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大島康徳の情報 (おおしまやすのり)
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【5月27日】今日誕生日の芸能人・有名人

大島康徳の情報 (おおしまやすのり) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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大島 康徳さんについて調べます

■名前・氏名
大島 康徳
(おおしま やすのり)
■職業
野球選手
■大島康徳の誕生日・生年月日
1950年10月16日 (年齢70歳没)
寅年(とら年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
大分出身

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大島康徳と関係のある人

川又米利: 町田公二郎に次ぐ代打本塁打16本(大島康徳に並ぶ)の記録を持つ。


上田武司: 7月11日の中日戦(後楽園)では前半から巨人先発の堀内恒夫、中日先発の川内八洲男が好投し0-0で迎えた6回裏に高田繁の適時二塁打で1点が入ってから試合は動き、7回表には大島康徳の適時打で同点、さらに木俣達彦の適時打で逆転、上田の悪送球でもう1点失って1-3とリードを許すが、その裏に上田がミスを取り返す左中間へのソロ本塁打で1点差に迫り、土壇場の9回裏1死3塁で打席に立った上田が川内をリリーフした伊藤久敏から左翼へサヨナラ2点本塁打を放つ。


石井昭男: 1985年には、前年いずれも30本塁打を放った3番打者の谷沢健一、4番大島康徳、5番ケン・モッカが相次いで故障で倒れる中、35試合に先発出場。


大田卓司: 同学年の大島康徳(中津工業)、詫摩和文(鹿児島照国高校)と共に「九州三羽がらす」とも称された。


田中賢介: 1999年、プロ野球ドラフト会議で、2位指名で日本ハム・中日・西武の3球団で競合の末、ドラフト直前に就任した大島康徳監督が引き当て日本ハムに入団。


定岡智秋: 特に中日ドラゴンズが熱心であり、智秋も選手名鑑を見て「中日のサードには大島康徳さんがいるな」などと調べていたが、同年のドラフトでは南海ホークスに3位で指名されて入団。


郭源治: 左翼手大島康徳の拙守もあり、打者篠塚が生還するという珍プレーに繋がった(記録は犠打と3失策)。


笠間雄二: さらに6月25日の中日戦(甲子園)では、先発したエース小林繁が土壇場の9回表にそれまでカモにしていた大島康徳に同点2ランを打たれたが、笠間は直後の9回裏に桑田茂からサヨナラ本塁打を放って小林の完投勝利をアシスト。


谷木恭平: ただし、バントが不得意だったわけではなく、上記の6月19日の対巨人戦では、同点の9回一死無走者の場面で倉田誠から絶妙のセーフティーバントを決め、続く大島康徳のサヨナラ本塁打に繋げるなど、小技を効果的に使ったプレーも多かった。


木俣達彦: 谷沢健一、島谷金二、大島康徳、井上弘昭などの若手打者が育ったことから、この頃から7番打者が定位置となる。


土橋正幸: (大島康徳


水谷則博: 1968年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団(同期の1位が星野仙一、3位が大島康徳である)。


正田樹: 2000年は監督の大島康徳に一軍で起用され、同年のフレッシュオールスターゲームでは、1歳上の同僚實松一成と共にイースタン・リーグ選抜の先発バッテリーを務め、ウエスタン・リーグ選抜の先発投手で同じ1位指名の高卒新人左腕河内貴哉と投げ合った。


春日一平: 中津工業高校では、捕手として同期のエース大島康徳とバッテリーを組んで活躍した。


大宮龍男: 1988年に大島康徳・曽田康二との交換トレードで田中富生と共に中日ドラゴンズへ移籍すると、中村武志の2番手捕手として起用される。


小林繁: 6月25日の中日ドラゴンズ戦で、それまで「カモ」にしていた中日の大島康徳に「自信を持って投げた」インコースのシュートをホームランされる。


門田博光: 1990年、9月9日の対西武戦(西宮球場)では2点を追う9回一死満塁の打席で鹿取義隆から逆転サヨナラ満塁本塁打(42歳6か月は当時の最年長満塁本塁打だったが、1994年5月4日に43歳6か月で記録した大島康徳に更新された)、翌10日の対西武戦(西宮球場)でも4-4の同点で迎えた9回一死無走者の打席で渡辺智男から2日連続及びシーズン30号本塁打となるサヨナラ本塁打を放った。


福家雅明: 初奪三振:同上、7回裏に大島康徳から


中利夫: 1972年には大島康徳が開幕から中堅手に定着し出場機会が減少、同年限りで引退した。


星野仙一: オフに日本ハムとの2対2トレードで大島康徳、曽田康二を放出し、大宮龍男、田中富生、西武とのトレードで平野謙を放出し、小野和幸、巨人を自由契約となった仁村薫を獲得した。


江尻慎太郎: 2001年12月21日の日本ハムドラフト入団会見で、記者からの「大島康徳監督(当時)にはどのような印象を持っていますか?」という質問に、「小学生のころは、ファミコンで、チャンスに強いバッターとして使わせて頂いておりました」と発言し、大島を苦笑いさせた。


島田芳明: 初出場:1983年4月13日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(横浜スタジアム)、7回表に大島康徳の代走として出場


渡辺孝博: 初奪三振:同上、9回表に大島康徳から


山田憲: 日本ハム入団時、当時の監督の大島康徳のイメージを聞かれ「珍プレーを見て、面白い人だなと思ってました」と発言していた。


角中勝也: 大島康徳からは「コンパクトな構えからの巧みなバットコントロールが際立つ巧打者」と評されている。


古屋英夫: 1988年には中日から大島康徳が移籍して五番打者となり、古屋は六番を務めた。


谷沢健一: ただし、星野が2018年に逝去した際には評論家を務めていた中日スポーツに高木守道、木俣達彦、大島康徳とともに生前を偲ぶコメントを寄せていた。


杉山知隆: 初奪三振:同上、9回裏に大島康徳から


篠塚和典: 1982年、9月15日に後楽園球場で開催された中日ドラゴンズとの23回戦で無死一・二塁の場面で送りバントをした際、相手投手の郭源治が三塁へ悪送球し、外野へ転がったがそのボールを左翼手の大島康徳がトンネルし、さらに大島が追いかけて捕ったボールが三塁手に中継され本塁へ投げたが、捕手の中尾孝義が取り損ない、その間に打者走者の篠塚もホームインした(記録上は失策であったがランニング本塁打のような出来事だった)。


金村曉: 故障がちだったため監督の大島康徳が完投させず起用した結果、故障なく初めて1年ローテーションを守りきり、規定投球回にも到達という最低限の役割を果たしたものの7勝13敗、防御率4.89と不振だった。


大島康徳

もしもしロボ

大島 康徳(おおしま やすのり)さんの誕生日は1950年10月16日です。大分出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

プレースタイル、人物などについてまとめました。引退、家族、事故、テレビ、現在、結婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。70歳で亡くなられているようです。

大島 康徳(おおしま やすのり、1950年〈昭和25年〉10月16日 - 2021年〈令和3年〉6月30日)は、日本のプロ野球選手(内野手、外野手)、プロ野球監督、野球解説者。

現役時代は中日ドラゴンズ(1969年 - 1987年在籍)で強打者として活躍し、1974年・1982年にはチームのセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献。また、1983年には本塁打王のタイトルを獲得、現役生活の終盤となる1988年に日本ハムファイターズへトレードで移籍すると、1990年には通算2000安打を達成。プロ入り26年目の1994年に44歳で現役を引退し、2000年 - 2002年には日本ハムの監督を務めている。

次男はお笑い芸人の大島雅斗。

福岡県生まれの大分県中津市育ち。父は国鉄職員、母、兄、姉の5人家族、高校入学まで野球経験はない。今津中学時代はテニスやバレーボールをやっており、バレーボールでは大分県選抜チームのレギュラーだった。また、相撲が強かったため相撲部に助っ人で参加することもあった。相撲の大会を観戦に来ていた中津工業高校の小林監督が惚れ込み、本人は当初、乗り気でなかったもののスパイクとグローブをプレゼントされたのをきっかけに同校に入学。野球部ではエース、4番打者として活躍し、同期の春日一平とバッテリーを組んだ。1967年秋季九州大会大分県大会準決勝に進むが、同年春のセンバツ優勝校で、優勝メンバーにも名を連ねていた大田卓司を擁する津久見高に敗退。翌1968年春季九州大会大分県大会も準決勝で高田高に敗れる。同年夏も大分大会で敗退し甲子園には届かなかった。この大分大会の2回戦・大分商業戦で左中間130 mの本塁打を打った。この試合を中日ドラゴンズのスカウトが視察に来ていたため、中日入団後に打者転向のきっかけとなった。また大田、詫摩和文(鹿児島照国高校)と共に「九州三羽ガラス」とも称された。

その後中日ドラゴンズ(少年時代は阪神タイガースが贔屓のチームだったという)の入団テストで、同球団の二軍監督を務めていた本多逸郎の目に留まり合格、1968年秋のプロ野球ドラフト会議で3位指名され入団した。投手として入団したが、入団間もない投球練習でコーチから一球で「投手失格」を言い渡されが、その一方で当時の一軍監督だった水原茂が素質を見抜いて打者転向させた。大島を発掘した本多は彼を将来の主軸と見込み、1年目から四番打者として起用する。

1971年6月に一軍初出場。直後に一塁手のジョン・ミラーが故障し、同年は一塁手、中堅手として64試合に先発出場を果たす。またジュニアオールスターゲームではウエスタン・リーグの主砲としてMVPを獲得した。

1972年は開幕から中堅手、右翼手として起用され、規定打席(29位、打率.230)にも到達。しかしまだ荒削りで完全なレギュラー定着には至らなかった。

1974年には三塁手、中堅手、一塁手を兼ねチームのセントラル・リーグ優勝に貢献。同年の最終戦は長嶋茂雄の引退試合で、中日の選手代表として花束を渡している。ロッテ・オリオンズとの日本シリーズでは5試合に先発出場。最終第6戦は先発を外れるが、6回に村田兆治から同点本塁打を打ち意地を見せた。

1976年、代打起用で勝負強さを発揮しシーズン代打本塁打7本の日本記録を樹立。

1977年には三塁手の定位置を獲得し、打率.333(4位)、27本塁打の好成績を残す。

1979年には全130試合で4番打者に座り、30本の大台を越える36本塁打、打率.317(リーグ3位)を記録。また、リーグ最多となる159安打を放ち、打点もキャリアで最多(唯一の100打点超)となる103を数えた。

1980年4月には交通事故で重傷を負い欠場を余儀なくされるが、わずか1か月で復帰した。

1982年は左翼手がメインとなり、5番打者として優勝に貢献し、西武ライオンズとの日本シリーズは5試合連続左翼手として先発。第5戦では杉本正から5回に先制本塁打、最終第6戦では東尾修に三振を喫し最後の打者になっている。

1983年に再び36本塁打を放ち、山本浩二と並んで本塁打王に輝く。

輝かしい打撃成績を残したにもかかわらず代打起用が多かったのは、バッティングの調子の波が激しすぎた他、守備に難があったためである。殊勲打を打っても失策でふいにしてしまうことが多々あった。

1985年に西武ライオンズからトレード要請があったが、マスコミに漏れてしまい破談となる。しかし1987年オフ、監督の星野仙一のチーム改革により、田中富生・大宮龍男との交換トレードで日本ハムファイターズへ曽田康二とともに移籍。星野の意向で球団から功労金をもらっている。すでに37歳であったが、日本ハムでは一塁手としての起用が多く、チームの得点力不足もあって主軸として活躍し、1988年はチーム最多の打点63、1989年7月8日の近鉄バファローズ戦では阿波野秀幸からサヨナラ適時打、8月13日の近鉄戦で佐々木修から本塁打を打ち、350本塁打を達成。1990年8月21日の対オリックス・ブレーブス戦で佐藤義則から適時二塁打を打ち2000安打を達成。39歳10か月での達成は当時最年長記録で、到達までに要した試合数2290も当時最長記録だった。なお、1・2年目ともに出場試合数ゼロでの達成は史上初である。

1994年、43歳にして代打起用がメインだったとはいえ、最終的には打率.323・21安打・22打点の成績を残しており、自身も「43歳とあってスイングスピードは当然落ちていましたが、それをカバーして余りある技術を手にしていました。与えられた打席でしっかり結果を出したと自負しているシーズンでもあります。」と述べ、「あと2年は出来るな」と思っていた。しかし球団から「来年は契約しません。御苦労様でした。」と戦力外通告をされてしまう。その時は「分かった」とだけ言って引き下がるも、後にこの時を回想し「実際、体はボロボロでした。プロ入った時から必要ないと言われたらパッとやめようと思っていましたし、逆に必要とされるなら給料が下がろうが続けようと思ってましたが、球団の事情は想像がつきました。この年、最下位になった事で大沢啓二監督が退任し、翌年から阪急で黄金時代を築いた上田利治さんが監督になる事も決まっていました。こうなると僕にも分かるんですが新監督は自分の色でやりたいんですよね。これはもう仕方ありません。勝てなかったら責任取るのは監督で、だったら俺みたいな面倒くさそうなヤツは辞めてもらい、自分の色でチームをつくり変えたいと思って当然です。」と述べている。

球団からは「引退試合は監督を退任する大沢、柴田保光と一緒にやって欲しい」と言われたものの、大島は球団と交渉し単独で行うことにした。9月28日のロッテ戦(東京ドーム)を引退試合に選び、6番・指名打者として先発出場。伊良部秀輝から2安打を放ち、試合終了後には胴上げされた。当時は44歳の誕生日を目前に控えており、高卒入団では野村克也に次ぐ長寿選手と言われていた。現役生活26年は山本昌(32年)、工藤公康・中嶋聡(29年)、野村・谷繁元信(27年)に次ぐ記録。通算代打本塁打20本は歴代2位。満塁本塁打は8本打っており、最年長満塁本塁打(43歳6か月)の記録を持っている(門田博光の42歳6か月を更新、1994年5月4日西武戦、8回表2点リードされている場面で代打で登場し新谷博から)。当時年齢の事に対して記者に質問された事が多かったため「年寄り扱いするな」と記者に対して怒ったことがある。後に「プロ入り9年目で初めて100安打以上を打った遅咲きの男が、2000安打どころか、最後は2204安打までいってます。なかなかどうして、大したものですよね。」と現役時代を振り返って自らを評価した。引退勧告の時球団からコーチの要請があったが、断っている。

ベストナインは1度も受賞していない。通算2000安打以上を記録しながらベストナイン選出がないのは、大島と松原誠の2人だけ。1979年には一塁手として打撃3部門全てにおいて王貞治を上回る成績を挙げたにもかかわらず王に持っていかれ、1983年には外野手として本塁打王を獲得したのに受賞できなかった(受賞者は本塁打王を分け合った山本浩二、盗塁王の松本匡史、最多安打の田尾安志)。

1994年10月11日には川崎球場にて『愛ラブSMAP!』(テレビ東京)のコーナー「僕たちのベースボール・ストーリー」に出演。SMAPに素振りの手本からトス打撃、フリー打撃までじっくり教えるなど熱心であったため、SMAPは驚いたという。

NHK解説者・東京中日スポーツ評論家(1995年 - 1999年)を経て、2000年から2002年まで日本ハムの監督を務めた。投手コーチに森繁和、バッテリーコーチに日本ハム時代の同僚で大島がキャッチャーとして超一流と評価していた田村藤夫を招聘し、中日時代同僚だった牛島和彦、平野謙も呼びたかったが球団の出した条件と合わず、球団から「この人をお願いします」と言われたコーチもいた。嶋田信敏も大島の声掛けでコーチに就いた。2002年には球団の主導人事で大島と日本ハム時代同僚だった高代延博がヘッド兼内野守備走塁コーチに就任している。1年目は3位と2年ぶりのAクラス入りに導くが、2年目の2001年は補強ほとんど無し・怪我人続出・先発ローテーションが崩壊し最下位、3年目は5位と成績は振るわず、解任された。怪我人続出ということもあり、当時若手の森本稀哲と田中賢介を起用した。

監督1年目の2000年に投手交代のためにマウンドへ行ったものの、選手と話過ぎて審判に交代を告げるのを忘れてしまい、仕方なくバテバテの高橋憲幸を続投させたことがある。高橋は火事場の馬鹿力を発揮して2者連続三振で危機を乗り切った。 監督としては熱血漢で知られ、瞬間湯沸かし器とまで言われたが、監督時代には巨人監督の長嶋茂雄を意識した所作および指導方法が見られた。

2006年には第1回WBC日本代表打撃コーチを務め、準決勝ではイチローを3番打者にするなどの打順変更を王貞治監督に進言し、初代世界一に貢献。

プロ野球マスターズリーグには名古屋80D'sersの選手として在籍。背番号は中日時代の5。日本プロ野球名球会が主催する野球教室で着るユニフォームの背番号は、2000安打を達成して名球会入りした日本ハム時代の11である。2010年にファイターズの始球式をした際は2010年仕様の背番号11のユニフォームで登場した。

2003年からは再びNHK解説者・東京中日スポーツ評論家として活動。

2017年2月7日、自身の公式ブログで「2016年10月にステージ4の大腸がんになり手術を受けていたこと、肝臓に転移していること」を発表した。なお、治療はするものの重く受け止めず、今まで通りの生活をしたいと述べている。「父、母でがんで亡くなり、兄は白血病で28歳に亡くなっている大島家はがんの家系なんでしょうね。」と述べ、がん発症後も喫煙は続け、酒は飲めないことはないが禁酒していた。なお、妻が大島の死後にブログで明かしたところによれば、既に2016年の手術前の精密検査の段階で妻と長男には医師からの見立てでは大島の余命は概ね2~3か月であることを宣告されていた。しかし、肝臓に転移はしていたものの、手術で大腸癌の癌細胞を全て切除することに成功し、尚且つ早期に治療に取り掛かったことにより予後が非常に安定しており、これには大島の主治医も大いに驚いた。一時期は寛解と呼べるレベルにまで体調が回復したことにより、医者の見立てよりも遥かに長く、余命宣告から4年半以上生きることとなる。因みに、癌であることを公表した日は、当初の余命宣告上で、最も長く生きてもこの頃が余命と言われていた頃であった。

2018年5月7日、自らの闘病生活などを書き記した著書『がんでも人生フルスイング 「中高年ガン」と共に生きる”患者と家族”の教科書』(双葉社)を上梓した。この頃は大島の体調は非常に良好であり、寛解したと言える状態にまで回復していた。

2021年6月30日、大腸がんのため、東京都内の病院で死去。70歳没。6月上旬に腹水を抜く措置を受けるために入院し、退院後の6月12日にNHK BS1のMLB中継・ロサンゼルス・エンゼルス対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦を解説したがこれが生前最後の仕事となった。その後、体調の悪化が見られたためホスピスに入院して緩和医療を受けており、ブログのエントリーは6月29日を最後に更新が途絶えていた。葬儀は親族による密葬で7月4日に執り行われた。大島の死去が公表された7月5日には、自身が春頃に記した言葉が妻によってブログに掲載された。なお、名球会の名誉会員で野球殿堂入りを果たしていないのは、2023年現在、大島のみである。

プレースタイル

長打力と勝負強さを兼ね備えた強打者。体全体を使い、力強くボールを叩く豪快なフルスイングが特徴であった。1976年に代打でシーズン7本塁打のプロ野球記録を樹立すると、翌77年からは三塁手のレギュラーを担い、キャリア初となる打率.333、27本塁打を記録。82年からは外野手に転向。翌83年には36本塁打で本塁打王に輝いた。日本ハム時代の90年には通算2000安打を達成している。

打撃のコツとして「配球を読んでヤマを張ること」、「積極的にファーストストライクを狙うこと」以上2つの思い切りの良さを挙げており、大島は「目の付け所をどこにするか。野球を難しく考えなくて良い」と語っている。また、「バットコントロールにこだわり過ぎては駄目。まずはフルスイングして(ボールを)遠くに飛ばすこと。そこから工夫すれば良い」と語っている。

人物

中日時代は長打力が魅力の打撃と明るい人柄、そして同球団の応援歌「燃えよドラゴンズ!」の歌詞のフレーズで、ファンから「一発長打の大島くん」と愛された。

日本ハム選手時代に付けていた背番号「11」は自身と夫人の結婚記念日から取ったものである。

中日時代のコーチで名球会でも一緒になった稲尾和久とは同郷で、「ヤス」と呼ばれては可愛がられていたという。

恋愛にあまりに興味がなかったことや、妙な部分で神経質なところがあり、私生活では当時としては珍しく、30歳代半ばまで独身を通していた(大島の実家が大島がプロ入り前に早くに父・兄を亡くし大島がプロ入り後は長らく母の扶養をしていた)が、郭源治の紹介で10歳年下の客室乗務員をしていた女性と結婚。恋愛結婚というよりも、顔を合わせてすぐに結婚したという感じであった。息子が2人おり、そのうちの1人がNSC大阪37期卒・お笑いコンビ・セパ(2019年5月から)の大島雅斗(元・ケンモッカ、ばくぼん)。

1984年5月5日の対大洋戦(横浜)で、3回表に一塁走者となった時(一死満塁)、打者の宇野勝がライトにフライを打ち上げたが、ライトの高木由一がこれを落球。大島はハーフウェーで打球の行方を追っていたが、打者走者の宇野が大島を追い越してアウトになった。これは「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」などで頻繁に取り上げられた。なお、みのもんたのナレーションで「走ってなかったんですか?」とされているが、フライの行方を見守って走らなかった大島の判断が普通であり、前の走者を確認しなかった宇野のミスとされている。一方の大島自身も、同月19日の対ヤクルト戦(ナゴヤ)5回裏無死一・二塁の場面でレフトにフライを打ち上げたが、レフトの釘谷肇が落球したところ一塁走者の谷沢健一を追い越したという宇野と同じミスを犯している。

1985年5月4日の対阪神戦(甲子園)で、中日3点リードの4回裏無死に佐野仙好のあわや逆転満塁本塁打という大飛球をラッキーゾーンの金網に激突しながら後ろ向きの姿勢でキャッチするという“超美技”を披露。失点を1に喰い止めた。

日本ハムの監督に就任が決定した際に激励会が開かれ、憧れの長嶋茂雄も出席した。長嶋はスピーチで大島とのエピソードとして、自身の引退試合で対戦相手だった中日の選手代表で大島が真っ赤なバラの花束を贈ってくれたことを話し、大島はそれを覚えていてくれたことに大感激した。しかし、実際に大島が贈呈したのは白ユリであった。

日本ハム監督時代の2001年オフ、当時チームの中心選手であった片岡篤史がFA権を行使。片岡は日に日に阪神タイガースに移籍したいという気持ちが芽生えていた反面、監督の大島やチームメイトを「裏切ってしまうことにならないか」という気持ちもあり、大島に相談した。大島は片岡に対し、「寂しいけれど、他のチームから来て欲しいと言って貰える選手になれたんだから、素晴らしいことじゃないか。(阪神で)頑張ってこい」と伝えて後押しし、片岡は移籍を決断した。大島はこの時を振り返り、「交換トレードじゃないし、戦力的には3番打者・三塁手がそのまま抜けるわけだから痛かった。球団には、お金が入ってくるんでしょうが、別に僕らの給料が上がるわけでもないしね。でも、僕はあいつを引き留めなかった。自分で選んだことだし、それを僕がとやかく言う必要はないと思ったから」と語っている。

2006年の第1回WBCで優勝した際に「昔からオリンピックに出場するのが夢だったんだ」と金メダルを首に掛けられた瞬間から人目を憚らず号泣していた。

2015年2月26日放送のフジテレビの番組「アウト×デラックス」に、息子でNSC大阪37期生(当時)の大島雅斗が出演した際、息子から電話で「NMB48のCDを借金して買っている」と告白されて「もし本当だったら殺すよ?」と激怒した。しかし3月5日放送分では大島自身も番組に出演して息子と話し合い、「(NMB48は)難波にAKB48の仲間みたいのがいて」と説明されると、「AKB48はお父さんも知ってるよ。あっちゃん可愛いよ」と前田敦子ファンであることを告白。自身が大島姓なのに(大島優子ではなく)前田推しであることでアウトを宣告された。さらに今現役選手だったらテーマソングは何にするかと聞かれ、「ヘビーローテーション」と答えようとして「バイブレーション」と答えている。

2018年、牛島和彦との対談では、野手は誤魔化しがきくという持論から、「肉離れや骨折も関係なかった」と笑っていた一方、自身が引退後に病魔と闘った経験から「いまの俺は病気をしたから分かるけど」と牛島が現役末期に怪我に苦しんでいたことを理解していた。大島は同対談で現役時代を振り返り、牛島とは対照的に自分は人当たりが悪く社交性が低かったと話していた。

本人の公式ブログでは野球のことから家族のこと、ドラマの感想やファンであるSMAPの話題まで内容が幅広い。ブログでの一人称は「大島」。

1994年5月に約5,000万円をかけて一戸建てを新築したものの、欠陥住宅で20年以上苦しんでいたことを公表した。施工主を相手に損害賠償など約6,800万円の支払いを請求する訴訟を起こしたが、判決は補修費用など約300万円の支払い命令にとどまった。

大島は晩年「人生はフルスイングできたかどうか。仕事でも何でも、思い切りやりきることができたなら、それでいいと思う。俺は振った。振り切った人生だったよ」と語っている。

現役時代・監督時代あわせて通算5回(中日1回、日本ハム1回、日本ハム監督3回)の退場処分の経験がある。

1974年5月14日のヤクルト戦では益川満育と乱闘により益川と共に退場。1991年8月6日のダイエー戦では9回表二死にハーフスイングを三振と判定されたことに激高し、塁審の良川昌美を小突き退場となった。山崎夏生から2度退場処分を受けている。そのうちの一つは2000年6月20日の東京ドームで行われたロッテ戦で7回にロッテ・大塚明が左翼ポール際に大飛球を放った、三塁塁審の山崎は「ポールに当たってファール側のスタンドに落ちた」と本塁打の判定。大島はベンチを飛び出し「ファールだろう!」と猛抗議、抗議時間は21分に及び、山崎は「ここがリミットだ」と遅延行為で退場を宣告。2002年3月31日のダイエー戦では良川一塁塁審に暴力行為を行ったとして退場処分となり2試合出場停止(4月3日、4日のオリックス戦)となった。監督代行は一軍ヘッド兼内野守備走塁コーチの高代延博が務めた。

2024/05/24 01:53更新

ooshima yasunori


大島康徳と同じ誕生日10月16日生まれ、同じ大分出身の人

後藤 郁(ごとう かおる)
【アイドリング】
1995年10月16日生まれの有名人 大分出身

後藤 郁(ごとう かおる、1995年〈平成7年〉10月16日 - )は、日本の女優、タレントであり、女性アイドルグループ・アイドリング!!!の元メンバー。大分県別府市出身。イザワオフィス所属。 小…


大島康徳と近い名前の人

大島 優子(おおしま ゆうこ)
1988年10月17日生まれの有名人 栃木出身

大島 優子(おおしま ゆうこ、1988年〈昭和63年〉10月17日 - )は、日本の女優で、女性アイドルグループ・AKB48の元メンバーである。栃木県下都賀郡壬生町出身、太田プロダクション所属。夫は俳…

大島 麻衣(おおしま まい)
1987年9月11日生まれの有名人 千葉出身

大島 麻衣(おおしま まい、1987年〈昭和62年〉9月11日 - )は、日本のタレント・歌手・YouTuber。東京都足立区出身で、千葉県野田市育ち。野田市立南部小学校、野田市立南部中学校、千葉県立…

大島 弘子(おおしま ひろこ)
1973年8月5日生まれの有名人 東京出身

大島 弘子(おおしま ひろこ、1973年8月5日 - )は日本の元タレント、元女優である。東京都出身。かつての所属先はビッグ・アップル→キティ・フィルム。 高校在学中にバラエティ番組『少女雑貨専門…

大島 なぎさ(おおしま なぎさ)
1991年9月20日生まれの有名人 茨城出身

大島 なぎさ(おおしま なぎさ、1991年9月20日 - )は、日本の元モデル、元女優である。茨城県出身。ビーチウォーカーズ・マネージメント株式会社所属だった。血液型はO型。 『non-noモデルオー…

大島 さと子(おおしま さとこ)
1959年9月17日生まれの有名人 神奈川出身

大島 さと子(おおしま さとこ、1959年9月17日 - )は、日本の女優、タレント、司会者。旧芸名は大島 智子(読み方同じ)。 神奈川県川崎市高津区出身。所属事務所はキャストパワー。身長161cm…

大島 江里奈 (おおしま えりな )
1993年9月29日生まれの有名人 千葉出身

大島 江里奈(おおしま えりな 1993年9月29日 - )は、日本の女性ファッションモデル、タレント、及びアイドルである。 父が日本人、母がアメリカ人。姉妹が3人いる。 スターダストプロモーショ…

大島 みづき(おおしま みづき)
1988年5月6日生まれの有名人 神奈川出身

大島 みづき(おおしま みづき、1988年5月6日 - )は日本のグラビアアイドル、アイドル歌手。 1988年5月6日、神奈川県に生まれる。 2006年3月、小泉瑠美(現長谷川瑠美)と「NO K…

大島 涼花(おおしま りょうか)
【AKB48】
1998年10月21日生まれの有名人 神奈川出身

大島 涼花(おおしま りょうか、1998年〈平成10年〉10月21日 - )は、日本の女優であり、女性アイドルグループ・AKB48の元メンバー。神奈川県出身。所属事務所はMETEORA。 2011…

大島 蓉子(おおしま ようこ)
1953年1月22日生まれの有名人 宮城出身

大島 蓉子(おおしま ようこ、本名:大場 陽子、1953年1月22日 - )は、日本の女優、タレント。宮城県古川市(現在の大崎市)出身。血液型はAB型。身長168.5cm。青年座映画放送所属。 宮…

大島 美幸(おおしま みゆき)
1980年1月13日生まれの有名人 栃木出身

大島 美幸(おおしま みゆき、1980年(昭和55年)1月13日 - )は、日本のお笑いタレント、女優。森三中のボケ担当。身長166cm。戸籍名は鈴木 美幸(すずき みゆき)で、旧姓は大島。栃木県大田…

大島 康明(おおしま やすあき)
1981年9月1日生まれの有名人 兵庫出身

大島 康明(おおしま やすあき、1981年9月1日 - )は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF、FW。 2005年、徳島ヴォルティスのJリーグ初ゴールを…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「大島康徳」を素材として二次利用しています。

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