青木周蔵の情報(あおきしゅうぞう) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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林董: 外務大臣は青木周蔵)。 長井長義: その後、ドイツのベルリンに渡り、青木周蔵駐独代理公使に下宿先を周旋された。 井上馨: その成果は次の大隈重信・青木周蔵・陸奥宗光らにいたって現れてきていると考えられる。 林董: 人物評価は青木周蔵・榎本武揚については辛辣で、青木とは肌が合わなかったらしく悪口を露骨に書き、榎本は正直・律儀と長所を挙げながらも思慮がなく人の言う所を承諾する短所も書き「朋友としては此上もなき人なれども、官吏としては共に事を執るに困る人なり」と評している。 山県有朋: しかし、鎮圧後に速やかな撤退を求めた伊藤に対し、山縣と青木周蔵外相は応じなかった。 平田東助: 当初はロシアに留学する予定であったが、ベルリンで青木周蔵・品川弥二郎らの知遇を得て説得され、統一したばかりのドイツでの留学に切り替えた。 井上馨: 中上川彦次郎、青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち、7月に帰国した。 西徳二郎: 下関条約に先立つ講和条件に関する意見では、駐英公使の青木周蔵が盛京省および吉林・直隷両省の一部を割譲させて将来的な日本の軍事的根拠地をそこに建設し、償金は英貨1億ポンドとすべきことを主張したのに対し、西は、ロシアを刺激することになる領土要求よりもむしろ償金を優先すべきという考えであり、領土割譲は多額の償金の担保という名目で行った方がロシアなどからの干渉を極力排除できると説いている。 明治天皇: 外交分野でも陸奥をトップとして、前外相で駐ドイツ公使の青木周蔵に対英交渉をゆだねるという強力布陣で臨んだ。 明治天皇: その後外相に就任した青木周蔵のもと日本政府は、妥協案ではなく、完全な法権回復を目指すという最もハードルの高い路線に回帰していった。 青木盛久: 青木 盛久(あおき もりひさ、1938年11月23日 - )は、日本の元外交官で、公益財団法人青木周蔵記念育英会理事長。 曾禰荒助: しかし日清戦争の後には駐ドイツ全権公使青木周蔵と共に三国干渉では列強にやり込められている。 水沢周: 『青木周蔵 明治外交の創造』日本エディタースクール出版部(全2巻) 1988-89 小村寿太郎: 駐日ロシア公使のアレクサンドル・イズヴォリスキーも青木周蔵外務大臣に同様の提案をおこなったが、伊藤博文も井上馨もこの提案に対しては好意的であった。 小村寿太郎: 1891年(明治24年)5月の大津事件に際しても、青木周蔵外相はじめ死刑論が優勢ななか、ロシアを恐れるあまり法律を曲げて津田三蔵を死刑にしてはならないと、一貫して死刑反対論の立場に立った。 岡部長職: 青木周蔵外相の下、条約改正に尽力したが、1891年(明治24年)6月、前月の大津事件の責任をとる形で、特命全権公使に転任した(94年6月迄)。 木戸孝允: 欧州滞在中の明治5年(1872年)、ドイツ滞在中の青木周蔵に対し、木戸は憲法草案の作成を命じた。 山県有朋: 内相就任前から地方制度に関する意見を政府に提出していた山縣は、市町村制の公布に際し、明治20年(1887年)1月から開かれた地方制度編纂委員会で委員長を務め、ドイツのお雇い外国人アルベルト・モッセ、同郷の青木周蔵・野村靖らを委員として、ドイツの制度を参考にした自治制を日本に合うように修正・定着する方針に決めた。 吉原重俊: 明治11年(1878年)11月パリに出張し松方正義、上野景範、青木周蔵とともに不平等条約改定交渉に努めた。 青木盛久: 現在は公益財団法人青木周蔵記念育英会理事長、財団法人あしぎん国際交流財団理事なども務める。 林董: 大津事件で第1次松方内閣の外務大臣青木周蔵が引責辞任、旧知の榎本武揚が後任の外相になると、同年6月に外務次官に任じられ外務省へ戻り、榎本の外交を支えた。 佐竹明夫: 明治の群像 海に火輪を 第6話「陸奥宗光〜前編〜」(1976年、NHK) - 青木周蔵 明治天皇: ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に贈呈された菊花章はロシア皇帝に続く授与であり、前年に駐ドイツ公使青木周蔵が外務卿寺島宗則に宛てて日本が最高勲章をドイツ皇帝に贈ればドイツ側もプロイセン最高勲章の黒鷲勲章を天皇に贈るのではないかという進言を行っており、その影響で授与が決定されたものである。 青木盛久: なお、曽祖父は明治時代に外務大臣を務めた青木周蔵(周蔵が養子に入った青木家の別の養子である青木梅三郎の子孫のため血縁関係はない)。 ヘルマン=ロエスレル: 1878年 当時の駐独公使青木周蔵の周旋により、外務省の公報顧問として招聘される。 水沢周: 『青木周蔵 日本をプロシャにしたかった男』中公文庫(全3巻) 1997 木村俊夫: 青木周蔵 倉成正: 青木周蔵 林董: ところがアメリカの移民問題で駐米大使になっていた青木周蔵が独断でアメリカと交渉したことに激怒、青木を更迭してアメリカと移民渡航制限(日米紳士協約)を結んだ。 山田顕義: 代表的なものに、明治3年(1870年)大木民平の「建国法意見書」や江藤新平の「国法会議案」、明治5年(1872年)木戸孝允の命により青木周蔵が起草した「帝号大日本政典」や民撰議院「仮規則及議事上院略規」、明治10年(1877年)元老院「日本国憲案」、明治13年(1880年)「国憲草案」及び筑前共愛公衆会による「大日本帝国憲法見込書草案」や元田永孚の「国憲大綱」などがある。 |
青木周蔵の情報まとめ
青木 周蔵(あおき しゅうぞう)さんの誕生日は1844年3月3日です。山口出身の外交官のようです。
結婚、離婚、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1914年に亡くなられているようです。
青木周蔵のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)青木 周蔵(あおき しゅうぞう、旧字体:靑木 周󠄀藏、1844年3月3日〈天保15年1月15日〉 - 1914年〈大正3年〉2月16日)は、明治・大正期の日本の外交官、政治家。栄典は贈正二位贈勲一等子爵。 長門国厚狭郡生田村(のち山口県山陽小野田市)出身。幼名は三浦團七。長州藩の村医・三浦玄仲と妻・友子の長男として生まれ、22歳の時に毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者・青木周弼の弟で後の宮廷大典医となる青木研藏の養子となって士族となり、この際に2人の名を取り周藏と改名し、研藏の娘・テルと結婚する。 明倫館で学んだ後、留学候補として松岡勇記と共に長崎へ派遣され医学修行を行う。長崎ではオランダ人教師が伝習生に対して「独逸学(ドイツ医学)」の習得を勧め、その優越を喧伝したことから、ドイツは伝習生間での留学希望先として衆目を集めつつあった。長州藩では留学生を送り出すにあたって、必ず二人組での同行を求めていた。しかし周藏は松岡を徹底して忌み嫌っており、先輩医師の半井春軒との同行を申し出る。ここで戊辰戦争が勃発し、現役医師は治療現場に駆り出され、松岡、半井の件は棚上げとなる。1868年(明治元年)、藩留学生として土佐藩士・萩原三圭と共に「孛漏西(プロイセン)」への留学が認可された。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが、来独中の山縣有朋に談判して解決させた。1872年(明治5年)、北ドイツ留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し、物議をかもす。当時の留学生の専攻は軍事、医学に集中しており、青木の真意は日本近代化には専攻を分散することの必要を説くことだった。青木の推奨もあって、林業、製紙、ビール、製絨(羅紗絨毯)などの分野へ特化して成功した人物も出た。 1873年(明治6年)に外務省へ入省する。外務省一等書記官を経て本省に勤務したが、翌1874年(明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、プロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合う。1875年(明治8年)にはオーストリア=ハンガリー帝国公使を兼任した。翌年にエリザベートと結婚を決意し、1877年(明治10年)に外務省の許可を得るものの、テルとの離婚が青木家から承諾を得られず、難航する。そのため、周蔵がテルに新しい夫を見つけ、その結納金を支払うことを条件とし、計3回テルに夫を紹介して3回結納金を払った。この結婚をめぐって困難があったものの、品川弥二郎らに助けられて難事を乗りこえた。1878年(明治11年)には、オランダ公使も兼任している。 1879年(明治12年)、妊娠中のエリザベートを連れて帰国して、条約改正取調御用係となったが、1880年(明治13年)、井上馨外務公卿の下で再度駐独公使としてベルリンに赴任した。1882年(明治15年)には伊藤博文のヨーロッパでの憲法調査を助け、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両法学教授の斡旋をおこなっている。1885年(明治18年)、オランダやノルウェー公使をも兼務したが、翌年に外務大輔として帰国、条約改正議会副委員長となった。1886年(明治19年)3月、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨のもとで外務次官となり、全権委任状を下付されて条約改正会議に出席するなど、翌年まで井上外交を支えた。 1887年(明治20年)5月9日、子爵を叙爵。1888年(明治21年)の黒田内閣の大隈重信外相のもとでも引き続き外務次官を務めた。1889年には外務次官・条約改正全権委員として条約改正交渉の中心人物として活躍した。 来島恒喜のテロによって大隈が遭難したあと、1889年(明治22年)12月24日に第1次山縣内閣の外務大臣に就任、外相として「青木覚書」を閣議に提出して承認を受けた。こののち対英条約改正交渉をみずから指揮して駐日イギリス公使フレーザーとの交渉を進め、1891年(明治24年)、第1次松方内閣でも外務大臣を留任、領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。1890年(明治23年)7月10日、貴族院子爵議員に就任し1期在任した。 帝政ロシアが東アジアに進出することに不安を抱くイギリスが日本に好意を持つなど、時勢にも恵まれ交渉は成功しかけたが、新条約調印寸前の1891年5月に大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れると、これを伊藤博文と井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買うことになった(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)。1892年(明治25年)、駐独公使としてドイツに赴任した。後任の外相には陸奥宗光が抜擢され、陸奥は青木に駐イギリス公使を兼任させた。 1894年(明治27年)、駐英公使として外相の陸奥とともに条約改正に尽力、アレクサンダー・フォン・シーボルトを通訳として日英通商航海条約改正に成功した。 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣では再び外務大臣に就任、1900年(明治33年)の義和団の乱に対処、列強の動きを敏感に察知し積極的な介入を試みた。こののち枢密顧問官を務めた。 1906年(明治39年)には駐米大使として移民問題の解決につとめた。 1914年(大正3年)2月6日、肺炎のため東京の自宅で死去。死後、正二位を贈られた。青木の遺骸は栃木県那須郡(現・那須塩原市)にある別邸近くに埋葬されている。 外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した。 留学生・外交官(ドイツ公使)として滞独生活は25年に及び、日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかった。獨逸学協会にも会員として在籍し、獨逸学協会学校の評議委員も務めた。 大隈重信遭難後、第1次山縣内閣と第1次松方内閣の外務大臣として条約改正交渉を主導した。条約改正方針として「青木覚書」を山縣内閣の閣議に提出している。その骨子は、 外国出身の法律家を大審院の法官に任用せざること。 法典を早きに及びて編成発布することを約束せざること。 不動産の所有権は、領事裁判を撤去せざる間は、其抵償物として之を外国人に許与せざること。 外国人取扱上に付、経済上又は法律上、或る場合に於ては、特権の制限を設くること。 であり、「其範囲内に於て全権を実際に便宜運用するは改正事務を委任されたる人の裁酌する所に任すべし」というものであった。 実父:三浦玄仲(1820–1892) - 小埴生村(生田村)の村医 実母:友子(1823–1901) - 高千帆村字千崎の蘭学医・目文貞の妹 養父:青木研藏(1815–1870) - 明倫館好生堂の教諭役(館長)、宮廷大典医 先妻:テル - 養父青木研藏の娘 継妻:エリザベート(エリーザベト)・フォン・ラーデ(Elisabeth von Rhade、1849–1931) - プロイセン貴族令嬢 一人娘:ハンナ(Hanna、1879–1953) - エリザベートとの子、アレクサンダー・フォン・ハッツフェルト伯爵(Alexander Graf von Hatzfeldt、1877–1953)の妻
娘のハンナ(日本名は花子)は、プロイセンのシュレージェン州知事を務めたトラッヘンベルク公爵(Herzog zu Trachenberg)の次男であり、駐日ドイツ公使館の主任外交官補として勤務していたアレクサンダー・フォン・ハッツフェルト伯爵と1904年12月19日に東京で結婚し、夫婦の間に一人娘・ヒサが生まれる。ヒサはナポレオン戦争期に活躍したナイペルク伯爵の曾孫であるエルヴィンと結婚し、その子孫はドイツ、オーストリア、イギリスに健在している。 ヒサの外孫の一人、ザルム=ライファーシャイト家(ドイツ語版)当主で、オーストリア・シュタイレッグ城(ドイツ語版)の管理者であるニクラス・ザルム=ライファーシャイト伯爵が2004年に那須別邸を訪れ、ハナの写真などを寄贈した。青木周蔵が建設した那須塩原町の青木小学校の100周年記念行事にも出席した。 二クラスは高祖父にあたる青木周蔵について「彼は、日本人としては直接的にものを言い過ぎるところがあり、ドイツ人のような日本人だった」「彼は、日本の将来の発展を確信しながら、そのために日本が変わらなければならないことを承知していました。だからこそ、彼は変化を恐れない人でした」と論じている。 養子:青木梅三郎(1873–1941) - 子爵、杉孫七郎(皇太后宮大夫などを歴任)の三男(テルと周蔵の離婚にともない、青木家の家督継承者として梅三郎が養子に入った)。 養嫁:文子(1885–1941) - 福原信蔵の次女
義孫:田鶴子(1906–1989) - 梅三郎の長女、吉岡範武の妻 義孫:多嘉子(1907–1981) - 梅三郎の次女、伊藤謹一郎の妻 義孫:盛夫(1910–1977) - 外交官、梅三郎の次男(妻は杉村陽太郎の長女・和子) 義孫:韶夫(1912–1944) - 梅三郎の三男(妻は佐々木千秀の長女・昌子) 義孫:幹夫(1914–1945) - 梅三郎の四男 義孫:寿美子(1916–?) - 梅三郎の三女、高辻正己の妻 義孫:周夫(1918–?) - 男爵(辻太郎の養子)、梅三郎の五男(妻は佐々木千秀の次女・淑子) 甲武鉄道会社社長を務めた三浦泰輔は実弟。 フォークランド紛争当時、イギリスの在アルゼンチン大使であるアンソニー・ウィリアムスは青木の孫娘・ヒサの娘婿にあたる。 ペルー日本大使公邸占拠事件時の在ペルー特命全権大使青木盛久は義理の曾孫(梅三郎の孫のため血縁関係はない)。 日本ホテル協会会長などを務めた原範行も義理の曾孫(梅三郎の孫のため血縁関係はない)。 井上省三-留学中に友情を深めている。 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位 1890年(明治23年)2月7日 - 従二位 1914年(大正3年)2月16日 - (没後追叙)正二位 1887年(明治20年)5月9日 - 子爵 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1890年(明治23年)6月30日 - 勲一等瑞宝章 1894年(明治27年)8月29日 - 旭日大綬章 1914年(大正3年)2月16日 - (没後叙勲)旭日桐花大綬章 1885年(明治18年)12月25日
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国:エルコスト第一等勲章 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライヘン第一等勲章 1887年(明治20年)9月27日 - ポルトガル王国:キリスト勲章グランドクロア 1888年(明治21年)2月21日 - 勲一等タイ王冠勲章 1891年(明治24年)5月27日 - オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章 1895年(明治28年)8月17日
ドイツ帝国:赤鷲大綬章(英語版) オスマン帝国:1等オスマニエ勲章(英語版) 1897年(明治30年)9月27日 - ドイツ帝国:金剛石装飾赤鷲大綬章 1902年(明治35年)7月22日 - デンマーク王国:ダンネブロ勲章グランクロワー 『青木公使取調独逸国元首貴族従属貴族等特権』1876年。 NCID BA31385399。 『青木公使取調独逸貴族特権論附録』1876年。 NCID BA31385832。 『狩猟規則草案』青木周蔵、1900年5月。全国書誌番号:40029363 NDLJP:796283。 『経済意見』1901年6月。全国書誌番号:40031782 NDLJP:799044。 『青木周蔵自伝』坂根義久校注、平凡社〈東洋文庫 168〉、1970年8月。 NCID BN01796250。全国書誌番号:73009456 NDLJP:12254777。
^ 「生田村」は没時の地方公共団体としての名称であり、出生当時の名称は「小埴生村」。 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 5頁。 ^ 森川潤『青木周蔵 渡独前の修学歴(広島修道大学学術選書)』第四章第三節「孛漏西行」、丸善出版、2018年 ^ 「特集 華族 近代日本を彩った名家の実像」歴史読本2013年10月号 ^ 伊藤隆(2001)p.132 ^ 伊藤隆(2001)pp.132-133 ^ 伊藤隆(2001)p.133 ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。 ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』33頁。 ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)7頁 ^ 獨協大学ニュース2018年11月号 ^ Hanna Aoki The Peerage ^ Alexander Graf von Hatzfeldt The Peerage ^ Hissa Gräfin von Hatzfeldt The Peerage ^ Erwin Graf von Neipperg The Peerage ^ Niklas Maria Franz Karl Erwin Vinzenz Altgraf zu Salm-Reifferscheidt-Raitz The Peerage ^ 高橋萌 (2015年4月17日). “ドイツに学び 日本を強い国に 不平等条約を押し付けられた時代の挑戦者 青木周蔵”. 知っておきたい日独の歴史のお話1. ドイツニュースダイジェスト. 2024年7月18日閲覧。 ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、4頁。 ^ 新井恵美子『原三渓物語』284頁 ^ 日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト、2007』 ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。 ^ 『官報』第1982号「叙任及辞令」1890年2月10日。 ^ 『官報』1914年2月18日 361頁 敍任及辭令 国立国会図書館デジタルコレクション ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。 ^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。 ^ 『官報』第3353号「叙任及辞令」1894年8月31日。 ^ 『官報』第748号「叙任及辞令」1885年12月26日。 ^ 『官報』第1278号「叙任及辞令」1887年9月30日。 ^ 『官報』1888年2月24日 敍任及辭令 国立国会図書館デジタルコレクション ^ 『官報』第2372号「叙任及辞令」1891年5月29日。 ^ 『官報』1895年8月29日 敍任及辭令 ^ 「特命全権公使子爵青木周蔵独逸国勲章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112480600 ^ 『官報』第5718号「叙任及辞令」1902年7月26日。 坂根義久『明治外交と青木周蔵』(刀水書房、1985年、2003年) ISBN 4-88708-069-7 水沢周『青木周蔵 明治外交の創造 青年篇』(日本エディタースクール出版部、1988年) ISBN 4-88888-140-5 水沢周『青木周蔵 明治外交の創造 壮年篇』(日本エディタースクール出版部、1989年) ISBN 4-88888-151-0 水沢周『青木周蔵 日本をプロシャにしたかった男』上、中、下(中公文庫、1997年) 岡田義治『青木農場と青木周蔵那須別邸』(随想舎、2001年) ISBN 4-88748-064-4 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 伊藤隆『日本の近代16 日本の内と外』中央公論社、2001年1月。ISBN 4-12-490116-X。 青木周蔵家 青木周蔵 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館 国立国会図書館 憲政資料室 青木周蔵関係文書(その1) 国立国会図書館 憲政資料室 青木周蔵関係文書(その2) 国立国会図書館 憲政資料室 青木周蔵関係文書(MF) 『青木周蔵』 - コトバンク 『青木 周蔵』 - コトバンク 表 話 編 歴 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使) 上野景範 1872(弁理公使) 吉田清成 1874–82 寺島宗則 1882–84 九鬼隆一 1884–88 陸奥宗光 1888–90 建野郷三 1891–94 栗野慎一郎 1894–96 星亨 1896–98 小村寿太郎 1898–1900 高平小五郎 1900–06 青木周蔵 1906–08 高平小五郎 1908–09 内田康哉 1909–11 珍田捨巳 1912–16 佐藤愛麿 1916–18 石井菊次郎 1918–19 幣原喜重郎 1919–22 埴原正直 1922–24 松平恆雄 1924–28 出淵勝次 1928–34 斎藤博 1934–39 堀内謙介 1938–40 野村吉三郎 1941 来栖三郎 1941 (閉 鎖 1941–52) 武内龍次 1951–52 武内龍次臨時代理大使 1952 新木栄吉 1952–53 井口貞夫 1954–56 谷正之 1956–57 朝海浩一郎 1957–63 武内龍次 1963–67 下田武三 1967–70 牛場信彦 1970–73 安川壮 1973–75 東郷文彦 1975–80 大河原良雄 1980–85 松永信雄 1985–89 村田良平 1989–92 栗山尚一 1992–95 斎藤邦彦 1995–99 柳井俊二 1999–2001 加藤良三 2001–08 藤崎一郎 2008–12 佐々江賢一郎 2012–18 杉山晋輔 2018–2021 冨田浩司 2021–2023 山田重夫 2023–現任 表 話 編 歴 初代 近衛篤麿:1898(明治31)年-1904(明治37)年 第2代 青木周蔵:1904(明治37)年-1907(明治40)年 第3代 鍋島直大:1907(明治40)年-1918(大正7)年・総裁:1918(大正7)年-1921(大正10)年 第4代 牧野伸顕:1918(大正7)年-1936(昭和11)年 第5代 近衛文麿:1936(昭和11)年-1945(昭和20)年 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 鮫島尚信1870-1873 少弁務使→中弁務使→弁理公使 / 1873-1875 青木周蔵1874 代理公使 / 1874-1885 品川弥二郎1885-1887 西園寺公望1887-1891 青木周蔵1892-1898 井上勝之助1898-1906 大使館昇格1906 井上勝之助1906-1907 珍田捨巳1908-1911 杉村虎一1911-1914 日置益1920-1924 本多熊太郎1924-1926 長岡春一1926-1930 小幡酉吉1930-1933 永井松三1933-1935 武者小路公共1935-1937 東郷茂徳1937-1938 大島浩1938-1939 来栖三郎1939-1941 大島浩1941-1945 閉鎖1945 加瀬俊一1953-1956 大野勝巳1956-1957 武内竜次1957-1960 成田勝四郎1961-1965 内田藤雄1965-1970 甲斐文比古1970-1972 曽野明1972-1975 上田常光1975-1977 吉野文六1977-1982 宮崎弘道1982-1986 宮沢泰1986-1989 木村敬三1989-1992 村田良平1992-1994 有馬龍夫1994-1997 渋谷治彦1997-1998 久米邦貞1998-2001 野村一成2001-2002 高島有終2002-2005 高野紀元2005-2008 神余隆博2008-2012 中根猛2012-2015 八木毅2015-2020 柳秀直2020-2024 志野光子2024- 谷盛規1974-1975 中尾賢次1975-1979 山田淳治1979-1982 村上謙1982-1986 木村敬三1986-1988 新井弘一1988-1990 ドイツ連邦共和国加盟1990 表 話 編 歴 柳原前光1873 代理公使(未赴任) 鮫島尚信1878-1880 長岡護美1880-1882 蜂須賀茂韶1883-1887 西園寺公望1887-1891 青木周蔵1892-1898 井上勝之助1898 本野一郎1898-1901 加藤恒忠1902-1906 秋月左都夫1907-1909 鍋島桂次郎1910-1913 阿部守太郎1913 (未赴任) 陸奥広吉1914 (未赴任) 安達峰一郎1917-1921 大使館昇格1921 安達峰一郎1921-1928 永井松三1928-1930 佐藤尚武1931-1933 有田八郎1934-1935 来栖三郎1936-1939 栗山茂1939-1940 大使交換中断 与謝野秀1951-1952 在外事務所長 荒川昌二1952-1955 武内竜次1955-1957 倭島英二1957-1960 下田武三1961-1963 湯川盛夫1963-1968 小田部謙一1968-1971 安倍勲1971-1976 西堀正弘1976-1979 徳久茂1979-1983 山本鎮彦1983-1987 加藤吉彌1987-1990 矢田部厚彦1990-1992 加藤淳平1992-1994 中村順一1994-1997 兵藤長雄1997-2000 佐藤俊一2000-2003 内藤昌平2003-2006 林梓2006-2009 横田淳2009-2012 坂場三男2012-2014 石井正文2014-2017 林肇2017-2019 下川眞樹太2019-2022 三上正裕2022- 表 話 編 歴 鮫島尚信1870-1872 少弁務使 寺島宗則1872 大弁務使 / 1872-1873 上野景範1874-1879 森有礼1879-1884 河瀬真孝1884-1893 青木周蔵1894-1898 加藤高明1898-1900 林董1900-1905 大使館に昇格 林董1905-1906 小村壽太郎1906-1908 加藤高明1908-1913 井上勝之助1913-1916 珍田捨巳1916-1920 林権助1920-1925 松井慶四郎1925-1929 松平恆雄1929-1936 吉田茂1936-1939 重光葵1939-1941 大使交換中断1941 上村伸一1941-1942臨時代理大使 引揚1942 朝海浩一郎1951-1952 朝海浩一郎1952臨時代理大使 松本俊一1952-1955 西春彦1955-1958 大野勝巳1958-1964 島重信1964-1968 湯川盛夫1968-1972 森治樹1972-1975 加藤匡夫1977-1979 藤山楢一1979-1982 平原毅1982-1985 山崎敏夫1985-1988 千葉一夫1988-1990 北村汎1990-1994 藤井宏昭1994-1997 林貞行1997-2001 折田正樹2001-2004 野上義二2004-2008 海老原紳2008-2011 林景一2011-2016 鶴岡公二2016-2019 長嶺安政2019-2020 林肇2020- 表 話 編 歴 初代会長 青木周蔵 1886-1893 第2代 渡辺洪基 1893-1898 第3代 辰野金吾 1898-1904 第4代 渡辺譲 1904-1905 第5代 辰野金吾 1905-1918 第6代 曽禰達蔵 1918-1921 第7代 中村達太郎 1921-1923 第8代 塚本靖 1923-1925 第9代 横河民輔 1925-1927 第10代 塚本靖 1927-1929 第11代 佐野利器 1929-1931 第12代 大熊喜邦 1931-1933 第13代 佐野利器 1933-1935 第14代 内田祥三 1935-1937 第15代 佐野利器 1937-1939 第16代 内田祥三 1939-1941 第17代 内藤多仲 1941-1943 第18代 小林政一 1943-1945 第19代 内藤多仲 1945-1947 第20代 岸田日出刀 1947-1949 第21代 吉田享二 1949-1951 第22代 伊藤滋 1951-1953 第23代 石井桂 1953-1955 第24代 武藤清 1955-1957 第25代 佐藤武夫 1957-1959 第26代 二見秀雄 1959-1961 第27代 木村幸一郎 1961-1963 第28代 棚橋諒 1963-1965 第29代 高山英華 1965-1967 第30代 坪井善勝 1967-1969 第31代 前田敏男 1969-1971 第32代 加藤六美 1971-1973 第33代 吉阪隆正 1973-1975 第34代 横尾義貫 1975-1977 第35代 吉武泰水 1977-1979 第36代 梅村魁 1979-1981 第37代 清家清 1981-1983 第38代 小堀鐸二 1983-1985 第39代 芦原義信 1985-1987 第40代 谷資信 1987-1989 第41代 木下茂徳 1989-1991 第42代 岸谷孝一 1991-1993 第43代 内田祥哉 1993-1995 第44代 中村恒善 1995-1997 第45代 尾島俊雄 1997-1999 第46代 岡田恒男 1999-2001 第47代 仙田満 2001-2003 第48代 秋山宏 2003-2005 第49代 村上周三 2005-2007 第50代 斎藤公男 2007-2009 第51代 佐藤滋 2009-2011 第52代 和田章 2011-2013 第53代 吉野博 2013-2015 第54代 中島正愛 2015-2017 第55代 古谷誠章 2017-2019 第56代 竹脇出 2019-2021 第57代 田辺新一 2021- 表 話 編 歴 柳原前光1873 代理公使(未赴任) 青木周蔵1878-1880 長岡護美1880-1882 桜田親義1881-1885 臨時代理公使 青木周蔵1885 中村博愛1885-1889 弁理公使 棚橋軍次臨時代理公使 高平小五郎1892-1894 弁理公使 赤羽四郎1894-1899 弁理公使 珍田捨巳1899-1900 1900 弁理公使 三橋信方1901-1906 佐藤愛麿1906-1914 幣原喜重郎1914-1915 落合謙太郎1915-1920 田付七太1920-1923 長岡春一1923-1925 松田道一1925-1926 広田弘毅1926-1930 松永直吉1931-1933 斎藤博1933-1934 武富敏彦1934-1936 桑島主計1937-1938 石射猪太郎1938-1940 矢口麓蔵1940臨時代理公使 引揚1940 下田武三1951-1952 下田武三1952臨時代理大使 佐藤正二1952臨時代理大使 田付景一1952臨時代理大使 岡本季正1952-1956 大江晃1956-1959 宮崎章1959-1963 伊関佑二郎1963-1966 後宮虎郎1966-1968 藤崎萬里1968-1972 須之部量三1972-1973 広田稹1974-1975 高島益郎1975-1977 内田宏1977-1981 中島信之1981-1985 秋山光路1985-1988 大鷹正1988-1990 藤田公郎1990-1992 有馬龍夫1992-1994 佐藤行雄1994-1996 池田維1996-2001 東郷和彦2001-2002 小池寛治2002-2004 小町恭士2004-2007 渋谷実2007-2010 肥塚隆2010-2012 長嶺安政2012-2013 辻優2013-2016 猪俣弘司2016-2019 堀之内秀久2019-2023 南博2022- 表 話 編 歴 在オランダ弁理公使/公使が兼轄 長岡護美1880-1882 桜田親義1881-1885 臨時代理公使 青木周蔵1885 中村博愛1885-1889 弁理公使 棚橋軍次 臨時代理公使 高平小五郎1892-1894 弁理公使 赤羽四郎1894-1898 弁理公使 珍田捨巳1899-1900 弁理公使 / 1900 三橋信方1901-1906 佐藤愛麿1907-1914 幣原喜重郎1914-1915 落合謙太郎1916-1917 在スウェーデン公使が兼轄 内田定槌1917-1920 日置益1918-1920 畑良太郎1920-1924 永井松三1924-1928 武者小路公共1929-1933 白鳥敏夫1933-1936 栗山茂1937-1939 岡本季正1942-1945 断交 結城司郎次1952-1954 大江晃1954-1957 黄田多喜夫1957-1958 昇格 黄田多喜夫1958 田付景一1958-1961 近藤晋一1961-1964 高木広一1964-1965 小田部謙一1966-1968 小川平四郎1968-1972 人見宏1972-1975 大和田渉1975-1977 橘正忠1977-1980 高橋展子1980-1983 賀陽治憲1983-1986 溝口道郎1986-1989 松田慶文1989-1993 苅田吉夫1993-1995 須藤隆也1995-1997 折田正樹1997-2001 内藤昌平2001-2003 小川郷太郎2003-2006 岡田眞樹2006-2008 近藤誠一2008-2010 佐野利男2010-2013 末井誠史2013-2016 鈴木敏郎2016-2019 宮川学2019-2022 宇山秀樹2022- 表 話 編 歴 佐野常民1873 弁理公使 / 1873-1874 河瀬真孝1873 弁理公使 青木周蔵1875-1880 井田譲1880-1882 上野景範1882-1884 西園寺公望1885-1887 戸田氏共1887-1890 渡辺洪基1890-1892 大山綱介1892-1895 臨時代理公使 高平小五郎1896-1899 牧野伸顕1899-1906 大使館昇格1907 内田康哉1907-1909 秋月左都夫1910-1913 佐藤愛麿1914 第一次大戦中引揚 公使館開設 本多熊太郎1921-1924 赤塚正助1924-1926 大野守衛1927-1930 有田八郎1931-1932 松永直吉1933-1935 谷正之1936-1937 独墺合邦により総領事館に格下げ1938 山路章1938-1941 N/A 合邦解消、総領事館閉鎖1945 公使館開設 大野勝巳1955-1956 古内広雄1957 大使館昇格1957 古内広雄1957-1961 内田藤雄1961-1964 法眼晋作1965-1968 新関欽哉1968-1971 藤山楢一1971-1975 鹿取泰衛1975-1979 山戸徹1980-1983 宮沢泰1983-1985 村田良平1985-1987 矢田部厚彦1987-1989 長谷川和年1989-1992 小野寺龍二1992-1993 黒川剛1993-1996 高島有終1996-1999 伊集院明夫1999-2003 橋本宏2003-2006 梅津至2006-2007 田中映男2007-2010 岩谷滋雄2010-2013 竹歳誠2013-2016 小井沼紀芳2016-2019 水谷章2019-2022 水内龍太2022- 表 話 編 歴 佐野常民1873 弁理公使 1873-1874 河瀬真孝1873 弁理公使 青木周蔵1875-1880 井田譲1880-1882 上野景範1882-1884 西園寺公望1885-1887 戸田氏共1887-1890 渡辺洪基1890-1892 大山綱介1892-1895 臨時代理公使 高平小五郎1896-1899 牧野伸顕1899-1906 大使館昇格1907 内田康哉1907-1909 秋月左都夫1910-1913 佐藤愛麿1914 引揚 オーストリア=ハンガリー帝国解体1918 在オーストリア公使が兼轄1921-1937 本多熊太郎1921-1924 赤塚正助1924-1926 大野守衛1927-1930 有田八郎1931-1932 松永直吉1933-1935 谷正之1936-1937 独墺合邦により公使館消滅1938 公使館開設 松宮順1938-1939 井上庚二郎1939-1940 大久保利隆1941-1943 森喬未赴任 引揚1944 再開1960 小川清四郎1960-1962 吉田健一郎1962-1964 大使館昇格1964 吉田健一郎1964-1966 八木正男1966-1968 卜部敏男1968-1969 上田常光1970-1973 都倉栄二1973-1975 齋木千九郎1957-1978 杉原真一1978-1981 角谷清1981-1983 和智一夫1983-1986 茂木良三1986-1989 関榮次1989-1992 堤功一1992-1995 田中義具1995-1997 久米邦貞1997-1998 糠沢和夫1998-2001 松本和朗2001-2003 稲川照芳2003-2006 鍋倉眞一2006-2009 伊藤哲雄2009-2012 山本忠通2012-2014 小菅淳一2014-2017 佐藤地2017-2020 大鷹正人2020-2024 小野日子2024- FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research ドイッチェ・ビオグラフィー SNAC IdRef 日本の枢密顧問官 戦前日本の大使 在アメリカ合衆国日本大使 明治時代の閣僚 日本の外務大臣 貴族院子爵議員 明治時代の貴族院議員 明治日本の公使 獨協大学の人物 造家学会・建築学会会長 大日本武徳会の幹部 東京地学協会の人物 東邦協会の人物 日本の条約改正の人物 正二位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 赤鷲勲章受章者 ダンネブロ勲章受章者 タイ王冠勲章受章者 青木周蔵家 山口県出身の人物 幕末長州藩の人物 在ドイツ日本人 1844年生 1914年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat 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2024/11/21 07:01更新
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aoki syuuzou
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