天龍源一郎の情報(てんりゅうげんいちろう) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
天龍 源一郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
天龍源一郎と関係のある人
伊藤佳織: 劇団コラソン 第23回公演『相棒-Red Demon,don't cry-』(3月2日 - 3日、ニッポン放送イマジンスタジオ) - 天龍源一郎 役 谷津嘉章: 同年2月に後楽園ホールで行われた「ジャイアント馬場23回忌追善興行」に全日本のOBとして参加したが、SWSの分裂以降は没交渉となっていた天龍源一郎と同席し会話を交わした事が契機となって両者は和解し、翌2022年4月に天龍とのトークイベント開催に至っている。 三沢光晴: もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、天龍源一郎、ロッキー羽田、桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。 坂本一生: 天龍源一郎のプロレス団体WARでのリングアナウンサーを経て、1999年、佐山聡主宰の格闘技団体「掣圏道」に入門しプロレスラー転向を目指すが断念。 維新力: 帰国後は大物であり角界の大先輩である天龍源一郎とは別の部屋(「道場・檄」)に加わった。 川田利明: 同年8月15日、新日本プロレスの『G1CLIMAX XX 20th Years Anniversary』に出場し、タイガー・マスク、天龍源一郎と組んで長州力、AKIRA 、スーパー・ストロング・マシンと対戦して勝利。 赤井沙希: 8月23日 - DDT両国大会にて天龍源一郎&高木三四郎&赤井沙希 vs 石川修司&樋口和貞&里村明衣子の6人タッグマッチに参戦、高木が樋口をシットダウンひまわりボムで下す。 宮本和志: 2006年1月15日、後楽園ホール大会でキングスロード旗揚げ戦を行い、天龍源一郎と対戦。 藤波辰爾: この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれた。 大仁田厚: 馬場やジャンボ鶴田、天龍源一郎に続く全日第4の男として注目されるが、1983年4月20日、東京都体育館でのヘクター・ゲレロとの防衛戦に勝利した後の終了後、リングを飛び降りた際に着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場、医師からは再起不能を宣告された。 村田賢一: プロレスが好きで、明治大学ホームページの部員紹介での「もしも登場曲があったら」の項目に「天龍源一郎のテーマ」と答えている。 石川孝志: 当時の全日本プロレスでは、前年10月に天龍源一郎、同年7月にプリンス・トンガと、大相撲からの入団者が相次いでいた。 坂田亘: ハッスル15(2006年3月12日、愛知県体育館)ではシングルマッチの激闘の末に互いを認め合った天龍源一郎に対し、坂田軍の叔父貴(おじき)となることを要請。 福の花孝一: その張り手は天龍源一郎に「相撲で怖い、というよりも苦手だったのが“フックの花”こと福の花だ。 冬木弘道: 引退試合の当日、ノアの内外から多くのレスラーが来場・参戦しており、会場には新日本の永田裕志、冬木とFMWで袂を分けた邪道・外道、そして天龍源一郎も来場した。 ビル=ロビンソン: 1982年3月には全日本参戦6年目にして『チャンピオン・カーニバル』に初出場したが、テッド・デビアス、ブルーザー・ブロディ、天龍源一郎など新しい世代の選手の後塵を拝して18人中6位に終わり、優勝争いに加わることはなかった。 松方弘樹: 唯一負けたのは天龍源一郎だという。 阿修羅・原: この席で馬場は全日本プロレスとのいきなりの直接契約はまずいと判断し、当初はフリーとしての全日本参戦となり、馬場と門馬との会談で練られたプランは原が天龍源一郎に喧嘩状を叩き付けるプランだった。 阿修羅・原: 試合後、天龍からマイクを渡された原は会場内に自分の両親がいる事を明かした上で、「俺は親父とお袋に支えられて、長崎の皆に支えられて、そして天龍源一郎に支えられて…。 武藤敬司: 12月31日のハッスルの試合では、天龍源一郎らがボノをキャメルクラッチで捕獲、レイザーラモンRGが生肛門攻撃しようとした瞬間、時計の音が鳴り響き入場ゲートの床が突き出始め、中からグレート・ムタが降臨するというパフォーマンスで登場。 ニック=ボックウィンクル: ホーガン同様に鶴田もこの試合まではニックを「ルールのおかげで王者を続けられているレスラー」と見做していたが、2月26日の試合後のインタビューでは「ニックは強い」と発言し、この連戦以降はニックを酷評するような発言はピタリと止め、全日本プロレス中継のスペシャル番組「ジャンボ鶴田と5人のライバル」ではスタン・ハンセン、三沢光晴、天龍源一郎、ブルーザー・ブロディと共に、ニックを選ぶほどに評価を高めた。 アニマル浜口: WAR世界6人タッグ王座:1回(w / 天龍源一郎&北原光騎) 越中詩郎: 1998年、天龍源一郎と組みIWGPタッグ王座獲得。 長州力: ただし愛弟子の佐々木健介や他団体の天龍源一郎を重用する等のマッチメークも見られ、豪腕リーダーぶりには西村修などの一部選手から不満を買った。 ターザン後藤: 1994年3月、WAR両国国技館大会にて大仁田と組み天龍源一郎・阿修羅・原組と対戦。 百田光雄: ノア退団後の動向について、当初フリーのプロレスラーとして現役は続行する考えを示した一方で、後に「引退試合は行いたい」としつつも選手としても身を引く意向と伝えられるなど、現役を続行するかどうかはっきりしない状態が続いていたが、2010年4月に行われる天龍源一郎の自主興行「天龍プロジェクト」への参戦が発表され、当面は現役を続行することが明らかになった。 佐々木健介: これらの言動を当時世話になっていた天龍源一郎から「子供に悪影響を与えたらどうするんだ」と諌められた。 テリー=ファンク: これが日本での最後の試合となり、最後の来日は2015年11月15日に両国国技館で行われた天龍源一郎引退興行での花束贈呈であった。 平田淳嗣: 6月12日には天龍源一郎のUNヘビー級王座に挑戦、奪取には失敗したものの(マシーンとなってから2度目のピンフォール負け)全日時代の名勝負として語られている。 大仁田厚: 試合は矢口壹琅と組んで天龍源一郎&越中詩郎と対戦する「ノーロープ有刺鉄線ストリートファイトトルネード・バリケードマット・ダブルヘル・デスマッチ」で、これで3度目の引退となったが、すぐに「曙太郎とデスマッチをやりたい」と発言するなど、誰も本当に引退したとは思っていなかった(曙とのデスマッチは後述の通り2012年に実現している)。 |
天龍源一郎の情報まとめ
天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう)さんの誕生日は1950年2月2日です。福井出身の格闘家
プロレスのようです。
タイトル歴、大相撲時代などについてまとめました。引退、家族、父親、卒業、映画、兄弟、事件、趣味、事故、病気に関する情報もありますね。去年の情報もありました。天龍源一郎の現在の年齢は74歳のようです。
天龍源一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、1950年2月2日 - )は、日本の男性タレント、元プロレスラー、元大相撲力士。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長186cm、体重112kg)。血液型A型。所属事務所はMILLENNIUM PRO。エクセリングと業務提携している。 多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、天龍は65歳まで第一線で活躍し続け、日本のプロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として一目置かれる存在だった。 福井県の勝山市にて農家の長男として生まれる。農家の生まれであることから幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。同時に大きな体がコンプレックスになっており、勉強も苦手だったことと合わせて周囲からはからかわれがちであった。幼少期は夕方から相撲を見て、夜はプロレスやプロ野球の巨人戦を見るのが嶋田の世代の日常であった。嶋田が好きであった力士は「栃若」ではなく朝潮であり、嶋田は勝負に淡々としていたところやどこかほんわかした雰囲気を好きな理由として挙げている。朝潮が好きな力士であったため、入門が内定してからも高砂部屋の方が良かったと思うことがほんの少しだけあった。いわゆる「アンチ大鵬」であり、大鵬戦の際は柏戸、栃ノ海、佐田の山など対戦相手の方を応援したという。 当時の時代柄もあったが、小学校高学年になると学校を休んで田植えの手伝いを行うことを家族から課せられた。夏になると葉タバコの剪定を行い、足元にマムシがとぐろを巻く風を通さない畑の中で作業した。タバコの匂いが手に付くため嶋田少年は当時タバコに興味を持たず、タバコを吸ったのは50歳を過ぎてから5、6年の間だけである。 嶋田は後に「学校が好きだったわけじゃないけど、理不尽な気がして、自分が不憫で悔しかったのを覚えています」と家業の手伝いに対する思いを語っている。小学校時代から砲丸投げにリレーの選手、中学校に入ると柔道部や野球部と、少年時代はほとんどの運動部の試合に駆り出された。なかでも相撲は嶋田本人にとって楽しく、小学5年生からは中学生に負け無しであった。一方野球部の活動に関しては父も娯楽としか見ておらず否定的であり、相撲大会に駆り出されるうちに野球部はいつの間にか退部扱いになっていた。後に本人は、体が大きくて左投げであったことから、野球を続けていたらプロになってもっと金を稼いでいただろうと、冗談めかしながら振り返っていた。 嶋田の父は厳格であったが、稲刈りの季節でも秋場所が始まると作業を嶋田の祖父母や母に任せ、嶋田を連れて相撲を見ていた。嶋田の父も相撲の時だけは優しい父親というイメージであったため、相撲は嶋田にとって良い思い出であり、嶋田が相撲の世界に抵抗なく入れた要因となった。 勝山市立北郷小学校卒業後は勝山市立北部中学校へ入学するも、父が床屋で髪を切ってもらっていた際に床屋の店主が二所ノ関部屋後援者に「この辺りに相撲に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで二所ノ関部屋の巡業が来た時に二所ノ関部屋後援会が嶋田を連れて行って大鵬に会わせ、大相撲へ勧誘した。嶋田は相撲取りと言えばゴツゴツした厳つい風貌を思い浮かべていたが、均整のとれた綺麗な体をしていた大鵬を見た嶋田は泰然自若としたものを感じた。ちゃんこを食べながら大鵬と話を行っている時、大鵬からある食べ物を勧められたが、それが牛タンであることを知る(これが嶋田が牛タンを生れて初めて食べた時であった。)と、草を食べて涎を垂らしている牛の姿が想像され、途端にえづき、そこから箸が進まなくなった。中学2年の夏休みに20日間の体験入門を経験したが、目に飛び込んだ部屋施設は近代的なビルであり、親方の自室も映画に出てくるような洋館であった。嶋田は3階にある客室で寝泊まりしていたが、朝に4階の稽古場から四股を踏む音が響いて驚いたという。その時関取衆は巡業中であったため留守番していた若い衆としか相撲を取らなかったが、実際に相撲を取るとあっという間に羽目板まで吹っ飛ばされ、その強さを思い知らされた。嶋田の性格的にも、瞬時に勝ち負けが決まり、またすぐにリセットして仕切り直すという相撲のリズムは合っていた。入門後、地元に帰って秋の相撲大会に出れば1回も負けず、賞品の大学ノートが100冊くらい溜まったため、やはりプロで鍛えられるということは凄いと嶋田は思ったという。父は中学を卒業してから入門してほしいと考えており、嶋田に対しても「トボけた考えを起こすなよ!」と釘を刺したが、1963年の暮れに二所ノ関部屋の若者頭が再び勧誘に訪れ、紆余曲折があったが嶋田はその話を聞きたくなかったため友人の家に逃げていた。そんな時に力道山が刺殺されたことを伝える大ニュースを知った。プロレス界を築き上げた人物が、後にプロレスで大成する嶋田の入門の際にこの世を去ることに関して、後に嶋田は「なんか運命的ですね」と振り返る。因みに父も体が大きく村相撲でも強かったため将来は相撲取りになりたかったが、一人っ子なので両親に反対されて断念したという経緯をたどっている。 1963年12月、大相撲の二所ノ関部屋に入門。入門に際して地元の名士から5万円の餞別を貰った(当時平均的な月給が8000円から1万円程度であった)。新聞にも入門したという報告が掲載されて餞別ももらったので、本人はおめおめとは帰れないと覚悟していた。入門に伴い、中学2年途中で墨田区立両国中学校へ転校した。転校初日に教師から「お相撲さんは大学まで進む気はないでしょう。授業中に眠ってもいいから」と言われたことから学業の指導に差別を感じ、実際に白紙の答案用紙を提出する新弟子もいたことから頭に来て嶋田はこっそり通信教育の教材を取り寄せて相撲と学業の両立を誓い頑張っていたが、結局は兄弟子に見つかって通信教育を中止させられたという。入門当初は部屋に所属力士が80人おり、その中の一人であった大麒麟(当時・麒麟児)などと稽古をして力を付けた。最初はその日その日を過ごすので精いっぱいであったが、力士生活に慣れていくと「20歳までに十両に上がれればいいな」などと目標を持てるようになった。大鵬の付け人をしていたある時、大鵬は嶋田に対して「上の力士が下の者とやるときは、受けて立つ相撲を取れるようにならないとダメなんだ。自分からぶちかましにいくような、みっともない相撲は取るなよ」と助言した。 14歳のある時、自身を部屋に勧誘した若者頭に連れられて錦糸町の「ヤマキ」というステーキ屋で生まれて初めてステーキを食べた。当時の日本人にとってステーキは大層な贅沢品で、ましてや福井の田舎から上京した14歳の少年にとっては格別の味であった。この味は嶋田の印象に残り、プロレス入り後にはゲン担ぎとしてステーキを食べる習慣が身に付いた。現役当時の二所ノ関部屋は、場所中の初日と中日は決まってすき焼きだった。タニマチの三和銀行が毎回、大量の牛肉を差し入れたという。番付社会なので嶋田は入門してから5年から6年経って、ようやく肉のある場所に座れるようになった。しかもそれでも、生卵をつけて食べられるようになるのは、そこからさらに2年から3年を要した。当時の普段の食糧事情はというと、鍋の他におかずが3品から4品付くのは十両以上で、若い衆は鍋だけであった。嶋田は鍋の汁だけでどんぶり飯を3杯食べ、その汁も漬物すらも無くなって砂糖をかけて米を食べたりもした。2020年代になると下っ端力士も正面に座って胡坐をかいて食べているが、当時嶋田のような下っ端は、半身になって箸を持った手だけのばして米を食わなければならなかった。当時は弟子が多く、座れる人数が限られていたため、できるだけ多く座れるようにみんな半身で車座になっていた。 相撲部屋での生活は、入門前に父の下で過ごした日々より厳しくなく自由があったと嶋田本人は後年振り返っている。相撲教習所で受けた和歌森太郎の授業は本人曰く「俺らみたいな連中にはもったいないよ。あの和歌森先生の授業でも寝ているんだから(苦笑)」とのこと。教習所では礼儀を教え込まれたが、嶋田にとって一番印象的だったのは、ある親方に言われた「もし、今後相撲人気が無くなったとしても、40~50年は今の給与形態でお前たちを養っていけるだけの余裕はある」という話であり、嶋田は後に協会が今の両国国技館を無借金で建てた時に「あの話は本当だったんだ!」と実感した。一方、入門当初は「練習生」扱いであったため、当時の相撲部屋全体の経済水準によるところもあろうが、「練習生3、4人のためにもったいない」と稽古後に体を洗うための湯を沸かしてもらえず、冬でも水を浴びて体を洗った。師匠の事は最初「いつも火鉢の前に座っているかったるいオヤジ」程度にしか思っていなかったが、番付を上げて相撲のことが分かるようになると、自分を自由に破門・廃業させる権限を持つ、生殺与奪の権利を握る人物だと自覚して怖いという意識が生まれるようになった。 16歳の時のある巡業では、移動の際に兄弟子から大鵬の双眼鏡を持って行くよう命じられたが、それを聞き忘れたためその巡業中にかわいがりに遭い、竹刀や青竹、さらに角材で殴られたが「これで俺も一人前の力士だ」と却って自信をつけたといい、かわいがりを行った兄弟子たちも「どうだい、きつかったか? これでお前も一人前だよ」と翌日からは何事もなかったかのように接していた。日頃からかわいがりを行う兄弟子を稽古場の相撲で負かすことは自身にとっての気晴らしであった。嶋田本人もかわいがりを行う側になったことがあり、その時には人間の残虐性が出る様に自分も恐ろしくなったという。後年時津風部屋力士暴行死事件を受けて元幕内力士として記者からコメントを求められた際には「全く必要なし、人間がいじけるだけ、金属バットやビール瓶が出てくるようなのはただのイジメ」「かわいがりってのは原因があって、例えば門限を破ったとか、ご法度のタバコとか、やられる人に落ち度があったからで、やる方だって何かがないとやれないですよ」と当時とは正反対の認識を示した。自著でも同様の主張をしていた。 若手時代は金が無かったため両国から離れた小岩や平井で酒を飲み、よく兄弟子の悪口を言って憂さ晴らしをした。現役当時、力士の気晴らしと言えばパチンコとストリップぐらいであり、北の富士や玉の海が当時力士の趣味として珍しいゴルフやボウリングを嗜んでいたことには、天龍を含む力士皆が驚いていた。当時後年よりも大相撲力士が多かった時代背景上幕下になることは一定のステータスで、幕下になると一目置かれるようになったため、それで兄弟子気分になって遊び惚けてしまったのもしばらく足踏みした要因であると後に本人が振り返っている。 1965年5月場所初土俵の貴ノ花とは、相撲教習所で手を合わせており、負けはしなかったが吊り上げているつもりでも残られたりと独特のしなやかさとバネに手を焼き、当時三段目と幕下を往復していた嶋田は「俺って素質がないのかな」と考えさせられたという。ある時から突っ張りを取り入れ、それが自分に合っていたのか、以降番付を伸ばしていった。入門は嶋田の方が1年ほど早かったが、新弟子時代の貴ノ花には「おう、嶋田!」と呼び捨てにされていた。 「天龍」の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰める。四股名「天龍」は細くてすらっとした当時の嶋田の体型、反骨心のある気質などから、師匠が天竜と重なる所を覚え、関取に上がったらこの四股名を付けようと考えていたという。元々出羽海部屋の四股名であったため部屋付きの10代湊川(後9代二所ノ関)が出羽海部屋へ何度も出向いてようやく許しを得たといい、その天竜からは「お前、間違っても俺の名前を汚すなよ、コノヤロウ!」と面と向かって言われたという。しかし天龍は、「競走馬の名前や、町の中華料理屋の名前のイメージが先立って(苦笑)、その四股名の大きさにまったく気づいていなかったんですよ。のちにだんだん、文献を読んだりするうちに、『龍(竜)』とは中国では皇帝のシンボルとなるような最高の霊獣であるとか、あの『梅常陸』で、大相撲界に一時代を築いた、大横綱常陸山が直々に天竜さんに付けられた四股名だとか、そういうことを知ってあらためてすごさを認識したというのが、正直なところです」と当時を振り返っている。大鵬の引退相撲には関取として参加しており、かつての付け人として面目を保ち恩返しを行うことに成功した。常に先手で突っ張ってそのまま突き切るか叩き込む、攻撃の中に勝機を見いだすような取り口であったが、四つになった時に「こうなったら勝てる」という型がないという弱みがあった、と後に本人が2017年の相撲専門書籍で分析している。 力士時代はおだてられた部分もあったであろうが周囲から「大鵬二世」と称され、それだけの大器として期待されていた。しかし天龍本人は、それが自身の自惚れを生み、勝負に対する執念や相撲に向き合う姿勢が足りていない原因となったと2017年にムックの特集で振り返っている。現役当時、貴ノ花や輪島が砂だらけになって泥臭く鍛錬していたのを「ダサいな」と冷めた目で見ていた、相撲を舐めていた自分がいたと、後に自己批判している。1973年5月場所、3勝4敗で迎えた栃東知頼との取り組みから5連敗したのは、勝負に対する執念の無さの表れであったと自ら語っている。一方、1973年5月場所で三役に上がっていればプロレスに行くことはなかったであろうと語っている。因みに「大鵬二世」と称された弟子は6人いると後で天龍は聞いたという。 1975年、師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川親方(大麒麟)の押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛正裕が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈し、その後も部屋の力士に稽古相手をしてもらえなくなるなどの仕打ちを受ける。親方に1度反旗を翻したということから部屋の衆から嫌がらせを受けた天龍は「ここにいるのはよくない。俺がいなくなればコミュニケーションをとれる」と考えていた。完全に嫌気がさしていた頃、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右(後筑波大学名誉教授)と出会い、森岡がブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意。それまでプロレスを観戦したことはなく、レスラーの名前はおろか、技名も知らなかったという説がある。大相撲時代に向上心が無く甘えがあると自分で感じていた天龍は、プロレスに進んで自分を変えたいと感じていた。1976年秋場所に勝ち越した(東前頭13枚目、8勝7敗)のを最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。入門に至った背景には廃業前に付き合っていた女性が死去して相撲に対する励みが無くなったのもあり、一説には最終場所で勝ち越して相撲を辞めるのが勿体なく思っていたところ当時の師匠からプロレス入りすることをサンケイスポーツにバラされて引くに引けなくなったという。 入団と共に渡米し、ザ・ファンクスのもとで修行する。相撲時代にプロレスごっこをしていた時の感触から自分でも少しはやれるだろうと考えていたが、初めて全日本の道場でジャンボ鶴田にボディスラムを放たれた時には脱糞するかと思うほどの衝撃を受け、大相撲で幕内まで昇進した天龍の自信は崩れ去った。当時、そばで見ていた渕正信が言った「ねえ、プロレスは簡単じゃないでしょ。甘くないんだよ」という一言は40年以上経過しても本人にとって忘れられないものであった。ドリー・ファンク・ジュニアは現役の選手であったため1週間から10日に1回程度しか天龍を指導する余裕が無く、天龍は毎日のように電話で教えを乞うた。ドリーからは何かとジャンボ鶴田と比較され、当時の天龍にとってそれは嫌な事であったが、ドリーは倒されることに抵抗があってプロレスに適応できなかったアントン・ヘーシンクの指導に苦心した経験から「プロレスは投げられても負けじゃない。相手に身をゆだねることがスタミナを温存するポイントだ」と諭すように教えたという。ドリーに指導してもらえない間は腹筋ローラーやブリッジで体を鍛えたと言い、このトレーニングのおかげで現役を長く続けることができたとプロレス引退後に本人は振り返っている。 1976年11月13日(土曜日)にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューした(アメリカ時代のリングネームは「テン・ルー」。詳細は後述)。帰国後の同年12月5日、日大講堂(初代両国国技館)においてリング上で断髪式を行う。止め鋏は馬場が入れている。通常、幕内経験者の断髪式典は国技館(当時は蔵前国技館)の土俵上で開催されるのが通例であるが、プロレスのリング上でそれが行われるのはきわめて珍しい出来事でもあった。なお、デビュー当時のリング名は単に四股名と同じ「天竜」だけであった。 天龍の日本でのデビューは1977年6月11日、東京・世田谷区体育館における馬場と組んでのマリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦で、グランデをフォールして初陣を白星で飾る。大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されており、巡業も毎回グリーン車のチケットが用意された(グリーン車に乗れる日本人選手は他には馬場、ジャンボ鶴田だけ)。しかし本人はまだ一人前の動きもできないのに大熊元司、グレート小鹿ら大先輩レスラーを差し置いてグリーン車に乗るのは気が引けたため、普通車両に移動して先輩達と話をしていた。デビュー数年でメインイベントでのタイトルマッチが組まれるなどしたが、体格は大相撲時代の名残を残し、スタミナが不足していたこともあり、通常のシングルマッチでも見どころ無くあっさり敗戦を喫するなど結果が出ない時期が続いた。人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低く、タイガー戸口が全日本所属だった時期には、キャリアの違いもあって戸口よりも格下扱いであった。 その後はアメリカで再修行を行い、エディ・グラハムのCWF、ジム・バーネットのGCW、ジム・クロケット・ジュニアのMACWなど、NWAの南部テリトリーをヒールのポジションで転戦。MACWでは1981年2月7日、ノースカロライナ州グリーンズボロにてミスター・フジと組み、デューイ・ロバートソン&ジョージ・ウェルズを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。タイトル初戴冠を果たした。 帰国後の7月30日、交通事故の後遺症で緊急帰国したディック・スレーターの代打としてビル・ロビンソンのパートナーに起用され、当時の王者組の馬場・鶴田組保持のインターナショナル・タッグ王座の挑戦をしたことを契機に飛躍のきっかけを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように、この試合以降から評価も急上昇。全日本プロレス第3の男、風雲昇り龍としてブレイクする。この年の秋にはNWA世界王者リック・フレアーへの挑戦権も獲得した。 このインター・タッグ戦から、天龍はライバル団体である新日本プロレスの総帥のアントニオ猪木に遠慮して、全日マットでは誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め、全日本で異彩を放つようになっていく。もともとアメリカでは使っていたが「日本でもイノキに遠慮せず使ってしまえ」とロビンソンからアドバイスがあったという逸話が専門誌に掲載されることもあった(本人へのインタビューではない)。天龍はそれまでは紫のタイツを使用していたが、1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黒と黄のリングシューズという、引退まで続いた天龍スタイルへと変更。鶴田と組み次期ダブルエースの座を確立する。1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦では鶴田との鶴龍コンビを結成してリーグ戦に挑み、11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア戦では「馬場の生涯最後の32文人間ロケット砲」を受けている。鶴龍コンビはリーグ最終戦まで得点単独1位だったが、最終戦でスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビに敗れ優勝を逃した。しかし師匠の馬場&ドリーと同点2位という成績は、全日本エースの世代交代を印象づけるものとなり、この年のプロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を受賞した。シングル戦でも頭角を見せ、1984年2月にはリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得する。 さらに1984年9月からの長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田との鶴龍コンビで長州&谷津嘉章と抗争を繰り広げた。 1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日本マットの活性化を目指して龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げた。その後天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでの馬場&ラッシャー木村とのタッグ対決において、入場時に馬場を奇襲、孤立した木村を戦闘不能にした上で復活し孤軍奮闘する馬場からパワーボムからのエビ固めで、ハンセンと二人がかりながら日本人では初めて馬場からピンフォールを奪った。天龍は試合後、当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾った。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。 1990年、横浜文化体育館大会において鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱し、SWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。SWSでは『部屋別制度』という、他団体には存在しなかったシステムを取り入れており、部屋対抗戦をカード編成の主体とし、天龍は道場『レボリューション』の道場主に就任。SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場。北尾光司とタッグを組んでデモリッション(スマッシュ&クラッシュ)と対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した。SWSはマッチメイカーを天龍派であるレボリューション所属のザ・グレート・カブキが担当していたため、集客面や注目度などを検討して天龍やレボリューション派寄りのマッチメイクになる傾向が強く、それに不満を持つ反天龍派からの不満と反感を買い、天龍派と反天龍派の対立が深刻化し、それが大きな要因となり旗揚げから約2年程で崩壊している。 SWS崩壊後の1992年6月28日、天龍はWARを設立して新日本との対抗戦に活路を見出した。反選手会同盟と熱戦を繰り広げ、12月14日に越中詩郎を、1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。また、WAR時代にもWWFからの要請により1993年と1994年のロイヤルランブルに出場、1994年の試合では残り5人まで生き残った。 1994年1月4日、天龍は東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちを収めた唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった。1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。 1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し藤原喜明、北尾を撃破。1998年1月14日後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得する。この試合は、天龍としても満足のいくものだったようで試合後のインタビューの際に「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。 1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年、全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代及び29代三冠ヘビー級王座に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者に輝くなどの活躍を果たした。 2003年に旗揚げしたWJプロレスに旗揚げから参戦、旗揚げ戦から長州力とシングル6連戦をする予定であったが、3戦で休止となった。8月にはWJに入団(実際は発表だけで、契約はフリーであった。)、11月には長州とタッグを組んでWMGタッグを奪取したもののWJは経営が迷走し、WJを離脱した。 2004年1月4日、天龍は新日本プロレス東京ドーム大会に参戦、中西学とシングルで対決したが結果は天龍の敗北におわった。その後、同年2月1日、新日本プロレス札幌大会で中西とタッグを組んでIWGPタッグ王座に挑戦したが王座奪取は出来なかった。同年8月には2度目のG1 CLIMAX出場を果たす。 2005年初頭からは元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴や仲田龍は、三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの当時、馬場元子が認めなかったとされている。天龍も、ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕ができ、参戦が実現した。7月18日のプロレスリング・ノア 東京ドーム大会では天龍の元付き人であった小川良成と対戦し、勝利を収めた。他にも、ノア参戦時にはKENTA、潮崎豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦している。 この他、DRAGONGATEにも参戦し、天龍のWAR時代の元付き人でもあるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げた。同団体では2005年より最高顧問も務める。 同年11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦し、表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテインメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握っている。 2006年7月27日には6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。 2007年6月、「ハッスルエイド2007」でレイザーラモンHGに敗れてモンスター軍を追われたが、翌月に浜松で開かれたハッスル24のメインイベントでハッスル軍に助太刀し、リーダーで2006年8月まで共闘していた坂田亘の要請を受けてハッスル軍に加入。10月、曙に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。天龍もベテランとして若いメンバー達を支えつつ存在感を保ち続けた。 2008年3月14日、リアルジャパンプロレス後楽園大会で初代タイガーマスクと初対戦した。以後も主にハッスルを主戦場としつつ他団体へも時折出撃する形で活動を続けてきたが、2009年の年末にハッスルが事実上活動を停止してしまったことから、天龍は主戦場となるマットを失ってしまった。 ハッスルの活動停止後、しばらくは鳴りを潜めていた天龍だったが、2010年3月に入ると4月にプロレス団体「天龍プロジェクト」を設立し、活動を再開させる方針を明らかにした。同興行には、百田光雄や折原昌夫などが参加することが発表されている。なお、天龍プロジェクトは天龍の娘でもある嶋田紋奈が代表を務め、興行に係る各種業務を切り盛りしている。 2011年3月6日、ユニオンプロレスにおいて高木三四郎がプロデュースするプロジェクト「TKG48」に最高顧問として加入することが発表され、4月3日のユニオンプロレス新木場大会に参戦した。 2011年12月から腰部脊柱管狭窄症の治療のため、プロレス人生では初めての長期欠場に入った。2度の手術とリハビリを経て、2012年12月29日に後楽園ホールで行われた『天龍プロジェクト10 天龍源一郎復帰戦〜革命〜』のメインイベントで復帰戦を行った。 2015年2月9日、天龍は記者会見を開き、「今年(2015年)11月を以てプロレスラーを廃業し、現役を引退する」ことを表明した。引退の理由として天龍は、「妻の病気で、今度は俺が支える番だ」と思ったことと、「プロレス人気の盛り上がりにそろそろ潮時かな」と感じたことを挙げている。また天龍は「たかだか幕内の相撲取りだった自分がプロレスの世界に入って、名前が知られるようになって良かった。(全日本プロレスでの師匠である)ジャイアント馬場さんに感謝している。」と語った。11月に引退興行を行うことを予定し、それに合わせて『天龍源一郎 引退〜Revolution FINALTOUR』と題した引退カウントダウン大会を行っていくことも明らかにしている。以降引退までにメジャー、インディー問わず各団体に「天龍引退ロード」として参戦している。 2015年6月26日、天龍プロジェクトの記者会見を行い、11月15日の両国国技館興行にて引退試合を挙行することを発表した。天龍は「(蔵前の)国技館で初土俵を踏み、最後は(両国)国技館で終わるとは、これもひとつの運命」と、引退試合を行う心境を語った。 8月16日、両国国技館で行われた新日本プロレス主催の「G1クライマックス」優勝決定戦の会場に現れ、オカダ・カズチカに対して引退試合の相手に指名し、オカダもこれを受諾して決定した。 天龍は引退後について、指導者としてプロレス界に関わることは頑なに否定していた。自身のDVD発売を記念したトークショーを全国各地で行う一方で、芸能活動を本格的に開始した。以後、バラエティ番組の司会、本格的な俳優デビュー など、バラエティタレントとして多岐に渡る活動を行っている。 2019年4月から小脳梗塞を発症し3度入院、6月に退院。入退院の事実は9月に公表され、同月から芸能活動に復帰した。 2021年3月19日からは「うっ血性心不全」との診断により入院。4月28日、退院した。 2022年6月24日、天龍の現役時代に元WARのフロントやマネージャーを務めていた妻と死別した。妻は肺がんで療養中であった。 2022年9月2日、広範囲にわたる頸髄損傷のため「突然死のリスクが非常に高い状態である」との診断を受け入院していることを明らかにした。正式な病名を「環軸椎亜脱臼に伴う脊髄症・脊髄管狭窄症」と公表した。2か月間は頸椎を固定する「ハローベスト」を装着しリハビリに努め、2023年1月には自宅に一時帰宅するなど回復の傾向を見せた。同年2月12日には新木場1stRINGで天龍を支援する興行『天龍祭~天龍源一郎AID』の開催が決定し、さらに同月19日の日本プロレス殿堂会主催イベントの来場へ向け、リハビリを続けていた。しかし、同年2月11日に敗血症性ショックのため緊急手術を行った事を天龍プロジェクトが公表した。数日前から発熱や血圧の低下が見られたため、緊急性の高い状態であると判明し、緊急手術を行い成功したものの集中治療を受けている状態とされた。6月時点では主治医の許可を得て週刊誌系インターネット記事の取材に応じられる段階まで回復した。6月22日、退院。 タイトル歴三冠ヘビー級王座(第2代、第26代、第29代) 世界タッグ王座(第4代、第8代、第10代、第11代、第44代)(w / 阿修羅・原→スタン・ハンセン×3→安生洋二) アジアタッグ王座(第76代)(w / 渕正信) PWFヘビー級王座(第13代) UNヘビー級王座(第25代、第26代) PWF世界タッグ王座(第6代)(w / 阿修羅・原) インターナショナル・タッグ王座(第36代、第38代)(w / ジャンボ鶴田) 新三冠王者決定トーナメント優勝(2000年) チャンピオン・カーニバル優勝(2001年) 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝(1984年、1986年、1989年)(w / ジャンボ鶴田×2→スタン・ハンセン) SWS vs WWF トーナメント優勝(1990年) タッグトーナメント優勝(1990年)(w / 北尾光司) IWGPヘビー級王座(第25代) IWGPタッグ王座(第35代)(w / 越中詩郎) 日本J1王座(初代) WAR世界6人タッグ王座(第5代、第13代)(w / アニマル浜口、北原光騎→荒谷信孝、ウルティモ・ドラゴン) 6人タッグトーナメント優勝(1994年)(w / 大仁田厚、クラッシャー・バンバン・ビガロ) タッグトーナメント優勝(1995年)(w / ウルティモ・ドラゴン) 日本J1選手権争奪トーナメント優勝(1998年) ハッスルスーパータッグ王座(初代)(w / 安田忠夫) WMGタッグ王座(初代)(w / 長州力) WAR世界6人タッグ王座(第3代)(w / 嵐、石井智宏) MIZUCHI-R優勝(2013年)(w / 河上隆一) NWAミッドアトランティック・タッグ王座(w / ミスター・フジ) NWA世界6人タッグ王座(w / ロード・ウォリアー・ホーク、ロード・ウォリアー・アニマル) 殊勲賞(1981年) 敢闘賞(1983年) 最優秀タッグチーム賞(w / ジャンボ鶴田)(1983年) 殊勲賞(1984年) 最優秀タッグチーム賞(w / ジャンボ鶴田)(1985年) 最優秀選手賞 MVP(1986年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、8月31日・日本武道館)(1987年) 最優秀選手賞 MVP(1987年) 最優秀タッグチーム賞(w / 阿修羅・原)(1987年) 最優秀選手賞 MVP(1988年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs スタン・ハンセン、7月27日・長野市民体育館=PWF、UN2冠戦)(1988年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、6月5日・日本武道館=統一3冠戦)(1989年) 技能賞(1990年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ハルク・ホーガン、12月12日・東京ドーム)(1991年) 最優秀選手賞 MVP(1993年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 長州力、1月4日・東京ドーム)(1993年) 年間最高試合賞(大仁田厚、ターザン後藤 vs 天龍源一郎、阿修羅・原、3月2日・東京・両国国技館)(1994年) 殊勲賞(1996年) 年間最高試合賞(高田延彦 vs 天龍源一郎、9月11日・神宮球場)(1996年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 武藤敬司、IWGPヘビー級選手権試合、5月3日・福岡国際センター)(1999年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs オカダ・カズチカ、11月15日・東京・両国国技館)(2015年) 特別功労賞(2015年) 大相撲時代土俵歴初土俵:1964年1月場所 新十両:1971年9月場所 新入幕:1973年1月場所 最終場所:1976年9月場所 主な成績通算成績:393勝355敗 勝率.525 幕内成績:108勝132敗 勝率.450 十両成績:94勝71敗 勝率.570 現役在位:77場所 幕内在位:16場所 十両在位:11場所 各段優勝
幕下優勝:1回(1970年9月場所) 場所別成績
幕内対戦成績
改名歴島田 源一郎(しまだ げんいちろう)1964年1月場所 - 1970年9月場所 嶋田 源一郎(しまだ - )1970年11月場所 - 1971年5月場所 島田 源一郎(しまだ - )1971年7月場所 天龍 源一郎(てんりゅう - )1971年9月場所 - 1976年9月場所 2024/06/15 15:37更新
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tenryuu genichirou
天龍源一郎と同じ誕生日2月2日生まれ、同じ福井出身の人
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天龍源一郎と近い名前の人
話題のアホネイター
最近追加された芸能人・有名人
りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)
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