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浅村栄斗
浅村 栄斗(あさむら ひでと)さんの誕生日は1990年11月12日です。大阪出身の野球選手のようです。
選手としての特徴、人物などについてまとめました。兄弟、父親、結婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。現在の年齢は33歳のようです。
浅村 栄斗(あさむら ひでと、1990年11月12日 - )は、大阪府大阪市東淀川区出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 2023年シーズンから主将を務める。 3人兄弟の末弟。大阪市立井高野小学校4年からソフトボールを始め、大阪市立井高野中学校1年から硬式の都島ボーイズで野球を始める。中学時代は特に目立った選手ではなかったが、次兄(中村剛也、岩田稔らと同学年)が大阪桐蔭の野球部出身であったため、父親が同校野球部監督の西谷浩一に栄斗のプレーを見て欲しいと連絡し、プレーを見た西谷の判断で入学が決まった。 大阪桐蔭高等学校では1年秋からベンチ入り。第79回選抜高等学校野球大会ではベンチ入りできなかったものの、2年夏からは二塁手で背番号14ながらも全試合レギュラーとして出場。最高学年となった新チームがスタートすると遊撃手を守るようになり、2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会に出場。「1番・遊撃手」として全6試合に出場、29打数16安打(2本塁打)、守備でも好プレーと攻守にわたる活躍で大阪桐蔭高校の優勝に貢献。1回戦の大分県立日田林工高等学校戦で5安打を記録し、2回戦の金沢高等学校戦では2本塁打を記録した。守備面でも10回に中堅に抜けようかという打球を好捕、ノーバウンドスローで一塁に送球しアウトとした。決勝の常葉学園菊川高等学校戦では7回の守備で無死二塁で投手のグラブを掠めた打球を三塁に送球しアウトをとるなど美技といわれる守備で注目された。高校最後の打席もレフトスタンドへのソロ本塁打を記録した。高校通算22本塁打。 2008年10月30日に行われたプロ野球ドラフト会議で埼玉西武ライオンズから3位指名を受け、契約金5000万円、年俸600万円で仮契約を結んだ。背番号は32。 2009年(1年目)は一軍出場なし。 2010年3月31日の福岡ソフトバンクホークス戦で代打としてプロ入り初出場。左翼線への適時二塁打を放ちプロ入り初安打・初打点を記録した。2010年8月10日の楽天戦でプロ入り初本塁打、そこから約2か月後の9月26日の公式戦最終戦では先制の2号2点本塁打を打った。また、この2本の本塁打はどちらもクリネックススタジアム宮城で記録している。 2011年は開幕スタメン入りを果たし、レギュラーの座を1年間守った。守備位置は固定されず、外野もこなした。オープン戦では片岡易之の出遅れのため片岡の復帰まで主に二塁手として試合に出場、片岡が復帰してから交流戦までは主に一塁手、交流戦の指名打者が使えない試合では一塁に回るホセ・フェルナンデスのために左翼手を務めることになった。交流戦明けからは他の選手の入れ替わりにより、一塁手、二塁手、三塁手、左翼手に加え右翼手としての出場も記録。中盤は打撃の調子を落としたが、再び一塁手に固定された10月は打率が.460とリーグトップの成績を残し、初の月間MVPを獲得した。 2012年は開幕を一軍で迎えたが、打撃不振に陥り5月21日に二軍落ちした。一軍再昇格後は打撃が復調し、8月に栗山巧が左手の負傷で離脱後は、シーズン終了まで1番打者として起用された。 2013年は開幕からしばらく一塁手で起用された。遊撃手を任せられることもあったが、失策が多くほぼ一塁手専任になると共に離脱中の中村剛也の代役として4番打者を任されるようになった。5月29日の対横浜DeNAベイスターズ戦でプロ入り後初めて4番打者を務めたことによって、一軍公式戦の先発で全ての打順を経験する。4番起用2試合目となった東京ヤクルトスワローズ戦(5月31日)では、2年ぶりのサヨナラ本塁打を含む自身初の1試合2本塁打を記録した。7月には月間打率.395と6本塁打で自身2度目の月間MVPを受賞。9月26日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(西武ドーム)では日本プロ野球最年少タイ(史上4人目、23歳)で100打点を達成。最終的に110打点を挙げ、平成生まれで初の打点王を獲得した。オフの11月に台湾で開催された「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表に選出された。 2014年から守備位置を二塁に移す。中村剛也が故障により出遅れ、開幕当初は4番を務めた。5月21日の読売ジャイアンツ戦で村田修一のフライを追いかけ、右翼手の木村文紀と交錯。数日後に左足に痛みを覚えるもノーステップ打法に切り替え出場を続け、6月3日時点でチームトップの8本塁打、32打点を記録していたが、6月5日に登録を抹消された。7月15日の北海道日本ハムファイターズ戦にて復帰を果たすも、前年の約半分の14本塁打、55打点に終わった。シーズンオフの11月4日には左肩のクリーニング手術を受けた。 2015年は開幕から3番打者として出場。前半戦打率3割維持も後半戦に入り調子を落とし、結果は打率.270、本塁打は前年以下の13本塁打でシーズン終了。9月10日に第1回WBSCプレミア12の日本代表候補に選出された。契約更改で2200万円アップの1億円(推定)プラス出来高でサインした。 2016年のシーズン序盤は31打席無安打など、打率が1割台と打撃不振に陥ったが、5月から調子を上げた。オールスターゲーム第2戦で記録した本塁打がオールスターゲーム通算400号となった。8月はパ・リーグ1位の38安打を記録し、2013年8月以来3回目の月間MVPを受賞。最終的に「打率.309(リーグ3位)、24本塁打(リーグ6位)」の成績を残して、二塁手としては自身初めてのベストナインを受賞した。オフに背番号を中島宏之の退団以来空き番となっていた3に変更した。11月24日、スポンサー向けのパーティーの席上で、2017年シーズンのキャプテンに指名される。 2017年5月20日のソフトバンク戦で中田賢一から通算100本塁打、9月28日のソフトバンク戦で寺原隼人から左前に適時打を打ち、通算1000安打を達成。平成生まれの1000安打到達者第1号となった。契約更改で5500万円増の推定年俸2億1000万円でサインし、球団からは複数年契約を提示されたが「甘えを持ってやりたくない」と1年契約を選んだ。 2018年10月3日の日本ハム戦で逆転の31号2点本塁打を打ち、シーズン打点を124に伸ばしてリーグ単独トップとなり、2001年のアレックス・カブレラ、2015年の中村剛也と並ぶ球団タイ記録となった。10月4日の千葉ロッテマリーンズ戦で有吉優樹から適時二塁打を打ち、球団新記録となるシーズン125打点を記録。全143試合に出場して、打率.310 32本塁打 127打点という成績で安打・本塁打・打点はキャリアハイを記録し、球団に所属する日本人選手で初めて「3割・30本塁打・100打点」達成者となった。オフの11月5日、国内フリーエージェント権行使を球団に通知した。所属先である西武の他にソフトバンク、東北楽天ゴールデンイーグルス、オリックス・バファローズが獲得意思を示した。 2018年11月21日、楽天への入団が発表された。背番号は西武時代に引き続き3。4年総額20億円(推定)で、楽天史上最高額の大型契約を結んだ。 2019年4月17日の埼玉西武ライオンズ戦で通算150本塁打を達成。最終的には球団で唯一となる全試合に出場し、キャリアハイである33本塁打を記録したが、キャリアワーストを大きく更新する162三振を記録した。クライマックスシリーズでは史上初の3試合連続本塁打を含む計4本塁打で新記録を達成した。オフの11月に開催された第2回WBSCプレミア12の日本代表に選出された。 2020年は新型コロナウイルスの影響で120試合制となる。6月27日の日本ハム戦の5回に楽天は一挙10得点の猛攻を見せ、浅村は1度目の打席で3点本塁打、2度目の打席で2点二塁打を打ち、球団新記録の1イニング5打点を記録した。さらに8回にも2点二塁打を打ち、球団タイ記録となる1試合7打点を記録した。浅村の7打点は2017年5月12日のオリックス戦以来2度目。9月22日のロッテ戦では自身初の1試合3本塁打、再び球団記録タイの1試合7打点を記録。楽天での1試合3本塁打は2017年にジャフェット・アマダーが記録して以来となった。中田翔とのデッドヒートを繰り返しながら最終的には打率.280、32本塁打、104打点を記録し、自身初の本塁打王を獲得した。球団では2007年の山﨑武司以来13年ぶりの快挙となった。 2021年、6月10日の中日ドラゴンズ戦で通算1500安打を達成した。平成生まれでの1500安打は史上初の快挙となった。30歳6か月での1500安打達成は藤田平、大村直之と共に並ぶ歴代10位タイの年少記録となった。ただ、本塁打王を獲得した前年からは一転して長打の少なさに悩まされ、打率と出塁率は依然として高かったことから西武時代の2016年以来となる2番打者で起用されることもあった。オールスターゲームのファン投票では二塁手部門で256,840票を集め1位選出、選手間投票でも1位選出されたものの、7月15日に受けたコロナウイルスワクチン接種による副作用で体調不良となり、オールスターゲームを2戦とも欠場した。東京オリンピックの代表にも選出され、正一塁手として金メダル獲得に貢献した。レギュラーシーズン再開後は8月下旬から安打が出ない状態が続き、9月3日の西武戦でも3打数無安打で16打数連続無安打。さらに第3打席を終えた直後、7回表の守備からベンチに退き、翌4日の試合では移籍後3年目で初となるベンチスタートとなった。9月8日にスタメン復帰を果たすも同月は月間打率.188と不調が続いた。シーズン最終盤には3本塁打を含む5試合連続安打を記録したが、レギュラーシーズン最後の2試合を無安打で終えるとクライマックスシリーズファーストステージでも2試合で8打数1安打、0打点と振るわず、チームも敗退した。この年は全試合出場こそ達成したものの打率.269、18本塁打、67打点という成績にとどまった。 2022年、新型コロナウイルスが猛威を振るって多くの選手が戦線離脱する中、リーグ唯一の全試合出場を達成、27本塁打はリーグ2位、86打点はリーグ3位となった。4月30日の対ソフトバンク戦(楽天生命パーク)では6-6の同点で迎えた延長11回二死二・三塁の打席で津森宥紀からサヨナラ安打、6月8日の対広島東洋カープ戦(楽天生命パーク)では両者無得点で迎えた延長10回一死二塁の打席で松本竜也からサヨナラ二塁打とシーズンでは2度のサヨナラ打を放った。シーズン終了後、再取得したFA権を行使せず残留することを表明した。4年総額20億円の大型契約を新たに結んだ。12月16日に2023年からキャプテンに就任した。 2023年、開幕から5月上旬までは打率1割台と結果を残せなかったが、6月は8日の対阪神タイガース戦(楽天モバイルパーク)、9 - 10日の対中日戦(楽天モバイルパーク)で3試合連続適時打を放ち、チーム3連勝に貢献。7月は月間打率.395、9本塁打、24打点の成績で月間MVPに選出された。8月30日の対西武戦(楽天モバイルパーク)では1点を追う9回無死一・二塁の打席で増田達至から逆転サヨナラ3点本塁打を放ち、9月13日に8月度の「月間スカパーサヨナラ賞」に選出された。翌14日の対オリックス戦(楽天モバイルパーク)で松井稼頭央を抜く1144試合連続出場のパ・リーグ最多連続試合出場を達成した。シーズンではグレゴリー・ポランコ(ロッテ)、近藤健介(ソフトバンク)と並ぶ26本塁打で自身2度目の本塁打王を獲得した。 2024年は、この年から監督に就任した今江敏晃の意向で体の負担を減らすため、二塁手から三塁手に転向する。 選手としての特徴リーグ屈指の勝負強さを誇る強打者。元々は中距離打者であったが、2018年の交流戦後、打率向上のため飛距離を求めて打撃フォームを改造。「肩を下げる」イメージで構える新しいフォームが功を成し、長打を量産するようになった。なお、浅村自身は「自分がホームランバッターだとは一度も考えたことはない。『ヒットの延長がホームラン』というイメージでやっている」と語っている。 初球から積極的に振っていくタイプであり、初球スイング率は2012年にリーグ2位、2013年にリーグトップを記録。浅村自身も「ファーストストライクから思い切りバットを振っていくのが、自分の長所だと思っている」と語っており、2013年のファーストストライクの打率は.363を誇った。 2018年に記録した32本塁打の半分が中堅より右への打球であることから、広角に強い打球を打つことができる。 本来は遊撃手であるが、プロ入り後は一塁手および二塁手として出場する機会が多い。2011年の若手時代、コーチを務めていた鈴木康友からは「入団したときから守備のうまさはずば抜けていました。おそらく今、12球団で最も動きのいい野手だと思う」と評価されていた。2013年は一塁手として136試合に出場。守備率は.997を記録し、UZRは16.4を記録した(いずれも一塁手としての記録)。高校生時で50メートル走のタイムは6秒2、遠投100メートル。 人物2019年11月17日にフリーアナウンサーの淡輪ゆきと結婚することを発表し、同年12月21日に入籍し挙式を行なった。2021年12月24日に第一子となる女児が誕生したことを発表した。 愛称は「アサ」、「ヒデ」。 目指す選手像について、「トリプルスリーを出来るような選手ですね。全てパーフェクトにやりたいというか、全部でトップクラスになりたいんです。」と語っている。 尊敬する選手として、松井稼頭央の名前を挙げている。子供の頃、野球ゲームをする際には、必ず松井のいる西武でプレーしていた。西武入団時から2016年まで浅村の付けていた背番号「32」は、松井が入団から一軍の正遊撃手の座を得るまで付けていた背番号である。浅村にとっては松井は背番号「7」の印象が強いが、入団の際に浅村は球団関係者から「松井さんが入団時に付けていた背番号だから」と言われたという。西武入団後は、チームの先輩である中島裕之に憧れを持つようになり、春期キャンプ前の自主トレでは「中島組」とプリントされたTシャツを着込んで練習を共にしていた。2012年オフに中島がFA海外移籍で退団となり、翌2013年に浅村は一塁手のレギュラーとして活躍。オフに浅村は中島が付けていた背番号「3」への変更を期待していたが、球団は時期尚早と判断し、見送りとなった。浅村はこの時、ショックを受けたという。その後もレギュラーとして活躍し、2015年のオフに球団から「3」への変更を打診されるも、今度は浅村が「まだまだ付けられない」と固辞した。翌2016年に浅村は納得した成績を残すと、オフに晴れて「3」に変更となった。 2013年シーズンより、用具でナイキ社と契約。稲葉篤紀モデルのバットを高山久から借り、重量バランスを気に入り、同様のモデルを、当時契約していたSSK社が受注していたが、2013年からは、ナイキ社から同モデルを供給されることとなった。 埼玉西武ライオンズ球団シニアディレクターの渡辺久信によれば、浅村がライオンズのキャプテンに指名された時、「(主将にして)大丈夫なんですか?」と驚いたのが恩師である大阪桐蔭監督の西谷浩一であったとのこと。 東京オリンピック 野球日本代表(侍ジャパン)として金メダルを獲得した栄誉をたたえ、2022年1月28日、大阪市東淀川区の大阪メトロ井高野駅2番出口付近に記念のゴールドポスト(第57号)が設置された(ゴールドポストプロジェクト)。 2018年にFA宣言した際、交渉したチームに楽天以外に福岡ソフトバンクホークスやオリックス・バファローズなどが含まれていた。その際、浅村はオリックスからのオファーを拒否したことで、『お断りックス』と揶揄された。 2024/05/16 03:48更新
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asamura hideto
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