島倉千代子の情報(しまくらちよこ) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
島倉 千代子さんについて調べます
■名前・氏名 |
島倉千代子と関係のある人
石川さゆり: 小学校1年生の時、島倉千代子の歌謡ショーに接し感動し、次第に歌手を志すようになる。 御木本伸介: 『島倉千代子特別公演パンフレット』新宿コマ・スタジアム、7-3、38頁。 中島孝: 流す涙は嘘じゃない(昭和31年3月10日)-日活映画「乙女心の十三夜」主題歌、A面は島倉千代子の左曲 高橋一俊: 殺陣を担当していた新宿コマ劇場の「島倉千代子特別公演」開催中でのことだった。 峰剛一: 「4時間スペシャル 昭和歌謡 二人の絆 美空ひばりと島倉千代子」BS-朝日2019年8月 本郷功次郎: 島倉千代子公演 寺西一浩: 『島倉家〜これが私の遺言〜』島倉千代子著 月丘夢路: 島倉千代子特別公演 流れに咲いた花 悲恋維新の詩(うた) 山形英夫: 「港の人気者」、「船頭子守唄」、「祇園まつり音頭」(島倉千代子とのデュエット)、「俺はエトランゼ」などのヒット曲がある。 古賀政男: 第4回広島平和音楽祭に際して、島倉千代子のために製作した「ひろしまの母」が最後のレコードになった。 古賀政男: 白い小ゆびの歌(1960年) 歌:島倉千代子 フランク永井: NHK紅白歌合戦の常連出場者としても知られ、1957年(昭和32年)の第8回から1982年(昭和57年)の第33回まで連続26回出場し、現役出場時は島倉千代子と並んで最多出場者の記録を持っていた。 克美しげる: 入所中は、村田英雄や島倉千代子、その頃島倉の面倒を見ていた細木数子ら、さまざまな芸能人が慰問に訪れた。 田勢康弘: 『島倉千代子という人生』新潮社 1999 のち文庫 山形英夫: 新庄ばやし(1月) - with 島倉千代子 石川さゆり: 島倉千代子 堀内孝雄: 夢待人(島倉千代子) 川津祐介: 島倉千代子特別公演 「すみだ川」 喜多条忠: 島倉千代子 遠藤実: おもいで日記 (島倉千代子、1959年7月) すわ親治: 島倉千代子/恋しているんだもん の替え歌で「♪小雪と小夏孕ませて〜」 岩谷時子: 島倉千代子 音羽ゆりかご会: 涙の谷間に太陽を 島倉千代子/コロムビアゆりかご会 江利チエミ: チエミの落選の理由は、前年までチエミは後半トップバッターを、島倉千代子は前半トリを、美空ひばりは紅組トリをそれぞれ務め、ベテラン歌手のバランスを保っていたが、この年の紅白ではひばりをトリから外し、紅組トリを新しい世代にバトンタッチする計画が浮上したことにあった。 寺西一浩: その後、24歳の時、芸能プロダクション、株式会社トラストミュージックエンタテインメント代表取締役に就任し、歌手の島倉千代子歌手生活50周年事業を行った。 万城目正: また歌謡曲では高峰三枝子、美空ひばり、島倉千代子の歌を多く作曲し、戦前から多くの歌手や俳優の歌唱指導を担当した経験を活かして1957年には松竹大船撮影所の近くに「万城目正歌謡音楽院」を開校した。 新克利: 島倉千代子特別公演「流れに咲いた花 悲恋維新の詩(うた)」 コロムビア・トップ: 2004年(平成16年)3月、親交の深い島倉千代子の歌手生活50周年記念パーティーに出席し、自身の強い希望で乾杯の音頭を取る。 古賀政男: りんどう峠(1955年) 歌:島倉千代子 桑野みゆき: 主題歌:島倉千代子) - 東南アジアロケ作品。 |
島倉千代子の情報まとめ
島倉 千代子(しまくら ちよこ)さんの誕生日は1938年3月30日です。東京出身の歌手のようです。
現在、卒業、姉妹、映画、テレビ、ドラマ、事件、母親、結婚、離婚、家族、解散、病気、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2013年に亡くなられているようです。
島倉千代子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)島倉 千代子(しまくら ちよこ、1938年(昭和13年)3月30日 - 2013年(平成25年)11月8日)は、日本の演歌・歌謡曲歌手。東京府東京市(現在の東京都)品川区北品川出身、日本音楽高等学校卒業。愛称は「お千代さん」。 1938年3月30日(水曜日)、品川区北品川に警察官の父・島倉 1945年(7歳)、長野県松本市へ疎開。両親の実家がある群馬県桐生市にも半年間、疎開していた事がある。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが47針を縫い、感覚も無く、動かすこともできなくなる(後に不自由ながらも動かすことができるようになる)。この時の輸血がのちに千代子が患ったC型肝炎の遠因となった。気持ちの沈んだ千代子のために母・ナカは『リンゴの唄』を聞かせるようになる。後に『この世の花』で歌手デビューを遂げた千代子だが、『この世の花』の作曲は『リンゴの唄』の作曲と同じく万城目正によるもの。 1947年(9歳)、東京に戻る。姉の敏子は歌唱力があったが小児麻痺を患っていたために歌手にはなれなかった。大好きな姉のために自分が歌手になると決意。敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入団。左手に負担の無いアコーディオンを担当。歌唱力があったためボーカルにも起用されていた。地元の品川神社で催されたのど自慢大会には毎回姉妹で参加していた。 1949年3月、童謡『お山のお猿』がテイチクレコードから発売される。ただし誤植(レコード会社の社員によるミスとされている)により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった。 1953年(15歳)、品川区の私立日本音楽高等学校(現・品川学藝高等学校)へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。 1955年3月(16歳)、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲『この世の花』(同名の映画の主題歌)は、コロムビア・ローズがレコーディングする予定であったものが都合がつかず島倉に回ってきたものであった。結果的に半年後に200万枚達成、人気歌手になる(後にテレビドラマでカバーされ、1977年に同名の映画の2作目で再度カバーされる)。1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。 1957年(19歳)、『東京だョおっ母さん』が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は『逢いたいなァあの人に』。その後、1976年、1979年にも歌唱)。当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。この年の3月、島倉を殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕される。 1958年(20歳)、港区高輪(北品川の隣町)に一戸建てを購入。同年には『からたち日記』が130万枚のヒットとなった。 1960年(22歳)、美空ひばりとともに『つばなの小径・白い小ゆびの歌』を発表。同年、ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務める(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリを務める。1975年は唯一の大トリ)。 1961年(23歳)、ファンの投げたテープが両目に当たって失明の危機に陥る。このとき、品川区五反田「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで視力を回復。 1962年(24歳)、何者かによって後援会事務所に爆発物が送りつけられ、負傷者が出る(草加次郎事件)。 1963年(25歳)、父・壽雄が他界。悲しみにくれる中、支えてくれた元阪神タイガースの藤本勝巳と母親の反対を押し切り結婚。結婚前に妊娠したが中絶、結婚後も二子をもうけたが中絶した。後年、この三人の子を合わせて「忍」と名付け、その名を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いた。忍の名は、島倉の墓碑にも千代子と並んで刻まれている。 1968年(30歳)、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である『愛のさざなみ』が幅広い世代の間でヒット。この曲で第10回日本レコード大賞・特別賞を春日八郎と共に受賞。すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。 1972年(34歳)、母・ナカが脳軟化症により他界。 1975年(37歳)、以前かかった眼科医に頼まれ実印を貸してしまう。その知人だけではなく、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという(ひばり自身も実印を押してしまった経験を持つため)。この借金の整理の過程で細木数子と知り合い、以後しばらくの間細木が島倉のマネージャーを務めた。 1977年(39歳)、今度は島倉に信頼され、島倉に手形の裏書をさせていた守屋義人が事業に失敗して、不渡り手形を出し蒸発。島倉は借金の連帯保証人にされ、これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。20億近くもの莫大な借金返済のため、写真集の発売や全国各地のキャバレー回りや地方興行などをしながら、足掛け7年程で完済した。このような活動をしている最中でも島倉の人気は全く衰えを知らず、NHK紅白歌合戦の連続出場記録は続く。 1984年(46歳)、歌手生活30周年を迎える。 1986年(48歳)、第37回NHK紅白歌合戦で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。当時の紅白史上最多記録だった。 1987年(49歳)、『人生いろいろ』を発表。「30回という区切りを大切にしたい」と“紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ。出場辞退表明の記者会見で若手記者から「結局、落選するのが怖かったということですか」と辛辣な質問をされ、「その通りです」と返答した。『紅白50回』のインタビューで本人は「辞退は前年の時点で決めており、前回身に纏った白色の着物はその表れだった」「ここ数年紅白に出られるか出られないかで不安だった。もし落選したらショックで歌えなくなると思った。そのため、余力のあるうちに辞退しようと思った」と語った。島倉は出場辞退をこの年発売の『人生いろいろ』の作曲者で当時療養中の浜口庫之助に報告したところ、「紅白で『人生いろいろ』が聞けないのか」と返されたことを明かしている。 1988年(50歳)、『人生いろいろ』が前1987年からこの年にかけて130万枚の大ヒットを記録。当時の人気バラエティー番組「オレたちひょうきん族」での山田邦子やコロッケによる物真似をきっかけに『人生いろいろ』が若者にも受け、再びブレークする。同年の第30回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。100万枚記念パーティーでは、山田とコロッケが本人の目の前で、島倉の物真似による『人生いろいろ』を歌唱。これに対し島倉は、「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です」と二人を賞賛する。同年末の第39回NHK紅白歌合戦に2年ぶり31回目の復帰出場となる。この復帰出場に対しては「一度降りたのに」と批判の声も上がった。出演を決めた背景には当時療養中だった浜口に「歌う姿を見て元気になって貰いたい」との思いがあったためである。借金返済の目処がたつ。姉の敏子が目黒川で投身自殺。 1989年6月(51歳)、美空ひばりが52歳で間質性肺炎による呼吸不全で死去。自身の後援会で愛知県に滞在中に訃報を聞いた島倉はその後のスケジュールを切り上げて目黒区青葉台のひばり邸に駆けつけ、息子の加藤和也に頼み3日間ひばりのそばに張り付いて離れなかったという。 1993年(55歳)、初期の乳癌であることが判明。芸能人で会見を開き、自ら癌であることを発表したのは島倉が初めてだった。手術は成功する。ライブハウスなど歌謡曲の枠をはみ出して活動。 1999年(61歳)、歌手生活45周年を迎える。45周年コンサートではタキシードで全国を廻る。ベストジーニスト賞を受賞。同年、紫綬褒章を受章した。 2003年初頭(65歳)に、慢性肝炎の進行とストレスにより声が出づらくなる傾向に陥ったため、この頃を境に晩年は歌唱曲のキーを下げるなどした。治療と並行しつつも精力的に仕事をこなす。 2004年(66歳)、歌手生活50周年を迎える。第55回NHK紅白歌合戦に生涯最後となった35回目の出場を果たした(当時の紅組史上最多記録)。 2007年(69歳)、事務所のスタッフに資産を奪われ再び多額の借金を抱える。同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、自らの誕生日に事務所を解散。しかし周りの協力により心機一転スタートすることになり、経理も全部自分でやるために簿記を勉強。同年、映画『ララ、歌は 中山晋平物語』にナレーターとして出演し、中山晋平の世界を表現した。また藤商事からパチンコ機種『CR島倉千代子の千代姫七変化』が発表され、全国のパチンコ店に導入された。 2008年(70歳)、『人生いろいろ』が出身地である品川区の京浜急行電鉄青物横丁駅の接近メロディに採用される。このニュースを聞きつけた島倉自身が、翌2009年1月に青物横丁駅を訪れて実際に流れるメロディに耳を傾けた。後日、京浜急行電鉄に宛てて礼状を改めて送付したという。 2009年(71歳)、歌手生活55周年を迎える。 この頃、大分県を本拠地として九州各地で営業するリフォーム会社・野田建工のテレビコマーシャルに着物姿で出演していた。なお、野田建工は求人雑誌に大きなカラー広告を多く掲載しており、島倉の写真を求人情報誌で見ることができた。 持病の慢性肝炎が進行していた中で2010年12月に肝臓癌を発症したことが判明、手術・入退院を繰り返していた。肝臓癌発症はごく少数の関係者にしか打ち明けていなかった。その間、3度の肝動脈塞栓術を受けたが、2013年前半には肝硬変に至っていた。同年3月30日、75歳の誕生日にはコロムビアレコードの100周年を記念し復活したイベント「コロムビア大行進2013」に出演し、数千人の聴衆を前にトークを交えながら『人生いろいろ』など数曲を歌った。同年5月から仕事をセーブするようになり、同年6月21日、宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなった。同年6月、日本テレビ「1番ソングSHOW」の取材を受けた(これが生涯最後のテレビ取材となった)。同年9月14日にブログを更新した(最後の更新)。 同年10月中旬に一時退院、2014年のデビュー60周年に向け復帰への意欲は衰えず、死去3日前の2013年11月5日に自宅で記念曲『からたちの小径』を録音した。レコーディングは当初、11月15日に行う予定だったが、島倉自身から「その日まで待てない」と関係者に連絡を入れて11月5日に急遽吹き込みが行われた。同曲の作曲を担当し、レコーディングにも立ち会った南こうせつは「(島倉の具合から)1回位しか歌えないかと思ったが、3回も歌われた。奇跡の歌声だった」と語った。 11月6日、「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話して中目黒の東京共済病院に再入院。入院先から島倉本人が南こうせつへ電話をかけ、感謝の意を伝えたという。翌々日の2013年11月8日朝に容体が急変。午後12時30分、東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように息を引き取った。死因は肝臓がんだった。満75歳没(享年76)。周囲の関係者にはあらかじめ、通夜は密葬とし、香典は断るように伝えていた。 島倉の訃報を受けて、当時内閣官房長官だった菅義偉を始め、北島三郎、五木ひろし、細川たかし、氷川きよし、水前寺清子、大月みやこ、都はるみ、八代亜紀、小林幸子、森昌子など島倉を敬愛していた後輩の演歌歌手達、またコロッケ、山田邦子らものまねタレントも追悼のコメントをそれぞれ発表した。 島倉の死去から6日後の2013年11月14日、葬儀が南青山の青山葬儀所で営まれた。会場には、『からたちの小径』の録音後に涙声で次の言葉を語る、島倉の生涯最後となる肉声テープが流された。 また告別式では、島倉に憧れて演歌歌手となった石川さゆりが代表として「本当に寂しいです。もっともっと、お元気で歌っていて欲しかった。優しく、時に厳しく、叱ってくれる人が、居なくなってしまいました…」「これからも、私達後輩を、空高くから見守っていて下さい」と、涙で時折言葉を詰まらせながら弔辞を読んだ。『からたちの小径』は四十九日にあたる12月18日にシングル発売された。同曲は遺作となったが、「来年発売の記念CDボックスに入れたい」と関係者は語っていた。 同年12月31日の第64回NHK紅白歌合戦では石川の『津軽海峡・冬景色』の歌唱前に島倉の追悼コーナーが設けられた。当初、番組側は石川に島倉の持ち歌である『東京だョおっ母さん』や『人生いろいろ』の歌唱を要請していたが、石川が「島倉さんとは親しいですが、都はるみさんや五木ひろしさんなど、自分よりも仲の良かった先輩歌手がいるのに、そんな出しゃばった真似はできない」とその打診を断ったとされる。 戒名は寳婕院千代歌愛大姉。故郷・北品川の臨済宗東海寺大山墓地に生前に建てていた墓に眠る。 島倉は、地方小唄や音頭といった新民謡を数多くレコードに吹き込んでいた。それらの中には、『松井田小唄』『祇園まつり音頭』『七夕おどり』など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。それぞれの地元では、大スターである島倉がレコードに吹き込んだこともあって、親しまれている場合が多い。当時の音源を祭りの際に使用し続けているところもある。 また、仙台市の『ミス仙台』(二葉あき子のカバー)や、大阪市の『小鳥が来る街』などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んでいる。また、民謡で『祖谷の粉ひき節』『島原の子守唄』『五木の子守唄』などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。 7歳の時の怪我で左手が不自由になって以来、引きこもりがちとなった島倉には友達が一人もいなかった。そんな彼女が夢中になったのが1歳年長の美空ひばりである。アルバイトをしてはひばりのコンサートに行く、追っかけとなった。 1953年の落選を経て、1954年憧れのひばりが所属するコロムビアレコードのコンクールに合格。しかし既に大スターだったひばりにはなかなか会えなかった。 1961年、それまではひばりが不動の1位だった雑誌『明星』のファン投票で島倉が1位となってからは、ますますひばりに会う機会が失われていく。「ひばりさんが出る番組には島倉は出られない。という空気が築かれていた」と島倉自身が語っている。 周囲の仲間たちがひばりと交友関係を築いた後も、島倉はひばりとは同所属のコロムビアレコード関連や各歌番組などの仕事で妹分として共演はしてもプライベートでは交流することは一切なかった。両者とも親しかった和田アキ子は島倉に「今度、一緒にひばりさんに会おう」と誘ったが「恐れ多くて…」と遠慮していたという。 1984年2月2日、長年憧れながらもひばりとの距離が縮められずにいた島倉に思わぬ出来事が起こる。所属のコロムビアレコード主催で島倉のデビュー30周年記念パーティーに今まで一度も飛び入り出演をしたことがなかったひばりが島倉やコロムビアレコードの役員・関係者などに一切連絡もなく島倉に手渡す花束を持参して一人でパーティー会場へ突如やってきたのである。驚きと嬉しさで涙が止まらない島倉にひばりは「これからは人に騙されない人生を送って欲しい。私は実印は絶対離しません」と述べ会場の笑いをとっていた。 その頃、ひばりは自身を深く理解してくれる家族を相次いで亡くしており、今一番に自身を理解できるのは妹分の島倉かもしれないと考えていたという。2人には共通点が多々あったからである。同学年で若くしてスターになり、ファンに塩酸をかけられ負傷したひばりとファンが投げたテープがあたり失明の危機に陥った島倉。離婚経験、金銭トラブル、家族の死、そして歌への熱意。 翌年の3月3日毎年極親しい女友達だけを集め美空ひばり邸で行われる「ひな祭り」に島倉は初めて参加する。その時ひばりに頼んで書いて貰ったサイン色紙には「舞う鳥も私と同じこの世にも生きてこそあれ歌ひとすじ一筋の道」という短歌が書かれており島倉の宝物となった。 1987年夏、ひばりが病気で福岡の病院に入院した直後に島倉が「面会謝絶は重々承知の上で、ひばり姉さんに逢えなくても病室の前を一目見るだけでいいから直ぐにでも駆けつけたい。」とひばり本人やコロムビアレコード役員などの関係者に直訴したところ直ぐ様「お千代なら来てもいいわよ」とひばりが了解して即見舞いに訪れた。島倉本人は大変緊張しながら「ひばり姉さんを励ますつもり」で病室に入ったら、病室のひばりが「お千代、良く来たわね」と生来の明るさで島倉を迎え、「お千代が来てくれたから鍋焼きうどん(島倉の好物)の出前でも取って食べよう」と食欲がなかったのにも関わらず完食したそうで病人とは思えない元気さを島倉の前に見せた。そのひばりの姿に「私が励ますつもりで行ったのに、逆に私の方がひばり姉さんに励まされちゃって…… こっちの方が恐縮でした」と後にテレビのインタビューで語っていた。 島倉が紅白出場辞退をした際、ひばりから「お千代、(辞退したことに)後悔はない? ここからが見せどころよ」とアドバイスを受けたという。 最晩年、闘病生活を送っていたひばりはどんなに親交の深い芸能界の友人、親友などが見舞いに訪れても、プライベートでも実妹のように大変可愛がっていた島倉と、島倉と同様に弟のように可愛がっていたとんねるずの三人以外の面会は一切拒否していたとされる。 2003年6月29日、フジテレビ『FNS27時間テレビ』内アニメ『ちびまる子ちゃん』(「歌は心・人生いろいろ」の巻)において、本人役で自身初の声優に挑戦した。この回のストーリーはまる子の祖母・こたけからの「病に倒れた友人に一目会ってあげてほしい」という手紙を受け取り、変装をして清水にやってくるという設定だった。挿入歌として「からたち日記」(1番をアカペラ(無伴奏)で歌うシーンもある)、エンディングテーマには「人生いろいろ」が起用された。2011年、DVDとして発売されている。 59年間の歌手生活において、ステージで一度も口パクはしなかった。 人を疑わない性格のため多くの人に「騙された」「裏切られた」と言われる島倉に対し、作詞家のなかにし礼は「その分、騙した人の数の何倍もの音楽関係者、芸能関係者が彼女を助けてきた」と語った。 なかにしは彼女の代表曲のひとつである「愛のさざなみ」を作詞している。結婚後ミリオンから遠のき、離婚により暗いイメージがつきかけた島倉のために作ったこの異色の曲は久々のミリオンとなった。 横文字が苦手で『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)に出演した際、正解発表前の言葉「ファイナルアンサー」が言えず、代わりに「おしまいアンサー」と言っていた。 『NHKのど自慢』(NHK総合・ラジオ第1)への出場経験も有しているが、結果は「鐘一つ」に終わったとされている。 島倉は八人きょうだいで姉二人が一歳、六歳で逝去している。弟二人は俳優デビューしたものの、一人は引退し、もう一人は作詞家に転身した。 1957年(第8回)の初出場以来、1986年(第37回)まで紅白史上初の30回連続出場を達成。1987年(第38回)は一旦出場辞退したが、「人生いろいろ」で久々のヒットを記録したことを背景に、1988年(第39回)に2年ぶりに復帰出場。1994年(第45回)には「紅白歌合戦45回の歴史を象徴する歌手」として6年ぶりのカムバックを果たし、1996年(第47回)まで3年連続して出場した。2004年(第55回)に「紅白歌合戦に出場してほしい歌手」アンケートで上位歌手15組の中に入ったことから、8年ぶり通算35回目の出場で66歳の当時の紅組最年長出場となったが、これが生涯最後の出場となった。 通算出場回数では、1973年(第24回)に17回目の出場を果たして以降、白組歌手・北島三郎が1998年(第49回)で通算35回目の出場を果たし、島倉の記録を追い越すまで20年以上もの間歴代第1位の記録を保持していた。さらに女性歌手では、同じく1973年(第24回)以降、2012年(第62回)に和田アキ子が36回目の出場を果たすまで、39年もの間島倉が史上最多出場記録を保持していた。 1960年(第11回)では、それまで3年連続で大トリを務めていた美空ひばりを抑えて初めて紅組トリを務め、1962年(第13回)まで3年連続で紅組トリを担当した。その後はひばりが10年連続でトリを務めたが(島倉は中盤に固定されていた)、1973年(第24回)にひばりが落選すると再び紅組トリに返り咲き、1975年(第26回)まで3年連続で紅組トリを務めた(1975年は唯一の大トリ)。紅組において通算トリ回数6回という記録は、美空ひばり(13回)、石川さゆり(8回)、和田アキ子(7回)に次ぎ、歴代4位である。また、3年連続トリという記録も、上述したひばりの10年連続に次ぐ記録である。 (注意点) 対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。 曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。 出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す。 前半トリとは1990年以降の紅白において、前半戦(ニュース中断まで)で両軍の締めくくりを務めたことを指す。 多くの楽曲を発表しており(およそ2,000曲)、委託制作版や当時のアルバムにしか入っていない曲もあるため、持ち歌の数を正確に数えるのは困難である。 全て日本コロムビア発売。※1956, 1962, 1993-1994, 3箇所品番と発売順に矛盾あり、要確認。
片面は、フォーク・ダンス用に唄なし。 補:石本美由起 補:石本美由起 三浦康照(補) 浜口庫之助の助言により、バック・トラックはロサンジェルスでレッキング・クルーによりレコーディングされた。 1992年にカーネーション、2001年にミニスカパンがカバー。 1998年9月20日のカーネーションのライブ(渋谷クラブクアトロ)にゲスト出演し、同曲を歌っている。 幸三郎 きよ子 補作・ 西沢爽 ひろし 香苗 幸男 小竿和子 香苗 靖文 幸男 進一 亮 「七夕おどり」同様、仙台七夕まつりの時期に会場周辺で流れている。 美空ひばり、島倉千代子、舟木一夫、都はるみ、大川栄策。片面は、コロムビア・オーケストラの「日本晴ればれ音頭」。 三浦康照 島倉千代子 津城ひかる 南こうせつ 体調を考慮して歌入れは自宅で行われたが、歌入れの僅か3日後に他界した為、遺作となってしまった。 (福井音頭) 片面は、コロムビア・ローズの「君を呼ぶ日本平」。 山中ひろしとのデュエット。片面は、安西愛子・岡本敦郎の「宇都宮の歌」。 花のいのち(自叙伝、みき書房、1984年。) 歌ごよみ(自叙伝、読売新聞社、1994年。ISBN 4-643-94005-0) 島倉家-これが私の遺言(手記、文芸社、2005年。プロデュース:寺西一浩。ISBN 4-8355-9125-9) 積木くずし 〜親と子の200日戦争(1983年、TBS) - 本人 役(特別出演) 雨の降る駅(1986年、TBS) 男と女のミステリー 心はロンリー気持ちは「…」VIII(1989年、フジテレビ) 女子刑務所東3号棟(2003年、TBS) - 慰問者 役 全員正解あたりまえ!クイズ(2005年-2006年、TBS)準レギュラー 午後は○○おもいッきりテレビ(日本テレビ) ほか多数 ちびまる子ちゃん - 本人 役(特別出演) 東京の人さようなら(1956年、東宝) 新妻鏡 (1956年、新東宝) - 本人 役 大学の石松 女群突破 (1957年、東映) - 島村岐代子 役 あんみつ姫の武者修業(1960年、松竹) - 千鳥太夫 役 太陽に突っ走れ (1966年、東映) - 本人 役 サード (1978年、ATG) - サードのおふくろ 役(特別出演) ほか多数 山本山 日清食品 出前一丁 (1989-1992) 野田建工 理想科学工業 リソグラフ(「からたちの花」の替え歌を歌唱) 京都きものプラザ 大B反市 ^ 2002年10月から2010年9月まではコロムビアミュージックエンタテインメント。 ^ 2年後の1990年12月2日に死去。 ^ 当時の最多記録保持者は美空ひばりだった。 ^ 1982年(第33回)までは、同じく連続出場を続けていたフランク永井とタイ記録。 ^ 紅組歌手で3年以上連続でトリを務めた人物はひばり(3年連続および10年連続)とMISIA(4年連続)と島倉(3年連続が2回)しかいない。 ^ 紅組出場歌手有志が島倉の後ろで応援。 ^ 島倉千代子さんが肝臓がんで死去、75歳 日刊スポーツ 2013年11月8日 ^ 島倉千代子(2016年4月12日時点のアーカイブ) - スポーツニッポン。 ^ 笹森文彦 (2013年11月9日). “借金、けが…「人生いろいろ」お千代さん”. 日刊スポーツ. 2016年12月23日閲覧。 ^ 『島倉家―これが私の遺言』118-121頁。 ^ 島倉千代子(日本コロムビア) ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、67頁。ISBN 9784309225043。 ^ 『歌ごよみ』島倉千代子著、読売新聞刊 (1994/01) ^ “島倉さん お墓準備していた…ピアノかたどり、戒名も”. スポニチアネックス (2013年11月10日). 2015年7月1日閲覧。 ^ 《写真あり》「刑務所のタクアンって、こんなにおいしいのね」元ヤクザもびっくり! 刑務所慰問に島倉千代子とともに現れた「超大物タレント」の正体 - 文春オンライン・2023年5月14日 ^ 『島倉家-これが私の遺言』108-109頁。島倉千代子著、文芸社 (2005/02) ^ 『島倉家-これが私の遺言』79頁。 ^ 『紅白50回』、56頁。 ^ 『島倉家―これが私の遺言』80-86頁。 ^ 「金曜プレステージ・独占秘話!初公開!秘蔵映像!島倉千代子最期の223日~今夜明かされる壮絶人生と「からたちの小径」誕生秘話~」フジテレビ、2013年12月20日 ^ 島倉千代子さん、青物横丁駅に流れる「人生いろいろ」に感謝の手紙(2013年11月8日時点のアーカイブ) スポーツ報知 2013年11月9日閲覧 ^ 島倉千代子さん 3年前に肝臓がん患うデイリースポーツ 2013年11月9日閲覧 ^ 島倉千代子 75歳バースデー「後期高齢者という紙届いた」 スポニチアネックス 2013年3月21日 ^ 最期は苦しまず、眠るように…日本コロムビアが会見(2013年11月9日時点のアーカイブ) msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧 ^ 南こうせつ「奇跡の歌声」 島倉千代子さん死去3日前に録音 ^ 島倉千代子 逝去のお知らせ 日本コロムビア アーティストインフォーメーション:島倉千代子 2013年11月8日付 ^ 官房長官 島倉千代子さん哀悼「昭和を代表する歌手」スポーツニッポン 2013年11月8日閲覧 ^ 北島三郎「演歌界の大きなあかり」日刊スポーツ 2013年11月8日閲覧 ^ 五木ひろし「早すぎますね」日刊スポーツ 2013年11月8日閲覧 ^ 細川たかしさん「最後のパワーに驚きました」NHK「かぶん」ブログ(2014年1月9日時点のアーカイブ) 2013年11月14日閲覧 ^ 氷川きよし 島倉千代子さんに誓いデイリースポーツ 2013年11月13日閲覧 ^ 「最後にお顔を拝見したときにお別れを」スポニチアネックス 2013年11月9日閲覧 ^ 「大きく輝いている先輩が…」大月みやこさんmsn産経ニュース 2013年11月9日閲覧 ^ 【お悔み】都はるみ、優しく大好きな先輩日テレNEWS24 2013年11月8日閲覧 ^ 八代亜紀 島倉さんは心労が多かったデイリースポーツ 2013年11月9日閲覧 ^ 小林幸子 島倉さんに「母さん!」デイリースポーツ 2013年11月8日閲覧 ^ 森昌子、訃報を知り号泣「本当に優しくてお母さんのよう」サンスポ 2013年11月9日閲覧 ^ コロッケさん「かけがえのない人失った」msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧 ^ 島倉千代子さん、人生いろいろ教えてもらった…山田邦子が悲痛な思いシネマトゥデイ 2013年11月9日閲覧 ^ 島倉千代子さん葬儀、「人生の最後に素晴らしい時間をありがとう」冒頭に肉声流れmsn産経ニュース 2013年11月14日閲覧 ^ 島倉千代子さん:「優しく時に厳しく」石川さゆり涙で弔辞毎日新聞デジタル 2013年11月14日閲覧 ^ 石川さゆり弔辞「生涯を歌い手として見事なまでに全う」スポニチアネックス 2013年11月15日閲覧 ^ “島倉千代子さん、遺作曲発売日に四十九日法要”. サンケイスポーツ (2013年12月19日). 2017年1月1日閲覧。 ^ 離婚、借金、乳がん…「人生いろいろ」島倉千代子さん急死 サンスポ 2013年11月9日 ^ [1],東スポWeb,2013年12月21日付 ^ 田勢康弘『島倉千代子という人生』 ^ DVD『ちびまる子ちゃん スペシャル「温泉に行こう!!」の巻』に収録。 ^ “なつかしの番組 音楽番組編:NHKのど自慢(2)”. NHKアーカイブス. 日本放送協会 (2010年5月14日). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月20日閲覧。 “当該頁末尾『アカイさんの一言』より。「NHKアーカイブスブログ(2010年5月14日)より転載、加筆、写真追加」”《》 ^ 『サンケイスポーツ』2013年11月9日付、大阪本社版12版、26面。 ^ 「売り上げベスト10」『島倉家-これが私の遺言』168頁。(該当ページにはノンブル表記なし) ^ 「電電公社のコマソン『赤い電話』」『官界通信』第969号、1970年2月16日、15頁。NDLJP:2644566/15 1955年の音楽#デビュー - 同じ年にデビューした歌手 島木譲二 - 彼のギャグで『しまったしまった島倉千代子!』というのがある。
島倉千代子オフィシャルブログ - ウェイバックマシン(2013年11月12日アーカイブ分) 島倉千代子 - NHK人物録 表 話 編 歴 11 森進一「港町ブルース」 13 森進一「おふくろさん」 14 和田アキ子「あの鐘を鳴らすのはあなた」 15 由紀さおり「恋文」 16 五木ひろし「みれん」 17 五木ひろし「千曲川」 18 八代亜紀「もう一度逢いたい」 19 八代亜紀「愛の終着駅」 20 沢田研二「LOVE (抱きしめたい)」 21 小林幸子「おもいで酒」 22 都はるみ「大阪しぐれ」 23 岩崎宏美「すみれ色の涙」 24 大橋純子「シルエット・ロマンス」 25 森昌子「越冬つばめ」 26 細川たかし「浪花節だよ人生は」 27 石川さゆり「波止場しぐれ」 28 北島三郎「北の漁場」 29 大月みやこ「女の駅」 30 島倉千代子「人生いろいろ」 31 石川さゆり「風の盆恋歌」 32 松原のぶえ「蛍」 ・ 竹内まりや「告白」 ・ サザンオールスターズ「真夏の果実」 33 坂本冬美「火の国の女」 ・ ASKA「はじまりはいつも雨」 34 山川豊「夜桜」 ・ 松田聖子「きっと、また逢える…」 35 前川清「別れ曲でも唄って」 36 川中美幸「逢えるじゃないかまたあした」 37 山本譲二「夢街道」 38 天童よしみ「珍島物語」 39 中村美律子「人生桜」 40 鳥羽一郎「龍神」 41 郷ひろみ「GOLDFINGER '99」 42 香西かおり「浮寝草」 43 田川寿美「海鳴り」 44 森山良子「さとうきび畑」 45 氷川きよし「白雲の城」 46 夏川りみ「愛よ愛よ」 47 水森かおり「五能線」 48 倖田來未「夢のうた」 49 EXILE「時の描片〜トキノカケラ〜」 50 中村美律子「女の旅路」 51 五木ひろし「凍て鶴」 52 近藤真彦「ざんばら」 53 坂本冬美「おかえりがおまもり」 54 天童よしみ「おんなの山河」 55 大月みやこ「いのちの海峡」 56 EXILE ATSUSHI 「Precious Love」 57 松田聖子 58 鈴木雅之「Melancholia」他 59 天童よしみ 60 MISIA 61 市川由紀乃 62 福田こうへい 63 MISIA 64 三浦大知 65 JUJU 66 milet 第1回から第10回までは制定なし。第12回 は発表なし。第32回から第34回までは演歌・歌謡曲、ポップス・ロックの2部門に分けて発表(ただし第32回に限り演歌・歌謡曲、ポップス、ロックの3部門に分けて発表した)。 表 話 編 歴 1951 渡辺はま子 1952 渡辺はま子 (2) 1953(年初)笠置シヅ子 1953(年末)淡谷のり子 1954 渡辺はま子 (3) 1955 二葉あき子 1956 笠置シヅ子(2) 1957 美空ひばり 1958 美空ひばり(2) 1959 美空ひばり(3) 1960 島倉千代子 1961 島倉千代子 (2) 1962 島倉千代子 (3) 1963 美空ひばり (4) 1964 美空ひばり (5) 1965 美空ひばり (6) 1966 美空ひばり (7) 1967 美空ひばり (8) 1968 美空ひばり (9) 1969 美空ひばり (10) 1970 美空ひばり (11) 1971 美空ひばり (12) 1972 美空ひばり (13) 1973 島倉千代子 (4) 1974 島倉千代子 (5) 1975 島倉千代子 (6) 1976 都はるみ 1977 八代亜紀 1978 山口百恵 1979 八代亜紀 (2) 1980 八代亜紀 (3) 1981 森昌子 1982 都はるみ (2) 1983 水前寺清子 1984 都はるみ (3) 1985 森昌子 (2) 1986 石川さゆり 1987 和田アキ子 1988 小林幸子 1989 石川さゆり (2) 1990 都はるみ (4) 1991 和田アキ子 (2) 1992 由紀さおり 1993 石川さゆり (3) 1994 都はるみ (5) 1995 和田アキ子 (3) 1996 坂本冬美 1997 安室奈美恵 1998 和田アキ子 (4) 1999 和田アキ子 (5) 2000 天童よしみ 2001 和田アキ子 (6) 2002 石川さゆり (4) 2003 天童よしみ (2) 2004 小林幸子(2) 2005 天童よしみ (3) 2006 川中美幸 2007 石川さゆり (5) 2008 和田アキ子 (7) 2009 DREAMS COME TRUE 2010 DREAMS COME TRUE (2) 2011 石川さゆり (6) 2012 いきものがかり 2013 髙橋真梨子 2014 松田聖子 2015 松田聖子(2) 2016 石川さゆり (7) 2017 石川さゆり (8) 2018 石川さゆり (9) 2019 MISIA 2020 MISIA(2) 2021 MISIA(3) 2022 MISIA (4) 2023 MISIA(5) 表 話 編 歴 1999:ともさかりえ 2000:加藤あい 01:深田恭子 02:上原多香子 03:上戸彩 04:後藤真希 05:松浦亜弥 06:BoA 07:長澤まさみ 08:堀北真希 09:成海璃子 10:福田沙紀 11:前田敦子 12:武井咲 13:川島海荷 14:川口春奈 15:橋本環奈 16:小松菜奈 17:中条あやみ 18:岡田結実 19:浜辺美波 20:Kōki, 21:森七菜 22:芦田愛菜 23:ラウール 1990:紺野美沙子 91:安田成美 92:今井美樹 93:牧瀬里穂 94:松雪泰子 95:石田ゆり子 96:飯島直子 97:梅宮アンナ 98:鶴田真由 99:松嶋菜々子 2000:安室奈美恵 01:本上まなみ 02:米倉涼子 03:菊川怜 04:伊東美咲 05:長谷川京子 06:小雪 07:倖田來未 08:加藤ローサ 09:広末涼子 10:ベッキー 11:黒木メイサ 12:大島優子 13:剛力彩芽 14:吉高由里子 15:桐谷美玲 16:井上真央 17:西内まりや 18:菜々緒 19:吉岡里帆 20:有村架純 21:新木優子 22:広瀬アリス 23:永野芽郁 1990:池上季実子 91:古手川祐子 92:島田陽子 93:名取裕子 94:樋口可南子 95:黒木瞳 96:石川さゆり 97:かたせ梨乃 98:川島なお美 99:高島礼子 2000:財前直見 01:中村江里子 02:川原亜矢子 03:小島奈津子 04:水野真紀 05:天海祐希 06:深津絵里 07:篠原涼子 08:中谷美紀 09:滝川クリステル 10:観月ありさ 11:木村佳乃 12:米倉涼子* 13:松嶋菜々子* 14:吉瀬美智子 15:深田恭子* 16:松下奈緒 17:柴咲コウ 18:上戸彩* 19:橋本マナミ 20:木村文乃 21:戸田恵梨香 22:佐々木希 23:田中みな実 1990:村山勝美 91:沢田研二 92:阿川泰子 93:篠ひろ子 94:小池百合子 95:和田アキ子 96:田丸美寿々 97:小林幸子 98:小柳ルミ子 99: 天童よしみ 2000:安藤優子 01:林真理子 02:萬田久子 03:浅田美代子 04:黒木瞳* 05:大竹しのぶ 06:大地真央 07:YOU 08:江角マキコ 09:真矢みき 10:大塚寧々 11:草刈民代 12:檀れい 13:永作博美 14:鈴木保奈美 15:宮沢りえ 16:吉田羊 17:石田ゆり子* 18:遼河はるひ 19:常盤貴子 20:藤原紀香 21:小池栄子 22:アンミカ 23:松嶋菜々子 1990:芳村真理 91:岩下志麻 92:若尾文子 93:佐久間良子 94:野際陽子 95:三田佳子 96:浅丘ルリ子 97:中村玉緒 98:島倉千代子 99:五月みどり 2000:瀬川瑛子 01:木の実ナナ 02:由美かおる 03:松坂慶子 04:桃井かおり 05:秋吉久美子 06:小池百合子* 07:阿川佐和子 08:風吹ジュン 09:夏木マリ 10:戸田恵子 11:高畑淳子 12:余貴美子 13:高橋惠子 14:浅野温子 15:片平なぎさ 16:沢口靖子 17:賀来千香子 18:浅野ゆう子 19:紫吹淳 20:松下由樹 21:斉藤由貴 22:真矢ミキ 23:永作博美 1997:森英恵 98:朝丘雪路 99:雪村いづみ 2000:市原悦子 01:デヴィ・スカルノ 02:白川由美 03:黒柳徹子 04:十朱幸代 05:野際陽子* 06:八千草薫 07:岩下志麻* 08:阿木燿子 09:森山良子 10:髙橋真梨子 11:八代亜紀 12:浅丘ルリ子* 13:由紀さおり 14:竹下景子 15:伊藤蘭 16:和田アキ子* 17:桃井かおり* 18:大竹しのぶ* 19:森昌子 20:原田美枝子 21:田中美佐子 22:宮崎美子 23:大地真央 1992:岡田眞澄 93:山城新伍 94:カールスモーキー石井 95:鹿賀丈史 98:小林旭 99:佐々木主浩 2000:高橋由伸 01:西城秀樹 02:新庄剛志 03:氷川きよし 04:坂口憲二 05:中村獅童 06:清原和博 07:速水もこみち 08:谷原章介 09:松山ケンイチ 10:佐藤隆太 11:伊藤英明 12:佐藤浩市 13:東山紀之 14:市原隼人 15:哀川翔 16:DAIGO 17:三浦春馬 18:福士蒼汰 19:舘ひろし 20:田中圭 21:横浜流星 22:北村匠海 92: ジュリー・ドレフュス 93: ヒロコ・グレース 2001: 高橋尚子 08: 松坂大輔 10: イ・ビョンホン、鳩山幸 11: ウォンビン、蓮舫 12: 少女時代、本田圭佑 13: KARA、内村航平 14: 松本潤 15: 髙橋大輔、May J. 16: ももいろクローバーZ、市川海老蔵 17: 福原愛 18: 浅丘ルリ子、村田諒太 19: コシノジュンコ、加山雄三 20: 浅田真央、高橋英樹 21: 内田篤人 22: 水谷隼 ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research MusicBrainz 日本の女性歌手 演歌歌手 日本の女優 NHK紅白歌合戦出演者 日本コロムビアのアーティスト 紫綬褒章受章者 東京都区部出身の人物 品川学藝高等学校出身の人物 品川女子学院中等部・高等部出身の人物 障害を持つ人物 1938年生 2013年没 肝癌で亡くなった人物 2024/11/23 08:47更新
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