楠木繁夫の情報(くすのきしげお) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
楠木 繁夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
楠木繁夫と関係のある人
野村俊夫: 1944年「いさおを胸に」(作曲:弘田龍太郎、歌:楠木繁夫、松原操) 万城目正: 「空から轟沈」(楠木繁夫・渡辺はま子歌、西條八十作詞 1945年) 宮城千賀子: 歌ふ狸御殿 1942年 監督・原作・脚本木村恵吾、撮影牧田行正、特殊撮影三木滋人、作詞サトウ・ハチロー、作曲古賀政男、主演高山廣子、共演美ち奴、楠木繁夫、伊藤久男、益田喜頓 青空たのし: 楠木繁夫 松平晃: 福田青年は、学生歌手として活躍するが、当時使用した変名はニットーが「大川静夫」「松平利夫」(最末期のみ)、ポリドールが「池上利夫」、キングが「松平不二男」、タイヘイが「小川文夫」(同時期に楠木繁夫も使用)、テイチクが「松平不二夫」、パルロフォンが「松平不二男」「柳沢和彦」であった。 古賀政男: 真実一路の唄(1937年) 歌:楠木繁夫 佐藤惣之助: 『緑の地平線』(1935年10月)[古賀政男作曲、歌:楠木繁夫] 吉田矢健治: 『山のロマンス』(昭和27年5月)[島田芳文作詞、歌:楠木繁夫] 古賀政男: トンコ節(1949年、1951年) 歌:久保幸江・楠木繁夫(1949年版)、久保幸江・加藤雅夫(1951年版) 古賀政男: ビクターから迎えた藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、『緑の地平線』『二人は若い』『東京ラプソディ』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』などのヒット曲を発表した。 時雨音羽: 『彌次喜多道中記』(1938年(昭和13年)12月)[古賀政男作曲、歌:楠木繁夫、ディック・ミネ] 古賀政男: ハイキングの唄(1935年) 歌:楠木繁夫 古賀政男: 人生劇場(1938年、1959年) 歌:楠木繁夫(1938年版)、村田英雄(1959年版) 古賀政男: 国境を越えて(1937年) 歌:楠木繁夫 門田ゆたか: 『旅時雨』(昭和12年8月) 作曲:大久保徳二郎、歌:楠木繁夫 古賀政男: 男のまごころ(1935年) 歌:楠木繁夫 古賀政男: どうぢゃね元気かね(大映映画「歌ふ狸御殿」主題歌)(1942年) 歌:楠木繁夫 中島孝: 人生劇場(昭和31年3月)-オリジナルは1938年に発売された楠木繁夫の曲 古賀政男: 女の階級(日活映画「女の階級」主題歌)(1936年) 歌:楠木繁夫 佐藤惣之助: 『国境を越えて』(1937年6月)[古賀政男作曲、歌:楠木繁夫] 松平晃: 1936〜1938年(昭和11〜13年)にかけて、東海林太郎・上原敏のポリドールの道中物、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う古賀メロディーのテイチク、江口夜詩―松平晃のコロムビア、佐々木俊一が台頭するビクターと激しいヒット競争が展開した。 近江俊郎: 『突撃喇叭鳴り渡る -一億総蹶起の歌-』1944年6月ニッチク(コロムビア) 共演:楠木繁夫、三原純子 古賀政男: のばせばのびる(1937年) 歌:楠木繁夫 近江俊郎: 『今ぞ決戦』1944年10月ニッチク(コロムビア) 共演:楠木繁夫 佐藤惣之助: 『人生劇場』(1938年7月)[古賀政男作曲、歌:楠木繁夫] 霧島昇: 索敵行(1943) - 共唱:伊藤久男・楠木繁夫、作詞:野村俊夫/作曲:万城目正/編曲:服部良一 島田芳文: 『ハイキングの唄』(昭和10年5月)[古賀政男作曲、歌:楠木繁夫] 古賀政男: 白い椿の唄(1935年) 歌:楠木繁夫 鳥取春陽: その頃、春陽とコンビを組んでいたのが、後のテイチクで活躍した楠木繁夫である。 久保幸江: 古賀はこれをさらに都会的な宴会ソングに仕立て上げ、1949年(昭和24年)、「トンコ節」として久保と楠木繁夫のデュエットとして発売させた。 |
楠木繁夫の情報まとめ
楠木 繁夫(くすのき しげお)さんの誕生日は1904年1月20日です。高知出身の歌手のようです。
母親、退社、映画、結婚に関する情報もありますね。1956年に亡くなられているようです。
楠木繁夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)楠木 繁夫(くすのき しげお、1904年1月20日 - 1956年12月14日)は、昭和期の流行歌の歌手。本名は黒田 進。 1904年(明治37年)、高知県佐川に、父は医師である名門の四男として生まれた。音楽好きの母親の影響で、県立中学時代に音楽家を志し、後継を希望した父の反対を押し切って上京。1924年(大正13年)、東京音楽学校(現:東京芸術大学)師範科に入学。本科の声楽部に進み、「城ヶ島の雨」の作曲家・梁田貞に師事した。学生時代は、同級の高木東六(作曲家、代表作:「空の神兵」「水色のワルツ」)らと行動を共にしていたが、1928年(昭和3年)、学生運動で校則などに抗議したメンバーに入っていたため、高木らとともに除籍処分となった。 退学となった楠木は、1929年(昭和4年)、本名の黒田進で、名古屋にあったツルレコードに「五月音頭」を吹き込みレコード歌手としての活動を始める。彼のツルレコード時代は『ツルレコード昭和流行歌物語』(菊池清麿・著/人間社/樹林舎)詳細に記されている。同社の専属歌手とならず、コロムビアでの「紅蝙蝠」「カフェー小唄」など、30以上のレーベルで、秋田登、藤村一郎など、50を超える相当数の変名を使いこなして各社でレコーディングしていたが、1934年(昭和9年)に、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属になる。この時に、自らの名前が似ていることから、楠木正成(戦前は大楠公と呼ばれた)に傾倒していた当時のテイチク社長・南口重太郎によって、楠木繁夫という芸名が付けられるのであった。1935年(昭和10年)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。その後も、「女の階級」「のばせばのびる」「啄木の歌」「人生劇場」とヒットを続けるが、昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から退社すると、楠木もビクターに移籍。「馬と兵隊」「東京ラグタイム」など、曲には恵まれたが、ヒットに結びつく作品は少なかった。 1939年(昭和14年)頃からは、スクリーンにも活躍の場を広げ、特に日活作品に数多く出演。マキノ正博の監督による「弥次喜多道中記」ではディック・ミネとコンビで弥次喜多を演じ、大映映画「歌う狸御殿」では、狸の国の総理大臣を演じた。テイチク時代に、同じ会社のヒット歌手・美ち奴との浮名を流し、周囲からは二人は結婚するものと噂が高かったが、1942年(昭和17年)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍した後に撮影した「歌う狸御殿」で共演した歌手・三原純子と、翌年の年末に結婚。戦時中ながら、おしどり夫婦の歌手として、工場慰問などに活躍した。 第二次世界大戦後、自らの作曲作品「思い出の喫茶店」などをレコーディングする一方で、夫婦揃って出演した大映映画「春爛漫狸御殿」をはじめ、「蛇姫道中」「江の島エレジー」などスクリーンにも活躍するが、折から流行していたヒロポンと呼ばれる覚せい剤の影響で、往年の光彩を失っていった。1949年(昭和24年)、古巣のテイチクに移籍し、「紅燃ゆる地平線」「ハルピン恋し」などのヒットを出し、NHK紅白歌合戦にも出演している。純子との夫婦揃ってのステージや巡業に活躍していたが、かねてからのヒロポン中毒のため、1953年(昭和28年)の「湯の香恋しや」を最後にレコーディングから遠ざかった。さらに、脳溢血のため、音程が狂うという歌手にとっての致命的なダメージと、愛妻・純子の肺結核の悪化が重なり、1956年(昭和31年)の春に夫婦揃ってのステージを名古屋で務めた後、二人は二度と生きて会うことはなかった。将来を悲観した楠木は、宝くじの当選で新築したばかりという東京・新大久保の自宅で、1956年(昭和31年)12月14日、女中を映画見物に出かけさせた後、ひとり物置小屋で首を吊って自殺。52歳没。高木東六、松平晃ら生前に親しかった友人たちは「緑の地平線」を合唱して、楠木の棺を見送った。故郷・飛騨高山で転地療養していた妻の純子も、後を追うように1959年(昭和34年)に38歳で死去している。 (歌唱:酒井弘)のカップリング 楠木繁夫は、確認されているだけで55種の変名を持っていたことが知られている。楠木繁夫名義のレコードが約250枚に対し、変名名義のレコードは800枚近く出された。 楠木の変名として挙げられる中でも、小川文夫と松平操は松平晃も使用しており、松平操は楠木・松平以外の歌手も使用した形跡があるという。 なお昭和初期の日本では一人の歌手が複数の変名を持つことは珍しくなく、たとえば松平晃は12種の変名を持っていた。理由として、歌手の需要に供給が追いつかなかったためという推測がある。 ^ 「関西発レコード120年 第2部・歌謡曲秘話(15)芸名の王者 楠木繁夫」『神戸新聞』1997年4月23日付朝刊、13面。55種の変名の一覧もこちらに掲載。 東京芸術大学の人物一覧 自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧 日本映画データベース 楠木繁夫 VIAF 日本 MusicBrainz 日本の男性歌手 戦前の流行歌手 NHK紅白歌合戦出演者 高知県出身の人物 1905年生 1956年没 自殺した日本の人物 2024/11/21 18:41更新
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kusunoki shigeo
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