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堀内恒夫の情報 (ほりうちつねお)
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【5月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

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堀内 恒夫さんについて調べます

■名前・氏名
堀内 恒夫
(ほりうち つねお)
■職業
野球選手
■堀内恒夫の誕生日・生年月日
1948年1月16日 (年齢76歳)
子年(ねずみ)、山羊座(やぎ)
■出身地・都道府県
山梨出身

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堀内恒夫

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堀内 恒夫(ほりうち つねお)さんの誕生日は1948年1月16日です。山梨出身の野球選手のようです。

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経歴、選手としての特徴などについてまとめました。現在、卒業、事件、父親、引退、テレビ、趣味に関する情報もありますね。現在の年齢は76歳のようです。

堀内 恒夫(ほりうち つねお、1948年1月16日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督・コーチ、野球解説者、政治家。

読売ジャイアンツのV9時代のエースとして活躍。2004年と2005年に巨人の監督を務めた。シーズン勝率(.889)のセ・リーグ記録を持ち、セ・リーグ最多タイ記録となる最高勝率を3回獲得、セ・リーグ初の投手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。また、オールスターゲーム通算防御率(1.44)のNPB記録を持つ。

2013年から2016年までの間、参議院議員を務めた(1期)。

経歴

山梨県甲府市出身。養蚕業(生糸工場経営者)の家に生まれる。小学生時代に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、数ミリほど切断する大怪我を負っているが、爪には影響がなかったため日常生活に支障はなかった。指の形が変わったことが独特の大きなドロップカーブを生み出すきっかけになった。

甲府市立南中学校1年生の時、部活はサッカー部に入っていた。下働きがないのが魅力というのが理由だった。その後野球部長の熱心な誘いもあって、2年生で野球部に転部、この時は「渋々」だったと言う。

中学卒業後は法政二高への進学を希望していたが、推薦枠から漏れて甲府商業に進学する。1年生次から中堅手兼控え投手として活躍。1963年の夏の甲子園県予選決勝では、3年生エース大石勝彦をリリーフして機山工を降す。しかし第45回記念大会は出場校が多く、会場に阪急西宮球場と甲子園を併用し、甲府商は西宮組に入ったために甲子園に行くことはなかった。これは『巨人の星』でもエピソードに使われている。大会では武雄高、宮崎商を降し山梨県勢初の3回戦に進出するが、優勝した明星に0-11で完敗。堀内はリリーフで2試合に登板している。2年上のチームメイトに雨宮捷年右翼手がいた。

2年生となる1964年夏はエースとして西関東大会決勝に進出するが、熊谷商工に0-1で惜敗。同年秋季関東大会でも決勝に進むが、東農大二高の樫出三郎らに抑えられ完封負け、春の選抜出場を逸する。3年生となる1965年夏も西関東大会準決勝で熊谷商工に敗れ、結果として高校時代にいわゆる「夏の甲子園」への出場は果たしたものの、上記経緯により実際の“甲子園の土”を踏むことはできなかった。

高校卒業にあたって堀内は「巨人がドラフトに指名してくれるか、でなければ早慶に行きたい」と考えていた。法政大学からは監督の松永怜一が直接勧誘に来たが、かつて法政二高が推薦から外していたことから堀内が拒否し、立教大学はコーチが堀内を一目見て「プロに入った方がいい」と帰った。甲府商業の監督であった菅沼八十八郎は明治大学出身であったことから、2年先輩で明大監督の島岡吉郎に相談する。島岡は菅沼の話を聞いて「そんないい選手を早慶に持って行かれてはたまらない、ドラフトで指名するように巨人に頼もう」となり、明大の後輩である巨人のスカウト沢田幸夫に堀内のドラフト指名を頼み込む。巨人のスカウト陣の中で1位指名は夏の甲子園で準優勝した銚子商業の木樽正明で固まっていた。ここでスタッフ会議における沢田の説得と内野手としての野球センスは抜群との但し書きにより、巨人は堀内を指名することになった。巨人側としても、監督の川上哲治と衝突して造反事件を起こした上に衰えが見え始めていた広岡達朗に代わる遊撃手捜しに奔走していた事情も影響したと言われる。

1965年の第一回ドラフト会議で1位指名を受け読売ジャイアンツに入団。入団にあたって、菅沼は川上に対して「あの子は野球に関してすばらしいセンスを持っている。野球の技術を教えないで欲しい。そのかわり、チャランポランな性格があるので、精神面で厳しくやってくれ」と頼んだという。契約金は1000万円であったが堀内はそれを父親に渡す。当時父親が経営していた生糸工場は中国産生糸に押されて状態が芳しくなく、父親は契約金を生糸工場の経営につぎ込んだとされる。1年目の堀内の給料は12万円、手取り11万円であった。1966年キャンプ終盤に高橋一三に代わり一軍昇格すると、4月14日の対中日戦に先発として初登板。投球練習時には、1球目をわざとバックネットにぶつけて緊張をほぐしたという。7回2失点で降板するが、その裏に巨人が逆転して初登板初勝利を飾る。5月に一度二軍に落ちたもののすぐ復帰しそのまま一軍に定着。5月30日の対大洋戦から6月22日の対サンケイ戦にかけて44回連続無失点を記録すると、初登板から7月27日の対阪神戦までセ・リーグ記録(新人記録でもある)となる開幕13連勝を達成した。その後、7月31日の対広島戦で安仁屋宗八と投げ合って0-2で敗れると、8月2日の対中日戦では新人の広野功に逆転満塁サヨナラ本塁打を打たれている。その後、勝星のペースは落ちるが、シーズンでは16勝2敗、防御率1.39、勝率.889を記録。1年目から速球とカーブに優れ、沢村二世のニックネームがついた。また、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献した。

入団時の背番号は21だったが、1967年からは18になった。しかし同年1月のチームの自主トレ中に腰を痛めて、重症の椎間板ヘルニアを患ってしまう。この時は一軍と二軍の往復を繰り返し、ようやく7月末に復帰する。その後、急速に調子を取り戻し勝ち星を重ね、10月10日の対広島戦ではノーヒットノーランを達成した上に、投手として初記録となる3打席連続本塁打も放っている。シーズンでは12勝(防御率2.17〔リーグ3位〕)を挙げた。しかし、この年に患った腰痛は持病となり、引退するまで堀内を悩ませることとなった。

1968年は17勝を挙げて初めてチームの勝ち頭になるが、同年オフに監督の川上の指示によりロサンゼルス・ドジャースのベロビーチキャンプに参加する。キャンプでは、ビル・シンガーが投げていたチェンジアップを覚えて帰国した。1969年はライバルであった高橋一三が22勝を挙げてブレイクする一方で、堀内は14勝13敗と数字を落とす。この時期には、このままではコントロールが悪くなる一方だから何とかしなければとの思いで、ノーワインドアップへの投球フォームの改造を試みるが、半年ほどでやめている。

1972年は初の開幕投手を務めると、かつて覚えたチェンジアップを完成させたことでシーズン開始から好調を維持する。6月9日の江夏豊との互いに通算99勝対決を制し、100勝を達成する。本シーズンの巨人はON(王貞治と長嶋茂雄)を含めた打線陣が3割打者不在になるなどの不調の上、堀内以外の投手が勝てなくなっていたが、堀内が26完投で26勝(9敗)防御率2.91(リーグ7位)、特に阪神戦では毎カード3戦中1先発1リリーフと奮闘し、巨人のリーグ優勝・日本一に貢献。MVP、シリーズMVP、最多勝、沢村賞、ベストナインに輝いた。この年の堀内を最後にセ・リーグでシーズン25勝以上した投手はいない。V9を含め、巨人は1963年から1974年までセ・リーグMVPを独占したが、この間に王と長嶋以外で受賞したのはこの年の堀内が唯一である。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、全5試合中4試合に登板して2勝1敗を挙げ最優秀選手賞と最優秀投手賞を受賞する。この年の活躍が認められて前年から600万アップの年俸1800万円で契約更改したが、これが現役時代の最高年俸であった。

1973年は前年度の酷使から、シーズンでは12勝17敗、防御率4.52とプロ入り後最低の成績に落ち込む。しかし、南海ホークスとの日本シリーズでは、全5試合中3試合に登板して、2勝0敗、防御率0.91。さらに、第2戦で決勝適時打、第3戦では2本塁打と投打に大車輪の活躍で2年連続で最優秀選手賞と最優秀投手賞をダブル受賞した。1974年は19勝、防御率2.66(リーグ4位)を記録して2度目のベストナインを獲得。1975年は10勝するも、リーグワーストの18敗を喫し、チームも球団初の最下位に終わった。27歳で150勝を達成するなど1978年まで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍。通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。晩年はスライダーを覚えるが、いわゆる“スライダーの魔もの”に取り憑かれて手首が硬くなり、直球のスピードやカーブの切れを失っていったという。10勝9敗、防御率4.58と成績を落とした1977年にはパームボールの研究もした。1979年4月9日の対中日戦で、球団通算3000勝目の勝利投手となる。しかし、この年わずか4勝(7敗)と、この頃を境にあまり勝てなくなっていった。肩や肘の故障に見舞われたことはなく徐々に身体全体が衰えていく中で、速球投手からのイメージチェンジを図れなかったことも原因とされる。

1980年6月2日の対ヤクルト戦で16人目となる通算200勝を達成。巨人一筋で200勝を挙げたのは中尾碩志と堀内のみ。同年に引退した王貞治はファン感謝デーの紅白戦で堀内を投手として最終打席に立っている。しかし、堀内は2球のドロップに渾身のストレートを投げ王を空振り三振に仕留めている。その後、王が入団時のポジションである投手に、打席に堀内が立って再び勝負をしたが、堀内は王の初球を引っ張り本塁打とした。

しかし、1981年に藤田元司が監督に就任すると、江川卓・西本聖・定岡正二の台頭により登板が急激に減り、日本シリーズでは登板機会がなく、1982年に投手コーチ兼任となる。

1983年、現役引退を発表。引退試合(10月22日の対大洋戦)では、巨人3点リードの8回表から登板。8回裏に回ってきた現役最終打席で本塁打を放っている。投手としては2イニングを抑えてセーブを記録。引退試合での現役最終打席(篠塚利夫に替わって3番に入る)は「ホリさんまで打順を回そう」と野手陣が打ちまくったことにより実現した。引退試合後の日本シリーズには出場しなかった。

現役最後の本塁打を打たれた打者は、広島東洋カープの山本浩二。堀内は引退後に「僕は山本浩二さんに引導を渡されたんですよ。最後に山本浩二さんに打たれたホームランで僕は自分の力を感じて引退した」と語っている。

引退後の1984年から王貞治監督の下で一軍投手コーチ専任となるが、1985年1月27日には多摩川グラウンドにて所憲佐サブマネジャーの頬を右手で殴り、翌28日には戸田久雄一軍マネジャーに厳重注意されている。所が練習開始前にファンの退去を促したが、それが堀内の知人の子供で、また「出て行ってくれ」との荒い口調に激高したため、所も注意を受けた。同年に一度退任し、日本テレビ・ラジオ日本解説者・スポーツ報知評論家(1986年 - 1992年)を経て、長嶋茂雄監督の下で一軍投手コーチ(1993年 - 1997年)→ヘッドコーチ(1998年)を務めた。日本テレビ解説者・スポーツ報知評論家(1999年 - 2003年)に復帰し、読売新聞スポーツアドバイザーとして、野球教室のイベント等にも携わっていた。

2000年3月29日に、東京ドームで開催された日本初のメジャーリーグ公式戦・ニューヨーク・メッツ対シカゴ・カブスで、この試合を観戦した皇太子徳仁・同妃雅子の傍らで野球解説を行った。

2003年オフ、原辰徳が突然辞任した後継として巨人監督に就任する。就任会見では「青天の霹靂。この時期に全く予想していなかったし、大変なことになったなと…」と複雑な心境を吐露した。一方で「投手を中心とした守りの野球」「藤田元司さんのようなチーム作りを目指す」と早くも抱負を述べるなど意欲を見せた。監督時代の背番号は88で、これは甲府商時代の恩師・菅沼八十八郎にちなんでつけたもの。2リーグ制以降の投手出身の巨人監督は藤田に続き2人目。コーチ陣はヘッドコーチに須藤豊、投手コーチに池谷公二郎、外野守備走塁コーチに弘田澄男、二軍から阿波野秀幸(投手)、淡口憲治(打撃)、上田和明(内野)、高田誠(バッテリー)が昇格、二軍監督は高橋一三(前二軍投手コーチ)が就任、堀内は「人間的に信頼でき、技術があり、動けるコーチを選んだ。ようやく堀内丸がスタートできる」と語った。この時、レジー・スミスにコーチ要請する予定もあったが、妻が体調を崩していたので断念している。

大阪近鉄バファローズからタフィ・ローズ、福岡ダイエーホークスから小久保裕紀とパ・リーグ本塁打王経験者が2選手同時に加入。怪我のため前年出場ゼロの小久保は41本塁打、96打点と復活。ローズも45本塁打、99打点と猛打を発揮し、本塁打王とベストナインを獲得。一番から仁志敏久、清水隆行、ローズ、高橋由伸、小久保、ペタジーニ、阿部慎之助、二岡智宏と続く「史上最強打線」はプロ野球記録のチーム259本塁打を記録した。

しかし、投手陣の不調を補って前半戦こそ開幕3連敗を記録しても優勝を争ったが、6月の落合博満率いる中日戦で同一カード3連敗を喫し、首位を奪われ失速。優勝した中日に8ゲーム差を離されて3位に終わる。

開幕に向けて「今年はうちと中日の一騎討ちになるだろう」と語った。前年度の反省から「守りの野球」をフロントに要請し、中堅手としてゲーブ・キャプラー、抑え投手としてメジャーリーグで活躍し、キャプラーからもお墨付きをもらっていたダン・ミセリを補強した。また、ペタジーニと清原和博を構想外とし、清水を一塁手にコンバートするという構想だったが、これに対し契約を1年残した清原が球団に直訴、堀内自身も球団フロントの意を汲み、一転して4番一塁清原で開幕を迎えることとなる。

しかし2年連続して開幕3連敗を記録。補強の目玉だったはずのミセリとキャプラーが大誤算で、ミセリは4試合の登板で0勝2敗0セーブ、防御率23.63と抑えの役割を果たせないまま、開幕から1か月足らずで解雇。またキャプラーは38試合の出場に終わり、4月24日の中日戦(ナゴヤドーム)では井端弘和の単打で一塁走者・荒木雅博の生還を許すなど、持ち前の守備力を発揮できず、打撃でも開幕から17打席ノーヒットを含めた打率.153・3本塁打・6打点と不振だった。その後、中堅手のローズに対し、コーチの弘田澄男が『緩慢』と叱責したことでローズの怒りが爆発し首脳陣批判。また、清原は夏場に打撃不振に加え持病の悪化から二軍落ちし、そのため肩を故障した捕手の阿部を一塁手に起用するなど、当初の構想から大幅に外れる戦いを強いられた。

シーズン終盤は高橋由・ローズ・清原などが離脱した反面、矢野謙次、亀井善行など生え抜きの若手選手が活躍を見せる光明もあった。しかし、チーム防御率は2年連続で球団のワースト記録を更新した。チームはBクラスに低迷し、一部週刊誌は堀内の采配を批判する記事が後を絶たなかった。監督としては翌年までの3年契約であったが8月後半には辞任する意向を固めていたという。終盤はやや盛り返して5位となり、30年ぶりの最下位こそ免れたものの、8年ぶりのBクラス、球団シーズンワースト記録となる80敗(この記録と球団ワースト防御率・ワースト失点の記録は以後も更新されていない)を喫した。本拠地最終戦の試合後にライトスタンドを中心に「お前が悪いぞホーリウチ!」というコールが起こり、予定されていた試合後のセレモニーが中止される前代未聞の事態となった。この年をもって「敗軍の将、兵を語らず」の言葉を残し退任した(堀内自身は解任されたと述べている)。在任中1度もリーグ優勝がなかった巨人監督、通算成績が負け越し(通算勝率5割未満)の巨人監督は堀内が史上初となった。後任監督は前任者である原が再登板した。

巨人監督退任後、2005年11月25日の巨人納会に出席。退団会見から約1か月半ぶりに公の場へ姿を現し、選手に対しては「今年の負けた悔しさと痛みをバネに、原監督の下で優勝をして頂きたい」と激励の言葉を発した。選手との確執なども頻繁にタブロイド等で報じられていたものの、退任会見に際して仁志ら主力野手陣が胴上げできなかったことの無念さを口にしている。堀内やフロントに重用され、投手陣・野手陣のリーダー的選手となった小久保(翌年度FA権を行使してソフトバンクに復帰)と工藤(門倉健のFA人的補償として横浜に移籍)が「巨人でやり残したことは?」と質問を受けた時も同様のことを語っており、小久保は「堀内さん1人のせいにすることも出来ますけど、実際にプレーするのは僕らなんです」と擁護している。

工藤は2004年、通算200勝達成を目前にして負けが続き(本人曰く「何試合か足踏みして意識してしまった」)、チームも下降線を辿っていたが、堀内は変えることなく工藤を先発で起用し続け、200勝を達成した。工藤は引退後「チームがあんな状況で若い子を試してもよかったのに僕を使っていただいて本当に救われました。今でも感謝してもしきれません」と語っている。

2005年に二軍で投げていた内海哲也の才能を見抜き、先発ローテーションの一角として登板させている。結果は4勝9敗、防御率5点台だったものの、堀内が去った翌年は2桁勝利を挙げる活躍を見せ、以後はチームのエースピッチャーへと成長した。内海自身も「今の自分があるのは勝てなくても堀内さんが使ってくれたおかげです」と述べている。

清原に関しては巨人からの戦力外発表後は「清原選手にさらなる活躍の道を開いて欲しいということで、今回の発表に至ったと思います。故障を直して体を万全にし、来年、雄姿を見せてくれることを願っています。巨人での9年間、本当にご苦労さまでした」とこれまでのプレーを労う発言をしたが、清原は現役引退後も堀内への辛辣な批判や揶揄を公言しており、堀内と清原との確執は深いものがあったとされる。

当時、巨人に在籍していた高橋尚成はこの頃のチーム事情について「全員が違うとこを向いてるようなチームだった」「(チーム内で)話し合いも結構したが、(各々選手の)キャラが濃すぎてまとまらなかった」などと明かしている一方、堀内に対しては「(この頃はチームの変換期であり)凄くババを引いた監督だった」「(当時の巨人は)チームから球団全体まで全ての風通しが悪かった」「誰が悪いとかじゃなく、(あの当時は)誰が監督をやっても多分うまくいかなかった」などと擁護するコメントを残している。

2006年から2016年まで、日本テレビ野球解説者、スポーツ報知野球評論家に復帰。研究と趣味を兼ね、スケジュールの合間をぬってメジャーリーグ観戦に熱心に足を運んでいる。2006年3月5日に、東京ドームで行われたWBC1次リーグの日本vs.韓国戦を皇太子・同妃が観戦した際、巨人球団会長の渡邉恒雄、コミッショナーの根來泰周とともに同席して解説を務めた。

2008年1月11日、野球殿堂競技者表彰選考で、野球殿堂入りする。殿堂入り表彰式は、2008年8月1日のオールスターゲーム第2戦(横浜スタジアム)の際に執り行われた。2009年9月からは読売新聞のTVCMに解説者役として出演している。

2010年4月22日に、7月の第22回参議院議員通常選挙に、自由民主党からの出馬を表明した。7月11日の当開票の結果、比例代表で101,840票を獲得し党内で13位につけたが自民党として12名しか当選しなかったため次点で落選した。

外国人参政権や選択的夫婦別姓制度に反対していた。

2013年7月31日に中村博彦が死去したため、繰り上げ当選の資格が生じた。これを受けて堀内は「前向きに検討している」とコメントし、8月6日に中央選挙管理会告示により繰り上げ当選が決定し、政治家となった。

2016年7月10日の第24回参議院議員通常選挙で参議院比例区から自由民主党公認で立候補し、84,597票(得票率1.7%)を獲得したが落選した(党内22位/19議席)。

2022年10月には脳に血栓ができた影響で右目の視力を失った。しかしその後も全国で野球教室の講師を務めるなど次世代の育成に携わっている。

選手としての特徴

球質は軽いが切れがよく、遠くから弓なりに伸びる直球、一度浮き上がってから突然急ブレーキがかかったように曲がり落ちる大きなカーブ、ロサンゼルス・ドジャースのベロビーチキャンプに参加した際、ビル・シンガーから教えを受けたチェンジアップを武器とした。コントロールは危なかったが逆球にはならずピンチに強かった。体重が理想的に配分された身体で、均整のとれた体格であった。

新人の開幕連勝記録を更新中の時に、週刊朝日編集部がホームプレート上に光電式の速度計測装置を使用して測定した結果155km/hを記録した。

初登板以降、自分が投げた結果をスコアラーの資料の元、打者ごとに細かく分析しノートにつけていた。先発前夜になると眠れなくなるほど真剣にピッチングの組み立てを行った。また試合前やキャンプのミーティングでも居眠りしているようできちんと全部ノートに書いていた。

入団当時は、投げ終わった後に帽子が横っちょにぶれるぐらいのダイナミックな投球フォームが特徴的であった。しかし、実は少し大きめの帽子を被り、ダイナミックさを演出していた。飛び跳ねるような躍動的なフォームで、投球時の左足のステップ位置は投手板から足の縦幅7足分あった。しかし、晩年は筋力の衰えによりステップ幅が6足分に小さくなってしまったため、1978年頃の春のキャンプで再びステップ幅を広げようとしたが、もう元には戻らなかったという。

肩が強く多摩川グランドの左中間フェンスにぴったり身体を貼り付けたまま、ワン・ステップしただけで一塁ベンチの上を越すボールを投げることができた。

打撃も上手く、投手では通算で21本塁打を記録。特に1967年10月10日の対広島戦(後楽園球場)ではノーヒットノーランを達成し、さらに自ら3打席連続本塁打を放っている。投手による3打席連続本塁打は史上唯一。これに関して本人は現役引退後、「4打席目にホームランを打てず(中前安打)ガッカリしてベンチに戻った際に、自分でも打撃に熱中していたことから、他の選手に言われるまでノーヒットノーランに気付いていなかった。『4打席連続本塁打の代わりにノーヒットノーランでいいや』『あーあ、しょうがねえ、じゃあノーヒットノーランでもやるか』と思った」と語っている。1973年の日本シリーズ第3戦では2本塁打を放っているが、日本シリーズで投手の1試合複数本塁打も史上唯一。この2本塁打などの活躍で1972年、1973年と2年連続で日本シリーズMVPを受賞。1983年の引退登板でも当時大洋の金沢次男投手から本塁打を放っている。

守備でも素晴らしい反射神経・運動能力を見せ、ゴールデングラブ賞を創設年の1972年から7年連続で受賞。堀内のフィールディングを阪神藤田平は「野手みたいに上手かった」と後年振り返っている。非常にクイックがうまく、日本シリーズで対戦した福本豊をして「あんなクイックは初めて見た。小さいクイックで色々なコースに速い球を投げてきて、癖を見抜けなかった。パ・リーグにあんなことができるピッチャーはいない」と称された。

2024/05/17 11:48更新

horiuchi tsuneo


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堀内恒夫
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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「堀内恒夫」を素材として二次利用しています。

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