谷口千吉の情報(たにぐちせんきち) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
谷口 千吉さんについて調べます
■名前・氏名 |
谷口千吉と関係のある人
若山セツ子: 映画監督の谷口千吉の元妻。 佐藤允: 劇団のユニット出演で『坊っちゃん』や『思春の泉』に佐藤 充名義で出演した後、映画監督の谷口千吉からプロデューサーの藤本真澄を紹介されて、1956年に東宝へ入社。 三船敏郎: お別れの会には谷口千吉、岡本喜八、熊井啓、堀川弘通、千秋実、香川京子、八千草薫、久我美子、三橋達也、中野良子、竜雷太、松岡功、岡田茂ら約1800人が参列したほか、スティーヴン・スピルバーグ、アラン・ドロン、チャールトン・ヘストン、マーロン・ブランドら世界各国の映画人から弔電が寄せられた。 仲代達矢: 谷口千吉監督の映画『裸足の青春』では準主役で起用され、千葉泰樹監督の『大番』、『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・人斬りジョーの演技でも存在感を示す。 鹿内信隆: この頃の仲間には、後に社会派の映画監督となる山本薩夫や谷口千吉らがいた。 三船敏郎: 山村と三船の初共演は1953年公開の谷口千吉監督による映画『吹けよ春風』だった。 佐伯秀男: 『黒帯三国志』(『黒帶三国志』) : 製作田中友幸、監督谷口千吉、原作下村明、脚本松浦健郎・山崎巌・谷口千吉、主演三船敏郎、製作・配給東宝、1956年1月29日公開 - 出演・「伊庭八郎」役 黒澤明: 9月13日に黒澤フィルム・スタジオでお別れの会が開かれ、岡本喜八、司葉子、谷口千吉、仲代達矢、香川京子、千秋実、侯孝賢など約3万5000人が参列した。 乙羽信子: 誰が私を裁くのか(1951年、谷口千吉監督) 成瀬巳喜男: 同時期に東宝争議によって東宝撮影所の機能が麻痺したため、成瀬も山本嘉次郎、黒澤、谷口千吉らと共に東宝を離れ、映画芸術協会を設立、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督することになる。 田村道美: 二人の世界 1940年 監督島津保次郎、原作塚本靖、原作・脚本山形雄策、音楽服部正、製作主任谷口千吉、主演丸山定夫、英百合子、原節子 井手雅人: 独立機関銃隊未だ射撃中(1963年、監督:谷口千吉) 伊藤実: 嵐の中の男(1957年 谷口千吉監督):警官 竹林進: 独立機関銃隊未だ射撃中(1963年7月28日、東宝) - 谷口千吉監督助手 恩田清二郎: 『吹けよ春風』:監督谷口千吉、1953年1月15日公開 - 同僚の運転手 川本喜八郎: 1950年に『暁の脱走』(谷口千吉監督)を最後に東宝を解雇されると、フリーの人形美術家となる。 竹林進: 奇巌城の冒険(1966年4月28日、東宝 / 三船プロ)谷口千吉監督助手 桜井浩子: 同年『紅の海』(谷口千吉監督作品)で本格的にデビュー。 河野秋武: 1947年(昭和22年)のオムニバス映画『四つの恋の物語』の第4話「愛のサーカス」では愛人を曲芸の最中に殺害する空中ぶらんこ乗りを主演、また谷口千吉監督の『銀嶺の果て』では悪役から一転し、三船敏郎扮する強盗犯に逃亡の道案内を強要される登山家を演じ、その知性的な演技によりたちまち脚光を浴びる。 緑魔子: 以後、増村保造が監督する『大悪党』、森雅之の主演で谷口千吉が監督する『カモとねぎ』、大島渚が監督する『帰って来たヨッパライ』、市川雷蔵が主演する『眠狂四郎 人肌蜘蛛』、山田洋次が監督する『吹けば飛ぶよな男だが』、1969年に『盲獣』、など著名な映画監督の作品で著名な俳優らと共演し、自身曰く「人生の充実期」を迎える。 佐竹明夫: 早稲田大学理工学部建築科卒業後、三菱電機大船工場に勤務していたが、バスの中で谷口千吉監督にスカウトされ、1951年東宝に入社し、映画『死の断崖』で俳優デビュー。 平田昭彦: 国際秘密警察 絶体絶命(1967年、谷口千吉監督) - トルコ帽の男 平田昭彦: 奇巌城の冒険(1966年、谷口千吉監督) - 宰相 久保明: 潮騒(1954年、谷口千吉監督) - 新治 伊藤実: 最後の脱走(1957年 谷口千吉監督):匪賊 毒蝮三太夫: 谷口千吉監督『潮騒』など東宝や大映の青春映画に出演するも、東京都立大森高等学校卒業の頃に児童劇団を辞め、日本大学芸術学部映画学科では新劇をやるために影万里江、増山江威子、稲吉靖司、北浜晴子、豊原ミツ子らと「劇団山王」を組織し、石原慎太郎の『処刑の部屋』などを演じた。 梶野悳三: 「鰊漁場」は「ジャコ万と鉄」として1949年に谷口千吉監督、黒澤明、谷口千吉脚色、三船敏郎、月形龍之介主演、1964年にも深作欣二監督、高倉健、丹波哲郎主演で再映画化され、小説も改題された。 黒澤明: 山本組の助監督仲間には谷口千吉と本多猪四郎がおり、黒澤は2人の家に居候することもあった。 伊福部昭: この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。 島津保次郎: 島津の門下には、五所平之助、豊田四郎、吉村公三郎、木下惠介、中村登、佐伯清、谷口千吉らがおり、日本映画に与えた影響の大きさは計り知れない。 |
谷口千吉の情報まとめ
谷口 千吉(たにぐち せんきち)さんの誕生日は1912年2月19日です。東京出身の映画監督のようです。
映画、現在、卒業、結婚、離婚、趣味に関する情報もありますね。2007年に亡くなられているようです。
谷口千吉のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月19日 - 2007年〈平成19年〉10月29日)は、日本の映画監督。妻は女優の八千草薫。東京府南葛飾郡寺島村(後に同郡寺島町→東京市向島区→東京都向島区を経て、現在の東京都墨田区)出身。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部英文科在学中は、千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて1930年に中退。1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社する。山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務める。同期には、亀井文夫、本多猪四郎がいた。ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友である。 1947年、山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。これは三船敏郎の俳優デビュー作でもあり、山男の谷口が北アルプスでロケをしたことで、『キネマ旬報』ベスト・テン7位を獲得するなど高い評価を受けている。この作品にサード助監督として付いた岡本喜八は、以降多くの谷口作品に助監督として付く事となった。 「芸術の黒澤、娯楽の谷口」と謳われて、東宝ではアクション路線を担当した。谷口本人があまり積極的に映画製作を行わなかった事や、私生活での問題などもあり、1950年代後半には会社から3年近く干された事もあった。1960年代にはB級アクション映画や喜劇映画が回ってくるようになり、監督本数は減少した。1970年の日本万国博公式記録映画の総監督を経て、1975年の『アサンテ サーナ』を最後に監督作品はなく、最後まで表立った活動は見られなかった。 2007年10月29日、誤嚥性肺炎のため死去。95歳没。 私生活では結婚を3度している。最初の結婚は脚本家の水木洋子で、1938年12月に乃木神社にて式を挙げたが、翌年の1939年にスピード離婚をしている。1949年には初監督作品の『銀嶺の果て』の撮影現場で知り合った若山セツ子と電撃結婚をしたが、後の1956年に『乱菊物語』の撮影で知り合った八千草薫と不適切な関係になり若山と離婚した。いきなり谷口に捨てられた若山は女優としての役柄の不満も相まって、精神不安定になり女優生命を縮めることになった。翌1957年に八千草と結婚しているが、この不倫スキャンダルが祟り、谷口自身も映画監督として3年近くメガホンを取らせて貰えず干されてしまった。 大学時代から登山に熱中し、日本山岳会会員でもあった。山歩きを趣味とした八千草ともども夫婦で登山を楽しんでいたという。 谷口が監督に予定されていた日本・インドネシア合作映画『栄光のかげに』が政治上の都合で制作中止となり、それに代わる作品として『ゴジラ』が企画された際に、プロデューサーの田中友幸は再び谷口に監督を打診したが、谷口は「人間ものでないものは撮れない」としてこれを断った。 東宝ショウボート(1946年) 銀嶺の果て(1947年) ジャコ万と鉄(1949年) 暁の脱走(1950年) 魔の黄金(1950年) 愛と憎しみの彼方へ(1951年) 誰が私を裁くのか(1951年) 死の断崖(1951年) 霧笛(1952年) 激流(1952年) 吹けよ春風(1953年) 赤線基地(1953年) 潮騒(1954年) 裸足の青春(1956年) 乱菊物語(1956年) 嵐の中の男(1957年) 国定忠治(1960年) 男対男(1960年) 紅の海(1961年) 紅の空(1962年) やま猫作戦(1962年) 大盗賊(1963年) 独立機関銃隊未だ射撃中(1963年) 馬鹿と鋏(1965年) 国際秘密警察シリーズ
国際秘密警察 絶体絶命(1967年) 奇巌城の冒険(1966年) カモとねぎ(1968年) 公式長編記録映画 日本万国博(1971年) アサンテ サーナ(1975年 自主上映) ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 539, 「特撮映画スタッフ名鑑」 ^ “最前線記者覆面座談会 男優より女優の方がいまは幸せ? かつてのスクリーンのアイドル 原節子、折原啓子らどこでどうしている…”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 10. (1975年1月31日) ^ 冠木新市「一九五〇年代のゴジラ映画創造期 特殊技術が主役の映画」『ゴジラ映画クロニクル 1954-1998 ゴジラ・デイズ』企画・構成 冠木新市、集英社〈集英社文庫〉、1998年7月15日(原著1993年11月)、37頁。ISBN 4-08-748815-2。 映画全史1983">『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5。 早瀬圭一「過ぎし愛のとき―淑女の履歴書」(文藝春秋、1990年) 「八千草憔悴…谷口千吉監督が大往生」『スポーツニッポン』2007年11月1日号 西脇英夫「追悼谷口千吉監督 娯楽映画の職人に徹したインテリ監督」『キネマ旬報』2007年12月下旬号 「蓋棺録」『文藝春秋』2008年1月号 谷口千吉 - 日本映画データベース 谷口千吉 - 文化庁日本映画情報システム 表 話 編 歴 東宝ショウボート(1946) 銀嶺の果て(1947) ジャコ万と鉄(1949) 暁の脱走(1950) 愛と憎しみの彼方へ(1951) 死の断崖(1951) 霧笛(1952) 吹けよ春風(1953) 赤線基地(1953) 潮騒(1954) 乱菊物語(1956) 国定忠治(1960) 男対男(1960) 紅の海(1961) 紅の空(1962) やま猫作戦(1962) 大盗賊(1963) 国際秘密警察 鍵の鍵(1965) 奇巌城の冒険(1966) 国際秘密警察 絶体絶命(1967) アサンテ サーナ(1975) ISNI VIAF WorldCat スペイン フランス BnF data ドイツ イタリア アメリカ オランダ IdRef 日本の映画監督 東宝の人物 大阪万博に関係した人物 東京都立戸山高等学校出身の人物 東京都出身の人物 1912年生 2007年没 八千草薫 出典のページ番号が要望されている記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/18 17:20更新
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