渥美清の情報(あつみきよし) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
渥美 清さんについて調べます
■名前・氏名 |
渥美清と関係のある人
入江若葉: 渥美清の泣いてたまるか 武智豊子: 渥美清の泣いてたまるか 麻田ルミ: 渥美清の泣いてたまるか 「男は心だよ」(1976年1月11日、TBSテレビ) 小島敏彦: 渥美清のああ、青春日記(1997年9月24日、フジテレビ)(ナレーション) 平野レミ: 結婚後は、渥美清、吉永小百合、永六輔、坂本九などが自宅へ時折訪問していたという。 高瀬昌弘: 続風来忍法帖 (1968/5/8 渥美清主演 川崎徹広監督 台本直し案のみ) 石黒賢: 渥美清のああ、青春日記(1997年9月24日、フジテレビ) - 早坂暁 役 垣花正: ニッポン放送同期入社に昭和の名優・渥美清(本名・田所康雄)の息子、田所健太郎がいる。 志村けん: 噂は尾ひれがついて拡大し、「群馬県の赤城国際カントリークラブで急性心筋梗塞を起こし急死した」「尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した」「たばこの吸い過ぎが原因の肺がんで、栃木県立がんセンターで死んだ」「栃木県の国道で交通事故に巻き込まれて事故死した」「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない(この時期に亡くなった渥美清が遺言に「四十九日法要が済むまで公表するな」と書いていたことからとされる)」「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。 佐藤オリエ: その役柄が好評だったため、テレビドラマ版『男はつらいよ』及び劇場版『続・男はつらいよ』ではマドンナ・坪内夏子役を演じ、共演の渥美清らからも評価を受ける。 佐藤蛾次郎: 渥美清を寅次郎と源公の間柄と同じ様に兄貴分として慕っていた。 長山藍子: 渥美清の泣いてたまるか(1967年) あさつき緑: CX 渥美清のああ、青春日記(1997年9月24日)(キャベツ白坂) 市川好郎: 渥美清の泣いてたまるか 第50話「先生海で溺れる」(1967年、TBS / 国際放映) 原一平: 今日あるのは寅さん・渥美清のおかげだと、感謝の意を込めて人出の多い休日などに、柴又で寅さんの姿で無償の路上公演を行っていた。 石立鉄男: 『パパと呼ばないで』(1972年)で流行した「おい!チー坊」(杉田かおる演じる姪の千春を呼ぶ時の台詞)は渥美清が演じた寅さんに影響を受けたとし、喜劇やホームドラマをやるときの鉄則として地声を1オクターブ高く上げたりすることで、言葉の意味よりも音として心地良さを出す工夫をしていたという。 伴淳三郎: 関西出身ではないのに「関西喜劇人協会」の会長をつとめたり、若き時代の渥美清や生田悦子をイビリ倒していた。 森繁久彌: 国民栄誉賞の受賞は森光子以来18人目で、俳優での受賞は長谷川一夫、渥美清、森に次いで4人目。 太宰久雄: タコ社長と寅さんが取っ組み合いの喧嘩をするシーンについて「渥美清が相手だと全然痛くなかった。 掛田誠: 渥美清のああ、青春日記(1997年9月24日、フジテレビ) 如月寛多: 加東大介の実体験に基づく『南の島に雪が降る』において、エノケン映画の人気俳優の名を騙る青戸(渥美清)という人物が登場するが、その「人気俳優」として名前を使われたのが如月寛多である。 菅野光亮: 渥美清の田舎刑事(テレビ朝日、テレパック) いっこく堂: 渥美清 梓英子: 第19話「豚とマラソン」(1966年11月6日)渥美清主演 大川久男: 1966年 - 「泣いてたまるか」、「渥美清の泣いてたまるか」 池内淳子: 第782回「夫婦」(1971年)渥美清:共演 薬師丸ひろ子: さらに、「映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!」日本篇では、渥美清・西田敏行に次いで第3位。 太宰久雄: 1967年5月7日には渥美清演じるドラマ『渥美清の泣いてたまるか』に出演し、掛け合いの面白さが注目される。 江利チエミ: 東映作品『ちいさこべ』では京都市民映画祭で優秀助演女優賞を獲得、『ふんどし医者』など、自身主演の音楽娯楽映画(『唄祭りロマンス道中』(渥美清・共演)、『ジャズ娘誕生』(石原裕次郎・共演)、『チエミの婦人靴』など)以外にも数多く助演した。 石川ひとみ: 1990年3月に、新聞の取材を受けるために訪れていたホテルのラウンジで、寅さん役の渥美清と遭遇する。 |
渥美清の情報まとめ
渥美 清(あつみ きよし)さんの誕生日は1928年3月10日です。東京出身の俳優のようです。
テレビ、ドラマ、映画、卒業、脱退、結婚、病気、家族、退社、父親、趣味、事故、現在、子役に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1996年に亡くなられているようです。
渥美清のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)テレビドラマ 『渥美清の泣いてたまるか』 『こんな男でよかったら』 映画 『拝啓天皇陛下様』 『喜劇急行列車』 『喜劇団体列車』 『喜劇初詣列車』 『スクラップ集団』 『男はつらいよ』シリーズ 『キネマの天地』 代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。 没後に国民栄誉賞を受賞している。 1928年3月10日、東京府東京市下谷区車坂町(当時)で、地方新聞の記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。 1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居し、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であり、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。 1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に旧制私立巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされる。堀切直人は、巣鴨中学校には進学しておらず志村坂上の東京管楽器の町工場に就職したとしている。旧制1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと。 1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演。1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1961年、井上和男監督の『水溜まり』で倍賞千恵子と初共演している。1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演である。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという。 1969年3月17日(月曜日)、正子夫人と島根県出雲大社で結婚式を内々だけで挙げる。披露宴はホテルニューオータニで仲の良かったスター、友人、映画記者番や雑誌記者を招いて行った。41歳の時だった。 当初は、松竹より東映の方が渥美喜劇の売り出しに熱心で、東映で"喜劇路線"を敷こうとした岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)に引き抜かれ、岡田が登用した瀬川昌治監督の『喜劇急行列車』(1967年)他「列車シリーズ」などに主演した。岡田茂は「渥美清は、実は私が東映東京撮影所の所長をしていた昭和37年(1962年)に一年間面倒をみたことがあるんです。それで『喜劇急行列車』など何本か撮ったんですが、どうしても東映では喜劇は伸びない。それで『渥美君、俺は君で5本やったが駄目だった。作品がよくてこれでは君にも悪いから、ひとつ松竹へ行け』と。ちょうど松竹から是非にという話があり『松竹に行った方が君にはプラスだ』ということで向こうに行ったんですが、結局は良かった。『男はつらいよ』なんて10年に一編出るか出ないかですよ。ああいう幸運なのは。一つのシリーズで48本(1996年当時)もやったというのは有り得ないことです」などと述べている。東映とは水が合わなかったが、東映での出演作としては股旅映画の最高傑作ともいわれる『沓掛時次郎 遊侠一匹』(加藤泰監督、1966年)の身延の朝吉役は名演として知られる。この時期の主演作品としては他に、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)などがある。 最後に舞台へ上がったのは1966年の5月に新宿コマ劇場で行われた翻訳ミュージカル「南太平洋」のルーサー・ビリス役でそれ以降二度と舞台を踏むことはなかったが、1991年の常盤座の閉幕の時行われた「関敬六劇団」さよなら公演の千秋楽フィナーレで俳優全員が舞台挨拶を行った時突然舞台に上がって「ご苦労さん」と関とあいさつをし、観客に手を振った。 1968年10月3日から半年間、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送され、脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に視聴者からの抗議が殺到したことから、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹が映画を製作。これが堅調な観客動員と高い評価を受けてシリーズ化。当初は54万人程度だった観客動員は徐々に伸びて第8作では148万人と大ヒット水準まで飛躍。以降、しばしば200万人を超えるなど松竹の屋台骨を支え続けるほどの大ヒットが続く。国民的スターとなった渥美清は、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に亘って演じ続けることになる。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。 1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作する。1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『旅路の果て』が、1979年には『まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズほどの成功は収めることができなかった。唯一1977年『八つ墓村』でそれまでのイメージを一新して名探偵「金田一耕助」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を(松竹との関係が悪化していた)角川春樹事務所と東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。 1979年4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得た。1980年代以降になると、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていった。1988年に紫綬褒章を受章。その後は主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった。 晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは減少し、晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目(1991年12月公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったが、この頃にはもうスタッフをはじめ、どんなに声をかけられてももう一切人には挨拶をしなかったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。46作頃からは、2日撮影したら2日休養を置くスケジュールを組んだが午後3時頃からは声の調子が落ちてしまい録音の鈴木功は「つらくなってきた」と語っている。48作では午前中には割と強かった渥美の体調を考慮し、撮影は午前9時から始まり午後1時ごろまでには終了。それくらいのスケジュールでないともう撮れない状態だった、と山田は語っている。 最後に関係者が渥美清と会ったのは、1996年6月27日(若しくは6月30日)に代官山のレストラン・小川軒の会合で山田洋次の紫綬褒章受章の祝いを兼ねた次作の話し合いで、山田洋次、倍賞千恵子、渥美のスケジュールを管理していた制作主任の峰順一、松竹の大西氏らスタッフ10人と会食し、薄いステーキとはいえペロリと平らげたという。 病気については、1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺への転移が認められた。主治医からは、第47作への出演は不可能だと言われていたがなんとか出演し、48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年6月27日、若しくは6月30日の代官山レストランでの食事の際に第49作制作の件で高知ロケを承諾し、撮影を控えていた中、亡くなる一週間前に「呼吸が苦しい」と家族に訴え即手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。1996年8月4日午後5時10分、転移性肺癌のため文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。68歳没。 「戒名はつけるな」「最期は家族だけで看取ること」「世間には荼毘に付したあと、知らせること」「騒ぎになったときは、長男の健太郎ひとりで対応すること」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。最初に連絡を受けたのは山田監督ともいわれ、8月6日の午後8時半ごろ山田から松竹宣伝部の大西の元に連絡が行き(小林によると5日)、同日夜に山田と大西が駆け付けた時にはすでにお骨になっていた。尚山田が渥美の自宅へ行ったのはこの時が初めてだったという。おばちゃん役の三崎千恵子のもとには8月6日(小林によると8月7日)の午前10時ごろ、さくら役の倍賞の下へは同6日の夜中に連絡が入ったとされる。訃報は8月7日に松竹から公表された。男はつらいよの第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』が実質の遺作となった。 8月13日に「渥美清さんとお別れする会」が松竹大船撮影所第9ステージで開かれた。柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。 死後、「『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた」との理由で、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。俳優での受賞は、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。 1997年8月4日には大船撮影所で一周忌献花式が開かれた。東京・柴又の団子屋「くるまや」のセット撮影に使われた第9ステージが会場となり、山田洋次や倍賞千恵子らが出席した。 2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。さらに、「映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!」日本編では第1位。 渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。 巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、卒業していたのかしていないのかだけでなく、在籍の有無ですら公式には何とも言えないという。ただし、何人かのOBによれば「在籍はしていたが、卒業はしていない」との証言もある。 大学についても異説があり、中央大学予科に入ったとする説、そもそも中央大学には入っておらず学歴を詐称していたという説、テキ屋稼業で都合がいいため中大予科の角帽をかぶっていたという説、天ぷら学生として角帽を被っていたという説、中央大学商学部に入学したという説がある。中央大学説は関敬六が慶應義塾大学、谷幹一が早稲田大学、渥美清が中央大学という設定の芝居を行ったことがきっかけでそれをその後も踏襲したとも言われている。 『男はつらいよ』の「寅さん」の演技で社交性のある闊達さを印象付けていたが、実像は共演者やスタッフと真摯に向き合う一方で、公私混同を非常に嫌い、プライベートでは他者との交わりを避ける傾向だった。ロケ先での、撮影協力した地元有志が開く宴席にあまり顔を出さなかったものの、第48作では瀬戸内町主催のホテルの歓迎会に町の人を呼び、渥美清もグレーのジャージ上下とサンダル姿で30分ほど出席している。 家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。披露宴には、芸能関係者では関敬六、谷幹一が出席し、司会はTBSの渥美番の杉山真太郎で『泣いてたまるか』の関係でTBSの番組宣伝部が担当した。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。 渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。 脚本家・早坂暁とは20代に銭湯で知り合い、早坂を「ギョウさん」と呼んで、終生の友であった。渥美は常に「ギョウさん、俺も連れてってちょうだいよ」と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)や、沖合いにある「北条鹿島」はお気に入りで何度も同行している。早坂作のNHKドラマ『花へんろ』(早坂の自伝的ドラマ)ではナレーションを担当した。これらの事情が、実現しなかった第49作『寅次郎花へんろ』の元になった。渥美の死後発見された晩年の手帳には「……旅行に行こう。家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう……」と綴ってあった。早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧しており、そのことはお別れ会の弔辞でも語っている(後記)。 1985年頃、渥美は尾崎放哉を演じたいと早坂に相談していたが、NHKが先に「海も暮れきる 小豆島の放哉」を放送したためその話は流れることになった。早坂が書いた「首人形-方哉の島」の脚本が完成したのは1993年で既に癌に侵されていてやれる体力がなく渥美は机に置いた脚本を見つめたまま一言も発しなかったという。吉村昭の小説をもとにしたドラマはNHK松山放送局が1985年に制作・放映している。NHKの放送後、急遽題材を種田山頭火に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに「山頭火」降板の申し出があった。渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ『山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく』は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。早坂は渥美に、初期のテレビドラマ『泣いてたまるか』や、上記土曜ワイド劇場第1回作品の『田舎刑事』シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。 映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた鈴木尚之とのコンビも長い。なお渥美は、早坂と、関敬六、山田洋次らは46作目「寅次郎の縁談」(1993年公開)の撮影の合間を縫って放哉の墓参り、小豆島尾崎放哉記念館(土庄町)の建設現場へ訪れている。 上記著書の小林信彦は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親しい仲であった。 松竹新喜劇の藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットに渥美のコメントとして「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で観るだけで、楽屋には寄らずに帰える。帰る途すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「おい、横丁のトラ公な、まだ帰ってこんのか?」と言うアドリブを発していた。非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていたが、「寅さん」とはまったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らにはほとんど気づかれなかったという。 山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2・3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。 増村保造の監督映画『セックス・チェック 第二の性』を基にして作中男性だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男性だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。この構想はすでに早坂暁によって「渥美清子の青春」として、1968年にシナリオ化されている。 黒柳徹子は、プライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、『夢であいましょう』で共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかったためである。黒柳は渥美の死後、渥美との想い出を話すことがある。また、森繁久彌は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。 永六輔とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が役者を目指すようになったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導されたことがあり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われたことが役者を目指すきっかけになったとのことである。 田中秀征が執筆で利用していた駒沢通りのカフェの常連で、渥美はカフェの店主から田中秀征の著書『自民党解体論』を購入して熱心に読み、「勉強になったよ」と店主に感想を述べた。カフェで本を読んでいる時に田中を見つけて、遠くから立って頭を下げてくれて、田中は嬉しかった思い出があるという。 その他、プライベートでの交流があった芸能人として笹野高史、柄本明がいる。2人とも「男はつらいよ」シリーズの常連出演者で、芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。 布袋寅泰は、渥美と同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口で会った際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、台所の隅にでも飾ってやってください」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという。 長男の田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に「父 田所康雄 職業 俳優」と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の時代劇の斬られ役と思っていたが、当時ニッポン放送に存在した新入社員の仕事を見る「父兄参観日」に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となったという。 晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。 秋野の著作によると、同じ浅草仲間の八波むと志が交通事故を起こし死亡したことがきっかけで、絶対に車を所有せず終生ハンドルを握らなかったという。 倍賞千恵子によると「渥美が最後に病院に入っていた時、まるでお別れを告げるようにいろいろな人に電話をかけていたようで、夜中だったため電話を取ることが出来なかった」と著作で語っている。同様のことは付け人だった篠原靖治も述べており、篠原によると7月の入院前に突然渥美からかかってきた電話が最後の会話だった、と話している。渥美自身、芸能人の通夜や葬式には一切出席しなかったが、唯一出席しマスコミの取材に答えたのが1995年10月に亡くなった高羽哲夫の通夜であった。 男はつらいよシリーズ(1969年 - 1995年、1997年、2019年 全50作、松竹)- 車寅次郎
続・男はつらいよ(1969年) 男はつらいよ フーテンの寅(1970年) 新・男はつらいよ(1970年) 男はつらいよ 望郷篇(1970年) 男はつらいよ 純情篇(1971年) 男はつらいよ 奮闘篇(1971年) 男はつらいよ 寅次郎恋歌(1971年) 男はつらいよ 柴又慕情(1972年) 男はつらいよ 寅次郎夢枕(1972年) 男はつらいよ 寅次郎忘れな草(1973年) 男はつらいよ 私の寅さん(1973年) 男はつらいよ 寅次郎恋やつれ(1974年) 男はつらいよ 寅次郎子守唄(1974年) 男はつらいよ 寅次郎相合い傘(1975年) 男はつらいよ 葛飾立志篇(1975年) 男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け(1976年) 男はつらいよ 寅次郎純情詩集(1976年) 男はつらいよ 寅次郎と殿様(1977年) 男はつらいよ 寅次郎頑張れ!(1977年) 男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく(1978年) 男はつらいよ 噂の寅次郎(1978年) 男はつらいよ 翔んでる寅次郎(1979年) 男はつらいよ 寅次郎春の夢(1979年) 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(1980年) 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌(1980年) 男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎(1981年) 男はつらいよ 寅次郎紙風船(1981年) 男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋(1982年) 男はつらいよ 花も嵐も寅次郎(1982年) 男はつらいよ 旅と女と寅次郎(1983年) 男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎(1983年) 男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎(1984年) 男はつらいよ 寅次郎真実一路(1984年) 男はつらいよ 寅次郎恋愛塾(1985年) 男はつらいよ 柴又より愛をこめて(1985年) 男はつらいよ 幸福の青い鳥(1986年) 男はつらいよ 知床慕情(1987年) 男はつらいよ 寅次郎物語(1987年) 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日(1988年) 男はつらいよ 寅次郎心の旅路(1989年) 男はつらいよ ぼくの伯父さん(1989年) 男はつらいよ 寅次郎の休日(1990年) 男はつらいよ 寅次郎の告白(1991年) 男はつらいよ 寅次郎の青春(1992年) 男はつらいよ 寅次郎の縁談(1993年) 男はつらいよ 拝啓車寅次郎様(1994年) 男はつらいよ 寅次郎紅の花(1995年) 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇(1997年)※ 男はつらいよ お帰り 寅さん(2019年)※ ※印作品は生前の映像を使用したライブラリ出演。 男はつらいよシリーズ以外の映画 若社長と爆発娘(1960年)- 大井社長 唄祭ロマンス道中(1960年)- 三吉 縞の背広の親分衆(1961年)- 胴脇 腰抜け女兵騒動(1961年)- 三木本二等兵 水溜り(1961年)- 中年の男 抱いて頂戴(1961年)- 教祖 漫画横丁 アトミックのおぼん- マッハのズラ公
漫画横丁 アトミックのおぼん 女親分対決の巻(1961年、東京映画) 地獄に真紅な花が咲く(1961年)- ドスキンの政 図々しい奴(1961年、松竹)- 衛兵司令 投資令嬢(1961年)- 野崎 東海一の若親分(1961年)- 関東綱五郎 伴淳・森繁のおったまげ村物語(1961年)- 西向の三八 南の島に雪が降る(1961年、東宝)- 青田上等兵 喜劇 にっぽんのお婆あちゃん(1962年、松竹)- お巡りさん 若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年)- 関東綱五郎 大江戸評判記 美男の顔役(1962年)- 暗闇の丑松 喜劇団地親分(1962年)- 佐々木 サラリーマン一心太助(1962年)- 葵光男 おったまげ人魚物語(1962年)- 銀二 東京さのさ娘(1962年)- 杉本勘太郎 あいつばかりが何故もてる(1962年)- 小山田善六 太平洋の翼(1963年、東宝)- 丹下一飛曹 歌え若人達(1963年、松竹)- 運転手 無宿人別帳(1963年、松竹)- 市兵衛 つむじ風(1963年)- 陣内陣太郎 拝啓天皇陛下様(1963年、松竹)- 山田正助
女弥次喜多 タッチ旅行(1963年)- 大八 おかしな奴(1963年、東映)- 三遊亭歌笑 馬鹿まるだし(1964年、松竹)- 万やん 現代金儲け物語(1964年)- 上野留吉 拝啓総理大臣様(1964年、松竹)- 鶴川角丸 僕はボディガード(1964年)- 北一平 散歩する霊柩車(1964年)- 毛利三郎 風来忍法帖 (東宝) - 悪源太なり平
風来忍法帖 八方破れ(1968年) ブワナ・トシの歌(1965年)- トシ(片岡俊男) 望郷と掟(1966年)- 山根 何処へ(1966年、東宝)- 野口長太郎 沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年、東映)- 身延の朝吉 かあちゃんと11人の子ども(1966年、松竹)- 吉田貞治 列車シリーズ (東映)
喜劇団体列車(1967年)- 山川彦一 喜劇初詣列車(1968年)- 上田新作 父子草(1967年)- 平井義太郎 男なら振りむくな(1967年、松竹)- 山角のおやじ 経営学入門より ネオン太平記(1968年)- ゲイボーイ・カオル 喜劇爬虫類(1968年)- 関元三郎 燃えつきた地図(1968年、大映)- 田代 白昼堂々(1968年)- 渡辺勝次 祇園祭(1968年)- 伊平 スクラップ集団(1968年、松竹)- ホース でっかいでっかい野郎(1969年、松竹)- 南田松次郎 喜劇 女は度胸(1969年)- 桃山勉吉 ひばり・橋の花と喧嘩(1969年)- 参竜斉清山 明日また生きる(1970年)- 木村 喜劇 男は愛嬌(1970年)- オケラの五郎 トラ・トラ・トラ!(1970年)- 炊事兵 ※日本公開版のみ 家族(1970年、松竹)- 連絡船の男 あゝ声なき友(1972年、松竹)- 西山民次 故郷(1972年、松竹)- 松下松太郎 東京ド真ン中(1974年)- 安夫の叔父・金之助 砂の器(1974年、松竹)- ひかり座の支配人 ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)- 日本語版ナレーター 同胞(1975年、松竹)- 消防団団長 友情(1975年)- 矢沢源太郎 幸福の黄色いハンカチ(1977年、松竹)- 渡辺勝次 八つ墓村(1977年、松竹)- 金田一耕助 皇帝のいない八月(1978年、松竹)- 久保 俺たちの交響楽(1979年、松竹)- 西本 遙かなる山の呼び声(1980年、松竹)- 近藤 キネマの天地(1986年、松竹)- 喜八 二十四の瞳(1987年、松竹)- ナレーター ダウンタウン・ヒーローズ(1988年、松竹)- 春之助 学校(1993年、松竹)- 八百屋の親父 すいれん夫人とバラ娘(1957、日本テレビ) - 女探偵(朝丘雪路)のダメ助手役。渥美清のテレビドラマ初出演作。 あんみつ姫(1958年 - 1960年、KR)- 奴せんべい セールスマン水滸伝(1959年 - 1961年、フジテレビ) 若い季節(1961年 - 1964年、NHK総合)- 平吉 大番(1962年 - 1963年、フジテレビ)- 赤羽丑之助 四重奏(1964年、日本テレビ) 東芝日曜劇場(TBS、多数出演) ヨーイドン(1965年、フジテレビ) 人形佐七捕物帳(1965年、NHK総合)- きんちゃくの辰五郎 渥美清の泣いてたまるか(1966年 - 1968年、TBS) とし子さん 第七話(1966年、TBS / 国際放映)- 栗田 おもろい夫婦(1966年 - 1968年、フジテレビ)- 三遊亭歌笑 くいしんぼ(1967年、フジテレビ) 不信のとき(1968年、日本テレビ)- ナレーション 男はつらいよ(1968年 - 1969年、フジテレビ)- 車寅次郎 大きい目小さい目(1968年 - 1969年、TBS) 渥美清の父ちゃんがゆく(1969年、フジテレビ) おんなの劇場 出雲の女(1969年、フジテレビ)- 大関史郎 すかぶら大将(1969年、フジテレビ)- 轟鉄太郎 おれの義姉さん(1970年、フジテレビ)- 沖熊吉 からすなぜ泣くの (1971年、NHK総合) - 鈴木大成 おかしな夫婦(1971年 - 1972年、フジテレビ)- 宗木五郎 (モデルは棟方志功) むかしも今も(1972年、NET)- 直吉 こんな男でよかったら(1973年、よみうりテレビ制作・日本テレビ系)- 余七五郎 ヨイショ(1974年6月 - 11月、TBS) 田舎刑事(1977年 - 1979年、テレビ朝日) - 杉山松次郎 ゆく年くる年(1977年、フジテレビ)- 総合司会 雲を翔びこせ(1978年、TBS)- ナレーション 放蕩かっぽれ節 (1978年、TBS) 女たちの忠臣蔵(1979年、TBS)- 長吉 幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜(1979年、NHK総合)- 古賀政男 天皇の料理番(1980年10月 - 1981年3月、TBS)- ナレーション 木曜ゴールデンドラマ「花嫁の父」(1981年4月23日、よみうりテレビ制作・日本テレビ系)- 輪田平吉 出航 (1981年11月23日、TBS) - 郵便屋 花へんろシリーズ(1985年 - 1988年、NHK総合)- ナレーション 「南太平洋」- ルーサー・ビリス役 「南の島に雪が降る」 『渥美清 ローマンス劇場』 『渥美清の男性諸君』 第14回NHK紅白歌合戦(1963年、NHK総合・ラジオ第1) - 応援ゲスト コダック ハナマルキ エーザイ フマキラー「ベープ」(アニメCMで渥美清として登場) ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター ロート製薬 「パンシロン」 サントリー「サントリー生ビール ナマ樽」 中外製薬「バルサン」 いすゞ自動車 「エルフ」 東洋水産 「マルちゃんきつねうどん」 日本アイ・ビー・エム 「IBMマルチステーション5550」 日本テレコム 国民年金基金 朝日新聞 パイオニア「DVDレコーダー」(没後に製作) 彼奴ばかりがなぜもてる(1962年) 恋すれど恋すれど物語/もててもてて困ってしまう(1963年、SA-1040) 泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日) オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月) 男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌、アニメ『男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日) ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日) さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月10日) こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(よみうりテレビドラマ「こんな男でよかったら」)(1973年4月5日) いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日) 寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日) 祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日) 渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りII)(1976年6月25日) 浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日) 今日はこれでおしまい (B面:着流し小唄)(1977年10月25日) DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日) 渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日) 渥美清が歌う哀愁の昭和叙情曲集(1970年4月) 噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年) 男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月) 男はつらいよ名場面集(第一集) 男はつらいよ名場面集(第二集) 男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年) 渥美清ベストヒット28(1976年) サンデー毎日 編集部編『渥美清わがフーテン人生』(毎日新聞社、1996年) 渥美清『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』(展望社、2003年) 森英介編『赤とんぼ 渥美清句集』(本阿弥書店、2009年) 父 友次郎:1884年〜1956年10月31日 行年72、戒名は釈友教信士 母 タツ:1892年〜1970年6月13日 行年78、戒名は釈妙達信女 兄 健一郎 1925年〜1947年5月12日 行年22、戒名は釈義健道信士 妻 正子 長男 田所健太郎 株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。 長女 幸恵 南原清隆 - 『渥美清のあぁ、青春日記』(1997年9月24日、フジテレビ) 中村獅童 - 『トットてれび』(2016年、NHK総合) 柄本祐 - 没後20年ドキュメンタリードラマ 『おかしな男〜寅さん夜明け前 渥美清の青春〜』(2016年8月4日、NHK BSプレミアム)(主演) 山崎樹範 - 『トットちゃん!』(2017年、テレビ朝日) 原一平 - 渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認のものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。 佐々木つとむ - 1970年代に人気を博した。 フランクさな寅 - (フランクさな寅ブログ) 広島県で活躍している「広島の寅さん」。TSSのローカルドラマ「親子笑劇場電太郎一家」にドラ猫のドラ役で出演していた。 ^ 板橋区の記録にこのような名前の学校はない。志村尋常高等小学校(現在の板橋区立志村小学校)の誤り(「小林2000」p.368)、もしくは通称と考えられる。 ^ 昭和31年5月末日現在の「関東香具師諸団体組織系統要覧」によると枡屋一家は関東の香具師の団体で、主たる勢力範囲は上野、神田である。 ^ 西東書房の経営者であった七条兼三の右腕で、秋葉原の露店を仕切った野田誠一(秋葉原ラジオ会館副社長)は、霊岸島桝屋宇佐美分家多田三代目菅佐原由之助親分の元若い衆である。 ^ 『阿部サダ一代記』とする資料もある。 ^ アフリカについての逸話は『きょうも涙の日が落ちる』(渥美2003、pp.9-66)や『渥美清わがフーテン人生』(『渥美清わがフーテン人生』、pp.99-154)に詳しい。著書によると47歳の段階で5回(渥美2003、p.83)、『渥美清わがフーテン人生』では48歳で6回、『寅さんは生きている』では生涯6回で50歳を過ぎてからは訪れることはなかったと書かれ(『渥美清わがフーテン人生』、p.107)(『寅さんは行きている』pp.116-119)、1998年9月6日放送日本テレビ「知ってるつもり?!・渥美清」では十数回と述べられている。 ^ その時の実際の写真が、『寅さんは生きている』p.57に掲載されている。 ^ 天ぷら学生とは、大学の学籍がないにも関わらず制服や帽子を被りあたかも学生になりすまして講義を受けたり大学に通う学生のこと(日本俗語辞典より)。 ^ 病に侵されるまでは地元の人々との交流があり、DVDのメイキングシーン(第8作等)やスナップ写真として残されている。 ^ それ以前に健太郎がニッポン放送のディレクターなどの立場で公式の場に出る際は、渥美の長男であることを社外では一切伏せていた。 ^ 放送業界に身を置いていた健太郎も、父に関しては一切伏せていたため、渥美の関係者がニッポン放送関連の仕事で健太郎と面識があったとしても、親族であることは知らなかった。 ^ 渥美の死後に制作された第4部(『新・花へんろ』)では2代目桂枝雀が担当した。 ^ 『海も暮れきる~小豆島の放哉~』1985年8月1日放映、放哉役は橋爪功で、第23回ギャラクシー賞奨励賞を受賞。 ^ 上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のきっかけとなったとされている。 ^ 1995年から逝去後の1997年まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。またこのCMは放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。 ^ 幼少時代の沢田聖子と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ちなみに渥美は前出のブリヂストンのCMと同じく晩年に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していたことがある。 ^ CMのキャッチコピーは「歴史は、あっちこっちでつくられる。」。コピーライターの神様と称される仲畑貴志の手によるものである。 ^ 「小林2000」p.21 ^ 「小林2000」、p.20 ^ 『知識ゼロからの寅さん入門』、p.158 ^ 『渥美清わがフーテン人生』、p.13 ^ 堀切直人2007、p.43 ^ “「渥美清」強烈な印象!天性のコメディアン<第2回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ”. 月刊浅草ウェブ【毎日10時更新!】伝統と革新の交差点「浅草」の魅力を配信. 2021年6月16日閲覧。 ^ 藤田五郎『任侠百年史』笠倉出版社、1980年、p.657 ^ 渥美2003、pp.9-10 ^ 『寅さんは生きている』p.118 ^ 『渥美清わがフーテン人生』、p.54 ^ 週刊テレビ番組(東京ポスト)1984年4月20日号「芸名由来記」70頁 ^ 『渥美清わがフーテン人生』、p.53 ^ 吉岡1997、p.52-54 ^ 吉岡1997、p.56 ^ 『渥美清わがフーテン人生』、pp.72-92 ^ 堀切直人2007、p.68 最初の三か月は規定に従ってフランス座が給料を支給していたがそれ以降は医療扶助けと芸人のカンパだった。 ^ 堀切直人2007、p.75 ^ 堀切直人2007、p.76 この入院中に父親が亡くなっている。 ^ 『渥美清わがフーテン人生』、p.94 ^ 吉岡1997、p.104 ^ “(寅さんの伝言)朝丘雪路さん板の人間土足で舞台上がらず”. 朝日新聞 (2018年1月1日). 2021年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月27日閲覧。 ^ 吉岡1997、p.106 、本書には「睡蓮」とあるが「すいれん」が正しい ^ 「私の履歴書 倍賞千恵子」『日本経済新聞 東京朝刊』日本経済新聞社、2023年12月6日、44面。 ^ “Cinema Clasics”. 2024年4月20日閲覧。 ^ 『寅さんは生きている』p.119 ^ 「ボクのカミサンです / 渥美清」『婦人生活』第23巻第7号、婦人生活社、1969年5月1日、47 - 50頁、NDLJP:2324736/22。 ^ 池田1990、p.16 ^ 「寅さんは生きている」、p.21、p.68 ^ 「寅さんは生きている」pp.68-71 ^ 石坂昌三「評伝・渥美清 『寅さん』渥美清の軌跡」『キネマ旬報』1996年9月下旬号、65頁。 ^ 油井宏之「多チャンネル時代到来で注目される"映画界"の雄『東映』発展の足跡 東映会長・岡田茂インタビュー 『デジタル時代を迎えても即応型の東映は大丈夫だ』」『実業界』1996年11月号、実業界、104–105頁。 ^ 富司純子他「鎮魂、映画の昭和 岡田茂他」『映画芸術』2011年8月号、編集プロダクション映芸、132頁。 ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、145-146頁。ISBN 4-87932-016-1。 ^ 引き抜き、タイトル付け、リストラ…岡田茂氏「伝説」の数々 スポーツ報知2011年5月10日(archive) ^ 瀬川昌治『素晴らしき哉 映画人生!』清流出版、2012年、167-168、172-173頁頁。ISBN 978-4-86029-380-2。 ^ 瀬川昌治と喜劇役者たち〜エノケンからたけしまで - flowerwild.net ──瀬川昌治インタビュー vol.2 ^ 『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』ぴあ、1998年、240頁。ISBN 4-89215-904-2。 ^ 『日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉』キネマ旬報社、1996年、51頁。ISBN 4-87376-188-3。 日本シナリオ作家協会 鈴木尚之 人とシナリオ出版委員会『鈴木尚之 人とシナリオ』日本シナリオ作家協会、1998年、30-31頁。ISBN 4-915048-08-X。 桂千穂「掛札昌裕」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、735頁。ISBN 4-88296-801-0。 ^ 「小林2000」p.369 ^ 「寅さんは生きている」p.59 ^ 堀切直人2007、p.142 ^ 吉村(2017)、pp.381-384。吉村の山田インタビューより ^ 篠原のみ30日と書いている。篠原2019、p.174 ^ 『寅さんは生きている』pp.344-355 ^ 「50周年!男はつらいよぴあ」p.25、倍賞千恵子インタビュー ^ 拝啓 渥美清様2006、p.242、p.261。この時の写真が同ページに掲載されており生前最後の写真とされている ^ 篠原(2019)、p.174。あくまで「こんなオレでもいいんだね」と言ったとされる。 ^ 篠原(2019)、p.204 ^ 篠原(2019)、p.184 ^ 篠原(2019)、p.189 ^ 『寅さんは生きている』、pp121-122 ^ 小林2016、p.428 ^ 篠原(2019)、p.190 ^ 『寅さんは生きている』p.122 ^ 『寅さんは生きている』、p.122 ^ 小林2016、p.427 ^ 篠原2019、pp.172-173 ^ 倍賞1997、p.14 ^ 『松竹百十年史』松竹、2006年2月、461頁。 NCID BA78851713。全国書誌番号:21114533。 ^ 「「寅さん」の大きさずしり 庶民のユートピア お別れの会に長い列」『朝日新聞』1996年8月14日、夕刊、7面。 ^ 「寅さんと2万人が別れ 渥美清さんとお別れする会 鎌倉・大船撮影所」『朝日新聞』1996年8月13日、夕刊、11面。 ^ 「寅さん 永遠の別れ 松竹大船撮影所」『神奈川新聞』1996年8月14日、25面。 ^ 『この世の景色(早坂暁)』pp.148-152 ^ 『寅さんは生きている(日刊スポーツ新聞社文化部)』pp.202-204 ^ 「寅さん、突然の旅立ちから1年 松竹大船撮影所でファンら献花」『朝日新聞』1997年8月4日、夕刊、15面。 ^ 吉岡1997、p.44 ^ 池田1990、p.158 ^ 『讀賣年鑑』第1973巻、670ページ ^ 秋野(2017)、p173。pp.178-182。秋野によると当時のアサヒグラフにも中央大学卒と記されていた ^ 『寅さんは生きている』pp.128-129 ^ 『寅さんは生きている』p.6 ^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より) ^ 「寅さんは生きている」p.69。披露宴の妻正子さん、関、谷の写真も写っている ^ 「『花へんろ』第4部は難産 NHKの名作ドラマ 9年ぶり制作 5-6月6回放送」『読売新聞夕刊』1997年4月8日、7面。 ^ 風天(フーテン): 渥美清のうた p176 ^ 堀切直人2007、pp.193-194 ^ 『寅さんは生きている」p.88-91 ^ “幻の「渥美放哉」”. 読売新聞 (2022年7月15日). 2022年7月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月17日閲覧。 ^ 小林2016、pp.9-22 ^ 小林信彦『おかしな男 渥美清』(新潮文庫、2000年、pp.326-328) ^ 「男はつらいよ DVD BOX」(松竹、2008年10月発売)、監督の特典インタビューにて(2008年収録) ^ シナリオ作家協会発行「シナリオ」1968年8月号収録 ^ 「寅さんは生きている」p.54 ^ 田中秀征『自民党解体論(新装復刻)』p5 ^ https://www.tanakashusei.jp/%E5%AF%B8%E8%A9%B1%E5%AF%B8%E8%A9%95/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E5%9B%9E-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E8%A7%A3%E4%BD%93%E8%AB%96-%E3%81%A8%E7%A7%81/ ^ 寅ちゃんと寅さん(2010年1月1日) - 布袋寅泰公式ブログ ^ 『寅さんは生きている』pp.25-26 ^ 秋野(2017)、pp.134-135。但し下記の出演作品にあるように運転手役には何回か就いている ^ 倍賞1997、pp.17-18 ^ >篠原2019、pp.169-170 ^ 篠原2019、pp.188-1190 ^ 小林2016、p.411 ^ 東宝特撮映画全史 1983, pp. 536–537, 「主要特撮作品配役リスト」 ^ “ドラマ 幾山河は越えたれど-昭和のこころ・古賀政男”. NHK. 2021年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月27日閲覧。 ^ “渥美清のああ、青春日記 国民的英雄「寅さん」の過去に迫る!死の恐怖を乗り越え愛と友情に生きた日々”. テレビドラマデータベース. 2016年8月22日閲覧。 ^ “満島ひかり、黒柳徹子役に決定 NHKドラマ『トットてれび』出演者発表”. ORICON STYLE (2016年2月26日). 2016年2月26日閲覧。 映画全史1983">『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5。 池田荘太郎「男はつらいよ」うちあけ話(主婦と生活社、1990) さらば友よ(関敬六、ザ・マサダ、1996年) 吉岡範明『渥美清 役者もつらいよ』(双葉社、1996) 日刊スポーツ新聞社文化部編『寅さんは生きている』(朝日ソノラマ、1997) 倍賞千恵子『お兄ちゃん』(廣済堂出版、1997) 生きてんの精いっぱい 人間・渥美清(篠原靖治、主婦と生活社、1997年) 渥美清晩節、その愛と死:最後の付き人が見守った「寅さん」一四年間の真実(篠原靖治、祥伝社、2003年)
渥美清の伝言(NHK「渥美清の伝言」制作班編、KTC中央出版、1999年) おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮社、2000年)
おかしな男 渥美清(小林信彦、ちくま文庫、2016年) 拝啓 渥美清様(読売新聞社会部編、中央公論新社、2000年)
知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫、2002年) 渥美清 浅草・話芸・寅さん(堀切直人、晶文社、2007年) 渥美清の肘突き:人生ほど素敵なショーはない(福田陽一郎、岩波書店、2008年) 吉村英夫『「男はつらいよ」の世界』(集英社、2017) 私が愛した渥美清(秋野太作、光文社、2017年) 文人たちの俳句(坂口昌弘、本阿弥書店、2014年) 「50周年!男はつらいよ ぴあ」(ぴあ、2019) 川本三郎監修、岡本直樹・藤井勝彦著『知識ゼロからの寅さん入門』(幻冬舎、2019) 柴又八幡神社古墳 - 2001年8月4日(渥美の命日)に出土した人物埴輪頭部が、車寅次郎に似ているとして「寅さん埴輪」と呼ばれている。 柴又寅さん記念館(葛飾区)公式ホームページ 渥美清 - テレビドラマデータベース 渥美清 - 日本映画データベース 渥美清 - allcinema 渥美清 - KINENOTE 渥美清 - MOVIE WALKER PRESS 渥美清 - IMDb(英語) 渥美清 - NHK人物録 表 話 編 歴 1977年(昭和52年):王貞治 1978年(昭和53年):古賀政男 1984年(昭和59年):長谷川一夫 1984年(昭和59年):植村直己 1984年(昭和59年):山下泰裕 1987年(昭和62年):衣笠祥雄 1989年(平成元年):美空ひばり 1989年(平成元年):千代の富士貢 1992年(平成4年):藤山一郎 1992年(平成4年):長谷川町子 1993年(平成5年):服部良一 1996年(平成8年):渥美清 1998年(平成10年):吉田正 1998年(平成10年):黒澤明 2000年(平成12年):高橋尚子 2009年(平成21年):遠藤実 2009年(平成21年):森光子 2009年(平成21年):森繁久彌 2012年(平成24年):吉田沙保里 2013年(平成25年):大鵬幸喜 2013年(平成25年):長嶋茂雄 2013年(平成25年):松井秀喜 2016年(平成28年):伊調馨 2018年(平成30年):羽生善治 2018年(平成30年):井山裕太 2018年(平成30年):羽生結弦 2023年(令和5年):国枝慎吾 2011年(平成23年):ワールドカップ日本女子代表 表 話 編 歴 1 男はつらいよ 2 続・男はつらいよ 3 フーテンの寅 4 新・男はつらいよ 5 望郷篇 6 純情篇 7 奮闘篇 8 寅次郎恋歌 9 柴又慕情 10 寅次郎夢枕 11 寅次郎忘れな草 12 私の寅さん 13 寅次郎恋やつれ 14 寅次郎子守唄 15 寅次郎相合い傘 16 葛飾立志篇 17 寅次郎夕焼け小焼け 18 寅次郎純情詩集 19 寅次郎と殿様 20 寅次郎頑張れ! 21 寅次郎わが道をゆく 22 噂の寅次郎 23 翔んでる寅次郎 24 寅次郎春の夢 25 寅次郎ハイビスカスの花 26 寅次郎かもめ歌 27 浪花の恋の寅次郎 28 寅次郎紙風船 29 寅次郎あじさいの恋 30 花も嵐も寅次郎 31 旅と女と寅次郎 32 口笛を吹く寅次郎 33 夜霧にむせぶ寅次郎 34 寅次郎真実一路 35 寅次郎恋愛塾 36 柴又より愛をこめて 37 幸福の青い鳥 38 知床慕情 39 寅次郎物語 40 寅次郎サラダ記念日 41 寅次郎心の旅路 42 ぼくの伯父さん 43 寅次郎の休日 44 寅次郎の告白 45 寅次郎の青春 46 寅次郎の縁談 47 拝啓車寅次郎様 48 寅次郎紅の花 49 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇 50 お帰り 寅さん 渥美清 倍賞千恵子 山田洋次 小林俊一 森崎東 山本直純 柴又 柴又帝釈天 柴又駅 京成金町線 高木屋老舗 虹をつかむ男 フーセンのドラ太郎 悪童 小説 寅次郎の告白 贋作 男はつらいよ 松竹 京成電鉄 寅さん公園 葛飾柴又寅さん記念館 フジテレビ(CX木曜22:00ドラマ) 表 話 編 歴 第1回
八代目松本幸四郎 間宮芳生 第2回
土門拳 第3回
小林正樹 安川加壽子 第4回
内村直也 八代目坂東三津五郎 第5回
新藤兼人 第6回
三島由紀夫 第7回
市川崑 第8回
滝沢修 岡田謙三 第9回
第10回
茂木草介 東山魁夷 岩田藤七 第11回
平野謙 棟方志功 第12回
山田洋次 第13回
白川義員 第14回
宇野重吉 第15回
第16回
山田五十鈴 第17回
倉本聰 第18回
森繁久彌 第19回
黒川紀章 第20回
飯沢匡 林忠彦 第21回
篠山紀信 前進座 第22回
篠田一士 若杉弘 越路吹雪 第23回
藤原新也 第24回
八代目松本幸四郎 林康子 第25回
朝比奈隆 三代目市川猿之助 磯崎新 第26回
佐々木昭一郎 山本安英 第27回
第28回
安藤忠雄 NHK交響楽団 第29回
深町幸男 第30回
吉田簑助 渥美清 第31回
木下順二 第32回
本多秋五 森光子 第33回
第34回
佐々木昭一郎 山田太一 第35回
松村禎三 橋田壽賀子 第36回
幸田弘子 横尾忠則 第37回
江成常夫 ひょうご舞台芸術「GHETTO」 第38回
小栗康平 黒柳徹子 馬場あき子 第39回
入沢康夫 五代目坂東玉三郎 宮崎駿 第40回
森澄雄 十三代目片岡仁左衛門 第41回
岡井隆 河野多惠子 高倉健 第42回
大島渚 吉永小百合 第43回
麻実れい 鷹羽狩行 第44回
小澤征爾 清岡卓行 第45回
七代目竹本住大夫 第46回
前登志夫 観世栄夫 沼尻竜典 第47回
三木卓 奈良岡朋子 西村朗 李禹煥 第48回
篠弘 司修 二代目中村吉右衛門 篠原有司男 第49回
野田秀樹 平岩弓枝 細江英公 森山良子 第50回
舟越桂 永井路子 七代目尾上菊五郎 石内都 第51回
隈研吾 関正人 辻原登 遠山慶子 金子兜太 第52回
大峯あきら 村上龍 森村泰昌 吉田都 加山雄三 第53回
菊畑茂久馬 津島佑子 豊竹咲大夫 坂茂 由紀さおり 第54回
辰野登恵子 谷村新司 テレビマンユニオン 十代目坂東三津五郎 荒木経惟 第55回
平幹二朗 青木野枝 佐伯一麦 永六輔 第56回
鍵和田秞子 隠崎隆一 船本芳雲 柳家小三治 松浦寿輝 第57回
桐竹勘十郎 庄司紗矢香 菅木志雄 宮城谷昌光 是枝裕和 第58回
河口龍夫 黒沢清 筒井康隆 堤剛 坂本冬美 第59回
遠藤利克 髙村薫 仲川恭司 山路和弘 熊川哲也 第60回
栗木京子 内藤礼 永井愛 宮本輝 大林宣彦 第61回
逢坂剛 草笛光子 佐藤俊介 塩田千春 今野勉 第62回
西澤徹夫 鵜山仁 鴻池朋子 高樹のぶ子 水原紫苑 「半沢直樹」 第63回
皆川博子 下谷洋子 高橋睦郎 三島喜美代 吉野直子 第64回
遠藤彰子 加藤健一 桐野夏生 永田和宏 表 話 編 歴 森雅之(1955) 佐田啓二(1956) フランキー堺(1957) 市川雷蔵(1958) 船越英二(1959) 小林桂樹(1960) 三船敏郎(1961) 仲代達矢(1962) 勝新太郎(1963) 山村聰(1964) 三國連太郎(1965) 小沢昭一(1966) 市川雷蔵(1967) 三船敏郎(1968) 渥美清(1969) 井川比佐志(1970) 佐藤慶(1971) 井川比佐志(1972) 菅原文太(1973) 萩原健一(1974) 佐分利信 (1975) 水谷豊(1976) 高倉健(1977) 緒形拳(1978) 若山富三郎(1979) 渡瀬恒彦(1980) 永島敏行(1981) 根津甚八(1982) 松田優作(1983) 山﨑努(1984) 北大路欣也(1985) 内田裕也(1986) 時任三郎(1987) 真田広之(1988) 三國連太郎(1989) 岸部一徳(1990) 三國連太郎(1991) 原田芳雄(1992) 真田広之(1993) 奥田瑛二(1994) 真田広之(1995) 役所広司(1996) 役所広司(1997) 柄本明 (1998) 高倉健 (1999) 原田芳雄(2000) 窪塚洋介(2001) 真田広之(2002) 妻夫木聡(2003) ビートたけし (2004) オダギリジョー (2005) 渡辺謙(2006) 加瀬亮(2007) 本木雅弘(2008) 笑福亭鶴瓶(2009) 豊川悦司(2010) 原田芳雄(2011) 森山未來(2012) 松田龍平(2013) 綾野剛(2014) 二宮和也(2015) 柳楽優弥(2016) 菅田将暉(2017) 柄本佑(2018) 池松壮亮(2019) 森山未來(2020) 役所広司(2021) 沢田研二(2022) 役所広司(2023) 表 話 編 歴 山村聰(1950) 三船敏郎(1951) 森繁久彌(1955) 佐田啓二(1956) フランキー堺(1957) 市川雷蔵(1958) 長門裕之(1959) 三國連太郎(1960) 三船敏郎(1961) 仲代達矢(1962) 中村錦之助(1963) 小林桂樹(1964) 三船敏郎(1965) ハナ肇(1966) 菅原文太(1975) 渡哲也(1976) 高倉健(1977) 緒形拳(1978) 若山富三郎(1979) 仲代達矢(1980) 永島敏行(1981) 渥美清(1982) 緒形拳(1983) 山﨑努(1984) 千秋実(1985) 田中邦衛(1986) 陣内孝則(1987) ハナ肇(1988) 三國連太郎 (1989) 原田芳雄(1990) 竹中直人(1991) 本木雅弘(1992) 真田広之(1993) 奥田瑛二(1994) 真田広之(1995) 役所広司(1996) 役所広司(1997) ビートたけし(1998) 高倉健(1999) 織田裕二(2000) 野村萬斎(2001) 佐藤浩市(2002) 西田敏行(2003) 寺尾聰(2004) 真田広之(2005) 渡辺謙(2006) 加瀬亮(2007) 本木雅弘(2008) 笑福亭鶴瓶(2009) 妻夫木聡(2010) 竹野内豊(2011) 阿部寛(2012) 高良健吾(2013) 浅野忠信(2014) 大泉洋(2015) 松山ケンイチ(2016) 阿部サダヲ(2017) 舘ひろし(2018) 中井貴一(2019) 草彅剛(2020) 岡田准一(2021) 二宮和也(2022) 神木隆之介(2023) 括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) 作品賞 監督賞 主演男優賞 主演女優賞 助演男優賞 助演女優賞 新人賞 表 話 編 歴 小沢栄太郎(1946) 森雅之(1947) 笠智衆(1948) 志村喬(1949) 佐分利信(1950) 笠智衆(1951) 佐分利信(1952) 上原謙(1953) 山村聰(1954) 森繁久彌(1955) 佐田啓二(1956) 三船敏郎(1957) 小林桂樹(1958) 船越英二(1959) 小林桂樹(1960) 仲代達矢(1961) 殿山泰司(1962) 小林桂樹(1963) 西村晃(1964) 三國連太郎(1965) 小沢昭一(1966) 田中邦衛(1967) 寺田農(1968) 渥美清(1969) 井川比佐志(1970) 勝新太郎(1971) 地井武男(1972) 丹波哲郎(1973) 三國連太郎(1974) 佐分利信(1975) 渡哲也(1976) 高倉健(1977) 緒形拳(1978) 若山富三郎(1979) 仲代達矢(1980) 田村高廣(1981) 西村晃(1982) 緒形拳(1983) 山﨑努(1984) 北大路欣也(1985) 奥田瑛二 (1986) 津川雅彦(1987) ハナ肇(1988) 三國連太郎(1989) 古尾谷雅人(1990) 永瀬正敏(1991) 長塚京三(1992) 岸谷五朗(1993) 奥田瑛二(1994) 役所広司(1995) 役所広司(1996) 原田芳雄(1997) 本木雅弘(1998) 小林桂樹(1999) 浅野忠信(2000) 三橋達也(2001) 真田広之(2002) 西田敏行(2003) ビートたけし(2004) 浅野忠信(2005) 佐藤浩市(2006) 国分太一(2007) 阿部寛(2008) 松山ケンイチ(2009) 堤真一(2010) 森山未來(2011) 夏八木勲(2012) 松田龍平 (2013) 綾野剛(2014) 塚本晋也(2015) 本木雅弘(2016) 菅田将暉(2017) 柄本佑 (2018) 成田凌(2019) 森山未來(2020) 佐藤健(2021) 沢田研二(2022) 鈴木亮平(2023)--> 括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) 表 話 編 歴 渥美清(1988) 奥田瑛二(1989) 原田芳雄(1990) 三國連太郎(1991) 原田芳雄(1992) 西田敏行(1993) 佐藤浩市(1994) 真田広之(1995) 役所広司(1996) 渡哲也(1997) 柄本明(1998) 本木雅弘(1999) 寺尾聰(2000) 竹中直人(2001) 真田広之(2002) 中井貴一(2003) ビートたけし(2004) 市川染五郎(2005) 渡辺謙(2006) 木村拓哉(2007) 中居正広(2008) 笑福亭鶴瓶(2009) 妻夫木聡(2010) 松山ケンイチ(2011) 高倉健 (2012) 松田龍平(2013) 岡田准一(2014) 高良健吾(2015) 佐藤浩市(2016) 菅田将暉(2017) 松坂桃李(2018) 池松壮亮(2019) 小栗旬(2020) 西島秀俊(2021) 阿部寛(2022) 鈴木亮平(2023) FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research MusicBrainz 渥美清 日本の男優 日本の男性コメディアン 演歌歌手 ヤクザ映画の俳優 日本のラジオパーソナリティ 日本のナレーター 松竹の俳優 日本クラウンのアーティスト 紫綬褒章受章者 国民栄誉賞受賞者 日本のカトリック教会の信者 結核に罹患した人物 肺癌で亡くなった人物 巣鴨中学校・高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 1928年生 1996年没 無効な出典が含まれている記事/2022年 2024/11/29 16:10更新
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atsumi kiyoshi
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