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佐山聡の情報 (さやまさとる)
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【5月19日】今日誕生日の芸能人・有名人

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佐山 聡さんについて調べます

■名前・氏名
佐山 聡
(さやま さとる)
■職業
格闘家
■佐山聡の誕生日・生年月日
1957年11月27日 (年齢66歳)
酉年(とり)、射手座(いて)
■出身地・都道府県
山口出身

佐山聡と同じ年に生まれた芸能人(1957年生まれ)

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佐山聡

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佐山 聡(さやま さとる)さんの誕生日は1957年11月27日です。山口出身の格闘家のようです。

もしもしロボ

獲得王座、得意技などについてまとめました。引退、父親、テレビ、卒業、結婚、脱退、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。現在の年齢は66歳のようです。

佐山 聡(さやま さとる、1957年11月27日 - )は、日本の男性プロレスラー、格闘家。総合格闘技の元祖とされる競技・シューティング(現:修斗)の創始者。山口県下関市長府出身。血液型B型。

1976年に新日本プロレスでプロレスラーとしてデビュー。 1981年にタイガーマスク(初代)に扮し、空中技を駆使したファイトスタイルで国民的な人気を集め、一大プロレスブームを巻き起こした。 1983年に理想の格闘技確立を目指して現役を引退したが、1984年には現役復帰して「ザ・タイガー」、「スーパータイガー」のリングネームで第1次UWFに参戦した。 1984年に総合格闘技団体「修斗」、1999年には武道団体・「掣圏道」を創始、2004年に「掣圏道」を「掣圏真陰流」と名称変更、2005年には「リアルジャパンプロレス(現:ストロングスタイルプロレス)」を旗揚げ。 2020年まで掣圏真陰流興義館総監を務めた。 2020年、掣圏真陰流の運営に幕を閉じて興義館を閉館し、総合格闘技「佐山道場」を立ち上げる。 2022年から新武道「神巌流総術」を発表、2023年に名称を「神巌流総道」に決定。 格闘家以外に武道家、思想家としても活動している。

1957年11月27日、山口県下関市長府に産まれる。誕生から3日後には「佐山稔」と名付けられたが、父親が「えらい」という意味を込めて「聡」と名付けられた。

小学校2年生時に兄に連れられ、家の近くの乃木神社の境内にある道場で柔道を始める。当時の佐山は警察官になってゆくゆくは警視総監になることを将来の夢としており、当時書いた作文には「たくさんのどろぼうを、つかまえようとおもいます」と書いていた。しかし、小学校4年時にキックボクシングのテレビ番組で沢村忠を見たことで格闘技に興味を惹かれるようになる。佐山にとって沢村は好きな野球選手だった王貞治とともに憧れの対象となったが、やがて憧憬の対象がキックボクシングからプロレスへと移り、また中学校時代に来日したミル・マスカラスの大ファンとなった。

中学校では柔道部に所属し、3年時の秋には下関市代表として山口県中学校秋季体育大会に出場している。中学卒業後は高校に進学せずにプロレスラーになろうと考えていたが、担任と父親から猛反対されたため山口県立水産高等学校に入学し、レスリングに入部。入学直後に出場した大会の75kg級で第3位となると、後に国体候補選手にも選ばれ、11月に行われた新人戦の75kg級で優勝する。しかし、佐山はこれでプロレスラーになれると感じたことで高校を中退する意思を固め、新日本プロレスに入門するために上京したい旨を父親に伝えた。ここで父親と激しく衝突したが、最終的に父親が根負けし、父が紹介する仕事に就くという条件を付きで佐山は上京をすることとなった。

上京した佐山は千葉県千葉市の工場に勤務することとなったが、体を動かす機会が自主トレーニング以外になくなったため会社のサッカー部に入り、背番号3をつけて千葉県内の企業のサッカー部で作られたリーグ戦「京葉リーグ」にも出場した。しかし、父親は工場の同僚たちに対し、佐山をプロレスに近づけないようにしてくれと手を回しており、後にこれに気付いた佐山は怒りからこの工場を退職。退職後は柏市の新聞販売店に就いたが、この職場も父親の紹介だったためすぐに退職した。

前述の新聞販売店を退職後は1974年8月から南千住のレストランに住み込みで働き始めた。また、このレストランに入った後に自宅へ無事を知らせる手紙を出したが、この時父に対して「これがもうお父さんに返事を聞く最後の手紙です」と前置きしたうえで「プロレスラーになってもよろしいでしょうか?」と強調した文を書いていた。この直後に新聞社と連絡を取って新日本プロレスの入門テストを受けることになった。後楽園ホールで行われた入門テストをクリアして新日本への入門が決まった。

1975年7月に新日本の道場に入門。入門の前に一度新日本を訪れているが、その時は新間寿から、身長が170cmを超えて体重が70kgになったら連絡するように促され、実際に身長が172cm、体重が72kgになってから再訪、そこで後楽園ホールで行われた試合に連れて行ってもらった。新間が新日本の弟子を独断で採用したのは佐山の時が初めてであり、アントニオ猪木からは最初「あんなちっこいの」呼ばわりされたが、その練習熱心さから次第に猪木も佐山を認めるようになった。

1976年5月28日に魁勝司戦でデビューし、57戦目となる栗栖正伸戦で初勝利を挙げている。初勝利までは1引き分けを挟んで55連敗を喫したが、試合内容は良かったと言われている。佐山は道場での練習に執心していたが、他の格闘技の技術を習得しようと考えるようになり、黒崎健時が目白に創設したキックボクシングジムの目白ジムに入門し、新日本での練習と並行して同ジムでトレーニングを積んだ。入門2年目からは猪木の付き人になった。

1977年には梶原一騎主催の「格闘技大戦争」で、全米プロ空手ミドル級第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下で対戦した。1Rこそ果敢にバックドロップや反り投げなどの投げ技を繰り出したものの(ただし反則)、コステロの激しい蹴りを浴び続け、6ラウンド戦い抜いての判定負けを喫した。なお、この試合に負けたから打撃を取り入れた格闘技に傾倒していったのではなく、元々リアル指向で、会社に内緒で打撃の練習をしていた。佐山はこの試合での悔しさから直後に一人で合宿に出かけ、この合宿でバック回し蹴りやローリングソバットを思いついたという。後に佐山は、コステロ戦に関して「立ち技系の相手にタックルが通じるのか?」「相手のパンチとキックをかわしつつタックルから相手を投げる事が出来るのか?」を実践するためにあえて反則覚悟で投げ技を使用したと発言しており、試合後に佐山の意図を理解していない人たちからは負けた事で非難されたが、猪木だけはその意図を理解し「よくやった」と褒められたという。

1978年、佐山は新日本副社長の坂口征二からメキシコへ遠征に行くように指示され、同年6月に現地へ向かった。佐山は猪木から「格闘技の選手として育てる」と伝えられていたため釈然としていなかったが、1975年にUWAに選手を引き抜かれたEMLLオーナーのカモウ・ゴンザレスがプロモーターのマイク・ラベールに、海外から「メキシコに定住し、興行の柱になるプロレスラー」のスカウトを依頼され、ラベールが付き合いのあった新日本に「身軽で動けるレスラー」を打診したところ、佐山が選ばれたというものだった。

佐山はグアダラハラに5か月ほど滞在した後にメキシコシティへ移り、先輩の木村健吾と共同生活をしながらメキシコで暮らすこととなった。メキシコでは環境や食生活の違いから体調を崩し、一時期体重が20kg近く減るなど、苦労したという。新日本での前座時代は使う技が限られていたが、メキシコでは自分の技を試すようになり、後の得意技となるローリングソバットやサマーソルトキックを披露し、1979年9月にはNWA世界ミドル級王者となるなど活躍した。なお、漫画「プロレススーパースター列伝」では、メキシコ時代に覆面レスラー『ティグレ・エン・マスカラド』および目に隈取を施したペイントレスラー『ミスターカンフー』として活動したと紹介されているが、これらはフィクションであり、実際は本名の『サトル・サヤマ』として素顔で活動している。その後、カール・ゴッチの家でトレーニングを積み、イギリス人レスラーのピート・ロバーツと合流し、ロンドンへ向かった。

ロンドンについた直後、佐山はロバーツとともに現地のレスラーにマーシャルアーツショップへ連れていかれ、黄色に黒のラインが入ったジャンプスーツを着て、「サミー・リー」のリングネームでブルース・リーのファミリーとして試合に出るように要請された。1980年10月8日にサミー・リーとしてのデビュー戦を行ったが、回し蹴りや飛び技を次々と披露し、その派手な動きに観客から拍手を送られた。その後の現地で試合を重ねるごとにサミー・リーの人気は高まり、、イギリス各地のプロモーターの間で引っ張りだこの存在となった。

1981年、佐山は日本にいる新間寿からコレクトコールで「いい話があるから戻ってこい」と電話を受ける。しかし、当時の佐山はサミー・リーとして大変な人気を獲得しており、マーク・ロコとのタイトルマッチを目前に控えていたこともあり帰国を断るが、新間から「もう話は進んでいる、テレビ朝日と梶原に対して顔が立たない」、「アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」と説得され、一試合だけと念を押して日本に一時帰国することを受け入れた。

佐山はタイガーマスクとしてのデビュー戦の2日前となる21日に日本へ帰国した。新間によると、マスクの発注を忘れてしまい、直前にスタッフが既製品を改造して短時間で作り上げたものであるという。この時期にはテレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、デビュー戦となる23日の蔵前国技館大会で「実物のタイガーマスク」がデビューするという予告も流れていた。

1981年4月23日、蔵前国技館におけるダイナマイト・キッド戦でデビューを飾った。この試合で佐山はイギリスで披露していたステップを踏む動きや蹴り技を見せ、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利したものの、佐山はイギリスのようないくつか技を出すと観客が総立ちになるという反応がなかったため、観客の反応が悪いなと感じていたという。またデビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった。

新日本プロレス伝統のストロングスタイルに全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレ(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。そのファイトスタイルは、実況の古舘伊知郎によって「四次元プロレス」「四次元殺法」と形容された。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していた。

1981年5月18日にはメキシコのアレナ・プエブラにて、ビル・ロビンソン&エル・ソリタリオとトリオを組み、カネック、ビジャノ3号、スコルピオと6人タッグマッチで対戦した。ロビンソンはタイガーマスクについて「ベリーグッドだ。レスリングのできる者でなければ不可能なムーブができていた」などとコメントしている。同年12月8日の蔵前国技館大会では、カネックとのシングルマッチも行われた。

1982年1月1日、王座決定戦でダイナマイト・キッドを破りWWFジュニアヘビー級王座を獲得。5月25日にはレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取、WWFとNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。この時期の代表的な好敵手としては、デビュー戦の相手でもあったキッドをはじめ、後にWWF世界ヘビー級王者となるブレット・ハート、英国でも抗争を繰り広げたブラック・タイガー、ビリー・ライレー・ジム出身のスティーブ・ライト、ローラン・ボックからも技巧派として高く評価されたピート・ロバーツ、そして「虎ハンター」として名を馳せた小林邦昭などが挙げられる。また、アントニオ猪木や藤波辰巳と組んでの6人タッグマッチにも出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ワフー・マクダニエル、スーパースター・ビリー・グラハム、バッドニュース・アレン、ダスティ・ローデス、マスクド・スーパースター、ドン・ムラコ、グレッグ・バレンタイン、ボブ・オートン・ジュニアなどヘビー級の外国人選手とも対戦した。

ジュニアヘビー級王者としてアメリカのWWFにも遠征し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいてキッドやカルロス・ホセ・エストラーダ、フィラデルフィアのスペクトラムにおいてエディ・ギルバートを相手に防衛戦を行ったこともある。1982年11月から12月にかけてのWWFサーキットでは、12月4日にマサチューセッツ州スプリングフィールドにて、当時のWWFヘビー級王座のトップコンテンダーだったプレイボーイ・バディ・ローズを破り、12月7日にはペンシルベニア州アレンタウンにて、当時WWFを主戦場としていたミスター・サイトーことマサ斎藤からも勝利を収めている。サーキット中は、斎藤のパートナーだったミスター・フジや若手時代のカート・ヘニングとも対戦した。

人気絶頂の最中、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。1983年5月に漫画『タイガーマスク』の原作者である梶原一騎が講談社編集者への暴行容疑で逮捕され、社会的影響度から改名問題が浮上する。8月4日、デビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦の試合前に改名を予告し、ファンに新リングネームを当てさせるクイズ企画も用意された。しかし、8月10日に新日本プロレスに対して契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言した。契約解除の通告書では、タイガー人気で得られた収益が猪木の個人事業「アントン・ハイセル」へ流用されていることを糾弾した(8月末に社内クーデター騒動が勃発し、猪木が社長を一時辞任)。佐山個人は結婚式を海外で極秘に挙げるようフロントから強要されたことに憤りを感じており、タイガーブームの仕掛け人である新間寿と佐山の個人マネージャーだったショウジ・コンチャが対立していたという事情もあった。

9月21日付の東京スポーツに素顔の写真が掲載され、タイガーマスクの正体が佐山であることが公開される。テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。

新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はキッドをフェンスアウトさせての反則負けであり、シングルとタッグを含めて一度もフォール負けがない(メキシコではWWFジュニアヘビー級王座の防衛戦で、1982年12月12日にペロ・アグアヨから、1983年6月12日にフィッシュマンから、それぞれ1フォールを奪われたことがあるが、スコアの上では勝利を収めた)。

初代タイガーマスク時代、1982年10月26日の大阪府立体育館での対戦を初めとし、小林邦昭に何度もマスクを破られたり、剥ぎ取られそうになった。それまでの覆面レスラーにもマスク剥ぎがなかったわけではないが、基本的には覆面レスラーのマスクには手を掛けないのが暗黙の了解で、小林のように毎試合マスクに手をかける行為はそれまでなかったものであった。

それ以後、歴代タイガーマスクや、女子プロレスにおける派生キャラクター、タイガードリーム、タイガーエンジェル等の試合でも、マスク剥ぎが「お約束」として必ず入っている。後に佐山は小林と対談した際に、マスク剥ぎのことに触れて「先輩(小林)がのし上がるためならと、僕は我慢していたんですよ」と語っているが(両者は実際には仲が良かった)、実際それ以降の小林は『虎ハンター』として完全にブレイクする。

人気絶頂期での引退発表を行った頃、自身のジム「タイガージム」を設立。ザ・タイガーとして、ほぼ同時期に新日本プロレスを退団した山崎一夫をインストラクター兼スパーリングパートナーに迎え、新格闘技と称して新しいスポーツを模索する中、1984年7月23日、24日にUWFの「無限大記念日」興行に約1年振りの現役復帰。高田伸彦と組んで、前田日明、藤原喜明とのタッグマッチを行った。

ザ・タイガーのマスクデザインは額の赤いマークが廃され、新格闘技ではアップライトスタイルからのキックが重要になってくるため、スポーツとして蹴られた相手を必要以上に傷つけない様、脛当て(レガース)が佐山により考案された。この時期にも、バラエティ番組では自らマスクを脱ぎにらめっこ勝負を行なったりしていた。

UWF正式入団時にスーパータイガーと改名(タイガージムが商標登録しているザ・タイガーの名称が使用できないため)。紫×銀のマスク+コスチュームに一新。藤原との試合でがぶられて(上からホールドされること。レスリングでよく使われる言葉)スタミナを失い、アームロックから逃れられずに腕を脱臼したことから、スーパー・タイガー名義のままで素顔にて試合をするようになる。自身のジムは一旦閉鎖し、「スーパータイガージム」として後に再スタートする。

リング上では前田、藤原、高田、木戸修、山崎らとの日本人対決を軸に壮絶な試合を行ない、「UWFはプロレスではなくシューティング」自分達を「シューター」と称した。公式ルールの制定にも着手するが、スポーツライクな、競技としてのシューティングを確立しようとする佐山と他の選手との間には徐々に溝ができていた。そして1985年9月2日。大阪府立臨海スポーツセンターで行われた試合で、特に不信を抱えていた前田からセメントを仕掛けられる。張り手や膝蹴りを多用し、グラウンドの佐山にローキックをする等、前田の尋常ならざるファイト、精神状態を懸念した佐山が、腹部に入った右膝を金的アピールしてレフェリーに試合を止めさせた(結果は18分57秒スーパー・タイガーの反則勝ち)。これがきっかけとなって、佐山は10月11日にUWF脱退を表明。看板選手を失った団体は活動休止に追い込まれ、佐山以外の選手は新日本プロレスと業務提携することになる。

前田との関係はまだ完全ではないもの、2006年に真樹日佐夫の仲介で行われた『週刊文春』での前田との対談で一定の修復はなされ、その後は電話で話すなど仲直りしている 。

1985年12月、佐山はシーザー武志と共にシュートボクシングの大会に出席し、翌年からのアマチュア格闘技大会開催を予告。スーパータイガージムでの指導をベースとした競技としての格闘技「シューティング(現・修斗)」の普及活動に励み、協会設立やプロ化を実現。

オープンフィンガーグローブを考案したのも佐山である。 1996年には修斗の運営から身を引いた。

UWF離脱直後にはプロレス界の実情を暴露した『ケーフェイ』を出版し、プロレス活動から距離を置いた(ジャパン女子プロレスの興行で挨拶をしたことは何度かある)。その後は総合格闘技界とプロレス界では異なる立場を取りながらも、双方に関わる活動となる。

1994年5月1日、当時新日本プロレスの取締役だった永島勝司に要請され、10年ぶりの新日本登場、4年ぶりの試合となる獣神サンダー・ライガーとのエキシビションマッチに参加した。試合中、佐山は挑発的な笑顔を浮かべていた。これは試合がエキシビションのため「適当にやろう」と思ったかららしい。翌年、初代タイガーマスクに名を戻して本格的にプロレスに復帰し、UWFインターナショナル、みちのくプロレス、東京プロレス、SAプロレス等に参戦した。1997年にはタイガーキングに改名し、新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦する。この改名はこの時点でデビューしていた4代目への配慮とされている。

1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに猪木事務所取締役の肩書きで参加する。小川直也を指導し、岡田孝(現・三州ツバ吉)からの推薦により村上和成の参戦を認めた。1999年1月4日、伝説となる小川直也対橋本真也のシュートマッチ、いわゆる「1.4事変」の仕掛け人の一人となる。余談だが、この時佐山は松葉杖をついてセコンドに就いているが、これは1週間前にアレクサンダー大塚戦で負傷したからである。その後、4月に猪木と団体方針の食い違いがきっかけとなりUFOを離脱した。

その年の5月に掣圏真陰流設立、再びプロレスから離れる。もう復帰は無いと思われたが、2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名でまたも復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。

2008年3月13日にはリアルジャパンマットで、天龍源一郎との初対決がタッグマッチで実現。チョップと蹴りも打ち合う名勝負となる。

リアルジャパンプロレスでは他にも、鈴木みのる、飯伏幸太、高山善廣、大仁田厚とも対戦が実現。

また昭和プロレス興行にて藤原喜明が胃がん手術後の復帰戦の対戦相手になる。

藤原の復帰戦とは思えないほどの、壮絶な蹴りを見舞う試合になった。

12月には、これまで試合での接点が全くなかった(1988年4月2日、両国国技館で行われた「格闘技の祭典」で、当時シューティングのエキシビションを行った佐山を激励する形で一緒のリングに上がったことはあったが)二代目タイガーこと三沢光晴との初対決がやはりタッグマッチで行われた。

2010年10月20日、藤波辰爾、長州力と共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。

2015年3月20日の後楽園ホール大会での曙戦後に心臓の痛みを訴えていたが、しばらく安静に努めていたものの改善しなかったため、5月22日に手術を行った。精密検査の際、医者から「いつ突然死してもおかしくない状態」と言われたほど深刻な状況だったが、4時間に及んだカテーテル手術は無事に成功。最終的には原因不明の「狭心症」と診断されたが、先天的に血管が細く、小学校低学年の時に心臓を患って入院した経験があったという。

2016年6月23日のリアルジャパンプロレス後楽園ホール大会にてミノワマンを相手に、新たに佐山自身が立ち上げた武道「須麻比(すまひ)」のデモンストレーションマッチとして復帰戦を行うが、瞬間の瞬発力は感じさせたものの、完調とは言える動きではなかったため、完全な形での復帰は明言しなかった。

2020年2月19日、新間寿はリアルジャパンプロレス会長として東京都内の会見で「パーキンソン病に近い状態」と佐山が歩行困難であることなどを説明した。

7月11日より東京・神田明神資料館にて功績と思想、プロレスと神社の歴史を振り返る『初代タイガーマスクの武道精神と日本文化展』を開催。

「健全な子供たちが育つよりよき社会作り」を目指して2011年11月に設立され、理事長に就任。孤児やめぐまれない子供たちへの支援活動をはじめ、社会教育事業の推進や慈善イベントの開催などを行っている。2014年11月には一般財団法人化。

獲得王座

NWA世界ミドル級王座…第41代(防衛10回)

WWFジュニアヘビー級王座…第6代(防衛6回)、第8代(防衛16回)、第9代(防衛1回)

NWA世界ジュニアヘビー級王座…第34代(防衛4回)、第35代(防衛2回)

TWA認定世界タッグ王座…第3代(パートナーは安生洋二)

1981年度プロレス大賞 大衆賞

1982年度プロレス大賞 最優秀選手賞

1982年度プロレス大賞 技能賞

1984年度プロレス大賞 技能賞

得意技

格闘技的な蹴り技をプロレスに持ち込んだパイオニアであり、さらに見栄えを良くするため、プロレス流にアレンジもなされた。また、ルチャをベースに当時としては画期的な空中殺法に加え、ルチャ的なジャベ、現在では格闘技色の強い関節技、さらに投げ技、丸め込み技まで難なくこなし、ラフにも強い正に万能型の選手で、他団体を含む後のジュニア選手のファイトスタイルに大きな影響を与えた。

2024/05/17 14:53更新

sayama satoru


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