若生忠男の情報(わこうただお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
若生 忠男さんについて調べます
■名前・氏名 |
若生忠男と関係のある人
種茂雅之: 4月15日の西鉄戦(後楽園)で若生忠男から初安打、井上善夫から右前適時打を放って初打点を記録。 若生照元: 東北高校時代は若生忠男・若生智男と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 若生智男: 東北高校時代は若生忠男(西鉄→巨人)・若生照元(中大→大洋)と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 十時啓視: 第5戦では3回に岩本尭に代わり打席に入り、若生忠男から同点本塁打を放つ。 岩本尭: 西鉄との日本シリーズは、第1戦で若生忠男から3点適時二塁打を放ち勝利に貢献するが、その後は無安打に終わった。 中西太: 若生忠男・畑隆幸・田中勉・安部和春・井上善夫ら若手投手の奮闘もあり、南海と熾烈な優勝争いを繰り広げる。 安藤治久: 1960年5月15日には西鉄の若生忠男との投手戦に投げ勝ち、1-0で初完封勝利を記録した。 大石弥太郎: 5月5日の西鉄戦(西宮)で若生忠男と投げ合い5回を無失点に抑えるなど好投を見せるが、白星には恵まれなかった。 石本秀一: 河村久文・西村貞朗・若生忠男ら若返った投手陣を束ね西鉄初優勝に貢献。 平林二郎: 初盗塁:1968年5月14日、対西鉄ライオンズ5回戦(阪急西宮球場)、5回裏に石川進の代走として出場し二盗(投手:若生忠男、捕手:宮寺勝利) 足立光宏: 初本塁打:1964年3月15日、対西鉄ライオンズ2回戦(平和台球場)、若生忠男から(通算で唯一) 種茂雅之: 初安打:1962年4月15日、対西鉄ライオンズ2回戦(後楽園球場)、6回裏に若生忠男から 西原恭治: 同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでも、最終第5戦に若生忠男をリリーフして登板、チームの日本一に力を添えた。 岩本堯: 西鉄との日本シリーズは、第1戦で若生忠男から3点適時二塁打を放ち勝利に貢献するが、その後は無安打に終わった。 若林忠志: また、田中勉、安部和春、若生忠男、畑隆幸、井上善夫ら若手の投手陣を指導し、長らく稲尾和久一人に頼った西鉄投手陣の立て直しを図った。 |
若生忠男の情報まとめ
若生 忠男(わこう ただお)さんの誕生日は1936年8月22日です。宮城出身の野球選手のようです。
引退、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1998年に亡くなられているようです。
若生忠男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 1998年)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 1970年シーズンの登録名は若生 忠泰(わこう ただやす)。 東北高校時代は若生智男・若生照元と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 1955年に西鉄ライオンズへ入団。 1957年には6月から先発陣の一角となり9勝を挙げ、同年の巨人との日本シリーズでも最終戦の第5戦に先発し、チームの2年連続日本一に貢献。背番号が見えるくらい全身を捻り、下手投げからキレの良い変化球を投げる「ロカビリー投法」で一世を風靡。 1960年には初の2桁勝利となる13勝、同年のオールスターにも選出されるが出場を辞退した。 1962年には自己最高の14勝を挙げ、初の規定投球回に到達してリーグ5位の防御率2.42を記録。 1963年には12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、同年の巨人との日本シリーズでは第2戦にリリーフとして登板。 1964年8月30日の東映戦(後楽園)では先発登板するが、主審に暴言を吐いたり土を蹴散らすなどして退場処分となった。 1965年は7月頃からリリーフ中心にシフトチェンジし、この当時は「8時半の男」と呼ばれていた巨人の宮田征典に対して「8時45分の男」を自称していたことがあった。 1966年7月15日から17日の阪急戦(平和台)では3日連続で救援勝利を記録し、同年は3年ぶりの2桁勝利となる12勝を挙げ、防御率1.54の好成績をマーク。 1967年9月17日の阪急戦(西宮)では、米田哲也と投げ合いノーヒットノーランを達成した。 1968年には通算100勝を挙げるが、シーズン成績は4勝12敗に終わる。 読売ジャイアンツへ移籍した1969年には3勝を挙げる。3勝中2勝は広島戦で挙げたものであった。同年の阪急との日本シリーズでも3試合に登板する。 1970年限りで現役を引退。 引退後はテレビ西日本・フジテレビ、TVKテレビ解説者(1971年 - 1974年、1979年頃 - 不明)を経て、1975年に1年間だけロッテオリオンズ一軍投手コーチを務めた。1998年逝去。62歳没。 各年度の太字はリーグ最高 初奪三振:1955年8月11日、対トンボユニオンズ14回戦(平和台野球場)、石川進から 初勝利:1957年7月16日、対大映ユニオンズ11回戦(後楽園球場) 1000奪三振:1964年8月6日、対東京オリオンズ26回戦(東京スタジアム)、6回裏に醍醐猛夫から 100勝:1968年6月30日、対東映フライヤーズ14回戦(小倉球場) ノーヒットノーラン1回:1967年9月17日、対阪急ブレーブス26回戦(阪急西宮球場) ※史上37人目 38 (1955年 - 1959年) 18 (1960年 - 1962年) 21 (1963年 - 1968年) 28 (1969年) 24 (1970年) 83 (1975年) 若生 忠男 (わこう ただお、1955年 - 1969年) 若生 忠泰 (わこう ただやす、1970年) 『日本プロ野球記録大百科2004』(ベースボール・マガジン社) 2120頁 ^ 週刊ベースボールONLINE ^ 『完全版 プロ野球人国記 北海道・東北編』ベースボール・マガジン社、102頁 ^ 『朝日新聞』1957年7月17日付朝刊 (12版、7面) ^ 『朝日新聞』1964年8月31日付朝刊 (12版、12面) ^ よみがえる1958-69年のプロ野球 別冊ベースボール Part8 1965年編(ベースボール・マガジン社、2024年4月刊)80頁 ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑(昭和11年-平成4年)』ベースボール・マガジン社、776頁 ^ 『朝日新聞』1968年7月1日付朝刊(12版、13面) ^ 『朝日新聞』1964年8月7日付朝刊 (12版、13面) 宮城県出身の人物一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 ノーヒットノーラン達成者一覧 個人年度別成績 若生忠男 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 沢村栄治 V.スタルヒン 石田光彦 中尾輝三 亀田忠 浅野勝三郎 三輪八郎 森弘太郎 西沢道夫 天保義夫 藤本英雄 別所昭 石丸進一 呉昌征 梶岡忠義 真田重男 金田正一 林義一 大友工 山下登 杉下茂 大津守 大脇照夫 大矢根博臣 井上善夫 中山義朗 G.バッキー 外木場義郎 清俊彦 若生忠男 堀内恒夫 城之内邦雄 鈴木啓示 成田文男 渡辺秀武 鬼頭洋 藤本和宏 高橋直樹 江夏豊 神部年男 加藤初 戸田善紀 郭泰源 田中幸雄 近藤真一 柴田保光 湯舟敏郎 西崎幸広 佐藤義則 T.ブロス 渡辺久信 野口茂樹 石井一久 川尻哲郎 佐々岡真司 M.バンチ N.エルビラ 川上憲伸 井川慶 R.ガトームソン 山本昌 前田健太 杉内俊哉 西勇輝 山井大介 岸孝之 山口俊 菅野智之(CS) 千賀滉大 大野雄大 小川泰弘 東浜巨 今永昇太 山本由伸 C.ポンセ 石川柊太 戸郷翔征 大瀬良大地 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 野球の投球フォーム 日本の野球選手 東北高等学校出身の野球選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 千葉ロッテマリーンズ関連人物 野球解説者 仙台市出身の人物 1937年生 1998年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/21 03:19更新
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