1998年1月21日 内閣総理大臣顕彰受賞 (授与内閣 : 橋本龍太郎内閣)。


有馬朗人: 当時の総理だった橋本龍太郎に請われて第18回参議院選挙に自民党から出馬。


佐藤栄作: また橋本龍太郎の別荘とは隣同士。


橋本岳: 後に内閣総理大臣となる橋本龍太郎の次男として出生。


甘利明: 在任期間は35日間(10月1日〜11月4日)で、宇野宗佑総裁時代の橋本龍太郎、河野洋平総裁時代の三塚博を下回り、第1次安倍改造内閣総辞職に伴う約1か月の麻生太郎に次ぐ、歴代自民党幹事長で2番目に短い在任期間となった。


ロバート=ルービン: 一方で当時の橋本龍太郎首相がルービンについてクリントン大統領に直接苦言を呈するほど日本に対しては貿易面で高圧的であり、日本より中国を重視する親中派でもあった。


小里貞利: 1997年(平成9年)9月に、ロッキード事件で有罪判決が確定していた佐藤孝行が第2次橋本改造内閣発足後間もなく総務庁長官を辞任した際、内閣総理大臣の橋本龍太郎から後任に指名されたが、その時、当の小里は熊本県下をバイクでツーリング中だったという。


久間章生: 橋本龍太郎首相は米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の移設問題や日米防衛協力のための指針見直しを控え、自らの意向を反映するには欠かせないと考え、1997年9月11日発足の第2次橋本改造内閣でも留任し、久間は国防族幹部の地位を確立した。


佐藤孝行: 橋本龍太郎首相は「佐藤を閣僚にしてほしい」と元首相の中曽根康弘から迫られるたびに「申し訳ありませんが……」と断ってきたが、中曽根は簡単に引き下がらなかった上に、佐藤が所属していた旧渡辺派のベテラン議員や中曽根が交代を強く求めていた党政調会長の山崎拓を橋本の願い通り留任させる代わりに、佐藤入閣を認めるというバーターで入閣が決まった。


麻生太郎: 首相経験者の入閣は第2次森改造内閣(中央省庁再編後)に宮澤喜一が財務大臣、橋本龍太郎が沖縄及び北方対策担当大臣兼行政改革担当大臣として入閣した時以来となる。


糸山英太郎: 宇野の発言は酔った上での愚痴めいたもので、何の政治的配慮もなしに首相の発言を公表したことは、橋本龍太郎(当時幹事長)や中曽根康弘、竹下登ら実力者が、宇野翻意に動いている最中だったこと等を理由に、党内から批判を受けた。


渡辺栄一: 市長在任中の1963年(昭和38年)第30回衆議院議員総選挙に旧岐阜2区から自民党公認で出馬し初当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。


橋本岳: 実業家の渋沢栄一の来孫、大日本麦酒(現・サッポロビール)の常務を務めた橋本卯太郎の曾孫、厚生大臣、文部大臣などを歴任した橋本龍伍の孫、第82・83代内閣総理大臣橋本龍太郎の次男。


柚木道義: 2003年の第43回衆議院議員総選挙に岡山4区から民主党公認で立候補したが、自由民主党の橋本龍太郎元内閣総理大臣に敗れ、落選した。


斎藤十朗: ^ 61人が書き残す 政治家 橋本龍太郎、2012年、34頁、大きな存在感のある政治家だった、斎藤十朗(元参議院議長)、文藝春秋企画出版部


小泉純一郎: 河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立した。


米原万里: 佐藤は『文藝春秋』2008年9月特別号において、米原に橋本龍太郎から関係を迫られたと聞いたとする記事を掲載した。


梶山静六: 当選同期の奥田敬和、小沢、羽田孜、渡部恒三、2期上の小渕恵三、橋本龍太郎らとともに「竹下派七奉行」と呼ばれ、竹下内閣誕生に大きく貢献した。


橋本龍太郎

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橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう)さんの誕生日は1937年7月29日です。東京出身の政治家のようです。

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生涯、政策などについてまとめました。引退、趣味、卒業、結婚、事故、事件、テレビ、解散、家族、現在に関する情報もありますね。68歳で亡くなられているようです。

橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年〈昭和12年〉7月29日 - 2006年〈平成18年〉7月1日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位菊花大綬章。学位は法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民。剣道錬士六段。

衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第57代)、副総理(村山改造内閣)、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、行政改革担当大臣(初代)、沖縄及び北方対策担当大臣(初代)、規制改革担当大臣(初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長、自由民主党総裁(第17代)を歴任した。

初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。また第1次大平内閣で厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣・大蔵大臣などを歴任し、いわゆるニューリーダーの後を担う総裁候補と目されるようになった。

竹下派七奉行の一人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。ポマード頭と呼ばれた独特の髪型がトレードマーク。剣道教士六段の称号・段位を持つ。

1994年に発足した「自社さ連立政権」の村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務し、1996年の村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。

在任中は住宅金融専門会社問題(住専問題、第136回国会)や行財政改革に取り組み、外交面ではアメリカのクリントン大統領・ロシアのエリツィン大統領と親交を深める。第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も第2次森改造内閣で行政改革担当大臣や沖縄開発庁長官を、また中央省庁再編後には規制改革担当大臣や沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。

2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。2005年に政界を引退し、地盤を次男の橋本岳に譲る。翌2006年に死去。68歳没。

生涯

東京府東京市渋谷区(現:東京都渋谷区)に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は警視総監・朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女であったが、中耳炎をこじらせて龍太郎を出産した5か月後に急死した。官僚である父・龍伍には転勤がつきものだったため、武家(旧:熊本藩士)の出である祖母の真都に育てられた。なお、龍伍は戦後政界に進出し、吉田茂の側近となる。

田園調布小学校に入る前の7歳の時に、継母・正を迎えた。

麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになり、2人は中学3年間を通じて同じクラスだった。

麻布中学入学時から橋本は学校の勉強に全くついていけず、成績は常に圧倒的最下位だった。このことについて周囲は、政治家の息子なので橋本は裏口入学だ、と暗黙の了解事項として理解していた。

麻布中学時代の橋本龍太郎のニックネームは「サル」。

麻布中学時代、橋本龍太郎の試験の点数は殆ど0点ばかりだったにも関わらず麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山に明け暮れてそれほど勉強をしなかったため、橋本の成績は中位くらいだったという記述もある。また、大学入学後にはもう一つの趣味であった剣道にも力を入れた。

1956年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。橋本には、腰椎カリエスによって足に障害を負っていた父・龍伍に門戸を開いてくれた唯一の高等学校であった、慶應に対する一入の思い入れがあり、以後並々ならぬ愛校心を抱き続けた。父にとっても橋本の慶應義塾大学の合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という。大学時代の思い出となった講義では中村菊男の明治・大正の政治家の逸話を挙げている。

橋本龍太郎は大学でも剣道に力を入れた。とにかく前に出て攻めていたので“突貫剣士”というニックネームをつけられていた。なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという。

大学卒業後、呉羽紡績株式会社(のち東洋紡に吸収合併。クレハは分社した化学部門)に入社した。

社会人3年目の1962年、父・龍伍が急死した。橋本龍太郎は会社に出勤してから2時間後に父の訃報を聞いたという。

父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかった。後に橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている。

しかし、当時未成年であった橋本大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の継母・正に出馬を求める声も上がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、橋本龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった。立候補が決まった橋本龍太郎は、当時の西村英一厚生大臣にお願いして、父が大臣を務めた厚生省の会議をまんべんなく見学、実務を熟知しているノンキャリアの課長補佐に貼り付くように質問をしながらノートを取り続けて猛勉強しており、その姿は政治記者だけでなく厚生省を取材していた社会部記者も感心していたという。

1963年の総選挙で橋本龍太郎は衆議院議員選挙で初当選する。開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。この選挙で小渕恵三(のち首相)も初当選を飾った。

初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され、「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった。橋本龍太郎本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対する労いの気持ちから出た行動であると説明している。

議員当選後に遠縁に当たる久美子と結婚。久美子はカトリックだったため、六本木のチャペルセンターで結婚式を挙げた。媒酌人は佐藤栄作。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲であり、父が亡くなった時、佐藤栄作が葬儀委員長を務めた。そういった関係でもあり、橋本は自民党内の派閥では、佐藤派に所属した。

1969年の第32回衆議院議員総選挙では選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長の田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で橋本龍太郎は田中、竹下に傾倒するようになった。佐藤栄作引退を受けての自民党の総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤栄作が福田赳夫を支持するように示唆したが、橋本はこれを固辞し、田中派に参加した。

1978年12月7日、橋本龍太郎は第1次大平内閣で厚生大臣に任命された。当選5回にしての初入閣であり、「親子二代の厚相」としてマスコミにも取り上げられた。昭和2ケタ生まれの閣僚は、橋本が初めてであった。厚相在任中はスモン訴訟の和解に尽力した。ちなみに、次男の橋本岳は厚生労働副大臣を務めている。

水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、死亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて抗議したことがあった。しかし、応対した橋本龍太郎は、患者らの「人命軽視だ」という批判に対して、「政府が人命を大事にしなかったことがあるか!取り消せ!」と激怒し、とりなした厚生省幹部を「黙ってろ!」と怒鳴りつけた。

その後、橋本龍太郎は竹下登を中心とする創政会の結成に参画し、その後の経世会においても中心人物の一人となり竹下派七奉行の一角を占めた。

1986年7月22日、第3次中曽根内閣では運輸大臣に就任し、政権の主要政策である国鉄分割民営化で辣腕を振るった。大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布した。イラン・イラク戦争の際、海上保安庁の巡視船を派遣する案が事務レベルで調整された際には「一番船には僕が乗っていく」との決意とともに承諾したが、結局後藤田正晴内閣官房長官の反対により実現しなかった。

1987年には竹下内閣で自民党の幹事長代理に就任し、病気療養中であった幹事長の安倍晋太郎に変わって調整役を担い、消費税導入や昭和天皇の大喪の礼に対して党側の実務を担当した。

1989年、宇野内閣成立時には橋本龍太郎は幹事長代理としての実績・手腕が評価され、自民党の幹事長に昇格した。宇野政権においては、リクルート事件や消費税の影響に加えて、宇野宗佑本人の女性スキャンダルが噴出した。一方で、不人気の宇野首相に代わって自民党幹事長の橋本龍太郎は自民党の先頭に立って日本各地を積極的に遊説し、橋本は全国的に国民的知名度を得るに至った。政権与党である自民党がかつてないほどの厳しい逆風にさらされた1989年7月の参院選では、自民党は議席を大幅に減らし大惨敗した。その際に、橋本の「ちくしょう!やっぱりこれだけ(差が)開いたか」とチェリーを喫煙しながら悔しがるシーンがテレビで放映され、その眉目秀麗ぶりと併せて話題となった。

宇野宗佑が総理を辞任すると、橋本龍太郎は次の後継候補に浮上し、本命視された。しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野宗佑の後継には海部俊樹が就任した。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本龍太郎と小沢一郎は、このころからたびたび対立を繰り返して、「一龍戦争」と呼ばれた。

1989年8月、第1次海部内閣では、橋本龍太郎は大蔵大臣に就任し、第2次海部内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで大蔵大臣の職を引責辞任した。

1992年10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、竹下派の後継会長の座を巡って小沢派と反小沢派が対立する。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕恵三が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。橋本は小渕と協力し、小沢・羽田派は経世会を離脱して「改革フォーラム21」(羽田派)を立ち上げた。経世会の副会長に就任していた橋本龍太郎は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動を共にした。

この間の1991年12月に弟の橋本大二郎が高知県知事選挙に立候補し、当選した。この時の知事選挙では、橋本龍太郎は自民党推薦の候補と対決し、高知県の街頭演説では、弟の大二郎の横に立って「自慢の弟です!」と弟への支持を聴衆、有権者に呼び掛けた。

1993年の総選挙の時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本龍太郎、河野洋平、石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ、全国遊説で奮闘した。しかし、総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は野党に転落した。宮澤喜一首相の後継総裁に後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁の下で政務調査会長に就任した。この野党時代に、小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて、橋本は「政権奪還論」を著している。

自民党が与党に復帰した際、自社さ連立政権の村山内閣では、橋本龍太郎は通商産業大臣に就任した。大臣在任中、橋本は日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも「タフ・ネゴシエイター」として高く評価されている。

1995年9月、橋本龍太郎は圧倒的な国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。

当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶応大学出身の橋本の「早慶戦」、共に昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野洋平は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退する。そして、河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK(慶慶)決戦」と評される総裁選が展開された。

自民党総裁選の結果は、数々の役職を無難にこなし竹下派の支持を取り付けた橋本龍太郎は304票を獲得し、87票を獲得した小泉純一郎に圧勝した。こうして、橋本龍太郎は、第17代自由民主党総裁に就任し、自民党幹事長には宮澤派の加藤紘一、総務会長には三塚派の塩川正十郎、政調会長には旧渡辺派の山崎拓を選任した。また、橋本龍太郎は総裁就任に伴って、村山改造内閣では副総理を兼務し引き続き通産相を務めた。

1996年1月11日に村山富市首相の辞任に伴い、橋本龍太郎は第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による「第1次橋本内閣」が発足した。内閣官房長官には、橋本らと共に竹下派七奉行と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。その後の施政方針演説では、橋本は改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。

橋本の就任当初は村山政権下で決定された住宅金融専門会社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題について、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開して激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開した。橋本政権は序盤から大きな批判、逆風にさらされた。ただし、海外市場では好感する動きが見られた。

1996年2月23日にアメリカのクリントン大統領との首脳会談で橋本は普天間飛行場の返還を要求し、4月12日に日米両政府が全面返還に合意した。普天間の代替基地についても安全保障政策・環境政策が絡む中でアメリカや沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、翌1997年12月24日には比嘉鉄也名護市長によるヘリポート受け入れ(辺野古移設)表明を取り付け、普天間基地返還に本格的道筋を付けた。この結果、住専問題で逓減していた支持率は60パーセントに上昇した。

自身の59歳の誕生日である1996年7月29日に、橋本龍太郎は靖国神社を参拝した。この現職の内閣総理大臣の参拝は、中曽根康弘が1985年の終戦記念日に初の公式参拝をして以来であった。

同年の臨時国会冒頭の9月27日、橋本龍太郎は衆議院を解散する。そして、小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙期間中は日本各地から橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われるほど国民的人気を見せ付けて自民党は大勝利した。

1996年11月7日、社民党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独内閣「第2次橋本内閣」が発足した。この時、自民党単独内閣になったと言われたが、実際は社民党・新党さきがけが閣外から橋本内閣に協力していたので、3党の連立の枠組みはまだあった。この第2次橋本内閣では、橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。

特に行政改革にかける橋本の意気込みは、「火だるまになっても(行革を)やり切る」と述べるほどであり、『火だるま行革』とマスメディアに報道された。

橋本龍太郎は首相直属の「行政改革会議」を設置し、自らその議長となった。メンバーには武藤嘉文総務庁長官・中央省庁改革等担当大臣、水野清総理補佐官(行政改革担当)のほか、経団連会長の豊田章一郎、連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。

第二次橋本内閣は閣僚に「行革を実行できる人材」を当てるとし、行革内閣として船出しており、中でも、薬害エイズ事件による信用失墜で「最も難しい人事」とされた厚相に先の総裁選で争った小泉純一郎が起用されたのも、その行革姿勢の一つの現れであった。内閣官房副長官に与謝野馨を起用した。小渕恵三は一時衆議院議長就任に意欲を見せていたが、橋本が「恵ちゃん、ぼくに何かあったときにどうするんだい」と待ったの言葉をかけ、議長は伊藤宗一郎が就任した。

1996年12月17日、ペルーのリマにある日本大使公邸を、トゥパク・アマル革命運動が占拠し、多数が人質となる「在ペルー日本大使公邸占拠事件」が発生した。橋本は直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリが武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリに親書を送って平和解決を要請。さらに1997年1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリと会談し、平和解決に努力することで一致した。同年4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。橋本は後に、人質事件で死亡したペルー人犠牲者の家族を日本に招待した。事件の際、外務省の対策本部に木村屋總本店のあんパンを大量に差し入れ、「アンパン総理」といった声も聞かれた。

1997年の通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ駐留軍用地特措法問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させることで合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された。橋本は自社さ派と評されるようになる。

1997年6月23日にコロンビア大学での講演において聴衆から「日本がアメリカ国債を蓄積し続けることが長期的な利益」に関して質問が出た際、橋本は「大量のアメリカ国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります。」と返した。そしてアメリカ経済が与える世界経済への影響などを理由に挙げた上で「アメリカ国債を売却し、外貨準備を金に替えようとしたい誘惑に屈服することは無い」と続けた。しかし、大量のアメリカ国債を保有する日本の首相が「アメリカ国債を売却」への言及をしたことが大きく注目され、ニューヨーク証券取引所の株価が一時下落した。

1997年9月、橋本龍太郎は自民党総裁に再選され、内閣改造を行い「第2次橋本改造内閣」が発足した。橋本は梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を中央省庁改革などの担当である総務庁長官に起用した。これには、世間から多くの非難が集中し、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったという。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった。

1997年11月のロシアのエリツィン大統領との首脳会談では、2000年までに平和条約を締結することや両国の経済協力を促進する事で合意した。

1997年11月、橋本内閣は「財政構造改革法」を成立させて、2003年までの赤字国債発行を毎年度削減するなどの財政再建路線をとり、緊縮型の予算を組んだ。しかし、その後、日本経済の景気減速が顕著となり、北海道拓殖銀行や山一證券などの経営破綻が起こると、自民党内やアメリカ政府から、さらに景気対策を求める声が増えていった。また、山一證券の破綻で、橋本内閣の掲げる6大改革の一つ「金融システム改革」および、それにに伴う「金融ビッグバン」への批判も相次いだ。これを受け1997年12月、橋本内閣は2兆円の特別減税を表明した。

1997年12月24日から「龍ちゃんプリクラ」こと橋本首相といっしょに写真が取れるプリントクラブが、党本部1階ロビーに設置された。

1998年(平成10年)4月、橋本は4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した。また同年、金融監督庁を新たに設置し、大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。1998年5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消した。

1998年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本龍太郎や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席にとどまり、選挙で惨敗した。この時、橋本龍太郎は「すべてひっくるめて私の責任だ。力不足。それ以上いうことはない」と敗戦の弁を述べた後、橋本内閣は総辞職した。

1997年には日本の総理大臣として初めて北朝鮮の拉致事件について国会答弁で触れている。

1997年(平成9年)4月1日に村山内閣で内定していた消費税などの税率引き上げと地方消費税の導入(4パーセント→地方消費税1パーセントを合わせて5パーセント)を第2次橋本内閣が実施。

産経新聞の田村秀男編集委員は、記事「カンノミクスの勘違い」の中で橋本が消費増税を実行したせいで、増税実施の翌年から、日本は長期デフレーション(平成不況・失われた20年)に突入したと評している。田村編集委員は、消費増税を実施した1997年度(平成9年度)においては、消費税収が約4兆円増えたが、2年後の1999年(平成11年)度には、1997年度比で、所得税収と法人税収の合計額が6兆5千億もの税収減にとなったと指摘し、消費増税の効果が「たちまち吹っ飛んで現在に至る」と評している。さらに、「橋本元首相は財務省官僚の言いなりになった事を、亡くなる間際まで悔いていたと聞く。」と述べている。

2001年自由民主党総裁選挙に出馬した際も、橋本龍太郎が自身の公式ホームページにて、財政再建を急ぐあまり経済の実態を十分に把握しないまま消費税増税に踏み切り、結果として日本を不況に陥らせたことを謝罪している。

橋本は生前「私は平成9年から10年にかけて緊縮財政をやり、国民に迷惑をかけた。私の友人も自殺した。本当に国民に申し訳なかった。これを深くお詫びしたい」「財政再建のタイミングを早まって経済低迷をもたらした」との自責の念も示している。

日本の所得税収、法人税収はそれぞれ1998年度、1999年度と減少し続けているが、法人税は両年にわたって、所得税は1999年度に減税が実行されている。他の先進国の基準に合わせる方向で、所得税は高所得者の負担が軽減、法人税は税率が引き下げられているため、減税による税収減も含まれている。

その額は、所得税・住民税の定率減税(3兆5000億円)と最高税率の引下げ(5000億円)、法人税・法人事業税の税率引下げ(2兆5000億円)などである。この三つの合計は6兆5000億円となり、上の指摘の額と同じになる。つまり、税収の減収額は、減税の額と同じになり、消費税導入の効果は中立的であったことになる。

1997年の消費税増税、健康保険の自己負担率引き上げ、特別減税廃止など、総額約10兆円の緊縮財政の影響や金融不況の影響もあり、1998年度の日本の名目GDPは、前年度比マイナス2%の523兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込んで、深刻な就職氷河期、デフレーション経済が蔓延する結果になった。

首相退任後の1998年8月、橋本龍太郎は小渕恵三首相から、「首相外交最高顧問」を任じられ受けている。この首相外交最高顧問は、内閣官房長官が「任務を解く」と談話を出すまで続けられることとなっており、議員引退後もこの肩書は残っていた。小渕、森、小泉と三代にわたって務め上げた。

同年12月、育ての母である正が死去。葬儀では喪主を務める。

1999年9月、橋本は小渕首相から厚生大臣への就任を打診された。2000年4月に介護保険制度導入を控えており、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕は、厚生族の橋本に白羽の矢を立てたものだが、橋本は「(前年の)参院選惨敗の責任は私にあるから入閣は無理」として固辞する。自分に代わって、同じく厚生族の丹羽雄哉を推薦し、丹羽が厚生大臣に就任する。

2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔が衆議院議長に就任したことに伴って、橋本龍太郎は旧小渕派の会長に就任したが、これは周囲が橋本を積極的に推したわけではなく、他に適格な人材がいなかったためである。実権は野中広務や青木幹雄が握っており、橋本は会長とは名前ばかりの「雇われマダム」と揶揄するマスコミもあった。橋本自身、会長職を望んでいたわけではなかったが、放っておくこともできず、仕方なく引き受けたという。

2000年11月、「加藤の乱」の際に、かつてヨーロッパで行われた儀式を引き合いに出し「猫を鉄板の上で躍らせるようにして甚振れ」と発言し、物議を醸す。

2000年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、橋本は第2次森改造内閣で沖縄開発庁長官に就任し、また、新設された行政改革担当大臣も兼務した。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、再編後の内閣では省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。橋本龍太郎のその仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。

2001年4月の総裁選では、同派幹部の高鳥修や村岡兼造らのすすめもあり派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬。橋本擁立に当たっては派内若手から異論も出たが、当初は橋本の勝利が予想された。しかし、実際に対決してみると、「小泉旋風」と呼ばれる絶大な人気のある小泉純一郎が大勝利し、橋本は敗北してしまった。総裁選の結果は、小泉が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で次点に終わった。なお小泉からも入閣を要請されたが、橋本は固辞している。

2003年9月の総裁選では橋本派から熊代昭彦、笹川堯、藤井孝男の3人が総裁選出馬を表明する。橋本は3人と面談し藤井の擁立を決定するが、藤井は小泉純一郎・亀井静香の後塵を拝して落選した。この総裁選の過程で村岡兼造や久間章生らベテラン議員、さらに青木幹雄・片山虎之助らの参議院側、自身が自民党総裁・内閣総理大臣として陣頭指揮を執った1996年衆院選当選組の桜田義孝、下地幹郎、新藤義孝、大村秀章などの橋本派若手議員が小泉支持に回るなど派内の分裂が決定的となり、橋本派は弱体化した。

2004年7月、日歯連闇献金事件が発覚した。内容としては、橋本龍太郎と青木幹雄と野中広務が日本歯科医師連盟会長、理事(当時)と料亭で会食し、その際に1億円の小切手を受け取り、旧橋本派の公認会計士が換金を行って旧橋本派の派閥金庫にしまわれ、この献金について旧橋本派や平成研究会が収支報告書に記載しなかったというものであった。

東京地検が政治資金規正法違反で旧橋本派の公認会計士、日歯連会長と理事を逮捕した。この事件により平成研究会の会長を辞任し、同派から離脱。次期総選挙での小選挙区岡山4区からの出馬を辞退する意向を示した。橋本と同席していた青木・野中も東京地検が捜査していたが同年9月に不起訴となった。のちに検察審査会で同事件での不起訴は不当であるとする議決を行った。

村岡兼造が収支報告書への不記載を首謀したとして在宅起訴された。橋本は「会食で1億円の小切手を貰った記憶は無い」などと発言し、日歯連の不正献金疑惑が大きく報道に取り上げられ、当時の自民党随一の政界影響力を誇り最大派閥であった橋本派の各種団体との癒着や政治と金の問題が浮き彫りになった。その後、比例区からの出馬が模索されたものの党はこれを認めず、体調不良も重なって、政界引退を余儀なくされた。

訃報 橋本龍太郎元首相

2006年6月4日夜、腹痛を訴えて緊急入院。大腸のほとんどと小腸の一部を切除する手術を受け、その後も入院していた。 同年6月30日には見舞いに訪れた実弟の橋本大二郎が記者団に「容体はずっと変わらない。危篤です」と述べた。 7月1日、橋本龍太郎は東京都新宿区の国立国際医療センターで、腸管虚血を原因とする敗血症性ショックによる多臓器不全 のため死去した。68歳没。

7月3日には葬儀・告別式が東京高輪の高野山東京別院で営まれた。また8月8日には小泉総理大臣を葬儀委員長として、内閣・自由民主党合同葬が日本武道館で行われ、自衛隊による儀仗、堵列および弔砲が捧げられた。追悼の辞は小泉葬儀委員長が述べた。戒名は高潔院殿俊岳龍吟大居士。墓は岡山県総社市の宝福寺と東京都港区の青山霊園にある。 また橋本が登山を好んでいたため、エベレストを望むことができるネパールのタンボチェ村に慰霊碑が建てられている。

なお、死因である腸管虚血は、原因がよく分からないこともあり、橋本の死後、病院側の意向により、遺体は病理解剖に付された。ただし、彼が日常的に葉巻やたばこ、パイプやキセルなどを好んでたくさん吸っていたことから、血液の循環に支障が出たのではないかと言われている。

政策

厚生政務次官、自民党社会部会長、衆議院社会労働委員長、厚生大臣と厚生族議員としてキャリアを積んでいき、水俣病患者に対して対応が冷酷・傲岸であるとの批判もあったが、厚生族のドンとも言うべき存在になる。身体障害を持つ龍伍が父である橋本は、福祉に強い関心を抱き、「政治は弱者のためにある」との龍伍の政治信念を守った。

環境庁の発足や、環境庁から環境省への移行など環境行政にも関わった。また、京都議定書の締結にも首相として関わった。

第3次中曽根内閣で運輸大臣に就任し、中曽根康弘が首相就任以来取り組んできた国鉄分割民営化の総仕上げに携わったが、のち郵政解散をめぐって産経新聞の取材に応じた際の2005年12月、行政改革の話題で「分割民営化をほめてくれる方がいるが、JR西日本の福知山線脱線事故が起きてものすごく後悔している」と明言。新規投資にゆとりのないJR西日本のスタートに無理があり、信楽高原鉄道事故につながったとする見解をも示唆した。

海部内閣では大蔵大臣に就任し、党内基盤の脆弱な海部俊樹首相を、特に政策面で強く支えた。湾岸戦争では多国籍軍の経費として130億ドルを拠出。過熱気味の不動産価格をソフトランディングするべく、不動産関連融資の総量規制を行う。

自社さ連立政権の基礎となった三党政策合意がまとまったのは、社会党きっての厚生労働族議員である村山富市が、国会議員の中で厚生労働問題に詳しく力量を信頼していた橋本が自民党の政務調査会長だったことも大きいと言われる。村山内閣発足後、橋本は通商産業大臣に就任する。

橋本龍太郎は国の行政改革に取り組んだ。22ある省庁を1府12省庁に削減する省庁再編、大蔵省の名称変更や金融業務の切り離し、首相権限強化を伴う内閣機能の見直し、郵政三事業の一体公社化、公務員定数の一割削減などを「行政改革会議」において最終報告という形で決定した。この最終報告は、1998年に成立した中央省庁等改革基本法に結実し、一定の成果を上げた。なお、父・龍伍も、吉田内閣において行政管理庁長官として省庁再編を目指していたが、頓挫した経緯がある。

橋本内閣では、橋本龍太郎は内閣総理大臣秘書官(政務担当)に江田憲司(通商産業省の官僚)を起用した。

薬害エイズ事件に関して、橋本は田中秀征に「秀征さん、僕が厚生族であることを知っているでしょう。この政権合意ほんとうにきついけど、政権の合意だからやらないといけない。邪魔だけはしない。」と伝えた。業界団体や会社の要望も全てはねつけ、役所も政権合意だから仕方ないと思うようになった。後で「菅直人一人がやったような気分になっているが、秀征さんはそれでいいのか」と言ってきた。田中はこの問題が解決したのは、さきがけの主張と、橋本の見えない協力が一番だったと高く評価している。

首相就任早々にクリントン大統領と日米安全保障共同宣言を出し、沖縄県・普天間基地移設問題については、基地の整理縮小含みでの同意をアメリカ合衆国から取り付けた。その一方で、新・日米防衛協力のための指針を策定。

ロシアのエリツィンは橋本を「友人リュウ」と呼んだ。フランスのシラク大統領も橋本を「リュウ」と呼んで、趣味を認め合う仲だった。

1995年まで日本遺族会会長を務めていたこともあり、首相就任後に靖国神社へ参拝した。それは継母になじめなかった子供のころに面倒を見てくれた従兄が、召集されて戦地へ行く前に「自分が亡くなった時は、靖国へ戻ってくる。」と橋本に言い残したためであり、首相就任後に参拝した日はその従兄の命日であった。

日本の慰安婦問題に関して、1996年に元慰安婦に対する謝罪の手紙を内閣総理大臣名義で発出した。

2024/05/26 18:13更新

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