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伏見 康治さんについて調べます
■名前・氏名 |
伏見康治と関係のある人
朝永振一郎: 『朝永振一郎著作集 3』伏見康治解説、みすず書房、1983年1月。 朝永振一郎: 伏見康治共 編『現代自然科学講座』 第1巻~第12巻、弘文堂、1951-1952。 朝永振一郎: 伏見康治 共 編『理論物理学新講座』 第1巻~第16巻、弘文堂、1953-1954。 柳瀬睦男: 『時間とは何か』伏見康治共編 中央公論社 自然選書 1974 小野周: 電磁気学 : 演習宮島龍興 編.1961.6.現代物理学演習講座 / 小野周、高橋秀俊、伏見康治、宮島龍興 編 ; 共立出版 久保亮五: 1982年、伏見康治のあとを受けて日本学術会議会長を務め、日本学士院会員に選出された。 中村幸四郎: 現代自然科学講座.第2巻、朝永振一郎・伏見康治(共編)、弘文堂、1951年(昭和26年) 中村義作: また、物理学者の伏見康治、画家の安野光雅との対談なども出版されている。 エルヴィン=シュレーディンガー: 『科学とヒューマニズム』伏見康治・三田博雄・友松芳郎共訳、みすず書房〈現代科学叢書〉、1956年。 一松信: 朝永振一郎、伏見康治 編『現代自然科学講座』 第7巻、弘文堂、1952年。 福井勇: 同文書で素粒子学者の坂田昌一、武谷三男、中村誠太郎、公明党国会議員でもあった伏見康治、民主主義科学者協会を「保守政府の下での原子力研究に反対する極左」と名指ししており、原子力村の一員であった事が明らかにされた。 茅誠司: また、日本の原子力研究の創始に当たっては、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を伏見康治とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。 小野周: 理論物理学新講座. 第13巻 朝永振一郎、伏見康治 編 弘文堂、1954. 武谷三男: 学術会議は直ちに対抗し、まず伏見康治によって「原子力憲章」が作成され、3月20日には学術会議原子核特別委員会(朝永振一郎委員長)において原子核物理学者の意見が集約された。 |
伏見康治の情報まとめ
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伏見 康治(ふしみ こうじ)さんの誕生日は1909年6月29日です。愛知出身の物理学者のようです。
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親族、略歴年表などについてまとめました。卒業に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
伏見康治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)伏見 康治(ふしみ こうじ、1909年6月29日 - 2008年5月8日)は、日本の物理学者(理論物理学)。名古屋大学名誉教授、大阪大学名誉教授。理学博士。公明党参議院議員(1期)。正四位勲二等(没時)。 本来の仕事である物理学、特に統計力学の分野で大きな研究業績を上げた他、戦後日本の科学研究体制の確立と発展にも力を尽くし、原子力平和利用研究を推進、さらには科学者の社会的責任のアピールと行動、一般向け書籍による物理の面白さの啓発・普及、そして対称性の美の追究など、多方面に大きな足跡を残した。 伏見は1909年に愛知県名古屋市で生まれ、東京で育ち、東京高等学校を経て東京帝国大学理学部物理学科に進んだ。 そして1933年に大学を卒業するとすぐに同大学理学部物理学教室で寺澤寛一教授の助手となり、翌1934年に新設の大阪帝国大学理学部物理教室に移った。大阪では友近晋教授の下に助手として就く予定であったが、友近教授がイギリスに留学したため、菊池正士教授に誘われて原子核実験に携わった。そして同教室で助教授を経て1940年に教授に昇進し、また量子統計力学の密度行列に関する論文(1940年)により理学博士の学位を取得した。 この時期、伏見は一般への物理の面白さ普及にも力を注いだ。まず1942年に原子核物理学の一般向け啓蒙書「驢馬電子」を書いて出版した。そして翌1943年にはジョージ・ガモフの名著「不思議の国のトムキンス」を訳出、日本に紹介して若者を誘い、多くの物理学者を生み出すのに力があった。啓蒙活動は戦後も続け、雑誌「自然」に原子核物理学に関する読み物を連載した。 戦後になって伏見は日本においても独自に原子力の研究を行うことの重要性を認識し、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を起草して茅誠司と共に提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。そして大阪府泉南郡熊取町の京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)創設にあたっては「核」に対するアレルギーから建設に反対する地元住民を説得して実験所実現に寄与した。また門下で多数の傑出した原子力研究者を育てて送り出し、日本の原子力発展に貢献した。 さらに1950年代半ばになって核融合研究の重要性が認識されるや、湯川秀樹、嵯峨根遼吉らと共に研究体制の議論を進めた。そしてAB論争の後、1961年に名古屋大学にプラズマ研究所が設立されるや自身が大阪大学から名古屋大学に移って同研究所の初代所長に就任し、研究所の整備に努め研究推進を図るとともに、客員研究部門の創始など「全国大学共同利用研究所」運営の理想を追求した。 1973年に名古屋大学を定年退官したあとは、日本学術会議を活躍の場として研究環境の整備に力を致した。特に1977年から1982年にかけて同会議会長に就任し、国内の研究推進と並行して、科学者の国際交流に尽力した。そして1983年、第13回参議院議員通常選挙比例代表区に公明党・国民会議から名簿順位第1位で立候補し当選。1989年まで1期務めた。 また東西冷戦の時代から日ソの学術交流に尽力し、1991年のソビエト連邦崩壊によって同国の科学者が窮乏の淵に陥った時には各方面に呼びかけてその救援活動を行った。 その他の社会的貢献としては、世界平和アピール七人委員会に1982年から参加して数々のアピールに加わった。ところが伏見は1983年に参議院議員に当選し、国会議員との併任は望ましくないとの理由で同年に七人委員会委員を一旦辞任したが、1989年の参議院議員任期満了に伴う退任で1995年にまた参加して没年まで活動を続けた。 親族妻は、伏見満枝。物理学者の伏見譲と情報サービス産業で活躍している伏見諭は息子。伏見康子は娘。富山小太郎は義弟。 略歴年表1909年 名古屋生まれ、東京育ち。 1933年 東京帝国大学理学部物理学科卒業、助手となる。 1934年-61年 大阪大学助手・助教授を経て同大学教授(1940年)。 1961年-73年 名古屋大学教授、プラズマ研究所所長。 1973年 名古屋大学退官。大阪大学・名古屋大学名誉教授。 1977年-82年 日本学術会議会長 1973年11月 紫綬褒章 1977年4月-78年3月 水素エネルギー協会会長。 1980年 7月 藤原賞 1983年-89年 参議院議員 1989年11月 勲二等旭日重光章 2008年 5月 死去。正六位から正四位に昇叙せられた。 2024/06/18 15:12更新
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fushimi kouji
伏見康治と同じ誕生日6月29日生まれ、同じ愛知出身の人
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