天龍源一郎の情報(てんりゅうげんいちろう) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


天龍 源一郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
天龍源一郎と関係のある人
大仁田厚: 試合は矢口壹琅と組んで天龍源一郎&越中詩郎と対戦する「ノーロープ有刺鉄線ストリートファイトトルネード・バリケードマット・ダブルヘル・デスマッチ」で、これで3度目の引退となったが、すぐに「曙太郎とデスマッチをやりたい」と発言するなど、誰も本当に引退したとは思っていなかった(曙とのデスマッチは後述の通り2012年に実現している)。 スタン=ハンセン: その後も馬場や鶴田、天龍源一郎と闘うが、鶴田との試合は旧知の間柄であることもあって、噛み合わない試合が多かった。 シェリー=マーテル: サベージ対天龍源一郎戦のセコンドに付き、サベージを援護射撃して試合を盛り上げた。 藤波辰爾: この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれた。 三沢光晴: もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、天龍源一郎、ロッキー羽田、桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。 さかなこうじ: 帯には天龍源一郎が推薦文を寄せている。 武藤敬司: 天龍源一郎から三冠ヘビー級王座を奪った他、自身の偽物である『GREAT MUTA』と対戦。 渋沢一葉: 好きなレスラーは天龍源一郎。 田上明: 12月7日の有明コロシアム大会にて田上の引退試合が行われ、歴代の付き人である平柳・森嶋猛・杉浦貴と組み天龍源一郎・藤波辰爾・井上雅央・志賀賢太郎組と対戦し「オレが田上」で井上からフォールを奪い、有終の美を飾った。 ビル=ロビンソン: 1982年3月には全日本参戦6年目にして『チャンピオン・カーニバル』に初出場したが、テッド・デビアス、ブルーザー・ブロディ、天龍源一郎など新しい世代の選手の後塵を拝して18人中6位に終わり、優勝争いに加わることはなかった。 ロドニー=アノアイ: アメリカでの悪役人気を受け、日本にもヨコズナとして来日し、1994年のWWFマニア・ツアーや1995年のWARのリングで本物の元幕内力士でもある天龍源一郎と対戦。 双津竜順一: この頃の同学年には、後にプロレスに転身した天龍源一郎がいた。 孝乃富士忠雄: オープニングマッチで曙と、第4試合でのタッグマッチで大谷晋二郎とタッグを組んで高山善廣・鈴木みのる組と、メインイベントでは天龍源一郎と3試合を戦った。 輪島大士: 同郷で大相撲・プロレス界で同僚だった天龍源一郎は後年、「ミーハーだけど憎めない人で、みんなに好かれていた」「とにかく頑強で、プロレスラーのえげつない攻撃にも根を上げることがなかった」と回想している。 佐賀ノ花勝巳: 天龍源一郎の証言によると、当時14歳か15歳程度で既に年寄り専任であった自身の付け人であった天龍に「空間には三次元、四次元があるのを知っているか」と聞いてきて、理路整然と答えるような博学さを見せた。 長州力: 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 長州力、1月4日・東京ドーム)(1993年) 維新力: 帰国後は大物であり角界の大先輩である天龍源一郎とは別の部屋(「道場・檄」)に加わった。 大仁田厚: 馬場やジャンボ鶴田、天龍源一郎に続く全日第4の男として注目されるが、1983年4月20日、東京都体育館でのヘクター・ゲレロとの防衛戦に勝利した後の終了後、リングを飛び降りた際に着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場、医師からは再起不能を宣告された。 松方弘樹: 唯一負けたのは天龍源一郎だという。 ユリオカ超特Q: 他に天龍源一郎や金本浩二などのものまねもできる。 三沢光晴: 1990年春、天龍源一郎が全日本を退団しSWSへ移籍したことで、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。 小川良成: 天龍源一郎の付き人を務め、その流れで1987年には天龍同盟入りを果たす。1990年、天龍源一郎をはじめSWSへ選手が大量離脱した後、団体内の流れが超世代軍と鶴田(正規)軍の抗争中心になった際には、小川はジャンボ鶴田が率いる鶴田軍に加わった。 長与千種: 10月11日、東京・両国国技館で開催された「神取忍生誕50年ミスター半世紀イベント SUPER LEGEND?伝説から神話へ?」のメインイベントで、神取忍、ダンプ松本、藤原喜明、対、長与千種、天龍源一郎、堀田祐美子の6人タッグマッチに出場。 アニマル浜口: 1985年7月18日には寺西とのコンビで石川敬士&佐藤昭雄からアジアタッグ王座を奪取するが、10月7日に行われた6人タッグマッチ(長州&谷津と組み、鶴田、天龍源一郎、石川と対戦)において、鶴田のブレーンバスターを受け失神KOとなり、そのまま欠場。 平田淳嗣: 6月12日には天龍源一郎のUNヘビー級王座に挑戦、奪取には失敗したものの(マシーンとなってから2度目のピンフォール負け)全日時代の名勝負として語られている。 永源遥: 1990年に天龍源一郎・谷津嘉章など全日本プロレスから選手・スタッフを多く引き抜いて旗揚げしたSWSからはその人脈や営業手腕を高く買われており、億単位の支度金を用意されて声が掛かったが自らSWSの入団を断っている。 若林健治: 1990年4月に行われ、最後の「鶴龍対決」となった鶴田VS天龍源一郎の実況を担当した際は、「これからは、鶴田VS天龍の名勝負を実況できるぞ」と燃えていたが、その直後に天龍が全日本プロレスを退団。 ブルー・ウルフ: 2004年5月3日、新日本プロレス東京ドーム大会「nexess」で兄ドルゴルスレン・スミヤバザルとタッグを組み、天龍源一郎、ミング組と対戦した。 風間ルミ: 2006年、WAR最終興行で一夜限り復帰し、天龍源一郎とタッグを組んだ。 マサ斉藤: ジャンボ鶴田や天龍源一郎と対戦している。 |
天龍源一郎の情報まとめ

天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう)さんの誕生日は1950年2月2日です。福井出身の格闘家
プロレスのようです。

引退、家族、父親、卒業、映画、兄弟、現在、事件、趣味、事故、病気、テレビ、結婚、ドラマに関する情報もありますね。去年の情報もありました。天龍源一郎の現在の年齢は75歳のようです。
天龍源一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、1950年2月2日 - )は、日本の男性タレント、元プロレスラー、元大相撲力士。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長186cm、体重112kg)。血液型A型。所属事務所はMILLENNIUM PRO。エクセリングと業務提携している。 多くの同年代レスラーが年齢とともに引退および前座でファンを楽しませる役割に回るなか、天龍は65歳まで第一線で活躍。日本のプロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として一目置かれる存在だった。 福井県の勝山市にて農家の長男として生まれる。そのため幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。大きな体をコンプレックスに感じ、勉強が苦手だったこととあわせ周囲からは揶揄されがちであった。幼少期は夕方から相撲、夜はプロレスやプロ野球の巨人戦を見るのが嶋田世代の日常であった。嶋田の好んだ力士は「栃若」ではなく朝潮であり、勝負に淡々としたところやどこかほんわかした雰囲気を好きな理由として挙げている。朝潮ファンゆえに、入門の内定後も高砂部屋の方が良かったと考えたことがわずかにあった。いわゆる「アンチ大鵬」であり、大鵬戦では柏戸、栃ノ海、佐田の山など対戦相手を応援したという。 当時の時代背景もあるが、小学校高学年になると学校を休んで家族から田植えの手伝いを課せられた。夏になると葉タバコの剪定を行い、足元にマムシがとぐろを巻く風を通さない畑の中で作業した。嶋田はタバコの匂いが手に付くため当時タバコに興味を持たず、実際に吸ったのは50歳を過ぎてからの5、6年間のみである。 のちに嶋田は「学校が好きだったわけじゃないけど、理不尽な気がして、自分が不憫で悔しかったのを覚えています」と家業の手伝いに対する思いを語っている。小学校時代から砲丸投げにリレーの選手、中学校に入ると柔道部や野球部と、少年時代はほとんどの運動部の試合に駆り出された。なかでも相撲は本人にとって楽しく、小学5年生からは中学生に負けなしであった。一方野球部の活動に関しては父も娯楽としか見ておらず否定的であり、相撲大会に駆り出されるうちに野球部はいつの間にか退部扱いになっていた。本人曰く、体が大きくて左投げだったことから、野球を続けていたらプロになってもっと金を稼いでいただろうと、冗談をまじえ述懐している。 厳格な嶋田の父は、稲刈りの季節でも秋場所が始まると嶋田の祖父母や母に作業を任せ、嶋田を連れて相撲を観ていた。相撲のときだけは優しい父親というイメージが嶋田のなかにあったため、相撲の存在自体が嶋田にとって良い思い出であり、抵抗なく相撲の世界へ足を踏み入れる要因となった。 勝山市立北郷小学校卒業後は勝山市立北部中学校へ入学。ある日、父が散髪を受けていた際にその床屋の店主が二所ノ関部屋後援者から「この辺りに相撲に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」とたずねられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答。これがきっかけで二所ノ関部屋の巡業が訪れた際、同部屋の後援会が嶋田を大鵬に会わせ、大相撲へ勧誘した。嶋田は相撲取りといえばゴツゴツした厳つい風貌をイメージしていたが、均整のとれた綺麗な体をした大鵬に泰然自若としたものを感じた。ちゃんこを食べながら会話をしていた大鵬から嶋田はある食べ物を勧められる。それが牛タンであることを知ると、草を食べて涎を垂らす牛の姿が想像され、途端にえづき箸が進まなくなった(このとき生まれて初めて牛タンを食したという)。中学2年の夏休み、20日間の体験入門を経験する。目に飛び込んだ部屋施設は近代的なビルで、親方の自室は映画で見るような洋館だった。嶋田は3階の客室で寝泊まりしたが、朝に4階の稽古場から四股を踏む音が響いて驚いたという。関取衆は巡業中だったため留守番中の若い衆のみと相撲を取ったが、あっという間に羽目板まで吹っ飛ばされ、その強さを思い知らされた。嶋田の性格的に、瞬時に勝敗が決し、また即座に仕切り直すという相撲のリズムが性に合っていた。入門後、地元に戻って秋の相撲大会に出場したところ負けなしだったという。賞品の大学ノートがおよそ100冊たまったのを見て、プロで鍛えられる凄さをあらためて実感する。父は中学卒業後の入門を希望しており、嶋田に対して「とぼけた考えを起こすなよ!」と釘を刺したが、1963年の暮れに二所ノ関部屋の若者頭が再び勧誘に訪れ、紆余曲折ののち嶋田は勧誘話を避けるため友人の家に身を潜めていた。そんなとき、力道山刺殺のニュースを知る。プロレス界の礎を築いた人物が、将来プロレスで大成する嶋田の入門時期にこの世を去ることについて、のちの嶋田は「なんか運命的ですね」と述懐した。ちなみに父も体が大きく村相撲で強かったことから相撲取りになりたかったが、一人っ子ゆえに両親からの反対で断念したという。 1963年12月、大相撲の二所ノ関部屋に入門。入門に際して地元の名士から5万円の餞別が贈られた(当時の平均月給は8000円から1万円程度)。餞別にくわえ新聞にも入門の事実が掲載されたため、おめおめとは帰れないと覚悟していた。入門に伴い、中学2年の途中で墨田区立両国中学校へ転校。転校初日、教師による「お相撲さんは大学まで進む気はないでしょう。授業中に眠ってもいいから」との発言を聞き学業の指導に差別を感じた。新弟子のなかには白紙の答案用紙を提出する者もいたが、頭に来た嶋田は通信教育の教材をこっそり取り寄せ相撲と学業の両立を誓い奮闘。だが兄弟子に見つかり通信教育は辞めざるをえなくなった。入門当初の部屋には80人の力士が在籍し、その中の大麒麟(当時・麒麟児)などと稽古をして力を付けた。当初は日々を過ごすので精いっぱいだったが、慣れるにつれ「20歳までに十両に上がれればいいな」などと目標を持てるようになった。大鵬の付け人だったあるとき、嶋田に対して大鵬は「上の力士が下の者とやるときは、受けて立つ相撲を取れるようにならないとだめなんだ。自分からぶちかましにいくような、みっともない相撲は取るなよ」と助言している。 14歳のあるとき、嶋田を部屋に勧誘した若者頭と共に錦糸町の「ヤマキ」というステーキ屋で人生初のステーキを口にした。当時の日本人にはステーキが大層な贅沢品で、ましてや福井の田舎から上京した14歳の少年にとっては格別だった。このときの味が印象に残り、プロレス入り後には験担ぎとしてステーキを食べる習慣につながった。現役当時の二所ノ関部屋は、場所中の初日と中日に決まってすき焼きを食していた。タニマチだった三和銀行が大量の牛肉を毎回差し入れたという。番付社会ゆえに嶋田は入門から5・6年経って、ようやく肉のある場所に座れた。とはいえ生卵をつけて食すには、さらに2・3年を要したという。当時の食糧事情は、十両以上が鍋のほかにおかずが3から4品付き、若い衆は鍋のみだった。嶋田は鍋の汁だけでどんぶり飯を3杯食べ、その汁や漬物も無くなると砂糖をかけて米を食べていた。2020年代になると幕下力士も正面で胡坐をかいて食事ができるが、当時は半身になって箸を持った手をのばして米を食したという。これは、弟子の多さから座れる人数が限られた当時、極力みんな座れるように半身で車座になっていたため。 のちの嶋田によれば、相撲部屋での生活は入門前に父のもとで過ごした日々より快適で自由があったとしている。相撲教習所で受けた和歌森太郎の授業は「俺らみたいな連中にはもったいないよ。あの和歌森先生の授業でも寝ているんだから(苦笑)」とのこと。教習所では主に礼儀の指導を受けたが、嶋田が最も印象的だったのは、ある親方の「もし今後相撲人気が無くなったとしても、40~50年は今の給与形態でお前たちを養っていけるだけの余裕はある」という言葉であり、嶋田はのちに協会が現在の両国国技館を無借金で建設した際「あの話は本当だったんだ」と実感した。一方、入門当初の練習生扱いだったころは、(当時の相撲部屋全体の経済水準によるが)「練習生3、4人のためにもったいない」と稽古後の体を洗う際に、冬でも湯ではなく水を浴びて体を洗った。師匠のことは当初「いつも火鉢の前に座っているかったるいおやじ」程度の認識だったが、番付が上がり相撲のいろはを理解すると、自分を自由に破門・廃業させられる、生殺与奪の権利を握る人物だと自覚して怖いという意識が生まれた。 16歳のときのある巡業にて、移動の際に兄弟子から大鵬の双眼鏡を持っていくよう指示されたが、それを聞き忘れたため当該巡業中にかわいがりを受ける。竹刀や青竹、角材などで殴打されたが「これで俺も一人前の力士だ」とむしろ自信になったという。かわいがりに参加した兄弟子らは「どうだい、きつかったか? これでお前も一人前だよ」と翌日から何事もなかったかのように接した。日常的にかわいがりを受けていた兄弟子を稽古場の相撲で負かすことは気晴らしになっていた。嶋田自身がかわいがりを実行する側になった際は、人間の残虐性が表面化するさまに自らも恐ろしくなったという。2007年の時津風部屋力士暴行死事件を受けて元幕内力士として記者からコメントを求められた際には「全く必要なし、人間がいじけるだけ、金属バットやビール瓶が出てくるようなのはただのイジメ」「かわいがりってのは原因があって、例えば門限を破ったとか、ご法度のタバコとか、やられる人に落ち度があったからで、やる方だって何かがないとやれないですよ」と当時とは正反対の認識を示した。自著でも同様の主張をしている。 若手時代は金欠のため両国から離れた小岩や平井で酒を飲み、よく兄弟子の悪口を言って憂さを晴らした。現役当時、力士の気晴らしといえばパチンコとストリップくらいで、北の富士や玉の海が力士の趣味として稀なゴルフやボウリングを嗜む姿は、天龍をはじめ力士みなが驚いていた。大相撲力士の絶対数が多かった時代でもあり、幕下でさえ一目置かれたため、兄弟子気分で調子に乗って遊び惚けたのはしばらく足踏みした要因であると本人は述懐している。 1965年5月場所初土俵の貴ノ花とは、相撲教習所で手合わせしている。敗れはしなかったが吊り上げたつもりで残られたりと独特のしなやかさとばねに手を焼き、当時三段目と幕下を往復していた嶋田は「俺って素質がないのかな」と考えさせられたという。あるときから突っ張りを取り入れ、以降は番付を伸ばしていった。入門は嶋田が1年ほど早かったが、新弟子時代の貴ノ花には「おう、嶋田!」と呼び捨てにされていた。 「天龍」の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上りつめる。四股名である「天龍」は細身ですらっとした当時の嶋田の体型、反骨心のある気質などから、天竜と重なるところを師匠が覚え、関取昇進後に付けようと考えていたという。もともと出羽海部屋の四股名だったため部屋付きの10代湊川(のちの9代二所ノ関)が出羽海部屋へ何度も足を運びようやく許可が下りたといい、天竜からは「お前、間違っても俺の名前を汚すなよ、このやろう!」と対面で忠告を受けたという。しかし天龍は、「競走馬の名前や、町の中華料理屋の名前のイメージが先立って(苦笑)、その四股名の大きさにまったく気づいていなかったんですよ。のちにだんだん、文献を読んだりするうちに、『龍(竜)』とは中国では皇帝のシンボルとなるような最高の霊獣であるとか、あの『梅常陸』で、大相撲界に一時代を築いた、大横綱常陸山が直々に天竜さんに付けられた四股名だとか、そういうことを知ってあらためてすごさを認識したというのが、正直なところです」と当時を振り返っている。大鵬の引退相撲には関取として参加し、かつての付け人として面目を保ち恩返しを果たした。自身の相撲について2017年の相撲専門書籍にて「常に先手で突っ張ってそのまま突き切るか叩き込む、攻撃の中に勝機を見いだすような取り口だったが、四つになったとき『こうなったら勝てる』という型がないという弱みがあった」と分析している。また力士時代は周囲から「大鵬二世」と称され、それだけの大器として期待されていた。天龍自身は、それが自惚れを生み、勝負に対する執念や相撲に向き合う姿勢が足りていない原因になったと同専門書籍で述懐している。現役当時、貴ノ花や輪島が砂だらけで泥臭く鍛錬するさまを「ダサいな」と冷めた目で見ていた、相撲を舐めている自分がいたと、のちに自己批判している。1973年5月場所、3勝4敗で迎えた栃東知頼との取り組みからの5連敗は、勝負に対する執念の無さの表れだったと自ら語った。一方、1973年5月場所で三役に上がっていればプロレスへは行っていないだろうと語っている。ちなみに天龍は、「大鵬二世」と称された弟子は6人いるとのちに聞かされたという。 1975年、師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川親方(大麒麟)の押尾川部屋入りを希望したが、金剛正裕が二所ノ関を襲名・継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈、その後は部屋の力士からのけ者にされ稽古相手がいなくなるなどの仕打ちを受ける。親方に一度反旗を翻したことから部屋の衆から嫌がらせを受けた天龍は「ここにいるのはよくない。俺がいなくなればコミュニケーションをとれる」と考えていた。完全に嫌気がさしたころ、大鵬と懇意にしていた元東京タイムズ記者の森岡理右(のち筑波大学名誉教授)と出会い、森岡がブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意。それまでプロレス観戦の経験はなく、レスラー名はおろか、技の名称も知らなかったという説がある。大相撲時代に向上心が無く甘えがあると自認していた天龍は、プロレスによって自分を変えたいと感じていた。 1976年秋場所の勝ち越し(東前頭13枚目、8勝7敗)を最後に廃業し、10月全日本プロレスへ入団。全日入門に至った背景には、廃業前に交際していた女性が死去し相撲に対する励みが無くなったこと、また最終場所で勝ち越したことで相撲に未練が湧き、煮え切らない天龍を見た親方がプロレス入りをサンケイスポーツにリークしたことで覚悟を決めたという。 入団とともに渡米し、ザ・ファンクスのもとで修行する。相撲時代のプロレスごっこの感触から多少はこなせる算段はあったが、全日本の道場でジャンボ鶴田のボディスラムを初めて受けた際に脱糞するかと思うほど衝撃を受け、大相撲で幕内まで昇進した天龍の自信は崩れ去った。そのさまを見ていた渕正信の「ねえ、プロレスは簡単じゃないでしょ。甘くないんだよ」という言葉は、天龍にとって40年以上経過しても忘れられないものとなった。現役選手だったドリー・ファンク・ジュニアは、1週間から10日に1度程度しか天龍を指導する余裕がないため、毎日のように電話で教えを乞うていた。天龍は、何かにつけジャンボ鶴田と比較するドリーの物言いを嫌ったが、ドリーは倒されることに抵抗がありプロレスに適応できなかったアントン・ヘーシンクの指導に苦心した経験から「プロレスは投げられても負けじゃない。相手に身をゆだねることがスタミナを温存するポイントだ」と諭すように教えたという。ドリーの指導が受けられない間は腹筋ローラーやブリッジで体を鍛えたといい、このトレーニングのおかげで現役を長く続けることができたとプロレス引退後に振り返っている。11月13日(土曜日)、テキサス州でのテッド・デビアス戦にてデビュー(アメリカ時代のリングネームは「テン・ルー」。詳細は後述)。帰国後の同年12月5日、日大講堂(初代両国国技館)においてリング上で断髪式を行う。止め鋏は馬場が入れている。幕内経験者の断髪式典は国技館(当時は蔵前国技館)における土俵上での開催が通例だが、プロレスのリング上で行うのはきわめて稀である。なお、デビュー当時のリング名は単に四股名と同じ「天竜」のみだった。 1977年6月11日、東京・世田谷区体育館における馬場と組んだマリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦にて日本デビュー。グランデをフォールして初陣を白星で飾る。大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場は大きな期待を寄せ、巡業ではグリーン車のチケットが毎回用意された(グリーン車に乗れる日本人選手はほかに馬場、鶴田のみ)。しかし本人は、半人前にもかかわらず大先輩(大熊元司、グレート小鹿など)を差し置いてのグリーン車は忍びないため、普通車両へ移り先輩たちと会話していた。デビュー数年でメインイベントでのタイトルマッチが組まれるなどしたが、体格は大相撲時代の名残を残し、スタミナ不足もあって通常のシングルマッチでも見どころなくあっさり敗戦するなど結果の出ない時期が続いた。人気・評価は馬場や鶴田の足元にも及ばず、タイガー戸口が全日本所属だった時期には、キャリアの違いもあり戸口より格下扱いだった。 その後はアメリカで再修行を行い、エディ・グラハムのCWF、ジム・バーネットのGCW、ジム・クロケット・ジュニアのMACWなど、NWAの南部テリトリーをヒールのポジションで転戦。MACWでは1981年2月7日、ノースカロライナ州グリーンズボロにてミスター・フジと組み、デューイ・ロバートソン&ジョージ・ウェルズを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。タイトル初戴冠を果たした。 帰国後の7月30日、交通事故の後遺症で緊急帰国したディック・スレーターの代役としてビル・ロビンソンのパートナーに起用された。当時の王者組である馬場・鶴田組が保持するインターナショナル・タッグ王座への挑戦を契機に飛躍のきっかけを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語るように、この試合以降から評価が急上昇。全日本プロレス第3の男、風雲昇り龍としてブレイクした。同年秋にはNWA世界王者リック・フレアーへの挑戦権も獲得。 このインター・タッグ戦から、天龍はライバル団体である新日本プロレス総帥・アントニオ猪木に配慮し、全日マットで誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを披露し始め、同団体内で異彩を放っていく。アメリカでは使用していたが「日本でもイノキに遠慮せず使ってしまえ」とロビンソンからアドバイスがあったという逸話が専門誌に掲載された(本人へのインタビューではない)。それまで紫のタイツを使用していた天龍は、1982年秋ごろからタイツを紫から黒へ、そして黒と黄のリングシューズという、引退まで続いた天龍スタイルへと変更。鶴田と組み次期ダブルエースの座を確立する。 1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦にて鶴田との鶴龍コンビを結成してリーグ戦に挑んだ。11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア戦では「馬場の生涯最後の32文人間ロケット砲」を受けている。鶴龍コンビはリーグ最終戦まで得点単独1位だったが、最終戦でスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビに敗れ優勝を逃した。しかし師匠の馬場&ドリーと同点2位という成績は、全日本エースの世代交代を印象づけるものとなり、この年のプロレス大賞における最優秀タッグチーム賞を受賞した。 シングル戦でも頭角を現し、1984年2月にはリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得する。9月からの長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田との鶴龍コンビで長州&谷津嘉章と抗争を繰り広げた。 1986年10月2日、阿修羅・原とのシングル戦での引き分けを契機に、長州離脱後には全日本マットの活性化を目指して龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げた。その後、天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマとした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んだ、馬場&ラッシャー木村とのタッグ対決において入場時に馬場を奇襲。孤立した木村を戦闘不能にしたうえで復活し孤軍奮闘する馬場からパワーボムからのエビ固めで、ハンセンと二人がかりながら日本人では初めて馬場からピンフォールを奪った。天龍は試合後、当時人気絶頂だったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾った。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦。まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。 4月19日、横浜文化体育館大会における鶴田とのシングルマッチ敗北を最後に全日本を離脱し、SWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。SWSでは『部屋別制度』という、他団体に存在しないシステムを導入していた。部屋対抗戦をカード編成の主体とし、天龍は道場『レボリューション』の道場主に就任。SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場。北尾光司とのタッグにてデモリッション(スマッシュ&クラッシュ)と対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した。SWSは天龍派であるレボリューション所属のザ・グレート・カブキがマッチメイカーを担当したため、集客面や注目度などを考慮し天龍やレボリューション派寄りのマッチメイクになる傾向が強かった。それに不満を持つ反天龍派からの反感を買い、天龍派と反天龍派の対立が深刻化、それが大きな要因となり旗揚げからおよそ2年で崩壊している。 SWS崩壊後の1992年6月28日、天龍はWARを設立して新日本との対抗戦に活路を見出した。反選手会同盟と熱戦を繰り広げ、12月14日に越中詩郎を、1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。また、WAR時代にもWWFからの要請により1993年および1994年のロイヤルランブルへ出場、1994年の試合では残り5人まで生き残った。 1994年1月4日、東京ドーム大会にてアントニオ猪木からピンフォール勝ちを収める。これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちを収めた唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった。1994年5月、当時「邪道プロレス」と呼ばれたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦。 1996年10月グレート・ムタ、12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。 1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し藤原喜明、北尾を撃破。1998年1月14日後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得する。同試合は、自身も満足いく内容だったようで試合後のインタビューでは「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。 1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日、大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチにて武藤敬司を破りIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年、全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代および29代三冠ヘビー級王座に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者となるなど活躍を見せた。 2003年の旗揚げと同時にWJプロレスへ参戦、旗揚げ戦から長州力とのシングル6連戦の予定だったが、3戦で休止となる。8月にはWJに入団(実際は発表のみで、契約はフリー)、11月には長州とタッグを組んでWMGタッグを奪取したものの経営が迷走するWJから離脱した。 2004年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会に参戦。中西学とのシングル対決に敗北。同年2月1日、新日本プロレス札幌大会にて中西とタッグを組みIWGPタッグ王座に挑戦したが王座奪取はならなかった。同年8月には2度目のG1 CLIMAX出場を果たす。 2005年初頭より、元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴や仲田龍は、三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させるべく働きかけたが馬場元子は容認しなかったとされる。ノア発足後、しばらく参戦のタイミングが合わなかった天龍だが、2004年まで主戦場とした新日本プロレスからの離脱でスケジュールが空き、参戦が実現した。7月18日のプロレスリング・ノア 東京ドーム大会では天龍の元付き人である小川良成から勝利を収めた。そのほか、ノア参戦時にはKENTA、潮崎豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦している。 DRAGONGATEへの参戦時には、天龍のWAR時代の元付き人でもあるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げた。同団体では2005年より最高顧問も務める。 11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦。シリアスなイメージが強い天龍だけに、エンターテインメント色の濃い同団体とは相性が悪いという見方もあるなか、試合のみならずマイクも積極的に握っている。 2006年7月27日には6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。 2007年6月、「ハッスルエイド2007」にてレイザーラモンHGに敗れモンスター軍を追われる。7月、浜松でのハッスル24メインイベントにてハッスル軍に助太刀し、2006年8月まで共闘していたリーダー・坂田亘の要請を受けハッスル軍へ加入。10月、曙に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。ベテランとして若いメンバーたちをサポートしつつ存在感を保ち続けた。2008年3月14日、リアルジャパンプロレス後楽園大会にて初代タイガーマスクと初対戦した。以降は、ハッスルを主戦場に他団体へのスポット参戦のかたちで活動を継続。2009年末、ハッスルが事実上の活動停止となったことで主戦場であるマットを失ってしまった。 ハッスルの活動停止後、しばらく表立った活動を見せなかった。2010年4月にプロレス団体「天龍プロジェクト」を設立し、活動再開することを表明。同興行には、百田光雄や折原昌夫などの参加が発表された。なお、天龍プロジェクトは天龍の娘である嶋田紋奈が代表を務め、興行にかかわる各種業務にあたっている。 2011年3月6日、ユニオンプロレスにおいて高木三四郎プロデュースによるプロジェクト「TKG48」に最高顧問として加入することが発表され、4月3日のユニオンプロレス新木場大会に参戦した。12月より腰部脊柱管狭窄症の治療のため、プロレス人生初となる長期欠場に入った。二度の手術とリハビリを経て、2012年12月29日の後楽園ホール興行『天龍プロジェクト10 天龍源一郎復帰戦〜革命〜』のメインイベントにて復帰戦を行った。 2015年2月9日、記者会見を開き「今年(2015年)11月を以てプロレスラーを廃業し、現役を引退する」ことを表明した。引退理由として「妻の病気で、今度は俺が支える番だ」と思ったこと、「プロレス人気の盛り上がりにそろそろ潮時かな」と感じたことを挙げている。また「たかだか幕内の相撲取りだった自分がプロレスの世界に入って、名前が知られるようになって良かった。(全日本プロレスでの師匠である)ジャイアント馬場さんに感謝している。」と語った。11月の引退興行の予定を報告し、くわえて『天龍源一郎 引退〜Revolution FINALTOUR』と題した引退カウントダウン大会も併せて行うことを明らかにした。以降は引退までにメジャー・インディー問わず各団体に「天龍引退ロード」として参戦している。6月26日、天龍プロジェクトの記者会見を行い、11月15日の両国国技館興行にて引退試合を挙行すると発表。天龍は「(蔵前の)国技館で初土俵を踏み、最後は(両国)国技館で終わるとは、これもひとつの運命」と、引退試合に臨む心境を語った。8月16日、両国国技館で行われた新日本プロレス主催「G1クライマックス」優勝決定戦の会場に現れ、オカダ・カズチカに対して引退試合の相手に指名、オカダがこれを受諾し決定した。 引退後に指導者としてプロレス界に関わることは頑なに否定していた。自身のDVD発売を記念したトークショーを全国各地で行う一方、芸能活動を本格的に開始した。以降はバラエティ番組の司会、本格的な俳優デビュー など、バラエティタレントとして多岐にわたる活動を行っている。 2019年4月、小脳梗塞を発症し三度入院するも6月に退院。入退院の事実は9月に公表され、同月から芸能活動に復帰した。 2021年3月19日より「うっ血性心不全」により入院。4月28日、退院。 2022年6月24日、天龍の現役時代に元WARのフロントやマネージャーを務めた妻と死別。肺がんの療養中だったという。9月2日、広範囲にわたる頸髄損傷のため「突然死のリスクが非常に高い状態である」との診断を受け入院中であることを明らかにした。正式な病名を「環軸椎亜脱臼に伴う脊髄症・脊髄管狭窄症」と公表。2か月間は頸椎を固定する「ハローベスト」を装着しリハビリに努め、2023年1月には自宅に一時帰宅するなど回復傾向を見せた。同年2月12日、新木場1stRINGにて天龍を支援する興行『天龍祭~天龍源一郎AID』の開催が決定。また同月19日の日本プロレス殿堂会主催イベントの来場へ向け、リハビリを続けていた。しかし、同年2月11日に敗血症性ショックのため緊急手術を受けたと天龍プロジェクトが公表。数日前から発熱や血圧の低下が見られ、緊急性の高い状態であると判明し、緊急手術には成功したものの集中治療を受けている状態とされた。6月時点では主治医の許可を得て週刊誌系インターネット記事の取材に応じられる段階まで回復した。6月22日、退院。 三冠ヘビー級王座(第2代、第26代、第29代) 世界タッグ王座(第4代、第8代、第10代、第11代、第44代)(w / 阿修羅・原→スタン・ハンセン×3→安生洋二) アジアタッグ王座(第76代)(w / 渕正信) PWFヘビー級王座(第13代) UNヘビー級王座(第25代、第26代) PWF世界タッグ王座(第6代)(w / 阿修羅・原) インターナショナル・タッグ王座(第36代、第38代)(w / ジャンボ鶴田) 新三冠王者決定トーナメント優勝(2000年) チャンピオン・カーニバル優勝(2001年) 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝(1984年、1986年、1989年)(w / ジャンボ鶴田×2→スタン・ハンセン) SWS vs WWF トーナメント優勝(1990年) タッグトーナメント優勝(1990年)(w / 北尾光司) IWGPヘビー級王座(第25代) IWGPタッグ王座(第35代)(w / 越中詩郎) 日本J1王座(初代) WAR世界6人タッグ王座(第5代、第13代)(w / アニマル浜口、北原光騎→荒谷信孝、ウルティモ・ドラゴン) 6人タッグトーナメント優勝(1994年)(w / 大仁田厚、クラッシャー・バンバン・ビガロ) タッグトーナメント優勝(1995年)(w / ウルティモ・ドラゴン) 日本J1選手権争奪トーナメント優勝(1998年) ハッスルスーパータッグ王座(初代)(w / 安田忠夫) WMGタッグ王座(初代)(w / 長州力) WAR世界6人タッグ王座(第3代)(w / 嵐、石井智宏) MIZUCHI-R優勝(2013年)(w / 河上隆一) NWAミッドアトランティック・タッグ王座(w / ミスター・フジ) NWA世界6人タッグ王座(w / ロード・ウォリアー・ホーク、ロード・ウォリアー・アニマル) 殊勲賞(1981年) 敢闘賞(1983年) 最優秀タッグチーム賞(w / ジャンボ鶴田)(1983年) 殊勲賞(1984年) 最優秀タッグチーム賞(w / ジャンボ鶴田)(1985年) 最優秀選手賞 MVP(1986年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、8月31日・日本武道館)(1987年) 最優秀選手賞 MVP(1987年) 最優秀タッグチーム賞(w / 阿修羅・原)(1987年) 最優秀選手賞 MVP(1988年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs スタン・ハンセン、7月27日・長野市民体育館=PWF、UN2冠戦)(1988年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、6月5日・日本武道館=統一3冠戦)(1989年) 技能賞(1990年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ハルク・ホーガン、12月12日・東京ドーム)(1991年) 最優秀選手賞 MVP(1993年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 長州力、1月4日・東京ドーム)(1993年) 年間最高試合賞(大仁田厚、ターザン後藤 vs 天龍源一郎、阿修羅・原、3月2日・東京・両国国技館)(1994年) 殊勲賞(1996年) 年間最高試合賞(高田延彦 vs 天龍源一郎、9月11日・神宮球場)(1996年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 武藤敬司、IWGPヘビー級選手権試合、5月3日・福岡国際センター)(1999年) 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs オカダ・カズチカ、11月15日・東京・両国国技館)(2015年) 特別功労賞(2015年) 初土俵:1964年1月場所 新十両:1971年9月場所 新入幕:1973年1月場所 最終場所:1976年9月場所 通算成績:393勝355敗 勝率.525 幕内成績:108勝132敗 勝率.450 十両成績:94勝71敗 勝率.570 現役在位:77場所 幕内在位:16場所 十両在位:11場所 各段優勝
幕下優勝:1回(1970年9月場所) 島田 源一郎(しまだ げんいちろう)1964年1月場所 - 1970年9月場所 嶋田 源一郎(しまだ - )1970年11月場所 - 1971年5月場所 島田 源一郎(しまだ - )1971年7月場所 天龍 源一郎(てんりゅう - )1971年9月場所 - 1976年9月場所 痛みの伝わるプロレスを標榜し、どんな技も徹底的に受けて相手を光らせる術に長けている。技を受ける際のやられぶりも、天龍の試合を見るうえで欠かせない。 ビッグマッチでは受けの時間が長いが、それゆえに耐えきったうえでの反撃は半端ではなく、新日本への参戦時には多くの実力者とのシングルマッチで勝利を収めている。好機とみるやジャーマン・スープレックス、浴びせ蹴り、トペといった意表を突く技を繰り出すのも天龍の大きな特徴。一方、アメリカをサーキットした経験から、アメリカン・プロレスにも対応でき、ランディ・サベージとの一戦では、女性マネージャーであるシェリー・マーテルの介入に翻弄される役を演じきった。 肉体の衰えはじめた50代以降は、パワーボムをはじめ大技を使用する頻度は徐々に減少したが喉笛へのチョップとグーパンチの連打、顔面蹴りなど打撃を中心とした武骨なファイトスタイルを確立している。メジャー・インディー問わず多くの団体で戦った経験により、後年はファイトスタイルの幅を更に広げている。 打撃技の攻防には強い一方で、新日本勢との5対5タッグマッチの際には木戸修の脇固めやアキレス腱固めといった関節技に苦しめられ、試合途中にもかかわらず右腕を痛めてそのまま場外に戦線離脱したこともある。 天龍は「大技を乱発せずに試合を組み立て、必殺技は一発で仕留める」というオーソドックスな試合展開を「古い」と批判的に捉え、「勝てるんだったら先に得意技を出して、もしそこで跳ね返されたら、そこからまた組み立てればいい」としている。 ※そのほか、試合中に対戦相手や観客を驚かせる意外な技を繰り出すことがある。以下、主な技を記す。 父は大変血気盛んな人物だったという。天龍が小学生のころ地元の相撲大会で「うちの息子を中学生の部に参加させろ」(毎回天龍が優勝していたという)と無茶を言うも認められず、息子へ八つ当たりした挙句自宅からバイクで30分を要する会場へ置いて帰ってしまった。当時はこうした出来事が珍しくなかったという。自宅で夜に数学の宿題をしていた際、「てめぇ、こんなのもわからねぇのか!」としばしば殴られ、父の時代とは解き方や方程式が異なることを説明するが納得せず更に殴られている。父が他界した際の週刊ゴングにて「厳しい父だった。怖い父だった。でも、俺の心の中で常に英雄だった」と述懐した。ただし礼儀作法や長男としてのあり方の指導は理にかなっていたという。この教育観についてのちの天龍は「娘が言うことを聞かないことがあれば手を挙げていたが、それが大きな間違いだと気付かされた」と語るも「子供は自己判断なんか出来ないんだから、抑制がなければ誘惑のおもむくまま。今の子供たちが好き勝手やって弊害を生じさせているとしたら、それは親の責任。こういう事を考えるような歳になると、昔ながらの親父のやり方もある意味間違ってなかったかな」と父の教育観に共感する場面も見せた。 東前頭7枚目だった1973年11月場所の千秋楽にて、横綱輪島が前日に休場した影響で「これより三役」の結びの一番で横綱琴櫻と対戦し上手出し投げで敗れている。 二所ノ関部屋で大麒麟と大鵬から特に影響を受けたという。取的だったある年の九州場所での夜、大麒麟から「じゃあ、俺はこれで帰るから。嶋田、これで遊んで来いよ!」と手渡された財布には100万円が入っていた。大鵬も豪快な人物で、天龍には特に奮発して財布ごと渡している。あまりに高額なため、そのまま本人の元へ戻しに行くことも多かったという。天龍はそれらに影響を受け、関取昇進後から現在まで飲食は身銭を切っている。大相撲時代もタニマチからの祝儀にいっさい頼らず飲食は自費で支払ったといい、金払いが滞ることもなかった。天龍の付き人だった小川良成は「巡業先での食事代はもちろんのことで、全日本の給料の何倍も天龍さんから小遣いを貰っていた」と公言している。 鶴龍コンビ時代の北陸遠征時、鶴田とラーメン屋での食事を終え店を出た際「あれ、ジャンボ鶴田だよな?なんだ、ラーメンなんか食ってて力が出るのかよ?ステーキとかを食べてるんじゃないの?」と客に小声で冷やかされ、以来「ファンのイメージを壊してはいけない」と天龍はコンビニやファミレスの利用を控えた。当時ブルーザー・ブロディとスタン・ハンセンが村さ来の1本数十円の焼き鳥に感激していたのには、プロレスラーとしてのイメージにそぐわないと驚いていた。 相撲時代は細身ながら、筋肉質の体躯と優しく均整の取れた顔立ちから美男子力士として女性人気が高かった。本人は「いやぁ、そんなに人気はなかったよ。あの頃は、北の富士さんや増位山さんとか、カッコいい力士がいっぱいいたから、俺なんかカヤの外ですよ」と謙遜しているが、同時代を過ごした元力士によれば「ものすごくモテていた」とのこと。 落語家6代目三遊亭円楽は墨田区立両国中学校の同級生で親友だった。田上明を紹介された際には全日本入団に協力しており、『笑点』での円楽はしばしば天龍の物真似を披露することもあった。 プロレス転向話が提案された際、当時のプロレス界が相撲で大成しなかった人間の吹き溜まりのようになっていたことから、「幕内で勝ち越してから相撲を辞める」と決意。その思いを体現し、晴れてプロレス転向を遂げた。 「一人前に仕事が出来ないうちからカッコつけたことは言っちゃいけないと思って」プロレス転向後は「風雲昇り龍」として1981年にブレイクするまで無口で大人しい態度を貫いた。 相撲時代に十両・幕内を長く務めたことや、プロレス転向後も相撲時代の名をそのまま使用したことから、旧知の人物や元力士のプロレスラー(キラー・カーンなど)から「天龍関」と呼ばれることが多い。 元幕内力士として、力士が大型化して怪我などで巨体を持て余す様子を「俺たちにとって不本意だ」と嘆いている1人である。一方「でもお前も現役時代、突っ張りしかしてなかったじゃないかって言われそうだけどね(笑)」と話している。 1980年代後半以降のプロレス界は、新日本・全日本の二大団体時代が終焉し多団体時代が到来すると「メジャー系」「UWF・格闘技系」「インディー系」「エンタメ系」「ルチャリブレ系」「女子プロ系」と各団体がカテゴライズされたが、天龍は女子も含めた全てのジャンルのトップレスラーと対戦した。最大の宿敵である鶴田を皮切りに、猪木・藤波・長州・谷津・輪島・武藤・ムタ・蝶野・橋本・馳・佐々木健介・川田・小川良成・高田・藤原・北尾・大仁田・ターザン後藤・ハヤブサ・マグナムTOKYO・神取(女子)らとのシングルマッチでいずれも勝利を収め、タッグマッチながら馬場から日本人初のピンフォールを奪っている。そのほかNOAHの三沢・小橋・田上・秋山。第三世代の天山・小島・永田・中西・西村。新三銃士の中邑・棚橋・柴田。UWF系出身の初代タイガーマスク・山崎・鈴木・高山。インディー系のポーゴ・ケンドーナガサキ。ハッスルのHG・インリン様(女子)曙。ルチャ系のサスケ・新崎人生。西口プロレスのアントニオ小猪木。さらにUFO時代の最も暴走していた小川直也とも対戦している。 プロレス界一の豪傑・酒豪として知られ、数々の男気溢れるエピソードを持つ。特に様々な酒をアイスペールに注いだものは「天龍カクテル」と呼ばれ、自分は飲まず記者などに次々飲ませ潰してしまう。プロレス界のもう一人の酒豪として知られる藤原喜明と飲んだ際は、ヘッドバット合戦や相撲を取ったりした。またダチョウ倶楽部の上島竜兵に10万円の小遣いを与えたり、飲んでいた店にいる全員分(見知らぬ人も含め)の会計を支払うなど気前の良さも持ち合わせる。地方巡業のおり、若手レスラー・裏方スタッフ・マスコミと食事や飲み会に出かけるときも、天龍が全て支払っていたという。上述した相撲時代の大麒麟と大鵬、そしてアメリカ修行中に世話になったリック・フレアーから多大な影響を受けているとインタビューで語っている。 越中詩郎が全日本から新日本プロレスへの移籍を決め、ジャイアント馬場の了承を得るべく全日本の遠征先の宿へ向かう際、偶然天龍と遭遇したという。事情を知った天龍は越中に付き添って馬場のもとに向かい、あくまで移籍を認めない馬場に対し、越中の意を汲むように説得した。越中が宿を離れるときには、はなむけの言葉とともに餞別として越中の服のポケットに大量の一万円札を入れたという。 「全日本第3の男」が定着し、UNヘビー級獲得に苦労したり、延髄斬りや卍固めの使用で猪木の亜流と揶揄された。しかしテリー・ファンクは、一度目の引退後に雑誌のコラムで天龍を「馬場の後の全日のボス」と評し、他の外国人選手も同調したが、天龍自身は「俺が奴らに勝てないから慰めてくれているだけだろ!」と自嘲したという。 鶴田の返上したUNヘビー級へ挑戦が決まった際、当初は親しい記者たちに「なんでジャンボの『お下がり』のベルトに俺が挑戦しなきゃいけないんだ?」と不満を口にしたが、猪木・坂口征二・カブキ(高千穂明久)が巻いたベルトであることを知ると、一転獲得の意欲が湧いたという。しかし王者テッド・デビアスとの選手権試合で獲得に失敗。試合後のロッカー・ルームで「いくらいい試合をやったって、タイトルが取れなきゃ意味が無いよ…」ともらしたきり、プロレス記者・若手レスラーたちが声をかけられないほど落胆した。弟子に対してめったに慰めの言葉をかけない師匠・ジャイアント馬場が「天龍、ネクスト・トライだ。(この試合で)終わり、という訳じゃないんだから…。なぁ?」と労うほどだった。それゆえリッキー・スティムボートを下し王座に就いたときには、喜びと共に安堵した表情を見せている。 上述したように、全日本時代は後輩の面倒見が良い兄貴肌で、支持派も多かったという。三沢光晴はSWSについて「もし(天龍さんから)直接声がかかっていれば行っていた」と語っている。また川田利明はノアについて「あの時(SWS)の方がよっぽど(移籍するか)迷った所があった」としている。 「なぜプロレスラーは技を避けないのですか?」という問いに「よけられないんですよ。よけたら負けなんですよ。一度やっちゃったら、こいつにはもう勝てないって思っちゃう。俺はね」と答えた。また、週刊大衆のプロレス特集にて「ハンセンのラリアットだろうと、ジャンボ(鶴田)のバックドロップだろうと、全てまともに受け、それでも立ち上がってみせるのがプロレスラーだから。それで負けたら『ああ、俺が弱いから負けたんだな』って思うだけでね」という自身の「受けの哲学」を披露した。 前田日明は、第一次UWFから新日本にUターンしていた1987年ごろ「俺たちに比べたら全日さんはてれんこ、てれんこ試合をしている印象がある」とインタビューで語っていた。その直後、天龍と輪島のシングルマッチにおいて、レガースを付けない硬いリングシューズで天龍が輪島の顔面を容赦なく蹴っていたこと、それでも立ち上がる輪島、さらに容赦なく蹴り続ける天龍の姿に衝撃を受けた前田は「全日本であんな激しい戦いをされたら、自分たちの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いたという。天龍はこの行為について、「たとえ横綱だった人間でも簡単に出来るほどプロレスは甘くないということ。それから、やっぱり横綱だった人間はヤワじゃないんだよということ。この二つを皆に知ってほしかったからやったんだ」と述べている。のちに「あの頃の全日では僕が一番相撲取りの凄さについては分かっていました。毎日ダンベルに頭突きをして額を鍛えたり、プロレスラーに負けないくらい力士だって体は頑丈で、タフなんですよ。だからその頂点である横綱になった輪島さんなら『これくらいやっても大丈夫だ』って思いましたから」と当時の輪島に対する敬意と対抗心も明かしている。なお輪島以外では、石川敬士・高木功や田上といった格下の相撲出身レスラーに対しても、厳しい洗礼を与え続けていた。 上田馬之助は、SWSが失敗した原因として「(天龍がSWS移籍する前の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。 私生活ではジャイアント馬場が勧誘した渕正信・ジャンボ鶴田・大仁田厚とは交流がなかった。渕は根暗な性格のため一緒に飲んだことがなく、鶴田はブレーキを掛けながら飲むため共に酒の席につくことはあったが、自分と飲んでいて楽しいのかと疑問を感じるようになり距離を置くようになった。大仁田は、後輩でありながら馬場に特別視されていた天龍を不快に感じていたことが一目瞭然だったため、飲みに行くどころの話ではなかった。 神取忍との対戦では、グーパンチや逆水平チョップを浴びせ、完膚なきまでに叩きのめした。試合後顔を腫らした神取が「死ぬかと思った」「今日ほど男に生まれたいと思ったことはないよ」などのコメントをしている。天龍は男女の壁を越えて『ミスタープロレス』に挑んできた『ミスター女子プロレス』に対し手加減しないことで敬意を示した。 全日本時代は色白だったが、SWS移籍を機に褐色の肌へと変貌を遂げた。近年は白髪染めの影響か、頭髪が茶髪になっている。 若手時代はハスキーな美声だったが、年を重ねしゃがれた悪声となった。幸か不幸か「滑舌の悪さ」はトレードマークになっている。声がしゃがれてしまった理由はラリアットを喉に受けたことによるもの。 2006年7月、スポーツ紙にて「ずっとジャンボとの戦いに備えていた」と、袂を分かった後も変わることのない鶴田へのライバル心を明かした。記事では、鶴田の死後も彼といつか出会うかのごとく、依然として戦いに備えており、そのことが2000年以降の活動につながっていると語られている。 鶴田について「レスラーとしては最高だったかもしれないけど『鶴田友美』として見た時に、どうしても相容れないものがあった」と後年評している。「リング上ではエースとして威張っていたが、リングを離れるとことさら目立たないようにするなど両極端だった」という旨のコメントも残している。また「周りの同年代の人たちは普通の会社に就職していた訳だから、もしかしたらそこに負い目があったのかなと思わないでもないよ。だからことさら一般の人の様に生活がしたいという憧れがあったかもしれないね」と鶴田を分析していた。 高松でのロード・ウォーリアーズとの試合にてダブル・インパクトを受けて敗北した際、頭を打って倒れている天龍にむかって鶴田は「源ちゃん、ホラ!いつまで寝てるんだよ!」と頭をつかんでひっぱり起こされたことがあった。また、コブラツイストをかけてリングサイドのカメラマンに「OK?」と写真を撮らせるなど相手に敬意を払わない鶴田の姿をコーナーから見た天龍は、鶴田を尊敬できなくなったという。 自身のベストバウトに、鶴田とのシングル最終戦となった鶴龍対決の第7戦目を挙げている。また「正直、3試合目くらいからジャンボとの地力の差を感じていた」「いつも『お客さんにはジャンボよりも1ミリ先を見せよう』って頑張っていたけど、この最後の一騎討ちだけは、試合中に初めて『転んで(負けて)もいいや』って思った。実際負けてしまったんですが、もう全日本を辞めようって気持ちがあって(この試合を最後に退団)、それとどこか重なってしまったんですね」と語っている。また、試合前の鶴田が「今日はそんなにシャカリキにならなくても」と 発言したことを伝え聞き、気持ちが萎えてしまったとも語った。 後年も時間を見つけては鶴田の墓参りへ赴く姿がマスコミに取り上げられたが、2015年の墓参りで区切りをつけている。鶴田の墓前で「この次に会うのは、そっちに行った時だよ」と告げたという。 2009年6月に試合中の事故で三沢が他界したことについて記者からコメントを求められた際、「俺とあいつの関係で月並みなことは言いたくない」として頑なにノーコメントを貫いた。2015年4月28日に原が亡くなったときも、徹底して無言を貫き通した。引退後に上梓した自伝では、両者の死の知らせに接したときの思いを告白している。 天龍の「リュウ」が、外国人には発音しにくいため、アメリカでの修行時代には「テン・ルー」のリングネームを使用していた。修行時代からの友人でタッグパートナーでもあったスタン・ハンセンやロード・ウォリアーズ・リック・フレアーらも「テンリュウ」ではなく「テンルー」と呼んでいた。 1978年のフロリダ地区での再修行時代には、「テン・ルー」として素顔で闘うだけでなく白地に鷹をあしらったマスクを被り、パートナーに現地のレスラー(ソニー・ドライバー)、マネージャーにタイガー服部を従え、「ライジング・サンズ」として活動していた。 インディー団体にも参戦し、若手を中心とした発展途上の選手に胸を貸している。アパッチプロレス軍のマンモス佐々木もその一人で、天龍に食らった(一騎討ちでフィニッシュ・ホールドとなった)必殺技である「53歳」を糧とし、佐々木の当時の年齢にあわせて「29歳」を開発している。 2010年5月31日、西口プロレスに出場。前年まで出場していたハッスルから新たに激しいプロレスを魅せる天龍プロジェクトを立ち上げた矢先にアントニオ小猪木と対戦。掌打・グーパンチ・喉笛チョップ・顔面蹴りなどで、小猪木の額には靴紐のアザ・左右の奥歯を2本折るという妥協なきスタイルを貫いた。 2009年12月23日、『ホリデーインタビュー』(NHK総合)という祝日の早朝番組に出演した。 2012年以降は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ)の大晦日年越しスペシャル『笑ってはいけないシリーズ』において、笑いの刺客として出演していた。長州の滑舌の悪さにメンバーが爆笑した後に天龍が登場し、更にメンバーを悶絶させた。 二所ノ関部屋が閉鎖された際、自身の育った部屋を見せようと部屋の前に娘を連れていった。看板を取りはずし持ち帰りたい衝動に駆られたといい、それほど部屋への思い入れは深かった。
プロレスラーの傍ら1997年、東京都世田谷区(桜新町駅前)に寿司屋『鮨處 しま田』をオープン。天龍の妻が女将を務め、自身も週に数回店を訪れて接客などをしていた。2009年をもって閉店。 現役時代はブレイク以降にリラックスする時間がとれず、妻から「あなたは24時間天龍源一郎だから、見ていても接していても疲れる」と指摘された。そのため、引退後に家族旅行へ行った際にはごく当たり前のことが新鮮に感じたという。 自慢の手料理は湯豆腐・油鍋(ごま油を大量に使用した鍋料理)・鯛麺。湯豆腐は二所ノ関部屋で若い衆だったころに覚え、鯛麺はそうめん好きだった兄弟子の大文字が作っているさまを見て学んだ。油鍋は調理する際、部屋にごま油の匂いが充満するため、自宅では妻や娘が濡らしたバスタオルを振り回して必死で匂いを吸着するという。 引退ロード終了後に嫌いなレスラーとして大仁田厚の名前を挙げている。その理由として「彼は自分がやっていることがすべて正義のように振舞うし、それをファンにも無理強いしているような所があるからね。ファンがそれで納得しているというのなら、なおさら節目でしっかりケジメをつけろと言いたいね」「大仁田は商売っけが先に立つから、とにかくそれが鼻について、相容れないものがあるよ」と説明した。 THUNDER STORM
レボリューション〜天龍源一郎のテーマ〜
極道の妻(つま)たち Neo(2013年6月8日、東映ビデオ) 幕が上がる(2015年2月28日) - ユッコのお父さん 役 LIVE FOR TODAY-天龍源一郎-(2017年2月4日、川野浩司監督) - ドキュメンタリー マネーの天使〜あなたのお金、取り戻します!〜 第7話(2016年2月18日、読売テレビ) - 警備員 役 カイトアンサ(2017年) - テンテン 役 100万の命の上に俺は立っている(2020年) - ゲームマスター 役 せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ(2021年) - デビるんパパ 役 天龍源一郎のゴールデン洋画劇場 マッドマックス編(2020年9月11日、12日、フジテレビ) リーヴライフ トゥエンティーワン(2013年) 味の素冷凍食品「ザ・チャーハン」(2015年 - ) リクルート「フロムエー・ナビ」(2016年) 声の出演 大塚食品「MATCH」(2017年) ソフトバンク「Y!mobile・タダ学割」(2018年) ファミリーマート「週刊プロレス×ワンダ モーニングショット ファミリーマートのプロレス缶」(2022年)宣伝隊長 Gacharic Spin「Don't Let Me Down」(2015年6月3日) GENERATIONS from EXILE TRIBE「DREAMERS」(2019年) LET IT DIE(2017年、ガンホー・オンライン・エンターテイメント) - グンカンヤマ 役(声の出演) 龍が如く 極2(2017年12月7日、セガゲームス)– 本人役 『天龍源一郎のプロレスレヴォリューション』(1994年、ジャレコ、スーパーファミコン) プロレスゲームの1つであり、画面の3分の2を埋めてしまう迫力のリアルタイムアクションウィンドウがメイン画面を食うような見栄えになっている。 『瞬間(いま)を生きろ! - 天龍源一郎の反骨格闘人生』 (1994年 竹書房 ISBN 9784884759575) 『天龍源一郎 天地に愧じず』 (小佐野景浩・菊池孝との共著 1998年 ビレッジセンター出版局 ISBN 9784894361089) 『七勝八敗で生きよ』(2007年 東邦出版 ISBN 9784809406638) 『天龍源一郎 酒羅の如く』(原作・岡戸隆一 画・叶精作 2013年 白夜書房 ISBN 9784861919961) 『龍魂継承 - 天龍源一郎対談集』(2015年 ベースボールマガジン社 ISBN 9784583108551) 『革命終焉』(嶋田まき代・ 嶋田紋奈との共著 2015年 辰巳出版 ISBN 9784777815890) 『レボリューション - 天龍源一郎自伝』(2015年 ベースボールマガジン社 ISBN 9784583109060) 『完本 天龍源一郎 LIVE FOR TODAY ‐いまを生きる‐』(『瞬間(いま)を生きろ!』の増補改訂版 2016年 竹書房 ISBN 9784801908444 ) 「格闘人生 腹いっぱい」『日経産業新聞』連載【仕事人秘録】全16回(2018年3月13日~4月4日) 天龍源一郎がレジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録(BUBKA2018年11月号 - ) ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p35 ^ “【天龍源一郎連載2】「うちの息子はでかい」父が話したことでスカウトが…”. 日刊スポーツ (2021年12月8日). 2023年7月12日閲覧。 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p42-46 ^ 天龍源一郎が語る“修行” 農家修行と相撲教習所、そしてジャンボ鶴田に食らったボディスラムの衝撃(1/4ページ) AERA dot. 2021.2.28 07:00 (2021年2月28日閲覧) ^ 「横綱までいく」と誘われ、中2で二所ノ関部屋へ(1/2ページ) NIKKEI STYLE 出世ナビ 仕事人秘録セレクション 2018/12/19(日経産業新聞2018年3月14日付より、2020年7月14日閲覧) ^ 天龍源一郎が語る“修行” 農家修行と相撲教習所、そしてジャンボ鶴田に食らったボディスラムの衝撃(2/4ページ) AERA dot. 2021.2.28 07:00 (2021年2月28日閲覧) ^ “天龍、最後まで昭和プロレス貫きレスラー40年に幕”. 日刊スポーツ (2015年11月16日). 2023年9月28日閲覧。 ^ 力士「天龍」、西前頭筆頭に 部屋の騒動で居場所失う(1/2ページ) NIKKEI STYLE 出世ナビ 仕事人秘録セレクション 2018/12/26(日経産業新聞2018年3月15日付より、2020年7月14日閲覧) ^ 中学校の同級生に6代目三遊亭円楽がいる。 ^ “天龍さんが語る“勝負メシ” 大横綱・大鵬の大好物をこっそり盗み食い!そのお味は?”. 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48 大森隆男 49 諏訪魔 50 ジョー・ドーリング 51 潮崎豪 52 曙 53 秋山準 54 諏訪魔 55 宮原健斗 56 石川修司 57 宮原健斗 58 諏訪魔 59 ジョー・ドーリング 60 宮原健斗 61 ゼウス 62 宮原健斗 63 諏訪魔 64 ジェイク・リー 65 宮原健斗 66 ジェイク・リー 67 諏訪魔 68 宮原健斗 69 永田裕志 70 青柳優馬 71 中嶋勝彦 72 安齊勇馬 73 青柳優馬 74 デイビーボーイ・スミスJr. 75 斉藤ジュン 表 話 編 歴 1 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 2 スタン・ハンセン&テリー・ゴディ 3 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 4 天龍源一郎&阿修羅・原 5 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 6 スタン・ハンセン&テリー・ゴディ 7 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 8 天龍源一郎&スタン・ハンセン 9 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 10 天龍源一郎&スタン・ハンセン 11 天龍源一郎&スタン・ハンセン 12 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 13 ジャンボ鶴田&ザ・グレート・カブキ 14 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 15 スタン・ハンセン&ダニー・スパイビー 16 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 17 三沢光晴&川田利明 18 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 19 ジャンボ鶴田&田上明 20 三沢光晴&川田利明 21 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 22 川田利明&田上明 23 スタン・ハンセン&テッド・デビアス 24 三沢光晴&小橋健太 25 三沢光晴&小橋健太 26 川田利明&田上明 27 スタン・ハンセン&ゲーリー・オブライト 28 川田利明&田上明 29 三沢光晴&秋山準 30 スティーブ・ウィリアムス&ジョニー・エース 31 川田利明&田上明 32 小橋健太&ジョニー・エース 33 スティーブ・ウィリアムス&ゲーリー・オブライト 34 小橋健太&ジョニー・エース 35 川田利明&田上明 36 小橋健太&秋山準 37 ジョニー・エース&バート・ガン 38 大森隆男&高山善廣 39 三沢光晴&小川良成 40 小橋健太&秋山準 41 ベイダー&スティーブ・ウィリアムス 42 川田利明&田上明 43 太陽ケア&ジョニー・スミス 44 天龍源一郎&安生洋二 45 武藤敬司&太陽ケア 46 ブライアン・アダムス&ブライアン・クラーク 47 小島聡&太陽ケア 48 武藤敬司&嵐 49 小島聡&カズ・ハヤシ 50 永田裕志&ケンドー・カシン 51 太陽ケア&ジャマール 52 川田利明&太陽ケア 53 小島聡&TARU 54 武藤敬司&ジョー・ドーリング 55 太陽ケア&鈴木みのる 56 武藤敬司&船木誠勝 57 太陽ケア&曙 58 KONO&ジョー・ドーリング 59 グレート・ムタ&KENSO 60 ダーク・オズ&ダーク・クエルボ 61 大森隆男&征矢学 62 真田聖也&ジョー・ドーリング 63 大森隆男&征矢学 64 大森隆男&征矢学 65 秋山準&潮﨑豪 66 諏訪魔&ジョー・ドーリング 67 秋山準&大森隆男 68 秋山準&大森隆男 69 曙&吉江豊 70 潮﨑豪&宮原健斗 71 ゼウス&ボディガー 72 関本大介&岡林裕二 73 ゼウス&ボディガー 74 真霜拳號&KAI 75 ゼウス&ボディガー 76 ジェイク・リー&野村直矢 77 関本大介&岡林裕二 78 秋山準&大森隆男 79 諏訪魔&石川修司 80 宮原健斗&ヨシタツ 81 ゼウス&ボディガー 82 崔領二&ディラン・ジェイムス 83 諏訪魔&石川修司 84 関本大介&岡林裕二 85 諏訪魔&石川修司 86 ゼウス&崔領二 87 諏訪魔&石川修司 88 宮原健斗&青柳優馬 89 諏訪魔&芦野祥太郎 90 石川修司&佐藤耕平 91 芦野祥太郎&本田竜輝 92 諏訪魔&KONO 93 宮原健斗&野村卓矢 94 青柳優馬&野村直矢 95 拳王&征矢学 96 宮原健斗&青柳優馬 97 斉藤ジュン&斉藤レイ 98 諏訪魔&鈴木秀樹 99 斉藤ジュン&斉藤レイ 100 宮原健斗&青柳優馬 表 話 編 歴 1 キング・コング&タイガー・ジョキンダー 2 フランク・バロア&ダン・ミラー 3 力道山&豊登 4 ルター・レンジ&リッキー・ワルドー 5 力道山&豊登 6 バディ・オースチン&マイク・シャープ 7 力道山&豊登 8 力道山&豊登 9 豊登&吉村道明 10 ジン・キニスキー&カリプス・ハリケーン 11 豊登&ジャイアント馬場 12 ザ・デストロイヤー&ビリー・レッド・ライオン 13 豊登&ジャイアント馬場 14 キラー・カール・コックス&ジョー・カロロ 15 吉村道明&ヒロ・マツダ 16 キラー・カール・コックス&エディ・グラハム 17 吉村道明&ジャイアント馬場 18 吉村道明&大木金太郎 19 吉村道明&アントニオ猪木 20 吉村道明&大木金太郎 21 スカル・マーフィー&クロンダイク・ビル 22 吉村道明&大木金太郎 23 大木金太郎&アントニオ猪木 24 吉村道明&アントニオ猪木 25 吉村道明&アントニオ猪木 26 吉村道明&坂口征二 27 グレート小鹿&松岡巌鉄 28 グレート小鹿&大熊元司 29 ジェリー・オーツ&テッド・オーツ 30 高千穂明久&サムソン・クツワダ 31 グレート小鹿&大熊元司 32 マイティ井上&アニマル浜口 33 グレート小鹿&大熊元司 34 グレート小鹿&大熊元司 35 ケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリック 36 佐藤昭雄&石川隆士 37 マイティ井上&阿修羅・原 38 阿修羅・原&石川隆士 39 佐藤昭雄&石川隆士 40 アニマル浜口&寺西勇 41 寺西勇&保永昇男 42 マイティ井上&石川隆士 43 阿修羅・原&スーパー・ストロング・マシーン 44 マイティ井上&石川隆士 45 サムソン冬木&川田利明 46 仲野信市&高野俊二 47 サムソン冬木&川田利明 48 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 49 サムソン冬木&川田利明 50 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 51 タイガーマスク(三沢光晴)&小橋健太 52 仲野信市&田上明 53 小橋健太&ジョニー・エース 54 ダイナマイト・キッド&ジョニー・スミス 55 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 56 小橋健太&ジョニー・エース 57 ジョー・ディートン&ビリー・ブラック 58 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 59 小橋健太&菊地毅 60 パトリオット&ジ・イーグル 61 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 62 秋山準&大森隆男 63 ウルフ・ホークフィールド&ジョニー・スミス 64 本田多聞&泉田純 65 ハヤブサ&新崎人生 66 大森隆男&高山善廣 67 三沢光晴&小川良成 68 本田多聞&井上雅央 69 垣原賢人&長井満也 70 嵐&北原光騎 71 嵐&荒谷信孝 72 佐藤耕平&横井宏考 73 金村キンタロー&黒田哲広 74 ミスター雁之助&黒田哲広 75 グレート・コスケ&獅龍 76 天龍源一郎&渕正信 77 長井満也&成瀬昌由 78 ブキャナン&リコ 79 近藤修司&"brother"YASSHI 80 佐々木健介&中嶋勝彦 81 鈴木みのる&NOSAWA論外 82 曙&浜亮太 83 TARU&ビッグ・ダディ・ブードゥー 84 真田聖也&征矢学 85 関本大介&岡林裕二 86 真田聖也&征矢学 87 関本大介&岡林裕二 88 曙&浜亮太 89 金本浩二&田中稔 90 大和ヒロシ&佐藤光留 91 金本浩二&田中稔 92 鈴木鼓太郎&青木篤志 93 秋山準&金丸義信 94 入江茂弘&石井慧介 95 宮原健斗&鈴木鼓太郎 96 長井満也&南野タケシ 97 金丸義信&ウルティモ・ドラゴン 98 木髙イサミ&宮本裕向 99 青木篤志&佐藤光留 100 渕正信&大仁田厚 101 青木篤志&佐藤光留 102 ブラック・タイガーⅦ&TAKAみちのく 103 野村直矢&青柳優馬 104 秋山準&永田裕志 105 野村直矢&青柳優馬 106 ジェイク・リー&岩本煌史 107 河上隆一&菊田一美 108 ジェイク・リー&岩本煌史 109 木髙イサミ&宮本裕向 110 ゼウス&イザナギ 111 T-Hawk&エル・リンダマン 112 大森北斗&児玉裕輔 113 稔&歳三 114 佐藤光留&田村男児 115 ヨシタツ&TAJIRI 116 児玉裕輔&花畑正男 117 大森隆男&井上雅央 118 NOSAWA論外&ケンドー・カシン 119 大仁田厚&ヨシタツ 120 秋山準&鈴木鼓太郎 121 坂口征夫&岡谷英樹 122 大仁田厚&To-y 123 佐藤光留&田村男児 124 吉岡世起&MUSASHI 125 安齊勇馬&ライジングHAYATO 1 坂口征二&ストロング小林 2 タイガー・ジェット・シン&上田馬之助 表 話 編 歴 1 アントニオ猪木 2 藤波辰巳 3 藤波辰巳 4 ビッグバン・ベイダー 5 サルマン・ハシミコフ 6 長州力 7 ビッグバン・ベイダー 8 長州力 9 藤波辰爾 10 ビッグバン・ベイダー 11 藤波辰爾 12 長州力 13 グレート・ムタ 14 橋本真也 15 藤波辰爾 16 橋本真也 17 武藤敬司 18 高田延彦 19 橋本真也 20 佐々木健介 21 藤波辰爾 22 蝶野正洋 23 スコット・ノートン 24 武藤敬司 25 天龍源一郎 26 佐々木健介 27 佐々木健介 28 スコット・ノートン 29 藤田和之 30 安田忠夫 31 永田裕志 32 高山善廣 33 天山広吉 34 中邑真輔 35 天山広吉 36 佐々木健介 37 ボブ・サップ 38 藤田和之 39 佐々木健介 40 天山広吉 41 小島聡 42 天山広吉 43 藤田和之 44 ブロック・レスナー 45 棚橋弘至 46 永田裕志 47 棚橋弘至 48 中邑真輔 49 武藤敬司 50 棚橋弘至 51 中西学 52 棚橋弘至 53 中邑真輔 54 真壁刀義 55 小島聡 56 棚橋弘至 57 オカダ・カズチカ 58 棚橋弘至 59 オカダ・カズチカ 60 AJスタイルズ 61 棚橋弘至 62 AJスタイルズ 63 オカダ・カズチカ 64 内藤哲也 65 オカダ・カズチカ 66 ケニー・オメガ 67 棚橋弘至 68 ジェイ・ホワイト 69 オカダ・カズチカ 70 内藤哲也 71 EVIL 72 内藤哲也 73 飯伏幸太 1 ハルク・ホーガン 2 アントニオ猪木 3 アントニオ猪木 1 ブロック・レスナー 2 カート・アングル 3 中邑真輔 表 話 編 歴 1 藤波辰巳&木村健吾 2 前田日明&木戸修 3 藤波辰巳&木村健吾 4 越中詩郎&武藤敬司 5 前田日明&高田伸彦 6 藤原喜明&山崎一夫 7 藤波辰巳&木村健吾 8 長州力&マサ斎藤 9 スーパー・ストロング・マシン&ジョージ高野 10 長州力&飯塚孝之 11 マサ斎藤&橋本真也 12 武藤敬司&蝶野正洋 13 馳浩&佐々木健介 14 スーパー・ストロング・マシン&ヒロ斎藤 15 馳浩&佐々木健介 16 リック・スタイナー&スコット・スタイナー 17 武藤敬司&馳浩 18 ビッグバン・ベイダー&クラッシャー・バンバン・ビガロ 19 リック・スタイナー&スコット・スタイナー 20 スコット・ノートン&トニー・ホーム 21 ホーク・ウォリアー&パワー・ウォリアー 22 スコット・ノートン&ヘラクレス・ヘルナンデス 23 ホーク・ウォリアー&パワー・ウォリアー 24 武藤敬司&馳浩 25 蝶野正洋&天山広吉 26 橋本真也&平田淳嗣 27 山崎一夫&飯塚高史 28 蝶野正洋&天山広吉 29 藤波辰爾&木村健悟 30 長州力&佐々木健介 31 中西学&小島聡 32 佐々木健介&山崎一夫 33 武藤敬司&蝶野正洋 34 蝶野正洋&天山広吉 35 天龍源一郎&越中詩郎 36 天山広吉&小島聡 37 佐々木健介&越中詩郎 38 後藤達俊&小原道由 39 中西学&永田裕志 40 天山広吉&小島聡 41 西村修&藤波辰爾 42 武藤敬司&太陽ケア 43 蝶野正洋&天山広吉 44 吉江豊&棚橋弘至 45 西村修&天山広吉 46 鈴木みのる&高山善廣 47 棚橋弘至&中邑真輔 48 蝶野正洋&天山広吉 49 中西学&大森隆男 50 ジャイアント・バーナード&トラヴィス・トムコ 51 真壁刀義&矢野通 52 ブラザー・レイ&ブラザー・ディーボン 53 ブルータス・マグナス&ダグ・ウィリアムズ 54 ブラザー・レイ&ブラザー・ディーボン 55 高橋裕二郎&内藤哲也 56 永田裕志&井上亘 57 ジャイアント・バーナード&カール・アンダーソン 58 天山広吉&小島聡 59 矢野通&飯塚高史 60 天山広吉&小島聡 61 ランス・アーチャー&デイビーボーイ・スミスJr. 62 天山広吉&小島聡 63 ランス・アーチャー&デイビーボーイ・スミスJr. 64 カール・アンダーソン&ドク・ギャローズ 65 後藤洋央紀&柴田勝頼 66 カール・アンダーソン&ドク・ギャローズ 67 マット・ターバン&マイケル・ベネット 68 カール・アンダーソン&ドク・ギャローズ 69 真壁刀義&本間朋晃 70 タマ・トンガ&タンガ・ロア 71 ジェイ・ブリスコ&マーク・ブリスコ 72 タマ・トンガ&タンガ・ロア 73 矢野通&石井智宏 74 天山広吉&小島聡 75 ハンソン&レイモンド・ロウ 76 タマ・トンガ&タンガ・ロア 77 ハンソン&レイモンド・ロウ 78 ランス・アーチャー&デイビーボーイ・スミスJr. 79 EVIL&SANADA 80 マット・ジャクソン&ニック・ジャクソン 81 タマ・トンガ&タンガ・ロア 82 EVIL&SANADA 83 タマ・トンガ&タンガ・ロア 84 ジュース・ロビンソン&デビッド・フィンレー 85 タマ・トンガ&タンガ・ロア 86 棚橋弘至&飯伏幸太 87 タイチ&ザック・セイバーJr. 88 タマ・トンガ&タンガ・ロア 89 タイチ&ザック・セイバーJr. 90 内藤哲也&SANADA 91 タイチ&ザック・セイバーJr. 92 後藤洋央紀&YOSHI-HASHI 93 ジェフ・コブ&グレート-O-カーン 94 バッドラック・ファレ&チェーズ・オーエンズ 95 グレート-O-カーン&ジェフ・コブ 96 ダックス・ハーウッド&キャッシュ・ウィーラー 97 後藤洋央紀&YOSHI-HASHI 98 マーク・デイビス&カイル・フレッチャー 99 後藤洋央紀&YOSHI-HASHI 100 ヒクレオ&エル・ファンタズモ 101 KENTA&チェーズ・オーエンズ 102 後藤洋央紀&YOSHI-HASHI 103 KENTA&チェーズ・オーエンズ 104 マイキー・ニコルス&シェイン・ヘイスト 105 グレート-O-カーン&HENARE 106 マシュー・ジャクソン&ニコラス・ジャクソン 107 内藤哲也&高橋ヒロム 表 話 編 歴 1 冬木弘道 & 邪道 & 外道 2 ボブ・バックランド & ザ・ウォーロード & スコット・プトスキー 3 冬木弘道 & 邪道 & 外道 4 越中詩郎 & 後藤達俊 & 小原道由 5 天龍源一郎 & アニマル浜口 & 北原光騎 6 冬木弘道 & 邪道 & 外道 7 北原光騎 & 嵐 & 荒谷信孝 8 冬木弘道 & 邪道 & 外道 9 安生洋二 & 高山善廣 & 山本健一 10 冬木弘道 & 邪道 & 外道 11 高田延彦 & 佐野友飛 & 垣原賢人 12 冬木弘道 & 安生洋二 & クラッシャー・バンバン・ビガロ 13 天龍源一郎 & 荒谷信孝 & ウルティモ・ドラゴン 14 北原光騎 & 荒谷信孝 & ランス・ストーム 15 北尾光覇 & 平井伸和 & 望月成晃 16 高山善廣 & 関本大介 & 後藤達俊 17 諏訪魔 & 嵐 & 石井智宏 18 天龍源一郎 & 嵐 & 石井智宏 19 舞牙 & クラシック・キッド & 河上隆一 20 新井健一郎 & 佐藤耕平 & 河野真幸 21 GAINA & 拳剛 & 岩崎孝樹 22 河野真幸 & 児玉裕輔 & 羆嵐 23 橋本和樹 & 橋本大地 & 神谷英慶 24 鈴木みのる&"brother"YASSHI&拳剛 表 話 編 歴 1974 アントニオ猪木 1975 ジャイアント馬場 1976 アントニオ猪木 1977 アントニオ猪木 1978 アントニオ猪木 1979 ジャイアント馬場 1980 アントニオ猪木 1981 アントニオ猪木 1982 タイガーマスク 1983 ジャンボ鶴田 1984 ジャンボ鶴田 1985 藤波辰巳 1986 天龍源一郎 1987 天龍源一郎 1988 天龍源一郎 1989 前田日明 1990 大仁田厚 1991 ジャンボ鶴田 1992 高田延彦 1993 天龍源一郎 1994 橋本真也 1995 武藤敬司 1996 小橋健太 1997 蝶野正洋 1998 小橋健太 1999 武藤敬司 2000 桜庭和志 2001 武藤敬司 2002 ボブ・サップ 2003 高山善廣 2004 佐々木健介 2005 小島聡 2006 鈴木みのる 2007 三沢光晴 2008 武藤敬司 2009 棚橋弘至 2010 杉浦貴 2011 棚橋弘至 2012 オカダ・カズチカ 2013 オカダ・カズチカ 2014 棚橋弘至 2015 オカダ・カズチカ 2016 内藤哲也 2017 内藤哲也 2018 棚橋弘至 2019 オカダ・カズチカ 2020 内藤哲也 2021 鷹木信悟 2022 オカダ・カズチカ 2023 内藤哲也 2024 ザック・セイバーJr. ISNI VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research 天龍源一郎 日本のタレント 日本のプロレスラー 大相撲出身のプロレスラー 全日本プロレスに所属したプロレスラー SWSに所属したプロレスラー SWSの関係者 WARに所属したプロレスラー WJプロレスに所属したプロレスラー NWAに参戦したプロレスラー WWEに参戦したプロレスラー DRAGON GATEに参戦したプロレスラー DRAGON GATEの関係者 プロレス・エグゼクティブ プロレス・トレーナー ハッスルの人物 SMASH 天龍プロジェクト 日本プロレス殿堂会 二所ノ関部屋 福井県出身の大相撲力士 福井県出身のスポーツ選手 1950年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 2025/04/01 11:16更新
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