佐伯和司の情報(さえきかずし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐伯 和司さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐伯和司と関係のある人
鵜飼克雄: その後、佐伯和司・久保俊巳らとの交換トレードにより、皆川康夫・新美敏・内田順三と共に1977年より広島東洋カープに移籍。 山根雅仁: 担当スカウトは佐伯和司、契約金と年俸はそれぞれ8,000万円、540万円(いずれも推定)だった。 松原誠: 1500安打:1976年7月11日、対広島東洋カープ12回戦(広島市民球場)、8回表に佐伯和司から左前安打 ※史上31人目 湯口敏彦: ストレートの威力は佐伯和司に匹敵し、角度のあるカーブも投げていたが一方で荒れ球が持ち味でもあり、制球難を危惧する声もあった中で同年秋のドラフトで読売ジャイアンツに1位で指名され、翌1971年に入団。 西沢正次: 投げては先発佐伯和司が中日打線を4安打に抑え1回の失点のみでの完投勝利で4-1と中日に逆転勝ちし、このシーズン中日戦の勝ち越しを決めた。 島本講平: この年は、湯口(同年、読売ジャイアンツドラフト1位)や広陵高校の佐伯和司(同、広島東洋カープ同1位)と共に「高校三羽烏」「高校生ビッグ3」と並び称された。 永本裕章: 盈進高では、1969年秋季県大会準決勝に進むが、エース佐伯和司を擁する広陵高に敗退。 新美敏: 1977年に鵜飼克雄・皆川康夫・内田順三と共に、佐伯和司・宮本幸信・久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。 伊代野貴照: 2010年10月に高知が出場したアイランドリーグの年間チャンピオンシップで、9月いっぱいで辞任が決まった佐伯和司の後任として臨時の投手コーチを務めた。 島田洋七: 広島カープ初優勝時の主力投手だった佐伯和司は三学年下となる。 金城致勲: 初打席:同上、9回裏に佐伯和司から三振 田中和博: ドラフト下位入団ながらかつて佐伯和司が着けていた準エースナンバーの21が与えられるも、一軍の試合では活躍できず、1987年限りで現役引退した。 玉井信博: 4月14日には広島の佐伯和司に投げ勝ち初完封を飾る。 野口善男: 初安打・初打点:1971年6月19日、対広島東洋カープ13回戦(広島市民球場)、2回表に佐伯和司から左前先制適時打 皆川康夫: 1977年に鵜飼克雄、新美敏、内田順三と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。 宮本幸信: その後、1977年に新美敏・皆川康夫・鵜飼克雄・内田順三との交換トレードで佐伯和司・久保俊巳と共に日本ハムファイターズへ移籍。 金城基泰: 1974年には外木場義郎、安仁屋宗八、佐伯和司とともに先発ローテーションの中心として奮闘し、チームは最下位ながら20勝を挙げて最多勝、207奪三振で最多奪三振のダブルタイトルを獲得。 湯口敏彦: 同学年で活躍した島本講平(のち南海)、広陵高の佐伯和司(のち広島)と合わせて「高校生三羽ガラス」と呼ばれた。 広瀬宰: 1979年には、8月10日の日本ハム戦(平和台)で3-3と同点のまま迎えた8回表一死から安打で出塁したジム・タイロンが二塁、三塁へと盗塁を決めると、ここで広瀬は佐伯和司から左翼中段へと運ぶ勝ち越しの2ラン本塁打を放つ。 桑野議: 5月15日の広島戦(岡山)では榊原良行の代打で佐伯和司から4年ぶりの本塁打を放ち、同20日にはウエスタン・リーグのデーゲームで決勝の逆転2ラン本塁打を放った後、一軍のナイトゲーム・広島戦(甲子園)でも望月充の代打で佐伯から決勝打を放つなど大活躍。 大杉勝男: 300本塁打:1975年10月11日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、7回表に佐伯和司からソロ ※史上9人目 松原誠: 7月11日の広島戦(広島市民)には8回表に佐伯和司から左前安打を打って史上31人目の1500本安打、8月17日の中日戦(ナゴヤ)で4回表に堂上照から左越ソロ本塁打を打って史上12人目の250本塁打を達成。 吉年滝徳: 担当スカウトは佐伯和司で、同年ドラフト1位の長谷川昌幸と将来の左右のエース候補として期待されていた。 池田純一: 8月25日の対広島戦では、江夏と佐伯和司の投手戦によって両チーム無得点で迎えた9回裏1死1塁の打席で、佐伯からの本塁打によって江夏を完封勝利に導いた。 日高晶彦: 中学生の時からのライバルである広陵高の佐伯和司に、延長10回の熱戦の末に投げ勝ち、甲子園に出場。 佐々岡真司: 担当スカウト佐伯和司。 角川博: レギュラーではなかったが、在籍時に広陵は春夏3度甲子園大会に出場、高1の春(新高2)の第42回選抜高等学校野球大会では、角川の1年先輩にあたる佐伯和司(後に広島東洋カープなどで活躍)を擁して、優勝した箕島高校に準決勝で敗れるなど健闘を果たしている。 和田徹: 5月27日に一軍の阪急戦(倉吉)で山田久志から4年ぶりで移籍後初の本塁打を放ち、7月1日の日本ハム戦(大阪)で佐伯和司から現役最後の安打・本塁打・打点を記録。 デーブ=ジョンソン: 9月29日の広島戦(後楽園)で佐伯和司から奪った22号本塁打は日本で唯一のグランドスラム、10月16日の対広島戦(広島市民)での26号ソロ本塁打はシーズン最終戦で高橋里志のド真ん中の棒球を捉え左翼スタンド最上段に運んだ優勝決定弾であった。 ジョー=ルーツ: 佐伯和司が登板していた1975年4月27日の対阪神戦で、ルーツは掛布雅之への投球をボールと判定されたことに激昂し審判に暴行、退場を命じられたがそれも拒否した。 |
佐伯和司の情報まとめ
佐伯 和司(さえき かずし)さんの誕生日は1952年6月5日です。広島出身の野球選手のようです。
詳細情報などについてまとめました。佐伯和司の現在の年齢は71歳のようです。
佐伯和司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐伯 和司(さえき かずし、1952年6月5日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。1975年の広島東洋カープ初優勝時の主力投手として知られる。 山口県玖珂郡美和町(現:岩国市)生まれ。のちに広島で大手タクシー会社の代表取締役を務めた事業家の父と家族で、小学校時に広島市国泰寺町(現:中区国泰寺町)に移る。 広島市立国泰寺中学校を経て、1968年、広陵高校に入学。1年秋からエースとなり、翌1969年春季中国大会では決勝で米子商を降し優勝を飾る。同年夏の甲子園に出場。1回戦で春夏連覇を狙った三重を打ち合いで降したものの、八重樫幸雄が四番を打っていた仙台商に2回戦で敗れた(1-4)。 徐々に球威が増し、150km/h近い剛速球と、切れのいいカーブ・シュートを武器に三振の山を築く。投げれば完封、大半が二桁奪三振。「一桁だと気分が悪かった」と豪語するビッグマウス。重い剛球で高校3年間の公式戦で浴びた本塁打はわずか2本だった。相手チームに「バントするのも恐い」と言わせ、箕島高の島本講平(1970年南海ドラフト1位)、岐阜短大付高の湯口敏彦(同年巨人1位)と共に高校三羽烏と騒がれた。 1970年の春の選抜に出場。初戦の富山商戦で15奪三振、2戦目の千葉商戦で12奪三振を記録して2試合連続完封を果たし、準決勝で島本の箕島高と当たった。箕島高のしつこい攻撃と味方の失策もあり0-3で敗れる。箕島高は優勝し、かわいいマスクの島本は前年の太田幸司に続いて甲子園のアイドルとなった。一方、向こうっ気が強かった佐伯は、試合後のインタビューで「今日の審判は(ストライク・ボールの判定が)辛い」とプロの投手のような発言をしてしまい世間の反感を買った。同年夏は県予選準決勝の広島工戦で18奪三振を記録。決勝では中学生の時からのライバルである広島商の日高晶彦投手と投げ合い、延長10回の熱闘の末に敗退、甲子園出場を逸した。 この年秋のドラフト会議では目玉となり、まだメジャーリーグが身近でない時代、サンフランシスコ・ジャイアンツのスカウトも来日した程だった。これは鶴岡一人がキャピー原田を通じて佐伯をアメリカに留学させた上で、アメリカのプロ野球でプレーさせようとしたものだったが、当時の鈴木龍二セ・リーグ会長の反対でこれは実現せず、同年ドラフト1位で地元広島入団(金城基泰らが同期)、地元出身のスター選手として大いに騒がれた。 「走るのは大嫌い」と公言するなど相変わらずのところを見せたが、よく走り込みプロ1年目は4勝9敗。2年目は6勝8敗ながら初めて規定投球回(リーグ10位、防御率3.07)に達する。 1973年、フォークボールを習得し大ブレーク、19勝を挙げ防御率2.30のリーグ5位、一躍エースにのし上った。しかし、この年の酷使が祟ったのか肩を痛めてしまった。 1974年は2勝に留まった。 1975年、嘘のように肩の痛みが取れ、新しく習得したスライダーを武器に、球団創設25年目にして初優勝に驀進するチームの一翼を担い、外木場義郎20勝、池谷公二郎18勝に次ぐ15勝を挙げ面目を保った。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは2試合に先発。第2戦は5回に崩れ敗戦投手、第5戦も4回に大橋穣の投犠野選が決勝打となり敗戦投手となった。 なお最近では同じく広島に在籍経験のある黒田博樹が「打撃の下手な投手」として知られているが、佐伯も1973年から1975年にかけて71打席連続無安打のセ・リーグ記録を打ち立てた。1990年、阪神の猪俣隆が更新するまでセ・リーグ記録だった。 1977年新美敏・皆川康夫・鵜飼克雄・内田順三との交換トレードで宮本幸信・久保俊巳と共に日本ハムファイターズへ移籍(この時広島ファンは初優勝にも貢献した地元出身のドラフト1位選手を放出したことに激怒し、抗議集会を開いたというエピソードがある)。 1978年には開幕投手を務めた。 1979年と2年連続二桁勝利を挙げ、1978年の日本ハムファイターズ創設初のAクラス入り(3位)に貢献した。この年、オールスターゲームのファン投票で、日本ハム選手が組織票により8つのポジションを独占、物議を醸した。投手1位は高橋直樹だったが、佐伯も監督推薦で選ばれた。 1981年高橋里志との交換トレードで広島に復帰するが勝ち星を挙げることはなかった。 1982年に一軍未登板に終わり引退。 広島で現役登録のまま打撃投手を1986年まで務めたのち、1987年から同球団のスカウト。その後二軍投手コーチなどを務め、再び広島スカウトを務めた後2004年退職。 2007年4月、岡山県に開学した環太平洋大学の硬式野球部監督を務めた。 2009年から四国・九州アイランドリーグ・高知ファイティングドッグスのコーチを2シーズン務めた。2010年9月27日、「体調不良」を理由に9月30日付での辞任が発表された。 現在は岩国ヤングホープスの総監督を務めている。 詳細情報各年度の太字はリーグ最高 初登板:1971年4月18日、対読売ジャイアンツ4回戦(広島市民球場)、6回表に3番手で救援登板、2回無失点 初奪三振:同上、6回表に柴田勲から 初先発:1971年4月29日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、5回6失点(自責点0)で敗戦投手 初勝利・初完投勝利:1971年5月2日、対阪神タイガース5回戦(広島市民球場)、9回2失点 初完封勝利:1971年5月16日、対大洋ホエールズ5回戦(広島市民球場) 初セーブ:1977年9月1日、対クラウンライターライオンズ後期11回戦(平和台球場)、9回裏に6番手で救援登板・完了、1回無失点 1000投球回:1976年9月25日、対大洋ホエールズ22回戦(広島市民球場)、3回表3死目に達成 1500投球回:1978年5月26日、対ロッテオリオンズ前期8回戦(後楽園球場)、7回表1死目に達成 オールスターゲーム出場:3回(1973年、1976年、1978年) 21 (1971年 - 1976年、1981年 - 1982年) 32 (1977年 - 1978年) 20 (1979年 - 1980年) 66 (1983年 - 1986年) 80 (2000年 - 2001年) 2024/05/26 20:59更新
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saeki kazushi
佐伯和司と同じ誕生日6月5日生まれ、同じ広島出身の人
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