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手塚治虫の情報 (てづかおさむ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【4月4日】今日誕生日の芸能人・有名人

手塚治虫の情報(てづかおさむ) 漫画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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手塚 治虫さんについて調べます

■名前・氏名
手塚 治虫
(読み:てづか おさむ)
■職業
漫画家
■手塚治虫の誕生日・生年月日
11月3日 (年齢2023年没)
蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
大阪出身

手塚治虫と同じ11月3日生まれの有名人・芸能人

手塚治虫と同じ出身地大阪府生まれの有名人・芸能人


手塚治虫と関係のある人

小山健: 2019年、『生理ちゃん』で第23回手塚治虫文化賞短編賞受賞、実写映画化も発表される。


久松文雄: 高校を卒業すると上京し、手塚治虫のアシスタントとなり、後にプロの漫画家としてデビューした。


さそうあきら: 1999年、『神童』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞と手塚治虫文化賞マンガ優秀賞をダブル受賞。


ヤマザキマリ: その他にも、2010年第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞、2013年仏アングレーム国際漫画祭ノミネート、2013年米アイズナー賞アジア部門ノミネート。


菊池こころ: BUDDHA2 手塚治虫のブッダ -終わりなき旅-


山中崇史: 扉座『新浄瑠璃 百鬼丸〜手塚治虫「どろろ」より〜』:紀伊國屋ホール(2009年)


遠藤大智: 手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-(2011年)


つげ義春: 創刊から60余年の『芸術新潮』がマンガ家を特集するのは、手塚治虫、水木しげる、大友克洋に続き4人目。


古川益三: 手塚治虫の『新宝島』の初版単行本(ほぼ新本状態の物)に500万円の値を付けて金庫に保管している[1]。


堀田あきお: ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜(2009年、秋田書店) - アシスタント時代の堀田が登場。


星新一: 後年、手塚治虫、矢野徹、米澤嘉博、野田昌宏、柴野拓美、小松左京らは死去した際に星雲賞特別賞を受賞したが、星の死去時は授賞されなかった。


池原しげと: 手塚治虫と絵柄が似ているという理由で起用された手塚原作の『ふしぎなメルモ』(小学館学年誌)の代筆で、1971年に漫画家デビュー。1970年代前半には、学年誌で数々の特撮&アニメ作品のコミカライズを執筆しながら手塚治虫のアシスタントなど関係者で設立した企画者集団のひろみプロに参加して、『ミラクル少女リミットちゃん』『魔女っ子メグちゃん』といったテレビアニメの企画に関与した。


大塚範一: ^ 若い広場 「執念の着地」―障害を越えて― 「若者紳士録」 「マイ・ブック」―鉄腕アトム―手塚治虫・作 NHKアーカイブス公式サイト 番組表詳細検索


大畑伸太郎: 手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-


坂巻学: 手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-


黒谷友香: 手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-(2011年) - マリッカ姫 役(声の出演)


赤塚不二夫: 一家が満洲帰りとして差別を受け学校でもいじめの対象となる中、2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。


手塚眞: オンラインカードゲーム「Astroboy: Edge of Time / アトム:時空の果て」(企画・開発・運営:アクティブゲーミングメディア、キャラクター原作:手塚治虫、協力:手塚プロダクション)


魚豊: -地球の運動について-』で第26回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。


藤原竜也: わが家の歴史(2010年4月10日 - 11日、フジテレビ) - 手塚治虫


ジェームス三木: 『加山雄三のブラック・ジャック』(1981年、テレビ朝日) - 原作:手塚治虫


井上大助: 手塚治虫のアシスタントを務めたのち、1974年に独立。


蛭子能収: 呉智英の『現代マンガの全体像』で手塚治虫、大友克洋、楳図かずお、水木しげるらと並んで評価された漫画家の一人であり、2019年春に府中市美術館で開催された「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」では歌川国芳、萬鉄五郎、アンリ・ルソーら歴史的な美術家と並んで作品が展示された。


石ノ森章太郎: 1964年、手塚治虫の仲人により結婚。


坂井永年: 20歳の頃に「漫画の神様」手塚治虫に絵を見てもらう機会があり、その中の和風の絵を見た手塚から「このような(和風の)絵が描けたら世界で通用するよ!」と言われる。


林ひさお: 高校を1年で中退し手塚治虫のアシスタントを務めた後、1年半後に独立。


大和田夏希: 中学卒業後には上京し、初めは川崎のぼる、その後に手塚治虫の弟子となる。


川田紳司: 手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-


田河水泡: 1941年(昭和16年)に軍の方針で打ち切られるものの、その影響力は凄まじく、幼い頃の手塚治虫はのらくろを模写し、技術を磨いていたという。


栗田かおり: 手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-


手塚治虫の情報まとめ

もしもしロボ

手塚 治虫(てづか おさむ)さんの誕生日は11月3日です。大阪出身の漫画家のようです。

もしもしロボ

卒業、テレビ、兄弟、姉妹、映画、趣味、結婚、事件、現在、母親、父親、家族、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。2023年に亡くなられているようです。

手塚治虫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治〈読み同じ〉、1928年11月3日 - 1989年2月9日)は、日本の漫画家・アニメ監督・医師。学位は医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。大阪府豊能郡豊中町(現:豊中市)生まれ、兵庫県宝塚市出身。宝塚市名誉市民。大阪帝国大学附属医学専門部卒業

戦後日本に於いて、ストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的存在として活躍した。

大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。

1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年(平成元年2月)に死去するまで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。

藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。

大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市本町付近)に、父・手塚粲(てづかゆたか・1900年 - 1986年5月14日)と母・文子(1909年 - 1983年)の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられた。3人兄弟の長男であり、弟は手塚浩(1930年 - )、妹は宇都美奈子(1932年 - 2015年)。

1933年、治が5歳の時に一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)川面(かわも)の邸宅に移り住んだ。このころの寶塚(現・宝塚)は、小林一三が箕面有馬電気軌道の乗客増加を狙って田園風景の中に開発した新興の住宅地が散在して、その中心に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の本拠地である宝塚大劇場、宝塚ファミリーランドの前身である宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの行楽施設が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる。

父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れていってもらっていた。また手塚家の隣家は宝塚少女歌劇団の男役トップスターである天津乙女(本名:鳥居榮子)と雲野かよ子(本名:鳥居華子)と池邊鶴子(本名:鳥居久代)姉妹が住む鳥居家であり、宝塚音楽学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られるなど、宝塚少女歌劇団の女性と接する機会も多かった。のちに手塚は、初恋の相手が宝塚少女歌劇団の生徒だったこと、宝塚の生徒を見たいがために宝塚大劇場に通ったこと、月丘夢路や淡島千景のような鉄火肌の女性が好みであること、月丘主演の大映映画『新雪』(1942年)を20数回観たことを語っている。

1935年、池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)に入学した。両親が東京出身であったこともあり、近畿方言を話せず浮いた存在であった。しかし、幼いころから見よう見まねで描いていた漫画絵が治を救うことになる。小学3年生のときに、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み、小学5年生のころには長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師のあいだでも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという。漫画を描くことで同級生たちからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなった。誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた。友人が家に来ると、紅茶と菓子でもてなされ、治の誕生日には五目寿司や茶碗蒸しがふるまわれた。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている。

この時期に、同級生の石原実(後に大阪淀屋橋石原時計店社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味をもつようになる。手塚家の邸宅の広い庭は昆虫の宝庫であり、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みをもたせた。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなんで、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年ごろまでは、「治虫」はそのまま「おさむ」と読ませていた。

1941年、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)に入学。日本は支那事変(日中戦争)の真っただ中で軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られるなどしている。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。

第二次世界大戦末期の1944年夏には体の弱い者が集められる強制修練所に入れられた。9月からは学校に行くかわりに軍需工場に駆りだされ、ここで格納庫の屋根にするスレートを作った。

1945年3月、修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。旧制浪速高等学校(現・大阪大学)を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった。6月、勤労奉仕で監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。

同年7月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可された。医学専門部は、戦争の長期化に伴い、軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校であり、したがって旧制中学校からの入学が可能であった。大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は1951年に廃止されている。なお後述の通り医師国家試験については『ジャングル大帝』や『鉄腕アトム』など連載の執筆をしながら合格している。

終戦後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を毎日新聞学芸部へ送った。これは音沙汰なしに終わったが、その後、手塚の家の並びに、花里いさ子という宝塚のスターがいて、その姪にあたる女性が毎日新聞社の秘書課に勤務しており、その紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現・毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っている。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと並行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近いかたちで終わっている。

本人の語るところによれば、漫画家としてのデビューは、戦時下の1944年(昭和19年)に描いた大政翼賛会の「桃太郎」であるという。しかしながら、現物はみつかっていない。

漫画家としてデビューする前の1945年ごろ、2代目桂春団治が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した(現物は宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている)。2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。

ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本のかたちで長編作品を発表できるようになった。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編をもとに、学業のかたわら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった。1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行われた。同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、つづく『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている。1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描く。1950年には文豪ゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。

漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも「医者になるよりも漫画家になるように」と忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1952年3月に第十二回医師国家試験に合格、1953年9月18日に医籍登録されている。

このため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている。

手塚は大阪で赤本漫画を描くかたわら、東京への持ち込みも行っている。当初期待した講談社では断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった。同年11月より雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画の連載が開始された。1953年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始した。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった。1954年には『ジャングル大帝』連載完結の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始した。『火の鳥』のシリーズはその後も休刊等によりCOM、マンガ少年、野性時代と掲載誌を変えながら長年に描き継がれ,手塚のライフワークとなった。

月刊の雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行ってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった。一方、描き下ろし単行本の方は1952年の『バンビ (映画)』(1942年映画)『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに郵便法の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と並行して付録冊子のかたちで描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、このかたちで単行本時代の作品も続々とリメイクされていった。

私生活の面では、1952年に宝塚から東京に移住し、さらに翌1953年に『漫画少年』編集部からの紹介で豊島区のトキワ莊に入居した。その後トキワ荘には、手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄が入居。手塚は自分が住んでいた14号室を藤子不二雄の二人に譲ってトキワ荘から転居したが、その後も石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫など後に著名な漫画家となる者たちが続々と入居したトキワ莊は漫画家の梁山泊となった。この時期、手塚はトキワ莊の漫画家に映画をたくさん観るようにと薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという。

なお、1953年に手塚は関西の長者番付の画家の部でトップとなったが、仕事場が木造2階建て建築のトキワ莊であったため、取材に来た新聞記者に呆れられたので、以後は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている。

『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』など児童漫画の人気作品の連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』(文藝春秋新社)に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている。1955年から1958年にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており、1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表、後者は第3回小学館漫画賞(1957年)の対象作品となった。このほかにも幼年向け作品や絵物語、小説やエッセイなど漫画家の枠を超えた活動をするようになっており、1958年には東映動画(現・東映アニメーション)の演出家白川大作から請われて同社の嘱託となり劇場用長編漫画映画『西遊記』(『ぼくのそんごくう』が原作)の原案構成を受けもっている。

1958年ごろより、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家たちの一人に過ぎなくなっていた。さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新しく台頭してきた劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした。

当初は劇画の雑誌にも連載をもつなどしていたが、手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたという。またすでに、1957年には『黄金のトランク』(『西日本新聞』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、徐々に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる。

1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。このとき、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった(ただし、『少年サンデー』初代編集長の豊田亀市は、契約料200-300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証言している。)が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけをして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている。同年、宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。

アニメ制作に乗り出して以降も、手塚は漫画作品を精力的に発表していた。虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと並行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『マグマ大使』の連載などが1963年 - 1965年にかけて行われている。他のアニメ作品と関連して『W3』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件も1965年の出来事である。

1966年、手塚は実験漫画雑誌『COM』を創刊する。先行した白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。1967年には怪奇漫画『バンパイヤ』に続いて『どろろ』を『少年サンデー』に連載。これらは当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品であった。1968年には青年誌『ビッグコミック』(小学館)、『プレイコミック』(秋田書店)などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は安保闘争などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった。

一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪『ハレンチ学園』のヒットを受け、「性教育マンガ」と銘打たれた『やけっぱちのマリア』(週刊少年チャンピオン)、『アポロの歌』(週刊少年キング)などを発表しているが、この時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産し、手塚も個人的に推定1億5000万円の借金を背負うことになった。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している。

1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』も、もともとは少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、壁村耐三編集長の厚意で始まったものであった。しかし、長期間続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった。さらに1974年、『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げた。

1976年、中断されたままであった『火の鳥』が『マンガ少年』(朝日ソノラマ)の創刊によって再開。1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていた。また、同時期の漫画文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていった。

1980年代では、幕末から明治維新の時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、アドルフ・ヒトラーやゾルゲ事件などを題材に一般週刊誌の週刊文春で連載した『アドルフに告ぐ』など、青年漫画で新たな代表作を手がけることになる。「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した。

1985年にNHK特集の取材制作に応じた時期でも、1日にわずか1~2時間の睡眠で連載漫画やアニメーション制作をこなしていた。「丸が上手く描けないんだ」と身体能力の衰えを認めつつも、取材陣に対し「(体の老化を乗り越えられれば)あと40年(100歳)は描きますよ、僕は。アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ」と述べ、創作活動への強い意欲を見せた。

しかし、それから3年後の1988年3月15日に、突然腹部の激痛にみまわれ、救急搬送され、検査の結果進行性のスキルス胃癌と判明し半蔵門病院に入院し、胃の4分の3を切除する。5月に退院し、以前と全く変わらない多作振りを見せたものの、入院前に比べ次第に身体は痩せ細り、時折休憩を挟まないと描き続けられないほど体力が低下していった。同年10月に再入院。翌11月、万全な体調とはいえない中で「参加しなければ国際問題です」と周囲の制止を振り切り、中華人民共和国上海市でのアニメーションフェスティバルに出席するが、帰国と同時に体調が悪化。12月に再度手術を受けるが、この時点ですでに末期の状態であり、肝臓にまでがんが転移していた。

翌1989年1月21日に手塚プロ社長の松谷孝征が見舞いに来たときには、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せた上で医師から聞いたことを話すと「そうか…」と一言だけ言ったという。手塚は病院のベッドでも、医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。同月25日以降になると昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていた。息子の眞は、「(この頃の父は)昏睡が覚めると鉛筆を握らせるがすぐに意識がなくなりの繰り返しだった」と語っている。死に際の状態であるにもかかわらず「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心をなくさなかった。2月9日午前10時50分に半蔵門病院で死去。60歳没。立ち会った松谷によると、手塚治虫の最期の言葉は、「頼むから、仕事をさせてくれ」。通夜は2月11日、東久留米市の自宅で、葬儀は3月2日、東京都港区の青山葬儀所で手塚プロダクションの社葬としてそれぞれ営まれた。墓所は豊島区摠禅寺。その死により、『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』などの作品が未完のまま遺された。また、梅原猛の小説『ギルガメシュ』のアニメ化に意欲的だったが、構想中のままに終わった。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、そのときの体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていた。

周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる。しかし、病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが、本人は胃癌であることを知っていて死するという内容が描かれている。

手塚治虫の最初期の作品である酒井七馬との共作による1946年の『新寶島』は戦後ストーリー漫画の原点とされ、本作を読んで影響を受けたり、漫画家を志した読者も多い。藤子不二雄、石ノ森章太郎、ちばてつや、望月三起也、楳図かずお、中沢啓治など。劇画を始めた辰巳ヨシヒロ、桜井昌一、佐藤まさあき も衝撃を語っている。

その一方で、「手塚が「新寶島」で映画から学んだ革命的な技法を導入し、これまでのマンガのスタイルを一変させた」といったような話題も生んだ。これは一部正しいが全てが正しいというわけではない。呉智英は著書『現代マンガの全体像』(1986年)において、『新寶島』の1ページ3段のコマ割りはむしろ平凡なもので、構図なども戦前の作品である『スピード太郎』(宍戸左行)と比べても革新的なものとはいえないと指摘し、むしろ物語の展開の方に「手塚の天分」がみられるとしている。米澤嘉博も「1ページ3段割を基本としており、アップやロングの使い分けもない」として同様の指摘を行い、それよりも戦前の絵物語やコミックストリップ、映画や少年小説などの冒険物語の要素を一つにしたところに新しさを見ている。また、中野晴行は著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影』において、元アニメーターだった酒井の経歴に触れて、その後の手塚作品では「映画的表現」が後退していることから、『新寶島』の「映画的表現」には酒井の功績が大きかったのではないか、と推測している。一方、野口文雄は中野の説を批判し、『新寶島』の革新性は、それまで主に登場人物のセリフによる説明に頼っていた時間や状況の進行を、セリフによらずスピーディなアクションやコマ割り・構図による表現で行ったことであるとし(これこそが「映画的手法」)、こういった表現はそれ以前の『スピード太郎』などにも見られず、むしろそれ以降の酒井七馬の作品にも影響を与えたとする。

上記のような話題が生まれた背景には、1938年に内務省から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、児童図書の表現規制が10年近くなされていたため、戦前の漫画表現が忘れ去られていたこと、そのようななかで『新寶島』に触れた衝撃や影響を、藤子不二雄Ⓐなど後の漫画界を支えたベテラン作家が語ったことなどがあった。

夏目房之介は、赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、というかたちで読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などをはじめとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった。

上記の絵柄の記号化、体系化は漫画制作の並行作業化分業化を容易とするもので、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にした。漫画の制作に対して(アニメーション制作と類似の)アシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚が最初である。手塚が漫画制作に導入したものとしては他に、Gペンの使用(早く描けるという理由による。それまで漫画では丸ペンの使用が一般的だった)、スクリーントーンの採用などがある(注:日本で漫画制作にスクリーントーンを導入したのは手塚治虫が最初ではない)。

辻真先は、コマ漫画自体は樺島勝一の『正チャンの冒険』のように古い作品があるため画期的でなく、真の革新性は立体的な時間の刻み方にあると述べている。

手塚は自らの戦争体験によってもたらされた「生命の尊厳」を自身のテーマの一つとして挙げている。

手塚は、自身はマンガにおいて時代の流れに合わせ転向を繰り返す転向者であるとしたうえで、「ただ一つ、これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。それは戦争はご免だということだ。だから反戦テーマだけは描き続けたい。」と語っている。

手塚は子供を「未来人」と呼び、以下のように語っている。

手塚は作品の中で天使と悪魔の二面性や、異民族間、異文化間の対立や抗争などを繰り返しテーマにしている。手塚は戦後まもないころ、酔っ払ったアメリカ兵にわけもわからず殴られ強いショックを受けたことがあり、これがこのテーマの原体験になっているのだとしている。もっとも、『ジャングル大帝』などにおける「分厚い唇、攻撃的なイメージ」といった類型的な黒人観は批判されており、手塚の死後の1990年には「黒人差別をなくす会」により糾弾を受けている。これ以後、手塚の単行本には差別と受け取られる表現について弁明するただし書きが付けられるようになった。

また漫画を描く際に、プロ・アマ、さらには処女作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、"基本的人権を茶化さないこと"を挙げ、どんな痛烈かつどぎつい描写をしてもいいが、「戦争や災害の犠牲者をからかう」「特定の職業を見下す」「民族、国民、そして大衆を馬鹿にする」だけはしてはならない、「これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べている。

夏目房之介は、手塚が追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出している。夏目は手塚が小中学生のころによく見たという以下のような夢を紹介し、この夢が生命、変身、不定形、エロス、世界との関わり方といった「手塚の作家の資質の核」をほとんど言い切ってしまっているとしている。

夏目によれば、1950年頃の手塚はこのような「不定形で変身をし続ける生命の原型」を、描線に込めて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだという。

鳴海丈が書いた書籍『萌えの起源』(PHP新書 2009年)によると「萌え」文化が日本に誕生した理由を手塚によるものが大きいとし、その理由を「ボクっ娘」「萌え擬人化(擬人化)」「ケモノ」「ロリ系」等といったジャンルを日本漫画黎明期から"意図的に"漫画の中で多用してそれが広がったことを上げている。

手塚治虫は、1928年生まれでデビュー時は1946年1月4日で17歳であったが、1946年1月1日付の少年国民新聞(現・毎日小学生新聞)にデビュー作の「マアチャンの日記帳」の連載開始予告が掲載された際には、以下のように19歳として紹介されていた。

関係の有無は不明だがこの時手塚は当時日常的に使われていた数え年ではこの記事が掲載された1946年元日で19歳になる。他に1989年の書籍に掲載された手塚と石ノ森章太郎との対談では「自分は20歳でデビューした」という体で話を進め、17歳でデビューした石ノ森を叱責している。晩年においては生年月日は大正15年(1926年)で定着していた。世間一般に本当の生年が明らかにされたのは死去直後のことであり、訃報を伝える新聞でも新聞の種類によって生年が異なるという不思議な事態が起きた。親しい立場にあった漫画家でさえ本当の年齢を知って驚いたほどであった。

また、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の卒業生であり、上記のようにデビュー当時の新聞には事実どおり「大阪帝大医学専門部(ママ)」と紹介されていた。1978年に手塚が書いた雑誌の寄稿文でも自分のことを事実どおり帝国大学附属医学専門部の学生だったと振り返っている。しかし1980年代には「1944年に旧制浪華高校理乙入学」「1945年に大阪大学医学部予科入学」と事実と異なった経歴が紹介されることもあった。(事実どおり紹介している書籍もある)手塚の没後、小野耕世『手塚治虫』(ブロンズ新社、1989年)によって「浪華高校」も「大阪大学予科」もそもそも存在しない学校であることが指摘されている。書籍によっては手塚の来歴が事実と異なった内容で紹介されるようになった理由については定かではない。

血液型はプロフィールにおいてB型と紹介されることもあったが、現在ではA型とされている。これについては手塚本人の著書で「戦争中に検査を受けた際はB型と聞かされていたが、1980年代頃に精密検査を受けてA型と知らされた」と説明している。

ベタ塗りを時折編集者などにやらせていたのが、後のアシスタント制度に繋がった。飯沢匡がそれを面白がり、「ベタマン」という小説にして発表したが、手塚に批判的な漫画評論家などから「手塚は一人で描いていない」という非難を浴びるようになり、第三回小学館漫画賞受賞(1957年)以降、長年漫画賞から遠ざかることになった。

手塚のアシスタントであったわたべ淳は、手塚が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことを証言している。フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができ、揺れるタクシーや飛行機の中でもかなり正確に描いたという(常に原稿の締め切りに追われていた手塚は、乗り物の中で作品を仕上げることも少なくなかった)。インクは開明墨汁を愛用し、『マンガの描き方』でも推薦している。死去の前年には林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が描けなくなった」と体の衰えを語っている。その一方で手塚は自分の漫画について「絵ではなくて記号」であること(漫画記号論)を繰り返し強調しており、その背景には手塚のデッサン力に対する負い目があったともいわれている。作品の中で自身の画力を自虐的に扱うシーンを入れることもたびたびであった。

上記の通り常に原稿の締め切りに追われていた。これは、自身の漫画のネタとしてもたびたび登場している。理由は、来る仕事をほとんど拒まなかったためである。締め切りを守らず、編集者を待たせることから一部の編集者からはペンネームをもじって「ウソ虫」「遅虫」などと呼ばれていたという。

漫画の技法を自ら開拓していくかたわらで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』が流行すると『どろろ』で妖怪マンガを繰り出し、『劇画』が主流の雑誌「ガロ」に対抗して、トキワ荘のメンバーである藤子不二雄や石ノ森章太郎といった『漫画』を主流にした雑誌「COM」を自ら立ち上げるなど対抗することも多かった。

速読にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという。喫茶店などで打ち合わせの前に本屋に立ち寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせた(手塚眞講演)。

漫画の製作に取りかかりながら、別の雑誌の編集者とまったく別のテーマの漫画のアイデアについて電話で話していたこともあるという(手塚眞講演)。

手塚は極度の激務家だったことで知られ、睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それ以上に眠ることはほとんどなかったといわれる。全盛期は月に数日程度しか眠らないこともしばしばであった。手塚の死後、93歳まで健在だったライバルの水木しげるはエッセイ漫画『睡眠のチカラ』の中で、自分は1日10時間の睡眠を実践することで長生きができたと語り、反対に手塚は徹夜ばかり続けていたために早死にしてしまったと指摘していた。

手塚は医師免許を持っていたが、既に大阪帝国大学附属医学専門部の時代からプロの漫画家として活動をしており、インターン時代に患者を診ていたのを除いては職業医師として活動をしたことはなく、編集者やアシスタントなどの興味本位で診察を受けに来た人間の多くを追い返していた。ただし、岡部冬彦が手塚と海外に行き体調を崩した際には手塚が診察している。そのとき、岡部は手塚の言うことを信じずに日本にトンボ返りして病院で検査を受けたが、手塚の言うとおりのただの飲み過ぎであった。

手塚が医者になるのをやめて漫画家一本にした直接的な理由は、手塚の母にあるとされる。手塚は「せむしの仔馬」というアニメ映画を見ることを口実にして母親を連れ出して開演までの時間に映画館のロビーで漫画家になるか医師になるかについて相談をした。母親はためらうことなく自分の好きな方をやりなさいと答えたので漫画家一本で行くことを決心した。ちなみにそのときの映画「せむしの仔馬」には火の鳥が登場し、これが手塚の「火の鳥」の着想の一つになった。またこれは手塚が病室でコンテを切っていた遺作の一つ「青いブリンク」の原作でもある。

また手塚は医学生時代に授業中もずっと漫画を描いていたために恩師から「手塚君、君は、このまま医者をつづけても、ろくな医者にはなれん。必ず患者を五、六人は殺すだろう。世の中のためにならんから医者をあきらめて漫画家になりたまえ」と諭されている。手塚はインターン時代に患者の顔を見るとどうしてもカルテに似顔絵を描いてしまうとも語っている。息子の眞によれば、手塚は血を見るのが嫌いで道を断念したという。医学専門部からは「絶対に医師として働かない」という条件付きで卒業をさせてもらったという。

なお専門は外科である。後に担当教授の紹介で奈良県立医科大学の研究生となり、論文「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究。タニシの精子の研究を通じて人間の精子の発生のメカニズムを考えるというもの)を提出して1961年に医学博士を取得した。

医師免許は終身有効なものであり、手塚はプロの漫画家になった後にも医師免許(昭和28年9月18日医籍登録第150476号)を保持し続けていた。没後に宝塚市立手塚治虫記念館で2003年11月20日から開催された企画展「『ブラック・ジャック』のDNA」に医師免許証の現物が公開陳列されたとき、ある識者から免許証は当人死亡後は政府に返納せねばならないと定めた法令に違反している、という指摘があった。厚生労働省と協議した結果、いったん規定どおりに返納手続きを行った後に同省が改めて遺族に譲渡するという特例の措置がとられた。厚生労働省医政局医事課試験免許室では「こういった例は過去にあまりない」としている。それにより記念館に展示されている免許証には無効を示す「抹消」の赤印が押されている。

手塚治虫はプロ野球と関係が深く、特に「アトムズ(現:東京ヤクルトスワローズ)」と「埼玉西武ライオンズ」に繋がりがある。

現在の東京ヤクルトスワローズ(セントラル・リーグ加盟)は「国鉄スワローズ」という名前で誕生し、1965年に運営団体が当時のフジテレビ社長水野成夫の意向でフジサンケイグループに買収され、「サンケイスワローズ」と変わった。1966年、『鉄腕アトム』がフジサンケイグループに属するフジテレビの看板番組となっていたことと、サンケイ新聞に鉄腕アトムを連載していたことから、名前を変え鉄腕アトムをマスコットキャラクターにした「サンケイアトムズ」が誕生した。「サンケイアトムズ」は1969年に「アトムズ」に変わり、経営権がヤクルト本社に移ると「ヤクルトアトムズ」へと変わった。「ヤクルトアトムズ」は現在の「ヤクルトスワローズ」の直接の前身である。

また、「埼玉西武ライオンズ」(パシフィック・リーグ加盟)も手塚と繋がりがある。1978年、クラウンライターライオンズが西武グループに買収され西武ライオンズ(2008年、埼玉西武ライオンズに改名)となった際には、『ジャングル大帝』の主人公・レオがマスコットに採用され、2008年までユニフォームの帽子もレオをデザインしたものが使われていた(それ以降も時折復刻ユニフォームでの試合で着用されている)。ただし、手塚は球団の堤義明オーナーから「大人になった姿のレオ」と指定されたことから父親の「パンジャ」がモデルであるとしている。また、オリジナルキャラクターでレオの妹・ライナも1981年より登場している。

2008年、東京ヤクルトスワローズは『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』として、1969年のビジターユニフォームを復刻(手塚治虫生誕80周年記念事業として手塚プロダクションとの協賛)。日本生命セ・パ交流戦、西武ドームで開催された西武戦では、奇しくもレオとの対決となり、手塚治虫ダービーと銘打たれた。

また2013年4月には、「読売ジャイアンツ」(巨人)と「鉄腕アトム」のコラボレーション企画「GIANTS×ATOM」が発表された。この企画では鉄腕アトムの登場人物達が読売巨人軍のユニフォームを着たキーホルダー、うちわ、タオルハンカチなどが商品化され東京ドーム内グッズ売店等で売りだされることになった。

なお、手塚自身は阪神タイガースのファンであった。1950年の年賀状では、「野球ものも考えていますが近頃の阪神の不振に聊(いささ)かくさっているので書く気がありません」と1949年当時のユニフォーム を着た虎が素振りをしているイラストに添えてコメントしており、実際に野球を主題とする作品を描くことはなかった。ただし、年賀状を書いた1950年に連載した『タイガー博士の珍旅行』は「タイガース」という野球チームがあちこちを旅行する道中記(野球のプレーはしない)である。1985年に阪神がセ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズで同年のパ・リーグ優勝チームである西武と対戦したときは「どちらも勝て」と大弱りだったという。

この節には、過剰に詳細な記述が含まれているおそれがあります。百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。 内容の整理をノートで検討しています。内容過剰の基準、解決法、このテンプレートの除去基準を説明しているページもご覧ください。(2023年7月)
富野由悠季
富野は小学生のころ、1年先輩の友達の家で雑誌「少年」に連載されていた「アトム大使」で初めて手塚作品と触れ合う。そして小学5年生の4月から両親に「少年」を毎月買ってもらうようにお願いした。そのときのことを富野は「漫画が掲載されているような雑誌は買ってはいけないというのがうちのテーゼだったんです。それを拝み倒して4月から買ってもらったときに偶然『鉄腕アトム』の連載が始まった月だったんです。本当に衝撃的でした。それまではまだ・・・こんなタイトルあげても若い人は分からないかも知れませんが『のらくろ』の漫画がつまり戦前の漫画がちらちら残ってるんですよ。家の中に。そういうものを読んでお茶を濁していたという気分のところに、これが来ましたんで、要するに昔の軍隊話でないまったく新しい漫画が来た。ということで本当にびっくりしたし、何よりも物語を読まなければならない、つまり、絵だけを見ていたらすまないぞという物語を手塚先生がお描きになったというのが、やはり、いや、これは低俗な漫画ではないという断定を子供心にしてくれたという意味ではとてもすごい作品だったという風に思っています。」また、富野は手塚の「来るべき世界」にさらにそれを超える衝撃を受けたということも語っている。富野は、小学6年生のときには「僕は漫画で初めて女の子を知った」と「来るべき世界」のポポーニャが覆面を外すコマを上げた。
富野は日本大卒業後の1964年(昭和39年)、手塚治虫が設立したアニメ制作会社の虫プロダクションに入社した。富野は手塚から直々に鉄腕アトムの演出に抜擢されアニメ後半の演出の多くは富野が手がけている。富野の初監督作品は手塚の漫画を原作とした「海のトリトン」である。富野は手塚治虫を振り返りこう語っている「アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった。」「週ペースでものを作ることにすでに現場は慣れていましたが、とにかく忙しく、演出論などを議論をしている時間はなかった」「虫プロでマンガ家でアニメーターの真似事をしている人が社長であるわけがない。早く演出にならないと給料安くてやってられないと思っていた僕に「演出やらない?」と言ってきたとき、ああやはりこの人はマンガ家でありクリエイターであって社長ではなかった、と思った。オレの映画観と手塚先生の映画観が違ったから。手塚先生の映画観は甘いんじゃないかと思ってた。手塚先生が満足した作品はないと思う。」「映画は好きに作ってすむものではない。好きだけで作れるとは思わないで下さい。それでも作るなら、手塚先生と同じ手の速さと学識を持ってほしい。僕もその1億分の1くらいになれるように頑張ります。」「(「ジャングル大帝」のシナリオの社内募集にコンテを持ち込みした際)それが採用されるというのは、じつはハナからわかっていた。なぜなら、コンテを読める奴はいないのだから、ぼくのコンテだって採用される。虫プロのコンテの基準は、マンガ絵がはっきりしていればいいのであって、映像的な評価を意識したものはないから、りんちゃん(=りんたろう)的なコンテであればとおるとふんだのだ」「だからといって、手塚先生がコンテを読めないことをあげつらうつもりはない」「手塚先生だって、若い連中が描いたコンテはなおすし、短編アニメのコンテをきらせたら天下一品であるのだが、ストーリー・アニメのコンテは不得手でいらっしゃったというのが、ぼくの評価である。こんなエピソードを書いたからといって、TVアニメのパイオニアである事実を貶めることにはならないし、マンガ家として天才であることを汚すことにもならない」
手塚は富野の監督作品『機動戦士ガンダム』について「機動戦士ガンダム以降では子供向けアニメが受けにくくなった」と語っている。
手塚が死去したときのことを富野は次のように振り返っている「先生が亡くなられたと聞いた翌朝、失礼をかえりみず先生のお宅にあがりこんで、死に顔を拝見できなくとも近くにいたいと願った。その行為は今も恥じていない。師のエキスの一万分の一も真似することはできないだろうけど、ここに従うものがいると知ってほしいと思うのは、生きている者の欲である。」
りんたろう(林重行)
りんたろうは1963年に東映動画から手塚治虫の虫プロダクションに移籍した。これは東映動画ではやりたかった演出ができなかったためである。りんたろうは念願がかなって「鉄腕アトム」の演出を務めた。彼は手塚のことを「偉大なマンガ家であり、寝食を忘れて一緒に仕事をしたチーフ。覚えているのは、動画机を並べて仕事をしていたときのこと。地震みたいにガタガタガタガタ揺れ出した。先生は調子に乗ってくると貧乏揺すりをするクセがあった。あとは音楽に造詣が深かったこと。朝からコンテをかきつつベートーベンの第5(運命交響曲)をかけていた。商業主義でアニメがどんどん大きくなり、先生が本来やりたかったアニメとどんどんかけ離れていった。でも先生は悩みながらアニメを手放さなかった。プライベートなフィルムを作ってバランスを取っていたんだと思う。でも、最後までどの作品にも満足しなかったのではないか。」と語る。
杉井ギサブロー(杉井儀三郎)
杉井は幼少のころより手塚作品を読んで育った。彼はこう語る「手塚先生の『新宝島』に出会ったのは7歳のとき。その紙のザラザラした感触も覚えている。手塚先生のマンガはほかのマンガと違って、読むというより映画を見ているという印象だった。」「僕は手塚マンガから映画の作り方を教わった。」「手塚先生と初めて会ったのは20代初め。小学生のころからファンで雲の上の人だったけど、冷静に考えると先生もまだ30代。30代の若者が20代の若者を集めて作ったのが虫プロだった。一番教わったのは、エンターテインメントというのはチャレンジだということ。常にチャレンジしていないと古びてしまう。だから同じことを繰り返してはいけない。先生はホントにマンガが好きだったんだろうか、マンガではなく映画が好きで、映画を書いていたんじゃないかと思う。」
手塚は杉井のことを「ギッちゃん」と呼んでいた。
出崎統
出崎は小学4・5年生のころより手塚治虫に憧れて漫画を描いて育った。その後、虫プロに入社する。彼は次のように語る「僕は手塚治虫にあこがれ、マンガ家を目指して挫折して、偶然虫プロに入ることができた。先生を目の前にしてもこちらからアクションを起こすことなんてできなくて。何か思い出を作っておけばよかったと後悔してる。一度、アトムのコンテを見せたとき『出崎君、エンターテインメントを忘れないで』と言われた。僕は暗い話が好きでそんなのばかりやっていたから。それからずっと、エンターテインメントって何だろう、と考えて、今日まで来てしまった。マンガでもアニメでも手塚作品の主人公はいつも悩んでる。そこにひかれたから、僕も『ロボットとは?』『人間とは?』とアトムをいつも悩ませた。それで『エンターテインメントを忘れないで』と言われちゃったけど、反権力で心の中に葛藤を抱えている、そういう主人公にあこがれ、僕もそういう作品を目指している。」
高橋良輔
高橋も幼少のころより手塚治虫に憧れて育ち1964年に虫プロへ入社した。「私も手塚先生のファンで、別世界の人と思ってた。虫プロの試験でお会いして「ホンモノだーっ!」って思った。神様みたいな存在だったのが、一緒に働いているとどんどん「ちょっと年上のただのオジサン」になっていった。徹夜して机の下に寝ていると何か圧迫感があって、見たら隣で先生が寝ている。手塚先生と添い寝しちゃった。後になって自分のスタジオを高田馬場に持ったとき、手塚プロも高田馬場にあったので、たまに坂道なんかで会うと声をかけていただき、ますますオジサン度が強まった。亡くなってからは、今度は偉大さが強まってきた。自分が生きて出会った、いちばん偉大な人、という思いを強くしている。「アトム」の後、30分のテレビアニメが増え、手塚アニメの人気が一時下がった。すると先生は大人向けの長編を作って大ヒットさせた。業界がまたそういう方向を食いつぶしていると、2時間という枠のアニメを今度はテレビでやった。開拓者、挑戦者だった。その遺志を継いで何とか新しいものを作っていこうと頑張っている。」「今仕事してみると、『先生が生きていたらどういう風に言ってくれるのかな』とか、先生のチェックがないということがね、あらためて『先生が亡くなっちゃったんだなあ』と。そういう意識の仕方ですね。」
ちなみに、高橋の監督作品「装甲騎兵ボトムズ」の主人公キリコは手塚の作品「ブラック・ジャック」の登場人物から取られている。
宮崎駿
宮崎は手塚のアニメーション制作に対し批判的であった。手塚の訃報に際し、宮崎は手塚の漫画史における功績に敬意を表しつつも、手塚のアニメ作品を、店子を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じ旦那芸であると痛烈に批判し、手塚がリミテッド・アニメーションとフルアニメーションの違いもろくに理解せず喧伝していたことや、ロトスコープを慌てて買い込んだことに触れ、「アニメーションに関しては(中略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない」と述べ、「趣味としてみればわかるんです。お金持ちが趣味でやったんだと思えば」と総括している。
一方で、手塚がテレビアニメ黎明期に『鉄腕アトム』を安価な予算で作ったことが、日本におけるアニメの製作費が低くなる前例となってしまった件については、日本が経済成長を遂げていく過程では必然のことであり、「引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけ」とする立場を取っている。
漫画作品に関しては後の2009年のインタビューにおいて、7歳のときに読んだ『新宝島』に「言い難いほどの衝撃」を受けたことを明かし、「僕らの世代が、戦後の焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界、目の前が開けるような世界だったんです。その衝撃の大きさは、ディズニーのマネだとか、アメリカ漫画の影響とかで片づけられないものだったと思います」と語っている。また、その後のSF3部作(『ロストワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』)の虜になっていたことも認め、「モダニズムとは、繁栄や大量消費と同時に、破壊の発明でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅で行き着いたのが手塚さんだった」と評している。当初、漫画家を目指していた宮崎がアニメーターに転じたのは、絵が手塚の亜流に見えてしまうことが理由のひとつにあったという。また、手塚のアニメについて、従来の評価は変わらないとした上で「僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べている。
雑誌の寄稿文では「十八歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみこんでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。ぼくは全然真似した覚えはないし実際似てないんだけど、描いたものが手塚さんに似ていると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。それに、手塚さんに似ていると自分でも認めざるをえなかったとき、箪笥の引き出しにいっぱいためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて、基礎的な勉強をしなくてはとスケッチやデッサンを始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて…。」と語り、その後のインタビューでは「僕は、手塚さんとはずっと格闘してきましたから。それは『恩義』だけれど、そんな言葉で語れるほど簡単なものじゃありません」とも語っている。
宮崎は東映動画に入社した年である1963年に手塚治虫が原案を務めた『わんわん忠臣蔵』にアニメーターの一人として参加している。1977年には同じく手塚治虫原案の『草原の子テングリ』でレイアウトを務めた。
手塚は宮崎の『ルパン三世 カリオストロの城』に対し「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と『ぱふ』のインタビューで語っている。
1981年には手塚と宮崎との合作『ロルフ』も予定されていた。手塚はアニメージュの紙面上で次のように語っている。「『ロルフ』---この有名なアングラ・コミックを宮崎さんが長編アニメにしたいという執念をぼくにもらされたのは、もう半年くらい前のことです。『じゃりン子チエ』の追い込みも終わった前後のことで、どうしてもこれだけは国際的アニメに作り上げたいという夢を、大塚康生氏とともに語られました。ぼくたちは、この夢の実現を目ざして、どんなに時間がかかっても成就したいと思っています。それにはT社の社長および原作者の強力なご援助がなければできないことです。コケの一念で実現させたいと思います。宮崎さんは、きっととてつもないもの凄い映画に作り上げられることでしょう」。この合作は実現しなかったが、ロルフの企画は名前と形を変え『風の谷のナウシカ』となった。
手塚は『風の谷のナウシカ』が大ヒットしたのを見て、「凄く悔しがっていた」と元アシスタントの石坂啓が述懐している。また、手塚は晩年にアニメーターで元トキワ荘住人の鈴木伸一とともに『天空の城ラピュタ』を観たという。映画を観た後、手塚は鈴木に「面白かった?」と聞き、「は、はい。」と答えた鈴木に対し「そうかな?」と述べ、宮崎をライバル視していたという。
宮崎は2011年10月に刊行した著書『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』で、これまでの手塚への発言について「手塚さんは今の僕より若くして亡くなった方ですから、僕より若い人なんだ、とこのごろは思っているんです。年寄りがとやかく言うことではありません。」と述べている。

その他

トレードマークは、ベレー帽と分厚い黒縁眼鏡。人前で帽子を外すことは滅多になく、「帽子を被ってないときは映さないで」と照れ笑いする様子が映像に残っている。しかし、街中を歩くとき、仕事中、タクシーの中などはベレー帽を脱いでいることが多かった(これにはベレー帽を脱いでいると街中を歩いていても手塚治虫であると気づかれにくい利点もあったようである)。ベレー帽は、もともと横山隆一を模倣してかぶり始めたもので、横山はやがてベレー帽の使用をやめたが、手塚は自身の漫画の中でも自分自身をベレー帽と黒縁眼鏡と鼻が大きい人物として特徴付けており、生涯これを変えることをしなかった。このベレー帽をかぶる風習はトキワ荘のメンバーにも伝わり、石森章太郎や藤子不二雄(藤本弘)などもベレー帽をかぶっていた。また、トキワ荘のマンガ家のあいだでよく用いられた「~氏」という敬称はもともと手塚が使っていたもので、相手の年齢にかかわらず用いられて便利ということで広まったと水野英子は証言している。 身長は170センチメートルと、戦前生まれとしては大柄であった。視力は度の強い近視であった。甘いものが好きであったために歯を悪くした。特に「チョコがなければ仕事ができない」というほどのチョコレート好きであり、死後に施錠されていた仕事机の中からかじりかけの板チョコが見つかった。 人並み外れた仕事量をこなしたことで知られているが、決して家庭を蔑ろにすることはなく、誕生日とクリスマスには必ず家族でレストラン・ディナーをとる習慣があり、計画を立てて正月と夏休みには家族旅行に出かけていた。田中圭一には「マンガ家としてだけじゃなく父としても神」と評された。 アシスタント経験のある漫画家古谷三敏によると、手塚はアルコールがあまり飲めず、煙草も普段は吸わなかった。バーで煙草をふかしたときは上手く吸い込めていなかったという。 1962年に日本共産党への支持を表明後、日本共産党の選挙応援にたびたび駆け付け、赤旗にも掲載されていた。一方で、自由民主党の機関紙である「月刊自由民主」にも、1984年10月号に寄稿したことがある。 娘のるみ子によると、生前から「自分が死んだら、自分の作品は誰にも読まれなくなるんじゃないか」という不安をずっと抱き、「死んでしまったら作家は終わりなのだ」と恐れていたということで、「自分が死んでも、3年間は誰にも言うな」と周りに伝えていたことがあったという。

年表

叙勲の推薦の際に作成された功績調書(1989年(平成元年))
同上
同上
同上に付された表紙(文部省原議書)
    1928年11月3日 - 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれる。※岡町相生通りに生誕から2歳まで、引っ越して岡町曽根(萩の寺の付近)に2歳から5歳まで。

    1933年 - 5歳のとき兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)の川面(かわも)の高台のふもとの元祖父の屋敷に一家で引っ越す。このころから母とともに宝塚歌劇に親しむ。

    1935年 - 池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)入学。

    1939年 - 自分の名前「治」に虫を付けて「治虫」をペンネームとする。

    1941年 - 大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)入学。

    1945年3月 - 北野中学を卒業。勤労動員中6月の大阪大空襲に遭遇。7月、大阪帝国大学附属医学専門部に入学。

    1946年1月4日 - プロデビュー作の四コマ漫画『マアチャンの日記帳』(少國民新聞(後の毎日小学生新聞)大阪版)の連載開始。

    1947年 - 酒井七馬がもちかけた企画による長編漫画単行本(赤本)『新寳島』が刊行された(初版1月30日、4月20日、6月1日、7月25日と版を重ねて累積40万部が売れたとされる)。

    1950年(22歳) - 上京中に学童社に立ち寄って加藤謙一と出会い、持っていた単行本用の原稿を見せたところ連載が決まり「漫画少年」誌で『ジャングル大帝』の連載開始。

    1951年 - 1年留年し、大阪大学附属医学専門部(旧制)卒業。毎日放送開局時のアナウンサー採用試験に合格。偶然通りかかって受験してみたところ合格した、と後年同局の番組『あどりぶランド』で語っている。光文社の月刊誌「少年」に「アトム大使」(当初の予定はアトム大陸)を連載開始。

    1952年 - 医師免許取得。『アトム大使』から路線変更した『鉄腕アトム』(連載予告では鉄人アトム)を『少年』 に引き続いて連載。東京都新宿区四谷に約1年半下宿する(四谷交差点(北西角。メトロ2番入り口前)「成木屋青物店」の2階。のちの漫画作品「四谷快談」の舞台。『鉄腕アトム』などの執筆場所)。

    1953年(25歳) - 東京都豊島区椎名町5丁目(現:豊島区南長崎3丁目)のトキワ荘に入居。『リボンの騎士』を講談社の月刊誌少女クラブに連載開始。

    1954年 - 週刊朝日の昭和29年(1954年)4月11日号、頁22-23で「知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男」として紹介される。

    1954年 - 10月に豊島区雑司が谷の並木ハウスに下宿。

    1957年 - 東京都渋谷区代々木初台に借家。

    1958年(30歳) - 第3回小学館漫画賞受賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)。練馬区東大泉町(現:東大泉)の東映動画から漫画「ぼくのそんごくう」を元にした劇場用長編総天然色漫画映画「西遊記」の制作を持ちかけられて嘱託社員となる。

    1959年 - 松下井知夫(まつしたいちお)が中心となって結成した「ストーリー漫画研究会」に参加(松下に結婚式の媒酌人を依頼)。

    1959年 - 10月に岡田悦子と結婚。『週刊少年サンデー』創刊号から『スリル博士』を連載する。

    1960年 - 練馬区谷原町(現・練馬区富士見台)に自らデザインした自宅を建てる。

    1961年 - 奈良県立医科大学から医学博士の学位を授与される。主に東映動画から引き抜いた人材を中心とする6名で手塚治虫プロダクション動画部を設立し(12月には株式会社虫プロダクションとして登記)、自宅の庭の一角に作った建物で非商用アニメーション作品「ある街角の物語」の制作を開始。長男・眞(本名:真)が誕生。

    1963年(35歳) - 自ら創設して社長も務めた虫プロダクション制作の日本初毎週30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(モノクロ作品)がフジテレビにて1月1日から放送を開始する(丸4年間放送)。「ある街角の物語」が芸術祭奨励賞、第1回大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞。

    1964年 - 長女・るみ子が誕生。

    1965年 - 日本初の1時間枠テレビアニメ「新宝島」を1月3日に放送(これは本来は手塚治虫原作の漫画を毎月1回1時間の枠で毎回完結の独立したアニメ番組化していく構想「虫プロ・ランド」の第1作目であったが、経営的な面から製作継続は無理と判断され、これ一作だけが作られて中止となった)。日本初のカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』がフジテレビで10月6日から放送。毎日新聞社の特派員記者としてニューヨーク世界博覧会を取材するために渡米した際に偶然に同博覧会場のペプシコーラ館前において生涯で一度だけとなったウォルト・ディズニーとの対面を果たす。W3事件。虫プロの版権部門を独立させた会社「虫プロ商事」を発足する。

    1967年 - 虫プロ商事は月刊誌『COM』を刊行開始し、同誌に「火の鳥」の連載を開始。

    1968年(40歳) - 虫プロ商事制作のテレビ番組「バンパイヤ」がフジテレビ系で放送開始。漫画制作のための手塚プロダクションを設立。

    1969年 - 大人のための劇場用長編アニメーション「千夜一夜物語」を公開。

    1970年 - 『火の鳥』で第1回講談社出版文化賞の児童まんが部門で受賞。日本万国博覧会(大阪万博)にて「フジパンロボット館」をプロデュース。少年画報社の「週刊少年キング」誌連載の『アポロの歌』に過度の性的描写があるとして、一部地域で青少年に対する発売禁止を受ける。

    1971年 - 虫プロ社長を退任。(虫プロ商事の社長は継続)。手塚プロダクション動画部を作り、テレビアニメシリーズ「ふしぎなメルモ」を制作し、朝日放送(現:朝日放送テレビ。TBS系列)で放送。

    1972年 -『ブッダ』を連載開始。

    1973年(45歳) - 虫プロ商事とそれに続いて虫プロダクションが倒産。虫プロダクションの経営から手を退いた後も、手塚は個人で多額の債務保証を行っていたため債権者に追われる身となるが、知人の葛西健蔵(育児用品メーカー「アップリカ」創業者)が後見人となり、版権の散逸は免れた。11月19日、『週刊少年チャンピオン』にて『ブラック・ジャック』の連載開始。

    1974年 - 練馬区から杉並区下井草に引っ越す。

    1975年 - 漫画作品『ブッダ』、『動物つれづれ草』により第21回文藝春秋漫画賞を受賞。『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。

    1977年 - 漫画作品『三つ目がとおる』、『ブラック・ジャック』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社『手塚治虫漫画全集』(当初は第1 - 第3期の全300巻を予定)刊行開始。

    1978年(50歳) - 日本アニメーション協会(Japan Animation Association = JAA)の初代会長となった。

    1978年 - 日本テレビ系の夏の「24時間テレビ」の中で、日本初の単発2時間枠のスペシャルアニメ番組「100万年地球の旅 バンダーブック」を放送。

    1979年 - 児童漫画の開拓と業績により巖谷小波文芸賞受賞。

    1980年 - 東久留米市へ転居。東宝洋画系で劇場用長編アニメーション「火の鳥2772」を公開。サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞受賞。国際交流基金のマンガ大使として国連本部、米国の大学で現代日本のマンガ文化について講演。映画『ヒポクラテスたち』に、大学病院の教授役でカメオ出演する。

    1983年(55歳) - 漫画作品『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞。

    1984年 - 実験アニメーション『ジャンピング』がザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリおよびユネスコ賞を受賞。

    1985年 - 実験アニメーション『おんぼろフィルム』が第1回国際アニメーション映画祭広島大会グランプリ受賞。東京都民文化栄誉章受章。漫画家生活40周年、『講談社 手塚治虫漫画全集』(当初予定した3期分全300冊)の完結により、講談社漫画賞特別賞受賞。同年7月にフランスで開催された「日仏文化サミット85」(朝日新聞社、フランス文化省、コミュニケーション国際広場CICOM主催、日仏両国外務省後援)に参加。

    1986年 - 漫画作品『アドルフに告ぐ』により、第10回講談社漫画賞一般部門受賞。

    1987年 - 愛知県岡崎市で開催の地方博覧会「葵博」の総合プロデューサーを務める。

    1988年2月13日 - 朝日賞受賞記念講演(東京・有楽町朝日ホール)、講演題「アニメーションと私」。

    1988年6月4日 - 高橋健、矢島稔、田中栄治らと「日本昆虫倶楽部」を創設し初代会長に。

    1988年(60歳) - 戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞受賞。実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞受賞。ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞(青少年映画賞)を受賞。体調悪化により急遽入院(スキルス性胃癌と判明するが本人自身には伝えられず)。11月1日に大阪教育大学附属池田小学校で生涯最後の講演を行う。

    1989年2月9日 - 胃癌により入院中の半蔵門病院にて午前10時50分に死去(60歳没)。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。没後に故人の意志に反し遺族が日本政府から勲三等瑞宝章叙勲を受ける。日本SF作家クラブ主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。

    1990年 - 東京国立近代美術館で回顧展。権威ある美術館で、没後1年足らずで回顧展が開かれた。国立美術館での漫画家の回顧展は空前のことであるという。同年、全業績に対して第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。

    1993年 - 第4期講談社手塚治虫全集の刊行を開始(その後1997年12月に第4期の刊行は完了し、全部で400冊の全集が完結した)。

    1994年 - 兵庫県宝塚市に、宝塚市立手塚治虫記念館が4月25日に開館した。これのメモリアル公演として宝塚歌劇団花組が第80期生初の舞台公演として『ブラック・ジャック 危険な賭け』『火の鳥』を上演。

    2002年 - 米アイズナー賞の「漫画家の殿堂」入り。同年に日本漫画家協会と出版社5社は手塚治虫の誕生日である11月3日を「漫画の日」とすることを提唱。

    2004年 - 漫画『ブッダ』の英訳版がアイズナー賞の最優秀国際作品部門を受賞。

    2007年 - 2008年に生誕80周年を迎えることを記念して、手塚治虫作品を読者の手で選んで発行する『手塚治虫O(オンデマンド)マガジン』のサービスが開始される。

    2008年 - 生誕80周年を記念して小学館から過去のコミックの特装版、純金製アトムなどの商品の発売、出身地宝塚でのイベント、アメリカ合衆国サンフランシスコでの手塚治虫展、広島国際アニメーションフェスティバル、東京国際映画祭で過去に自身が手がけたアニメ作品が特集されて上映。

    2009年 - 江戸東京博物館で特別展「手塚治虫展」開催。

    2009年10月 - 講談社『手塚治虫文庫全集』(全200巻)刊行開始。

    2011年4月28日から6月30日 - 大阪大学総合学術博物館 侍兼山修学館で、大阪大学総合学術博物館第13回企画展「阪大生・手塚治虫 - 医師か?マンガ家か?-」開催

    2012年 - 世田谷文学館にて「地上最大の手塚治虫展」開催。

    2013年 - 練馬区立石神井公園ふるさと文化館にて特別展「鉄腕アトム放送50周年記念 - 鉄腕アトムが飛んだ日」(開催期間:2013年1月19日-3月24日)。

    2013年 - 愛知県岡崎市「おかざき世界子ども美術博物館」で「手塚治虫展」。原稿や愛用品など約170点を展示(開催期間:2013年4月27日-2013年7月15日)。

    2013年 - 東京都現代美術館で特別展「手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガのちから」(2013年6月29日 - 9月8日)。以降、広島県立歴史博物館(2013年11月15日 - 2014年1月5日)、大阪歴史博物館(2014年1月15日 - 3月10日)、山梨県立博物館(2014年3月21日 - 5月19日)、宮城県美術館(2014年5月31日 - 7月27日)、長野県信濃美術館(2014年10月4日-12月7日・予定)を巡回。

    2014年 - 大学入試センター試験二日目(1月19日、日曜日)の日本史Bの設問に手塚が取り上げられ、著書や漫画が使われた。※注:学校用教科書に手塚治虫の文章が掲載された例は在命中にも何度かある。

    2014年4月7日 - 米グーグルのWebサイト「歴史アーカイブ(Google Cultural Institute)」に漫画やアニメ作品でたどる手塚治虫の生涯が公開。

    2014年5月16日(?) - スペイン、バルセロナのコミックサロンで、手塚治虫作「人間昆虫記」が外国作品部門で受賞 ※日本漫画作品では初の受賞。

    2014年7月12日から8月31日 - 滋賀県立近代美術館で「手塚治虫展」(2014年7月12日-8月31日)開催。

    2014年7月25日 - 漫画『地底国の怪人』の英訳版(The Mysterious Underground Men, by Osamu Tezuka(PictureBox))がアイズナー賞の最優秀国際アジア作品部門を受賞。

    2014年7月19日から10月5日 - 湯前まんが美術館(熊本県球磨郡湯前町中央公民館(那須良輔記念館))で「火の鳥連載60周年記念 阿蘇と手塚治虫」展(2014年7月19日 - 10月5日)開催。

    2014年9月5日から9月14日 - 横浜みなとみらいのブリリアショートショートシアターで、手塚治虫の実験アニメーション特集(2014年9月5日 - 9月14日)。※「森の伝説 第二楽章」完成記念。初日に手塚眞のトークショウ。※2014年8月21日に第15回広島国際アニメーションフェスティバルでのワールドプレミア上映に続く一般向け公開。

    2014年11月3日から11月9日 - 東京・吉祥寺の吉祥寺ギャラリー・カイ(GALLERY KAI)で「手塚治虫の美女画展」開催。

    2015年2月28日から5月10日 - 京都国際マンガミュージアムで「医師たちのブラック・ジャック展」開催。

    2015年12月17日から12月23日 - 吉祥寺リベストギャラリー創で「手塚治虫文化祭 〜キチムシ‘15〜」開催。

    2016年7月30日から8月21日 - 会津若松市歴史資料センター「まなべこ」で特別企画展「手塚治虫と会津」開催。

    2016年9月10日から11月13日 - さいたま市立漫画会館1階 企画展示室で「手塚治虫とっておきの漫画」展開催。

    2018年1月25日から3月11日 - フランス・アングレーム美術館で展覧会「Osamu Tezuka, Manga no Kamisama」開催。

    2018年7月13日から9月2日 - 台湾台北市の誠品書店敦南店で「漫畫之神-手塚治虫 生誕90年紀念展」開催。「手塚治虫書店」も出店。

    2019年4月1日 - 宝塚市立手塚治虫記念館がリニューアルオープン。

    2019年1月TVアニメ「どろろ」が放送開始

    2019年10月1日 - キオクシアの「#世界新記憶」第1弾として人工知能による手塚治虫新作漫画制作プロジェクト「TEZUKA2020」(テヅカニーゼロニーゼロ)が発表、タイトルは『ぱいどん』で2020年2月及び4月にモーニングで前後編が掲載された。

    2020年9月28日 - 米国の出版社ファンタグラフィックスが主催する漫画の賞ハーヴェイ賞(The Harvey Awards)の運営委員会は、2020年9月28日に手塚治虫に対して殿堂入りクリエイターとして"Harvey Awards Hall of Fame"を授与すると発表。

    2021年3月24日から4月5日 - 阪急うめだ本店 9階 阪急うめだギャラリーで「手塚治虫のクリエーション」開催。

    キャスター(文化放送)

    はばたけ!真理ちゃん(TBSテレビ 天地真理が司会・主演したミュージカルバラエティーで、人形のキャラクターデザインを担当した)

    8カ国共同制作ドラマ ハローアインシュタイン 遥かなる宇宙へのメッセージ(1984年9月15日、日本テレビ MCとしてドラマ開始前と途中に解説を担当)

    ワンダービートS(1986年4月16日~、TBSテレビ、毎回解説を担当)

    祖父・手塚太郎は司法官で、1886年(明治19年)に創立された関西法律学校(現・関西大学)の創立者の一人である。大阪地方裁判所検事正から名古屋控訴院検事長、長崎控訴院長などを歴任した。曽祖父・手塚良仙は適塾に学んだ蘭方医で、1858年(安政5年)に江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現・東京大学医学部の前身)を設立した人物の一人でもある。その生涯は治虫の晩年の作『陽だまりの樹』でフィクションを交えつつ描かれており、福澤諭吉の自伝『福翁自伝』にも記録が残っている。遠祖は平安時代の武将・手塚光盛とされる。家系図 (なお作家活動時には多くの書籍で生年を大正15年(1926年)と紹介していた)。

    父・粲は住友金属に勤める会社員であり、カメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの9.5mmフィルム映写機(パテベイビー)を所有しており、治は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた。そのため治は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという。なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」、「ナカムラ・繪叢書」など、200冊を超える漫画本があったという。また、のちに父が母に向けて書いたラブレターを発見した際、ラブレターに漫画が描かれてあるのを発見し、治虫は「やっぱり自分は父の息子だ」と思ったという。粲は晩年はファンクラブの世話人として、手塚の元を訪れるファンを接待していた。

    母・文子は、服部英男(陸軍中将。陸士11期・陸大23期、輜重兵将校、最終補職は輜重兵監。)の娘で、厳しいしつけのもとに育ち、夫には絶対服従であったが、戦中に夫が召集された際は、生活費の捻出や畑仕事から隣組の役員まで務める働きぶりを示す一方で、幼少期の治に子守唄代わりに絵本や漫画を登場人物ごとに声音を使い分けて読み聞かせていた。母もまた漫画好きであり、のちに治虫の長男・眞が治虫の書斎で『のらくろ』を読んでいたところ、ページの隅にパラパラ漫画を発見した。てっきり治虫によるものだと思っていたが、後になって文子が描いたものだったと判明したという。1983年1月4日、74歳で没。

    治虫は初期の自伝などで父を悪く書き、母を持ち上げるというエディプスコンプレックス丸出し の行動を取っている。父を強権的で母に無理を押し付ける亭主関白として、あるいは治虫自身に害のある行動を取ったと回想しているものであり、そのうちの一部はのちにエッセイなどで事実上の撤回をしている(初期の自伝などで父は漫画を買ってくれず主に母が漫画を買ってくれたとしていたが、後年のエッセイではむしろ父親が買ってくれていたと変わっている)。実妹・美奈子は治虫没後のインタビューで、父親について決して強権的ではなく家庭サービスにも熱心であったと述べている。このことは「ぼくの漫画期」にも載っている。

    治は長子で、下には2歳下の弟・浩と4歳下の妹・美奈子(結婚後は宇都に改姓)がいる。浩は「子供のころ昆虫のことがもとでああじゃね、こうじゃねと話していたら取っ組み合いのケンカになった。殴り合いでね、こっちは軽く勝つと思っていたら兄貴強かったですよ。だから、ヨワムシとかナキムシとか言ってたけどあれはまるで嘘ですよ。」と語っている。2009年2月9日放送の「BS20周年企画 手塚治虫2009」では手塚の同級生とともに宝塚市の手塚治虫記念館に訪れている。美奈子は「戦争が始まって兄はどこか変わった。それまでは天国のような生活だったけど、戦争が始まって軍事教練などさせられて兄のプライドは傷付いた」と話している。美奈子は手塚のキャラクター・ヒョウタンツギの創作者でもある。

    妻の悦子(旧姓・岡田)は、血の繋がらない親戚で幼馴染であった。結婚が第一次ベビーブームと重なっていたため、結婚前に2回しかデートができず、しかも結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという。悦子は梅花高女(現・梅花中学校・高等学校)出身であり、この学校が当時「大阪のひどい方で一流の、つまりすごい学校」だったため、手塚は「鉄火肌のおもしろい子」を期待して悦子と結婚したが、実際に結婚してみるとそうではないことがわかったという。

    子供は3人。長男は映像作家の手塚眞 (本名は「真」、悦子夫人が真実一路という言葉を好んでいたので命名)。長女はプランニングプロデューサー・地球環境運動家の手塚るみ子(少女雑誌の懸賞の当選者に「るみ子」という名前があったので命名)。次女は女優の手塚千以子(ちいこ・『千夜一夜物語』にちなんで命名)。また、声優の松山薫は姪。

    妻、長男、長女の3人が手塚治虫に関する本を刊行している。

    日本で漫画制作作業の専業アシスタント制度(プロダクション制作システム)を最初に始めたのは手塚治虫であるといわれている。 なお以下のリストは完全なものではない。手塚治虫は、アシスタントは通例2-3年程度で独り立ちすることを良しと考えていた。

    笹川ひろし - 竜の子プロダクションの創業メンバーの一人で、アニメ演出家である。手塚治虫の専属アシスタント第一号。

    古谷三敏

    月岡貞夫

    しのだひでお

    久松文雄

    高須れいじ

    小室孝太郎(本名は小室保孝)

    北野英明

    三浦みつる

    寺沢武一

    成田アキラ

    小谷憲一

    岩田廉太郎

    池原しげと

    石坂啓

    高見まこ

    喜国雅彦

    わたべ淳

    吉住純

    大和田夏希

    みやぞえ郁雄

    石川球太

    井上智

    光山勝治

    馬場秀夫

    林ひさお

    井上大助

    井上英沖

    きりえれいこ

    大野豊

    堀田あきお

    高井研一郎

    宮腰義勝(塚本光治、本名は宮腰)

    鈴木光明

    村野守美

    はらだ蘭(原田千代子)

    浜口渉 - 虫プロ時代のアシスタントの後に手塚プロの資料室長

    阿部高明

    上野義幸

    きよみず・あや

    小杉あきら

    すみちあき

    坪田文太

    杜町かなえ

    七瀬カイ

    成田マキホ

    平田昭吾

    平松修

    広井てつお

    やまだ三平

    福元一義

    斉藤あきら

    はっとりかずお

    甲斐謙二

    福永ヒロ

    伴俊男

    あべこうじ

    星城朗二(田中英二)

    谷川一彦

    島崎朝子

    野村正(1982年手塚プロ入社)

    山下雄平

    出雲公三

    山本広志

    木本佳子

    安藤正巳

    安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ) - 「漫画少年」連載の『ジャングル大帝』の最終回等をアシスト

    藤本弘(藤子・F・不二雄) - トキワ荘メンバーと共に雑誌未掲載の「ぼくのそんごくう」をアシスト

    石森章太郎(石ノ森章太郎) - 高校時代に光文社「少年」連載の『鉄腕アトム』「電光人間の巻」など複数をアシスト

    赤塚不二夫 - 石森とともに「少女クラブ」掲載の『火の鳥(ギリシャ編)』をアシスト(ペン入れ)

    横山光輝 - 「少年」連載の『鉄腕アトム』をアシスト

    桑田二郎 - 「少年」連載の『鉄腕アトム』をアシスト

    永島慎二 - 『丹下左膳』をアシスト

    松本零士 - 『複眼魔人』をアシスト

    以下のリストは完全なものではない。なお、虫プロダクションの最盛期には従業員が400人以上いたといわれる。

    中村和子(穴見和子) - 虫プロ立ち上げ時から多くの商業・実験作品にアニメーターとして

    杉井儀三郎

    坂本雄作

    紺野修司

    杉山卓 - 演出、チーフディレクター

    北野英明

    勝井千賀雄

    出崎統 - 虫プロ

    出崎哲

    山本暎一 - 動画、演出、監督

    林重行(りんたろう)

    坂口尚 - アニメ関係で手塚治虫の片腕として活躍

    伊藤叡 (虫プロでフィルム編集)

    西崎義展(虫プロ商事に在籍していたことがある。また『海のトリトン』『ワンサくん』のプロデューサー)

    富野由悠季(『鉄腕アトム』で多数の脚本と演出。また『海のトリトン』の監督)

    宮本貞雄

    赤堀幹治

    八田陽子 - 彩色(杉山卓の実妹とあるので。おそらく虫プロ時代は杉山陽子)

    石郷岡豪

    柴山達雄

    高橋良輔

    安東穂夫

    五味明

    永島慎二

    平田敏夫

    杉野昭夫

    川尻善昭

    正延宏三

    瀬山義文

    瀬谷新二 - 手塚プロのアニメーター・作画監督

    石井元明

    山本繁

    片岡忠三

    渡辺恒光

    永樹凡人

    香西隆男

    宇田八郎

    青木茂

    岡迫亘弘

    田中英二 - 作画・原画

    大島やすいち

    河井竜

    古川雅士

    尾形治敏

    小林準治 - 後期の実験アニメの作画を担当

    豊田有恒(虫プロ文芸部)

    石津嵐(虫プロ文芸部)。磐紀一郎と同一人物

    下崎闊(本名:下関闊(しもぜきひろし)、別名:下崎潤、真佐美ジュン、正佐美ジュン)

    雪室俊一 - 脚本

    鈴木伸一 - テレビシリーズや劇場作品など

    星新一 - 文芸部

    辻真先(桂真佐喜名義で多くのアニメ作品に脚本家として参加)

    やなせたかし - 虫プロ「千夜一夜物語」の美術担当、自絵本作品の劇場アニメ化版「やさしいライオン」の製作。

    高井達雄 - 作曲家(ある街角の物語、虫プロ鉄腕アトム)

    冨田勲 - 作曲家(東映動画『シンドバットの冒険』、虫プロ『新宝島』、虫プロ『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』、『どろろ』、『千夜一夜物語』、『クレオパトラ』、『展覧会の絵』など)

    宇野誠一郎 - 作曲家(『W3』、『悟空の大冒険』、『不思議なメルモ』(オリジナル版)、虫プロ『アンデルセン物語』)

    大野雄二 - 作曲家(『バンダーブック』、『海底超特急マリン・エクスプレス』、『フウムーン』、『プライム・ローズ』)

    大野松雄 - 『虫プロアトム』の音響効果、音楽監督

    鈴木清司 - 手塚プロ作品の選曲、音楽監督

    倉橋静男 - 手塚プロ作品の音響効果

    田代敦巳 - 音響ディレクター

    明田川進 - 音響ディレクター

    谷川一彦 - 作画

    吉村昌輝

    横山菁児 - 虫プロのアニメ「リボンの騎士」などの画の動きに合わせるオーケストラの演奏の指揮者(音楽団:フールサウンズ)。

    島方道年(導年) - 明治製菓を経て、マネージャー兼社長室部長として旧虫プロに招かれる。手塚プロダクション初代社長。

    清野正信 - 虫プロ商事勤務を経て文民社に移籍。

    葛西健蔵 - 育児用品メーカー「アップリカ」の創業者。旧虫プロ倒産時に面識はなかったが恩人と慕う手塚の再建を支援。その縁で手塚プロダクションの取締役も務めた。2017年逝去。『どついたれ』のモデルとされる。

    森晴路 - 手塚プロの社員となり講談社の手塚治虫全集を担当。のちに手塚プロダクション資料室長。2016年逝去。

    古徳稔 - 晩年のマネージャー。手塚の没後はアニメ製作プロデューサーや出版局長を歴任。2020年逝去。

    清水義裕 - アルバイトとして手塚プロに入り、手塚が指揮するテレビスペシャルの制作進行を務める。その後正式に入社。2020年現在取締役。

    手塚治虫(本人) - ドラマ『バンパイヤ』(1968年10月 - 1969年3月、フジテレビ)など、多数。

    江守徹 - 銀河テレビ小説『まんが道』『まんが道 青春編』(1986年11月17日 - 12月5日・1987年7月27日 - 8月14日、NHK総合)

    手塚眞 - NHKスペシャル 『いのち わが父・手塚治虫』(1989年4月16日、NHK総合)

    古谷一行・工藤彰吾 - 水曜グランドロマン 『手塚治虫物語 いとしき生命のために』(1990年2月7日、日本テレビ系列)※DVD(東映ビデオ、カラー、本編90分、品番:DSTD03488)発売。

    吉澤拓真 - 土曜ドラマ『天空に夢輝き 手塚治虫の夏休み』(1995年8月19日、NHK総合)※DVD発売。

    奥田瑛二 - テレビ東京開局35周年記念番組『永遠のアトム・手塚治虫物語』(1999年4月15日)

    久野雅弘・立澤真明 - 正月特別ドラマ『愛と青春の宝塚』(2002年1月3日・4日、フジテレビ

    藤原竜也 - フジテレビ開局50周年特別企画 『わが家の歴史』(2010年4月9日 - 11日、3夜連続スペシャルドラマ、脚本:三谷幸喜)※BD-BOX(2010年10月20日)発売。

    太田光(爆笑問題)『ドキュメンタリードラマ 手塚治虫×石ノ森章太郎』(2013年7月6日・13日、NHK BSプレミアム)

    草彅剛 - 『神様のベレー帽〜手塚治虫のブラック・ジャック創作秘話〜』(2013年9月24日、フジテレビ)※DVD/BD発売。

    岡田斗司夫 - 『アオイホノオ』(2014年、テレビ東京) ※カメオ出演

    バカリズム - 24時間テレビドラマスペシャル『ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語』(2018年8月25日、日本テレビ系列)

    北村想 - 『トキワ荘の青春』(1996年、カルチュア・パブリッシャーズ)※DVD(2009年10月28日、品番VPBT-15461)発売。

    中井貴一 - 『陽だまりの樹』(1992年、1995年、1998年)

    田中れいな - 『リボーン〜命のオーディション〜』(2011年)

    春風亭昇太 - 『超大型歴史アカデミー100人の 偉人・天才編』(2007年1月5日、日本テレビ系列)

    上地雄輔 - 未来創造堂『シアター創造堂 日本漫画 加藤謙一』(2007年1月26日、日本テレビ系列)

    これはまだ不完全なリストである。

    新井善久(講談社「少女クラブ」担当編集者、『火の鳥』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    青木和夫(秋田書店「週刊少年チャンピオン」担当編集者)

    阿久津信道(秋田書店「冒険王」と「漫画王」担当編集長で『冒険狂時代』『ぼくのそんごくう』。元秋田書店取締役編集局長、2007年9月12日死去) ※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    阿久津邦彦(秋田書店「少年チャンピオン」編集者)

    井岡秀次(講談社「週刊少年マガジン」)

    伊藤嘉彦(秋田書店「週刊少年チャンピオン」担当編集者(ブラックジャック4代目担当編集者)、現・幻冬舎コミックス代表取締役社長)

    大浦静雄(潮出版社、7年間『ブッダ』の連載を担当)

    大塚公平(秋田書店「週刊少年チャンピオン」副編集長、映画評論家)

    大和田俊司(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)

    岡本三司(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)※『ブラック・ジャック』初代担当

    加藤謙一(学童社「漫画少年」)※ 戦前に小学校教師から講談社に転職して「少年倶楽部」編集長になる。敗戦で公職追放を受けて個人で学童社を興していた。偶然そこを訪問した手塚が携行していた赤本用原稿を見て掲載を決めた結果が長編連載漫画『ジャングル大帝』となった。

    壁村耐三(秋田書店「少年チャンピオン」)※ 『ぼくのそんごくう』(秋田書店「冒険王」)連載時の編集部員で、のちに『ブラックジャック』連載開始時の少年チャンピオンの編集長。

    刈谷政則(大和書房)

    河野安廣(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)

    熊藤男(秋田書店「週刊少年チャンピオン」副編集長)

    桑田裕(光文社「少年」担当編集者)

    栗原良幸(講談社週刊少年マガジン編集者「三つ目がとおる」)

    小林鉦明(かねあき)(少年画報社、秋田書店)

    志波秀宇(ひでたか)(小学館「ビッグコミック」)『地球を呑む』『きりひと賛歌』※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    篠田修一(大都社)※手塚治虫ファンクラブ顧問も務めた。

    戸田利吉郎(少年画報社)

    豊田亀市 (小学館「週刊少年サンデー」の初代編集長、小学館「少年サンデー」で『スリル博士』『0マン』『キャプテンKen』『白いパイロット』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    中村一彦 (小学館「少年サンデー」、どろろの担当手塚番)

    長崎尚志 ※「かつて手塚先生の担当だったわたしは…」という文章を「パイドン」の制作発表で寄稿していることから,何かの作品編集を担当したらしいが,詳細は不明。

    牧野武朗(講談社「なかよし」初代編集長、「週刊少年マガジン」の初代編集長)※ 講談社「少女クラブ」担当編集者のとき手塚に連載を依頼(「リボンの騎士」)。

    松岡博治(朝日ソノラマ単行本「サンコミックス」、雑誌「マンガ少年」担当編集者で、『鉄腕アトム』『火の鳥』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。※ 元メディアファクトリーコミック出版事業部エグゼクティブプロデューサー。2023年死去。

    松谷孝征(たかゆき)(実業之日本社「漫画サンデー」編集者)※その後1973年から16年間手塚治虫のマネージャーを務め、請われて1985年4月から手塚プロダクション代表取締役社長。※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    丸山昭(講談社「少女クラブ」担当編集者で『リボンの騎士』『火の鳥』(共に少女クラブ版))※著書やインタビュー記事のほか、「神様の伴走者13+2」にも寄稿あり。

    峯島正行(実業之日本社の編集者)- 『週刊漫画サンデー』の初代編集長

    宮原照夫(講談社「週刊少年マガジン」編集長(4代目)、『W3(少年マガジン版)』『三つ目がとおる』『手塚治虫漫画全集』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    西村繁男(集英社「週刊少年ジャンプ」)

    野口勲(虫プロ商事の編集者)

    橋本一郎(朝日ソノプレス社、朝日ソノラマの編集部、元少年画報社編集者、「サンコミックス」創刊編集長)

    福島健夫(編集長、実業之日本社「漫画サンデー」の編集者)

    鈴木敏夫(徳間書店「コミックアンドコミック」「アニメージュ」の編集)

    上野明雄(小学館「小学一年生」「小学三年生」の担当編集者を経て編集長)

    吉倉英雄(集英社「月刊少年ジャンプ」編集者)

    長野規(集英社の月刊「おもしろブック」編集員、のちに週刊少年ジャンプ初代編集長)

    黒川拓二(元少年キング編集長で『ノーマン』『鬼丸大将』『紙の砦』『アポロの歌』を担当)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    鈴木五郎(小学館「中学生の友」で『流星王子』『おお!われら三人』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    池田幹生(文藝春秋「週刊文春」で『アドルフに告ぐ』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    石井文男(虫プロ商事「COM」二代目編集長で『火の鳥』(COM版))※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    鈴木俊彦(小学館「ビッグコミック」創刊時の編集長『地球を呑む』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    竹尾修(潮出版社「希望の友」「少年ワールド」「コミックトム」の編集者。『ブッダ』と絶筆『ルードウィヒ・B』の担当)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。

    山崎邦保(虫プロ商事「COM」創刊編集長(1969年3月号まで)で『火の鳥』(COM版))

    山本順也(小学館)

    白井勝也(小学館)

    御木基宏(小学館)

    Mauricio de Sousa (2012). Turma da Monica Jovem: Tesouro Verde. Panini. ISBN 9788573518764 

    ブラジル漫画×アトム、日本でも 手塚治虫との約束、電子書籍で実現 (朝日新聞、2023年7月11日)

      手塚プロダクション

      手塚治虫の作品一覧

      宝塚市立手塚治虫記念館

      手塚賞

      手塚治虫文化賞

      Earth Dreaming〜ガラスの地球を救え!

      osamu moet moso

      手塚 (小惑星) - 手塚治虫に因んで命名された。

      月刊手塚治虫マガジン - 鉄腕アトム誕生年記念で2003年5月号~2005年4月号まで刊行された。(全24号)

      手塚光盛 - 木曾義仲の家臣、信濃国諏訪手塚城主。光盛の後裔を自称している者に、手塚良仙や手塚治虫を始めとした手塚家の一族がいる。

      手塚良運 - 手塚良庵の従兄弟で、墓が曹洞宗興国山"清凉寺"(茨城県石岡市)にある(黒沢哲哉「虫ん坊」2014年2月号のコラム虫さんぽより)。

      Google Cultural Institute 「Osamu Tezuka」(米グーグル歴史アーカイブ「手塚治虫」)。

      ^ 生前は1926年生まれと自称していた(「現代漫画6巻 手塚治虫集」〈筑摩書房〉著者紹介など)。

      ^ テレビアニメとしてはそれ以前に『もぐらのアバンチュール』『新しい動画 3つのはなし』『インスタントヒストリー』『おとぎマンガカレンダー』などが放映されている。

      ^ 初出は開高健「マンガの神様・手塚治虫」(週刊朝日1964年2月21日号)。ちなみに、生前の手塚は著書『ぼくはマンガ家』のように、漢字表記の「漫画」よりカタカナ表記の「マンガ」を好んで使っていた。

      ^ ただし、後述の石原実は手塚没後のインタビューで「手塚がいじめっ子を自宅に呼んで漫画で懐柔・籠絡した」とされる点に疑問を呈している。石原によると、同窓会のたびに皆で「おかしいなー」と言っていたが、手塚本人に言うと「『すまん、すまん』とケロッとして」いたという。(池田啓晶他 『手塚治虫完全解体新書』 集英社、2002年、p238)

      ^ なお、1947年の大阪帝国大学から大阪大学への名称変更に伴い、医学専門部も大阪大学附属医学専門部と改称された。

      ^ 旧制大学と旧制専門学校は明確に区別されており、旧制専門学校卒業生には学士号の授与も行われなかった。

      ^ 徹夜明けであっても映画館に駆け込んだという。『観たり撮ったり映したり』(手塚治虫著)

      ^ ただし、アニメーション『鉄腕アトム』関係者への聞き取りと資料の再調査を行った津堅信之は実際には「当初は1本155万円が代理店より制作費として支払われていた」としている。津堅によると、その後も制作料は少しずつ引き上げられており、「虫プロは確実に経営努力を実施して、かつ結果を得ている。『『アトム』を55万円で作ったから、その後のアニメ制作環境が悪くなった』という評価がいまだにあるとすれば、短絡的であると言わざるを得ない。」としている(津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』NTT出版、2007年)。

      ^ アニメーターの大塚康生は、手塚が一方で理想のアニメに憧れながらも、遂にそれを成し遂げられなかった原因を、商業主義のためではなくて、手塚がアニメの技術について無知だったからだとしている。「演技設計やアニメートに無関心では優れたアニメーションになるはずがなかったように思います。実際、手塚氏はフル・アニメーションの基礎技術をディズニーなどの先達に学んだ形跡がなく、ろくにアニメーターの養成もせずに漫画的なリミテッドから出発している点も実に不思議です」(大塚『作画汗まみれ 増補改訂版』P95「4章 テレビアニメーション時代の幕開け」)

      ^ なお『どろろ』作中の妖怪は水木の影響を受けたと思われる点描が用いられている(夏目、151-152p)。

      ^ 手塚本人は1971年に経営者を退いていた。

      ^ 1986年1月10日に『手塚治虫 創作の秘密』がNHK総合で放送された。

      ^ 当時の主治医によれば、この時点ですでにステージ4の段階であり、腹膜にまでがんが転移していたという。しかし、癌であること自体は当時の医療慣習により本人には最後まで告知されず、胃潰瘍と告げられていた。

      ^ 作品の実際の連載開始日は1月4日。

      ^ 医師法第八条の規定に基づき内閣が制定した医師法施行令の第四条第二項には「医師が死亡し、又は失そうの宣告を受けたときは、戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)による死亡又は失そうの届出義務者は、三十日以内に、医籍の登録のまつ消を申請しなければならない。」とあり、また同七条第一項には「医師は、医籍の登録のまつ消を申請するときは、住所地の都道府県知事を経由して、免許証を厚生労働大臣に返納しなければならない。第四条第二項の規定により医籍の登録のまつ消を申請する者についても、同様とする。」となっている。このため本来は死亡後三十日以内に遺族が医師の免許証の返納手続きをとるべきなのであったが、記念館内に展示保管されているために悪用されるおそれがないこと、医師免許証に文化財としての価値があるという理由で、法令の本来の規定を超えた特例の措置がなされた。

      ^ トレードマークの縦縞がなく、胸の部分に「OSAKA」と描かれているデザイン。

      ^ この机は安孫子の生家である富山県氷見市の光禅寺に保管されている。

      ^ 別の対談では、このとき手塚は家にいたが、母親に「留守です」と帰されたとも語っている

      ^ ただし、作中で説明されるのは井上ひさしが1971年に執筆した戯曲版のストーリーである。

      ^ うしおそうじは伝聞としてほぼ同じ内容を著書に記している(ただし、最後の「大阪人め」の箇所が「贅六め」という関西人への侮蔑語になっている)。

      ^ 手塚は『ぼくはマンガ家』において福井の死去が謝罪から「一カ月ほどたって」と記す一方、謝ったのは「綿のような雪の降る日」としており、6月下旬に福井が死去した事実とは食い違っている。

      ^ 2011年時点で宮崎は70歳、手塚の没年は60歳。

      ^ フジパンロボット館は閉幕後に愛知青少年公園(現・愛・地球博記念公園)に移設され、2005年に愛・地球博でも展示された。

      ^ なお、治虫の作品に父親の存在が希薄であることはしばしば指摘されている。(桜井、34p)

      ^ 時事通信『時事年鑑 1990年版』時事通信社、1989年、205頁。 

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      ^ 河本寿栄 著、小佐田定雄 編『二代目さん 二代目桂春団治の芸と人』青蛙房、2002年2月、130-131頁。 

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      ^ 公表されている手塚治の医師免許による。

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      ^ 山本.

      ^ 大宅壮一は1958年に「文藝春秋」で連載した「日本の人物鉱脈」で「最近私は"阪僑"という妙な言葉をつくって、大阪人気質、東京その他における大阪系人物のありかたを、南方諸地域や日本における中国人のありかたになぞらえて」と書いている。

      札埜和男『大阪弁「ほんまもん」講座』新潮社、2006年 ISBN 978-4106101601 p20

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      ^ 「話の特集」1979年7月号 瀕死のアニメーション

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      ^ 手塚治虫、松谷孝征『手塚治虫 壁を超える言葉』かんき出版、2014年10月。「第25章」 

      ^ 1989年2月10日放送『おはよう!ナイスデイ』

      ^ 手塚眞「わが父 手塚治虫」朝日ジャーナル臨時増刊1989年4月20日号『手塚治虫の世界』所収

      ^ NHK「手塚治虫 世紀末へのメッセージ」1999年1月15日 22:00 - 22:50放送

      ^ 集英社新書「手塚先生、締め切り過ぎてます!」福元一義 2009年

      ^ 東京読売新聞朝刊「いま永遠の"火の鳥"となる 手塚治虫さんの葬儀にファン1万人」(1989年3月3日)

      ^ 東京読売新聞朝刊「手塚治虫さんの通夜 2000人がお別れ / 東京・東久留米」(1989年2月12日)

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      ^ NHKスペシャル「いのち〜わが父・手塚治虫」(1989年4月16日)

      ^ 宮﨑駿『折り返し点』(p.116、梅原の発言)

      ^ 没後、1990年から1991年にかけて開催された「手塚治虫展」では、晩年に記した日記が展示された。この日記には、筆跡が日を追うごとに次第に弱々しくなり、最後にはほとんど判読不能となっていた様子が記録されていた。

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        手塚プロダクション

        手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL 公式ウェブサイト

          手塚治虫について|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL

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          宝塚市立手塚治虫記念館(開館1994年4月25日)

          Google歴史アーカイブ 手塚治虫

          「倉田わたるのミクロコスモス」“手塚治虫漫画全集”解説総目録

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          手塚治虫 - NHK人物録

          手塚治虫 - メディア芸術データベース

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          黒沢哲哉:「手塚治虫、アニメにかけた情熱のルーツを綴る!!」(虫ん坊、コラム「手塚マンガあの日あの時」第24回)

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          『手塚治虫』 - コトバンク

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          アポロの歌

          雨降り小僧

          奇子

          アラバスター

          アリと巨人

          一輝まんだら

          上を下へのジレッタ

          海のトリトン

          熟れた星

          SFファンシーフリー

          エンゼルの丘

          黄金都市

          火星博士

          化石島

          カノン

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            1928年生

            1989年没

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2025/03/29 19:24更新

teduka osamu


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錦戸 亮(にしきど りょう)
【SUPER EIGHT】
1984年11月3日生まれの有名人 大阪出身

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江辺 香織(えべ かおり)
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江辺 香織(えべ かおり、1984年11月3日 - )はアーティスティック・ビリヤードプレイヤー。兵庫県生まれ、大阪府堺市出身。血液型はAB型。愛称は「エベちゃん」。エイベックス・スポーツ株式会社所…

平岩 紙(ひらいわ かみ)
1979年11月3日生まれの有名人 大阪出身

平岩 紙(ひらいわ かみ、1979年11月3日 - )は、日本の女優。大阪府吹田市出身。舞台芸術学院演劇部本科卒業(50期生)。大人計画所属。本名は山内 加奈(やまうち かな)、旧芸名および結婚前の本…

やのぱん(やのぱん)
1974年11月3日生まれの有名人 大阪出身

やのぱん(1974年11月3日 - )は、日本のタレント。本名、矢野 博司(やの ひろし)。旧芸名は矢野 ひろし(やの ひろし)。京都府出身、大阪府在住。松竹芸能所属。既婚、2女あり。 滋賀県野洲郡…

さいとう・たかを(さいとう たかお)
1936年11月3日生まれの有名人 大阪出身

さいとう・たかを(本名:齊藤 隆夫〈さいとう たかお〉、1936年〈昭和11年〉11月3日 - 2021年〈令和3年〉9月24日)は、日本の漫画家。和歌山県和歌山市生まれ、大阪府堺市出身。東京都中野区…


三遊亭 円馬 〈3代目〉(さんゆうてい えんば)
1882年11月3日生まれの有名人 大阪出身

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斉藤 喜彦(さいとう よしひこ)
1920年11月3日生まれの有名人 大阪出身

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山崎 豊子(やまざき とよこ)
1924年11月3日生まれの有名人 大阪出身

山崎 豊子(やまさき とよこ、1924年〈大正13年〉1月2日 - 2013年〈平成25年〉9月29日)は、日本の小説家(作家)。本名は杉本 豊子(すぎもと とよこ)。 大阪府大阪市南区(現:中央区…

坂東 和彦(ばんどう かずひこ)
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藤村 修(ふじむら おさむ)
1949年11月3日生まれの有名人 大阪出身

藤村 修(ふじむら おさむ、1949年〈昭和24年〉11月3日 - )は、日本の政治家。立憲民主党大阪府総支部連合会顧問。 拉致問題担当大臣(野田第3次改造内閣)、内閣官房長官(第80代)、厚生労働…


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1958年9月4日生まれの有名人 栃木出身

手塚 聡(てづか さとし、1958年9月4日 - )は、栃木県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW、MF。 中央大学から1981年にフジタ工業クラブサッカー部(現・湘南ベルマーレ)…

手塚 りえ(てづか りえ)
1987年5月5日生まれの有名人 東京出身

桜(もも)mint's(ももミンツ)は、日本のアイドルユニット。2006年結成、2007年活動休止。 TVKの番組『情報発信塾 アイドル☆レボリューション』と音楽雑誌『mint's』とのコラボレーシ…

手塚 香織(てづか かおり)
1980年4月15日生まれの有名人 山梨出身

手塚 香織(てづか かおり、1980年4月15日 - )は、山梨県出身の女性モデル、タレント。所属事務所はスーパーウイング。中央大学文学部文学科仏文学専攻科卒。 2001年の全日本GT選手権イメージ…

手塚 真生(てづか まい)
1990年8月10日生まれの有名人 出身

手塚 真生(てづか まい、1990年8月10日 - )は、日本の女優、モデル。デュアリズムマネージメント→No.9→イマージュエンターテインメント→aoao→Andmo→ ボックスコーポレーション所属…

手塚 理美(てづか さとみ)
1961年6月7日生まれの有名人 東京出身

手塚 理美(てづか さとみ、1961年〈昭和36年〉6月7日 - )は、日本の女優である。ヴィレッジエンターテイメント を経て吉本興業所属。東京都大田区出身。 小学生の頃よりジュニアモデルとして活動…


手塚 眞(てづか まこと)
1961年8月11日生まれの有名人 東京出身

手塚 眞(てづか まこと、本名:真(新字体)、1961年8月11日 - )は、日本の映像クリエーター、映画監督。 有限会社ネオンテトラ代表取締役、株式会社手塚プロダクション取締役。一般財団法人手塚治…

手塚 りょうこ(てづか りょうこ)
10月15日生まれの有名人 出身

手塚 りょうこ(てづか りょうこ、10月15日 - )は、日本の女性声優。主にアダルトゲームに声をあてている。 高校時代に演劇を通じて別人になることの楽しさを知り、悩んだ末に声優の専門学校へ入学し、…

手塚 ひろみ(てづか ひろみ)
11月22日生まれの有名人 山形出身

手塚 ひろみ(てづか ひろみ、11月22日 - )は、日本の女性声優。山形県出身。2009年1月まで81プロデュースに所属していた。身長156.8cm。 Venus Versus Virus(携帯音…

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手塚 ヒロミチ(てづか ヒロミチ、10月5日 - )は、日本の男性声優。茨城県出身。リマックス所属。 関東の片田舎生まれで、子供の頃は漫画しか娯楽がなかった。小中高時代と死ぬほど漫画を読んでいたが、…


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手塚 祐介(てづか ゆうすけ、1981年2月19日 - )は、日本の男性俳優、声優。奈良県出身。円企画所属。 奈良県立西の京高等学校卒業。 2001年、円演劇研究所入所。2003年、演劇集団 円の…

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手塚 秀彰(てづか ひであき、1954年12月5日 - )は、日本の俳優、声優。劇団青年座所属。栃木県出身。 國學院大學栃木高等学校、國學院大學経済学部卒業。青年座研究所4期生。 吹き替えではサミ…

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