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真弓明信の情報 (まゆみあきのぶ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

真弓明信の情報(まゆみあきのぶ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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真弓 明信さんについて調べます

■名前・氏名
真弓 明信
(読み:まゆみ あきのぶ)
■職業
野球選手
■真弓明信の誕生日・生年月日
1953年7月12日 (年齢70歳)
巳年(へび年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
熊本出身

(昭和28年)1953年生まれの人の年齢早見表

真弓明信と同じ1953年生まれの有名人・芸能人

真弓明信と同じ7月12日生まれの有名人・芸能人

真弓明信と同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


真弓明信と関係のある人

渡辺純志: 翌1979年には真弓明信が遊撃手に定着したこともあり、二塁手、三塁手としても起用され、プロ初本塁打を含む2本塁打を放った。


梨田昌孝: 2002年、出場停止1試合(敗戦)は通算成績に含まない(代理監督は真弓明信)。


岡田彰布: オープン戦で本塁打を2本放つ活躍をしたが1980年の先発内野手は、一塁手ヒルトン、二塁手加藤博一、三塁手掛布雅之、遊撃手真弓明信の布陣でスタートした。


田淵幸一: 阪神から田淵・古沢憲司の2人、クラウンから真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史の4人という大型トレードであった。


梨田昌孝: 近鉄は小林繁投手コーチ、真弓明信打撃コーチ(後にヘッド兼打撃コーチ)と梨田の3人を『近鉄男前三人衆』として売り出し、この3人を起用した近鉄百貨店の広告が近鉄沿線の駅ポスターや車内中吊りに掲げられた。


滝内弥瑞生: ライオンズコーチ時代は試合前にノックバットを振るい、基満男・真弓明信らを鍛えて一人前の内野手に育てた。


正田耕三: 当時の近鉄は梨田昌孝監督・小林繁一軍投手コーチ・真弓明信一軍打撃コーチが「男前首脳陣三人衆」として売り出されていたが、ちゃっかり正田がその三人衆に紛れて写真撮影などをされていたことが、「勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー」などでネタとして取り上げられていた。


梨田昌孝: 2011年10月16日時点で、阪神タイガースが真弓明信監督の退任とともに次期監督候補として梨田の名をリストアップしたが、結局、球団は一軍打撃コーチを務めていた和田豊の昇格を決定し、梨田の招聘は見送られた。


平野恵一: 2010年は真弓明信監督の指示で再び内野手登録となる。


広瀬宰: 1978年には真弓明信にポジションを奪われる。


御子柴進: ベンチに入っていた9月13日のヤクルト戦(甲子園)では、4回裏に真弓明信が適時打で出塁したことを受けて、中村勝広監督から真弓の代走に起用。


竹田和史: しかしチーム内で冷遇されたため、自らトレードを志願し、同年オフに球団が「西武ライオンズ」となり福岡県から埼玉県に移転した直後、田淵幸一・古沢憲司との交換トレードが成立し、真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴と共に阪神タイガースへ移籍した。


原辰徳: なお、同じ社宅には真弓明信も住んでいた。


日野茂: 太平洋→クラウン時代には真弓明信を育て、西武一軍コーチ時代は練習でも試合でも、常に選手の先頭に立って大声を張り上げて引っ張っていき、二軍監督時代は岡田悦哉前監督から引き継いだチームをイースタン・リーグ3連覇(1985年)に導く。


松中信彦: 一塁手で3回、指名打者で1回同賞を受賞しており、異なる3ポジションでの受賞は真弓明信、落合博満以来3人目。


伊藤史隆: 本人が2022年(神戸新開地・喜楽館支配人への就任前)に「神戸新開地・喜楽館 プロ野球応援ウイーク」の記者会見で明かしたところによれば、松村邦洋(芸能界屈指の阪神ファン)にとって十八番の一つである「岡田節」(岡田彰布が朝日放送の阪神戦中継で解説した際の口調や口癖を誇張しながら声帯模写で再現する芸)の一部(2008年までの阪神監督時代に指導していた桧山進次郎を「ヒー」、葛城育郎を「ラギ」、アーロム・バルディリスを「バル」、高橋光信を「ミツ」と連呼するネタ)は、阪神の一軍監督が岡田から真弓明信に代わった2009年に、自身が実況・岡田が解説を担当していたテレビ中継で阪神の攻撃中に展開されたやり取りに基づいているという。


永射保: 球団が1979年に福岡県福岡市から埼玉県所沢市に移転して「西武ライオンズ」が誕生、その際に当初は阪神タイガースへ移籍をする話があったが、別の選手(真弓明信、若菜嘉晴ら)が阪神に移籍、永射はライオンズに残る形となった(阪神に移籍の若菜の話によると、阪神の新監督に就任したドン・ブレイザーが機動力のある野手を希望していたため真弓を指名、永射の移籍の話は消滅となった)。


レオ=ドローチャー: 当時、太平洋クラブの選手だった真弓明信が2012年に「ドローチャーの時は最高やったね。


南牟礼豊蔵: 1994年には外野守備に不安がある石嶺和彦の補佐として重用され、打撃面でも勝負強さから真弓明信、長嶋清幸、米崎薫臣とともに代打四人衆として活躍した。


岡田彰布: 岡田が離脱した二塁手に遊撃手だった真弓明信が入り、空いた遊撃手は平田勝男が入った。


三木たかし: 真弓明信


金本知憲: 同年4月14日の対巨人戦で犠牲フライを本塁に返球できなかったり、17日の対横浜戦では二塁走者の生還を2度許すなど満足な送球ができず、打撃でも打率.167と不振であったため、翌18日の試合前に真弓明信監督に「これ以上出てもチームに迷惑をかける」と自ら申し出てスタメンから外れ、左翼守備を葛城育郎に譲った。


ドン=ブレイザー: この年の阪神はブレイザー自身が敢行した開幕前のクラウンライターライオンズとのいわゆる「世紀のトレード」(田淵幸一、古沢憲司を放出し、真弓明信、若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史を獲得)や、江川事件によって読売ジャイアンツから小林繁を獲得しての戦力アップも要因の一つだが、ブレイザーの手腕による面も大きかった。


遠藤一彦: 1000奪三振:1985年5月16日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に真弓明信から ※史上70人目


糸井嘉男: 小学3年生の夏休みに家族で初めて甲子園球場に向かい、真弓明信がアーチを架けたのを見たのがプロ野球選手になりたいと思った理由の一つという。


若菜嘉晴: 柳川商業から阪神時代までチームメートであった真弓明信とは「ナッパ」、「ジョー」と呼び合うなど、親友として知られる。


長崎慶一: 8月1日の中日戦(甲子園)には前日の試合でランディ・バースが自打球を当て骨折したため、一塁手としてスタメン出場を果たすが、一塁守備にぎこちなさを感じた首脳陣は、翌2日から真弓明信を一塁に回した。


根本陸夫: 中日ではトラブルメーカーであったウィリー・デービスも3番打者として機能し、真弓明信も初めて1番打者としてレギュラーとなり、前年の外野から本職の遊撃に戻って本領を発揮する。


福田功: その後は同級生の真弓明信監督の招聘で阪神タイガース球団本部編成部課長(2010年 - 2011年)を務め、星野の招聘で東北楽天ゴールデンイーグルスではチーム統括本部運営部長(2012年)→チーム統括本部スカウト部副部長兼プロスカウトグループマネージャー(2013年)→チーム統括本部スカウト&ディベロップメント部副部長(2014年 - 2019年) を歴任。


曽田康二: 初奪三振:同上、8回表に真弓明信から


真弓明信の情報まとめ

もしもしロボ

真弓 明信(まゆみ あきのぶ)さんの誕生日は1953年7月12日です。熊本出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

選手としての特徴、監督としての特徴などについてまとめました。結婚、テレビ、引退、事件、現在に関する情報もありますね。真弓明信の現在の年齢は70歳のようです。

真弓明信のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

真弓 明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日 - )は、福岡県大牟田市出身(熊本県玉名郡南関町生まれ)の元プロ野球選手(外野手、内野手)、野球解説者・野球評論家、タレント。2009年から2011年まで阪神タイガース第31代監督を務めた。

熊本県玉名郡南関町生まれだが、小学3年生の時に福岡県大牟田市へ転居。小学6年生の時に、同じ社宅に暮らす原貢(後に読売ジャイアンツに入団する原辰徳の父)が監督を務める三池工業高校が夏の甲子園で優勝し、その優勝パレードに感動したことがきっかけで野球選手を志すようになった。

歴木中学校進学後に本格的に野球を始めるが、野球部以外の運動部も掛け持ちで参加していた。特に、陸上部では三段跳で11 m 99 cmを記録し、大会で2位に入賞したことがある。

柳川商業高校では若菜嘉晴と同期だった。若菜は、中学校時代に地元のライバル校だった羽犬塚中学校に在籍しており、地区大会の準決勝で対戦したこともあった。高校では1年次からベンチ入りし、2年次からは遊撃手、三塁手としてレギュラーを獲得。チーム自体は「九州一の強豪」という評価を受け、1970年春季九州大会では福岡県予選南部決勝まで進むが、大濠高に敗退。その後も県予選で敗れ、在学中に甲子園に出場することはなかった。

若菜は高卒で地元の福岡に本拠地を置く西鉄ライオンズに入団し、真弓は社会人野球の電電九州に進んだ。電電九州では、正遊撃手およびその控え選手の故障で、1年目から遊撃手のスタメンを得ることとなり、第43回都市対抗野球大会でベスト8となり日本産業対抗野球大会にも出場した。それらの活躍もあり、1972年のドラフト会議で西日本鉄道から球団を引き継いだ太平洋クラブライオンズに3位指名されプロ入りし、1年前に入団した若菜と再び同僚になった。背番号は2。担当スカウトは武末悉昌。

1973年5月5日の対日拓ホームフライヤーズ戦(平和台野球場)で、9回表に遊撃手の守備固めとしてプロ初出場。守備機会はなかった。5月15日の対阪急ブレーブス戦でも9回裏から遊撃手の守備固めとして出場するも、2つのエラー(記録上は、1つは内野安打)を喫し、翌日二軍落ちする。同年7月よりおよそ3か月間、アメリカの1A・ローダイ・ライオンズに留学する。このアメリカ留学で、当時日本ではそれほど行われていなかったウエイトトレーニングを練習に加えるようになった。

1974年から背番号が42に変更される。本人は、スポーツ新聞の記事でこのことを知った。同年は、23試合に出場しプロ初安打を放った。

1975年に当時の監督江藤愼一から打撃の才能を見い出され、一軍定着を果たす。同年にはプロ初本塁打・初打点を挙げている。フロントはキャンプでの成果によっては解雇するつもりだったとされるが、それを聞いた江藤が「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と球団に抗議して残留となった。

1977年に、福本豊の使うタイプのバット(いわゆるタイ・カッブ式)を使用するようになる。同年は主に中堅手として70試合に先発出場を果たす。同年のシーズン後に結婚。後に、3人の娘を授かっている。

1978年には、5月から一番打者、遊撃手に定着、初の規定打席(リーグ18位、打率.280)に到達する。同年は、オールスターゲームに初選出され、遊撃手のベストナインにも選ばれた。

1978年オフに田淵幸一、古沢憲司との「世紀のトレード」で若菜、竹之内雅史、竹田和史とともに阪神に移籍することになる(実際には田淵と真弓、若菜、竹田との1対3のトレード、古沢と竹之内の1対1との2つのトレードがまとまった形となって、真弓もそのように語っていた)。本人は球団が国土計画に売却され、本拠地が福岡県から埼玉県所沢市に移ることから引っ越しの準備中だった。当初、阪神へのトレードは真弓ではなく永射保で話が進んでおり、真弓は西武へ行く若手選手を集めた秋季練習にも参加していたが、阪神の新監督に就任したドン・ブレイザーが機動力のある野手を望んだため、永射ではなく真弓になったという。トレードはテレビのインタビューで初めて知り、「セ・リーグだったら名前も売れるだろうな」と思ったという。後に球団から正式にトレードを通告された時は、思わず「ありがとうございます」と言ってしまった程嬉しかったと後年振り返っている。阪神移籍する前の太平洋時代に同僚に誘われ、後楽園球場の巨人対阪神戦を観戦していたことがあり、満員のファンの前でプレーをしてみたいと感じたことがあったという。移籍後の背番号は7となった。

移籍1年目の1979年から、1番・遊撃手として定着。長打力のある1番打者として移籍後も変わらぬ活躍を見せ、同年5月20日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)ではサイクル安打を達成する。この試合では、自身2本目の初回先頭打者本塁打を放っている。同年は125試合に出場し、自身初の二桁本塁打となる13本塁打を放った。

1980年は、中西太打撃コーチ(同シーズン途中から監督代行)の指導により、飛距離の出やすい細く軽いバットを使用するようになり、1番打者ながらセ・リーグ5位タイの29本塁打を放った。10月12日には、対中日戦ダブルヘッダー(ナゴヤ)で、ダブルヘッダー2試合連続初回先頭打者本塁打を達成する。

1981年は、故障の影響もあり前年よりは成績が落ちたものの、翌1982年には全130試合に出場。同年は打率.293で、初の打撃ベストテン入り(10位)を果たした。

1983年には岡田彰布の故障で7月12日対巨人戦から二塁手に転向し、若松勉に競り勝ち打率.353で首位打者を獲得。二塁手のベストナインにも選出される。残り10試合になった際に、首位打者のタイトルのために安藤統男監督から欠場を勧められるが、これを断固拒否し試合に出場した。

1984年も岡田が一時外野手にコンバートされたことにより、そのまま二塁手のレギュラーを務めた。同年、通算1000試合出場と通算1000安打を達成している。

1985年にこの年就任した吉田義男監督の指示で岡田と入れ替わる形で外野手(主に右翼手)に転向した。真弓はライオンズ時代の1977年は主に外野手で出場していたので経験済みのポジションであった。外野手はライバルが大型選手や外国人選手であることが多く、意識して長打を狙うようになったと後年振り返っている。同年6月9日の対横浜大洋ホエールズ戦(札幌円山球場)でセカンドランナーだった真弓は元同僚である若菜と本塁で交錯し、左肋骨不全骨折で1か月弱戦線を離脱するものの、1番打者として、打率.322(リーグ5位)、自己最多の34本塁打、84打点の好成績でリーグ優勝に貢献、外野手のベストナインにも選出された(この受賞で、クラウン時代と合わせて、3つのポジションでベストナインを受賞した。3ポジションでのベストナイン受賞は落合博満に続き史上2人目であった)。日本シリーズでは奇しくも古巣ライオンズとの対戦になり、元同僚の東尾との対戦もしていた。シリーズでもペナントレースの勢いをそのままに打率.360、2本塁打と活躍、2リーグ分裂後初めての日本一に貢献をして優秀選手賞にも選ばれた。

1986年は、7月6日の対巨人戦(甲子園)で、水野雄仁から自身2回目の5試合連続本塁打を記録。同本塁打は、阪神球団通算4500本目の本塁打であった。同年は、2年連続の打率3割を記録、本塁打も28本放った。このシーズンの掛布雅之故障離脱中は真弓が三塁手に回っている。

1987年は、10月13日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮球場)で、荒木大輔から通算41本目(セ・リーグでは38本目)の初回先頭打者本塁打を記録。同記録は歴代2位で、セ・リーグのみの記録としてはリーグ最多である。

1988年は、自身2度目の全試合出場を果たす。また同年には、個人事務所として「有限会社オフィス眞弓」を設立している。

1989年7月23日の対巨人戦(甲子園)で、桑田真澄から本塁打を放ち通算250本塁打を達成するも、12年間続けていた100試合出場が途切れる。

1989年シーズン限りで、真弓より2歳年上の 佐野仙好が引退してチーム最年長選手となり、翌1990年シーズン限りで真弓より3歳年下だが、阪神入りは4年早い工藤一彦が引退したことで、真弓が1979年に阪神に移籍した時点で阪神に在籍していた選手が誰もいなくなり、移籍選手であるにもかかわらず、1995年の引退まで真弓がチーム在籍最古参選手となった。

1992年以降は、新庄剛志・亀山努・久慈照嘉らの台頭で代打中心の出場となった。同年には、代打満塁本塁打を放つなど活躍し、阪神で唯一のファン投票でのオールスター出場を果たす。また、通算3000塁打も達成している。

1994年には代打の切り札として、代打逆転満塁本塁打を放つなど活躍。代打で17安打・30打点と勝負強さを発揮した。同年の代打30打点は日本記録である。

1995年のシーズンでは、阪神・淡路大震災で満足な自主トレーニングができず、急ピッチな調整の結果足の肉離れを発症し阪神移籍後としては初めて開幕を二軍で迎えた。怪我や調整失敗の影響からかバッティングが不振を極めた。その結果二軍落ちも度々経験し、8月頭には再び足の肉離れで3度目の二軍落ち、そしてシーズン終盤フロントと話し合い、球団は引退試合やセレモニーも用意して引退を勧めたが、真弓はこれを固辞して現役にこだわった。交渉は決裂し、他に獲得の意思を示した球団もなかったため、そのまま現役を引退した。この年のシーズン開幕前の阪神・淡路大震災の影響で自宅には被害がなかったが甲子園・鳴尾浜球場までの移動が困難になったため、原付バイクで通い、若手選手に交じって選手寮虎風荘に寝泊まりしていたことがあった。

現役引退後は朝日放送・サンテレビの野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めた。

2000年に大阪近鉄バファローズの一軍打撃コーチに就任。背番号は75。当時、監督の梨田昌孝、投手コーチの小林繁とともに「男前首脳陣」として話題となり、3名で洋菓子メーカーモロゾフのホワイトデーイメージキャラクターにも起用された。

2002年から一軍ヘッドコーチとなる。同年8月16日の対西武戦(西武ドーム)では、前の試合で退場処分を受けて出場停止だった梨田に代わって監督代行を務めた。2回途中で西武先発の松坂大輔をノックアウトし、この回の終了時点で近鉄が9-0とリードしていたが、近鉄先発のジェレミー・パウエルが突然崩れ、4回終了時点で9-10と逆転を許す。7回表に吉岡雄二が同点本塁打を放つものの、その裏に松井稼頭央の2点本塁打で勝ち越され、そのまま10-12で敗れた。9点以上の差を逆転されての敗戦は史上7度目のことであった。

2004年に近鉄とオリックス・ブルーウェーブの合併に伴ってヘッドコーチを退任し、翌2005年から前述の解説に復帰した。また、一時期洋服の青山のイメージキャラクターを務めており、降板後もチラシのモデルで登場している。朝日オートセンターのCMには長く出ていて、同社でイベントがあるときは、解説者時代にもゲストとして呼ばれることがあった。

2007年夏、梨田が北海道日本ハムファイターズから監督就任を要請された際、すぐに真弓にヘッドコーチを打診。だが、真弓は親族の世話をみることを理由に断った。

2008年に阪神がリーグ優勝を逃した責任を取って監督を辞任した岡田彰布の後任として、10月23日に阪神の監督就任を球団から要請され受諾。10月27日に正式に就任が発表された。就任時の会見で「投手を含めた、センターラインもそうだが、守りが重要。守れるチームが強い、日本一を狙えるチーム」と語った。背番号は本人の希望から太平洋入団時の2と阪神時代の7を合わせた72となり、秋季キャンプからチームの指揮に当たった。キャンプ視察などもありこの年のドラフト会議は12球団の監督の中で唯一欠席した。

就任1年目の2009年に、盤石のリリーフ陣「JFK」の一角として活躍した久保田智之の先発転向、新井貴浩の一塁からのコンバート、今岡誠のファーストコンバート、新外国人ケビン・メンチの右翼手固定を行ったが、成績は上向かず、自身の誕生日でもある7月12日に自力優勝の可能性がなくなった。しかし、打線ではシーズン途中に入団したクレイグ・ブラゼルの活躍、鳥谷敬と新井の後半戦での復調、投手陣は入団以降伸び悩みが続いていた能見篤史をエースとして一本立ちさせた好材料もあり、8カード連続で勝ち越すなど順調に勝ち星を重ね、ヤクルトの失速もあり猛烈な3位争いを繰り広げた。しかし結局、10月9日の最終戦でヤクルトに敗れ4位となり、クライマックスシリーズ出場はならなかった。

2010年はシアトル・マリナーズから城島健司、新外国人選手としてマット・マートン、ランディ・メッセンジャーらが加入しチームの底上げを図った。野手では一塁手に前年途中入団したクレイグ・ブラゼル、二塁手には関本賢太郎とのレギュラー争いを制した平野恵一、三塁手には新井貴浩を起用し、マートンは右翼手で金本は引き続き左翼手として起用した。このため野手の布陣で生え抜きのレギュラーは遊撃手の鳥谷のみとなり外様で大きく固められた打線となった。金本は右肩の故障で連続フルイニング出場が途切れることにはなったが、その代役として4番を新井に据えたが前年とは比較にならないほど打線が好調で、1リーグ時代を除けば球団最高のチーム打率となる.2895、3割打者5人、90打点以上5人(うち100打点以上3人)、チーム安打は1458を記録して60年ぶりにセ・リーグ記録を更新した。オールスター前は首位で折り返したが、8月・9月と2か月連続で負け越し、特にナゴヤドームでは2勝10敗と大きく負け越したことが響き、5年ぶりの優勝は逃した。シーズン終了時点では3位だったが2位の巨人が最終戦で敗れたことでペナントレースは2位に繰り上がってCS初の甲子園での開催権を獲得した。その2年ぶりのCSでは3位・巨人と対戦したが2連敗で敗退した。

2011年から新たに2年契約を結んだが、このシーズンは打線に前年ほどの好調さはなく、6月には最下位に沈むこともあった。同月に開かれた親会社阪神電気鉄道の株主総会では株主から真弓の選手起用や続投に苦言が呈される一幕もあった。その後、一時は2位まで順位を上げたものの失速し、3位争いをすることとなった。9月には、順位に関係なく来季続投との報道がなされ、一部では続投要請が出されたとも書かれたが、坂井信也オーナーは続投が既定路線であるとも述べつつも、要請自体については否定した。しかしながら、続投への反発がファンから沸き起こり、9月末の試合では応援メガホンがスタンドから投げ込まれ、10月には観戦に来ていた坂井オーナーにファンが野次を飛ばすこともあった。チームも4位に沈み、巨人とのクライマックスシリーズ出場権争いを行っていたが成績は上向かず、10月中頃に前月の報道を覆して、成績によって解任するとの報道がなされた。10月16日にレギュラーシーズン4位以下が確定して2年ぶりのBクラスとなり、同日、クライマックスシリーズに駒を進めることができなかった責任を取るとして監督を辞任することが球団から発表された。シーズン最終戦まで指揮を執り、最終的なチーム打率は.255でリーグ1位、防御率は3位だった。カード別勝敗では優勝の中日に9勝13敗と負け越したものの、ヤクルトに14勝10敗、横浜に12勝10敗2分け、巨人とは11勝11敗2分け、広島にも12勝12敗と、数字上は中日以外とは互角、もしくは勝ち越している。しかし、最大連勝はわずか「4」と、ここぞという勝負時に勝てない試合がシーズンを通して続いた。25日の辞任会見ではBクラスに終わった理由を「監督としての力がなかった」と語った。阪神OBの江夏豊は「通算勝率は5割を上回っており、決して悪い監督ではない」とフォローする一方で、采配については問題があったと指摘している。

2012年からは再び朝日放送・サンテレビの野球解説者、日刊スポーツの野球評論家を務める。

選手としての特徴

初球を打って本塁打・長打になることが多かった。初回先頭打者本塁打を通算41本打っており、福本豊に次ぐ歴代2位の記録を持っている。そのため、福本と共に「史上最強の1番打者」として名前を挙げられることも多い。堅守・俊足の選手でもあり、3つの異なるポジション(遊撃手・二塁手・外野手)でベストナインを受賞している。また、ライトゴロも記録している。三塁手や一塁手の守備経験もあることから、ユーティリティプレイヤーの素質も兼ね備え、走塁面でもシーズン34盗塁を記録したこともある。

プロ入り当初は主に守備固めとして、全盛期は中軸打者、後年は代打の切り札と様々な出場条件にもかかわらず、その全てで結果を出せる実力と人気を兼ね備えた選手であった。しかし怪我もやや多く、ライオンズ時代の1978年から11年連続規定打席に達していたが、欠場が一桁にとどまったシーズンは4シーズンだった。

1982年のシーズン中、11連勝から一転8連敗を喫し(6月から7月にかけての時期だった)、チーム全体が重苦しい雰囲気で悪循環に陥っていた時に、移動バスの中で加藤博一とともに突然「馬鹿騒ぎ」をし、コーチが2人に謝りながら鉄拳制裁を行い、その光景が面白かったためにチームの雰囲気が一変、ようやく連敗から脱出できたというエピソードを、著書『ジョーの野球讃歌』で語っている。また、同年の8月31日には刑事事件にまで発展した横浜スタジアム審判集団暴行事件が起きて、当時コーチだった島野育夫と柴田猛が打席に入っていた藤田平の三塁方向への飛球から大洋の石橋貢の守備(フェアゾーンで捕球態勢に入っていた石橋が捕れずにファウルゾーンに転がったが、三塁の塁審だった鷲谷亘が石橋のグラブに当たっていないとファールの判定していた場面)を巡って抗議をして、後に鷲谷と岡田功らへの暴力行為によって退場となり、その時に島野と柴田以外のほとんどの選手までもが集団で審判員に取り囲んだりしていたが、それを止めに入っていた選手は真弓だけだったという。

ヒッティングマーチ(応援歌)の原曲は「ミッキーマウス・マーチ」で、代打の時は、1度しかない打席でファンがヒッティングマーチで楽しんでほしいという意図から、真弓はコールされてから打席に入るまでの時間を遅くし、初球にも手を出さなかった。1980年代後半頃は、真弓の打席で外野スタンドのファンがこの曲に合わせて「真弓、真弓、ホームラン」と歌いながら1列になって左右に移動する光景が見られた。この動きは真弓ダンスと呼ばれたが、このダンスで甲子園の外野スタンド自体がわずかながら揺れていることが明らかになり、スタンドが老朽化していた(耐震補強工事は阪神淡路大震災の後に行われた)こともあってこのダンスは自粛されることになった。現在では、タイガースが勝利した後、阪神高速の高架下にファンが集まって、真弓ダンスをするのが恒例となっている。なお、同時期に中日ドラゴンズに在籍したケン・モッカの応援歌にもこの曲が使用されていた。

監督としての特徴

2010年9月9日の中日ドラゴンズ戦では延長10回裏にクレイグ・ブラゼルの退場処分が下されたが、野手を使い切っていたために交代要員不在という事態となり、投手の西村憲を外野手として起用。試合は引き分けに終わっている。 2011年9月23日にも上記と酷似した状況で、西村が代走で出場している。 投手采配は投手コーチの久保康生(高校の5年後輩)に任せていた。

2024/06/14 06:43更新

mayumi akinobu


真弓明信と同じ誕生日7月12日生まれ、同じ熊本出身の人

吉本 由美(よしもと ゆみ)
1948年7月12日生まれの有名人 熊本出身

7月12日生まれwiki情報なし(2024/06/07 21:57時点)

井上 真二(いのうえ しんじ)
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1983年7月12日生まれの有名人 熊本出身

松本 野々歩(まつもと ののほ、1983年7月12日 - )は、日本の歌手。熊本県生まれ、東京都出身。 世界のわらべ音楽を親子と届けるユニット「チリンとドロン」や、「あそび」を通して様々な表現を考え…

岩崎 陽子(いわさき ようこ)
1966年7月12日生まれの有名人 熊本出身

岩崎 陽子(いわさき ようこ、1966年7月12日 - )は、日本の漫画家。熊本県上益城郡出身。かに座で、血液型はA型。好きなものはオカルト・酒・和風など。 作者サイトによると、1987年、『プリ…


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真弓明信と近い名前の人

浅野 真弓_(アーチェリー選手)(あさの まゆみ)
1976年6月27日生まれの有名人 佐賀出身

浅野 真弓(あさの まゆみ、1976年6月27日 - )は、佐賀県出身の女性アーチェリー選手。2000年シドニーオリンピックアーチェリー個人日本代表。 2005年世界選手権で女子個人6位、2006年…

吉田 真弓_(女優)(よしだ まゆみ)
1965年7月17日生まれの有名人 千葉出身

吉田 真弓(よしだ まゆみ、1965年7月17日 - )は、日本の元女優。本名、竹田 真弓(旧姓の本名は芸名と同じ)。 千葉県出身。ジャパンアクションクラブに所属していた。 ジャパンアクションク…

吉田 真弓_(声優)(よしだ まゆみ)
1982年8月26日生まれの有名人 神奈川出身

吉田 真弓(よしだ まゆみ、1982年8月26日 - )は、日本の女性声優。アイムエンタープライズ所属。神奈川県出身。 日本ナレーション演技研究所・劇団ヴォアレーヴ出身。日本ナレーション演技研究所…

真弓 倫子(まゆみ ともこ)
1971年6月27日生まれの有名人 鹿児島出身

真弓 倫子(まゆみ ともこ、1971年6月27日 - )は、日本の元女優、歌手、タレント。鹿児島県出身。エムティ企画に所属していた。 堀越高等学校卒業。 原宿で街頭スカウトされて、芸能界入り。 …

小野 真弓(おの まゆみ)
1981年3月12日生まれの有名人 千葉出身

小野 真弓(おの まゆみ、1981年3月12日 - )は、日本の女優・タレント・グラビアアイドル・歌手である。千葉県流山市出身。血液型はO型。サンミュージックプロダクション所属。十文字学園女子大学短期…

梶原 真弓(かじわら まゆみ)
1967年2月12日生まれの有名人 埼玉出身

梶原 真弓(かじわら まゆみ、1967年2月12日 - )は、日本の女優、タレント、声優である。埼玉県戸田市出身。オスカープロモーション所属。 浦和実業学園高等学校卒業。 1985年(昭和60年…

伊勢 真弓(いせ まゆみ)
1984年11月10日生まれの有名人 広島出身

伊勢 真弓(いせ まゆみ、1984年11月10日 - )は、広島県出身の元レースクイーン、イベントコンパニオンである。 2009年4月末でスタイルコーポレーションを退所。その後結婚し、現在は一時の母…

吉野 真弓(よしの まゆみ)
1971年2月20日生まれの有名人 東京出身

吉野 真弓(よしの まゆみ、1971年2月20日 - )は、日本の女優。東京都出身。旧芸名:木内まさこ。 中学生だった1984年に、5代目ユニチカマスコットガールに選ばれる。高校卒業後の1989年…

三浦 真弓(みうら まゆみ)
1950年2月13日生まれの有名人 岩手出身

三浦 真弓(みうら まゆみ、1950年2月13日 - )は、日本の女優。本名同じ。 岩手県下閉伊郡岩泉町出身。貞静学園高等学校卒業。文学座、フリーを経て、リューカンパニーに所属していた。 妹は、…

本多 真弓(ほんだ まゆみ)
6月20日生まれの有名人 東京出身

本多 真弓(ほんだ まゆみ、1973年6月20日 - )は、日本の女優、声優、演劇プロデューサー。 桐朋学園短期大学芸術学部演劇学科卒業。劇団青年座研究所卒業。 2001年、本多真弓が演劇ユニット…

新山 真弓(にいやま まゆみ)
1953年10月18日生まれの有名人 東京出身

新山 真弓(にいやま まゆみ、1953年10月18日 - )は、日本の元女優。本名同じ。旧芸名、笛 真弓。 東京都出身。東洋女子高等学校卒業。オフィス82に所属していた。 1970年代初頭よりテ…

田中 真弓(たなか まゆみ)
1955年1月15日生まれの有名人 東京出身

田中 真弓(たなか まゆみ、1955年〈昭和30年〉1月15日 - )は、日本の声優、女優、ナレーター。日本芸術専門学校特別講師。本名:阿部 真弓(あべ まゆみ)。東京都渋谷区代々木上原、杉並区浜田山…

浅野 真弓(あさの まゆみ)
1957年1月21日生まれの有名人 東京出身

浅野 真弓(あさの まゆみ、1957年〈昭和32年〉1月21日 - )は、日本の元女優。東京都出身。身長162cm。本名は柳 淳子(やなぎ じゅんこ、旧姓は島田)。旧芸名は島田 淳子(当時の本名)、浅…

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