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ジャイアント馬場の情報 (じゃいあんとばば)
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【5月27日】今日誕生日の芸能人・有名人

ジャイアント馬場の情報 (じゃいあんとばば) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ジャイアント馬場さんについて調べます

■名前・氏名
ジャイアント馬場
(じゃいあんと ばば)
■職業
格闘家
プロレス
■ジャイアント馬場の誕生日・生年月日
1938年1月23日 (年齢61歳没)
寅年(とら年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
新潟出身

ジャイアント馬場と同じ1938年生まれの有名人・芸能人

ジャイアント馬場と同じ1月23日生まれの有名人・芸能人

ジャイアント馬場と同じ出身地新潟県生まれの有名人・芸能人


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ジャイアント馬場と関係のある人

近藤昭仁: 馬場はこの事故が原因でプロ野球選手を引退するものの、プロレスラーに転身し「ジャイアント馬場」として活躍することとなった。


ディック・ザ・ブルーザー: 11月24日に大阪府立体育館にて、力道山の死後、空位となっていたインターナショナル・ヘビー級王座をジャイアント馬場と争った。


三沢光晴: 全日本プロレスではジャイアント馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。


実川俊晴: ジャイアント馬場入場テーマ曲


イーデス・ハンソン: またプロレスファンでもあり、特にジャイアント馬場と、馬場が率いる全日本プロレスに心酔していた。


グレート草津: 全日本プロレスのジャイアント馬場が国際プロレスに特別参戦した1972年11月29日には、馬場とのコンビでバスチェン&マリオ・ミラノと対戦。


茶風林: APO APOワールド ジャイアント馬場90分一本勝負(永源遥)


ディック=マードック: 全日本ではローデスと組んでジャイアント馬場・ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦(1975年)したほか、1980年には鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。


ブルーザー=ブロディ: 逆に全日本プロレス参戦時はジャイアント馬場とジャンボ鶴田にのみシングル戦でピンフォール負けを喫している(馬場には2回、鶴田には1回)。


岩釣兼生: 1976年、全日本プロレス入りが決まっていたが、契約書にサインする段階になって社長のジャイアント馬場と拓殖大学側の要求にずれがあり決裂、全日本プロレス入りは幻に終わった。


山本小鉄: 凱旋帰国後は、ジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲と組んでの6人タッグマッチなどでメインイベントにも度々出場。


ストロング金剛: この記録は、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座21回連続防衛を破る当時の日本人新記録であった。


バーン=ガニア: 1981年には前記のジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合で馬場と対戦(当初ガニアは「3000? 俺は倍ぐらいやっている」と言っていたが、デビュー以来の連続無欠場記録と聞いて「それは素晴らしい記録だ」と出場を快諾したという)。


ジャンボ鶴田: 日本人では力道山・ジャイアント馬場・アントニオ猪木に次ぐ4人目の快挙であり、鶴田と生前親交があった原辰徳も「すごいね、価値あるよね」と祝福した。


天龍源一郎: (全日本プロレスでの師匠である)ジャイアント馬場さんに感謝している。


スタン=ハンセン: ジャイアント馬場はギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、馬場のハンセンに対する本音は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。


ジャンボ鶴田: 座右の銘である『人生はチャレンジだ チャンスは掴め』は、鶴田のプロレスの師匠であったジャイアント馬場から継承している。


馬場皐輔: 阪神から巨人への移籍は2004年の野村克則以来であり、巨人の投手として活躍したことがある馬場正平(ジャイアント馬場)と同じ名字であることから「巨人では二人目の馬場」と比喩されることもあった。


ジン=キニスキー: 日本にもレジェンドとして招かれ、1993年6月1日にはジャイアント馬場5000試合達成記念試合のスペシャルゲストとして全日本プロレスの日本武道館大会に登場、馬場から歓迎の花束を贈られた。


三沢光晴: 5月2日 - 新日本との交流戦で新日本東京ドーム大会に参戦し、蝶野正洋とシングルマッチで対戦、蝶野がジャイアント馬場の得意技であるランニング・ネックブリーカー・ドロップや三沢がアントニオ猪木の得意技である卍固めを掛け合う攻防を展開、30分フルタイムで引き分ける。


豊登道春: 1965年末、生来のギャンブル好きから来る数々の横領が発覚して吉村道明ら幹部から非難を受け、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座獲得(力道山の死後封印されていたのが馬場にシングルの王座を与えるために復活)によりエースの地位が危うくなったこともあって社長を退任、日本プロレスからも退社することになった。


新谷賢太郎: 「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」-日テレG+


大仁田厚: 2001年に「ジャイアント馬場三回忌追悼興行」で古巣・全日本に16年ぶりの参戦。


宮本和志: 2019年2月19日、『ジャイアント馬場没後20年追善興行』第2試合に出場。


山城新伍: ジャイアント馬場とはワイドショー番組『新伍のお待ちどおさま』やクイズバラエティ番組『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』トーク番組『新伍&紳助のあぶない話』(1993年10月17日に馬場がゲスト出演)で共演して以来の盟友であり、プライベートでも親交が深かった。


ザ・デストロイヤー: 最晩年の2019年2月19日、『ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜』におけるアブドーラ・ザ・ブッチャーの引退セレモニーに際し、メッセージを送った。


酒井法子: 1986年から1989年にかけて江崎グリコのCMキャラクターとなり、「ジャイアントカプリコ」のCMではジャイアント馬場と共演。


天龍源一郎: 完全に嫌気がさしていた頃、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右(後筑波大学名誉教授)と出会い、森岡がブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意。


タイガー戸口: 2019年2月19日、両国国技館で開催された『ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~』に参戦、第1試合のメモリアル・バトルロイヤルに出場した。


西島秀俊: ジャイアント馬場〜鳳凰のガウン〜(2008年3月25日)


ジャイアント馬場

もしもしロボ

ジャイアント馬場(じゃいあんと ばば)さんの誕生日は1938年1月23日です。新潟出身の格闘家
プロレスのようです。

もしもしロボ

生涯、得意技などについてまとめました。テレビ、卒業、現在、事件、引退に関する情報もありますね。61歳で亡くなられているようです。

ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年〈昭和13年〉1月23日 - 1999年〈平成11年〉1月31日)は、日本のプロレスラー、タレント、元プロ野球選手。本名および旧リングネーム・プロ野球選手時代の登録名は馬場正平ばば しょうへい

日本のプロレス界の史上最大の長身と巨体を持ち、力道山・アントニオ猪木と並んで日本のプロレスそのものを代表する存在である。コマーシャルやテレビ番組などでも人気を博した。現役時代は、当時の世界最高峰の王座であるNWA世界ヘビー級王座に3度就いた。全日本プロ・レスリング代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。三条市名誉市民。

リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアがババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)と命名したことに由来する。新聞のラテ欄では文字数の制約から「G馬場」と表記されることがある。身長209cm、体重135kg。血液型O型。

生涯

1938年1月23日(日曜日)、新潟県三条市に八百屋を営む父・馬場一雄、母・ミツの間に次男として生まれる。四日町国民学校(卒業時には三条市立四日町小学校)に入学後、野球を始める。入学までは体格は小さいほうで、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたが、3年生頃から急速に大きくなりはじめ、4・5年生の頃には既に身長が175cmほどあり、地元の少年野球団「若鮎クラブ」ではエースを務めた。三条市立第一中学校時代には中越地区大会で優勝している。

1953年、三条実業高校機械科(三条実業高校は1963年に商業科が三条商業高校に、機械科が三条工業高校となった後、現在は新潟県央工業高校)入学後、身長はさらに伸び、190cmにもなっていた。この頃は足も尋常でない大きさになり、自分に合うスパイクがないという理由で、当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。その後、特注のスパイクを与えられ、念願の硬式野球部に入部。練習試合で18奪三振を記録するなどエースとしての活躍はめざましく、1954年、高校2年のときには新潟日報で「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」と報じられ優勝候補の一角と目される存在になっていたが、予選であえなく敗退し甲子園出場は叶わなかった。

この頃、バッテリーを組んでいた捕手の誘いでプロ野球球団・トンボユニオンズの入団テストを受ける話が進んでいたが、読売ジャイアンツのスカウト・源川英治に誘われ、高校を2年次で中退し、10月13日巨人に投手として入団する。背番号は59。同期入団に巨人のV9時代を支えた主力選手となる森祇晶、国松彰などがいた。なお、身長200cmに達する日本人プロ野球選手は2021年に秋広優人・阿部剣友が巨人軍入りするまでは馬場が唯一であった。

馬場自身は新潟県第1号のプロ野球選手と誤認していた。監督水原茂の「若手は二軍でスタートし、基礎作り」という方針のため、二軍での基礎練習を行っていたが、2年目となる1956年には二軍で12勝1敗、翌1957年に13勝2敗の成績を収め、2年連続二軍の最優秀投手賞を受賞した。

1956年末、視力の急激な低下に見舞われる。診察の結果、「脳腫瘍」(下垂体腺腫により視神経圧迫)と判断され、同年12月22日に東京大学医学部附属病院で開頭手術を受けた。当時の技術では成功率が非常に低く、医師から「失明する可能性が高いので、目が見えているうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められたほどだったが、手術は無事成功。1週間で退院し、翌月には頭に包帯を巻いたままキャンプに復帰した。

1957年8月に一軍昇格、8月25日の阪神戦で初の一軍マウンドに立つ(9回1イニングを三者凡退)。10月23日、中日戦でようやく一軍で初先発の舞台を踏む。中日のエースだった杉下茂との投げ合いとなり、5回まで無失点で抑えるものの敗戦する。同試合は杉下の200勝達成試合になった。

スーパースターとなる長嶋茂雄が入団した1958年には目立った活躍は見せなかったが、長嶋と双璧をなすスーパースターとなり、後に「ON」と称されるようになった王貞治が入団した翌1959年には、3度目となる二軍の最優秀投手賞を受賞した。当時は水原茂監督と品川主計球団社長の対立が深刻化していて、馬場は品川派と見られていた。さらに馬場を評価し後ろ盾となっていた藤本英雄投手コーチが退団したこともあり、同年オフに巨人を自由契約となった。このため、馬場がONとともに巨人に在籍した期間は極めて短かった。

巨人には5シーズン在籍し、1軍登板は1957年の3試合のみ、うち1試合が先発、通算成績0勝1敗防御率1.29(NPB公式記録)。

1960年1月、巨人から大洋ホエールズに移籍した谷口五郎コーチの誘いで、大洋の明石キャンプにテスト生として参加し、採用内定を受けていた。川崎市に転居するなど移籍準備を進めていたが、宿舎の風呂場で転倒、身体ごとガラス戸に突っ込み左肘に17針を縫う外傷を受傷し、一時期左手の第三指および第四指の関節が伸展できない状態が持続したため、プロ野球選手継続を断念した。なお、この症状は後に自然治癒している。

59(1955年 - 1959年)

スポーツを続けたいという一心で、野球選手の継続を断念した後も、自宅アパートの近くにあったボクシングジム・不二拳闘ジムでトレーニングを行っていた。

1960年3月、巨人時代に面識があった力道山に会いに日本プロレスセンターを訪ねるが、力道山はブラジル遠征中のために不在であり、この際に馬場と同じく元野球選手の経歴を持つ竹下民夫からプロレス入りを勧められる。

翌4月11日、ブラジル遠征から帰国した力道山(同遠征中、力道山は猪木寛至(アントニオ猪木)をスカウトしている)に日本プロレスへの入門を直訴。力道山からヒンズースクワット100回を命じられるが難なくこなし、その場で入門が決まる。このとき、通常練習生には支給されない給料を、巨人時代と同額の月給5万円(当時の大卒初任給は1万6千円程度)と即決されたが、翌月から「試合をしていないのに多すぎる」と3万円に減額される。

修行時代に、入門が一年先輩の大木金太郎や同期の猪木と三人でヒンズースクワットを行ったときは、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説が残っている。

1960年9月30日(金曜日)、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。なお、同日に猪木もデビュー戦を行っているが、猪木は大木金太郎に頭突きの連打をくらいフォール負けしている。デビュー直後は芳の里が苦手であり、同年は18勝7敗を記録しているが、そのうち5敗は芳の里からである。

1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX(ビル・ミラー)など強豪外国人レスラーとの試合が組まれ、いずれも勝利することはできなかったものの、試合内容を評価した力道山により渡米しての武者修行を命ぜられ、同年7月、芳の里、マンモス鈴木らとアメリカに渡る。短期間でメジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長し、数々のタイトルに挑戦した。アメリカ時代のリングネームは、ロサンゼルスではショーヘイ・ビッグ・ババ、ニューヨークではババ・ザ・ジャイアント。

とある試合で戦ったアート・トーマスのマネージャー、フレッド・アトキンスをグレート東郷が馬場の元に引き抜き、アメリカでの師匠とした。馬場はアトキンスの元で多くを学ぶことになった。

1962年3月9日、NWA世界ヘビー級王者のバディ・ロジャースに初挑戦以来、主にロジャースの地元での対戦相手として重用される。同年8月31日にオハイオ州コロンバスでカール・ゴッチとビル・ミラーの起こしたロジャース襲撃事件当日、NWA王座に挑戦予定だったジョニー・バレンドと代役で対戦。

1963年2月にはロサンゼルスにて、WWA世界ヘビー級王者だったザ・デストロイヤーとタイトルマッチを行い、デストロイヤーに勝利したものの、反則勝ちであったため、規定によりタイトルは移動しなかった。

この遠征時代に馬場は、飲み屋のジュークボックスに唯一入っていた日本の楽曲だった、坂本九の『SUKIYAKI(上を向いて歩こう)』を流していたという。後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。

第五回ワールドリーグ戦出場の外人レスラー招聘の交渉を主目的に渡米していた力道山とともに、1963年3月に凱旋帰国。この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。馬場は、それまでの日本人レスラーにはみられなかったスケールの大きいアメリカンプロレスのスタイルで、キラー・コワルスキーやパット・オコーナーなど当時の超一流外国人レスラーと名勝負を演じ、また、師匠力道山との師弟タッグ等で活躍して、初めて正式出場したワールドリーグ戦でも好成績を残すなど、初渡米武者修行の成果をファン、マスコミに強烈にアピールし、人気を博した。

同年10月に再びアメリカに遠征。同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国する。帰国の際にグレート東郷から「力道山死後の日プロは先行きが怪しい。高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。アメリカでの生活で売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦へ陥る姿を見ていることから、いくら高額の年俸を稼いでも同じようになった時のことを考えて断ったという理由もある。

1964年には、アメリカでNWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦した。これは世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、馬場の世界的名声の基盤を形成した。

同年4月に凱旋帰国し、翌月には豊登とのタッグで第11代アジアタッグ王座を獲得。力道山亡き後の日プロを豊登・馬場の二枚看板で支えることになった。

1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザーに反則勝ちし、力道山以来、エースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した(初代ルー・テーズ、二代目力道山、三代目馬場)。ベルトそのものは馬場の王者戴冠を機に新調され、力道山が所有していたベルトは、後の全日本プロレス旗揚げ時に馬場に寄贈されるまで力道山家により保管された。ブルーザー相手に、1-1の引き分けながら初防衛を果たし、名実ともに日プロのエースとなる。同年12月、豊登が放漫経営の責任を取り日プロの社長を辞任し、日本プロレスから去った。

1966年2月28日(月曜日)、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。また、同年11月5日には、吉村道明とのコンビでフリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシス組を破り、後に日本マット界を代表する看板タッグ王座となるインターナショナル・タッグ王座を獲得している。以後、馬場は当時の世界の超一流強豪レスラーを相手にインターヘビー級王座を守り抜き、力道山のインターヘビー級連続防衛記録も更新し、エースとして君臨し続ける。ワールドリーグ戦においても通算6回の優勝を果たして力道山の記録を更新している。馬場とともに日プロ黄金期を支えた猪木は、両者の実力の比較がファン、マスコミの間で取り沙汰されることが顕著となった1971年、ワールドリーグ戦の決勝戦中、インターヘビー級への挑戦を表明したが、時期尚早として却下された。

1966年にハワイで、豊登が猪木を「馬場がいる限り、日本プロレスのエースにはなれないぞ」と口説いて東京プロレスに引き抜く猪木略奪事件が起こり、猪木は東京プロレスに引き抜かれるものの短期で東京プロレスが内部分裂を起こしたため、猪木は翌1967年5月に日プロに復帰。復帰の際には「猪木は豊登に騙された」からと寛大な措置が取られたことから、猪木と本格的にタッグを組むようになり、1967年10月31日(火曜日)にインターナショナル・タッグ王座を獲得した。この際にBI砲という呼称が定着した。BI砲は当時、プロレス史上最強タッグの一つと称えられ、圧倒的な勝率を誇り、インタータッグ王者チームとして看板タッグとなった。その他、この時期に馬場が組んだタッグチームとしては、坂口征二と組んだ東京タワーズなどがある。

日本テレビ実況アナウンサーの清水一郎は、1970年頃までは馬場を「ジャイアントゥ馬場選手」と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった。

日本プロレスは長年、日本テレビでのみの中継放送を行っていたが、グレート東郷とルー・テーズの会社(「トーゴー&テーズ・カンパニー」)が日本のプロレス興行への進出を目論み、NET(のちのテレビ朝日)も含めた各テレビ局に企画を持ち込んでいたのを脅威に感じ、企業防衛の観点もあり1969年7月からNETでも放送を始めていた。放送契約の関係から当初は日本テレビは馬場・坂口征二、NETは猪木という棲み分けができていたが、その後なし崩し的に坂口の出場試合がNETでも放送される様になり、さらに前出の猪木の日プロ除名以降は、NETは番組の看板選手である猪木を「日プロの内部事情」で失った事から、NET側は強硬に馬場の出場試合の放映を要求してきた。日プロ幹部は「視聴率も高かったので放送を打ち切ることはないだろう」という甘すぎる観測から日プロは取締役会で、取締役の一人だった馬場自身の反対を他の取締役が押し切り、馬場出場試合のNET放映を解禁した。馬場は既にこの時点日本テレビ関係者から「(馬場が)NETに出演すれば、日プロとの関係が終わりますよ」と再三懸念を伝えられており、馬場も日本テレビの意を受けて警告を出していたが、非常に甘い観測を出していた日本プロレス幹部をこの時点で馬場は既に見限ってたことを、後に自身の著書『王道十六文』で明らかにしている。馬場は1972年4月3日の『ワールド大リーグ戦』新潟大会からNET中継にも登場したが、当然のごとく日本テレビに加えて番組スポンサーだった三菱電機が激怒し、日本テレビは東京地方裁判所に日プロの契約違反と馬場のNET中継の出演差し止めを求めて提訴する事態となった。東京地裁から申請は却下され、当事者同士に話し合いを委ねたが、激怒していた日本テレビは『日本プロレス中継』の打ち切りを決定している。

馬場はこの時点では日プロに在籍しNET中継への出演も継続していたが、日本テレビは水面下で日プロに対する報復手段として、馬場に対し全面的なバックアップによる新団体旗揚げを画策し極秘裏に接触していた。この計画には日本テレビの当時の社長である小林與三次が中心に動いていたとされ、日本テレビや三菱電機に恩義を感じていたとされる馬場は日本テレビに呼応する形で、1972年7月29日(土曜日)に辞表を提出し、記者会見で独立と日本テレビのバックアップの元で新団体を設立する意向である事を宣言した。

この時点でNETとの契約が残存していたことや日プロのプロモーターなどが馬場の出場を求めてきたため、日プロは日本プロレスリング協会の会長であった平井義一に調停を依頼し「(1972年)9月20日まで日プロに出場したうえで、翌1973年3月末まで週1回はNETの『ワールド・プロレスリング』にも出演する事」を条件とする調停案を提示したが、馬場はこれを拒否した。なお、馬場はこの時点でインターナショナル・ヘビー級王者であったが、馬場は「インター選手権(のベルト)は自分の血と汗で守ってきたもの、NWAの許可を得て持って出たいと思う」と語っていた。これに対して日プロがクレームを付け、大木金太郎にインター選手権へ挑戦させ「堂々と防衛をしたうえで出ていくべき」とのスタンスをとった。日プロ幹部としては馬場が翻意しないため、セメント・マッチに強い大木との試合を組み、制裁目的の試合を画策していたとみられる。しかし、馬場はタイトルマッチも拒否してインター選手権を返上した。馬場は身辺を整理したうえで、同年8月18日の宮城県石巻市での試合を最後に、日プロを退団した。

一方で馬場は「日本プロレス興業株式会社」(いわゆる「渋谷の日プロ」)の取締役は退任しておらず、この事から1973年4月20日に日本プロレスが興行活動を停止して事実上崩壊した際に、日本テレビと百田(力道山)家(いわゆる「赤坂の日プロ」)が仲介役となって大木金太郎らの日プロ残党9選手を、消極的ながらも自身の団体に受け入れざるを得なくなった。

その後も長年NETテレビおよび同局の後身のテレビ朝日への出演は少なく『徹子の部屋』・『ニュースステーション』(『最後の晩餐』)など最晩年のものが中心である。一方テレビ朝日系列局制作の番組には『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送テレビ)などへの出演があった。同様に新日本プロレス設立後の猪木も、日本テレビへの出演は皆無ではないものの少なかった。

1972年10月22日(日曜日)に日本テレビ・三菱電機の後押しで「全日本プロ・レスリング株式会社」を旗揚げした。馬場は全日本旗揚げに際して、前述の通り日プロ時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラーと、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座)争奪戦を開始。合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。なおこのシングル王座のベルトとして当初使われたのは、力道山が所有していたインターナショナル・ヘビー級王座のベルトであり、全日本旗揚げ時に力道山家より馬場に寄贈されたものである(後に新調され、オリジナルは、ヒューストンのプロレス博物館に寄贈された)。馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞ともいうべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。

創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や成長著しいジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤーとの組み合わせが展開された。同年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座を初めて獲得する。PWFヘビー級王座と二冠を賭けたダブルタイトルマッチで勝利し初防衛を果たすも、再々戦で敗れた。1979年と1980年にもハーリー・レイスを破って、結局、通算3回、NWA世界ヘビー級王座を獲得したが、このときはいずれも翌週の再戦では防衛を果たせなかった。全日本プロレス入門第一号で、一番弟子であるジャンボ鶴田は、馬場の期待を大きく上回る程の急成長を遂げ、馬場・鶴田の「BJ師弟コンビ」は、長年にわたってインタータッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝を果たした。

1979年8月26日(日曜日)、日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦において、アントニオ猪木と一夜限りでBI砲を復活させ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦し勝利した。

1980年4月25日(金曜日)、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手を選んでいた」とコメント。9ヶ月後の、1981年1月18日(日曜日)には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、バーン・ガニアとの間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。

1981年12月13日(日曜日)、世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦において、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして突如登場したスタン・ハンセンが、試合後、ドリー・ファンク・ジュニアとの乱闘を繰り広げたことから、急遽馬場らが乱入しハンセンとの遺恨勃発。1982年2月4日(木曜日)に行われたPWFヘビー級選手権試合で初対決、死闘を繰り広げたが、両者反則による引き分けとなった。

1979年夢のオールスター戦での猪木と組んでのブッチャー&シン戦、1980年の鶴田と組んでのファンクスとの世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦、1981年のガニアとのダブルタイトル戦、そして1982年のハンセンとのPWF防衛戦で、4年連続でプロレス大賞のベストバウト(年間最高試合)を受賞している。

1984年4月25日(水曜日)、ハンセン&ブロディ(ミラクルパワーコンビ)のハイジャック・パイルドライバーで首を痛め、次の試合を欠場、デビュー以来3711試合続いた連続無欠場記録がストップした。

1985年7月30日(火曜日)、ハンセンに敗退し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で「明るく楽しいプロレス」を展開し、最後の試合が行われた1998年12月5日(土曜日)までリングに上がり続けた。アントニオ猪木率いる新日本が異種格闘技戦など斬新な企画を次々と打ち出しても、馬場は年8回のシリーズと全国巡業という型を続けていた。生涯で通算5769試合を行った。

1995年1月17日(火曜日)、元子夫人の明石の実家が阪神・淡路大震災の被害に遭い、運転手の和田京平、専属秘書の仲田龍らと家の片付けに向かった。関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、ガスコンロや生活用品を買い集めた後関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」会員の名簿を取り寄せ、一軒一軒へ馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて回ったという。1998年には、全日本の興行で募った震災義援金を明石ロータリークラブに寄付し、その寄付金で巨人軍時代のキャンプ地でもあった兵庫県立明石公園第一野球場がある明石公園内に『阪神淡路大震災記録碑』を建立している。

1995年3月にタワーレコード渋谷店が移転しメガストア化した際の宣伝ポスターに、上を見上げる馬場がモデルとして起用された。

晩年巨人のOB会へ出席した際、先輩の千葉茂に「おーい、馬場!」と手招きをされて呼ばれた時に、大喜びで後ろから抱きついた。このため馬場がおんぶされるような格好で甘えているように写るという珍しい構図になった。これは「目上から呼び捨てにされる機会がほとんどなくなり、久しぶりのことだったのでとても嬉しかった」という。亡くなる前年には巨人阪神のOB戦に巨人OBとして出場。一塁にランナーとして出るも牽制でアウトになり王貞治から「馬場さん、頼むよ〜」と和やかな雰囲気で試合を楽しんだという。

プロレス興行では大会場での試合・地方での売り興行関係なく入場口近くの売店の椅子に座り、グッズを購入したファンにサインを書いたり、記念撮影に応じてフレームに収まったりしていた。馬場死後の全日本プロレスでは、愛用だった椅子を置いている。

1998年11月30日の宮城県スポーツセンター大会後に馬場は体調不良を訴え、1日オフ後の12月2日・松本市総合体育館大会を会場入り直前で欠場し、妻の元子と専属秘書の仲田龍(リングアナウンサー)が付き添う形で松本から特急電車で都内へ引き返し、東京都新宿区の東京医科大学病院を受診した。その際、仲田の介添えがなくては馬場は動けない状態だったという。続く翌3日のツインメッセ静岡大会を欠場した。その後、同月4日の千葉公園体育館大会で復帰し、年内興行最終戦となった同月5日の日本武道館大会の第3試合・馬場&ラッシャー木村&百田光雄対渕正信&永源遙&菊地毅戦の『ファミ悪対決』に出場した試合が馬場にとって生前最後の試合となった。

本来ならばその後は毎年恒例のオフのハワイでの静養を兼ね、同月13日にWWF(現:WWE)から招請され、カナダ・バンクーバーのPPV大会を視察する予定であったが、同月7日に東京医科大学病院で精密検査を受けたところ、ドクターストップがかかりそのまま入院した。この時点で転移性の肝がんが判明していた。年始の「新春ジャイアントシリーズ」は欠場が発表され、年末年始は病状は安定していたが腸閉塞を起こしていたため、翌1999年1月8日に手術を受けたが、この時点で上行結腸腺がんが進行していたとされる。メディアには「癒着性腸閉塞のため都内の病院で手術を受け、術後の経過は良好」と公表した。術後しばらくの間は病室内で会話もできており、側近の和田京平(レフェリー)などから自身が欠場中のシリーズの様子などの報告を受けていたが、同月24日に病状が急変し集中治療を受け、同月31日朝に危篤に陥った。妻の元子の意向により側近以外に外部には馬場の病状やその生命が危ないことを一切漏らしておらず、当時全日本の取締役に就任していたジャンボ鶴田や三沢光晴、重鎮だった百田義浩やジョー樋口などの人物にも知らせていなかったとされる。

1999年1月31日(日曜日)16時04分、大腸がん(上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全のため、入院先の東京医科大学病院で死去した。61歳没。

馬場の最期を看取ったのは元子、姪の馬場幸子(全日本プロレス取締役)、実姉のほか、運転手でもあった和田京平、専属秘書の仲田龍の5人だけであった。

「密葬を済ませてから、公に発表したい」という元子の意向により、馬場の死去に際してはごく一部の関係者以外は秘匿され、亡くなった日の夜に馬場の遺体は東京都港区の自宅に戻った。密葬まで自宅に近い寺が遺体を一時預かる手筈も出来ていたとされる。自宅へ馬場の遺体を搬入するために横浜市の全日本プロレス合宿所で生活していた4人の若手選手が自宅に呼ばれた。和田から「馬場さんが退院したから手伝いに来てくれ」と召集されたが、実際に自宅前に到着した馬場の遺体を目にした若手選手たちは絶句したという。和田は「申し訳ない。今日だけは伏せておいてくれ」と頭を下げ、若手選手たちにこの事実を内密にするよう求めた。馬場の遺体を乗せたストレッチャーは和田、仲田と若手選手4人によって担がれ、階段を使ってマンション9階にある自宅に運び込まれた。

しかし秘匿されたはずの馬場の死去は、病院内で一部の関係者が搬送作業を目撃していたことから、ネットの掲示板で情報が書き込まれていたほか、馬場宅を張っていた一部の記者に察知されていたという。翌2月1日未明から馬場死去の未確認情報がメディアの間で飛び交う形となり、同日夕方に馬場の訃報が各メディアで報じられ、同日夜に全日本事務所で行われた鶴田、三沢、百田光雄の幹部による記者会見で馬場の死去を公表した。

2月2日、自宅で密葬が行われ、全日本の各選手・スタッフ、弔問に訪れた新日本プロレス社長(当時)の坂口征二と藤波辰爾などに見送られ、その後桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。墓所は兵庫県明石市の本松寺にあり、2018年に死去した妻の元子とともに葬られている。墓には馬場のリングシューズの実物大のモニュメントと馬場のイラスト(ジヤイアントサービス制作のTシャツなどのグッズなどに入っていたもの)が描かれたプレートが設置されている。

1999年4月17日、前日(4月16日)に開催された'99 チャンピオン・カーニバル最終戦のリングが設定されたまま、日本武道館でファン葬が催され、2万8,000人が参列した。

同年5月2日、全日本二度目の東京ドーム興行において「引退記念試合」と銘打ったセレモニーを行った。ハンセンを先導にかつてのライバルや盟友が登場。ジャイアント馬場、ザ・デストロイヤー組対ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー組の時間無制限一本勝負というマッチメイクで、PWF会長のロード・ブレアースが立会人、ジョー樋口が特別レフェリーをそれぞれ務めた。

仲田龍がリングアナウンサーとして、涙声で馬場への最後のコールを行うなど、セレモニーはあくまでも「試合」として扱われた。ゲストからのメッセージで、キニスキーは「偉大なスポーツマン、アスリート、本物のプロフェッショナル・レスラーだった。あなたと日米で闘えて誇りに思う」と、またサンマルチノは「あなたは体だけでなく心もジャイアントだった」と称えた。パートナーのデストロイヤーは日本語で「社長、ほんとうにお疲れさまでした」と深々と頭を下げ、会場中の涙を誘った。追悼の10カウントゴングが鳴らされた後、リング中央に置かれた愛用のシューズをデストロイヤーがつかんだ瞬間に、実況を担当した日本テレビアナウンサーの平川健太郎は、「デストロイヤーが、いま馬場とがっちりと握手を交わしました。共にリングを去ります馬場とデストロイヤーです」、「プロ野球・巨人軍のエースを夢見たかつての少年が、レスラーとして選んだ最後のリングは東京ドームでした」とコメントした。

2006年12月に阪神競馬場がリニューアルオープンし、馬場(走路)が大型化された。このリニューアル記念ポスターの1つでは「大きな馬場」が完成したことをもじり、「12・2 ジャイアント馬場、登場。」というコピーと、競馬場全体を踏みつけるような巨大レスラーブーツの画像が用いられた。2014年にはレスラーおよびプロモーターとしての功績をたたえ、NWA殿堂に迎えられた。

2016年9月5日、故郷である新潟県三条市議会の9月定例会に於いて『ジャイアント馬場(馬場正平)を三条市名誉市民に決定する議案』が、国定勇人市長より提出され、市議会本会議にて全会一致で承認された。10月15日に三条市役所で名誉市民顕彰が執り行われた。

馬場は生前、明石市の本松寺境内にある元子夫人の実父(馬場からすれば義父)の墓の隣に馬場家の墓を建立してあったのだが、その事実は長年知られておらず、かつ当の馬場の遺骨は元子が自宅に保管していて長らく納骨されないままであったため、「墓を作らないのか」という声もあったとされる。元子が自身の生前に納骨をしなかったのは、馬場が墓を建てるにあたって「一緒に墓に入ろう」という約束をしていたためであった。馬場の死から約19年後の2018年4月14日に元子が死去し、その四十九日に合わせて共に葬られ、二人の約束はようやく果たされることとなった。

2019年2月19日には両国国技館に於いて「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~ −アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念ー~さらば呪術師~」興行が開催された。

2020年12月9日、生前ハワイで乗っていた車、キャデラックが三条市の諏訪田製作所に寄贈され、展示されることが発表された。

得意技

馬場は恵まれた体躯を生かし、主に相手のロープの反動を利用したカウンターキックでもある「16文キック」をはじめ、「脳天唐竹割り」「河津落とし」「ココナッツ・クラッシュ」など長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した技を得意技としていた。

上記の他、腋固など寝技やスロートクローなどの「拷問技」も得意とした。また、独特なフォームのバックドロップ、足4の字固め、サイドスープレックス、スモールパッケージホールドなどの技も使っているほか、大柄な体格に見合わずトップロープからのフライングボディアタックなどの空中技も使用していた。晩年は流行技やライバル・弟子の得意技をまねて用いることも多く、およそ馬場の技は外見上なんら変わりがなくとも冠に「ジャイアント」と付いて独自の必殺技としてファン・マスコミに認識された。「ジャイアントラリアット」「ジャイアントDDT」などはその典型例である。

また、ハンセンとのタッグ時のみ限定で、16文キックとウエスタン・ラリアットを組み合わせた「ジャイアント・コンビネーション(後述)」も披露した。アンドレ・ザ・ジャイアントと組んだときは16文からアンドレのエルボー・ドロップ、ラッシャー木村と組んだ場合は16文と木村のラッシングラリアットというコンビネーション(通称・16文ラリアット)になった。

また、対スタン・ハンセン用に開発したとされる技で『16文チョップ』があり、テレビ中継での実況でそのことは何度も取り上げられていたが、実際に使われることはなく、幻の技となっている。

2024/05/26 00:24更新

jaianto baba


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