若菜嘉晴の情報 (わかなよしはる) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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若菜嘉晴と関係のある人
堀場秀孝: しかしシーズン中盤には失速し、若菜嘉晴にポジションを奪還された。 竹之内雅史: 1979年、田淵幸一・古沢憲司とのトレードで真弓明信・若菜嘉晴・竹田和史と共に阪神タイガースへ移籍し、開幕から4番打者に座る。 加茂川重治: 初奪三振:同上、8回表に若菜嘉晴から 銚子利夫: しかし1987年には若菜嘉晴と交換する形で背番号9に変更となり、山下大輔が引退となった1988年は開幕からに三塁手、二番打者に定着。 斉藤和巳: 若菜嘉晴はこの年の斉藤を「打たれても粘る、大人のピッチングをできるようになった」と評価した。 楠城徹: 1977年以降は若菜嘉晴の台頭や奥宮種男の加入もあって段々と出番が減り、打力、走力を生かして外野を守ることも少なくなかった。 笠間雄二: 1982年に若菜嘉晴のスキャンダルが発覚した8月以降に正捕手を任され、66試合に先発マスクを被った。 野中徹博: ベンチで若菜嘉晴から「おいおい、まだ現役じゃないか」と言われたほどだった。 和田博実: 太平洋→クラウン二軍監督時代は若菜嘉晴、永射保、山村善則、真弓明信、鈴木治彦を育てた。 竹田和史: しかしチーム内で冷遇されたため、自らトレードを志願し、同年オフに球団が「西武ライオンズ」となり福岡県から埼玉県に移転した直後、田淵幸一・古沢憲司との交換トレードが成立し、真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴と共に阪神タイガースへ移籍した。 岡本哲司: 初出場:1986年6月3日、対広島東洋カープ8回戦(横浜スタジアム)、6回表に若菜嘉晴に代わり捕手として出場 池田親興: 同年10月より若菜嘉晴を迎え入れ、両者でホークスの解説役として出演している。 古沢憲司: 1978年オフに真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史との交換トレードで田淵幸一と共に西武ライオンズへ移籍。 西沢正次: 1976年には楠城徹の故障もあって70試合に先発マスクを被るが、1977年には若菜嘉晴の台頭で出場機会が減る。 永射保: 球団が1979年に福岡県福岡市から埼玉県所沢市に移転して「西武ライオンズ」が誕生、その際に当初は阪神タイガースへ移籍をする話があったが、別の選手(真弓明信、若菜嘉晴ら)が阪神に移籍、永射はライオンズに残る形となった(阪神に移籍の若菜の話によると、阪神の新監督に就任したドン・ブレイザーが機動力のある野手を希望していたため真弓を指名、永射の移籍の話は消滅となった)。 堀場英孝: しかしシーズン中盤には失速し、若菜嘉晴にポジションを奪還された。 米崎薫臣: 初盗塁:1989年8月11日、対日本ハムファイターズ19回戦(東京ドーム)、9回表に二盗(投手:佐藤誠一、捕手:若菜嘉晴) トニー=バナザード: その他、退場にはなっていないが、1988年の対ロッテ戦でライトが荘勝雄から受けた死球を巡って乱闘になった際は、当事者ではないのにもかかわらず、止めに入ってた当時のロッテのトレーナー、河原田明に暴行を働いたり、1989年、東京ドームでの対日本ハム戦では西村基史がウィリー・アップショーへ死球を与え大乱闘となった際にも他所で若菜嘉晴と殴り合いをしていた。 ドン=ブレイザー: この年の阪神はブレイザー自身が敢行した開幕前のクラウンライターライオンズとのいわゆる「世紀のトレード」(田淵幸一、古沢憲司を放出し、真弓明信、若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史を獲得)や、江川事件によって読売ジャイアンツから小林繁を獲得しての戦力アップも要因の一つだが、ブレイザーの手腕による面も大きかった。 武山真吾: 横浜時代の応援歌は2010年5月から若菜嘉晴、中村武志らに使用されていたものが使われていた。 城島健司: 工藤公康・武田一浩の左右エース投手、バッテリーコーチの若菜嘉晴の公私共の支え、ロッテから移籍したベテラン田村藤夫の教えもあり、以後不動の正捕手となった。 江本孟紀: また、クラウンライターライオンズから大型トレードで移籍し、1979年から正捕手を務めた若菜嘉晴と共に絶えず黒い交際を噂されていたが、実際には阪神で選手会長を務めたこともあるほど、選手からの人望があった。 真弓明信: 柳川商業高校では若菜嘉晴と同期だった。 佐野元国: 当初は山倉和博に続く2番手捕手として期待されていたが、4月5日に行われた大洋とのオープン戦(水戸)の5回に本塁上で走者の若菜嘉晴に左脚大腿部をスパイクされ7針の皮下裂創を負い退場し、その12日後の阪神戦で槙原寛己とバッテリーを組んだ際、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布のクリーンナップからバックスクリーンへの3連続本塁打を浴びた。 町田公雄: 若菜嘉晴の前に、背番号39をつけていた選手である。 飯田正男: 初出場:1981年5月13日、対中日ドラゴンズ7回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に若菜嘉晴の代走として出場 福嶋久晃: 1983年からは若菜嘉晴の加入で出場機会が減少し、1984年には一塁での起用が主となる。 山川猛: 西武の前身であるクラウンライターライオンズ最後の正捕手で、1979年から阪神へ移籍していた若菜嘉晴の退団に伴う移籍で、移籍後の背番号は38となった。 加藤博一: 大洋時代のチームメイトであった高木や、加藤が所属した3球団全てでチームメイトだった若菜嘉晴も同じ境遇を味わっている(若菜は引退後、ダイエーのコーチ時代に優勝を初経験している。 鬼頭政一: 2年連続最下位に終わったが、在任中は真弓明信・吉岡悟・鈴木治彦・若菜嘉晴・大田卓司・山村善則を積極的に起用。 |
若菜嘉晴
若菜 嘉晴(わかな よしはる)さんの誕生日は1953年12月5日です。福岡出身の野球選手のようです。
人物、詳細情報などについてまとめました。テレビ、引退に関する情報もありますね。若菜嘉晴の現在の年齢は70歳のようです。
若菜 嘉晴(わかな よしはる、1953年12月5日 - )は、福岡県八女郡羽犬塚町(現・筑後市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。 愛称は「ナッパ」。 小学6年生まで習っていた書道では全国大会で入選し、文部大臣賞を受賞している。柳川商高では、1970年春季九州大会で福岡県予選南部決勝まで進むが、大濠高に敗退。その後も県予選で敗れ、在学中に甲子園に出場することはなかった。柳川商業から阪神時代までチームメートであった真弓明信とは「ナッパ」、「ジョー」と呼び合うなど、親友として知られる。 1971年のドラフト4位で西鉄ライオンズに入団。契約金700万円、年俸168万円。上位3名が拒否したため、同年入団選手では若菜が最上位であった。 1973年にはライオンズは福岡野球が経営する体制となり当時の中村長芳オーナーが所有していた米国1Aのローダイ・ライオンズに野球留学するなど将来を嘱望されるものの、一軍にはなかなか定着できなかった。ローダイ在籍時のチームメイトに、のちヤクルトスワローズでプレーするラリー・ハーローがいた。 1974年には貧血のため1ヵ月ほど入院し、退院後は和田博実二軍監督が彼の青白い顔とやせ細った体を「しょぼくれた菜っぱみたい」と評したことから、「ナッパ」と愛称を付けられる。 1975年の秋には戦力構想から外れかけていたが、巨人とのオープン戦で相手の長嶋茂雄監督が評価したことで契約更新につながったという。 エースの東尾修にはノーサインで投げてもらって組み立ての基礎を学ぶ。 1977年には西沢正次、楠城徹らを抑え捕手の定位置を確保する。同年のオールスターにも初出場し、7月23日の第1戦(平和台)では7回裏に鈴木孝政からソロ本塁打を放つ。同年は規定打席には届かなかったが、打率.292と活躍。 1978年も正捕手として活躍するが、打撃面で低迷。 1979年に田淵幸一・古沢憲司との大型トレードで、真弓・竹之内雅史・竹田和史と共に阪神タイガースへ移籍した。 阪神では、移籍1年目の小林繁とバッテリーを組み、小林とは普段も一緒で「王さんには上げた右ヒザを狙ってスライダーを投げよう」と話したこともあった。強肩の捕手であったが、移籍1年目の同年は1960年の野村克也と日本タイ記録となるシーズン17個のパスボールを喫した。そのうちの14個が江本孟紀の投じたエモボールであり、スパイ対策のためにノーサインで江本の球を受けたことによるものである。 同年はキャリア唯一のダイヤモンドグラブ賞も受賞し、打撃面でも初の規定打席到達で打率.303(リーグ10位)を記録するなど阪神の主力選手となり、オールスター4年連続出場(1979年 - 1982年)も果たす。しかし移籍4年目の1982年には、女優の白川和子との不倫交際が取り沙汰され、首脳陣と衝突して出場機会が減り、オフに自由契約となり退団した。 阪神退団後は渡米し、当時阪神と友好関係にあったメッツ傘下3Aのタイドウォーター・タイズに加入するが、監督を務める元巨人のデービー・ジョンソンから若手育成のためコーチを任され、1983年シーズン途中まで務めた。 1983年シーズン途中に帰国し、6月末に関根潤三監督率いる横浜大洋ホエールズに入団。当時の大洋は辻恭彦、加藤俊夫、福嶋久晃などを併用していたが、それら3捕手の高齢化が進んでおり、さらには辻が骨折で離脱するなどの状況で若返りを図る意味から獲得に踏み切った。3A時代の監督であるジョンソンと関根は巨人時代にコーチと選手として同僚であったことも入団の契機となった。 1985年には自身唯一の全試合出場するなど、近藤貞雄新監督となった横浜大洋でも正捕手として活躍した。同年、3年ぶりの出場となったオールスターでは7月21日の第2戦(川崎)では2回表に佐藤義則から先制2ラン本塁打を放ち、山内一弘に続いて史上2人目の両リーグ本塁打を達成している。 1986年には打率.288(リーグ11位)の好記録を残す。 実用英語技能検定1級を所持し、アメリカでコーチをするなどの語学力を活かして、大洋時代は巨人のレジー・スミスやウォーレン・クロマティをよく挑発していた。スミスに対しては「顔面スレスレのビーンボールを多用する」→「激怒したスミスが若菜に砂を掛ける」→「その報復としてさらにビーンボールが多用される」といった悪循環もあったが、1980年代後半にはクロマティとの駆け引きで有名になり、バッターボックスで口論になっていた。遠藤一彦がクロマティを三振にとってチェンジになる際、遠藤と若菜は2人で頭を人差し指で指し"頭脳の差"というアピールをし、クロマティの怒りを誘っていたが、「犬猿の仲」というわけではなく、OBオールスター戦で若菜とクロマティが同じチームでプレイすることもよくあった。 1987年8月4日の巨人戦(横浜)では、ホームに返球されてきたボールがバウンドして、うまい具合に若菜の左脇に挟まり、そのまま捕球した体勢でランナー・中畑清とクロスプレーとなり、あたかもタッチしたと見せ掛けたプレーで刺殺を取った。この「若菜の空タッチ」はフジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で採り上げられ、曲者の若菜を象徴するプレーである。 同年に古葉竹識新監督が就任して以降は出番が減少。 1988年オフにはついに不満が爆発。公然と球団批判を展開していたという情報があり、今回は首脳陣との衝突にとどまらず、チームメートをも揶揄。 1989年1月5日に謝罪文を提出して一旦決着も、シーズン開幕後、前述の近藤新監督に誘われ、無償トレードで日本ハムファイターズへ移籍した。 近藤監督は若菜を「チャンスに強い打撃。チームの雰囲気をガラっと変えるキャラクター。田村(藤夫)は超一流のキャッチャーだが、年齢の事を差し置いても、若菜は一流のキャッチャー」と評した。 リーグを代表する捕手だった田村藤夫の控え捕手としての在籍だったが、移籍2年目の1990年には首脳陣に「酒井光次郎をモノにしてくれ」と頼まれ、左腕でカーブがいい酒井を大洋時代の新浦壽夫への組み立てを思い出してリードし、酒井は10勝を挙げ、新人王を争った。 1991年シーズン終了後に現役を引退した。 引退と同時に吉本興業とマネジメント契約し、ラジオ関西「ゴールデンナイター」解説者(1992年 - 1996年)として活動。解説業の傍ら、1992年にはボクシングのトレーナー免許を取得し、大阪市淀川区のアポロジムで指導に当たった。 1997年からは福岡ソフトバンクホークスの前身のダイエーホークス一軍バッテリーコーチに就任し、同時に吉本興業とのマネジメント契約とラジオ関西との解説者契約を解消。コーチ時代はロッテを経てFAで加入した田村と共に若手の城島健司を指導し、城島を二人三脚で育てたことで知られる。 なかなか捕手としての技能が向上しない城島を巡って王貞治監督とたびたび衝突し、就任1年目の1997年のオールスター期間中、王から城島のリードや捕球のまずさを叱責され、王は一塁手か三塁手へのコンバートを示唆した。若菜は反論したが、球団に辞任を申し出たこともある。若菜は東京の自宅に戻っていた王に電話を入れたところ、電話に出た王夫人はあえて王と代わらずに「主人から話は聞いています。お仕事に口を挟むようで申し訳ないのですが、今、あなたと主人との板ばさみになって困るのは城島君ではないでしょうか。お電話のことは主人に私からお伝えしておくので、もう一度考えてみてください」と上手くとりなした。王にも若菜が謝罪していると伝え、これにより両者は和解することができ、城島もコンバートせずに捕手として成長していった。事の真相を若菜が夫人から聞かされたのは、ホークスが福岡移転後初優勝した1999年のハワイへの優勝旅行の時だったという。 2年連続リーグ優勝と1999年の日本一を貢献したが、2001年9月30日の近鉄戦(福岡D)前のバッテリーミーティングで、王のシーズン本塁打記録55本に並んでいたタフィ・ローズに対し「近鉄に優勝されるわ、監督の記録は抜かれるわじゃ申し訳が立たない。外国人に抜かれるのは嫌だ。王さんは記録に残らなければならない人。ローズに積極的になるな」と発言したと報道された事が物議を醸した(後述)。なお、ローズはこの日新記録達成のため「1打席でも可能性は多い方がいい」という梨田昌孝監督からの計らいで、この日はいつもの打順である3番ではなく1番スタメンで出場したが、結果的にホークスバッテリーはローズに対して全18球中僅か2球だけしかストライクを投じずまともに勝負をする事は無かった(試合自体は近鉄が12-4で勝利)。この件に関して10月1日にはNPBコミッショナーがフェアプレーを求める異例の声明を発表し、さらに翌2日にはパ・リーグ会長がこの件でホークスに厳重注意処分とした。若菜自身は同年シーズン限りでコーチを退任した。 プロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズに内野手として参加した。 2002年から2007年までをTVQ九州放送野球解説者、2009年からは福岡放送野球解説者となる。また、ホークス球団制作中継(J SPORTS→日テレプラス→FOXスポーツ&エンターテイメント→スポーツライブ+)にも解説を行うほか、FBSの『めんたいワイド』や『バリはやッ!ZIP!』にもコメンテーターとして出演し、2003年よりスポーツニッポン西部本社→東京本社西部総局評論家も務めている。日本ハムOBということもあり、2007年には1年だけSTVラジオ野球解説者も務めた。 2020年10月より池田親興のYouTubeチャンネル「池田親興のちかチャンネル!」に池田の相方役として登場している。 人物上述の通り、2001年9月30日の対近鉄戦にて、王のシーズン本塁打記録55本に並んでいたローズに対して露骨な敬遠策を指示したとされているが、後年のインタビューによると若菜は「ある記者に『個人的な考えとしては、子供たちの目標になるとすれば、どうせ抜くのなら日本人選手がいい』と言ったことがいろんな方向で大きくなっただけ」と述懐しており、加えて「そもそも一コーチが『歩かせろ』なんて指示は出せませんよ。決定権は監督にしかない。あとはバッテリー。結局どういう考えだったのか、あのバッテリーでないとわからないですよ。ただ、雰囲気としてはあったと言えます。周りが何となくわかっていたと思いますよ。気を遣わないほうがおかしいでしょ」と敬遠の指示は明確に否定しつつも、「方向性」の存在は感じたという旨を述べている。また、若菜によれば自身以外にも「満塁でローズだったらどうしたらいい?」と聞くと「それでも勝負しないほうがいい」と言うコーチもいた他、この日先発として登板した田之上慶三郎には最高勝率のタイトルがかかっていたという事もあり、簡単に「打たれる覚悟で勝負しろ」とは言えない状況だったという。 なお、この騒動から約12年後の2013年シーズンに注目された、当時東京ヤクルトスワローズに在籍していたウラディミール・バレンティンのシーズン最多本塁打記録更新の話題に関しては「(記録を)抜いてほしいと思ってるよ。今回は誰も気を遣う場面はないもん。早く王さんの呪縛を取ってもらわないと。もう50年もたってるんだから、破られないほうがおかしいでしょう。どこかで終止符を打たないと、ずっと言われるから」と寛容な姿勢を示していた。その後、バレンティンは2013年9月15日の対阪神タイガース戦(神宮)において日本プロ野球シーズン本塁打新記録となる56号を放ち、見事記録を更新した(最終的には日本プロ野球史上初のシーズン本塁打60本台を記録している)。 詳細情報各年度の太字はリーグ最高 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に球団名を変更 ダイヤモンドグラブ賞:1回 (1979年) 初出場:1974年4月10日、南海ホークス1回戦(大阪スタヂアム)、7回裏に捕手として出場 初安打・初打点:1976年4月17日、ロッテオリオンズ前期4回戦(宮城球場)、8回表に倉持明から 初先発出場:1976年4月25日、近鉄バファローズ前期6回戦(平和台球場)、8番・捕手として先発出場 初本塁打:1976年8月1日、南海ホークス後期3回戦(平和台球場)、8回裏に佐々木宏一郎からソロ 1000試合出場:1986年6月15日、読売ジャイアンツ11回戦(後楽園球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上265人目 1000安打:1990年7月22日、西武ライオンズ17回戦(西武ライオンズ球場)、2回表に石井丈裕から左前安打 年間最多捕逸:1979年=17個 ※1960年の野村克也とタイ記録 1試合5三振:1979年5月29日、横浜大洋ホエールズ6回戦(宮城球場) ※史上初 オールスターゲーム出場:5回(1977年、1979年 - 1982年、1985年)- 山内一弘に続いて史上2人目のセ・パ両リーグ本塁打を記録している。 44 (1972年) 39 (1974年 - 1982年) 9 (1983年途中 - 1986年) 22 (1987年 - 1988年) 99 (1989年 - 1991年) 84 (1997年 - 2001年) 2024/05/25 12:44更新
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wakana yoshiharu
若菜嘉晴と同じ誕生日12月5日生まれ、同じ福岡出身の人
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