関口清治の情報(せきぐちせいじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
関口 清治さんについて調べます
■名前・氏名 |
関口清治と関係のある人
今久留主功: 関口清治、荒巻淳、西本幸雄、兄・淳と、後にプロ野球で活躍する選手と共に都市対抗野球にも出場し、全国制覇に貢献した。 大里昂生: 恩師関口清治監督の母校である東北福祉大学に進学。 水原茂: しかしその裏西鉄の代打小淵泰輔の三塁線への打球を二出川延明塁審がフェアと判定したことに水原・三塁手長嶋茂雄がファウルだと抗議、結局判定は覆らずその後関口清治がセンターにタイムリーヒットを放って同点、延長10回に稲尾和久のサヨナラ本塁打(シリーズ史上初)で試合を落とした。 藤田元司: この年の第5戦では、1点差に迫られながらもあとアウト一つで日本一に輝く場面で二死三塁のピンチを迎え、シリーズ全体で不振だった関口清治の胸元へシュートを投げ込んだところ同点適時打となり、最終的に稲尾が本塁打を放って逆転負けを喫する(西鉄はそのまま逆転優勝を果たす)。 大下弘: 1955年は辛うじて三割をキープ(.301〔リーグ6位〕)するが、12本塁打、63打点は中西太・豊田泰光・関口清治・高倉照幸ら他の若手主力打者に劣る成績に終わる。 田村満: 4番大下弘の適時打を挟んで、5番関口清治、6番河野昭修、代打に送られた7番松井清にも再び3連続四球を与えた。 荒巻淳: 1961年オフに星野組のチームメイトで前大毎監督であった西本が阪急のコーチに就任すると、同じくチームメイトであった西鉄の関口清治と共に阪急へ移籍。 田部輝男: 翌1951年、西鉄クリッパースとの合併で西鉄ライオンズ創設時にも永利勇吉、関口清治とクリーンナップを組み、後半戦は欠場したが前半戦は4番を張った。 岩下光一: 東映は6回表無死に阪急先発の秋本祐作からスイッチした2番手の足立から岩下が左翼への本塁打で同点、西園寺昭夫の適時二塁打でまたまた逆転と慌ただしく、その裏から2番手の富永格郎へとスイッチし逃げ込みを図ったが、7回裏二死二塁から杉山光平の適時二塁打でまた追いつかれ、関口清治の適時二塁打で勝ち越された。 寺田陽介: 上記の落球事件が有名であるが、1956年8月14日の西鉄戦では、逆に寺田が打ち上げた凡フライを西鉄の関口清治が落球し、逆転打となった経験もある。 小淵泰輔: この二塁打と、このシリーズでは絶不調だった関口清治が意地で放ったセンター前へのタイムリーヒットでチームは同点に追いつき、10回裏の稲尾和久のサヨナラホームランで勝利、奇跡の逆転日本一につながる。 山本一義: 近鉄は当初翌年のコーチ留任を前提としていたため、カレンダーには、このオフに西本の後任として監督に昇格したばかりの関口清治を囲む山本他一軍首脳陣の写真を掲載していたが、山本のロッテ監督就任要請を受けて「ごく最近ですがロッテから話がありました。 戸倉勝城: ^ 西鉄ライオンズから加入した関口清治外野手が、移籍前からの27番を着用するために変更。 永利勇吉: 同年は開幕から5番・左翼手を務めたが、シーズン途中に関口清治と守備位置を交換し、3番・右翼手に定着した。シーズン終了後、西日本の解散に伴い、西鉄ライオンズへ移籍したが、西鉄では深見安博、関口清治、塚本悦郎らとの競争で準レギュラーに留まり、1955年に引退した。 豊田泰光: 一死三塁となったが、期待のかかった4番の中西がサードゴロに倒れ、二死となって5番の関口清治の場面では、豊田は「どんな神様でもいいです。 高倉照幸: 1957年からは1番打者に定着し、豊田泰光・中西太・大下弘・関口清治らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれた。 花井悠: 当時の西鉄の外野陣には関口清治、高倉照幸、玉造陽二が揃っており、なかなかレギュラーには届かなかったが、黄金時代を築いたチームの脇役として活躍した。 内海哲也: なお、西武で27を投手が着用するのは、前身の西鉄~太平洋クラブ~クラウンライター(福岡本拠)時代を含めても初めてだった(福岡本拠時代は内野手及び外野手(関口清治・田中久寿男・竹之内雅史など)が、西武時代1981年に内野手の大原徹也が着用した後、1982年入団の伊東勤が着用して以降は正捕手の番号として定着し、2024年には炭谷も現役捕手として西武に復帰し、再度27を着用したことから、同年までの時点では唯一の投手による着用事例となった。 中西太: 大下弘・豊田泰光・関口清治・高倉照幸・河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年に球団初のリーグ優勝を飾る。 河野昭修: 西鉄黄金時代において、中西太・大下弘・関口清治のクリーンアップの後の六番打者を務めた。 稲尾和久: 監督就任に当たって、ヘッドコーチ・関口清治、バッテリーコーチ・和田博美を招聘。 |
関口清治の情報まとめ
関口 清治(せきぐち せいじ)さんの誕生日は1925年10月9日です。旧 台湾出身の野球選手のようです。
兄弟、卒業、現在、引退、テレビに関する情報もありますね。2007年に亡くなられているようです。
関口清治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 関口 清治(せきぐち せいじ、本名:きよはる〈名の読み〉、1925年10月9日 - 2007年6月9日)は、台湾台北州台北市出身のプロ野球選手(外野手)・プロ野球コーチ・監督、解説者。 台北で建築業を営む8人兄弟の一人として生まれた。台北工業では、1942年に甲子園球場で開かれた文部省主催の全国中等学校野球大会(別名・幻の甲子園)に出場したが、1回戦で海草中学に3-2で惜敗した。関口自身はこの試合で三塁打を放っている。卒業後は実家の建築業を継ぐために官立横浜工業専門学校(現在の横浜国立大学工学部)に進学する予定だったが、その頃日本の制海権は完全に敵の手に抑えられていたため、受験することが出来なかった。そのため、卒業後はそのまま台湾の軍隊に入隊。終戦後は社会人野球の全武生→信州化学を経て、1948年に読売ジャイアンツへ入団。 巨人では肩の故障で11試合の出場に留まり、三原修監督の助言で1949年に巨人の制限選手のまま、社会人野球の星野組へ入部。巨人の制限選手のまま星野組へ入部したことについて、三原の「温泉で療養するようにしなさい」という配慮とも言われている。一方で、当時巨人は星野組のエース・荒巻淳の獲得を狙っていたが、星野組の社長は都市対抗で優勝するまでは荒巻を手放さないという情報を入手、星野組は打力が弱かったため三原が関口を星野組に貸し出すことにした、との話も伝わっている。 関口は星野組では4番を打ち、荒巻淳・西本幸雄・今久留主淳・今久留主功らといった、後にプロ野球で大活躍する選手らとともに第20回都市対抗野球大会でチームを全国制覇に導いた。 1950年に2リーグに分裂すると、西本や荒巻が入団した毎日オリオンズに関口も入ろうとする。しかし、巨人の制限選手だったことからこれは叶わず、一方で当時の巨人の外野は層が厚く復帰しても入り込めそうにもないことから、結局はセ・リーグの西日本パイレーツの結成に参加し、プロ野球に復帰した。ここで関口は左翼手の定位置を掴み、18本塁打73打点といずれもチーム2位の記録を挙げる。 翌年には西日本パイレーツとパ・リーグの西鉄クリッパースが合併して出来た西鉄ライオンズに籍を置き、後に迎える西鉄黄金時代の5番打者を務めた。三原の西鉄監督時代は2番豊田泰光と常に不動のオーダーだった。 シーズンでは初のリーグ優勝を決めた1954年に自分の背番号と同じ27本塁打を、1956年にはシーズン最多となる13三塁打を放ってチームに貢献した。 また日本シリーズでも1956年の巨人戦で史上初となるシリーズ4本塁打を放つなど大活躍したが、その最たるものは1958年の日本シリーズ、西鉄の1勝3敗で迎えた第5戦、2対3とリードされた9回裏2アウト3塁、凡退なら巨人の日本一が決まる場面で藤田元司からセンターに同点タイムリーを放ち、0勝3敗からの逆転日本一につなげた1打は“一千万円安打”(この年関口は10年選手の特権を得たため、多額のボーナスが入ることにかけられたものである)としてあまりにも有名(試合はその後10回裏にエースの稲尾和久が藤田のリリーフとして登板した大友工からサヨナラのソロホームランを放って勝利した)。 引退後は阪急で二軍打撃コーチ(1964年 - 1966年)・一軍打撃コーチ(1967年 - 1969年)を務め、リーグ3連覇に貢献。 1970年に稲尾が西鉄の監督に就任すると、関口も西鉄にヘッドコーチとして復帰。 1972年からは一軍打撃コーチとなり、球団が「太平洋クラブ」となった1973年退任。 1974年から1981年まで近鉄一軍打撃コーチを務め、阪急に続いて近鉄でも盟友・西本の名懐刀として手腕を発揮し、リーグ2連覇に貢献。西本の「真面目にやってきたのだから一度くらい陽のあたるポジションに」という推薦もあり、1982年から1983年まで後任の監督を務めた。1982年は大石大二郎ら若手を抜擢し、前期3位・後期2位の通算3位、大石は同年新人王を獲得。1シーズン制に戻った1983年は4位に終わる。在任中は「伸び伸び野球」をモットーにし、一度も選手を怒らなかった温厚な性格で誰からも好かれたが、地味な内容であったとも評された。指導者引退後はラジオ大阪(1984年 - 1986年)・KBS京都・テレビ西日本解説者も務め、プロ野球ニュースにも度々出演していた。 2007年6月9日、慢性閉塞性肺疾患のため福岡市内の病院で死去。81歳没。 巨人時代はカーブが打てず「目ぇ開いとんのかっ!」とよく怒鳴られていたが、のちにカーブ打ちをマスターして「カーブ打ちの名手」といわれるようになった。西鉄入団間もない豊田泰光(彼はカーブ打ちがとても苦手だった)が教えを乞うたところ、「ゼニもってこい」と言ったとされる。しかし、関口本人は「自分も偶然でカーブを打つコツを掴んだものだから、教えることが出来ない」と述べており、自身も巨人での新人時代に川上哲治に教えを乞うたところ、叱咤激励の意味で「そんなこと簡単に教えられるか」と言われ、それと同様の意味で「ゼニもってこい」と表現したとされる。 各年度の太字はリーグ最高 ベストナイン:2回 (1954年、1958年) 日本シリーズ技能賞:1回 (1956年) 1000試合出場:1958年4月14日 ※史上44人目 オールスターゲーム出場:5回 (1954年、1955年、1957年、1958年、1960年) 24 (1948年) 25 (1950年) 27 (1951年 - 1963年) 63 (1964年 - 1969年) 50 (1970年 - 1983年) 感謝を、感動を、野球道(フジテレビ系列のプロ野球中継における現行統一タイトル) KBS京都エキサイトナイター プロ野球ニュース ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、304ページ ^ 『巨人軍の男たち』118頁 ^ 文藝春秋社刊赤瀬川隼著『獅子たちの曳光―西鉄ライオンズ銘々伝』105-114ページ ^ 因みにその時の打席を迎えるまでこの年、関口の日本シリーズ打撃成績は15打数1安打と絶不調であり、関口が打席に立つと平和台球場の観客席から嘆息が大いに流れたという。 ^ 9回裏の攻撃終了後、三原監督は起死回生の同点タイムリーを放った関口に歩み寄ると、「よくやってくれた!!」と賞賛を称えて関口と強く握手を交わしたという。 ^ 『九州ライオンズ激闘史―1950ー1978 (B・B MOOK 1123)』ベースボール・マガジン社、2014年、86頁。 ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 EXTRA(2) [パ・リーグ編] (週刊ベースボール別冊初冬号) 、80頁、ベースボール・マガジン社、2020年 ^ 日刊スポーツ社刊「サヨナラ近鉄バファローズ」P94 ^ “内海が背負う「27」の不思議な縁 炭谷から受け継ぎ、巨人からの移籍組で4人目”. パ・リーグ インサイト. (2018年12月21日). https://insight.official-pacificleague.com/news/10091 2020年3月18日閲覧。 ^ 阪急への移籍後も継続したため、引退後も引き続き着用していた戸倉勝城監督が30に変更している。 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年 オリックス・バファローズの選手一覧 西日本パイレーツの選手一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 個人年度別成績 関口清治 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 藤田省三 1950 - 1952 芥田武夫 1952 - 1957 加藤久幸 1958 千葉茂 1959 - 1961 別当薫 1962 - 1964 岩本義行 1965 - 1966 小玉明利 1967 三原脩 1968 - 1970 岩本堯 1971 - 1973 西本幸雄 1974 - 1981 関口清治 1982 - 1983 岡本伊三美 1984 - 1987 仰木彬 1988 - 1992 鈴木啓示 1993 - 1995 佐々木恭介 1996 - 1999 梨田昌孝 2000 - 2004 表 話 編 歴 1953 与那嶺要 1954 本多逸郎 1955 木塚忠助 1956 関口清治 1957 和田博実 1958 川上哲治 1959 岡本伊三美 1960 鈴木武 1961 中村稔 1962 張本勲 1963 広岡達朗 1964 小池兼司 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 高倉照幸 1968 王貞治 1969 高田繁 1970 王貞治 1971 王貞治 1972 末次民夫 1973 王貞治 1974 有藤通世 1975 福本豊 1976 B.マルカーノ 1977 大熊忠義 1978 D.ヒルトン 1979 三村敏之 表 話 編 歴 投 西村貞朗 捕 C.ルイス 一 川合幸三 二 森下正夫 三 中西太 遊 L.レインズ 外 大下弘 / 関口清治 / 山内和弘 表 話 編 歴 投 稲尾和久 捕 野村克也 一 スタンレー橋本 二 R.バルボン 三 中西太 遊 葛城隆雄 外 毒島章一 / 杉山光平 / 関口清治 台湾の野球選手 日本の野球選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 星野組硬式野球部の選手 西日本パイレーツの選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の監督 日本の引揚者 国立台北科技大学出身の人物 台北市出身の人物 1925年生 2007年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2025/01/25 05:53更新
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