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天龍源一郎の情報 (てんりゅうげんいちろう)
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【12月4日】今日誕生日の芸能人・有名人

天龍源一郎の情報(てんりゅうげんいちろう) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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天龍 源一郎さんについて調べます

■名前・氏名
天龍 源一郎
(読み:てんりゅう げんいちろう)
■職業
格闘家
プロレス
■天龍源一郎の誕生日・生年月日
1950年2月2日 (年齢74歳)
寅年(とら年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
福井出身

(昭和25年)1950年生まれの人の年齢早見表

天龍源一郎と同じ1950年生まれの有名人・芸能人

天龍源一郎と同じ2月2日生まれの有名人・芸能人

天龍源一郎と同じ出身地福井県生まれの有名人・芸能人


天龍源一郎と関係のある人

坂口征二: ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、二代目タイガーマスク(三沢光晴)、スタン・ハンセンが全日本プロレスから貸し出され、新日本プロレスのリングに上がった。


ラッシャー木村: この技を受けた天龍源一郎は「丸太ん棒でひっぱたかれた様な感じ」と語っている)


佐々木健介: これらの言動を当時世話になっていた天龍源一郎から「子供に悪影響を与えたらどうするんだ」と諌められた。


アニマル浜口: 1985年7月18日には寺西とのコンビで石川敬士&佐藤昭雄からアジアタッグ王座を奪取するが、10月7日に行われた6人タッグマッチ(長州&谷津と組み、鶴田、天龍源一郎、石川と対戦)において、鶴田のブレーンバスターを受け失神KOとなり、そのまま欠場。


藤波辰爾: この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれた。


神取忍: また2000年、天龍源一郎とシングルで対戦し、TKOで敗北した。


木村健悟: 1993年2月には天龍源一郎とシングルマッチを行い、敗れはしたが天龍へのパワーボムを成功させた。


佐賀ノ花勝巳: 天龍源一郎の証言によると、当時14歳か15歳程度で既に年寄り専任であった自身の付け人であった天龍に「空間には三次元、四次元があるのを知っているか」と聞いてきて、理路整然と答えるような博学さを見せた。


ブルーザー=ブロディ: この他、1982年10月の天龍源一郎とのインターナショナルヘビー級タイトルマッチでは逆さ押さえ込みでフォール勝ちしたことがある。


ジャンボ鶴田: 年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場との師弟コンビを解散、天龍源一郎との鶴龍コンビで参加するが、ミラクルパワーコンビに次ぐ準優勝に終わる。


原口あきまさ: 天龍源一郎


渋沢一葉: 好きなレスラーは天龍源一郎


神取忍: 「(対戦相手の)天龍源一郎と(セコンドの)北斗晶が一番嫌いな人を」と秋山準に請われてのものである。


三沢光晴: 1990年春、天龍源一郎が全日本を退団しSWSへ移籍したことで、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。


松方弘樹: 唯一負けたのは天龍源一郎だという。


田上明: 楽太郎は天龍源一郎の中学時代の同級生で、その伝手で全日本プロレスの入団が決まったという。


大鵬幸喜: 天龍源一郎の証言によると、優勝30回に近付いていたとある場所の終盤、花道奥で当時まだ幕下で大鵬の付け人を行っていた天龍が大鵬の背中を拭いて控えに向かって行ったあとの下をパッと見たら、大鵬の足の形が床に残っていたという。


佐々木健介: 2005年12月14日に健介オフィスの株式会社化を発表、2006年2月11日にデビュー20周年の節目に初の自主興行を全日本プロレス、NOAHの協力の下後楽園ホールにて開催し、メインで小橋と組み中嶋勝彦と天龍源一郎とタッグマッチに出場した。


タイガー戸口: ディック・マードックに移っていたUNヘビー級王座への挑戦や、ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座への挑戦、プリンス・トンガと両A面でテーマ曲のシングルレコードが発売されるなど、当時の馬場の扱いは天龍源一郎よりも格上であった。


木村健悟: 1992年10月23日、後楽園ホールでのWARとの対抗戦で越中詩郎と組み、天龍源一郎・北原光騎と対戦、激闘を展開した。


倉持隆夫: 1988年3月5日に秋田市立体育館で行われた天龍源一郎&阿修羅・原組(龍原砲)VSハンセン&テリー・ゴディの実況も担当し、ハンセンが失神後に大暴れした一部始終も実況した。


福の花孝一: その張り手は天龍源一郎に「相撲で怖い、というよりも苦手だったのが“フックの花”こと福の花だ。


金剛正裕: 押尾川騒動以降、天龍源一郎は金剛との間に確執を抱いていた。


ウルティモ・ドラゴン: 1996年よりWCWに進出、10月11日、WAR大阪大会にてIWGPジュニア王座を含むジュニア8冠王者となり、10月28日には天龍源一郎と荒谷信孝をパートナーにWAR認定世界6人タッグ王座も獲得している。


蛾野正洋: 天龍源一郎


長州力: WMGタッグ王座:1回(w / 天龍源一郎)(初代)


冬木弘道: 天龍源一郎の付き人を務めた。


赤井沙希: 8月23日 - DDT両国大会にて天龍源一郎&高木三四郎&赤井沙希 vs 石川修司&樋口和貞&里村明衣子の6人タッグマッチに参戦、高木が樋口をシットダウンひまわりボムで下す。


ホーク=ウォリアー: NWA世界6人タッグ王座 : 3回(w / ロード・ウォリアー・アニマル&ダスティ・ローデス×2、ロード・ウォリアー・アニマル&天龍源一郎×1)


ブルーザー=ブロディ: 以後このベルトを巡ってドリー、鶴田、天龍源一郎らと抗争を繰り広げる。


天龍源一郎の情報まとめ

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天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう)さんの誕生日は1950年2月2日です。福井出身の格闘家
プロレスのようです。

もしもしロボ

引退、家族、父親、卒業、映画、兄弟、事件、趣味、事故、病気、現在、テレビ、結婚、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。天龍源一郎の現在の年齢は74歳のようです。

天龍源一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、1950年2月2日 - )は、日本の男性タレント、元プロレスラー、元大相撲力士。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長186cm、体重112kg)。血液型A型。所属事務所はMILLENNIUM PRO。エクセリングと業務提携している。

多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、天龍は65歳まで第一線で活躍し続け、日本のプロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として一目置かれる存在だった。

福井県の勝山市にて農家の長男として生まれる。農家の生まれであることから幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。同時に大きな体がコンプレックスになっており、勉強も苦手だったことと合わせて周囲からはからかわれがちであった。幼少期は夕方から相撲を見て、夜はプロレスやプロ野球の巨人戦を見るのが嶋田の世代の日常であった。嶋田が好きであった力士は「栃若」ではなく朝潮であり、嶋田は勝負に淡々としていたところやどこかほんわかした雰囲気を好きな理由として挙げている。朝潮が好きな力士であったため、入門が内定してからも高砂部屋の方が良かったと思うことがほんの少しだけあった。いわゆる「アンチ大鵬」であり、大鵬戦の際は柏戸、栃ノ海、佐田の山など対戦相手の方を応援したという。

当時の時代柄もあったが、小学校高学年になると学校を休んで田植えの手伝いを行うことを家族から課せられた。夏になると葉タバコの剪定を行い、足元にマムシがとぐろを巻く風を通さない畑の中で作業した。タバコの匂いが手に付くため嶋田少年は当時タバコに興味を持たず、タバコを吸ったのは50歳を過ぎてから5、6年の間だけである。

嶋田は後に「学校が好きだったわけじゃないけど、理不尽な気がして、自分が不憫で悔しかったのを覚えています」と家業の手伝いに対する思いを語っている。小学校時代から砲丸投げにリレーの選手、中学校に入ると柔道部や野球部と、少年時代はほとんどの運動部の試合に駆り出された。なかでも相撲は嶋田本人にとって楽しく、小学5年生からは中学生に負け無しであった。一方野球部の活動に関しては父も娯楽としか見ておらず否定的であり、相撲大会に駆り出されるうちに野球部はいつの間にか退部扱いになっていた。後に本人は、体が大きくて左投げであったことから、野球を続けていたらプロになってもっと金を稼いでいただろうと、冗談めかしながら振り返っていた。

嶋田の父は厳格であったが、稲刈りの季節でも秋場所が始まると作業を嶋田の祖父母や母に任せ、嶋田を連れて相撲を見ていた。嶋田の父も相撲の時だけは優しい父親というイメージであったため、相撲は嶋田にとって良い思い出であり、嶋田が相撲の世界に抵抗なく入れた要因となった。

勝山市立北郷小学校卒業後は勝山市立北部中学校へ入学するも、父が床屋で髪を切ってもらっていた際に床屋の店主が二所ノ関部屋後援者に「この辺りに相撲に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで二所ノ関部屋の巡業が来た時に二所ノ関部屋後援会が嶋田を連れて行って大鵬に会わせ、大相撲へ勧誘した。嶋田は相撲取りと言えばゴツゴツした厳つい風貌を思い浮かべていたが、均整のとれた綺麗な体をしていた大鵬を見た嶋田は泰然自若としたものを感じた。ちゃんこを食べながら大鵬と話を行っている時、大鵬からある食べ物を勧められたが、それが牛タンであることを知る(これが嶋田が牛タンを生れて初めて食べた時であった。)と、草を食べて涎を垂らしている牛の姿が想像され、途端にえづき、そこから箸が進まなくなった。中学2年の夏休みに20日間の体験入門を経験したが、目に飛び込んだ部屋施設は近代的なビルであり、親方の自室も映画に出てくるような洋館であった。嶋田は3階にある客室で寝泊まりしていたが、朝に4階の稽古場から四股を踏む音が響いて驚いたという。その時関取衆は巡業中であったため留守番していた若い衆としか相撲を取らなかったが、実際に相撲を取るとあっという間に羽目板まで吹っ飛ばされ、その強さを思い知らされた。嶋田の性格的にも、瞬時に勝ち負けが決まり、またすぐにリセットして仕切り直すという相撲のリズムは合っていた。入門後、地元に帰って秋の相撲大会に出れば1回も負けず、賞品の大学ノートが100冊くらい溜まったため、やはりプロで鍛えられるということは凄いと嶋田は思ったという。父は中学を卒業してから入門してほしいと考えており、嶋田に対しても「トボけた考えを起こすなよ!」と釘を刺したが、1963年の暮れに二所ノ関部屋の若者頭が再び勧誘に訪れ、紆余曲折があったが嶋田はその話を聞きたくなかったため友人の家に逃げていた。そんな時に力道山が刺殺されたことを伝える大ニュースを知った。プロレス界を築き上げた人物が、後にプロレスで大成する嶋田の入門の際にこの世を去ることに関して、後に嶋田は「なんか運命的ですね」と振り返る。因みに父も体が大きく村相撲でも強かったため将来は相撲取りになりたかったが、一人っ子なので両親に反対されて断念したという経緯をたどっている。

1963年12月、大相撲の二所ノ関部屋に入門。入門に際して地元の名士から5万円の餞別を貰った(当時平均的な月給が8000円から1万円程度であった)。新聞にも入門したという報告が掲載されて餞別ももらったので、本人はおめおめとは帰れないと覚悟していた。入門に伴い、中学2年途中で墨田区立両国中学校へ転校した。転校初日に教師から「お相撲さんは大学まで進む気はないでしょう。授業中に眠ってもいいから」と言われたことから学業の指導に差別を感じ、実際に白紙の答案用紙を提出する新弟子もいたことから頭に来て嶋田はこっそり通信教育の教材を取り寄せて相撲と学業の両立を誓い頑張っていたが、結局は兄弟子に見つかって通信教育を中止させられたという。入門当初は部屋に所属力士が80人おり、その中の一人であった大麒麟(当時・麒麟児)などと稽古をして力を付けた。最初はその日その日を過ごすので精いっぱいであったが、力士生活に慣れていくと「20歳までに十両に上がれればいいな」などと目標を持てるようになった。大鵬の付け人をしていたある時、大鵬は嶋田に対して「上の力士が下の者とやるときは、受けて立つ相撲を取れるようにならないとダメなんだ。自分からぶちかましにいくような、みっともない相撲は取るなよ」と助言した。

14歳のある時、自身を部屋に勧誘した若者頭に連れられて錦糸町の「ヤマキ」というステーキ屋で生まれて初めてステーキを食べた。当時の日本人にとってステーキは大層な贅沢品で、ましてや福井の田舎から上京した14歳の少年にとっては格別の味であった。この味は嶋田の印象に残り、プロレス入り後にはゲン担ぎとしてステーキを食べる習慣が身に付いた。現役当時の二所ノ関部屋は、場所中の初日と中日は決まってすき焼きだった。タニマチの三和銀行が毎回、大量の牛肉を差し入れたという。番付社会なので嶋田は入門してから5年から6年経って、ようやく肉のある場所に座れるようになった。しかもそれでも、生卵をつけて食べられるようになるのは、そこからさらに2年から3年を要した。当時の普段の食糧事情はというと、鍋の他におかずが3品から4品付くのは十両以上で、若い衆は鍋だけであった。嶋田は鍋の汁だけでどんぶり飯を3杯食べ、その汁も漬物すらも無くなって砂糖をかけて米を食べたりもした。2020年代になると下っ端力士も正面に座って胡坐をかいて食べているが、当時嶋田のような下っ端は、半身になって箸を持った手だけのばして米を食わなければならなかった。当時は弟子が多く、座れる人数が限られていたため、できるだけ多く座れるようにみんな半身で車座になっていた。

相撲部屋での生活は、入門前に父の下で過ごした日々より厳しくなく自由があったと嶋田本人は後年振り返っている。相撲教習所で受けた和歌森太郎の授業は本人曰く「俺らみたいな連中にはもったいないよ。あの和歌森先生の授業でも寝ているんだから(苦笑)」とのこと。教習所では礼儀を教え込まれたが、嶋田にとって一番印象的だったのは、ある親方に言われた「もし、今後相撲人気が無くなったとしても、40~50年は今の給与形態でお前たちを養っていけるだけの余裕はある」という話であり、嶋田は後に協会が今の両国国技館を無借金で建てた時に「あの話は本当だったんだ!」と実感した。一方、入門当初は「練習生」扱いであったため、当時の相撲部屋全体の経済水準によるところもあろうが、「練習生3、4人のためにもったいない」と稽古後に体を洗うための湯を沸かしてもらえず、冬でも水を浴びて体を洗った。師匠の事は最初「いつも火鉢の前に座っているかったるいオヤジ」程度にしか思っていなかったが、番付を上げて相撲のことが分かるようになると、自分を自由に破門・廃業させる権限を持つ、生殺与奪の権利を握る人物だと自覚して怖いという意識が生まれるようになった。

16歳の時のある巡業では、移動の際に兄弟子から大鵬の双眼鏡を持って行くよう命じられたが、それを聞き忘れたためその巡業中にかわいがりに遭い、竹刀や青竹、さらに角材で殴られたが「これで俺も一人前の力士だ」と却って自信をつけたといい、かわいがりを行った兄弟子たちも「どうだい、きつかったか? これでお前も一人前だよ」と翌日からは何事もなかったかのように接していた。日頃からかわいがりを行う兄弟子を稽古場の相撲で負かすことは自身にとっての気晴らしであった。嶋田本人もかわいがりを行う側になったことがあり、その時には人間の残虐性が出る様に自分も恐ろしくなったという。後年時津風部屋力士暴行死事件を受けて元幕内力士として記者からコメントを求められた際には「全く必要なし、人間がいじけるだけ、金属バットやビール瓶が出てくるようなのはただのイジメ」「かわいがりってのは原因があって、例えば門限を破ったとか、ご法度のタバコとか、やられる人に落ち度があったからで、やる方だって何かがないとやれないですよ」と当時とは正反対の認識を示した。自著でも同様の主張をしていた。

若手時代は金が無かったため両国から離れた小岩や平井で酒を飲み、よく兄弟子の悪口を言って憂さ晴らしをした。現役当時、力士の気晴らしと言えばパチンコとストリップぐらいであり、北の富士や玉の海が当時力士の趣味として珍しいゴルフやボウリングを嗜んでいたことには、天龍を含む力士皆が驚いていた。当時後年よりも大相撲力士が多かった時代背景上幕下になることは一定のステータスで、幕下になると一目置かれるようになったため、それで兄弟子気分になって遊び惚けてしまったのもしばらく足踏みした要因であると後に本人が振り返っている。

1965年5月場所初土俵の貴ノ花とは、相撲教習所で手を合わせており、負けはしなかったが吊り上げているつもりでも残られたりと独特のしなやかさとバネに手を焼き、当時三段目と幕下を往復していた嶋田は「俺って素質がないのかな」と考えさせられたという。ある時から突っ張りを取り入れ、それが自分に合っていたのか、以降番付を伸ばしていった。入門は嶋田の方が1年ほど早かったが、新弟子時代の貴ノ花には「おう、嶋田!」と呼び捨てにされていた。

「天龍」の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰める。四股名「天龍」は細くてすらっとした当時の嶋田の体型、反骨心のある気質などから、師匠が天竜と重なる所を覚え、関取に上がったらこの四股名を付けようと考えていたという。元々出羽海部屋の四股名であったため部屋付きの10代湊川(後9代二所ノ関)が出羽海部屋へ何度も出向いてようやく許しを得たといい、その天竜からは「お前、間違っても俺の名前を汚すなよ、コノヤロウ!」と面と向かって言われたという。しかし天龍は、「競走馬の名前や、町の中華料理屋の名前のイメージが先立って(苦笑)、その四股名の大きさにまったく気づいていなかったんですよ。のちにだんだん、文献を読んだりするうちに、『龍(竜)』とは中国では皇帝のシンボルとなるような最高の霊獣であるとか、あの『梅常陸』で、大相撲界に一時代を築いた、大横綱常陸山が直々に天竜さんに付けられた四股名だとか、そういうことを知ってあらためてすごさを認識したというのが、正直なところです」と当時を振り返っている。大鵬の引退相撲には関取として参加しており、かつての付け人として面目を保ち恩返しを行うことに成功した。常に先手で突っ張ってそのまま突き切るか叩き込む、攻撃の中に勝機を見いだすような取り口であったが、四つになった時に「こうなったら勝てる」という型がないという弱みがあった、と後に本人が2017年の相撲専門書籍で分析している。

力士時代はおだてられた部分もあったであろうが周囲から「大鵬二世」と称され、それだけの大器として期待されていた。しかし天龍本人は、それが自身の自惚れを生み、勝負に対する執念や相撲に向き合う姿勢が足りていない原因となったと2017年にムックの特集で振り返っている。現役当時、貴ノ花や輪島が砂だらけになって泥臭く鍛錬していたのを「ダサいな」と冷めた目で見ていた、相撲を舐めていた自分がいたと、後に自己批判している。1973年5月場所、3勝4敗で迎えた栃東知頼との取り組みから5連敗したのは、勝負に対する執念の無さの表れであったと自ら語っている。一方、1973年5月場所で三役に上がっていればプロレスに行くことはなかったであろうと語っている。因みに「大鵬二世」と称された弟子は6人いると後で天龍は聞いたという。

1975年、師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川親方(大麒麟)の押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛正裕が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈し、その後も部屋の力士に稽古相手をしてもらえなくなるなどの仕打ちを受ける。親方に1度反旗を翻したということから部屋の衆から嫌がらせを受けた天龍は「ここにいるのはよくない。俺がいなくなればコミュニケーションをとれる」と考えていた。完全に嫌気がさしていた頃、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右(後筑波大学名誉教授)と出会い、森岡がブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意。それまでプロレスを観戦したことはなく、レスラーの名前はおろか、技名も知らなかったという説がある。大相撲時代に向上心が無く甘えがあると自分で感じていた天龍は、プロレスに進んで自分を変えたいと感じていた。1976年秋場所に勝ち越した(東前頭13枚目、8勝7敗)のを最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。入門に至った背景には廃業前に付き合っていた女性が死去して相撲に対する励みが無くなったのもあり、一説には最終場所で勝ち越して相撲を辞めるのが勿体なく思っていたところ当時の師匠からプロレス入りすることをサンケイスポーツにバラされて引くに引けなくなったという。

入団と共に渡米し、ザ・ファンクスのもとで修行する。相撲時代にプロレスごっこをしていた時の感触から自分でも少しはやれるだろうと考えていたが、初めて全日本の道場でジャンボ鶴田にボディスラムを放たれた時には脱糞するかと思うほどの衝撃を受け、大相撲で幕内まで昇進した天龍の自信は崩れ去った。当時、そばで見ていた渕正信が言った「ねえ、プロレスは簡単じゃないでしょ。甘くないんだよ」という一言は40年以上経過しても本人にとって忘れられないものであった。ドリー・ファンク・ジュニアは現役の選手であったため1週間から10日に1回程度しか天龍を指導する余裕が無く、天龍は毎日のように電話で教えを乞うた。ドリーからは何かとジャンボ鶴田と比較され、当時の天龍にとってそれは嫌な事であったが、ドリーは倒されることに抵抗があってプロレスに適応できなかったアントン・ヘーシンクの指導に苦心した経験から「プロレスは投げられても負けじゃない。相手に身をゆだねることがスタミナを温存するポイントだ」と諭すように教えたという。ドリーに指導してもらえない間は腹筋ローラーやブリッジで体を鍛えたと言い、このトレーニングのおかげで現役を長く続けることができたとプロレス引退後に本人は振り返っている。

1976年11月13日(土曜日)にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューした(アメリカ時代のリングネームは「テン・ルー」。詳細は後述)。帰国後の同年12月5日、日大講堂(初代両国国技館)においてリング上で断髪式を行う。止め鋏は馬場が入れている。通常、幕内経験者の断髪式典は国技館(当時は蔵前国技館)の土俵上で開催されるのが通例であるが、プロレスのリング上でそれが行われるのはきわめて珍しい出来事でもあった。なお、デビュー当時のリング名は単に四股名と同じ「天竜」だけであった。

天龍の日本でのデビューは1977年6月11日、東京・世田谷区体育館における馬場と組んでのマリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦で、グランデをフォールして初陣を白星で飾る。大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されており、巡業も毎回グリーン車のチケットが用意された(グリーン車に乗れる日本人選手は他には馬場、ジャンボ鶴田だけ)。しかし本人はまだ一人前の動きもできないのに大熊元司、グレート小鹿ら大先輩レスラーを差し置いてグリーン車に乗るのは気が引けたため、普通車両に移動して先輩達と話をしていた。デビュー数年でメインイベントでのタイトルマッチが組まれるなどしたが、体格は大相撲時代の名残を残し、スタミナが不足していたこともあり、通常のシングルマッチでも見どころ無くあっさり敗戦を喫するなど結果が出ない時期が続いた。人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低く、タイガー戸口が全日本所属だった時期には、キャリアの違いもあって戸口よりも格下扱いであった。

その後はアメリカで再修行を行い、エディ・グラハムのCWF、ジム・バーネットのGCW、ジム・クロケット・ジュニアのMACWなど、NWAの南部テリトリーをヒールのポジションで転戦。MACWでは1981年2月7日、ノースカロライナ州グリーンズボロにてミスター・フジと組み、デューイ・ロバートソン&ジョージ・ウェルズを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。タイトル初戴冠を果たした。

帰国後の7月30日、交通事故の後遺症で緊急帰国したディック・スレーターの代打としてビル・ロビンソンのパートナーに起用され、当時の王者組の馬場・鶴田組保持のインターナショナル・タッグ王座の挑戦をしたことを契機に飛躍のきっかけを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように、この試合以降から評価も急上昇。全日本プロレス第3の男、風雲昇り龍としてブレイクする。この年の秋にはNWA世界王者リック・フレアーへの挑戦権も獲得した。

このインター・タッグ戦から、天龍はライバル団体である新日本プロレスの総帥のアントニオ猪木に遠慮して、全日マットでは誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め、全日本で異彩を放つようになっていく。もともとアメリカでは使っていたが「日本でもイノキに遠慮せず使ってしまえ」とロビンソンからアドバイスがあったという逸話が専門誌に掲載されることもあった(本人へのインタビューではない)。天龍はそれまでは紫のタイツを使用していたが、1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黒と黄のリングシューズという、引退まで続いた天龍スタイルへと変更。鶴田と組み次期ダブルエースの座を確立する。1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦では鶴田との鶴龍コンビを結成してリーグ戦に挑み、11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア戦では「馬場の生涯最後の32文人間ロケット砲」を受けている。鶴龍コンビはリーグ最終戦まで得点単独1位だったが、最終戦でスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビに敗れ優勝を逃した。しかし師匠の馬場&ドリーと同点2位という成績は、全日本エースの世代交代を印象づけるものとなり、この年のプロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を受賞した。シングル戦でも頭角を見せ、1984年2月にはリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得する。

さらに1984年9月からの長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田との鶴龍コンビで長州&谷津嘉章と抗争を繰り広げた。

1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日本マットの活性化を目指して龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げた。その後天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでの馬場&ラッシャー木村とのタッグ対決において、入場時に馬場を奇襲、孤立した木村を戦闘不能にした上で復活し孤軍奮闘する馬場からパワーボムからのエビ固めで、ハンセンと二人がかりながら日本人では初めて馬場からピンフォールを奪った。天龍は試合後、当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾った。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。

1990年、横浜文化体育館大会において鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱し、SWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。SWSでは『部屋別制度』という、他団体には存在しなかったシステムを取り入れており、部屋対抗戦をカード編成の主体とし、天龍は道場『レボリューション』の道場主に就任。SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場。北尾光司とタッグを組んでデモリッション(スマッシュ&クラッシュ)と対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した。SWSはマッチメイカーを天龍派であるレボリューション所属のザ・グレート・カブキが担当していたため、集客面や注目度などを検討して天龍やレボリューション派寄りのマッチメイクになる傾向が強く、それに不満を持つ反天龍派からの不満と反感を買い、天龍派と反天龍派の対立が深刻化し、それが大きな要因となり旗揚げから約2年程で崩壊している。

SWS崩壊後の1992年6月28日、天龍はWARを設立して新日本との対抗戦に活路を見出した。反選手会同盟と熱戦を繰り広げ、12月14日に越中詩郎を、1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。また、WAR時代にもWWFからの要請により1993年と1994年のロイヤルランブルに出場、1994年の試合では残り5人まで生き残った。

1994年1月4日、天龍は東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちを収めた唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった。1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。

1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し藤原喜明、北尾を撃破。1998年1月14日後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得する。この試合は、天龍としても満足のいくものだったようで試合後のインタビューの際に「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。

1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年、全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代及び29代三冠ヘビー級王座に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者に輝くなどの活躍を果たした。

2003年に旗揚げしたWJプロレスに旗揚げから参戦、旗揚げ戦から長州力とシングル6連戦をする予定であったが、3戦で休止となった。8月にはWJに入団(実際は発表だけで、契約はフリーであった。)、11月には長州とタッグを組んでWMGタッグを奪取したもののWJは経営が迷走し、WJを離脱した。

2004年1月4日、天龍は新日本プロレス東京ドーム大会に参戦、中西学とシングルで対決したが結果は天龍の敗北におわった。その後、同年2月1日、新日本プロレス札幌大会で中西とタッグを組んでIWGPタッグ王座に挑戦したが王座奪取は出来なかった。同年8月には2度目のG1 CLIMAX出場を果たす。

2005年初頭からは元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴や仲田龍は、三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの当時、馬場元子が認めなかったとされている。天龍も、ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕ができ、参戦が実現した。7月18日のプロレスリング・ノア 東京ドーム大会では天龍の元付き人であった小川良成と対戦し、勝利を収めた。他にも、ノア参戦時にはKENTA、潮崎豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦している。

この他、DRAGONGATEにも参戦し、天龍のWAR時代の元付き人でもあるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げた。同団体では2005年より最高顧問も務める。

同年11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦し、表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテインメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握っている。

2006年7月27日には6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。

2007年6月、「ハッスルエイド2007」でレイザーラモンHGに敗れてモンスター軍を追われたが、翌月に浜松で開かれたハッスル24のメインイベントでハッスル軍に助太刀し、リーダーで2006年8月まで共闘していた坂田亘の要請を受けてハッスル軍に加入。10月、曙に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。天龍もベテランとして若いメンバー達を支えつつ存在感を保ち続けた。 2008年3月14日、リアルジャパンプロレス後楽園大会で初代タイガーマスクと初対戦した。以後も主にハッスルを主戦場としつつ他団体へも時折出撃する形で活動を続けてきたが、2009年の年末にハッスルが事実上活動を停止してしまったことから、天龍は主戦場となるマットを失ってしまった。

ハッスルの活動停止後、しばらくは鳴りを潜めていた天龍だったが、2010年3月に入ると4月にプロレス団体「天龍プロジェクト」を設立し、活動を再開させる方針を明らかにした。同興行には、百田光雄や折原昌夫などが参加することが発表されている。なお、天龍プロジェクトは天龍の娘でもある嶋田紋奈が代表を務め、興行に係る各種業務を切り盛りしている。

2011年3月6日、ユニオンプロレスにおいて高木三四郎がプロデュースするプロジェクト「TKG48」に最高顧問として加入することが発表され、4月3日のユニオンプロレス新木場大会に参戦した。

2011年12月から腰部脊柱管狭窄症の治療のため、プロレス人生では初めての長期欠場に入った。2度の手術とリハビリを経て、2012年12月29日に後楽園ホールで行われた『天龍プロジェクト10 天龍源一郎復帰戦〜革命〜』のメインイベントで復帰戦を行った。

2015年2月9日、天龍は記者会見を開き、「今年(2015年)11月を以てプロレスラーを廃業し、現役を引退する」ことを表明した。引退の理由として天龍は、「妻の病気で、今度は俺が支える番だ」と思ったことと、「プロレス人気の盛り上がりにそろそろ潮時かな」と感じたことを挙げている。また天龍は「たかだか幕内の相撲取りだった自分がプロレスの世界に入って、名前が知られるようになって良かった。(全日本プロレスでの師匠である)ジャイアント馬場さんに感謝している。」と語った。11月に引退興行を行うことを予定し、それに合わせて『天龍源一郎 引退〜Revolution FINALTOUR』と題した引退カウントダウン大会を行っていくことも明らかにしている。以降引退までにメジャー、インディー問わず各団体に「天龍引退ロード」として参戦している。

2015年6月26日、天龍プロジェクトの記者会見を行い、11月15日の両国国技館興行にて引退試合を挙行することを発表した。天龍は「(蔵前の)国技館で初土俵を踏み、最後は(両国)国技館で終わるとは、これもひとつの運命」と、引退試合を行う心境を語った。

8月16日、両国国技館で行われた新日本プロレス主催の「G1クライマックス」優勝決定戦の会場に現れ、オカダ・カズチカに対して引退試合の相手に指名し、オカダもこれを受諾して決定した。

天龍は引退後について、指導者としてプロレス界に関わることは頑なに否定していた。自身のDVD発売を記念したトークショーを全国各地で行う一方で、芸能活動を本格的に開始した。以後、バラエティ番組の司会、本格的な俳優デビュー など、バラエティタレントとして多岐に渡る活動を行っている。

2019年4月から小脳梗塞を発症し3度入院、6月に退院。入退院の事実は9月に公表され、同月から芸能活動に復帰した。

2021年3月19日からは「うっ血性心不全」との診断により入院。4月28日、退院した。

2022年6月24日、天龍の現役時代に元WARのフロントやマネージャーを務めていた妻と死別した。妻は肺がんで療養中であった。

2022年9月2日、広範囲にわたる頸髄損傷のため「突然死のリスクが非常に高い状態である」との診断を受け入院していることを明らかにした。正式な病名を「環軸椎亜脱臼に伴う脊髄症・脊髄管狭窄症」と公表した。2か月間は頸椎を固定する「ハローベスト」を装着しリハビリに努め、2023年1月には自宅に一時帰宅するなど回復の傾向を見せた。同年2月12日には新木場1stRINGで天龍を支援する興行『天龍祭~天龍源一郎AID』の開催が決定し、さらに同月19日の日本プロレス殿堂会主催イベントの来場へ向け、リハビリを続けていた。しかし、同年2月11日に敗血症性ショックのため緊急手術を行った事を天龍プロジェクトが公表した。数日前から発熱や血圧の低下が見られたため、緊急性の高い状態であると判明し、緊急手術を行い成功したものの集中治療を受けている状態とされた。6月時点では主治医の許可を得て週刊誌系インターネット記事の取材に応じられる段階まで回復した。6月22日、退院。

三冠ヘビー級王座(第2代、第26代、第29代)

世界タッグ王座(第4代、第8代、第10代、第11代、第44代)(w / 阿修羅・原→スタン・ハンセン×3→安生洋二)

アジアタッグ王座(第76代)(w / 渕正信)

PWFヘビー級王座(第13代)

UNヘビー級王座(第25代、第26代)

PWF世界タッグ王座(第6代)(w / 阿修羅・原)

インターナショナル・タッグ王座(第36代、第38代)(w / ジャンボ鶴田)

新三冠王者決定トーナメント優勝(2000年)

チャンピオン・カーニバル優勝(2001年)

世界最強タッグ決定リーグ戦優勝(1984年、1986年、1989年)(w / ジャンボ鶴田×2→スタン・ハンセン)

SWS vs WWF トーナメント優勝(1990年)

タッグトーナメント優勝(1990年)(w / 北尾光司)

IWGPヘビー級王座(第25代)

IWGPタッグ王座(第35代)(w / 越中詩郎)

日本J1王座(初代)

WAR世界6人タッグ王座(第5代、第13代)(w / アニマル浜口、北原光騎→荒谷信孝、ウルティモ・ドラゴン)

6人タッグトーナメント優勝(1994年)(w / 大仁田厚、クラッシャー・バンバン・ビガロ)

タッグトーナメント優勝(1995年)(w / ウルティモ・ドラゴン)

日本J1選手権争奪トーナメント優勝(1998年)

ハッスルスーパータッグ王座(初代)(w / 安田忠夫)

WMGタッグ王座(初代)(w / 長州力)

WAR世界6人タッグ王座(第3代)(w / 嵐、石井智宏)

MIZUCHI-R優勝(2013年)(w / 河上隆一)

NWAミッドアトランティック・タッグ王座(w / ミスター・フジ)

NWA世界6人タッグ王座(w / ロード・ウォリアー・ホーク、ロード・ウォリアー・アニマル)

殊勲賞(1981年)

敢闘賞(1983年)

最優秀タッグチーム賞(w / ジャンボ鶴田)(1983年)

殊勲賞(1984年)

最優秀タッグチーム賞(w / ジャンボ鶴田)(1985年)

最優秀選手賞 MVP(1986年)

年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、8月31日・日本武道館)(1987年)

最優秀選手賞 MVP(1987年)

最優秀タッグチーム賞(w / 阿修羅・原)(1987年)

最優秀選手賞 MVP(1988年)

年間最高試合賞(天龍源一郎 vs スタン・ハンセン、7月27日・長野市民体育館=PWF、UN2冠戦)(1988年)

年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、6月5日・日本武道館=統一3冠戦)(1989年)

技能賞(1990年)

年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ハルク・ホーガン、12月12日・東京ドーム)(1991年)

最優秀選手賞 MVP(1993年)

年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 長州力、1月4日・東京ドーム)(1993年)

年間最高試合賞(大仁田厚、ターザン後藤 vs 天龍源一郎、阿修羅・原、3月2日・東京・両国国技館)(1994年)

殊勲賞(1996年)

年間最高試合賞(高田延彦 vs 天龍源一郎、9月11日・神宮球場)(1996年)

年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 武藤敬司、IWGPヘビー級選手権試合、5月3日・福岡国際センター)(1999年)

年間最高試合賞(天龍源一郎 vs オカダ・カズチカ、11月15日・東京・両国国技館)(2015年)

特別功労賞(2015年)

初土俵:1964年1月場所

新十両:1971年9月場所

新入幕:1973年1月場所

最終場所:1976年9月場所

通算成績:393勝355敗 勝率.525

幕内成績:108勝132敗 勝率.450

十両成績:94勝71敗 勝率.570

現役在位:77場所

幕内在位:16場所

十両在位:11場所

各段優勝

    十両優勝:1回(1975年7月場所)

    幕下優勝:1回(1970年9月場所)

    島田 源一郎(しまだ げんいちろう)1964年1月場所 - 1970年9月場所

    嶋田 源一郎(しまだ - )1970年11月場所 - 1971年5月場所

    島田 源一郎(しまだ - )1971年7月場所

    天龍 源一郎(てんりゅう - )1971年9月場所 - 1976年9月場所

    痛みの伝わるプロレスを標榜していたこともあり、相手のどんな技も徹底的に受けて相手を光らせる術に長けている。相手の技を食らった際のやられっぷりも、天龍の試合を見る上では欠かせない。

    ビッグマッチでは受けの時間のほうが長いが、それゆえに打たれ強さで耐えた上での反撃は半端ではなく、新日本に参戦した際にも多くの実力者とのシングルマッチで勝利を収めている。ここ一番ではジャーマン・スープレックス、浴びせ蹴り、トペといった意表を突く技を繰り出していくのも天龍の大きな特徴でもある。一方で、アメリカをサーキットした経験もあることから、アメリカン・プロレスにも対応でき、ランディ・サベージとの一戦では、女性マネージャーのシェリー・マーテルの介入に翻弄される役を演じきった。

    50代に入ってからは肉体の衰えもあり、パワーボムの様な大技を使う機会は徐々に減ったが喉笛へのチョップとグーパンチの連打、顔面蹴りなどの打撃を中心とした武骨なファイトスタイルを確立している。メジャーからインディーまで多くの団体で戦ったことで、後年はファイトスタイルの幅を更に広げている。

    打撃技の攻防には強い一方で、新日本勢と5対5のタッグマッチで戦った際には木戸修の脇固めやアキレス腱固めといった関節技に苦しめられ、試合途中にもかかわらず右腕を痛めてそのまま場外に戦線離脱したこともある。

    天龍は「大技を乱発せずに試合を組み立て、必殺技は一発で仕留める」というオーソドックスな試合展開には「古い」として批判的であり、「勝てるんだったら先に得意技を出して、もしそこで跳ね返されたら、そこからまた組み立てればいい」としている。

    その他、天龍の場合は試合中に対戦相手や観客を驚かせる意外な技を繰り出すことがある。以下、主な技を記す。

    父は大変血気盛んな人物であったといい、自身が小学生の頃の地元の相撲大会で「うちの息子を中学生の部に参加させろ」(毎回源一郎が優勝していたという)と無茶を言うも認められず、源一郎少年に八つ当たりした挙句自宅からバイクで30分かかる会場へ置いて帰ってしまった、という類の出来事がしばしばあったという。夜に家で数学の宿題を行っている際に「てめぇ、こんなのもわからねぇのか!」と殴られたこともしばしばあり、父の時代と解き方も方程式も違っている事を説明しても納得せず更に殴ったという。このことについて、父が死去した際に週刊ゴングで本人が「厳しい父だった。怖い父だった。でも、俺の心の中で常に英雄だった」と語っていた。一方で、礼儀作法や長男としてのあり方を教え込む時は理にかなっていたという。この教育観について天龍は後年「娘が言うことを聞かないことがあれば手を挙げていたが、それが大きな間違いだと気付かされた」と語った一方で「子供は自己判断なんか出来ないんだから、抑制がなければ誘惑のおもむくまま。今の子供たちが好き勝手やって弊害を生じさせているとしたら、それは親の責任。こういう事を考えるような歳になると、昔ながらの親父のやり方もある意味間違ってなかったかな」と父の教育観に共感する場面も見せた。

    東前頭7枚目だった1973年11月場所の千秋楽で横綱輪島が前日に休場した影響で「これより三役」に登場し、結びの一番で横綱琴櫻と対戦して上手出し投げで琴櫻に敗れている。

    天龍は、二所ノ関部屋で大麒麟と大鵬から特に影響を受けたという。まだ取的であったある年の九州場所中の夜、大麒麟が「じゃあ、俺はこれで帰るから。嶋田、これで遊んで来いよ!」と財布を手渡したが中に100万円が入っていたという。大鵬も豪快だった様で、天龍には特に奮発して財布ごと渡したという。だがあまりに高額なので、使わずに本人達の元へ戻しに行くことも多かったという。そうした出来事に影響を受け、天龍は関取に昇進してから現在に至るまで飲食は身銭を切る事にしている。大相撲時代もタニマチからの祝儀に一切頼らずに飲食は自費で行ったといい、金払いが滞ることも一切無かった。天龍の付き人をしていた小川良成は「巡業先での食事代はもちろんのことで、全日本の給料の何倍も天龍さんから小遣いを貰っていた」と公言している。

    鶴龍コンビ時代の北陸遠征の際にジャンボ鶴田とラーメンを食べていると、鶴田が店を出た際に「あれ、ジャンボ鶴田だよな?なんだ、ラーメンなんか食ってて力が出るのかよ?ステーキとかを食べてるんじゃないの?」と客にヒソヒソと冷やかされ、以来「ファンのイメージを壊してはいけない」と天龍はコンビニエンスストアやファミリーレストランに行くことをしなくなった。当時ブルーザー・ブロディとスタン・ハンセンが村さ来のメニューの1本数十円の焼き鳥に感激していたのには、プロレスラーとしてのイメージにそぐわないその様には驚いていた。

    相撲時代は細身ではあったが、筋肉質の体躯と優しく均整の取れた顔立ちから美男子力士として女性の人気が高かった。本人は「いやぁ、そんなに人気はなかったよ。あの頃は、北の富士さんや増位山さんとか、カッコいい力士がいっぱいいたから、俺なんかカヤの外ですよ」と謙遜しているが、同時代に相撲を取っていた元力士によると「天龍はものすごくモテていた」とのこと。

    落語家6代目三遊亭円楽は墨田区立両国中学校の同級生で親友だった。田上明を紹介された際には全日本入団に協力しており、また『笑点』内ではしばしば天龍の物真似を披露することもあった。

    プロレス転向の話を持ちかけられた際に、当時のプロレス界が相撲で大成しなかった人間の吹き溜まりのようにもなっていたことから、「幕内で勝ち越してから相撲を辞める」と決意。実際にその通りの結果を残し、晴れてプロレス転向を遂げた。

    「一人前に仕事が出来ないうちからカッコつけたことは言っちゃいけないと思って」プロレス転向後は「風雲昇り龍」として1981年にブレイクするまで無口で大人しい態度を貫いた。

    相撲時代は十両・幕内を長く務めたことや、プロレス転向後も相撲時代の名をそのまま使用したことから、付き合いの長い人物や同じバックボーンを持つプロレスラー(キラー・カーンなど)からは「天龍関」と呼ばれることが多い。

    元幕内力士として、力士が大型化して怪我などで巨体を持て余す様子を「俺たちにとって不本意だ」と嘆いている1人である。一方で「でもお前も現役時代、突っ張りしかしてなかったじゃないかって言われそうだけどね(笑)」と話している。

    1980年代後半以降、新日本・全日本の二大団体時代が終焉し多団体時代が到来するとプロレス界は「メジャー系」「UWF・格闘技系」「インディー系」「エンタメ系」「ルチャリブレ系」「女子プロ系」という形に各団体がジャンル分けされていったが、天龍は女子も含めた全てのジャンルのトップレスラーと対戦した。最大の宿敵である鶴田を皮切りに猪木・藤波・長州・谷津・輪島・武藤・ムタ・蝶野・橋本・馳・佐々木健介・川田・小川良成・高田・藤原・北尾・大仁田・ターザン後藤・ハヤブサ・マグナムTOKYO・神取(女子)とシングルマッチで対戦していずれも勝利を収めており、タッグマッチながら馬場から日本人初のピンフォールを奪っている。この他にもNOAHの三沢・小橋・田上・秋山。第三世代の天山・小島・永田・中西・西村。新三銃士の中邑・棚橋・柴田。UWF系出身の初代タイガーマスク・山崎・鈴木・高山。インディー系のポーゴ・ケンドーナガサキ。ハッスルのHG・インリン様(女子)曙。ルチャ系のサスケ・新崎人生。西口プロレスのアントニオ小猪木。更にはUFO時代の最も暴走していた頃の小川直也とも対戦している。

    プロレス界一の豪傑・酒豪として知られ、数々の男気溢れるエピソードを持つ。特に様々な酒をアイスペールに注いだものは「天龍カクテル」などと呼ばれており、自分は飲まずに記者などに次々飲ませて潰してしまう。プロレス界のもう一人の酒豪として知られる藤原喜明と飲んだ際は、ヘッドバット合戦をしたり相撲を取ったりした。またダチョウ倶楽部の上島竜兵に10万円の小遣いを与えたり、飲んでいた店にいた人全員(見知らぬ人も含め)の勘定を払ったりという気前の良さも持ち合わせる。地方巡業で若手レスラー・裏方スタッフ・マスコミと食事や飲み会に出かけた時も、勘定は全て天龍が持ってくれたという。上記の通り相撲時代の大麒麟と大鵬、そしてアメリカ修行中に世話になったリック・フレアーから多大な影響を受けているとインタビューで語っている。

    越中詩郎が全日本を離脱して新日本プロレスに移籍することを決め、ジャイアント馬場に了解を取るために全日本の遠征先の宿に向かった際、そこで偶然天龍と遭遇したという。事情を知った天龍は越中に付き添って馬場の元に向かい、あくまで移籍を認めようとしない馬場に対し、越中の意を汲んであげるように説得した。そして越中が宿を離れる際に、はなむけの言葉とともに餞別として越中の服のポケットに大量の一万円札を入れたという。

    「全日本第3の男」が定着し、UNヘビー級獲得に苦労したり、延髄斬りや卍固めを使用したことから猪木の亜流と揶揄されたりしていたが、テリー・ファンクは一度目の引退後に雑誌のコラムで天龍を「馬場の後の全日のボス」と評し、他の外国人選手も同調したが、天龍自身は「俺が奴らに勝てないから慰めてくれているだけだろ!」と自嘲したという。

    鶴田が返上したUNヘビー級への挑戦が決まった際、最初は親しい記者達に「なんでジャンボの『お下がり』のベルトに俺が挑戦しなきゃいけないんだ?」と不満を口にしていたが、猪木・坂口征二・カブキ(高千穂明久)が巻いたベルトであることを知ると、一転獲得に乗り気になったという。だが、王者テッド・デビアスとの選手権試合で獲得に失敗。試合後のロッカー・ルームで「いくらいい試合をやったって、タイトルが取れなきゃ意味が無いよ…」と洩らしたきり、プロレス記者・若手レスラー達も声をかけられない程落胆した。弟子を滅多に慰めたりしない師匠・ジャイアント馬場が「天龍、ネクスト・トライだ。(この試合で)終わり、という訳じゃないんだから…。なぁ?」と労うほどであった。それ故にリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利し王座に就いた時には、喜びと共に安堵した表情を見せている。

    上記の通り、全日本時代は“兄貴肌”で後輩の面倒見も良く、支持派も多かったという。三沢光晴はSWSに関して「もし(天龍さんから)直接声がかかっていれば行っていた」と語っており、また川田利明もノアに関して「あの時(SWS)の方がよっぽど(移籍するか)迷った所があった」と語っている。

    「なぜプロレスラーは技を避けないのですか?」という質問に対し、天龍は「よけられないんですよ。よけたら負けなんですよ。一度やっちゃったら、こいつにはもう勝てないって思っちゃう。俺はね」と答えている。また、週刊大衆のプロレス特集では「ハンセンのラリアットだろうと、ジャンボ(鶴田)のバックドロップだろうと、全てまともに受け、それでも立ち上がってみせるのがプロレスラーだから。それで負けたら『ああ、俺が弱いから負けたんだな』って思うだけでね」という自身の「受けの哲学」も披露している。

    前田日明は、第一次UWFから新日本にUターンしていた1987年頃に「俺たちに比べたら全日さんはてれんこ、てれんこ試合をしている印象がある」とインタビューで評していたが、その直後に、天龍と輪島のシングルマッチが組まれ、天龍が輪島の顔面を、レガースを付けない硬いリングシューズで容赦なく蹴っていたこと、それでも立ち上がる輪島、さらに容赦なく蹴り続ける天龍の姿に衝撃を受けており「全日本であんな激しい戦いをされたら、自分たちの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いたという。天龍はこの行為について、「たとえ横綱だった人間でも簡単に出来るほどプロレスは甘くないということ。それから、やっぱり横綱だった人間はヤワじゃないんだよということ。この二つを皆に知ってほしかったからやったんだ」と述べている。後に「あの頃の全日では僕が一番相撲取りの凄さについては分かっていました。毎日ダンベルに頭突きをして額を鍛えたり、プロレスラーに負けないくらい力士だって体は頑丈で、タフなんですよ。だからその頂点である横綱になった輪島さんなら『これくらいやっても大丈夫だ』って思いましたから」と当時の輪島に対する敬意と対抗心もカミングアウトしている。なお、輪島以外でも石川敬士・高木功や田上といった格下の相撲出身レスラーに対しても、厳しい洗礼を見舞い続けていた。

    入場曲の『サンダーストーム』について、SWS時代は当初、個人別ではなく部屋単位での入場曲が使用されていたため、会場で流されない時期があった。

    上田馬之助は、SWSが失敗した原因として「(天龍がSWS移籍する前の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。

    私生活ではジャイアント馬場が勧誘した渕正信・ジャンボ鶴田・大仁田厚とは交流が無かった。渕は性格が暗いので天龍自身、一度も一緒に飲んだことがなく、鶴田はブレーキを掛けながら飲むので一緒に飲んだことはあったが、自分と飲んでも楽しいのかと疑問を感じるようになって一緒に飲まなくなった。大仁田に関しては、後輩でありながら馬場に特別視されていた天龍を彼が快く思っていなかったのが目に見えて分かっていたため、一緒に飲みに行くどころの話ではなかった。

    神取忍と対戦した際、グーパンチや逆水平チョップを浴びせ、ボコボコにした。試合後顔を腫らした神取が「死ぬかと思った」「今日ほど男に生まれたいと思ったことはないよ」などのコメントをしている。天龍は男女の壁を越えて『ミスタープロレス』に挑んできた『ミスター女子プロレス』に対し手加減しないことで敬意を示した。

    全日本時代は色白だったが、SWS移籍を機に日焼けをし、褐色ボディへと変貌を遂げた。近年は白髪染めの影響か、頭髪が茶髪になっている。

    若手時代はハスキーな美声だったが、年をとってからはしゃがれた悪声になってしまい、反面ある種「滑舌の悪さ」はトレードマークとなっている。しゃがれた声になった理由はラリアットを喉に喰らったことである。

    2006年7月に、スポーツ紙上で「ずっとジャンボとの戦いに備えていた」と、袂を分かった後も変わることのない鶴田へのライバル心を明かした。記事では、ジャンボの死後も彼といつか出会うかのごとく、依然として戦いに備えており、そのことが2000年以降の活動につながっていると語られている。

    鶴田に関しては「レスラーとしては最高だったかもしれないけど『鶴田友美』として見た時に、どうしても相容れないものがあった」と後年評しており「リング上ではエースとして威張っていたが、リングを離れると殊更目立たないようにするなど両極端であった」という趣旨のコメントもしている。鶴田についての天龍の分析として「周りの同年代の人たちは普通の会社に就職していた訳だから、もしかしたらそこに負い目があったのかなと思わないでもないよ。だからことさら一般の人の様に生活がしたいという憧れがあったかもしれないね」というものもある。

    天龍は高松でのロード・ウォーリアーズとの試合でダブル・インパクトを喰らって負けた時、頭を打って引っ繰り返っていたら鶴田から「源ちゃん、ホラ!いつまで寝てるんだよ!」と頭を掴んで引っ張り起こされたことがあった。他にもコブラツイストをかけてリングサイドのカメラマンに「OK?」と写真を取らせるなど相手を敬わない鶴田の姿をコーナーから見た天龍は、鶴田を尊敬出来なくなったという。

    天龍は自身のベストバウトとしては、鶴田とのシングルでの最後の戦いとなった鶴龍対決の第7戦目を挙げている。また天龍は「正直、3試合目くらいからジャンボとの地力の差を感じていた」「いつも『お客さんにはジャンボよりも1ミリ先を見せよう』って頑張っていたけど、この最後の一騎討ちだけは、試合中に初めて『転んで(負けて)もいいや』って思った。実際負けてしまったんですが、もう全日本を辞めようって気持ちがあって(この試合を最後に退団)、それとどこか重なってしまったんですね」と語っている。また、試合前に鶴田が「今日はそんなにシャカリキにならなくても」と 言っていたのを伝え聞きし、気持ちが萎えてしまったとも語っている。

    後年も時間を見つけては鶴田の墓参りに赴く姿がマスコミに取り上げられていたが、2015年の墓参の際に区切りをつけることにした。天龍も鶴田の墓前で「この次に会うのは、そっちに行った時だよ」と告げたという。

    2009年6月に三沢が試合中の事故で他界したことについて記者からコメントを求められた時に、天龍は「俺とあいつの関係で月並みなことは言いたくない」として頑なにノーコメントを貫いた。2015年4月28日に原が亡くなった時も、徹底して(あえて)無言を貫き通した。引退後に上梓した自伝では、両者の死の知らせに接したときの思いを告白している。

    天龍の「リュウ」が、外国人には発音しにくいため、アメリカでの修行時代からアメリカでは「テン・ルー」のリングネームを使用していた。その他、修行時代からの友人でタッグパートナーでもあったスタン・ハンセンやロード・ウォリアーズ・リック・フレアーらも「天龍」ではなく「テンルー」と呼んでいた。

    1978年のフロリダ地区での再修行時代には、「テン・ルー」として素顔で闘うだけでなく白地に鷹をあしらったマスクを被り、パートナーに現地のレスラー(ソニー・ドライバー)、マネージャーにタイガー服部を従え、「ライジング・サンズ」として活動したこともある。

    インディー団体のリングにもこれまで上がり、若手を中心とした発展途上の選手に胸を貸している。アパッチプロレス軍のマンモス佐々木もその一人で、天龍に食らった(一騎討ちでフィニッシュ・ホールドとなった)必殺技である「53歳」を糧とし、当時佐々木の年齢に併せて「29歳」を開発している。

    2010年5月31日、西口プロレスに出場。前年まで出場していたハッスルから新たに激しいプロレスを魅せる天龍プロジェクトを立ち上げた矢先にアントニオ小猪木と対戦。掌打・グーパンチ・喉笛チョップ・顔面蹴りなどで、小猪木の額には靴紐のアザ・左右の奥歯を2本折るという妥協なきスタイルを貫いた。

    2009年12月23日には『ホリデーインタビュー』(NHK総合)という祝日の早朝番組に出演する。

    2012年以降は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ)の大晦日年越しスペシャル『笑ってはいけないシリーズ』において、笑いの刺客として出演したことがある。長州の滑舌の悪さにメンバーが爆笑した後に天龍が登場し、更にメンバーを悶絶させた。

    二所ノ関部屋が閉鎖された際、自身の育った部屋を見せようと部屋の前に娘を連れていった。天龍は看板を取って持ち帰りたい衝動に駆られたといい、それほど部屋への思い入れは深かった。

      大鵬の葬儀では外からでも手を合わせられればという思いで弔問に訪れたが、式場内に招き入れて貰ってきちんと故人の前で手を合わせることが出来た。天龍はこれを後に「あの時、すべてのことがクリアになったな、という思いがしました」と述懐している。

      プロレスラー活動の傍ら、1997年に東京都世田谷区(桜新町駅前)に寿司屋『鮨處 しま田』をオープン。天龍の妻が女将を務め、天龍自ら週に数回店を訪れて接客したりしていた。しかし2009年をもって閉店している。

      現役時代はブレイクして以降気の抜ける時間が無く、妻からは「あなたは24時間天龍源一郎だから、見ていても接していても疲れる」と言われた。そのため、引退後に家族旅行に行った際には当たり前のことなのに新鮮に思えたという。

      自慢の手料理は湯豆腐・油鍋(ごま油を大量に使用した鍋料理)・鯛麺。湯豆腐は二所ノ関部屋で若い衆だった頃に覚え、鯛麺はそうめん好きであった兄弟子の大文字が作っていたのを覚えた。油鍋は作ると部屋にごま油の匂いが充満するため、天龍が家庭でやるときには妻や娘が濡らしたバスタオルを振り回して必死で匂いを吸着するという。

      天龍は引退ロード終了後に嫌いなレスラーとして大仁田厚の名前を挙げており、その理由に関し「彼は自分がやっていることがすべて正義のように振舞うし、それをファンにも無理強いしているような所があるからね。ファンがそれで納得しているというのなら、なおさら節目でしっかりケジメをつけろと言いたいね」「大仁田は商売っけが先に立つから、とにかくそれが鼻について、相容れないものがあるよ」と説明している。

      THUNDER STORM

        ギタリストの高中正義が1981年にリリースされたアルバム『虹伝説 THE RAINBOW GOBLINS』の収録曲。なお、ハッスルに出場している時はオリジナル盤ではなくカバー版を使っている。SWS時代は冒頭にゴジラの鳴き声が入り途中で曲がアレンジされた物が使用されていた。2015年11月の引退試合では試合前に高中本人がリング上で生演奏を披露した。高中とはこの日が初対面だった。

        レボリューション〜天龍源一郎のテーマ〜

          「SWS旗揚げ直後からしばらくの間使用」それまでの入場テーマ曲を廃し、新たに各道場ごとに作られたテーマ曲が入場曲として使用されていたが、ファンから「THUNDERSTORMに戻してほしい」という要望により元に戻されている。2002年に発売された企画アルバム『プロレスQ 11PM』に収録されている。

          極道の妻(つま)たち Neo(2013年6月8日、東映ビデオ)

          幕が上がる(2015年2月28日) - ユッコのお父さん 役

          LIVE FOR TODAY-天龍源一郎-(2017年2月4日、川野浩司監督) - ドキュメンタリー

          マネーの天使〜あなたのお金、取り戻します!〜 第7話(2016年2月18日、読売テレビ) - 警備員 役

          カイトアンサ(2017年) - テンテン 役

          100万の命の上に俺は立っている(2020年) - ゲームマスター 役

          せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ(2021年) - デビるんパパ 役

          天龍源一郎のゴールデン洋画劇場 マッドマックス編(2020年9月11日、12日、フジテレビ

          リーヴライフ トゥエンティーワン(2013年)

          味の素冷凍食品「ザ・チャーハン」(2015年 - )

          リクルート「フロムエー・ナビ」(2016年) 声の出演

          大塚食品「MATCH」(2017年)

          ソフトバンク「Y!mobile・タダ学割」(2018年)

          ファミリーマート「週刊プロレス×ワンダ モーニングショット ファミリーマートのプロレス缶」(2022年)宣伝隊長

          Gacharic Spin「Don't Let Me Down」(2015年6月3日)

          GENERATIONS from EXILE TRIBE「DREAMERS」(2019年)

          LET IT DIE(2017年、ガンホー・オンライン・エンターテイメント) - グンカンヤマ 役(声の出演)

          龍が如く 極2(2017年12月7日、セガゲームス)– 本人役

          『天龍源一郎のプロレスレヴォリューション』(1994年、ジャレコ、スーパーファミコン)

          プロレスゲームの1つであり、画面の3分の2を埋めてしまう迫力のリアルタイムアクションウィンドウがメイン画面を食うような見栄えになっている。

          『瞬間(いま)を生きろ! - 天龍源一郎の反骨格闘人生』 (1994年 竹書房 ISBN 9784884759575)

          『天龍源一郎 天地に愧じず』 (小佐野景浩・菊池孝との共著 1998年 ビレッジセンター出版局 ISBN 9784894361089)

          『七勝八敗で生きよ』(2007年 東邦出版 ISBN 9784809406638)

          『天龍源一郎 酒羅の如く』(原作・岡戸隆一 画・叶精作 2013年 白夜書房 ISBN 9784861919961)

          『龍魂継承 - 天龍源一郎対談集』(2015年 ベースボールマガジン社 ISBN 9784583108551)

          『革命終焉』(嶋田まき代・ 嶋田紋奈との共著 2015年 辰巳出版 ISBN 9784777815890)

          『レボリューション - 天龍源一郎自伝』(2015年 ベースボールマガジン社 ISBN 9784583109060)

          『完本 天龍源一郎 LIVE FOR TODAY ‐いまを生きる‐』(『瞬間(いま)を生きろ!』の増補改訂版 2016年 竹書房 ISBN 9784801908444 )

          「格闘人生 腹いっぱい」『日経産業新聞』連載【仕事人秘録】全16回(2018年3月13日~4月4日)

          天龍源一郎がレジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録(BUBKA2018年11月号 - )

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          ^ 同年11月には妹の結婚式があり、父の意向で力士の立場で参加するために髷を残しておかなければならなかった。そのため渡米時代には天龍と同期の元力士である桜田一男が髪結いとして馬場の命で帯同していた。

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          ^ ただし、天龍自身はSWS設立後に酒席であったが直接声をかけたと後に証言している。

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          ^ これはファンから批判が集中したため、後に選手別入場曲は復活している。

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          ^ 実際は鶴田はこの時既に肝炎になっており、試合中に出血しては困る状態であった。

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          ^ 後に全日本のアメリカ遠征に出場する際にもこのリングネームを使用していた。

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          ^ 天龍源一郎が語る“鍋料理” 相撲時代に覚えた絶品こくウマ湯豆腐 嶋田家定番鍋を直伝!(3/3ページ) AERA dot. 2020.12.13 07:00 (2020年12月14日閲覧)

          ^ 天龍源一郎が語る“怖い人・苦手な人” みんなが怖れるカブキさん「野次る客はつまみ出せ!」(4/4ページ) AERAdot. 2021.6.13 07:00 (文・天龍源一郎、2021年6月13日閲覧)

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          1 ジャンボ鶴田

          2 天龍源一郎

          3 ジャンボ鶴田

          4 テリー・ゴディ

          5 スタン・ハンセン

          6 テリー・ゴディ

          7 スタン・ハンセン

          8 ジャンボ鶴田

          9 スタン・ハンセン

          10 三沢光晴

          11 スティーブ・ウィリアムス

          12 川田利明

          13 スタン・ハンセン

          14 三沢光晴

          15 田上明

          16 小橋健太

          17 三沢光晴

          18 川田利明

          19 小橋健太

          20 三沢光晴

          21 川田利明

          22 ベイダー

          23 三沢光晴

          24 ベイダー

          25 小橋健太

          26 天龍源一郎

          27 武藤敬司

          28 川田利明

          29 天龍源一郎

          30 グレート・ムタ

          31 橋本真也

          32 川田利明

          33 小島聡

          34 太陽ケア

          35 鈴木みのる

          36 佐々木健介

          37 諏訪魔

          38 グレート・ムタ

          39 高山善廣

          40 小島聡

          41 浜亮太

          42 鈴木みのる

          43 諏訪魔

          44 秋山準

          45 船木誠勝

          46 諏訪魔

          47 曙

          48 大森隆男

          49 諏訪魔

          50 ジョー・ドーリング

          51 潮崎豪

          52 曙

          53 秋山準

          54 諏訪魔

          55 宮原健斗

          56 石川修司

          57 宮原健斗

          58 諏訪魔

          59 ジョー・ドーリング

          60 宮原健斗

          61 ゼウス

          62 宮原健斗

          63 諏訪魔

          64 ジェイク・リー

          65 宮原健斗

          66 ジェイク・リー

          67 諏訪魔

          68 宮原健斗

          69 永田裕志

          70 青柳優馬

          71 中嶋勝彦

          72 安齊勇馬

          73 青柳優馬

          74 デイビーボーイ・スミスJr.

          1 ジャンボ鶴田&谷津嘉章

          2 スタン・ハンセン&テリー・ゴディ

          3 ジャンボ鶴田&谷津嘉章

          4 天龍源一郎&阿修羅・原

          5 ジャンボ鶴田&谷津嘉章

          6 スタン・ハンセン&テリー・ゴディ

          7 ジャンボ鶴田&谷津嘉章

          8 天龍源一郎&スタン・ハンセン

          9 ジャンボ鶴田&谷津嘉章

          10 天龍源一郎&スタン・ハンセン

          11 天龍源一郎&スタン・ハンセン

          12 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス

          13 ジャンボ鶴田&ザ・グレート・カブキ

          14 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス

          15 スタン・ハンセン&ダニー・スパイビー

          16 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス

          17 三沢光晴&川田利明

          18 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス

          19 ジャンボ鶴田&田上明

          20 三沢光晴&川田利明

          21 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス

          22 川田利明&田上明

          23 スタン・ハンセン&テッド・デビアス

          24 三沢光晴&小橋健太

          25 三沢光晴&小橋健太

          26 川田利明&田上明

          27 スタン・ハンセン&ゲーリー・オブライト

          28 川田利明&田上明

          29 三沢光晴&秋山準

          30 スティーブ・ウィリアムス&ジョニー・エース

          31 川田利明&田上明

          32 小橋健太&ジョニー・エース

          33 スティーブ・ウィリアムス&ゲーリー・オブライト

          34 小橋健太&ジョニー・エース

          35 川田利明&田上明

          36 小橋健太&秋山準

          37 ジョニー・エース&バート・ガン

          38 大森隆男&高山善廣

          39 三沢光晴&小川良成

          40 小橋健太&秋山準

          41 ベイダー&スティーブ・ウィリアムス

          42 川田利明&田上明

          43 太陽ケア&ジョニー・スミス

          44 天龍源一郎&安生洋二

          45 武藤敬司&太陽ケア

          46 ブライアン・アダムス&ブライアン・クラーク

          47 小島聡&太陽ケア

          48 武藤敬司&嵐

          49 小島聡&カズ・ハヤシ

          50 永田裕志&ケンドー・カシン

          51 太陽ケア&ジャマール

          52 川田利明&太陽ケア

          53 小島聡&TARU

          54 武藤敬司&ジョー・ドーリング

          55 太陽ケア&鈴木みのる

          56 武藤敬司&船木誠勝

          57 太陽ケア&曙

          58 KONO&ジョー・ドーリング

          59 グレート・ムタ&KENSO

          60 ダーク・オズ&ダーク・クエルボ

          61 大森隆男&征矢学

          62 真田聖也&ジョー・ドーリング

          63 大森隆男&征矢学

          64 大森隆男&征矢学

          65 秋山準&潮﨑豪

          66 諏訪魔&ジョー・ドーリング

          67 秋山準&大森隆男

          68 秋山準&大森隆男

          69 曙&吉江豊

          70 潮﨑豪&宮原健斗

          71 ゼウス&ボディガー

          72 関本大介&岡林裕二

          73 ゼウス&ボディガー

          74 真霜拳號&KAI

          75 ゼウス&ボディガー

          76 ジェイク・リー&野村直矢

          77 関本大介&岡林裕二

          78 秋山準&大森隆男

          79 諏訪魔&石川修司

          80 宮原健斗&ヨシタツ

          81 ゼウス&ボディガー

          82 崔領二&ディラン・ジェイムス

          83 諏訪魔&石川修司

          84 関本大介&岡林裕二

          85 諏訪魔&石川修司

          86 ゼウス&崔領二

          87 諏訪魔&石川修司

          88 宮原健斗&青柳優馬

          89 諏訪魔&芦野祥太郎

          90 石川修司&佐藤耕平

          91 芦野祥太郎&本田竜輝

          92 諏訪魔&KONO

          93 宮原健斗&野村卓矢

          94 青柳優馬&野村直矢

          95 拳王&征矢学

          96 宮原健斗&青柳優馬

          97 斉藤ジュン&斉藤レイ

          98 諏訪魔&鈴木秀樹

          99 斉藤ジュン&斉藤レイ

          1 キング・コング&タイガー・ジョキンダー

          2 フランク・バロア&ダン・ミラー

          3 力道山&豊登

          4 ルター・レンジ&リッキー・ワルドー

          5 力道山&豊登

          6 バディ・オースチン&マイク・シャープ

          7 力道山&豊登

          8 力道山&豊登

          9 豊登&吉村道明

          10 ジン・キニスキー&カリプス・ハリケーン

          11 豊登&ジャイアント馬場

          12 ザ・デストロイヤー&ビリー・レッド・ライオン

          13 豊登&ジャイアント馬場

          14 キラー・カール・コックス&ジョー・カロロ

          15 吉村道明&ヒロ・マツダ

          16 キラー・カール・コックス&エディ・グラハム

          17 吉村道明&ジャイアント馬場

          18 吉村道明&大木金太郎

          19 吉村道明&アントニオ猪木

          20 吉村道明&大木金太郎

          21 スカル・マーフィー&クロンダイク・ビル

          22 吉村道明&大木金太郎

          23 大木金太郎&アントニオ猪木

          24 吉村道明&アントニオ猪木

          25 吉村道明&アントニオ猪木

          26 吉村道明&坂口征二

          27 グレート小鹿&松岡巌鉄

          28 グレート小鹿&大熊元司

          29 ジェリー・オーツ&テッド・オーツ

          30 高千穂明久&サムソン・クツワダ

          31 グレート小鹿&大熊元司

          32 マイティ井上&アニマル浜口

          33 グレート小鹿&大熊元司

          34 グレート小鹿&大熊元司

          35 ケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリック

          36 佐藤昭雄&石川隆士

          37 マイティ井上&阿修羅・原

          38 阿修羅・原&石川隆士

          39 佐藤昭雄&石川隆士

          40 アニマル浜口&寺西勇

          41 寺西勇&保永昇男

          42 マイティ井上&石川隆士

          43 阿修羅・原&スーパー・ストロング・マシーン

          44 マイティ井上&石川隆士

          45 サムソン冬木&川田利明

          46 仲野信市&高野俊二

          47 サムソン冬木&川田利明

          48 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット

          49 サムソン冬木&川田利明

          50 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット

          51 タイガーマスク(三沢光晴)&小橋健太

          52 仲野信市&田上明

          53 小橋健太&ジョニー・エース

          54 ダイナマイト・キッド&ジョニー・スミス

          55 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット

          56 小橋健太&ジョニー・エース

          57 ジョー・ディートン&ビリー・ブラック

          58 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット

          59 小橋健太&菊地毅

          60 パトリオット&ジ・イーグル

          61 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット

          62 秋山準&大森隆男

          63 ウルフ・ホークフィールド&ジョニー・スミス

          64 本田多聞&泉田純

          65 ハヤブサ&新崎人生

          66 大森隆男&高山善廣

          67 三沢光晴&小川良成

          68 本田多聞&井上雅央

          69 垣原賢人&長井満也

          70 嵐&北原光騎

          71 嵐&荒谷信孝

          72 佐藤耕平&横井宏考

          73 金村キンタロー&黒田哲広

          74 ミスター雁之助&黒田哲広

          75 グレート・コスケ&獅龍

          76 天龍源一郎&渕正信

          77 長井満也&成瀬昌由

          78 ブキャナン&リコ

          79 近藤修司&"brother"YASSHI

          80 佐々木健介&中嶋勝彦

          81 鈴木みのる&NOSAWA論外

          82 曙&浜亮太

          83 TARU&ビッグ・ダディ・ブードゥー

          84 真田聖也&征矢学

          85 関本大介&岡林裕二

          86 真田聖也&征矢学

          87 関本大介&岡林裕二

          88 曙&浜亮太

          89 金本浩二&田中稔

          90 大和ヒロシ&佐藤光留

          91 金本浩二&田中稔

          92 鈴木鼓太郎&青木篤志

          93 秋山準&金丸義信

          94 入江茂弘&石井慧介

          95 宮原健斗&鈴木鼓太郎

          96 長井満也&南野タケシ

          97 金丸義信&ウルティモ・ドラゴン

          98 木髙イサミ&宮本裕向

          99 青木篤志&佐藤光留

          100 渕正信&大仁田厚

          101 青木篤志&佐藤光留

          102 ブラック・タイガーⅦ&TAKAみちのく

          103 野村直矢&青柳優馬

          104 秋山準&永田裕志

          105 野村直矢&青柳優馬

          106 ジェイク・リー&岩本煌史

          107 河上隆一&菊田一美

          108 ジェイク・リー&岩本煌史

          109 木髙イサミ&宮本裕向

          110 ゼウス&イザナギ

          111 T-Hawk&エル・リンダマン

          112 大森北斗&児玉裕輔

          113 稔&歳三

          114 佐藤光留&田村男児

          115 ヨシタツ&TAJIRI

          116 児玉裕輔&花畑正男

          117 大森隆男&井上雅央

          118 NOSAWA論外&ケンドー・カシン

          119 大仁田厚&ヨシタツ

          120 秋山準&鈴木鼓太郎

          121 坂口征夫&岡谷英樹

          122 大仁田厚&To-y

          123 佐藤光留&田村男児

          124 吉岡世起&MUSASHI

          125 安齊勇馬&ライジングHAYATO

          1 坂口征二&ストロング小林

          2 タイガー・ジェット・シン&上田馬之助

          1 アントニオ猪木

          2 藤波辰巳

          3 藤波辰巳

          4 ビッグバン・ベイダー

          5 サルマン・ハシミコフ

          6 長州力

          7 ビッグバン・ベイダー

          8 長州力

          9 藤波辰爾

          10 ビッグバン・ベイダー

          11 藤波辰爾

          12 長州力

          13 グレート・ムタ

          14 橋本真也

          15 藤波辰爾

          16 橋本真也

          17 武藤敬司

          18 高田延彦

          19 橋本真也

          20 佐々木健介

          21 藤波辰爾

          22 蝶野正洋

          23 スコット・ノートン

          24 武藤敬司

          25 天龍源一郎

          26 佐々木健介

          27 佐々木健介

          28 スコット・ノートン

          29 藤田和之

          30 安田忠夫

          31 永田裕志

          32 高山善廣

          33 天山広吉

          34 中邑真輔

          35 天山広吉

          36 佐々木健介

          37 ボブ・サップ

          38 藤田和之

          39 佐々木健介

          40 天山広吉

          41 小島聡

          42 天山広吉

          43 藤田和之

          44 ブロック・レスナー

          45 棚橋弘至

          46 永田裕志

          47 棚橋弘至

          48 中邑真輔

          49 武藤敬司

          50 棚橋弘至

          51 中西学

          52 棚橋弘至

          53 中邑真輔

          54 真壁刀義

          55 小島聡

          56 棚橋弘至

          57 オカダ・カズチカ

          58 棚橋弘至

          59 オカダ・カズチカ

          60 AJスタイルズ

          61 棚橋弘至

          62 AJスタイルズ

          63 オカダ・カズチカ

          64 内藤哲也

          65 オカダ・カズチカ

          66 ケニー・オメガ

          67 棚橋弘至

          68 ジェイ・ホワイト

          69 オカダ・カズチカ

          70 内藤哲也

          71 EVIL

          72 内藤哲也

          73 飯伏幸太

          1 ハルク・ホーガン

          2 アントニオ猪木

          3 アントニオ猪木

          1 ブロック・レスナー

          2 カート・アングル

          3 中邑真輔

          1 藤波辰巳&木村健吾

          2 前田日明&木戸修

          3 藤波辰巳&木村健吾

          4 越中詩郎&武藤敬司

          5 前田日明&高田伸彦

          6 藤原喜明&山崎一夫

          7 藤波辰巳&木村健吾

          8 長州力&マサ斎藤

          9 スーパー・ストロング・マシン&ジョージ高野

          10 長州力&飯塚孝之

          11 マサ斎藤&橋本真也

          12 武藤敬司&蝶野正洋

          13 馳浩&佐々木健介

          14 スーパー・ストロング・マシン&ヒロ斎藤

          15 馳浩&佐々木健介

          16 リック・スタイナー&スコット・スタイナー

          17 武藤敬司&馳浩

          18 ビッグバン・ベイダー&クラッシャー・バンバン・ビガロ

          19 リック・スタイナー&スコット・スタイナー

          20 スコット・ノートン&トニー・ホーム

          21 ホーク・ウォリアー&パワー・ウォリアー

          22 スコット・ノートン&ヘラクレス・ヘルナンデス

          23 ホーク・ウォリアー&パワー・ウォリアー

          24 武藤敬司&馳浩

          25 蝶野正洋&天山広吉

          26 橋本真也&平田淳嗣

          27 山崎一夫&飯塚高史

          28 蝶野正洋&天山広吉

          29 藤波辰爾&木村健悟

          30 長州力&佐々木健介

          31 中西学&小島聡

          32 佐々木健介&山崎一夫

          33 武藤敬司&蝶野正洋

          34 蝶野正洋&天山広吉

          35 天龍源一郎&越中詩郎

          36 天山広吉&小島聡

          37 佐々木健介&越中詩郎

          38 後藤達俊&小原道由

          39 中西学&永田裕志

          40 天山広吉&小島聡

          41 西村修&藤波辰爾

          42 武藤敬司&太陽ケア

          43 蝶野正洋&天山広吉

          44 吉江豊&棚橋弘至

          45 西村修&天山広吉

          46 鈴木みのる&高山善廣

          47 棚橋弘至&中邑真輔

          48 蝶野正洋&天山広吉

          49 中西学&大森隆男

          50 ジャイアント・バーナード&トラヴィス・トムコ

          51 真壁刀義&矢野通

          52 ブラザー・レイ&ブラザー・ディーボン

          53 ブルータス・マグナス&ダグ・ウィリアムズ

          54 ブラザー・レイ&ブラザー・ディーボン

          55 高橋裕二郎&内藤哲也

          56 永田裕志&井上亘

          57 ジャイアント・バーナード&カール・アンダーソン

          58 天山広吉&小島聡

          59 矢野通&飯塚高史

          60 天山広吉&小島聡

          61 ランス・アーチャー&デイビーボーイ・スミスJr.

          62 天山広吉&小島聡

          63 ランス・アーチャー&デイビーボーイ・スミスJr.

          64 カール・アンダーソン&ドク・ギャローズ

          65 後藤洋央紀&柴田勝頼

          66 カール・アンダーソン&ドク・ギャローズ

          67 マット・ターバン&マイケル・ベネット

          68 カール・アンダーソン&ドク・ギャローズ

          69 真壁刀義&本間朋晃

          70 タマ・トンガ&タンガ・ロア

          71 ジェイ・ブリスコ&マーク・ブリスコ

          72 タマ・トンガ&タンガ・ロア

          73 矢野通&石井智宏

          74 天山広吉&小島聡

          75 ハンソン&レイモンド・ロウ

          76 タマ・トンガ&タンガ・ロア

          77 ハンソン&レイモンド・ロウ

          78 ランス・アーチャー&デイビーボーイ・スミスJr.

          79 EVIL&SANADA

          80 マット・ジャクソン&ニック・ジャクソン

          81 タマ・トンガ&タンガ・ロア

          82 EVIL&SANADA

          83 タマ・トンガ&タンガ・ロア

          84 ジュース・ロビンソン&デビッド・フィンレー

          85 タマ・トンガ&タンガ・ロア

          86 棚橋弘至&飯伏幸太

          87 タイチ&ザック・セイバーJr.

          88 タマ・トンガ&タンガ・ロア

          89 タイチ&ザック・セイバーJr.

          90 内藤哲也&SANADA

          91 タイチ&ザック・セイバーJr.

          92 後藤洋央紀&YOSHI-HASHI

          93 ジェフ・コブ&グレート-O-カーン

          94 バッドラック・ファレ&チェーズ・オーエンズ

          95 グレート-O-カーン&ジェフ・コブ

          96 ダックス・ハーウッド&キャッシュ・ウィーラー

          97 後藤洋央紀&YOSHI-HASHI

          98 マーク・デイビス&カイル・フレッチャー

          99 後藤洋央紀&YOSHI-HASHI

          100 ヒクレオ&エル・ファンタズモ

          101 KENTA&チェーズ・オーエンズ

          102 後藤洋央紀&YOSHI-HASHI

          103 KENTA&チェーズ・オーエンズ

          104 マイキー・ニコルス&シェイン・ヘイスト

          105 グレート-O-カーン&HENARE

          1 冬木弘道 & 邪道 & 外道

          2 ボブ・バックランド & ザ・ウォーロード & スコット・プトスキー

          3 冬木弘道 & 邪道 & 外道

          4 越中詩郎 & 後藤達俊 & 小原道由

          5 天龍源一郎 & アニマル浜口 & 北原光騎

          6 冬木弘道 & 邪道 & 外道

          7 北原光騎 & 嵐 & 荒谷信孝

          8 冬木弘道 & 邪道 & 外道

          9 安生洋二 & 高山善廣 & 山本健一

          10 冬木弘道 & 邪道 & 外道

          11 高田延彦 & 佐野友飛 & 垣原賢人

          12 冬木弘道 & 安生洋二 & クラッシャー・バンバン・ビガロ

          13 天龍源一郎 & 荒谷信孝 & ウルティモ・ドラゴン

          14 北原光騎 & 荒谷信孝 & ランス・ストーム

          15 北尾光覇 & 平井伸和 & 望月成晃

          16 高山善廣 & 関本大介 & 後藤達俊

          17 諏訪魔 & 嵐 & 石井智宏

          18 天龍源一郎 & 嵐 & 石井智宏

          19 舞牙 & クラシック・キッド & 河上隆一

          20 新井健一郎 & 佐藤耕平 & 河野真幸

          21 GAINA & 拳剛 & 岩崎孝樹

          22 河野真幸 & 児玉裕輔 & 羆嵐

          23 橋本和樹 & 橋本大地 & 神谷英慶

          24 鈴木みのる&"brother"YASSHI&拳剛

          1974 アントニオ猪木

          1975 ジャイアント馬場

          1976 アントニオ猪木

          1977 アントニオ猪木

          1978 アントニオ猪木

          1979 ジャイアント馬場

          1980 アントニオ猪木

          1981 アントニオ猪木

          1982 タイガーマスク

          1983 ジャンボ鶴田

          1984 ジャンボ鶴田

          1985 藤波辰巳

          1986 天龍源一郎

          1987 天龍源一郎

          1988 天龍源一郎

          1989 前田日明

          1990 大仁田厚

          1991 ジャンボ鶴田

          1992 高田延彦

          1993 天龍源一郎

          1994 橋本真也

          1995 武藤敬司

          1996 小橋健太

          1997 蝶野正洋

          1998 小橋健太

          1999 武藤敬司

          2000 桜庭和志

          2001 武藤敬司

          2002 ボブ・サップ

          2003 高山善廣

          2004 佐々木健介

          2005 小島聡

          2006 鈴木みのる

          2007 三沢光晴

          2008 武藤敬司

          2009 棚橋弘至

          2010 杉浦貴

          2011 棚橋弘至

          2012 オカダ・カズチカ

          2013 オカダ・カズチカ

          2014 棚橋弘至

          2015 オカダ・カズチカ

          2016 内藤哲也

          2017 内藤哲也

          2018 棚橋弘至

          2019 オカダ・カズチカ

          2020 内藤哲也

          2021 鷹木信悟

          2022 オカダ・カズチカ

          2023 内藤哲也

          ISNI

          VIAF

          日本

          CiNii Books

          CiNii Research

          天龍源一郎

          日本のタレント

          日本のプロレスラー

          大相撲出身のプロレスラー

          全日本プロレスに所属したプロレスラー

          SWSに所属したプロレスラー

          SWSの関係者

          WARに所属したプロレスラー

          WJプロレスに所属したプロレスラー

          NWAに参戦したプロレスラー

          WWEに参戦したプロレスラー

          DRAGON GATEに参戦したプロレスラー

          DRAGON GATEの関係者

          プロレス・エグゼクティブ

          プロレス・トレーナー

          ハッスルの人物

          SMASH

          天龍プロジェクト

          日本プロレス殿堂会

          二所ノ関部屋

          福井県出身の大相撲力士

          福井県出身のスポーツ選手

          1950年生

          存命人物

          ISBNマジックリンクを使用しているページ

2024/12/02 23:28更新

tenryuu genichirou


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江守 康昌(えもり やすまさ)
1962年2月2日生まれの有名人 福井出身

2月2日生まれwiki情報なし(2024/11/27 00:19時点)


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