南都雄二の情報(なんとゆうじ) 芸人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
南都 雄二さんについて調べます
■名前・氏名 |
南都雄二と関係のある人
喜味こいし: 東宝入りは南都雄二の斡旋によるものであり、当時の所属タレントはいとしこいしだけだったという。 秋田実: そこからはミヤコ蝶々・南都雄二、夢路いとし・喜味こいしや秋田Aスケ・Bスケ、ミスワカサ・島ひろしなど多くの漫才師を育てた。 佐伯幸三: 1955年(昭和30年)、宝塚映画で、夢路いとし・喜味こいしやミヤコ蝶々・南都雄二の出演する映画『弥次喜多漫才道中 化け姫騒動の巻』、『弥次喜多漫才道中 腰抜け一家の巻』の2作と、鶴田浩二・寿美花代主演の『女の学校』を監督する。 和田勉: 1955年の『うどん屋』(脚本・秋田実、主演ミヤコ蝶々、南都雄二)が最初のドラマ演出で、初めて芸術祭奨励賞をもらった57年の有吉佐和子初のテレビドラマ『石の庭』(主演・久米明、鳳八千代)と59年に安部公房作の2本のテレビドラマ『円盤来たる』『日本の日蝕』の演出において、「大阪に和田あり」と注目されるようになる。 石井光三: ミヤコ蝶々・南都雄二・かしまし娘らのマネージャーを務め、1977年に松竹芸能から独立。 正司玲児: 夫婦漫才が離婚後も組み続けているのは、ミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓助以来である。 あしたひろし: 秋田實の後見を得て1960年代末から上方に移り、ミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓助、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、かしまし娘ら大看板の中で揉まれて芸を磨き、認められて「秋田」の屋号を許されたものの、畏れ多いと辞退して、一字違いの「あした」を名乗るようになった。 ミヤコ蝶々: 夫の「南都雄二」という芸名の由来は、喜味こいしによると「上方トンボ」という芸名を嫌っていた雄二が、こいしの兄の夢路いとしに改名を相談し、俳優の堀雄二の「雄二」と、蝶々の「ミヤコ」に対して「南都」とした名前に改名したものである。俗説で、蝶々は幼少期から舞台生活を送り、十分な教育を受けられなかったため、「蝶々・トンボ」時代までは台本に書かれた難しい漢字が読めず、夫に「何という字?」と稽古中に何度も尋ねていたことから、この光景を見た秋田實が「南都雄二」という芸名を思いついたというエピソードがある。 藤山寛美: その後、ミヤコ蝶々と南都雄二を迎えての新「松竹新喜劇」は寛美がいた時期ほど客足がのびず、師匠の2代目渋谷天外も脳出血で倒れた事もあって、ついに松竹は寛美の負債を立て替えて、再び舞台に呼び戻す事になった。 森光子: 大卒初任給が1万2千円程度というこの時代に「契約金60〜65万円、番組へのレギュラー出演を局側が保証する」との高条件の下、ミヤコ蝶々、南都雄二、夢路いとし、喜味こいしらと『漫才学校』にレギュラー出演。 ミヤコ蝶々: 1947年に弟子だった鈴夫(本名・吉村朝治、のちの南都雄二)と再婚(事実婚だったという)し、JR美章園駅近く(大阪市東住吉区)のガード下の部屋を借り、夫婦生活を始めた。同時に上方トンボは南都雄二と改名した。 あした順子: 秋田實の後見を得て1960年代末から上方に移り、ミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓助、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、かしまし娘ら大看板の中で揉まれて芸を磨き、認められて「秋田」の屋号を許されたものの、畏れ多いと辞退して、一字違いの「あした」を名乗るようになった。 藤田まこと: 大阪では南都雄二、藤山寛美とともに「キタの雄二か、ミナミのまこと、東西南北藤山寛美」(南都雄二は北新地、藤田はミナミを飲み歩き、藤山寛美はどこにでも現れるという意味)と評された。 正司敏江: 夫婦漫才が離婚後も組み続けているのは、ミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓助以来である。 山崎樹範: 鈴子の恋 ミヤコ蝶々女の一代記 第24話 - 最終話(2012年2月7日 - 3月30日、東海テレビ) - 南都雄二 役 木俣尭喬: 『上方演芸 夢月城騒動記』 : 監督松村昌治、主演ミヤコ蝶々・南都雄二、製作東映京都撮影所、配給東映、1957年4月30日公開 - 「木南啓介」名義で出演・「山辺権六」役 木俣尭喬: 『上方園芸 底抜け捕物帖』 : 監督松村昌治、主演ミヤコ蝶々・南都雄二、製作東映京都撮影所、配給東映、1957年5月7日公開 - 「木南兵介」名義で出演・「猪八」役 |
南都雄二の情報まとめ
南都 雄二(なんと ゆうじ)さんの誕生日は1924年4月26日です。東京出身の芸人のようです。
卒業、離婚、結婚、映画、テレビに関する情報もありますね。1973年に亡くなられているようです。
南都雄二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)南都 雄二(なんと ゆうじ、1924年〈大正13年〉4月26日 - 1973年〈昭和48年〉3月19日)は昭和後期の上方の漫才師、俳優。本名は吉村 朝治(よしむら ちょうじ)。大阪府大阪市生まれ。大阪電機学校卒業。 ミヤコ蝶々との漫才コンビ「蝶々・雄二」として知られ、「夫婦善哉」の司会で人気を博した。 1941年に大阪電機学校を卒業した。戦後、大阪中央郵便局の電気係を経て、三遊亭柳枝主宰の柳枝劇団に参加し、照明部で裏方をしていた。その後演者側に回り、看板女優だったミヤコ蝶々の弟子となり「鈴夫」と名乗る。 1947年に柳枝と離婚した蝶々と結婚し、1948年、柳家三亀松の改名の提案で「蝶々・鈴夫改め上方トンボ」として夫婦漫才コンビを結成した。後に夢路いとしに相談して南都雄二に改名した。(漢字があまり読めず周りに「何という字?」とよく尋ねたことからついたと言われる。) 1952年、秋田實・小林一三の宝塚新芸座に参加し、夢路いとし・喜味こいしや秋田Aスケ・Bスケ、笑福亭松之助らと舞台俳優としても活動する。その後、「漫才学校」「夫婦善哉」(いずれもABCラジオ)の司会などで「男前の雄さん」として人気者となる。 映画俳優として、東映や大映の映画に数多く出演した。特に勝新太郎主演の『悪名』や『兵隊やくざ』ではシリーズで出演している。「姉さん女房」の蝶々とのイメージからか、女の尻に敷かれ、少々頼りない男のような役どころが多かった。 夜遊び、夜の豪遊は語り草になっており「キタの雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北藤山寛美」といわれるほどであった。 1973年に持病の糖尿病がもとで死去した。48歳没。 没後、ミヤコ蝶々・南都雄二として2006年に第11回上方演芸殿堂入りしている。 蝶々・雄二の夫婦善哉(ABCラジオ・テレビ) スチャラカ社員(ABCテレビ) 雄さんの編集長(MBSテレビ) ユーモア航路(関西テレビ) ハイ!土曜日です(関西テレビ) しあわせは一ぱい(よみうりテレビ) ハイ!次の方(よみうりテレビ) 続・のれん太平記 第2シリーズ(フジテレビ) - 生駒半次郎 弥次喜多漫才道中 化け姫騒動の巻(1955年・宝塚映画) 同・腰抜け一家の巻(同) 漫才長屋は大騒ぎ(1956年・宝塚映画) 漫才長屋に春が来た(同) 漫才学校シリーズ(1956年・松竹京都)
第二部・ガヤガヤホテル 第三部・ゴリラ大暴れ お父さんはお人好し・産児無制限(1956年・大映京都) 漫才提灯(同) 青空娘(1957年・大映京都) 歌う弥次喜多・黄金道中(1957年・松竹京都) 喧嘩も楽し(1958年、東宝配給、宝塚映画) お笑い夫婦読本(1958年・宝塚映画) 大当り狸御殿(同) 野良猫(1958年 東宝配給、宝塚映画) やりくりアパート・びっくり大放送(1959年・宝塚映画) かた破り道中記(1959年・松竹京都) 風雲将棋谷(1960年・大映京都) 河内風土記・続おいろけ説法(1961年・宝塚映画) 喜劇・団地親分(1962年・松竹大船) 河内風土記・おいろけ繁盛記(1963年・宝塚映画) 青い目の花嫁はん(1964年・松竹京都) 日本侠客伝(1964年・東映京都) 忍法忠臣蔵(1965年・東映京都) 蝶々・雄二の夫婦善哉(同) 任侠木曽鵜(同) てなもんや東海道(1966年・宝塚映画) スチャラカ社員(1966年・松竹大船) 尼寺(秘)物語(1968年・東映京都) 温泉あんま芸者(同) 芦屋雁之助 桂小米朝(心はいつもラムネ色) 中山秀征(ミヤコ蝶々物語、テレビ大阪版) ※ミヤコ蝶々役は石田ひかり 山本太郎(ミヤコ蝶々ものがたり、テレビ朝日版) ※ミヤコ蝶々役は久本雅美 風間トオル(女ひとり) 山崎樹範(鈴子の恋) 日本映画データベース 南都 雄二 VIAF お笑い芸人 日本の男優 郵便に関する人物 清風高等学校出身の人物 大阪市出身の人物 1924年生 1973年没 プロジェクト人物伝項目 VIAF識別子が指定されている記事
2024/11/17 14:47更新
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nanto yuuji
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