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清原和博の情報 (きよはらかずひろ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【5月19日】今日誕生日の芸能人・有名人

清原和博の情報 (きよはらかずひろ) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]

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清原 和博さんについて調べます

■名前・氏名
清原 和博
(きよはら かずひろ)
■職業
野球選手
■清原和博の誕生日・生年月日
1967年8月18日 (年齢56歳)
未年(ひつじ)、獅子座(しし)
■出身地・都道府県
大阪出身

清原和博と同じ年に生まれた芸能人(1967年生まれ)

清原和博と同じ誕生日の人(8月18日)

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清原和博

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清原 和博(きよはら かずひろ)さんの誕生日は1967年8月18日です。大阪出身の野球選手のようです。

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高校時代まで、西武時代などについてまとめました。家族、母親、父親、卒業、現在、事件、引退に関する情報もありますね。現在の年齢は56歳のようです。

清原 和博(きよはら かずひろ、1967年8月18日 - )は、大阪府岸和田市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球評論家、タレント、YouTuber。愛称は「お祭り男」「(球界の)番長」。

高校野球の甲子園大会での通算本塁打数の最多記録保持者(13本。春に4本、夏に9本)。

NPBでは1986年から2008年までの23年間にわたり、西武ライオンズ、読売ジャイアンツ、オリックス・バファローズの3球団でプレーした。

NPBにおける打率(.304)、本塁打(31本)、打点(78点)、塁打(236本)の高卒新人記録保持者。サヨナラ安打(20本)、サヨナラ本塁打(12本)、オールスター通算打点(36打点)、オールスターMVP(7回)の最多記録保持者。プロ入りから21年連続2桁本塁打、13年連続20本塁打以上の日本記録保持者。西武ライオンズでの四番出場数1121試合の球団記録保持者。巨人在籍185本塁打の移籍入団選手の最多記録保持者。

2000本安打達成者の中で安打に占める本塁打の割合は、歴代で王貞治に次ぐ2位である。

通算196被死球はNPB記録。

高校時代まで

1967年8月18日、大阪府岸和田市で生まれた。3姉弟の長男で、姉と弟がいる。生家は電器店(東芝ストアー)を経営していた。

父は阪神タイガース(阪神)ファンで、父以外の家族はみな読売ジャイアンツ(巨人)ファンであり、その影響で自身も巨人ファンとして育った。

1974年、岸和田市立八木南小学校に入学し、野球を始めた。

1976年5月に岸和田リトルリーグ(硬式野球)の部員募集ポスターを見て入団テストを受け、岸和田リトルリーグに入団。なお、小学3年生の時点で、すでに身長が155cmあり、入団テストの遠投では70mを記録したとのこと。毎日祖父から100円を貰い練習をしていた。

1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。投手としても才能を発揮した。この頃、岡田圭右との対戦もあった。

1980年、廃止された春木競馬場や現存する岸和田競輪場に程近い岸和田市立久米田中学校に進学すると共に、岸和田シニアリーグに移った。そこでは中学2年生にしてキャプテンとなり、関西シニアで優勝を果たす。

1983年、高校は30校近いスカウトの中から、大阪府富田林市のPL学園高校(当時は全寮制)を選んだ。なお、清原の母親は奈良県出身であり、清原へ「奈良県の強豪の天理高校から甲子園大会に行ってほしい」と幼少のころから言い聞かせていた。

しかし、PL学園野球部は全員が野球部専用の寮に居住しており、その寮の部屋での集団生活は極めて過酷な環境であった。

それを知らずに入学した清原も日常的に殴られており、一度は涙を流したことがあった。

その極限生活の中、唯一の癒しとなったのが、母が密かに差し入れてくれた森永製菓のキャラメルであった。1年生は菓子類の摂取を禁止されていたが、母は清原に「靴下」を差し入れ、靴下の先へキャラメルを少しずつ隠し入れた。

また、寮で上級生たちが食事をする際、1年生に不手際があると茶碗を顔へ投げつけられた。それを避けるとひどく殴られるため、わざと当たりにいかなければならなかった。清原は「この経験が、のちにプロ野球で死球を避けずに当たりに行く姿勢に繋がったのかもしれない」と語っている。

なお、清原に限らず、1年生もやられっぱなしというわけではなく、3年生に作る食事に何らかの異物を入れるなどで仕返しをしていたという。

ただし、PL学園での練習のレベルや先輩たちの技術は、高校1年生の清原にとって「大したものではなかった」という。

打撃練習では簡単に場外へ飛ばしてしまい、上級生からの嫉妬を受けて殴られることあった。そのため「打ちたくないのに打ってしまう」状態だった。

当時の1年生はバッティング練習の際には飛距離の出ない竹バットを使用していたが、それでもネットを軽々越えて場外に飛ばしていたために、先輩からの殴打が頻発するようになった。

清原は先輩からの殴打を恐れて、打撃練習の際にはなるべく飛距離が出ないようにライト方向への流し打ちを意識するようになった。それが、のちに得意とする流し方向への本塁打を習得したきっかけとなった。甲子園での最初の本塁打もライト方向であった。

清原にとっては身の安全のため、「生きるため」に編み出したものであり、その技法を他人へ言葉にして指導することは難しいという。

ほかに、部員全員で競ってグラウンドを5周走り、首位の1人だけが抜けて延々と繰り返すという過酷な練習もあった。清原は脱水を避けるために和式便所の水をすくって飲み、生き延びたという。4月に入学してから春の大阪府予選大会までの間に体重が10kg落ちた。

また、守備練習では、1年生がエラーをするたびに、上級生である2年生部員が3年生部員に臀部をバットで殴られる制裁を受けた。これも非常に精神的な負担が大きいものであった。さらに練習の後、その2年生は報復として1年生を殴ったという。

清原は早くから1年生では田口権一と共にレギュラー組に選ばれていたが、6月頃に(入学当初から希望していた)投手の練習はもうしなくていいと言われた。その後、同期の桑田真澄の傑出した実力を知った。新入部員が最初に集まった際に、桑田を探しその姿を発見すると「なんだ、こんな小さい奴か」と思ったが、実際の投球を見て驚嘆し、PL学園で投手になることを断念したと、後にYOUTUBEの片岡篤史チャンネルでコメントしている。(2019年12月12日配信)

全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番打者を務め、エース桑田と共に甲子園大会に5季連続出場を果たす。1年生の夏に優勝、2年生の春・夏は共に準優勝、3年生の春はベスト4、3年生の夏は2度目の優勝を経験している。

なお、3年生(1985年)夏の甲子園準々決勝では5回裏に、高知市立高知商業高等学校の中山裕章から「甲子園史上最大」とされる本塁打(飛距離140 m)を打ったが、清原自身は後年にこの本塁打を「(野球人生で)最も記憶に残る一発」「(甲子園で)僕が打った中では一番大きいホームランだと思う」と振り返っている。また決勝戦も制することが出来た。

特に清原と桑田の2人は「KKコンビ」と呼ばれ、後には桑田清原世代と呼ばれるようになる、この世代を代表する人物となった。後にプロ入りした松山秀明、今久留主成幸、内匠政博も、共に活躍した。

個人としても甲子園通算13本塁打を放つなど(第66回大会で香川伸行の記録を更新)、高校通算64本塁打を記録。3年夏の決勝戦でこの試合2本目、当時の1大会での新記録となる5号を放った際、植草貞夫は「甲子園は清原のためにあるのか!」と実況した。

3年生春の対浜松商戦と同年夏の東海大学山形高等学校戦(共に大量得点差のついた最終回)では監督の中村順司に懇願し、投手として登板させてもらった。浜松商戦では八回1死満塁の場面で3番手として登場。試合終了まで打者5人を完璧に封じ、中にはナックルボールも駆使し連続三振を奪ったものもあった。東海大学山形高等学校戦では29-7で大勝した試合でも九回に4番手としてマウンドに上がり、打者4人に対し計17球を投げ、2者連続押し出し四球を与えたが1三振を奪った。なお、初球にカーブを投じたことに対し、同試合の球審を務めていた西大立目永から「真ん中、まっすぐ放りなさい!」と指導されるエピソードが残されている。

豪快な本塁打など、試合での活躍が多くの伝説を生んだが、練習に対する姿勢も真摯だった。3年春のセンバツ準決勝では渡辺智男に3三振と完璧に抑えられ、チームも1-3で敗れ高校3年間で唯一甲子園大会の決勝に進むことができなかった。清原は試合後ベンチで涙を流したが、その日学校に戻ってからの夜、監督の中村が誰もいないはずの室内練習場に明かりがついているのを見つけて中をのぞいてみると、上半身裸の清原が湯気のような汗を流しながら一人で黙々とバッティング練習をしていたというエピソードがある。

清原は子供の頃から熱烈な読売ジャイアンツ(巨人)ファンだった。

プロ野球チームへ入団する際には、自身および父親以外の家族全員がファンである巨人、もしくは、父親がファンである阪神入りを熱望した。両軍がプロ野球ドラフト会議で自身への交渉権を逃した場合には、プロ入りせずに翌年までは日本生命硬式野球部で社会人野球を行うことを表明していた。

しかし、運命の1985年のドラフト会議当日、巨人は清原ではなく、早稲田大学進学を表明していたチームメイトの桑田真澄をドラフト1位で強行指名した。

後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、巨人を見返すために日本生命硬式野球部の内定を断り、プロ入りを決断した。

西武時代

高校卒業の年、清原はそのまま西武に入団、背番号は3とした。

ルーキーイヤーの1986年、オープン戦ではプロの洗礼を受け本塁打を1本も打てないまま開幕を迎えるが、打撃フォームの修正を重ね、開幕2戦目(4月5日)の南海ホークス戦の6回表から一塁の守備につき途中出場でプロ公式戦デビューすると、第1打席では四球、第2打席には藤本修二からプロ初安打・初打点をも兼ねる初本塁打を打つ。

試合は2対4で敗れたが、個人的な活躍から、なおも大喜びしていたため、「味方の負け試合でそんなに天真爛漫に喜ぶやつがあるか」と怒られたという。打たれた藤本は試合後のインタビューで、「本塁打よりもその前の打席で誘い球にも手を出さず、ベテランのようにきっちり四球を選んだことのほうが驚きだった」という内容の言葉を残している。清原自身はこのことを自著で「自分たちのチーム(南海)が優勢で浮かれていたろうし、なにより自分を新人だと思って手を抜いていただけ。だから単調で読みやすかった」と語っている。

その後は4月8日に8番で初スタメン出場を果たすと、以後はスタメンに定着。徐々に打順を上げ、5月27日には早くも5番を任されることとなった。

前半戦を打率.252、11本塁打で折り返し、オールスターゲームにはファン投票で1位選出された。高卒新人がオールスターに出場したのは1954年の梶本隆夫、1955年の榎本喜八、1970年の太田幸司に次ぐ史上4人目だったが、清原はその中で初めて安打、本塁打を放った選手となった(第1戦で安打、第2戦で本塁打)。第2戦ではMVPを獲得している。

後半戦(オールスター後の59試合)だけで20本塁打を記録し、9月には高卒新人初となる月間MVPを受賞した。同年のチームは調子が上がらず、前半戦は下位を低迷していたものの、清原が調子を上げるのに合わせてチームの成績も上がり、バファローズと激しい優勝争いを演じ。9月6日の近鉄戦では村田辰美から初の満塁本塁打を放った。9月27日の近鉄戦では小野和義から初回に28号を放ち豊田泰光の高卒新人本塁打記録を33年ぶりに更新すると、8回にも小野から29号を放ち、長嶋茂雄のルーキーシーズンの記録に並んだ。10月7日のロッテ戦で初の4番に抜擢され、その試合で1点ビハインドの6回、田子譲治から高卒新人史上最多の31本目の本塁打を放って1959年の桑田武に並ぶ新人本塁打記録の最多タイ記録を達成。桑田は達成時は23歳、清原は19歳であった。同点で迎えた7回には二死二塁の場面でプロ初の敬遠も経験した。10月9日、2安打1打点で勝利に貢献し、チームの優勝が決定。当時はシーズン130試合制だが、129試合目まで争いがもつれた。この時点で打率.301であったが、翌日のシーズン最終戦では森監督が清原に出場するかどうかの打診をし、清原は「出ます」と出場して3安打を放って打率を.304まで伸ばした。この年は126試合に出場、本塁打31の他、打率.304及び打点78も1955年・榎本の打率.298・67打点を更新する高卒新人の歴代最高記録を残し、新人選手の2桁本塁打は27年ぶり、5人目の快挙であり、新人王に選出された。高卒1年目野手の受賞は、パ・リーグでは2021年現在までで清原が最後。日本シリーズには8試合全てに4番・一塁でフル出場を果たし、初戦で自打球を左足に当てて親指を骨折するというアクシデントに見舞われたものの、打率.355(31打数11安打)でシリーズ首位打者および最多安打を記録して、チームの日本一に貢献。シリーズ優秀選手賞を獲得した。

この年は流行語大賞を獲った「新人類」の代表として、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。

1987年は打率.259と下がり、2年目のジンクスに陥る形となったが29本塁打を放つなど長打力は健在で打点は前年を上回った。また三振数も100を割り高卒2年目で全試合出場を達成した。日本シリーズでは、王貞治監督率いる巨人と対戦。西武3勝と王手をかけていた第6戦では、3対1とリードし、9回二死になった時、一塁の守備についていた時に涙を流し、試合が一時中断となった。清原は自著の中で「9回、ファーストから、三塁ベンチの巨人の選手、王さんの姿が見え、ドラフトのことを思い出し涙が止まらなくなった」と述べており、二塁手の辻発彦になだめられた。この試合に先発し9回のマウンドに立っていた工藤公康は、試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったので)どんなガッツポーズをしようか考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつも、「あの涙は本当に美しかった」と語っていた。同年7月には、警察庁が「覚せい剤等薬物防止強化月間」に合わせて制作した覚醒剤追放ポスターに清原を起用したが、そのポスターには「覚せい剤うたずにホームラン打とう」というキャッチコピーが掲載されていた。このポスターは、警察庁が発行していた冊子『けいさつのまど特集号』の表紙にも掲載されているが、後に清原が覚醒剤事件で逮捕された(後述)際にはこのポスターが話題となった。

1988年も前年同様全試合出場を果たし、31本塁打を記録し、打率も前年より上げ、最多勝利打点タイトルを獲得、リーグ最多の97得点を記録し、リーグ3連覇に貢献。7月5日のロッテ戦では小川博からプロ入り初となるサヨナラ本塁打を打っている。中日との日本シリーズでは第1戦の2回小野和幸から1ストライク3ボールの5球目の甘く入ったスライダーをとらえレフト場外(ナゴヤ球場の近くを走る東海道新幹線の防音壁に当たったと言われている)に消える、推定飛距離145mの特大の先制ソロ本塁打、第4戦では5回に上原晃から2点本塁打、第5戦では6回に小松辰雄からソロ本塁打と3本塁打を打ち、16打席6安打4打点を記録を記録し、4勝1敗で3年連続日本一、優秀選手賞を受賞した。

1989年6月4日には史上最年少となる21歳9か月での100号本塁打を達成。しかし、優勝争いの真っ只中の9月23日、対ロッテ戦で4回に平沼定晴から受けた死球に怒り、バットを放り投げ乱闘を起こしたとして初の退場処分を受け、パ・リーグから即日「厳重戒告・制裁金30万円・2日間出場停止」の処分が下された。このため、前日まで続いていた清原の連続試合出場は490でストップした。なお、この件は後に、2015年10月11日放送の『行列のできる法律相談所』で、改めて謝罪した。最終成績は35本塁打を放ち、打率.283を残した。三振数は60で、これは規定打席に到達した年では自己最少の数字だった。

1990年は開幕戦で西崎幸広から2HRを放つなど好調で、最終的に打率.307、37本塁打、94打点を記録した。37本塁打は自己最多である。自身2度目の打率3割を達成したが、これ以降は規定打席に到達しての3割は記録できなかったため、規定打席到達の3割は同年が最後だった。規定打席到達のキャリアハイの打率もこの年である。同年の105四球は野村克也を22年ぶりに破る当時のパ・リーグ記録。巨人との日本シリーズでは第2戦8回表に木田優夫から適時打、第4戦5回裏に水野雄仁から適時打を打ち、チームも4連勝し日本一となり、また3戦目までは第一打席では毎回四球を選び、次打者のデストラーデのMVP獲得をアシストした。オフの契約更改では当時としては史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなり、「25歳までに1億円プレイヤーになる」という願望を成し遂げた。

1991年は4月6日のロッテとの開幕戦で小宮山悟、平沼定晴から2本塁打を放ち、史上初の2年連続開幕戦2HRを達成する。その後も、開幕7試合で6本塁打と最高のスタートを切るが、そこから35試合・151打席のあいだ本塁打が出ないという極端なスランプに陥り、成績を落とした。広島との日本シリーズでは第1戦1回裏に佐々岡真司から2点本塁打、第6戦1回裏川端順から先制適時打を打ち、4勝3敗で2年連続日本一。

1992年6月26日には同じく史上最年少となる24歳10か月で200号本塁打を達成。同年は最高出塁率のタイトルを獲得した。しかし、日本シリーズでは第2戦6回に荒木大輔から2点本塁打を打つも、野村監督率いるヤクルトに研究され絶不調に陥り、第4戦から第7戦まで17打席無安打となり、第7戦は途中で守備からベンチに下げられて胴上げの瞬間はベンチで迎えた。

1993年5月3日の対ロッテ戦(西武球場)で、伊良部秀輝との対戦時に当時の日本球界最速の158km/hのストレートを投げられた(最後は157km/hのストレートをセンター前に打ち返し、対戦は清原に軍配が上がった)。同年は三振数が120となり、5年ぶりに三振数が100を超えた。清原はこの時のことを度々回想している。

1994年も三振数が100を超えたが、一方で四球も100を超えるなど選球眼の良さが光った。四球が100を超えるのは4年ぶりだった。巨人との日本シリーズでは23打数8安打で打率.348、4本塁打、8打点、桑田から第1戦で先制ソロ、第5戦でバックスクリーンに2打席連続で本塁打を放った。

1995年は右肩を脱臼、安打100本未満に終わったが自身通算で最高のIsoD(出塁率 - 打率)を記録したシーズンとなった。9月19日での試合でオリックスがリーグ制覇を果たしプロとして初めて相手チームの優勝を見届けてしまい、球団自体も黄金期に終止符を打つこととなる。

1996年は前年より打撃3部門全てを上回った。打率は.257と不調だったが8年ぶりに全試合に出場し、4年ぶりに30本塁打以上を記録した。

かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、森祇晶の監督在任中の9年間でリーグ優勝8度、日本一6度を成し遂げ名選手を多数輩出した「西武黄金時代」の4番に君臨、3番・秋山幸二とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。88年はタイ・バンバークレオが加わり「AKB砲」となり、1989年以降はオレステス・デストラーデに代わって「AKD砲」となる。特に「AKD砲」は当時の監督の森からも重宝されており、後の世代になっても「バントなどの小細工なしにチャンスならば絶対に打たせていた」と言わしめるほど信頼されていた。森は清原の能力と人柄を非常に高く評価しており、西武監督退任時に「清原は年々、野球への考えが進歩してきている」と述べている。森は清原に対してサインらしいサインはなく基本ノーサインだったという。

土井正博は「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところが堤義明オーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人だった」と述べている。松沼博久は「堤オーナーの意向で1年目から清原を使うことになった。森さんも起用法に苦労されたと思いますよ。」と述べている。森が2005年に野球殿堂入りしたときは一番に駆けつけて祝辞を述べ、森がハワイに移住後も付き合いが続いている。日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが、1986年と1988年は優秀選手に、敗戦した1993年と1994年は敢闘賞に選出されている。引退後、西武時代は毎年自らの年度ごとの通算本塁打数を王のそれと比較していたと語った。

清原本人も自分は恵まれすぎていると自認していたが、それだけにジレンマを感じていたこととFAの資格を得て、憧れていた巨人への移籍が可能になったことから、オフにFA宣言。巨人と阪神が獲得に名乗りを上げた。

清原はFA宣言した際に、阪神監督・吉田義男の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」、巨人監督・長嶋茂雄の「僕の胸に飛び込んできなさい」という2つの口説き文句が話題となった。

結果、清原は5年契約で念願の巨人に移籍した。背番号は長嶋が自らの永久欠番3を譲る考えも明らかにしたが、清原は「それは日本中を敵に回す」「(長嶋監督の)3番なんて重すぎて…」と思って丁寧に断り、「5」に決定した(「5」は清原の移籍時にそれまで「5」を付けていた岡崎郁が引退したため、空き番号になっていた)。

ただし、阪神との契約では提示された契約金は阪神の方が3倍近く高く、契約年数も巨人の倍であり、引退後の身の振り方を踏まえ、それを弁護士を通したうえでの契約という完全な好待遇であった。当時阪神で背番号3をつけていた八木裕も、清原が加入する暁には同番号を譲る意思を表明していた。

実際に阪神から提示された条件は「10年契約・合計36億円・監督および球団社長への終身雇用」であり、一方で巨人から提示された条件は当初「2年契約・合計5億円程度」という大きな格差があったという。清原が後に2021年に語った。

また、もし阪神へ移籍する場合、その本拠地となる甲子園球場はライト方向からの浜風が強いことによって清原の得意なセンターからライト方向への打球が押し戻されて不利になることを危惧した。さらに、清原が移籍する際には年俸を前年度の1.5倍となる3億6000万に設定されたが、当時の阪神で最も高年俸である和田豊が1億円程度であったことから、阪神ファンの反感を買うのではないかとも懸念したという。

なお、清原の加入により、巨人の一塁を守っていた当時43歳の落合博満が出場機会を求め日本ハムに移籍した。巨人退団会見にて落合は「清原君と勝負して負けるとは思わないが、(落合と清原の)どちらを使うかで悩む長嶋監督の顔は見たくない」と報道陣に応じた。

2024/05/16 13:02更新

kiyohara kazuhiro


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土井 信子(どい のぶこ)
1931年8月18日 大阪

8月18日生まれwiki情報なし(2024/05/16 12:59時点)

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1935年8月18日 大阪

8月18日生まれwiki情報なし(2024/05/16 12:59時点)

山下 栄一(やました えいいち)
1947年8月18日 大阪

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千野 弘美(せんの ひろみ)
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千野 弘美(せんの ひろみ、1956年8月18日 - )は、日本の女優。本名:原野 弘美。 大阪府出身。夙川学院短期大学中退。東京俳優生活協同組合を経て、テロワール所属。 1973年、日本テレビ…

谷岡 一郎(たにおか いちろう)
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谷岡 一郎(たにおか いちろう、1956年8月18日 - )は、日本の社会学者、学校法人谷岡学園理事長。大阪商業大学学長・総合経営学部教授。社会学博士。大阪府出身。 1956年 大阪府生まれ 19…

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清原 亜希(きよはら あき)
1969年4月14日 福井

亜希(あき、1969年4月14日 - )は、日本のモデル、元アイドル。NLINE所属。本名の名字は非公表、結婚前は旧姓の木村 亜希(きむら あき)の名前で活動していた。清原和博と結婚後は清原 亜希(き…

清原 幸治(きよはら こうじ)
1971年4月15日 大阪

清原 幸治(きよはら こうじ、1971年4月15日 - )は、日本の元アマチュア野球選手(一塁手)。大阪府岸和田市出身。元プロ野球選手・清原和博の実弟。 パンチの効いた打撃を武器に、アマ球界屈指のス…

清原 正博(きよはら まさひろ)
1965年4月30日 大分

清原 正博(きよはら まさひろ、1965年4月30日 - )は、TBSテレビの管理職アナウンサー。 大分県出身。大分県立杵築高等学校、早稲田大学第一文学部美術史学専修 卒業。 1988年4月、T…

清原 啓一(きよはら けいいち)
1927年6月27日 富山

清原 啓一(きよはら けいいち、1927年6月27日 - 2008年10月11日)は、洋画家、日本芸術院会員。 富山県砺波市出身。辻永、新道繁に師事し、1959年日展特選、1994年日展内閣総理大…

清原 雄一(きよはら ゆういち)
1969年5月23日 大分

清原 雄一(きよはら ゆういち、1969年5月23日 - )は、大分県国東郡国東町(現:国東市)出身の元プロ野球選手(投手)。  柳ヶ浦高では1年秋からエースとなり、1987年に夏の選手権にエース…

清原 久美子(きよはら くみこ)
1968年7月30日 石川

清原 久美子(きよはら くみこ、1968年7月30日 - )は、関東地方を拠点に活動している日本のフリーアナウンサー。グランドスラム所属。 石川県出身。1990年にテレビ金沢 (KTK) に入社し…

清原 なつの(きよはら なつの)
1956年8月8日 岐阜

清原 なつの(きよはら なつの、1956年8月8日- )は、日本の女性漫画家。血液型はB型。 1956年、岐阜県に生まれる。中学生のころから作画グループ同人に参加。第8回りぼん新人漫画賞で『チゴイ…

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