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山本権兵衛の情報 (やまもとごんべい)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【4月7日】今日誕生日の芸能人・有名人

山本権兵衛の情報(やまもとごんべい) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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山本 権兵衛さんについて調べます

■名前・氏名
山本 権兵衛
(読み:やまもと ごんべい)
■職業
軍人
■山本権兵衛の誕生日・生年月日
1852年11月26日 (年齢1933年没)
子年(ねずみ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
鹿児島出身

山本権兵衛と同じ1852年生まれの有名人・芸能人

山本権兵衛と同じ11月26日生まれの有名人・芸能人

山本権兵衛と同じ出身地鹿児島県生まれの有名人・芸能人


山本権兵衛と関係のある人

財部彪: 妻の「いね」は山本権兵衛の娘である。


中部慶次郎: これ以外にも鳩山一郎・鳩山由紀夫・小川平吉・岸田文雄・鈴木善幸・麻生太郎・正田英三郎・安西孝之・三木武夫・齊藤了英・藤山愛一郎・田中角栄・田中直紀・池田勇人・池田行彦・中曽根康弘・5代目太田清蔵・太田誠一・櫻内義雄・福田赳夫・福田康夫・津軽義孝・中内㓛・坂野常礼・宮原旭・清水満昭・豊田章一郎・豊田達郎・飯田新一・鮎川義介・西園寺公望・橋本龍太郎・河野洋平・河野太郎・久邇宮邦彦王・仙石政敬・梅溪通虎・正力亨・池坊専永・五島昇・大隈信幸・北野隆興・竹中統一・米内光政・竹下登・金丸信・小沢一郎・山本権兵衛・松方正義・山下亀三郎・岡崎忠・伊藤次郎左衛門・下条進一郎・安倍晋三・安倍晋太郎・岸信介・佐藤栄作・佐藤信二・木内重四郎・岩崎弥太郎・加藤高明・幣原喜重郎などと縁戚関係にある。


三島弥太郎: 1913年(大正2年)2月28日、山本権兵衛内閣に大蔵大臣としての入閣の打診を受けるも辞退。


原敬: 西園寺と薩摩閥は薩摩藩出身の大物海軍大将山本権兵衛の擁立を提案し、山縣もそれを受け入れた。


八木沼純子: 母方の祖父は外務省官員の樺山資英(鹿児島市長・樺山可也の子)、母方の祖母は実業家の松方乙彦(松方正義の八男で、岳父は山本権兵衛)の娘。


財部彪: 妻の「いね」は、山本権兵衛(海軍大将)の娘。


元田肇: 当初は大成会・国民協会・帝国党に所属した後に立憲政友会の結成に参加、衆議院副議長に3度選出された他、第1次山本権兵衛内閣の逓信大臣、原敬内閣の鉄道大臣(初代)として入閣している。


山県有朋: 山縣ら元老会議は西園寺に首相就任を依頼したが断られ、西園寺の提案する山本権兵衛海軍大将を奏薦することとなった。


大久保利通: 山本権兵衛 「西郷さんのところにいくといつも喜ばれて、『自分は落語家でないから話が聞きたければ物事を尋ねてくれ』という風で、有益なる談話に時のうつるを覚えず、あたかも春風に触れるよう長閑な気持ちになり、辞して門を去るときは、誰も心中に云うに言われぬ愉快を感じたものである。


長与専斎: 実業家の岩崎弥太郎、弥之助兄弟、幕末の志士・松方正義、後藤象二郎、首相経験者の山本権兵衛、加藤高明、幣原喜重郎、そして師にあたる緒方洪庵や福沢諭吉とも親戚関係である。


水野哲: 3時間ドラマ「海は甦える」(1977年8月29日・TBS)山本権兵衛の少年時代役


清浦奎吾: それでも海軍大臣以外の人選は順調に進んだが、海軍は政友会に近い山本権兵衛前首相の影響下にあり、後継海相の選出は難航した。


西園寺公望: 山縣は西園寺に組閣を求めたが健康上の理由で拒否し、西園寺が推薦した山本権兵衛海軍大将が後継首相となった。


伊集院彦吉: 1923年9月に成立した第二次山本権兵衛内閣では外務大臣となったが、内閣が虎ノ門事件で総辞職したために3ヶ月の在任であった。


床次竹二郎: なお同年には山本権兵衛から貴族院の勅選議員になることを勧められた。


財部彪: 財部は兵学校15期クラスヘッドであり、クラスメートの広瀬武夫が、財部の岳父となる山本権兵衛に「財部はあんたの娘を貰わなくても出世できる男だ」と言ったように、最初から出世が約束されていたとも言える。しかし財部は、山本権兵衛の女婿として、山本の威光により異例の速さで進級し、「財部親王」と陰口を叩かれた。


大正天皇: 1914年(大正3年)3月、シーメンス事件により第1次山本内閣が総辞職した際には、大正天皇は後継総理の選定を元老に委ねたにもかかわらず、昭憲皇太后危篤の報を受けて沼津御用邸へ向かう車中で山本権兵衛に留任を求める不用意な発言を行う。


山本五十六: 井上成美大将は、海軍大学校教官時代の山本が軍政と軍備の関係について着目・研究したことを航空重視の姿勢と合わせて「実に卓見と申すべく」と高く評価し、一等大将に山本権兵衛と加藤友三郎、山本と米内は条件付きの一等大将と格付けしている。


八木沼純子: 内閣総理大臣を2度務めた松方正義及び山本権兵衛の玄孫にあたる。


石坂浩二: 坂の上の雲(2009年11月29日 - 2011年11月25日、NHK:山本権兵衛役)


大隈重信: 更に海軍でも薩摩閥の有力者を閑職においやり、山本権兵衛・斎藤実といった大物を予備役に編入するなどの粛軍を行った。


小村寿太郎: 新橋駅では、「速やかに切腹せよ」「日本に帰るよりロシアに帰れ」などという散々な罵声を浴びせられた小村を、出迎えた首相の桂と海相の山本権兵衛は両脇を挟むようして歩き、爆弾でも投げつけられたら共倒れの覚悟で首相官邸まで彼を護衛している。


床次竹二郎: 床次は鹿児島出身であり、松方正義と牧野伸顕が宮中に、山本権兵衛が海軍に、という図式である。


牧野伸顕: 山本権兵衛と三浦梧楼から、山縣閥への牽制として当初宮内大臣への就任を打診されたが、政府と宮中の長官を薩摩人が占めることに誤解を抱かれるとの懸念から辞退している。


頭山満: 日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて山本権兵衛首相に交渉し、亡命を認めさせた。


小村寿太郎: 内閣からは桂、小村、山本権兵衛海相、寺内正毅陸相、元老からは伊藤、山縣、井上、松方、大山巌が参加した。


徳川家達: 実際、当時の家達は貴族院の院内会派には所属していなかったが、政治的立場としては衆議院の立憲政友会に近く、政友会の連携によって成立した西園寺公望内閣や、再び立憲政友会との連携によって成立した第1次山本権兵衛内閣に好意的だったが、1914年(大正3年)のシーメンス事件で山本内閣が窮地に陥り、貴族院内でも幸倶楽部派を中心に山本内閣追及が強まり、特に勅選議員の貴族院議員・村田保が執拗に山本内閣を攻撃した。


西郷従道: 内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。


石坂浩二: また、大河ドラマ関連作品にも出演しており、NHK新大型時代劇の『宮本武蔵』(1984年)では本阿弥光悦役を、NHKスペシャルドラマの『坂の上の雲』(2009年 - 2011年)では山本権兵衛役を演じている。


斎藤実: 1898年(明治31年)11月10日に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第1次山本内閣まで8年間つとめた。


山本権兵衛の情報まとめ

もしもしロボ

山本 権兵衛(やまもと ごんべい)さんの誕生日は1852年11月26日です。鹿児島出身の軍人のようです。

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事件、卒業、結婚、現在、家族に関する情報もありますね。1933年に亡くなられているようです。

山本権兵衛のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

山本 権兵衛(やまもと ごんべえ / やまもと ごんのひょうえ、旧字体:山本 權兵衞、1852年11月26日〈嘉永5年10月15日〉- 1933年〈昭和8年〉12月8日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。栄典は従一位大勲位功一級伯爵。

海軍大臣(第5代)、内閣総理大臣(第16・22代)、外務大臣(第35代)などを歴任した。

薩摩藩士の息子として生まれ、戊辰戦争に従軍した後、昌平黌、開成所を経て海軍兵学寮で学び、1877年に海軍少尉に任官。1891年に海軍大臣官房主事に就任し、海軍参謀機関の独立を実現させた。1893年に海軍省主事に就任し、1895年には海軍少将として軍務局長に就任。日清戦争では実質上海軍機務を取り仕切って「権兵衛大臣」と呼ばれた。1898年に海軍中将に昇進し、海軍次官を経て、第2次山縣内閣に海軍大臣として入閣して以降、第4次伊藤内閣、第1次桂内閣でも海軍大臣を務め、日露戦争の難局を突破した。同時期に海軍大将に昇進し、日露戦争後には伯爵位を与えられた。1913年の大正政変の後、立憲政友会と手を結んで組閣し、第16代内閣総理大臣に就任。軍部大臣現役武官制の廃止などの改革にあたったが、翌1914年にはシーメンス事件が発覚し、引責辞任。1923年に再度組閣し、第22代内閣総理大臣に就任したが、同年中に虎ノ門事件で引責辞任した。

島田謹二(比較文学者)は、山本の名「権兵衛」のヨミについて「『ごんのひょうえ』は誤りで、『ごんべえ』が正しい」旨を述べている。

薩摩国鹿児島郡の鹿児島城下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)に薩摩藩士で右筆及び槍術師範を務めていた山本五百助盛珉の六男に生まれた。元服前の幼名、元服後の仮名(通称)はいずれも権兵衛。元服後の諱は盛武。10歳で薩英戦争及び戊辰戦争に従軍。

戊辰戦争後、1869年(明治2年)に当時の政府高官であった西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、開成所、海軍操練所そして海軍兵学寮と 海軍軍人への道を歩むことになった。海軍兵学寮では実戦を体験した山本らの学生は、実戦を体験していない近藤真琴などの教官に素直に従わないこともあった。「教官はそう言われるが、実戦での体験では、そのようなことは無い」と批判するのが常套手段であった。

西郷隆盛が明治政府から下野した時は、1874年(明治7年)に西郷を追って鹿児島へ一時的に帰省するも、西郷自らの説得により海軍大輔・川村純義に詫びを入れ兵学寮に戻った。同年に海兵2期卒業、 席次は17人中16席。

1877年(明治10年)の西南戦争時は、派遣されていたドイツ軍艦での遠洋航海中の外地で初めてその事実を知った。同年海軍少尉任官。

1878年(明治11年)、新潟県の農業・津沢鹿助の三女・登喜子と結婚した。薩摩閥の海軍士官が、士族ではなく平民の娘と結婚することは、当時としては異例のことであった。

薩摩閥のエリートとしての言動は問題を起こすこともあり、海軍中尉時代に海軍卿・榎本武揚によって非職にされたが、順調に海軍士官としての経験を積んだ。

「天城」艦長の後、1887年(明治20年)に海軍大臣伝令使となり、海軍次官・樺山資紀の欧米視察旅行に一年以上随行した。1889年(明治22年)、大佐に昇進し、「高雄」艦長や「高千穂」艦長を歴任した。

1891年(明治24年)、海軍大臣・西郷従道に海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)に任命され、日清戦争時には海軍大臣副官となる。

山本は海上権という新しい概念を陸軍首脳へレクチャーし、それ以後、日清戦争における陸海軍の作戦が比較的スムーズに進んだ。 当時海軍軍令部は独立しておらず、陸軍参謀本部の中に含まれていた。山本は軍令部の独立を主張し、その独立までには10年の歳月が掛かった。

日清戦争後は、三国干渉から将来のロシア帝国の脅威に対抗出来る海軍に改革するために、人事を含む大規模な海軍における行政改革を断行した。当時の山本は軍務局長であったが、新聞各紙で「権兵衛大臣の独断専行」という表現で批判され、海軍の弱体化を懸念する山縣有朋や井上馨からも説明を求められたが、海軍大臣の西郷従道は、すべて山本に任せて自分が責任を取るとして改革を進めさせた。

特に将官8人、尉佐官89人に及ぶ士官のリストラには、現役の軍令部長の中牟田倉之助さえも対象となる世界の海軍でも例を見ない大リストラであり、山本と個人的に親しかった士官も容赦なく整理対象とされたので、個人的批判が巻き起こった。山本に全てを任せた西郷従道さえも、一時は疑問を呈したが、緊急の場合には、予備役を召集すれば良いとの説明に最終的には同意した。

1898年(明治31年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。

帝国海軍の戦力を、ロシア帝国海軍太平洋艦隊に対抗できるレベルまで引き上げた。

士官には海外留学を奨励し秋山真之・広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなどへ派遣した。士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度を作り、佐官まで昇進した者も数名出た。

国内の製鉄所・造船所を整備し、戦時における修理・補給体制を充実させた。 また当時の燃料としては最高級の英国炭を全艦船の燃料として採用した。

艦上での食事の改良にも力を注ぎカレーライスや肉じゃがなど栄養価の高い斬新な献立を奨励し、乗組員の健康管理にまで目を配った。当時の日本では脚気が問題であったが、栄養価の高い食事や適度なパン食などで、乗組員の脚気はほぼ皆無になった。

外交では日英同盟を積極的に支持し、海軍条項を早期に同意するなど、外務省に協力した。この功績により1902年(明治35年)、小村寿太郎らと共に男爵に叙せられる。

国内での艦船の新造を振興する一方で日英同盟に配慮して英国へ発注し、また戦後の好意を期待して米国にも発注するなど、広い視野をもって行動した。また日英同盟によって当時世界の主要港を支配していた英国を中立化し、ロシアのバルチック艦隊の日本海までの長期航海における補給・修理・休養を出来る限り妨害して、日本海海戦前に疲労させた。

官房主事時代から取り組んできた海軍軍令部の独立を達成し、明治天皇による初めての海軍軍服の着用、予算規模の拡大などによって、海軍を陸軍と対等の関係まで進めた。 また陸軍の大陸への兵站を守る海上権をまず第一義に考え、日露戦争ではウラジオストク艦隊、次いで陸軍との協同作戦により旅順のロシア太平洋艦隊を全滅させ、船舶の通行の安全を図った。

開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。 開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。明治天皇に理由を尋ねられ「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っている。1904年(明治37年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。

1906年(明治39年)1月、信頼する斎藤実に譲るかたちで、海軍大臣を辞任する。1907年(明治40年)9月、伯爵に陛爵。

西郷従道亡きあとの、陸軍首脳とも強い繋がりのある海軍の重鎮の一人として存在感を強め、また藩閥に属するも、政党および国会を尊重し、伊藤博文の 立憲政友会に好意的な立場をとるなど、護憲運動にも理解を示したことにより、総理大臣の候補に名前が挙がるようになった。

1913年(大正2年)、同じ薩摩閥の元老・大山巌の支持で山本に組閣の大命が下る。松方正義が1898年(明治31年)1月に辞任して以来15年振りの薩摩出身者であり、2月20日に政友会を与党として内閣総理大臣に就任した。

6月、文部省官制を改正し、内務省宗教局が扱っていた宗教行政を、新設の文部省宗教局に移管し 、このことで当時行き詰まっていた皇道宣布運動を再度推進した。

第1次山本内閣は、軍部大臣現役武官制を事実上廃止し、それ以後は陸軍大臣が決まらないので組閣出来ないといった、軍部の横暴が抑止された。 しかし、ドイツの国内事件からシーメンス事件が検察によって調査され、海軍高官への贈賄疑惑をめぐり内閣は瓦解し、1914年(大正3年)4月16日、総辞職した。

次の第2次大隈内閣で海軍大臣となった八代六郎は、山本と斎藤実を予備役に編入した。 井上良馨と東郷平八郎の両元帥は、この人事に反対するも、山本は人事は海軍大臣の専管事項であり、将来の人事行政に重鎮達が口を挟む悪例を残さないために、素直に大臣の命令に従い1914年(大正3年)5月11日に予備役となった。その後、第一次世界大戦やその後の海軍軍縮にも海軍の長老としての公的な発言は全くしていない。

1922年(大正11年)の高橋内閣総辞職の際、元老の一人西園寺公望は病中であり、松方正義は、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)より枢密院議長の清浦奎吾とともに山本を協議に加える許可を得た。三者の協議により加藤友三郎に大命が降下することとなったが、これは松方と宮内大臣牧野伸顕をはじめとする薩摩閥が、山本を将来の元老とするための措置であったともされる。一方で西園寺は山本が宮中に接近することを警戒し、山本の枢密院議長就任に対して反対している。

1923年(大正12年)8月24日、加藤友三郎首相が急死。これに伴い内田康哉外務大臣が内閣総理大臣を臨時兼任していたところ、同年9月1日に関東大震災が発生。翌9月2日、約9年の時を経て加藤と同じく海軍出身の山本に再度の組閣が命じられ、首相に就任した。推薦を行ったのは西園寺であり、「来るべき総選挙を公平に行はしめ、財政・行政整理を断行せしむる」ためであるとされた。

山本は帝都復興院総裁に後藤新平を任命して東京の復興事業を行う一方、普通選挙実現に動くなどした。加藤友三郎内閣から引き継いだ大臣には、女婿である海軍大臣の財部彪もいた。しかし同年12月27日に起きた摂政宮が共産主義者の難波大助に狙撃された虎ノ門事件の政治的責任を自ら取り、辞表を提出した。摂政宮と元老も辞表を却下するなどして慰留したが、翌1924年(大正13年)1月7日に内閣は総辞職した。

東京日日新聞1924年6月19日記事では両元老亡き後の元老として山本の名が挙げられるなど、経歴から見ても元老に適格であるという観測も行われていた。しかし内大臣平田東助は元老を西園寺の代で消滅させる意向を持っており、山本は不適格であると考えていた。西園寺もこれに同意しており、山本が元老となることはなかった。牧野はその後も山本を枢密院議長などの重職に就けようと活動したが、山本は一貫して反対し続けた。

1933年(昭和8年)3月30日、妻の登喜子が死去し、山本自身も前立腺肥大症のため同年12月8日、芝区高輪台町の32番地(現在の東海大学付属高輪台高等学校)の邸で薨去。享年81。墓所は青山霊園。

私生活は質素かつ清廉潔白であり「俸給の半分で生活している」と評されていた。酒は飲まず、タバコも吸わない。碁や将棋、勝負事もまったくやらない。仕事が終わるとまっすぐ家路につき、家族と一緒に夕食をとって、夜は早いうちに床につく規則正しい生活を心がけた。布団の上げ下ろし、シャツのほころびや靴下のつくろいも自分でやった。

愛妻家で、恋愛結婚で結ばれた登喜子夫人を生涯に渡って愛し続けた。

首相在任中、海軍に入隊する皇族が少なかったこともあり、伏見宮博恭王の待遇について「宮様に、ご迷惑がいかないようにせよ」と申し継ぎを出した。この申し継ぎは後々の海軍でも重要視され、伏見宮の海軍での影響力を高める結果となった。

幾つかの文献で元帥となっている場合があるが、上記のとおり山本が元帥だった事実は無い。

「ごんべえ」「ごんのひょうえ」二つの読み方が通用しているが、音読み、訓読み以外で名の読み方が二通りある日本の首相経験者には他に近衛文麿(「あやまろ」「ふみまろ」)の例がある。山本も近衛も、本来の読み方である前者が体裁が悪いため別の読み方をさせたものである。

薩摩藩の郷中では勇猛さで知られた。罪人の遺骸を使った冷物取りひえもんとりではたびたび一番乗りの功名を手にし、新刀で試し切りを行う権利を得た。

昭和天皇は、終戦直後の昭和20年(1945年)9月に、疎開中の皇太子・明仁親王へ宛てた手紙の中で、「明治天皇の時には、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時には、あたかも第一次世界大戦の独国の如く、軍人が跋扈して大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」と、陸海軍の名将として、大山巌及び山縣有朋とともに山本をあげている。

1885年(明治18年)9月16日 - 従六位

1891年(明治24年)12月16日 - 従五位

1895年(明治28年)6月8日 - 正五位

1898年(明治31年)

    6月10日 - 従四位

    12月10日 - 正三位

    1903年(明治36年)12月26日 - 従二位

    1910年(明治43年)12月27日 - 正二位

    1933年(昭和8年)12月9日 - 従一位

    1887年(明治20年)11月25日 - 勲六等単光旭日章

    1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章

    1892年(明治25年)5月28日 - 勲五等瑞宝章

    1895年(明治28年)

      8月20日 - 功四級金鵄勲章・双光旭日章

      11月18日 - 明治二十七八年従軍記章

      1900年(明治33年)6月30日 - 勲二等瑞宝章

      1901年(明治34年)12月27日 - 勲一等旭日大綬章

      1902年(明治35年)2月27日 - 男爵

      1906年(明治39年)4月1日 - 旭日桐花大綬章・功一級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章

      1907年(明治40年)9月21日 - 伯爵

      1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)

      1928年(昭和3年)11月10日 - 大勲位菊花大綬章

      1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章

      1933年(昭和8年)12月9日 - 菊花章頸飾

      1900年(明治33年)2月21日 - ドイツ帝国:赤鷲第一等勲章

      1901年(明治34年)4月4日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ

      1907年(明治40年)9月21日

        フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロワ

        プロイセン王国:赤鷲大綬章

        聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG) 

        妻:登喜子(1860–1933) - 元遊女

        長女:いね(1878–1976) - 財部彪海軍大将夫人

        次女:すゑ(1881–1978) - 山路一善海軍中将夫人

        三女:ミね(1885–1959) - 山本盛正夫人

        四女:なミ(1887–1945) - 上村従義男爵夫人

        五女:登美(1888–1962) - 松方正義の息子乙彦に嫁ぐ

        長男:清(1883–1960) - 海軍中佐

        甥:山本英輔 - 海軍大将 

        兄:盛英 - 陸軍中佐

        兄:吉蔵 - 陸軍大尉・西南戦争で戦死

        弟:太田誠実 - 海軍少将

        (参考文献)『伯爵山本權兵衛傳』、NHK『ファミリー・ヒストリー』

        『山本権兵衛と海軍』海軍省大臣官房編、原書房<明治百年史叢書>、オンデマンド版2004年

        『伯爵山本権兵衛伝』(上下)、同・伝記編纂会編、原書房<明治百年史叢書>、オンデマンド版2004年。各公式伝記

        鷲尾義直『英傑 山本権兵衛』牧書房、1941年/復刻「歴代総理大臣伝記叢書 山本権兵衛」ゆまに書房、2005年

        生出寿『海軍の父 山本権兵衛』光人社、1989年/同文庫、1994年

        江藤淳 『海は甦える』(全5巻)、文藝春秋、1983年/文春文庫、1986年

        『明治天皇と日露大戦争』(1957年、演:江川宇礼雄)

        『天皇・皇后と日清戦争』(1958年、演:沼田曜一)

        『明治大帝と乃木将軍』(1959年、演:明智十三郎)

        『日本海大海戦』(1969年、演:辰巳柳太郎)

        『日本海大海戦 海ゆかば』(1983年、演:丹波哲郎)

        『金子文子と朴烈(パクヨル)』(2017年、演:柴田善之)

        『海は甦える』(1977年、TBS、演:仲代達矢。少年時代を演じたのは山口一喜と水野哲)

        『ポーツマスの旗』(1981年、NHK、演:渡辺文雄)

        『坂の上の雲』(2009年、NHK、演:石坂浩二)

        ^ 年齢資格未満であったが、身体壮健であり年齢を偽って志願した。

        ^ 西郷従道や東郷平八郎は同じ町内の出身であり、深いつながりがある。

        ^ 後の東京大学の前身であり、江藤淳によれば、東京大学の同窓生名簿にも明記されている。

        ^ 1870年(明治3年)に海軍兵学寮と改称。

        ^ 後に榎本武揚が海軍卿を更迭されたこともあり、山本は約5ヶ月間の非職から復帰した。

        ^ 江藤淳によれば大山巌は、島国の陸軍である以上、まず海軍がよろしいと言うまで、陸軍を大陸に送る作戦は行わないと後々まで発言した。

        ^ 司馬遼太郎は、「日本海軍のオーナー」という言葉で評している。

        ^ 日露戦争中、陸軍では弾丸が足りなくなるということもあったが、海軍では十分に用意されており、二百三高地では海軍砲を弾丸をつけて陸軍へ貸与することもあった。

        ^ 値段はそれ以外の石炭の数倍するが、燃費が良く、煙突から出る煙が白く、対してロシア艦艇は安物の石炭で燃費が悪く、速度が遅くなり、また煙突から黒い煙が出るので、砲撃の目標になり易かった。

        ^ このことは後々まで陸軍の反発をまねき、山縣有朋は山本の元老への話が出ても何も言及しなかった。

        ^ 開戦派の批判に耐え切れず勝てる見込みもないのに開戦に同意した後の大東亜戦争の海軍首脳と比較して、後に賞賛されることになった

        ^ 西郷従道は総理への就任を早くから辞退し、海軍出身の総理はいなかった

        ^ 『官報』第534号、大正3年5月12日。伊藤正徳は「大海軍を想う」において、「山本が予備役にならなければ間違いなく元帥になっていたろうし、そうなれば艦隊派と条約派の対立も雲行きが変わっていただろう。いかにも惜しかった」と述べている。

        ^ 秦 2005, p. 263, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-山本権兵衛

        ^ 半藤 2013, 位置No. 400 - 477, 山本権兵衛 - 権兵衛なくして日本海軍なし

        ^ 季武嘉也(創価大学教授). “NHK高校講座 | 日本史 | 第33回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展 大正デモクラシー”. 日本放送協会. 2020年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月20日閲覧。

        ^ 新村出 編「やまもと - ごんのひょうえ【山本權兵衛】」『辞苑』博文館、1935年、2086頁。 

        ^ 村上貞一『偉人権兵衛』実業之日本社、1935年、12頁。 

        ^ 山本英輔(山本権兵衛の甥、海軍大将)『山本権兵衛』時事通信社、1958年、12頁。 

        ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「山本権兵衛」

        ^ 島田謹二 (1988). “秋山真之に関する二つの研究”. 白山英米文学 (東洋大学文学部英米文学科) (13): 10. 

        ^ 「山本少尉結婚の件東海鎮守府届」 アジア歴史資料センター Ref.C09113152400 

        ^ 池田 1993a, pp. 39–40

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        ^ 永井和 1997, p. 117.

        ^ 永井和 1997, p. 117-118.

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        ^ 永井和 1997, p. 122.

        ^ 永井和 1997, p. 124.

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        ^ 永井和 1997, p. 139.

        ^ 文学散歩 小説の中の高輪地区 - みなとっぷ

        ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)337頁

        ^ 池田 1987b, pp. 39–40

        ^ 「山本権兵衛」元総理の心温まる愛妻物語 東洋経済オンライン2019年(令和元年)5月2日付より。

        ^ 郷中教育の研究(1944), p252.

        ^ 高橋紘『象徴天皇』2-3頁

        ^ 『官報』第775号「叙任及辞令」1886年2月4日。

        ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。

        ^ 『官報』第3582号「叙任及辞令」1895年6月10日。

        ^ 『官報』第4483号「叙任及辞令」1898年6月11日。

        ^ 『官報』第4636号「叙任及辞令」1898年12月12日。

        ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。

        ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。

        ^ 『官報』第2085号「叙任及辞令」1933年12月12日。

        ^ 『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。

        ^ 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。

        ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。

        ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。

        ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。

        ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。

        ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。

        ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。

        ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。

        ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。

        ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

        ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。

        ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

        ^ 『官報』第5005号「叙任及辞令」1900年3月12日。

        ^ 『官報』第5328号「叙任及辞令」1901年4月11日。

        ^ 『官報』第7284号「叙任及辞令」1907年10月8日。

        ^ 『明治美人伝』長谷川時雨

        ^ 秦 2005, p. 226, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-財部彪

        ^ 山本英輔『山本権兵衛』(時事通信社「三代宰相列伝」、1958年/新装版「日本宰相列伝6」、1985年)がある。

        根占献一「九州大隅における古代以来の名族-禰寝家」『歴史と旅』秋田書店、1987年、296-301頁所収。

        根占献一「わが家系を訪ねれば-平重盛末裔の伝説」『歴史と旅』(臨時増刊「新苗字事典」)秋田書店、1994年、84-89頁所収(先の根占 論文の再録)。

        別冊歴史読本『日本の名家・名門 人物系譜総覧』新人物往来社、2003年、288-289頁。

        池田清『日本の海軍』 誕生編、朝日ソノラマ〈新装版戦記文庫〉、1993a。 

        池田清『日本の海軍』 下、朝日ソノラマ〈文庫版航空戦史シリーズ〉、1987b。 

        千早正隆『海軍経営者 山本権兵衛』プレジデント社、1986年12月、新版2009年。ISBN 483341922X

        長南政義「人物研究 山本権兵衛 帝国海軍を育てた男」『歴史群像』2013年8月号:通巻120号(学研パブリッシング、2013年)

        半藤一利 他『歴代海軍大将全覧』(Amazon Kindle版)中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、2013年。 

        秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。 

        永井和「西園寺公望はいかにして最後の元老となったのか : 「一人元老制」と「元老・内大臣協議方式」」『京都大學文學部研究紀要』第36巻、京都大学、1997年、152_a-111_a、NAID 110000056959。 

        松本彦三郎「錬肝行事」『郷中教育の研究』八雲書店、1944年、251-256頁。NDLJP:1871726/138。 

        山本権兵衛 | 近代日本人の肖像

        『山本権兵衛』 - コトバンク

        伊藤博文

        黑田淸隆

        山縣有朋

        松方正義

        大隈重信

        桂太郎

        西園寺公望

        山本權兵衞

        寺内正毅

        原敬

        高橋是清

        加藤友三郎

        清浦奎吾

        加藤高明

        若槻禮次郎

        田中義一

        濱口雄幸

        犬養毅

        齋藤實

        岡田啓介

        廣田弘毅

        林銑十郎

        近衞文麿

        平沼騏一郎

        阿部信行

        米内光政

        東條英機

        小磯國昭

        鈴木貫太郎

        東久邇宮稔彦王

        幣原喜重郎

        吉田茂

        片山哲

        芦田均

        鳩山一郎

        石橋湛山

        岸信介

        池田勇人

        佐藤榮作

        田中角榮

        三木武夫

        福田赳夫

        大平正芳

        鈴木善幸

        中曽根康弘

        竹下登

        宇野宗佑

        海部俊樹

        宮澤喜一

        細川護煕

        羽田孜

        村山富市

        橋本龍太郎

        小渕恵三

        森喜朗

        小泉純一郎

        安倍晋三

        福田康夫

        麻生太郎

        鳩山由紀夫

        菅直人

        野田佳彦

        菅義偉

        岸田文雄

        石破茂

        小笠原長行

        山口直毅

        仁和寺宮嘉彰親王

        山階宮晃親王

        三条実美

        伊達宗城

        東久世通禧

        澤宣嘉

        山階宮晃親王

        伊達宗城

        澤宣嘉

        澤宣嘉

        岩倉具視

        副島種臣

        (副島種臣(外務事務総裁))

        寺島宗則

        井上馨

        井上馨

        伊藤博文

        大隈重信

        青木周藏

        榎本武揚

        陸奥宗光

        西園寺公望

        大隈重信

        西徳二郎

        大隈重信

        青木周蔵

        加藤高明

        曾禰荒助

        小村壽太郎

        林董

        寺内正毅

        小村壽太郎

        内田康哉

        桂太郎

        牧野伸顯

        石井菊次郎

        本野一郎

        後藤新平

        山本權兵衞

        伊集院彦吉

        松井慶四郎

        幣原喜重郎

        田中義一

        幣原喜重郎

        犬養毅

        芳澤謙吉

        齋藤實

        廣田弘毅

        有田八郎

        林銑十郎

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        宇垣一成

        近衛文麿

        有田八郎

        阿部信行

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        松岡洋右

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        園田直

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        伊東正義

        櫻内義雄

        安倍晋太郎

        倉成正

        宇野宗佑

        三塚博

        中山太郎

        渡辺美智雄

        武藤嘉文

        羽田孜

        柿澤弘治

        河野洋平

        池田行彦

        小渕恵三

        高村正彦

        田中眞紀子

        小泉純一郎

        川口順子

        町村信孝

        麻生太郎

        高村正彦

        中曽根弘文

        岡田克也

        前原誠司

        松本剛明

        玄葉光一郎

        岸田文雄

        河野太郎

        茂木敏充

        林芳正

        上川陽子

        岩屋毅

        1872-1873

        勝安芳1873-1875

        1875-1878

        川村純義1878-1880

        榎本武揚1880-1881

        川村純義1881-1885

        西郷従道1885-1890

        樺山資紀1890-1892

        仁礼景範1892-1893

        西郷従道1893-1898

        山本権兵衛1898-1906

        斎藤実1906-1914

        八代六郎1914-1915

        加藤友三郎1915-1923

        財部彪1923-1924

        村上格一1924

        財部彪1924-1927

        岡田啓介1927-1929

        財部彪1929-1930

        安保清種1930-1931

        大角岑生1931-1932

        岡田啓介1932-1933

        大角岑生1933-1936

        永野修身1936-1937

        米内光政1937-1939

        吉田善吾1939-1940

        及川古志郎1940-1941

        嶋田繁太郎1941-1944

        野村直邦1944

        米内光政1944-1945

        樺山資紀1886 海軍次官兼任

        井上良馨1886-1889

        井上良馨1889

        伊東祐亨1889-1893

        伊藤雋吉1893-1895 海軍次官兼任

        山本権兵衛1895-1898

        諸岡頼之1898-1900

        斎藤実1900

        上村彦之丞1900-1902

        出羽重遠1902-1903

        中溝徳太郎1903-1904

        斎藤実1904-1905 海軍次官兼任

        加藤友三郎1905-1906

        加藤友三郎1906 事務取扱

        武富邦鼎1906-1908

        中溝徳太郎1908-1909

        栃内曽次郎1909-1912

        江頭安太郎1912-1913

        野間口兼雄1913-1914

        秋山真之1914-1916

        鈴木貫太郎1916 海軍次官兼任

        小栗孝三郎1916

        井出謙治1916-1920

        堀内三郎1920-1922

        大角岑生1922-1923

        小林躋造1923-1927

        左近司政三1927-1929

        堀悌吉1929-1931

        豊田貞次郎1931-1932

        寺島健1932-1933

        吉田善吾1933-1935

        豊田副武1935-1937

        井上成美1937-1939

        阿部勝雄1939-1940

        岡敬純1940-1944

        岡敬純1944 事務取扱

        多田武雄1944-1945

        保科善四郎1945

        山本善雄1945

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        1852年生

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山本 昌邦(やまもと まさくに)
1958年4月4日生まれの有名人 静岡出身

山本 昌邦(やまもと まさくに、1958年4月4日 - )は、静岡県沼津市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。サムデイ所属。 国士舘大学時代から冷静な判断と鋭いタックルが売り物のディフェンダーとし…


山本 脩斗(やまもと しゅうと)
1985年6月1日生まれの有名人 岩手出身

山本 脩斗(やまもと しゅうと、1985年6月1日 - )は、岩手県盛岡市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(左右のサイドバック)。元日本代表。 高校時代は岩手の盛岡商業…

山本 真純(やまもと ますみ)
1976年6月11日生まれの有名人 東京出身

山本 真純(やまもと ますみ、1976年6月11日 - 2010年7月27日)は、元日本テレビアナウンサー。血液型はO型。1999年入社。 東京都杉並区出身。 豊島岡女子学園高等学校、学習院大学理学…

山本 文郎(やまもと ふみお)
1934年12月23日生まれの有名人 東京出身

山本 文郎(やまもと ふみお、1934年〈昭和9年〉12月23日 - 2014年〈平成26年〉2月26日)は、日本のフリーアナウンサー、司会者、タレント。TBSアナウンサー5期生。愛称は文さん(ぶんさ…

山本 賢太(やまもと けんた)
1998年4月11日生まれの有名人 東京出身

山本 賢太(やまもと けんた、1998年〈平成10年〉4月11日 - )は、フジテレビのアナウンサー。 東京都板橋区出身。板橋区立赤塚第一中学校、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学商学部卒業。野球歴は1…

山本 恵里伽(やまもと えりか)
1993年10月8日生まれの有名人 大分出身

山本 恵里伽(やまもと えりか、1993年10月8日 - )は、TBSテレビのアナウンサー。 熊本県熊本市出身。熊本市立西原中学校、熊本県立済々黌高等学校を経て、明治大学文学部文学科演劇学専攻に進学…


山本 匠晃(やまもと たかあき)
1984年6月13日生まれの有名人 愛知出身

山本 匠晃(やまもと たかあき、1984年6月13日 - )は、TBSテレビのアナウンサー。 愛知県岡崎市出身。愛知県立岡崎高等学校、横浜国立大学卒業後、2008年アナウンサーとしてTBSテレビに入…

山本 雪乃(やまもと ゆきの)
1991年12月22日生まれの有名人 岡山出身

山本 雪乃(やまもと ゆきの、1991年12月22日 - )は、テレビ朝日のアナウンサー。 岡山県岡山市出身。 朝日塾幼稚園・小学校、岡山白陵中学校・高等学校、早稲田大学文学部教育学コース卒業。 …

山本 紘之(やまもと ひろゆき)
1988年8月9日生まれの有名人 千葉出身

山本 紘之(やまもと ひろゆき、1988年8月9日 - )は、日本テレビのアナウンサー。 中学1年からサッカーを始め、柏レイソルのユースに所属(高校3年の時の2年後輩に、のちにサッカー日本代表となる…

山本 志保(やまもと しほ)
1968年9月9日生まれの有名人 東京出身

山本 志保(やまもと しほ、1968年9月9日 - )は、NHKのアナウンサー。 1991年入局。津田塾大在学中『週刊朝日』の表紙(篠山紀信の「女子大生シリーズ」、1989年9月15日号)に登場した…

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