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湯川秀樹の情報 (ゆかわひでき)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

湯川秀樹の情報(ゆかわひでき) 物理学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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湯川 秀樹さんについて調べます

■名前・氏名
湯川 秀樹
(読み:ゆかわ ひでき)
■職業
物理学者
■湯川秀樹の誕生日・生年月日
1907年1月23日 (年齢74歳没)
未年(ひつじ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
東京出身

湯川秀樹と同じ1907年生まれの有名人・芸能人

湯川秀樹と同じ1月23日生まれの有名人・芸能人

湯川秀樹と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


湯川秀樹と関係のある人

羽川英樹: 湯川秀樹にあやかり、「ひでき」と名付けられる。


月丘夢路: なお、月丘はこのニューヨーク滞在中、1949年に日本人初のノーベル賞(ノーベル物理学賞)を受賞し、当時コロンビア大学の教授としてニューヨークに赴任していた湯川秀樹・湯川スミ夫妻に面会している。


谷川安孝: 『アインシュタイン選集1――特殊相対性理論・量子論・ブラウン運動――』 、共立出版、湯川秀樹監修、中村誠太郎、井上健共訳・編集、1971年。


谷川安孝: 『湯川秀樹著作集〈10〉欧文学術論文』、河辺六男共著、岩波書店、1990年2月。


坂田昌一: 選考から50年以上後にノーベル賞委員会が公表した1969年の候補者リストに坂田の名はなく、没年となった翌1970年に湯川秀樹の推薦で西島和彦・中野董夫とともに候補となったのが唯一のノミネートだった。


菊池正士: 『原子核及び元素の人工転換』 湯川秀樹 共著、岩波書店、1940年


小室直樹: 会津高校在学中に湯川秀樹博士のノーベル賞受賞を聞くと、日本がアメリカ合衆国を打ち倒し、世界から尊敬を受けることができるようになる国になるための研究ができると思い、京大理学部を志望。


坂田昌一: 湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした。


谷川徹三: 九十にして惑う 対談集(竹井出版、1986年)湯川秀樹・田中美知太郎らとの対談


服部金太郎: 後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹も、この会の援助を受けていた。


小川岩雄: 湯川秀樹の甥にあたる。


荒勝文策: また、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞を記念して京都大学に基礎物理学研究所設立を行なった中心人物の一人でもあった。


石川一郎: 正力松太郎委員長(国務大臣・科学技術庁長官)のもと、委員には石川のほか、湯川秀樹、藤岡由夫、有澤廣巳らが選ばれ、石川は委員長代理となった。


宮沢俊義: 政府の動きに対抗すべく、1958年6月8日、大内兵衛、宮澤俊義、我妻栄、清宮四郎、茅誠司、恒藤恭、矢内原忠雄、湯川秀樹ら8人が発起人となり「憲法問題研究会」が結成され、50人あまりの知識人が同研究会に集まった。


市川知宏: 天才を育てた女房(2018年2月23日、日本テレビ) - 湯川秀樹


後藤秀機: 「日本人ノーベル賞受賞者の素顔と業績―それは湯川秀樹から始まった」2016年


武谷三男: 武谷は、その生きた時代、湯川秀樹・朝永振一郎・坂田昌一と並び称された。


朝永振一郎: 湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であった。


澤野久雄: 湯川秀樹の自伝『旅人』が朝日新聞に連載されたとき、同新聞社学芸部の記者をしていた澤野は、これに協力した。


武谷三男: 台北高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業後、湯川秀樹、坂田昌一の共同研究者として、原子核・素粒子論の研究を進めた。


奥田東: 同窓生には朝永振一郎、桑原武夫、湯川秀樹らがおり、全員が旧制高校と大学も一緒で、かつ後に京都大学の教授となっている。


谷川徹三: 宇宙と心の世界(対談湯川秀樹、読売新聞社、1969年)


東久邇宮稔彦王: 1948年(昭和23年)には、尾崎行雄・賀川豊彦・下中弥三郎・湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現在の世界連邦運動協会)を創設した。


貝塚茂樹: 三弟は湯川秀樹(物理学、日本人初のノーベル賞受賞者(物理学賞))。


笠信太郎: また、恒久平和の実現を目指して、湯川秀樹らと共に世界連邦運動を提唱し続けており、1958年の元旦と1月16日の朝日新聞には「世界連邦を日本の国是とせよ」という社説を掲げている。


長岡半太郎: 長岡は1939年(昭和14年)、スウェーデンのノーベル委員会に湯川秀樹への授賞を推薦している。


大内兵衛: これを受けて1958年6月8日、大内、宮澤俊義、我妻栄、清宮四郎、茅誠司、恒藤恭、矢内原忠雄、湯川秀樹ら8人が発起人となり「憲法問題研究会」が結成された。


谷川安孝: 1949年に日本人で初めてノーベル賞(ノーベル物理学賞)を受賞した湯川秀樹に師事し、1942年に坂田昌一、井上健と共に中間子とミュー粒子は別種であり、中間子はミュー粒子より重く、中間子が自然崩壊してミュー粒子に変化するという二中間子説を提唱した学者として知られている。


フョードル=ドストエフスキー: ソルジェニーツィンやチェーホフ、ニーチェ、サルトル、ウィトゲンシュタイン、アインシュタイン、日本人では、黒澤明、湯川秀樹、小林秀雄、大江健三郎、村上春樹、三島由紀夫、埴谷雄高などの多くの人物に影響を与えた。


大佛次郎: 1962年に第1回科学者京都会議に出席、湯川秀樹らと核実験停止、軍縮、平和運動に加わった。


湯川秀樹の情報まとめ

もしもしロボ

湯川 秀樹(ゆかわ ひでき)さんの誕生日は1907年1月23日です。東京出身の物理学者のようです。

もしもしロボ

学術的業績、師匠・弟子・同僚および関係者などについてまとめました。卒業、兄弟、結婚、現在に関する情報もありますね。74歳で亡くなられているようです。

湯川秀樹のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年(明治40年)1月23日 - 1981年(昭和56年)9月8日)は、日本の物理学者(理論物理学)。学位は、理学博士(大阪帝国大学・1938年)。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。1943年(昭和18年)文化勲章。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。

京都府京都市出身。 原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。

1907年(明治40年)1月23日、東京府東京市麻布区市兵衛町(現:東京都港区六本木)に地質学者・小川琢治(旧姓 浅井)と小雪の三男として生まれる。のちに湯川スミに入婿し湯川秀樹と改姓する。

1908年(明治41年)、1歳の時に父・琢治(和歌山県出身)の京都帝国大学教授就任に伴い、一家は京都府京都市に移住する。このため、麻布の家には誕生後1年2ヶ月しか住んでない。

1歳から大学までは京都、大学を出て一時大阪や西宮にいたこともあるが、人生の大半は京都で過ごしたことになる(ただし、ノーベル賞受賞の対象となった中間子論を発表したのは、湯川が大阪帝国大学に勤めていた時であり、当時は西宮の苦楽園で生活していた)。

湯川は自伝に「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記している。

母方の祖父・駒橘は元紀州藩の藩士であり、また湯川家自体が先祖代々和歌山県出身であるため“和歌山出身”と紹介されることもあるが、本人は京都市出身と称している。

和歌山県出身の実業家・松下幸之助の郷里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同郷ということで湯川の筆によって書かれたが、湯川本人は和歌山で暮らした経験はない。

5、6歳の頃、祖父・小川 駒橘より漢籍の素読を習った。駒橘は漢学の素養が豊富で、明治以後は洋学を学び、晩年までずっと『ロンドン・タイムズ』を購読し続けた人物であるという。湯川は自伝に「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している。

京都市立京極小学校卒業後、1919年(大正8年)、京都府立京都第一中学校に入学する。中学時代の湯川はあまり目立たない存在であり、あだ名は「権兵衛」だった。また、物心ついてからほとんど口を利かず、面倒なことは全て「言わん」の一言で済ませていたため「イワンちゃん」とも呼ばれていたが、案外『イワンのばか』から取ったのではないかと自分で考えた時期もあった。この無口さが理由で父の琢治から「何考えているのやらわからん」と疎んじられ、他の兄弟に比べて能力を低く見られ、大学進学は諦めさせて専門学校へでもやろうかと考えられていた時期もあった。京都一中の同期には学者の子供が多く、後に学者になった者も多かったという。同じくノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎は一中で1年上、三高・京大では同期だった。

1929年(昭和4年)、京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。1932年(昭和7年)、京都帝国大学講師。1933年(昭和8年)、東北帝国大学で日本数学物理学会年会が開催された時に八木秀次と知り合い、当時大阪帝国大学理学部物理学科(は塩見理化学研究所)の初代主任教授に就任した八木に頼んで大阪帝国大学講師を兼担することになる。

教え子の間では、声が小さく講義はかなり難解であったと伝えられている。この頃、大阪胃腸病院(1950年に湯川胃腸病院と改称)の院長:湯川玄洋の次女湯川スミ(本名は澄子)と結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。

大阪帝国大学に移籍後、全く成果が出ない湯川を八木はさらに勉学に努めるよう注意した上で、「本来なら朝永君(朝永振一郎)に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」とまで叱責した。内山龍雄によれば、八木は口の悪いことで有名だったという。

1934年(昭和9年)に中間子理論構想を、翌1935年(昭和10年)に「素粒子の相互作用について」を発表し、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言する。未知の新粒子の存在を主張する学説に対し、欧米諸国の科学者の多くは否定的であり、量子論の開拓者であるニールス・ボーアは1937年の訪日の際、「君はそんなに新粒子がつくりたいのかね」と湯川を批判したという。日中戦争の激化に伴い欧米諸国から孤立しつつあった日本の科学者は海外からなかなか評価されなかった。しかし、中間子によく似た重さの新粒子(「ミュー粒子」)が宇宙から地球へと降り注ぐ「宇宙線」のなかから見つかったとカール・デイヴィッド・アンダーソンが発表したことで、湯川の中間子論は世界的に注目されるようになった。

湯川は1939年のソルベー会議に招かれた。会議自体は第二次世界大戦勃発で中止されたものの、渡米してアインシュタインらと親交を持った。こうした業績が評価され、1940年(昭和15年)に学士院恩賜賞を受賞、1943年(昭和18年)には最年少で文化勲章受章した。太平洋戦争末期の1945年6月には、日本海軍を中心とする原爆開発プロジェクト(F研究)の打ち合わせに招請されたが、開発が本格化する前に日本は敗戦を迎えた。広島市への原子爆弾投下について解説を求める新聞社の依頼を湯川は断ったが、戦後は日本を占領したアメリカ軍から事情を聴かれている。こうした経緯を記した日記が2017年12月、京都大学の湯川記念館史料室により公開されている。

1947年(昭和22年)にセシル・パウエル等が実際にπ中間子を発見したことで1949年(昭和24年)11月3日にノーベル物理学賞を受賞した。これはアジア人としては作家のタゴールや物理学者のチャンドラセカール・ラマンに次ぐ3人目の受賞者だったが、日本人として初めてのノーベル賞受賞だった。ニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えた。なお、2000年に湯川のノーベル賞選考関連文書を調査した岡本拓司は、推薦状の大半が外国の推薦者から出されていた点などを挙げ、「ノーベル賞の歴史の中でもまれなほど、研究成果との関係が明瞭であるように思われる」と述べている。

戦後は非局所場理論・素領域理論などを提唱したが、理論的な成果には繋がらなかった。一方、マレー・ゲルマンのクォーク理論については「電荷が1/3とか2/3とか、そんな中途半端なものが存在する訳がない。」と否定的であった。

またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。上記のように、戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原爆開発に関与したことが確認されている。

1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが、森一久らになだめられ踏み止まった。その後も正力との対立は深まり、結局体調不良を理由に翌1957年には在任1年3か月で辞任した。

1956年(昭和31年)1月、宮中歌会始に召人として臨み「春浅み藪かげの道おほかたは すきとほりつつ消えのこる雪」を詠んだ。1970年(昭和45年)、京都大学を退官し京都大学名誉教授となる。晩年には生物学にも関心を抱き、特に生命現象における情報の役割に関心を抱いた。また、江戸時代後期の思想家三浦梅園への傾倒を深めた。揮毫を頼まれると、しばしば『荘子』の「秋水」の最後の一句から「知魚樂」(魚ノ楽シミヲ知ル)と書した。

1966年にはノーベル平和賞の候補者に推薦されていたことが、ノーベル財団の公表した候補者リストにより判明している。

京都大学退官後の1975年(昭和50年)に前立腺癌を発症し、手術を受ける。手術により癌の進行は抑えたが、その後は自宅で療養を続けながら学術活動を行っていた。米ソ両国の緊張激化を受け、第4回科学者京都会議の発起人の一人となって1981年(昭和56年)6月、15年ぶりに開催を実現する。このときすでに健康状態が悪化しており、会議には車椅子姿で出席して核廃絶を訴えた。3か月後の同年9月、急性肺炎から心不全を併発し、京都市左京区の自宅で死去する。74歳没。墓所は京都市東山区の知恩院にある。邸宅は没後40年を経て2021年9月に京大に寄付された。大学は整備し研究者や来客者向けの施設に活用を公表している。

広島平和公園にある若葉の像の台座には、湯川による短歌「まがつびよ ふたたびここにくるなかれ 平和をいのる人のみぞここは」が刻まれている。

学術的業績

強い力の理論・中間子

4つの力(重力、電磁力、強い力、弱い力)(基本相互作用)のうちの強い力をどのように定式化すればよいか、当時問題になり、いろいろな試みがなされたが、成功しなかった。

湯川は、電子の200倍の質量を持つ中間子を、力の媒介粒子(ボーズ粒子)と仮定して、核力である強い力を導くことに成功した。さらに、強い力からフェルミの弱い力を導いた。中間子論は、弱い力、強い力、両方を含む理論として、当時は最も基本的な場の理論であるとみなされた。また、力を粒子が媒介することをも明瞭に示し、場を生み出す粒子という考えを定着させた。

ただし、電子が強い力を伝えるという考えをハイゼンベルクが湯川以前に提示している。しかし、電子は以前から存在が知られ、理論としても失敗だったので、場を担う粒子という考えは、確立されていなかった。ハイゼンベルクやボーアは、観察されていない素粒子で場を説明する湯川に否定的であった。ボーアは湯川に、ハイゼンベルクは朝永にこのことを告げている。

以上の理由で、湯川の、強い力を生み出す中間子論は素粒子論の扉を開いたと、当時評価された。湯川は、強い力の中間子論でノーベル賞をもらったが、これに驚き、自身のこれ以後の仕事を、場の量子論で自ら見出した問題の解決に力を注いだ。しかし、この研究は成功しなかった。

因果律の破れの提起

ミンコフスキー空間上での閉曲面での確率振幅を定義すると、因果律が破れると言う問題を湯川は提起し、この問題に生涯をかけた(この問題を湯川の丸○と言う。湯川がこの問題を提起後、ディラックも同じ問題を提起している)。

朝永の寄与はあったが、この問題はいまだに解決されていないと超対称性を世界で最初に提起した宮沢弘成は主張している。物理学は湯川の基本問題を回避して、現象論に走ったと。

湯川以前は一定時間で確率振幅は定義されていた。

師匠・弟子・同僚および関係者

岡潔:多変数複素関数論の建設者で、圏論の基になる概念を示す。湯川や朝永は授業を聞き、非常に刺激的だったと述べる。難問は条件を付けず、一気に解かねば解けないと主張。

朝永振一郎:同期。互いに刺激を受け、研究面でも密接な関係があり、ライバル。業績は、超多時間論、繰り込みなど多岐にわたる。強い力(中間子)の現象論的な式を湯川に述べる。

小林稔:湯川秀樹博士の中間子論建設に協力する。湯川記念館、基礎物理学研究所の設立、英文論文誌 Progress of Theoretical Physics 創刊に尽力。

坂田昌一:2中間子論、無限発散を防ぐC中間子、坂田モデル(クォークの原型)、2ニュートリノ。

谷川安孝:2中間子論の原案を提唱。

武谷三男:3段階論で、方法論を活発に論じる。南部陽一郎が武谷方法論に影響され、データからモデルを創るという方法を取るようになるなど、多くの影響を与えた。

内山龍雄:ゲージ理論の先駆者の一人。

宮沢弘成:超対称性を世界で最初に提起した。湯川の因果律の破れの問題を、今の物理は放棄し、現象論に走ったと主張する。

寺本英:生物物理、数理生物学の開拓者。

林忠四郎:宇宙物理学者、林フェーズの発見。

孫弟子には、現在活躍する数多くの理論物理・物性物理・宇宙物理・天文・数理生物学者が含まれている。

2024/06/16 02:29更新

yukawa hideki


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