佐伯和司の情報(さえきかずし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐伯 和司さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐伯和司と関係のある人
吉年滝徳: 担当スカウトは佐伯和司で、同年ドラフト1位の長谷川昌幸と将来の左右のエース候補として期待されていた。 伊代野貴照: 2010年10月に高知が出場したアイランドリーグの年間チャンピオンシップで、9月いっぱいで辞任が決まった佐伯和司の後任として臨時の投手コーチを務めた。 島田洋七: 広島カープ初優勝時の主力投手だった佐伯和司は三学年下となる。 佐々岡真司: 担当スカウト佐伯和司。 桑野議: 5月15日の広島戦(岡山)では榊原良行の代打で佐伯和司から4年ぶりの本塁打を放ち、同20日にはウエスタン・リーグのデーゲームで決勝の逆転2ラン本塁打を放った後、一軍のナイトゲーム・広島戦(甲子園)でも望月充の代打で佐伯から決勝打を放つなど大活躍。 内田順三: 1977年は、鵜飼克雄、皆川康夫、新美敏と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍した。 江田幸一: 6月22日のロッテ戦(宮城)では先発の佐伯和司が5回に4点目を取られ、0-4とリードされたところからリリーフ。 西沢正次: 投げては先発佐伯和司が中日打線を4安打に抑え1回の失点のみでの完投勝利で4-1と中日に逆転勝ちし、このシーズン中日戦の勝ち越しを決めた。 大杉勝男: 300本塁打:1975年10月11日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、7回表に佐伯和司からソロ ※史上9人目 デーブ=ジョンソン: 9月29日の広島戦(後楽園)で佐伯和司から奪った22号本塁打は日本で唯一のグランドスラム、10月16日の対広島戦(広島市民)での26号ソロ本塁打はシーズン最終戦で高橋里志のド真ん中の棒球を捉え左翼スタンド最上段に運んだ優勝決定弾であった。 皆川康夫: 1977年に鵜飼克雄、新美敏、内田順三と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。 広瀬宰: 1979年には、8月10日の日本ハム戦(平和台)で3-3と同点のまま迎えた8回表一死から安打で出塁したジム・タイロンが二塁、三塁へと盗塁を決めると、ここで広瀬は佐伯和司から左翼中段へと運ぶ勝ち越しの2ラン本塁打を放つ。 永本裕章: 盈進高では、1969年秋季県大会準決勝に進むが、エース佐伯和司を擁する広陵高に敗退。 日高晶彦: 中学生の時からのライバルである広陵高の佐伯和司に、延長10回の熱戦の末に投げ勝ち、甲子園に出場。 新美敏: 1977年に鵜飼克雄・皆川康夫・内田順三と共に、佐伯和司・宮本幸信・久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。 池田純一: 8月25日の対広島戦では、江夏と佐伯和司の投手戦によって両チーム無得点で迎えた9回裏1死1塁の打席で、佐伯からの本塁打によって江夏を完封勝利に導いた。 宮本幸信: その後、1977年に新美敏・皆川康夫・鵜飼克雄・内田順三との交換トレードで佐伯和司・久保俊巳と共に日本ハムファイターズへ移籍。 高橋里志: 1981年に佐伯和司との交換トレードで、日本ハムファイターズへ移籍。 野口善男: 初安打・初打点:1971年6月19日、対広島東洋カープ13回戦(広島市民球場)、2回表に佐伯和司から左前先制適時打 鈴木葉留彦: 翌13日の日本ハム戦(後楽園)も宇田東植から2安打を放つと勢いそのままに15日には3回表に先発の佐伯和司から先制の満塁本塁打を放ち勝利に貢献。 田中和博: ドラフト下位入団ながらかつて佐伯和司が着けていた準エースナンバーの21が与えられるも、一軍の試合では活躍できず、1987年限りで現役引退した。 山根雅仁: 担当スカウトは佐伯和司、契約金と年俸はそれぞれ8,000万円、540万円(いずれも推定)だった。 鵜飼克雄: その後、佐伯和司・久保俊巳らとの交換トレードにより、皆川康夫・新美敏・内田順三と共に1977年より広島東洋カープに移籍。 湯口敏彦: ストレートの威力は佐伯和司に匹敵し、角度のあるカーブも投げていたが一方で荒れ球が持ち味でもあり、制球難を危惧する声もあった中で同年秋のドラフトで読売ジャイアンツに1位で指名され、翌1971年に入団。 金城基泰: 1974年には外木場義郎、安仁屋宗八、佐伯和司とともに先発ローテーションの中心として奮闘し、チームは最下位ながら20勝を挙げて最多勝、207奪三振で最多奪三振のダブルタイトルを獲得。 松原誠: 1500安打:1976年7月11日、対広島東洋カープ12回戦(広島市民球場)、8回表に佐伯和司から左前安打 ※史上31人目 湯口敏彦: 同学年で活躍した島本講平(のち南海)、広陵高の佐伯和司(のち広島)と合わせて「高校生三羽ガラス」と呼ばれた。 藤波行雄: 初打席・初安打:同上、4回裏に佐伯和司から中前安打 和田徹: 5月27日に一軍の阪急戦(倉吉)で山田久志から4年ぶりで移籍後初の本塁打を放ち、7月1日の日本ハム戦(大阪)で佐伯和司から現役最後の安打・本塁打・打点を記録。 玉井信博: 4月14日には広島の佐伯和司に投げ勝ち初完封を飾る。 |
佐伯和司の情報まとめ
佐伯 和司(さえき かずし)さんの誕生日は1952年6月5日です。広島出身の野球選手のようです。
家族、引退、現在に関する情報もありますね。佐伯和司の現在の年齢は72歳のようです。
佐伯和司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 佐伯 和司(さえき かずし、1952年6月5日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。1975年の広島東洋カープ初優勝時の主力投手として知られる。 山口県玖珂郡美和町(現:岩国市)生まれ。のちに広島で大手タクシー会社の代表取締役を務めた事業家の父と家族で、小学校時に広島市国泰寺町(現:中区国泰寺町)に移る。 広島市立国泰寺中学校を経て、1968年、広陵高校に入学。1年秋からエースとなり、翌1969年春季中国大会では決勝で米子商を降し優勝を飾る。同年夏の甲子園に出場。1回戦で春夏連覇を狙った三重を打ち合いで降したものの、八重樫幸雄が四番を打っていた仙台商に2回戦で敗れた(1-4)。 徐々に球威が増し、150km/h近い剛速球と、切れのいいカーブ・シュートを武器に三振の山を築く。投げれば完封、大半が二桁奪三振。「一桁だと気分が悪かった」と豪語するビッグマウス。重い剛球で高校3年間の公式戦で浴びた本塁打はわずか2本だった。相手チームに「バントするのも恐い」と言わせ、箕島高の島本講平(1970年南海ドラフト1位)、岐阜短大付高の湯口敏彦(同年巨人1位)と共に高校三羽烏と騒がれた。同年の秋季中国大会では、準決勝で島根県代表・江津工業相手に完投して9回裏サヨナラ勝ちし、決勝でも米子東を破って優勝を飾った。 1970年の春の選抜に出場。初戦の富山商戦で15奪三振、2戦目の千葉商戦で12奪三振を記録して2試合連続完封を果たし、準決勝で島本の箕島高と当たった。箕島高のしつこい攻撃と味方の失策もあり0-3で敗れる。箕島高は優勝し、かわいいマスクの島本は前年の太田幸司に続いて甲子園のアイドルとなった。一方、向こうっ気が強かった佐伯は、試合後のインタビューで「今日の審判は(ストライク・ボールの判定が)辛い」とプロの投手のような発言をし、世間の反感を買った。同年夏は県予選準決勝の広島工戦で18奪三振を記録。決勝では中学生の時からのライバルである広島商の日高晶彦投手と投げ合い、延長10回の熱闘の末に敗退、甲子園出場を逸した。 この年秋のドラフト会議では目玉となり、まだメジャーリーグが身近でない時代、サンフランシスコ・ジャイアンツのスカウトも来日したほどだった。これは鶴岡一人がキャピー原田を通じて佐伯をアメリカに留学させたうえで、アメリカのプロ野球でプレーさせようとしたものだったが、当時の鈴木龍二セ・リーグ会長の反対でこれは実現せず、同年ドラフト1位で地元広島入団(金城基泰らが同期)、地元出身のスター選手として大いに騒がれた。 「走るのは大嫌い」と公言するなど相変わらずのところを見せたが、よく走り込みプロ1年目は4勝9敗。2年目は6勝8敗ながら初めて規定投球回(リーグ10位、防御率3.07)に達する。 1973年、フォークボールを習得し大ブレーク、19勝を挙げ防御率2.30のリーグ5位、一躍エースにのし上った。しかし、この年の酷使が祟ったのか肩を痛めた。 1974年は2勝に留まった。 1975年、嘘のように肩の痛みが取れ、新しく習得したスライダーを武器に、球団創設25年目にして初優勝に驀進するチームの一翼を担い、外木場義郎20勝、池谷公二郎18勝に次ぐ15勝を挙げ面目を保った。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは2試合に先発。第2戦は5回に崩れ敗戦投手、第5戦も4回に大橋穣の投犠野選が決勝打となり敗戦投手となった。 なお最近では同じく広島に在籍経験のある黒田博樹が「打撃の下手な投手」として知られているが、佐伯も1973年から1975年にかけて71打席連続無安打のセ・リーグ記録を打ち立てた。1990年、阪神の猪俣隆が更新するまでセ・リーグ記録だった。 1977年に新美敏・皆川康夫・鵜飼克雄・内田順三との交換トレードで宮本幸信・久保俊巳と共に日本ハムファイターズへ移籍(この時広島ファンは初優勝にも貢献した地元出身のドラフト1位選手を放出したことに激怒し、抗議集会を開いたというエピソードがある)。 1978年には開幕投手を務め、球団が日本ハムに譲渡されてから初となるAクラス入り(3位)に貢献した。この年、オールスターゲームのファン投票で、日本ハム選手が組織票により8つのポジションを独占、物議を醸した。投手1位は高橋直樹だったが、佐伯も監督推薦で選ばれた。 1979年、2年連続二桁勝利を挙げた、 1981年に高橋里志との交換トレードで広島に復帰するが勝ち星を挙げることはなかった。 1982年に一軍未登板に終わり引退。 広島で現役登録のまま打撃投手を1986年まで務めたのち、1987年から同球団のスカウト。その後二軍投手コーチなどを務め、再び広島スカウトを務めた後、2004年退職。 2007年4月、岡山県に開学した環太平洋大学の硬式野球部監督を務めた。 2009年から四国・九州アイランドリーグ・高知ファイティングドッグスのコーチを2シーズン務めた。2010年9月27日、「体調不良」を理由に9月30日付での辞任が発表された。 現在は岩国ヤングホープスの総監督を務めている。 各年度の太字はリーグ最高 初登板:1971年4月18日、対読売ジャイアンツ4回戦(広島市民球場)、6回表に3番手で救援登板、2回無失点 初奪三振:同上、6回表に柴田勲から 初先発:1971年4月29日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、5回6失点(自責点0)で敗戦投手 初勝利・初完投勝利:1971年5月2日、対阪神タイガース5回戦(広島市民球場)、9回2失点 初完封勝利:1971年5月16日、対大洋ホエールズ5回戦(広島市民球場) 初セーブ:1977年9月1日、対クラウンライターライオンズ後期11回戦(平和台球場)、9回裏に6番手で救援登板・完了、1回無失点 1000投球回:1976年9月25日、対大洋ホエールズ22回戦(広島市民球場)、3回表3死目に達成 1500投球回:1978年5月26日、対ロッテオリオンズ前期8回戦(後楽園球場)、7回表1死目に達成 オールスターゲーム出場:3回(1973年、1976年、1978年) 21 (1971年 - 1976年、1981年 - 1982年) 32 (1977年 - 1978年) 20 (1979年 - 1980年) 66 (1983年 - 1986年) 80 (2000年 - 2001年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、238ページ ^ 1年時の監督は三原新二郎。また島田洋七(野球部には在籍せず)は3学年上、同期に三迫正廣ら、巨人・山下哲治スカウト部長、角川博(軟式)は1学年下。 ^ キャピー原田著『太平洋のかけ橋 戦後・野球復活の裏面史』ベースボール・マガジン社、1980年、p149、150 ^ “元カープ佐伯氏ら、大学で指導者に”. 中国新聞. (2006年7月7日). オリジナルの2006年7月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060715052953/http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200607070078.html 2022年8月15日閲覧。 ^ “感動の再開!”. 佑雄整骨院. 2022年8月15日閲覧。 山口県出身の人物一覧 広島東洋カープの選手一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 個人年度別成績 佐伯和司 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1946 一言多十 1947 白木義一郎 1948 吉江英四郎 1949 白木義一郎 1950 白木義一郎 1951 米川泰夫 1952 寺川昭二 1953 米川泰夫 1954 米川泰夫 1955 米川泰夫 1956 牧野伸 1957 米川泰夫 1958 牧野伸 1959 土橋正幸 1960 土橋正幸 1961 久保田治 1962 富永格郎 1963 土橋正幸 1964 久保田治 1965 久保田治 1966 尾崎行雄 1967 森安敏明 1968 森安敏明 1969 高橋善正 1970 森安敏明 1971 金田留広 1972 藤原真 1973 金田留広 1974 渡辺秀武 1975 高橋直樹 1976 高橋直樹 1977 高橋直樹 1978 佐伯和司 1979 高橋直樹 1980 高橋直樹 1981 高橋一三 1982 高橋一三 1983 工藤幹夫 1984 田中幸雄 1985 津野浩 1986 津野浩 1987 津野浩 1988 西崎幸広 1989 西崎幸広 1990 西崎幸広 1991 西崎幸広 1992 柴田保光 1993 西崎幸広 1994 西崎幸広 1995 西崎幸広 1996 岩本勉 1997 西崎幸広 1998 岩本勉 1999 岩本ツトム 2000 岩本ツトム 2001 金村曉 2002 岩本勉 2003 C.ミラバル 2004 金村曉 2005 C.ミラバル 2006 金村曉 2007 ダルビッシュ有 2008 ダルビッシュ有 2009 ダルビッシュ有 2010 ダルビッシュ有 2011 ダルビッシュ有 2012 斎藤佑樹 2013 武田勝 2014 吉川光夫 2015 大谷翔平 2016 大谷翔平 2017 有原航平 2018 B.ロドリゲス 2019 上沢直之 2020 有原航平 2021 上沢直之 2022 北山亘基 2023 加藤貴之 2024 伊藤大海 表 話 編 歴 1950 内藤幸三 1951 杉浦竜太郎 1952 大田垣喜夫 1953 長谷川良平 1954 長谷川良平 1955 長谷川良平 1956 長谷川良平 1957 長谷川良平 1958 長谷川良平 1959 備前喜夫 1960 備前喜夫 1961 河村英文 1962 大石清 1963 大石清 1964 池田英俊 1965 大石清 1966 池田英俊 1967 安仁屋宗八 1968 大石弥太郎 1969 安仁屋宗八 1970 外木場義郎 1971 大石弥太郎 1972 白石静生 1973 外木場義郎 1974 佐伯和司 1975 外木場義郎 1976 外木場義郎 1977 外木場義郎 1978 高橋里志 1979 福士明夫 1980 池谷公二郎 1981 池谷公二郎 1982 北別府学 1983 北別府学 1984 北別府学 1985 大野豊 1986 北別府学 1987 北別府学 1988 北別府学 1989 北別府学 1990 大野豊 1991 長冨浩志 1992 川口和久 1993 北別府学 1994 北別府学 1995 佐々岡真司 1996 大野豊 1997 山内泰幸 1998 大野豊 1999 N.ミンチー 2000 佐々岡真司 2001 佐々岡真司 2002 佐々岡真司 2003 黒田博樹 2004 黒田博樹 2005 黒田博樹 2006 黒田博樹 2007 黒田博樹 2008 大竹寛 2009 C.ルイス 2010 前田健太 2011 前田健太 2012 前田健太 2013 B.バリントン 2014 前田健太 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 K.ジョンソン 2018 野村祐輔 2019 大瀬良大地 2020 大瀬良大地 2021 大瀬良大地 2022 大瀬良大地 2023 大瀬良大地 2024 九里亜蓮 表 話 編 歴 1位:佐伯和司 2位:永本裕章 3位:石井高雄 4位:前田三郎 5位:金城基泰 6位:荒金雄司(入団拒否) 7位:守岡茂樹 日本の野球選手 広陵高等学校出身の野球選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の打撃投手 日本の野球監督 大学野球指導者 高知ファイティングドッグス 山口県出身のスポーツ選手 広島県出身のスポーツ選手 広島市出身の人物 1952年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/17 16:32更新
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saeki kazushi
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