笑福亭鶴瓶の情報(しょうふくていつるべ) 落語家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
笑福亭 鶴瓶さんについて調べます
■名前・氏名 |
笑福亭鶴瓶と関係のある人
星乃夢奈: 転校生「笑福亭鶴瓶」編 中井貴一: 同年代の真田広之や佐藤浩市、柳葉敏郎、『ふぞろいの林檎たち』で共演した時任三郎、柳沢慎吾、『東京上空いらっしゃいませ』で共演した笑福亭鶴瓶、さらには同じ世田谷区出身の三谷幸喜、とんねるずの木梨憲武らと親交が深い。 羽野晶紀: 笑福亭鶴瓶が司会を務めた関西ローカル番組『9年9組つるべ学級』に出演し芸能界デビュー。 明石家さんま: 同期で盟友の島田紳助をはじめ、中居正広、笑福亭鶴瓶、所ジョージ、中村勘三郎、桑田佳祐、元妻の大竹しのぶ、娘のIMALUなどから「話を盛る」「話していることの九割は嘘」「どうしてそんなに嘘がつけるの?」などと辛辣な発言をされるのがお約束の流れである。 海原かなた: (2015年 笑福亭鶴瓶が短時間、なんばグランド花月の新喜劇の舞台に立った。 早見あかり: 2015年には、笑福亭鶴瓶が司会を務めるトーク番組『A-Studio』(TBSテレビ)の7代目アシスタントに抜擢され、2016年3月まで務める。 乾き亭げそ太郎: 2007年(平成19年)1月放送の『バカ殿様』ではゲストに笑福亭鶴瓶が登場したが、志村けんとプライベートのことでやりあった際、鶴瓶に「こいつがすべてを知っている」と指を差される場面があった。 大川周明: 『二つの祖国』(2019年、演:笑福亭鶴瓶) 黒田有: 初対面の笑福亭鶴瓶に「3万円を貸してください」とお願いして貸してもらった。 西寄ひがし: 鶴瓶噺は30年ほど通い続けており、地方にも出向くほどの笑福亭鶴瓶ファンである。 せいや: 笑福亭鶴瓶 田口万莉: 番組内では、笑福亭鶴瓶ほかパーソナリティから、"マリリン"の愛称で呼ばれている。 笠置シヅ子: 若手時代の笑福亭鶴瓶はシズ子と垂れ目で顔が似ていることもあり、自己紹介のつかみでメガネを外して「私の母は笠置シズ子です」と言うことがあり、テレビ番組『突然ガバチョ!』(毎日放送)でメガネを外して、CMのシズ子に倣った割烹着姿で登場して、コントを演じていた。 木下隆行: エースコック「スーパーカップ」(2018年) - 笑福亭鶴瓶と共演 中川順: 東京12チャンネルの社長に就任した頃、会社の池の鯉をかわいがっていたが、ある日、笑福亭鶴瓶が笑いを取るために池に飛び込んだ際に踏み殺された。中川は激怒し、笑福亭鶴瓶は長きにわたり出入り禁止となった。 山城新伍: また当時東京に進出したばかりの笑福亭鶴瓶が番組ディレクターの傲慢な態度に立腹し、同局の社長であった中川順が飼っていた錦鯉を踏み殺すという暴挙に出て、同局を出入り禁止になった彼を庇った事も一因といわれる。 オダギリジョー: 笑福亭鶴瓶のすわるテレビ(2015年12月21日、毎日放送)- ナレーション 横矢勲: 当初関西ローカルのCMだったが、笑福亭鶴瓶が『鶴瓶上岡パペポTV』(読売テレビ)で「何やあのCMは!」と驚愕したことから話題になり、後に全国区で流れるようになった。 林家木りん: 親交のある笑福亭鶴瓶が出演するテレビ東京系『きらきらアフロ』を見学に行った際に突然カメラの前に引っ張り出され、どうしていいか分からなくなったところで鶴瓶がフォローしてくれたことがある。 豊川悦司: 1番のお気に入り番組は映画『後妻業の女』の共演者でもある笑福亭鶴瓶の冠番組『鶴瓶の家族に乾杯』である。 瑛太: 好きな芸人はビートたけし、笑福亭鶴瓶、爆笑問題など。 中居正広: 2016年の熊本地震では1回目は単身(4月25日)、2回目以降は笑福亭鶴瓶・岡村隆史(5月7日)や香取慎吾(5月15日)と共に避難所や学校を訪れてラーメンやチャーハンの炊き出しや、アイスクリームや携帯用ゲーム機などを配ったり、マッサージチェア1台と電動足もみ器3台や子供向けのおもちゃなどを贈呈するといった活動を行った。 立川志の輔: 2006年からは東京でも開催し、ゲストに笑福亭鶴瓶が昼夜公演に飛び入り出演した(鶴瓶はその後、富山公演にも県外出身者ながら特別出演した)。 波瑠: 『A-Studio』や『あさが来た』で一緒に仕事をしたことのある笑福亭鶴瓶は、波瑠について「しっかりしてるし、度胸あるし、あっさりしてるし、男っぽい」と語っている。 笑福亭純瓶: 水泳コーチを経て、1984年6月に笑福亭鶴瓶に入門(3番弟子)。 清水國明: 「あのねのね」結成当初は京産の学生複数人での編成で、笑福亭鶴瓶とその妻もメンバーだった。 武田鉄矢: 母親譲りの大阪嫌いとして有名で、2007年(平成19年)4月4日にTBS系列で放送された『笑福亭鶴瓶のメインキャスト!』において、「数を数える時に節を付けるのがおかしい」「大阪は他人に頼ってきたから主体性が無い」「大阪人は信用できん」「すぐに人を騙す」などと発言。また、ドラマの控え室で大阪府に居住歴のある木村拓哉にずっと大阪に対する悪口を吹き込んでいたため笑福亭鶴瓶が止めに入ったが、武田はそれに対して「大阪のどぶ鼠が!」と切り返した。笑福亭鶴瓶は、テレビ東京系列で放送されている『きらきらアフロ』で「根に持っている」と、『ヤングタウン日曜日』でも一連のやり取りを発言するなど不満を表明している。これらの笑福亭鶴瓶とのやり取りに対し、武田本人は「笑福亭鶴瓶との喧嘩みたいに、芸能人の営業のうちだよ」と答えており、「芸能人の営業」のために大阪や大阪人を揶揄しているともとれる発言をしている。 千堂あきほ: 歌謡びんびんハウス(1990年3月 - 1991年3月、テレビ朝日) - 笑福亭鶴瓶と共に進行役 谷口雅彦: いとうせいこう、笑福亭鶴瓶、えのきどいちろう、山崎哲、夏目房之介らと共演。 新行市佳: 笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ(ニュース・天気予報・交通情報担当) |
笑福亭鶴瓶の情報まとめ
笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ)さんの誕生日は1951年12月23日です。大阪出身の落語家のようです。
家族・親族、人物などについてまとめました。現在、家族、母親、テレビ、結婚、父親、兄弟、事件、ドラマ、趣味に関する情報もありますね。去年の情報もありました。笑福亭鶴瓶の現在の年齢は72歳のようです。
笑福亭鶴瓶のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ、1951年〈昭和26年〉12月23日 - )は、日本の落語家、タレント、司会者。出囃子は『トンコ節』または『新ラッパ』。本名は、駿河 学(するが まなぶ)。 大阪府中河内郡長吉村(現・大阪市平野区)出身で、兵庫県西宮市在住。所属事務所はデンナーシステムズ で、長年所属していた松竹芸能にも籍を残している。前述の通り、西宮市に本宅があるが、活動の拠点が東京であるため、港区にも別宅を持っている。 愛称は「べーさん」「べー師匠」「鶴瓶ちゃん」「まーちゃん」「まなぶくん」など。落語家として上方落語協会相談役を務めている。2021年現在、松鶴の五番弟子である。 以下、本文では入門以前を含め、当人の呼称は「鶴瓶」で統一する。 大阪府中河内郡長吉村長原(現・大阪市平野区長吉長原)出身。12歳上の兄と姉3人の5人兄姉末子で、4間屋の自宅に祖母を含めた8人暮らしだった。 1961年頃に、登校途中に近所の男性に競馬場に誘われて、鶴瓶が適当に指名した馬券をその男性が購入した所、それが的中し万馬券に化ける。驚き感嘆した男性は、約40万円の払戻金を丸々、学少年に手渡した。夜中に家族が寝静まった頃を見計らい、貰ったお札を数えていた所、その現場を母親に発見され大事に発展した。夜中にもかかわらず、くだんの近所の男性をたたき起こし、事の顛末を聞き出したことにより、正式に駿河家のお金となった。後に、母親にお金の使途を執拗に問い質したところ、実家の増築資金になっていたことが判明。この話をテレビ朝日の『徹子の部屋』に出演時に話題にしてさらに母親から叱られたと語っている。 中学生の頃、2代目桂伸治が演じる「堀の内」に魅せられ、学校の教室で手作りの高座を用意し我流の「堀の内」を演じる。 私立浪速高等学校に進学。高校ではボクシング部にも所属したが先輩からの打撃で目を痛め、退部。ボクシング部を退部後の2年生の終わり頃に、落語研究会を他の2人の生徒と立ち上げ、浪花亭無学の高座名を名乗った。 大学受験の年、頭のいい人間に対抗心を持っていたため、京都大学や、大阪大学の入試の合格発表に行き、落ちていそうな生徒の隣で「あった!」と合格したフリをして、胴上げされるという悪戯をする。この時、大阪大学でNHKの取材を受け、模様が夕方のニュース番組で流れたため、それを見ていた親戚から祝電が届くなど両親に恥をかかせてしまう。 高校時代にすでに落語家になることを志望していたが、父からは反対を受ける。「うちの家から変わった人を出したい」という思いから、3年生の時には父から将来を問われて思いつきで「渥美清への弟子入り」を口にし、実際に上京して会いに行ったこともあるが渥美が不在で会えず、私大を受験。「過去を一旦捨てたい」という理由で友人たちが受けない当時新興大学だった私立の英知大学(後の聖トマス大学。現在廃校)、京都外国語大学、京都産業大学と歴史のある関西大学を受験、不合格の関西大学以外の中で、当時歴史の浅かった京都産業大学に進学する。京都産業大学を選んだのは、入学金が他の大学より破格に安かったことと、推薦入試を受ける友人に付き添って行ったときに出会った女性、のちに妻となる玲子と再会できるのではないかという理由だった。 京産大では中村行延と同様に7期生として入学。開設間もない落語研究会に所属し、童亭 無学(どうてい むがく)を名乗る。直後に玲子と再会し、共通の友人がいたことから、落語研究会にマネージャーとして勧誘、玲子には「レモン亭円(まどか)」という高座名も与えられた。親は入学金は出したが、それ以外の費用は自活するよう言われ、入学直後から六角通の旅館「三木半」でアルバイトをする。この旅館で1期上のあのねのねの清水国明と知り合った。同期の同じくあのねのねの原田伸郎とは落語研究会に入った日に出会った。大学でも高校時代のようにクラスで皆を笑わせたいという欲求があったが、大教室は広すぎる上に出入りも自由で期待した効果がないため、最初の小教室の授業で、カセットテープに録音した出囃子を教授が教室に入る際に鳴らして笑いを取った。 清水国明、原田伸郎、玲子とともに、あのねのねのメンバーとなる。玲子はボーカル、鶴瓶は踊るのみだった。この時玲子は『ひょっこりひょうたん島』のテーマを歌っている。清水とは下宿で共同生活を送った時期もあった。あのねのねがスターになり、鶴瓶の結婚式に二人が札束を持ってきたエピソードもよく語られる。鶴瓶の結婚式・披露宴の代金をあのねのねが全て負担し、それでも余った。 この他、大学の同級生には後にシンガーソングライターとなり、ヤングタウンで鶴瓶と共演したこともあった中村行延らがいる。 いずれ大学をやめて落語家になると公言していた鶴瓶は、あるとき落語研究会の先輩2人から「いつになったら落語家になるんや」とからかわれたのに激怒し、2人を便所に連れ込んで「俺がどないしようと俺の勝手やないか!おまえらにガタガタいわれる筋合いはないわい!おまえらにいわれんでも、やめる時が来たらやめるんじゃ!」と殴打し、まもなく大学を中退した。 中退前の鶴瓶は当初3代目笑福亭仁鶴への弟子入りを考えていたが、観覧した落語会での6代目笑福亭松鶴の口演、とりわけ、客先にいた僧侶を見てネタを忘れたという理由でオチだけを話して高座を降りたことに「おもろい」と強い印象を受け、松鶴への弟子入りを決める。1971年1月の「京都市民寄席」の楽屋口で弟子入りを試みたが、「知らん人が見たらヤクザ」のような松鶴と弟子の姿におののいて声をかけられず、1年後に自宅を訪れることになった。 この訪問では居留守を使われ、粘って根負けして会った松鶴からは、入門は親の承諾が条件で、連れてくるように言われる。駿河は一計を案じて、「喧嘩で相手を負傷させ、謝らなくてはならない」という理由で父親を同行させ、松鶴から正式な入門の許しを得た。 1972年2月14日、11番弟子として入門する。入門から間もない頃、まだ高座名も与えられない時に島之内寄席 で来場者の下足番を任された際に、名前も社名も言わずに入場しようとした新聞記者に対し、それまでの横柄な態度を腹に据えかねて「顔パス」を咎めたところ、下足札を投げつけられて「お前誰や!」と問われる。松鶴の弟子と答えると、松鶴のいる楽屋に連れて行かれた。鶴瓶は松鶴から問われてこの経緯を話した。すると松鶴は、鶴瓶を「向こう行け」と遠ざけてから、将来取材する対象になるかもしれない相手ではないかと記者を罵倒した。この件で鶴瓶は、「このおやっさんに付いていこ」と心服する。 「鶴瓶」という高座名が付くまでの経緯については、鶴瓶自身は時期によって異なる説明をしている。1982年の著書では、 入門からしばらくは高座名がなく、問われたときはやむなく「笑福亭駿河」と名乗ったりしていた。まもなく松鶴から「どっかひとつ抜けたとこあるしな……そうや、昔井戸で"つるべ"て使うてたやろ。なんやお前は、井戸のつるべのタガが抜けたみたいなとこあるし」という理由で「鶴瓶」の名を与えられた。 としていた。これに対して2013年の聞き書きでは としている。 同年9月26日に島之内寄席にて初舞台。初舞台の演目について、新野新の著書(1975年)では「東の旅 発端」としているが、鶴瓶自身は2013年の聞き書きで(同じ「東の旅」の一編である)「煮売屋」であったと述べ、人体の「逆さ言葉」を言う下りの「耳」のところで「ミンミン餃子、おいしいな」というくすぐりを入れて受けを取ったが松鶴から「よけいなこと入れやがって!」と叱られたとしている。 松鶴からはほとんど落語の稽古を付けられることはなかった。兄弟子である笑福亭松枝のエッセイのほか、鶴瓶自身の回想によれば、鶴瓶は「ある意味えらい怒られて稽古をつけてもらえなかった」存在であり、松鶴が機嫌のよいときに兄弟子の笑福亭松葉に「稽古を頼めよ!」とけしかけられて稽古を頼み込むと、鶴瓶の目の前に顔を突き出した挙句、「嫌や!」と突き放されたこともあった。ついには、「鶴瓶が聞いとるさかい風呂行って稽古しょう!」と他の弟子を引き連れて逃げ回られる事態に発展した。松鶴の盟友であった5代目桂文枝はこのことについて「稽古の必要はないと思ってるからや」と分析しており、また鶴瓶が松葉など年の近い兄弟子に可愛がられるための、松鶴による気配りであることを示唆している。また、鶴瓶と5代目文枝ともども、松鶴自身が5代目松鶴からあまりネタを教えてもらうことがなかったことが、稽古をつけなかったことの伏線とみなしている。鶴瓶自身は、松鶴が形にはめるよりも「あんまりいじくりまわさんほうがええ」と考えていたのではないかと述べている。松鶴の不在時に、松鶴の妻(「あーちゃん」と呼ばれていた)から三味線や落語の稽古を付けられることもあった。 ある落語コンクールでは、前記の『堀の内』に古典落語なのにオートバイに乗った人物を登場させるなど、「男子校向け」のアレンジを適当に加えて演じた。審査員からは「時代錯誤も甚だしい」と酷評され、やはり審査員である松鶴からは「こんなん、落語やおまへん。こいつには稽古つけてまへん」とまで言われる。だが、松鶴は帰り道に鶴瓶の尻を叩いて「おまえのが一番おもろかった」と告げた。 そのほかにも、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客の笑いをあおるなど、当時としては斬新なアイデアを披露したりしたが、これも松鶴に楽屋で叱られてしまった。ただしその松鶴も、若手時代には高座でバレリーナに扮して先代から怒られている。3代目桂米朝によれば、3代目桂米之助作の新作落語「白鳥の死」の口演のためだという。 入門当時には、小学6年生で12歳の兄弟子・笑福亭手遊(おもちゃ、入門は1971年10月)がおり、入門順が序列となる落語界のしきたりに従い、彼を「兄さん」と呼び、手遊からも「兄弟子」として振る舞われることがあった。ただし、小学生の手遊を大人の鶴瓶が「兄さん」と呼んで話す様が面白がられて二人でラジオ番組に何度も出演し、結果として番組に出る機会が増え、「鶴瓶いうやつ、おもろいねんな」と思われるようになったと、2013年の聞き書きでは述べている。一方、手遊の上の兄弟子である笑福亭松葉(没後に7代目笑福亭松鶴を追贈される)には面倒を見てもらい、仲のよい兄弟弟子となる。のちに松竹芸能の社長から7代目松鶴は誰がいいかと問われたときに、鶴瓶は「松葉と答えた」という。 若手時代、鶴瓶はアフロヘアーにオーバーオールという落語家らしくないスタイルを続けていた。3代目桂春団治や師匠の松鶴からは髪を切れと何度も言われたが(春団治は「金をやるから切ってくれ」とも言い、実際に金銭を渡した)、鶴瓶は従うことはなく、また松鶴や春団治もそれを楽しんでいる風があって、松鶴は途中から何も言わなくなったという。鶴瓶は、吉本興業所属の桂三枝や笑福亭仁鶴と比べ、自身の所属する松竹芸能の落語家が年齢が高いというイメージがあり、落語家の「古臭い感じ」に対する反発からそうしたファッションをしていた。 1970年代前半は、ユリ・ゲラーをはじめとする超能力・エスパーブームの時期だった。活動の場が早く欲しかった鶴瓶は、超能力(透視とスプーン曲げ)が使えることを松鶴に打ち明け、鶴瓶の超能力を目の当たりにした松鶴は驚愕し「ウチに超能力を使う弟子がおる」と松鶴自らがテレビ局に鶴瓶を売り込む。当然ながら超能力はテーブルマジックの類で、周囲に仕掛けを漏らしつつ頭から超能力を持つ弟子と信じ切っている松鶴という場面に持ち込み、必死になって売り込む松鶴に便乗して業界関係者に顔と名前を覚えてもらい、これを手がかりにテレビ、ラジオと進出する足場を作る。後に兄弟子の笑福亭仁鶴が鶴瓶のイカサマ超能力を暴き、松鶴は梯子を外された格好になった。また、このスプーン曲げは上岡龍太郎の不興を買った。鶴瓶は正直に事情を話し、上岡も笑って誤解を解いた。鶴瓶と上岡はこれが縁で互いの楽屋を訪れるようになり、その鶴瓶の楽屋話が面白いということで『激突夜話』『パペポTV』へとつながっていった。 1974年10月12日に結婚。結婚式は大阪市中央区の「高津神社」で執り行われた。鶴瓶と玲子は交際を始めた年に「10年後の1980年12月23日に結婚する」と約束していたが、玲子が妊娠したことから6年早い結婚となった。玲子の親の承諾を得ないままでの結婚だったため、玲子側の参加者がいない異例の式だった。仲人は師匠の松鶴が務めたが、弟子13人の中で鶴瓶が一番「アホ」というスピーチをした。 入門4日目で、兄弟子の笑福亭呂鶴の代役を求める近畿放送ラジオ(現・京都放送)から松鶴への電話に留守番で出たことで、「誰でもいいなら」と応じて出演した。 初のレギュラー番組は近畿放送の『丸物ワイワイカーニバル』で、以降、近畿・中京地区でラジオ・テレビを中心に活動。1970年代半ばには東京のテレビ局の制作番組にも出演したが、自身に対するスタッフの扱いに反発して局部露出事件(詳細は後述)を起こしたこともあり、その後約10年は東京での活動をおこなわなかった。 1978年に始まった『ぬかるみの世界』で人気が上昇し、1982年から4年間続いた毎日放送の『突然ガバチョ!』の司会で再び脚光を浴びる。この番組は関西以外の地方でもネットされた。1982年、テレビ大阪の開局記念番組で取材を受けた際「アフロヘアーをトレードマークにしている」という声を耳にして、「けったくそ悪い」という思いを抱き、取材を受けている最中に髪を切り落とした。 鶴瓶は1982年の著書『哀しき紙芝居』で東京への(再)進出を「是非とも挑戦したいもの」と記し、同時に「そこをできるだけ自然に通り過ぎたい」と、自分のスタイルを変えずに行くことを望んでいた。満を持して1986年に、ビートたけしが出演する『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『オレたちひょうきん族』の裏枠のMCとして起用されるも、いずれも短期間で打ち切られ、「東京進出失敗」と週刊誌に書かれる。この状況で、鶴瓶に着目していたフジテレビプロデューサーの横澤彪が抜擢する形で、1987年から『森田一義アワー 笑っていいとも!』のレギュラーとなった。『笑っていいとも!』および1988年から全国ネットとなった『鶴瓶上岡パペポTV』により、広く受け入れられるようになる。 1990年代以降は、本業の落語家やテレビタレントのみならず俳優や司会者としても活躍するようになり、顕著な活躍を見せている。その傍ら、関西圏のラジオ局では現時点でもまだレギュラー番組を持ったことがないラジオ関西を除き、必ずレギュラー番組を1番組は持っている。 2001年に日本コカ・コーラとのタイアップで、日本テレビと吉本興業が組んで制作されたドラマ『明日があるさ』にも、鶴瓶が松竹芸能からただ一人ゲスト出演した。 道頓堀角座が健在のころは「『大安売り』と『いらちの愛宕詣り』ばっかりやってました」。しかし、当時の角座の昼席は落語にさして興味のない団体客を入れていたため、「落語を聞きに来るお客」がメインであった夜席を好んでいた。 1986年の6代目松鶴の死後、笑福亭梅香を襲名させる計画があった。初代桂文枝(正確には桂梅香)、2代目曽呂利新左衛門の前座名という由緒名であるが、一門での慣例から「梅香」の読みは「ばいか」「ばいこ」「うめこ」のいずれではないかと(本人は)推察。遺書に読み仮名が無かったため正確な読みは不明のままに加え、名前が自分に似合っていないということから辞退している。 2002年9月、江戸落語の春風亭小朝との二人会で『子別れ(子は鎹)』(落語を本格的に始めるにあたって4代目桂文紅にじきじき『子別れ』を稽古を付けてもらった)を演じたことを機に、落語への回帰を強めている。2003年3月、小朝、林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)らと落語家会「六人の会」を結成。また同年5月に上方落語協会理事に就任している。その後広報委員長を経て、2008年6月に副会長に就任した(2018年に退任、相談役に)。 多忙なタレント活動の合間を縫って「鶴瓶噺」「笑福亭鶴瓶落語会」などの独演会を展開する一方、六人の会が主催する「東西落語研鑚会」にも参加。大阪・帝塚山の6代目松鶴旧宅で行われる演芸イベント「帝塚山・無学の会」を主宰するなど、精力的に落語に取り組んでいる。古典落語にも「東西落語研鑚会」で『鴻池の犬』『らくだ』などに挑戦している。特に2004年の東西落語研鑚会で口演した『らくだ』は松鶴の十八番(おはこ)であり、松鶴門下では直々に稽古を付けられていた6代目笑福亭松喬しか、舞台での披露を許されていなかった題目である。『らくだ』には2003年頃から取り組み始め、そのために円形脱毛症を発している。 鶴瓶の落語への取り組みは、弟子に対する影響が少なくない。総領弟子の笑瓶を筆頭に、殆どの弟子が落語をしていない「テレビタレント」としての鶴瓶に弟子入りをしており、落語家に弟子入りしたという感覚が無い為である。鶴瓶が落語を始めた為、弟子も落語に取り組まざる得なくなり、笑瓶は新作や古典の改作に取り組み、純瓶は怪談噺に力を入れ、銀瓶は朝鮮語による落語を打ち立てている。2007年3月には、銀瓶以降の6人の弟子が「シックスセンス☆六瓶の会」と題した落語会を大阪で開いている。 2004年から年に1回、桂南光と桂文珍との落語会「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」を開催。落語会としては異例の6,000円を超える料金も話題となる。チケットは、過去3回共完売。その他この3人は、2005年から「文珍南光鶴瓶+1 しごきの会」と題して、年に数回、baseよしもと(現在は天満天神繁昌亭)で若手落語家育成の為の会を開いている。 2023年2月22日、惣領弟子であった笑瓶が66歳で急死。鶴瓶は同日、事務所公式サイトで「師弟関係というよりも、信頼のおける親友のようでした。一番僕のそばにいて、全ての事に気のつく男ですごく彼がいて助かりました」と追悼コメントを出している。 家族・親族妻、長男、長女がいる。妻の玲子は先述の通り、あのねのねの元メンバーで愛媛県松山市出身。ある時期より鶴瓶の番組の企画書作りなどを手伝うようになり、『鶴瓶上岡パペポTV』の企画書は彼女がまとめたとされる。長男は俳優兼音楽ユニット「Human Note」のボーカル・駿河太郎。2008年7月26日、太郎の妻の故郷である静岡県浜松市近郊の病院で孫(長男の第一子)が生まれたことを『FNS27時間テレビ!!みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』で発表した。ちょうどこの時は鶴瓶と従兄弟弟子の明石家さんま・大竹しのぶ元夫妻との生のトークコーナーが放送されており、「早う、孫に会いに行きたいわ」とボヤいていた。2021年8月時点では計4人の孫がいる。 鶴瓶の実父は絵を趣味としながら梱包材を扱う店を営んでいた。死去した際、師匠の松鶴は「普通は弟子のお父さんの葬式なんかに行かない」ところを葬儀に出席したが泥酔の挙句大暴れし、鶴瓶の実姉に「松鶴かなんか知らんけど、人の親が死んでンねがな」と説教され、「あー、恐……」と言って鶴瓶になきついていたというエピソードがある。 北村一輝とは北村の母と鶴瓶の姉が、北村の父と鶴瓶の兄が、それぞれ友人関係にある。 人物趣味・嗜好18代目中村勘三郎は親友。好きなアーティストはaiko・2PMで、洋楽のファンでもある。また、デューク・エイセス・さだまさし・吉田拓郎・小田和正・やしきたかじんとも古くから親交がある。原田伸郎・中村行延とは大学在学時の同級生であった。 若者文化に対する造詣も深い。ももいろクローバーZと親交が深く、2015年には地上波のトークバラエティ番組として『桃色つるべ〜お次の方どうぞ〜』がスタート。2017年からは、ももいろクローバーZが大晦日の夜に開催する『ももいろ歌合戦』(BS日テレ・フジテレビNEXT・ニッポン放送など)に出演するのが恒例になっている。さらに関ジャニ∞とも親しく、自身が司会をつとめる『きらきらアフロTIM』や『a-studio』などでも共演しており、メンバーの丸山隆平主演のドラマ版『地獄先生ぬ〜べ〜』の最終回にゲスト出演もした。 鯖アレルギーのため、鯖料理が苦手。2000年4月27日に放送した『とんねるずのみなさんのおかげでした』のコーナー、「新・食わず嫌い王決定戦」に出演した時に鯖寿司を食べた時は目に涙を浮かべるなど、アレルギー反応に苦しんだ。鶴瓶と同席した木梨憲武は「これが芝居であってほしい」と話している。なお、このシーンの映像は2003年9月25日に放送した『とんねるずのみなさんのおかげでした15年突破大反響スペシャル』で再び放送され、ランキング企画の第6位に入った。その後、鶴瓶は2005年の『FNS25時間テレビ』で総合司会を担当したが、同番組の企画で鯖寿司を食べることを拒否して逃走する様子が放送された。 『鶴瓶の家族に乾杯』(2008年3月10日(福井県美浜町:前編)・同年3月17日放送(後編)。川合俊一(ゲスト出演)と共演)には、へしこを悶絶しながら食べるシーンがある。 阪神タイガースのファンであることを2019年に明かし、阪神の成績が良くないときは自身のラジオ番組などでぼやくこともあった。阪神が2023年のペナントレースでリーグ制覇を制した時は上岡龍太郎を引き合いに、リーグ優勝を祝うコメントを自身が出演するラジオ番組(『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』(ニッポン放送))とインスタグラムでコメントした。阪神は同年のクライマックスシリーズを制し、日本シリーズに出場した。同シリーズは第7戦までもつれたが、阪神が4勝3敗でオリックス・バファローズを下し、38年ぶりに日本一となった。鶴瓶は「勝ち方とかいうよりもあそこ(第7戦)までいったのが嬉しい、バンザイですよ」とコメントした後、「今日で阪神の話はやめて、来年からまた応援したいと思います」と話して気持ちを切り替えた。ちなみに、鶴瓶は1985年9月6日に発売したリリアンの楽曲、『阪神タイガースの優勝を知らない子供たち』に友情出演している。 タレント活動時あのねのねの当初のメンバーだったことや、ラジオのパーソナリティを長くやっていたことから、フォークソングに対する造詣も深く、『鶴瓶噺』や『朝まで生つるべ』、『朝まで歌つるべ』(テレビ朝日)などで、フォークソングを絡めている。 『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』(ラジオ・OBC)での、ファンであるリスナーに会った際の口癖「覚えてるよー」は、当時関西で鶴瓶のモノマネ定番セリフになった。リスナーにイベントで、前向きに行動するよう「がんばりやー」もよく口にしていた。 テレビ東京とのエピソード東京でまだ無名だった頃に、東京12チャンネル(現・テレビ東京)にて生放送の最中に2度に亘って露出にまつわる悪ふざけ(2度目は加えて器物破損)を行ったことにより、長年同局から出禁を言い渡されていたことがある。事の発端は1975年に同局で放送された深夜番組『独占!男の時間』に出演した際に、リハーサルで披露したギャグを担当のプロデューサーに傲慢な態度で批判されたことである。これに怒った鶴瓶は、腹いせに本番でテレビカメラが鶴瓶をアップで写すタイミングを狙ってカメラの前で股間を露出し、カメラに股間を押し付けた末に、スタジオから強制的に退場させられた。その後1977年3月26日の番組最終回に、司会の山城新伍の計らいで特別に出演。最終回の番組中に山城から「鶴瓶、今日でこの番組も終わりやしな。なにをやってもかめへんで。おまえの好きなようにやり。」と促されると、鶴瓶は突然テレビカメラの前で肛門を見せてスタジオから逃走し、その勢いで東京12チャンネルの敷地内にあった池に飛び込むと、当時の社長である中川順が大切に育てていた時価数百万円の錦鯉を踏み殺した。最終回での暴挙を重く見た東京12チャンネルは、鶴瓶を無期限の出入禁止に処した。そして、テレビ東京へ改称した後の2003年、『きらきらアフロ』の東京収録にて26年ぶりに同局に立ち入ったことで、ようやく解禁となった。 著書で「僕は世にいう露出狂などでは、断じてない。…(中略)…僕の場合は、決して快感のためにやっているわけではないからだ」と述べて否定する一方、「ただ、快感を得るためにではないにしろ、例の部分を露出することに、さして抵抗を感じていないことだけは、事実かも知れない」とも語っている。なお、2007年8月の『週刊文春』の対談記事で、家庭では全裸で過ごしていることを明かした。 その一方で、「鼻毛は絶対に人には見せん」というポリシーを持っていると述べている。 その他下積み時代、余興を企画したイベント会社社長の、若手芸人をバカにするぞんざいな態度が気に入らず、出演せずに劇場を後にしたことがある。一年半後、売れっ子となった鶴瓶に同じ企画会社から仕事が入ったが、「売れていない弱い立場の芸人には平気で高飛車に命令をしておいて、少し売れてくるとたちまち態度を変える。僕はそんな方と一緒に仕事したくないんです」と直接言って仕事を断っている。 「フォークとロックの会」というライブイベントの司会をしたとき、ロックバンドのベーシストから「俺は、お前が嫌いや。嫌いやねん」と言われたことに激昂し「なんやその言い方は!!勝手に自分たちで司会をしとけ!!」と言いながらベーシストを鼻血が出るまでマイクで殴り続けたことがある。これは、その侮辱的な発言はもちろん、同バンドのギタリストのチューニングが遅れたため急遽繋ぎのトークを行ったのにも拘らず、謝るどころか鶴瓶の質問を無視し続けたその態度が気に入らなかったためである。なお、後日談としてこのベーシストと偶然再会して話す機会があり「心のなかの汚点が、スッと洗い流されるような、さわやかな気持ちに、しばしひたったものだった」と述べている。 ラジオ番組『ミッドナイト東海』で漫画家・鳥山明と対談した事がある。鳥山明は漫画家デビュー前から『ミッドナイト東海』のリスナーで、葉書に鶴瓶の似顔絵を描いてラジオに送った事もあった。その絵は許可を貰って鶴瓶の手ぬぐいのイラストに使われている。鳥山明が『Dr.スランプ』に遊び心で鶴瓶を描いた ところ、『ミッドナイト東海』に同番組リスナーから、その絵の切り抜きが送られてきた。その絵を見た鶴瓶が番組内で鳥山明に呼びかけると、鳥山明からラジオ宛に「ぜひお電話ください」と手紙で返事があり、対談に至った。また、その後『週刊セブンティーン1981年4・5合併号』では鶴瓶と鳥山明の対談記事「新春あこがれ対談 Dr.スランプVS鶴瓶」が掲載された。 平和安全法制に反対を表明している。なお、本業がお笑いであることから、本流ではない政治に関する発言は極力避けている。 2024/06/19 01:58更新
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