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渡辺洪基
渡辺 洪基(わたなべ こうき)さんの誕生日は1848年1月28日です。福井出身の政治家、教育者のようです。
栄典などについてまとめました。現在に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
渡辺 洪基(わたなべ ひろもと / こうき、1848年1月28日〈弘化4年12月23日〉- 1901年〈明治34年〉5月24日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代の日本の医師(軍医)、官僚、政治家。幼名・孝一郎、号は浩堂、旦堂。 越前国武生(福井県武生町 (現在の越前市中心部))生まれ。府立・立教館及び済世館で学んだ後、江戸に出て佐藤舜海、福沢諭吉の蘭学・英学塾(後の慶應義塾、現在の慶應義塾大学)で学ぶ。次いで幕府医学所の句読師となり、戊辰戦争では幕府医学所の弟子を引き連れ、軍医として会津藩に加わる。戦後に米沢英学校及び会津英学校を開いた。 学習院次長、元老院議官、工部少輔、東京府知事、帝国大学(東京大学の前身)初代総長、文官試験局長官、駐オーストリア公使、衆議院議員、貴族院議員を歴任し、興亜会、東京統計協会(日本統計協会の前身の一つ)、国家学会、日本建築学会、工業化学会(日本化学会の前身の一つ)など多数の学会会長を務めたほか、工手学校(工学院大学の前身)、大倉商業学校(東京経済大学の前身)の設立に関わった。 1848年(弘化4年)- 越前府中善光寺通り(現在の越前市)に福井藩士で医者の渡辺静庵の長男として生まれる。母の名は蔦埜(つたの)。 1857年(安政4年)- 府中の「立教館」に入学。(10歳)。のち福井の済世館で学ぶ。 1864年(元治元年)- 18歳で江戸に出て佐倉の佐藤舜海に師事。 1865年(慶応元年)- 福澤諭吉に師事して慶應義塾に入塾。 1867年(慶応2年) - 幕府医学所に派遣され句読師となる。頭取は松本良順。 1872年(明治元年) - 藩校興譲館の洋学校の端緒・米沢英学校及び会津藩に会津英学校を開く。慶應義塾の長島鷲之介・横尾東作らが協力。 1870年(明治3年)- 外務省大録(議長級)として出仕。 1871年(明治4年)- 岩倉使節団に随行(22歳)。 1874年(明治7年)- 一等書記官に昇進。オーストリア臨時代理公使。 1882年(明治15年)- 元老院議官(明治17年(1884年)7月19日まで) 1885年(明治18年)- 東京府知事着任。 1886年(明治19年)- 帝国大学(後の東京帝国大学現東京大学)初代総長(39歳)。 1887年(明治20年)- 工手学校(工学院大学の前身)を築地に設立(40歳)。 1890年(明治23年)- 駐オーストリア特命全権大使 1891年(明治24年)- 芝紅葉館において、慶應義塾の同窓である中沢彦吉、九鬼隆一、加藤政之助、加藤六藏、柏田盛文、犬養毅、井上角五郎、牛場卓蔵、鹿島秀麿、塩路彦右衛門、橋本久太郎らと共に同窓会を行う。 1892年(明治25年)- 両毛鉄道社長(45歳)。品川弥二郎の手引により国民協会創立に参画。第2回衆議院議員総選挙に東京府第2区より出馬し当選。 1895年(明治28年)- 慶應義塾評議員 1897年(明治30年)12月23日 - 貴族院議員に勅選。
1900年(明治33年)- 政商・大倉喜八郎の設立した大倉商業学校の督長(校長)に就任する。 1901年(明治34年)- 死去。享年54。 栄典明治4年1月24日 - 従七位 明治4年12月9日 - 正七位 1873年(明治6年)6月25日 - 従六位 1874年(明治7年)2月18日 - 正六位 1879年(明治12年)12月15日 - 従五位 1882年(明治15年)6月30日 - 従四位 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位 1901年(明治34年)4月16日 - 正三位 1883年(明治16年)4月27日 - 勲三等旭日中綬章 1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1901年(明治34年)4月16日 - 勲一等瑞宝章 1898年(明治31年)7月4日 - イタリア王冠勲章(英語版)グランデ・ウッフィチャーレ(イタリア語版)(イタリア国) 2024/05/17 10:16更新
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