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島倉千代子の情報 (しまくらちよこ)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

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島倉 千代子さんについて調べます

■名前・氏名
島倉 千代子
(読み:しまくら ちよこ)
■職業
歌手
■島倉千代子の誕生日・生年月日
1938年3月30日 (年齢75歳没)
寅年(とら年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和13年)1938年生まれの人の年齢早見表

島倉千代子と同じ1938年生まれの有名人・芸能人

島倉千代子と同じ3月30日生まれの有名人・芸能人

島倉千代子と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


島倉千代子と関係のある人

寺西一浩: 『島倉家〜これが私の遺言〜』島倉千代子


竹岡信幸: 『東京の人よさようなら』(昭和31年5月)[石本美由起作詞、歌:島倉千代子


高橋真梨子: なお、当時髙橋の年齢は67歳9か月だったが、これはNHK紅白歌合戦において紅組の出場歌手としては最年長記録となる(それまでの記録は、2004年末の『第55回NHK紅白歌合戦』で島倉千代子が、当時66歳9か月の年齢で出場)。


目黒祐樹: 島倉千代子歌手生活40周年記念公演「オランダおいね」


丘灯至夫: 1961年 『襟裳岬』(作曲:遠藤実、歌:島倉千代子


斉藤恒夫: 島倉千代子「鳳仙花」


西沢爽: 島倉千代子「からたち日記」「おもいで日記」「哀愁のからまつ林」「恋しているんだもん」「星空に両手を」「涙の谷間に太陽を」「大阪夜曲」


井上ひろし: さよなら電報(1961年1月、SA-514)- 片面は島倉千代子の「泣きべそ電話」


野村俊夫: 1960年「他国の雨」(作曲:石毛長二郎、歌:島倉千代子


桑野みゆき: 主題歌:島倉千代子) - 東南アジアロケ作品。


古賀政男: 第4回広島平和音楽祭に際して、島倉千代子のために製作した「ひろしまの母」が最後のレコードになった。


三木たかし: 島倉千代子


上原げんと: 『逢いたいなアあの人に』(昭和32年1月)[石本美由起作詞、歌:島倉千代子


坂上二郎: さまざまな職業を経て青木光一の付き人や島倉千代子の専属司会者を経て、1954年に内海突破門下となり、漫才コンビ「内藤ロック・安藤ロール」を結成。


細木数子: 1975年に4億円の負債を抱えた島倉千代子の後見人としてこれを解決、島倉の興行の権利、レコードの販売権、同歌手の所有していた赤坂のマンションを手に入れた。


三橋美智也: 初出場から10回連続出場までの間では、美空ひばりや島倉千代子、江利チエミといった女性人気歌手と対戦し、トリも4度飾っている。


石川さゆり: 2013年11月8日、女性演歌歌手の先輩として慕い続けた島倉千代子が75歳で他界。


梅津栄: 歌手の島倉千代子のファンだった。


江原真二郎: 島倉千代子特別公演 江島


朝田昌貴: 島倉千代子


川津祐介: 島倉千代子特別公演 「すみだ川」


石川さゆり: 島倉千代子


三倉佳奈: 京都きものプラザ(島倉千代子と共演、2005年7月 - 2008年9月)


金子裕則: 1990年からは作曲家としての活動も始め、杉良太郎・島倉千代子・松村和子・Be-Bらに楽曲を提供。


万城目正: また歌謡曲では高峰三枝子、美空ひばり、島倉千代子の歌を多く作曲し、戦前から多くの歌手や俳優の歌唱指導を担当した経験を活かして1957年には松竹大船撮影所の近くに「万城目正歌謡音楽院」を開校した。


上原げんと: 戦後はコロムビアレコードに移籍し、美空ひばり、初代コロムビア・ローズ、島倉千代子などに曲を提供する。


山形英夫: 新庄ばやし(1月) - with 島倉千代子


古賀政男: 新妻鏡(1940年、1965年、1969年、1970年) 歌:霧島昇・二葉あき子(1940年版)、島倉千代子(1965年版)、アントニオ古賀(1969年版)、大川栄策(1970年版)


西條八十: 「りんどう峠」(作曲:古賀政男、歌唱:島倉千代子、1955年)


来生たかお: 提供先は女性歌手が多いが、アイドル系(河合奈保子、斉藤由貴、西村知美、中森明菜、南野陽子、松田聖子、山口百恵、柏原芳恵、等)、シンガーソングライター系(小椋佳、さだまさし、やしきたかじん、等)、歌謡曲系(伊東ゆかり、西郷輝彦、髙橋真梨子、布施明、等)、演歌系(五木ひろし、島倉千代子、森進一、等)と、多方面に亘る。


島倉千代子の情報まとめ

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島倉 千代子(しまくら ちよこ)さんの誕生日は1938年3月30日です。東京出身の歌手のようです。

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エピソード、NHK紅白歌合戦出場歴などについてまとめました。現在、卒業、姉妹、映画、テレビ、ドラマ、事件、母親、結婚、離婚、家族、解散、病気、引退に関する情報もありますね。75歳で亡くなられているようです。

島倉千代子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

島倉 千代子(しまくら ちよこ、1938年(昭和13年)3月30日 - 2013年(平成25年)11月8日)は、日本の演歌・歌謡曲歌手。東京府東京市(現在の東京都)品川区北品川出身、日本音楽高等学校卒業。愛称は「お千代さん」。

1938年3月30日(水曜日)、品川区北品川に警察官の父・島倉壽雄としお、母・ナカの二男四女の四女として生まれる。島倉家は越前一乗谷城主朝倉義景の末裔という。

1945年(7歳)、長野県松本市へ疎開。両親の実家がある群馬県桐生市にも半年間、疎開していた事がある。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが47針を縫い、感覚も無く、動かすこともできなくなる(後に不自由ながらも動かすことができるようになる)。この時の輸血がのちに千代子が患ったC型肝炎の遠因となった。気持ちの沈んだ千代子のために母・ナカは『リンゴの唄』を聞かせるようになる。後に『この世の花』で歌手デビューを遂げた千代子だが、『この世の花』の作曲は『リンゴの唄』の作曲と同じく万城目正によるもの。

1947年(9歳)、東京に戻る。姉の敏子は歌唱力があったが小児麻痺を患っていたために歌手にはなれなかった。大好きな姉のために自分が歌手になると決意。敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入団。左手に負担の無いアコーディオンを担当。歌唱力があったためボーカルにも起用されていた。地元の品川神社で催されたのど自慢大会には毎回姉妹で参加していた。

1949年3月、童謡『お山のお猿』がテイチクレコードから発売される。ただし誤植(レコード会社の社員によるミスとされている)により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった。

1953年(15歳)、品川区の私立日本音楽高等学校(現・品川学藝高等学校)へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。

1955年3月(16歳)、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲『この世の花』(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、人気歌手になる(後にテレビドラマでカバーされ、1977年に同名の映画の2作目で再度カバーされる)。1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。

1957年(19歳)、『東京だョおっ母さん』が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は『逢いたいなァあの人に』。その後、1976年、1979年にも歌唱)。当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。この年の3月、島倉を殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕される。

1958年(20歳)、港区高輪(北品川の隣町)に一戸建てを購入。同年には『からたち日記』が130万枚のヒットとなった。

1960年(22歳)、美空ひばりとともに『つばなの小径・白い小ゆびの歌』を発表。同年、ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務める(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリを務める。1975年は唯一の大トリ)。

1961年(23歳)、ファンの投げたテープが両目に当たって失明の危機に陥る。このとき、品川区五反田「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで視力を回復。

1962年(24歳)、何者かによって後援会事務所に爆発物が送りつけられ、負傷者が出る(草加次郎事件)。

1963年(25歳)、父・壽雄が他界。悲しみにくれる中、支えてくれた元阪神タイガースの藤本勝巳と母親の反対を押し切り結婚結婚前に妊娠したが中絶、結婚後も二子をもうけたが中絶した。後年、この三人の子を合わせて「忍」と名付け、その名を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いた。忍の名は、島倉の墓碑にも千代子と並んで刻まれている。

1968年(30歳)、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である『愛のさざなみ』が幅広い世代の間でヒット。この曲で第10回日本レコード大賞・特別賞を春日八郎と共に受賞。すれ違いの多い生活により別居を経て離婚家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。

1972年(34歳)、母・ナカが脳軟化症により他界。

1975年(37歳)、以前かかった眼科医に頼まれ実印を貸してしまう。その知人だけではなく、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという(ひばり自身も実印を押してしまった経験を持つため)。この借金の整理の過程で細木数子と知り合い、以後しばらくの間細木が島倉のマネージャーを務めた。

1977年(39歳)、今度は島倉に信頼され、島倉に手形の裏書をさせていた守屋義人が事業に失敗して、不渡り手形を出し蒸発。島倉は借金の連帯保証人にされ、これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。20億近くもの莫大な借金返済のため、写真集の発売や全国各地のキャバレー回りや地方興行などをしながら、足掛け7年程で完済した。このような活動をしている最中でも島倉の人気は全く衰えを知らず、NHK紅白歌合戦の連続出場記録は続く。

1984年(46歳)、歌手生活30周年を迎える。

1986年(48歳)、第37回NHK紅白歌合戦で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。当時の紅白史上最多記録だった。

1987年(49歳)、『人生いろいろ』を発表。「30回という区切りを大切にしたい」と“紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ。出場辞退表明の記者会見で若手記者から「結局、落選するのが怖かったということですか」と辛辣な質問をされ、「その通りです」と返答した。『紅白50回』のインタビューで本人は「辞退は前年の時点で決めており、前回身に纏った白色の着物はその表れだった」「ここ数年紅白に出られるか出られないかで不安だった。もし落選したらショックで歌えなくなると思った。そのため、余力のあるうちに辞退しようと思った」と語った。島倉は出場辞退をこの年発売の『人生いろいろ』の作曲者で当時療養中の浜口庫之助に報告したところ、「紅白で『人生いろいろ』が聞けないのか」と返されたことを明かしている。

1988年(50歳)、『人生いろいろ』が前1987年からこの年にかけて130万枚の大ヒットを記録。当時の人気バラエティー番組「オレたちひょうきん族」での山田邦子やコロッケによる物真似をきっかけに『人生いろいろ』が若者にも受け、再びブレークする。同年の第30回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。100万枚記念パーティーでは、山田とコロッケが本人の目の前で、島倉の物真似による『人生いろいろ』を歌唱。これに対し島倉は、「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です」と二人を賞賛する。同年末の第39回NHK紅白歌合戦に2年ぶり31回目の復帰出場となる。この復帰出場に対しては「一度降りたのに」と批判の声も上がった。出演を決めた背景には当時療養中だった浜口に「歌う姿を見て元気になって貰いたい」との思いがあったためである。借金返済の目処がたつ。姉の敏子が目黒川で投身自殺。

1989年6月(51歳)、美空ひばりが52歳で間質性肺炎による呼吸不全で死去。自身の後援会で愛知県に滞在中に訃報を聞いた島倉はその後のスケジュールを切り上げて目黒区青葉台のひばり邸に駆けつけ、息子の加藤和也に頼み3日間ひばりのそばに張り付いて離れなかったという。

1993年(55歳)、初期の乳癌であることが判明。芸能人で会見を開き、自ら癌であることを発表したのは島倉が初めてだった。手術は成功する。ライブハウスなど歌謡曲の枠をはみ出して活動。

1999年(61歳)、歌手生活45周年を迎える。45周年コンサートではタキシードで全国を廻る。ベストジーニスト賞を受賞。同年、紫綬褒章を受章した。

2003年初頭(65歳)に、慢性肝炎の進行とストレスにより声が出づらくなる傾向に陥ったため、この頃を境に晩年は歌唱曲のキーを下げるなどした。治療と並行しつつも精力的に仕事をこなす。

2004年(66歳)、歌手生活50周年を迎える。第55回NHK紅白歌合戦に生涯最後となった35回目の出場を果たした(当時の紅組史上最多記録)。

2007年(69歳)、事務所のスタッフに資産を奪われ再び多額の借金を抱える。同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、自らの誕生日に事務所を解散。しかし周りの協力により心機一転スタートすることになり、経理も全部自分でやるために簿記を勉強。同年、映画『ララ、歌は 中山晋平物語』にナレーターとして出演し、中山晋平の世界を表現した。また藤商事からパチンコ機種『CR島倉千代子の千代姫七変化』が発表され、全国のパチンコ店に導入された。

2008年(70歳)、『人生いろいろ』が出身地である品川区の京浜急行電鉄青物横丁駅の接近メロディに採用される。このニュースを聞きつけた島倉自身が、翌2009年1月に青物横丁駅を訪れて実際に流れるメロディに耳を傾けた。後日、京浜急行電鉄に宛てて礼状を改めて送付したという。

2009年(71歳)、歌手生活55周年を迎える。

この頃、大分県を本拠地として九州各地で営業するリフォーム会社・野田建工のテレビコマーシャルに着物姿で出演していた。なお、野田建工は求人雑誌に大きなカラー広告を多く掲載しており、島倉の写真を求人情報誌で見ることができた。

持病の慢性肝炎が進行していた中で2010年12月に肝臓癌を発症したことが判明、手術・入退院を繰り返していた。肝臓癌発症はごく少数の関係者にしか打ち明けていなかった。その間、3度の肝動脈塞栓術を受けたが、2013年前半には肝硬変に至っていた。同年3月30日、75歳の誕生日にはコロムビアレコードの100周年を記念し復活したイベント「コロムビア大行進2013」に出演し、数千人の聴衆を前にトークを交えながら『人生いろいろ』など数曲を歌った。同年5月から仕事をセーブするようになり、同年6月21日、宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなった。同年6月、日本テレビ「1番ソングSHOW」の取材を受けた(これが生涯最後のテレビ取材となった)。同年9月14日にブログを更新した(最後の更新)。

同年10月中旬に一時退院、2014年のデビュー60周年に向け復帰への意欲は衰えず、死去3日前の2013年11月5日に自宅で記念曲『からたちの小径』を録音した。レコーディングは当初、11月15日に行う予定だったが、島倉自身から「その日まで待てない」と関係者に連絡を入れて11月5日に急遽吹き込みが行われた。同曲の作曲を担当し、レコーディングにも立ち会った南こうせつは「(島倉の具合から)1回位しか歌えないかと思ったが、3回も歌われた。奇跡の歌声だった」と語った。

11月6日、「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話して中目黒の東京共済病院に再入院。入院先から島倉本人が南こうせつへ電話をかけ、感謝の意を伝えたという。翌々日の2013年11月8日朝に容体が急変。午後12時30分、東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように息を引き取った。死因は肝臓がんだった。満75歳没(享年76)。周囲の関係者にはあらかじめ、通夜は密葬とし、香典は断るように伝えていた。

島倉の訃報を受けて、当時内閣官房長官だった菅義偉を始め、北島三郎、五木ひろし、細川たかし、氷川きよし、水前寺清子、大月みやこ、都はるみ、八代亜紀、小林幸子、森昌子など島倉を敬愛していた後輩の演歌歌手達、またコロッケ、山田邦子らものまねタレントも追悼のコメントをそれぞれ発表した。

島倉の死去から6日後の2013年11月14日、葬儀が南青山の青山葬儀所で営まれた。会場には、『からたちの小径』の録音後に涙声で次の言葉を語る、島倉の生涯最後となる肉声テープが流された。

また告別式では、島倉に憧れて演歌歌手となった石川さゆりが代表として「本当に寂しいです。もっともっと、お元気で歌っていて欲しかった。優しく、時に厳しく、叱ってくれる人が、居なくなってしまいました…」「これからも、私達後輩を、空高くから見守っていて下さい」と、涙で時折言葉を詰まらせながら弔辞を読んだ。『からたちの小径』は四十九日にあたる12月18日にシングル発売された。同曲は遺作となったが、「来年発売の記念CDボックスに入れたい」と関係者は語っていた。

同年12月31日の第64回NHK紅白歌合戦では石川の『津軽海峡・冬景色』の歌唱前に島倉の追悼コーナーが設けられた。当初、番組側は石川に島倉の持ち歌である『東京だョおっ母さん』や『人生いろいろ』の歌唱を要請していたが、石川が「島倉さんとは親しいですが、都はるみさんや五木ひろしさんなど、自分よりも仲の良かった先輩歌手がいるのに、そんな出しゃばった真似はできない」とその打診を断ったとされる。

戒名は寳婕院千代歌愛大姉。故郷・北品川の臨済宗東海寺大山墓地に生前に建てていた墓に眠る。

エピソード

地方との結びつき

島倉は、地方小唄や音頭といった新民謡を数多くレコードに吹き込んでいた。それらの中には、『松井田小唄』『祇園まつり音頭』『七夕おどり』など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。それぞれの地元では、大スターである島倉がレコードに吹き込んだこともあって、親しまれている場合が多い。当時の音源を祭りの際に使用し続けているところもある。

また、仙台市の『ミス仙台』(二葉あき子のカバー)や、大阪市の『小鳥が来る街』などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んでいる。また、民謡で『祖谷の粉ひき節』『島原の子守唄』『五木の子守唄』などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。

美空ひばりとの秘話

7歳の時の怪我で左手が不自由になって以来、引きこもりがちとなった島倉には友達が一人もいなかった。そんな彼女が夢中になったのが1歳年長の美空ひばりである。アルバイトをしてはひばりのコンサートに行く、追っかけとなった。

1953年の落選を経て、1954年憧れのひばりが所属するコロムビアレコードのコンクールに合格。しかし既に大スターだったひばりにはなかなか会えなかった。

1961年、それまではひばりが不動の1位だった雑誌『明星』のファン投票で島倉が1位となってからは、ますますひばりに会う機会が失われていく。「ひばりさんが出る番組には島倉は出られない。という空気が築かれていた」と島倉自身が語っている。

周囲の仲間たちがひばりと交友関係を築いた後も、島倉はひばりとは同所属のコロムビアレコード関連や各歌番組などの仕事で妹分として共演はしてもプライベートでは交流することは一切なかった。両者とも親しかった和田アキ子は島倉に「今度、一緒にひばりさんに会おう」と誘ったが「恐れ多くて…」と遠慮していたという。

1984年2月2日、長年憧れながらもひばりとの距離が縮められずにいた島倉に思わぬ出来事が起こる。所属のコロムビアレコード主催で島倉のデビュー30周年記念パーティーに今まで一度も飛び入り出演をしたことがなかったひばりが島倉やコロムビアレコードの役員・関係者などに一切連絡もなく島倉に手渡す花束を持参して一人でパーティー会場へ突如やってきたのである。驚きと嬉しさで涙が止まらない島倉にひばりは「これからは人に騙されない人生を送って欲しい。私は実印は絶対離しません」と述べ会場の笑いをとっていた。

その頃、ひばりは自身を深く理解してくれる家族を相次いで亡くしており、今一番に自身を理解できるのは妹分の島倉かもしれないと考えていたという。2人には共通点が多々あったからである。同学年で若くしてスターになり、ファンに塩酸をかけられ負傷したひばりとファンが投げたテープがあたり失明の危機に陥った島倉。離婚経験、金銭トラブル、家族の死、そして歌への熱意。

翌年の3月3日毎年極親しい女友達だけを集め美空ひばり邸で行われる「ひな祭り」に島倉は初めて参加する。その時ひばりに頼んで書いて貰ったサイン色紙には「舞う鳥も私と同じこの世にも生きてこそあれ歌ひとすじ一筋の道」という短歌が書かれており島倉の宝物となった。

1987年夏、ひばりが病気で福岡の病院に入院した直後に島倉が「面会謝絶は重々承知の上で、ひばり姉さんに逢えなくても病室の前を一目見るだけでいいから直ぐにでも駆けつけたい。」とひばり本人やコロムビアレコード役員などの関係者に直訴したところ直ぐ様「お千代なら来てもいいわよ」とひばりが了解して即見舞いに訪れた。島倉本人は大変緊張しながら「ひばり姉さんを励ますつもり」で病室に入ったら、病室のひばりが「お千代、良く来たわね」と生来の明るさで島倉を迎え、「お千代が来てくれたから鍋焼きうどん(島倉の好物)の出前でも取って食べよう」と食欲がなかったのにも関わらず完食したそうで病人とは思えない元気さを島倉の前に見せた。そのひばりの姿に「私が励ますつもりで行ったのに、逆に私の方がひばり姉さんに励まされちゃって…… こっちの方が恐縮でした」と後にテレビのインタビューで語っていた。

島倉が紅白出場辞退をした際、ひばりから「お千代、(辞退したことに)後悔はない? ここからが見せどころよ」とアドバイスを受けたという。

最晩年、闘病生活を送っていたひばりはどんなに親交の深い芸能界の友人、親友などが見舞いに訪れても、プライベートでも実妹のように大変可愛がっていた島倉と、島倉と同様に弟のように可愛がっていたとんねるずの三人以外の面会は一切拒否していたとされる。

声優に挑戦

2003年6月29日、フジテレビ『FNS27時間テレビ』内アニメ『ちびまる子ちゃん』(「歌は心・人生いろいろ」の巻)において、本人役で自身初の声優に挑戦した。この回のストーリーはまる子の祖母・こたけからの「病に倒れた友人に一目会ってあげてほしい」という手紙を受け取り、変装をして清水にやってくるという設定だった。挿入歌として「からたち日記」(1番をアカペラ(無伴奏)で歌うシーンもある)、エンディングテーマには「人生いろいろ」が起用された。2011年、DVDとして発売されている。

その他

59年間の歌手生活において、ステージで一度も口パクはしなかった。

人を疑わない性格のため多くの人に「騙された」「裏切られた」と言われる島倉に対し、作詞家のなかにし礼は「その分、騙した人の数の何倍もの音楽関係者、芸能関係者が彼女を助けてきた」と語った。

なかにしは彼女の代表曲のひとつである「愛のさざなみ」を作詞している。結婚後ミリオンから遠のき、離婚により暗いイメージがつきかけた島倉のために作ったこの異色の曲は久々のミリオンとなった。

横文字が苦手で『クイズ$ミリオネア』に出演した際、正解発表前の言葉「ファイナルアンサー」が言えず、代わりに「おしまいアンサー」と言っていた。

『NHKのど自慢』への出場経験も有しているが、結果は「鐘一つ」に終わったとされている。

島倉は八人きょうだいで姉二人が一歳、六歳で逝去している。弟二人は俳優デビューしたものの、一人は引退し、もう一人は作詞家に転身した。

NHK紅白歌合戦出場歴

1957年(第8回)の初出場以来、1986年(第37回)まで紅白史上初の30回連続出場を達成。1987年(第38回)は一旦出場辞退したが、「人生いろいろ」で久々のヒットを記録したことを背景に、1988年(第39回)に2年ぶりに復帰出場。1994年(第45回)には「紅白歌合戦45回の歴史を象徴する歌手」として6年ぶりのカムバックを果たし、1996年(第47回)まで3年連続して出場した。2004年(第55回)に「紅白歌合戦に出場してほしい歌手」アンケートで上位歌手15組の中に入ったことから、8年ぶり通算35回目の出場で66歳の当時の紅組最年長出場となったが、これが生涯最後の出場となった。

通算出場回数では、1973年(第24回)に17回目の出場を果たして以降、白組歌手・北島三郎が1998年(第49回)で通算35回目の出場を果たし、島倉の記録を追い越すまで20年以上もの間歴代第1位の記録を保持していた。さらに女性歌手では、同じく1973年(第24回)以降、2012年(第62回)に和田アキ子が36回目の出場を果たすまで、39年もの間島倉が史上最多出場記録を保持していた。

1960年(第11回)では、それまで3年連続で大トリを務めていた美空ひばりを抑えて初めて紅組トリを務め、1962年(第13回)まで3年連続で紅組トリを担当した。その後はひばりが10年連続でトリを務めたが(島倉は中盤に固定されていた)、1973年(第24回)にひばりが落選すると再び紅組トリに返り咲き、1975年(第26回)まで3年連続で紅組トリを務めた(1975年は唯一の大トリ)。紅組において通算トリ回数6回という記録は、美空ひばり(13回)、石川さゆり(8回)、和田アキ子(7回)に次ぎ、歴代4位である。また、3年連続トリという記録も、上述したひばりの10年連続に次ぐ記録である。

通算出場回数 出場紅白 出場年度 曲目 出演順 対戦相手 備考
第8回 1957年(昭和32年) 逢いたいなァ あの人に 22/25 春日八郎
2 第9回 1958年(昭和33年) からたち日記 23/25 春日八郎 (2)
3 第10回 1959年(昭和34年) おもいで日記 13/25 三橋美智也
4 第11回 1960年(昭和35年) 他国の雨 27/27 三橋美智也 (2) 紅組トリ
5 第12回 1961年(昭和36年) 襟裳岬 25/25 三波春夫 紅組トリ (2)
6 第13回 1962年(昭和37年) さよならとさよなら 25/25 三橋美智也 (3) 紅組トリ (3)
7 第14回 1963年(昭和38年) 武蔵野エレジー 13/25 三橋美智也 (4)
8 第15回 1964年(昭和39年) ふたりだけの太陽 13/25 村田英雄
9 第16回 1965年(昭和40年) 新妻鏡 12/25 三橋美智也 (5)
10 第17回 1966年(昭和41年) ほんきかしら 12/25 春日八郎 (3)
11 第18回 1967年(昭和42年) ほれているのに 12/23 橋幸夫
12 第19回 1968年(昭和43年) 愛のさざなみ 12/23 三波春夫 (2)
13 第20回 1969年(昭和44年) すみだ川 12/23 三波春夫 (3)
14 第21回 1970年(昭和45年) 美しきは女の旅路 12/24 三波春夫 (4)
15 第22回 1971年(昭和46年) 竜飛岬 10/25 北島三郎
16 第23回 1972年(昭和47年) すみだ川(2回目) 18/23 フランク永井
17 第24回 1973年(昭和48年) からたち日記(2回目) 22/22 北島三郎 (2) 紅組トリ (4)
18 第25回 1974年(昭和49年) 襟裳岬(2回目) 25/25 森進一 紅組トリ (5)
19 第26回 1975年(昭和50年) 悲しみの宿 24/24 五木ひろし 大トリ (6)
20 第27回 1976年(昭和51年) 逢いたいなァ あの人に(2回目) 18/24 フランク永井 (2)
21 第28回 1977年(昭和52年) 京都・北嵯峨・別れ寺 20/24 三波春夫 (5)
22 第29回 1978年(昭和53年) りんどう峠 22/24 村田英雄 (2)
23 第30回 1979年(昭和54年) 逢いたいなァ あの人に(3回目) 17/23 フランク永井 (3)
24 第31回 1980年(昭和55年) 女がひとり 14/23 フランク永井 (4)
25 第32回 1981年(昭和56年) 鳳仙花 09/22 フランク永井 (5)
26 第33回 1982年(昭和57年) この世の花 11/22 千昌夫 前半トリ
27 第34回 1983年(昭和58年) 積木くずし 07/21 三波春夫 (6)
28 第35回 1984年(昭和59年) からたち日記(3回目) 17/20 三波春夫 (7)
29 第36回 1985年(昭和60年) 夢飾り 16/20 近藤真彦
30 第37回 1986年(昭和61年) くちべに挽歌 18/20 村田英雄 (3) 同回で一旦紅白出場勇退を宣言
31 第39回 1988年(昭和63年) 人生いろいろ 14/21 チョー・ヨンピル 2年ぶりに復帰出場
32 第45回 1994年(平成6年) 人生いろいろ(2回目) 10/25 小椋佳 6年ぶりに復帰出場・前半トリ (2)
33 第46回 1995年(平成7年) あの頃にとどけ 19/25 小林旭
34 第47回 1996年(平成8年) ときめきをさがしに 21/25 堀内孝雄
35 第55回 2004年(平成16年) 人生いろいろ(3回目) 12/28 布施明 8年ぶりに復帰・生涯最後の紅白出場

(注意点)

対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。

曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。

出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す。

前半トリとは1990年以降の紅白において、前半戦(ニュース中断まで)で両軍の締めくくりを務めたことを指す。

2024/06/22 03:17更新

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