岡田時彦の情報(おかだときひこ) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
岡田 時彦さんについて調べます
■名前・氏名 |
岡田時彦と関係のある人
内田吐夢: 同期に岡田時彦がいる。 徳川夢声: 漫談レヴュウ 古川ロッパ、岡田時彦共著 「現代ユウモア全集 第18」同刊行会 1929 高田稔: 以後、八雲恵美子、及川道子、栗島すみ子、田中絹代らと共演し、鈴木傳明、岡田時彦と並んで「松竹三羽烏」と称されるようになる。 鈴木澄子: 同社には俳優として、岡田時彦(当時は野羅久良夫)、井上金太郎(当時は栗井饒太郎)、内田吐夢(当時は閉田富)、二川文太郎らが在籍した。 月田一郎: ところが同年9月、鈴木が退社して不二映画社を創立するに伴い、岡田時彦、高田稔らの看板スターと共に参加する。 渡辺啓助: 1929年、「新青年」の企画「映画俳優による探偵小説競作」に、当時の人気俳優岡田時彦のゴーストライターとして、処女作「偽眼(いれめ)のマドンナ」を発表。 筑波雪子: 愛よ人類と共にあれ 後篇 米国篇 監督島津保次郎、主演上山草人、岡田時彦 ※「鋼吉の妾」役 夏川静江: 入社第一作は、当時ハリウッド俳優出身で新進気鋭と注目された阿部豊監督の岡田時彦主演映画『彼を繞る五人の女』だった。 竹内良一: このとき、主演俳優岡田時彦の紹介で岡田嘉子と知り合う。 岡田茉莉子: 東宝に入ってすぐのデビュー作「舞姫」で、宣伝部が経歴を書こうと父親の名前を尋ね、岡田時彦の娘とわかり大騒ぎとなった(それまで言っていなかった)。無声映画のフィルムしか残っていない父・岡田時彦の声を、近年、NHK放送技術研究所でレコードで聞いた。 トーマス栗原: 彼の教えを受けたものは数多く、監督の内田吐夢、井上金太郎、二川文太郎、俳優の岡田時彦、江川宇礼雄、葉山三千子、渡辺篤らがいる。 鈴木傳明: 鈴木に同調した岡田時彦、高田稔らと窪井義道の出資を得て、9月4日に不二映画社を設立する。 筑波雪子: 愛よ人類と共にあれ 前篇 日本篇 監督島津保次郎、主演上山草人、岡田時彦 ※「鋼吉の妾」役 筈見恒夫: 1932年(昭和7年)、23歳のときには、不二映画社で、阿部豊監督、岡田時彦主演のサイレント映画『もだん聖書 当世立志読本巻一』の脚本を書き、同作は同年10月6日に公開されている。 東坊城恭長: 瀧の白糸 1933年 脚本・美術意匠 監督溝口健二、原作泉鏡花、共同脚本館岡謙之助、増田真二、清涼卓明、主演入江たか子、岡田時彦 入江ぷろだくしょん作品 東坊城恭長: 須磨の仇浪 1933年 脚本 監督阿部豊、共同脚本夫馬修、主演入江たか子、岡田時彦 入江ぷろだくしょん作品 岡田茉莉子: 父は戦前の無声映画で活躍した二枚目俳優・岡田時彦。 青柳信雄: 同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、岡田時彦(高橋英一)らがいた。 岡田茉莉子: その時初めて、同作の主演俳優である岡田時彦が自分の父であることを知らされる。 及川道子: 第二回主演作「恋愛第一課」の撮影のために東京の実家を離れて地方で泊まったときに、家族を離れての外泊に不安となっていた及川を、笑わせようと、岡田時彦らは酔っぱらって、奇矯ないで立ちで及川の部屋に侵入し、馬鹿騒ぎを始めようとしたが、及川の厳しい叱責にあって、退散している。其処には私たちと一緒に船原へ原稿を書きに来て居られた北村小松先生と、私と今度の映画に主演して居られる岡田時彦さんの二人が立つて居られたのです。 杉村春子: 父親の岡田時彦が小津安二郎の盟友だったことから、岡田茉莉子は小津映画にも出演し、小津から「お嬢さん」と呼ばれ、撮影が終わる度に小津によく遊びに連れて行ってもらった。 小津安二郎: 俳優(クレジット有):笠智衆(25本)、坂本武(24本)、斎藤達雄(23本)、飯田蝶子(18本)、吉川満子(14本)、突貫小僧(12本)、田中絹代(10本)、大山健二、三宅邦子、杉村春子(9本)、高橋とよ(8本)、三井弘次、菅原通済(7本)、原節子、桜むつ子、中村伸郎、須賀不二夫(6本)、伊達里子、岡田時彦、坪内美子、佐分利信、長岡輝子(5本) 河津清三郎: やがて新興キネマに岡田時彦、高田稔、小杉勇、月形龍之介らのスター俳優が相次いで入社すると主演作が極端に減るが、1935年(昭和10年)に現代劇部が太秦から東京撮影所に移転すると筆頭俳優として参加し、高田稔に次ぐ新興キネマの現代劇スターとなる。 清水将夫: 当初は大部屋俳優の一人だったが、松竹の看板スターだった鈴木伝明、岡田時彦、高田稔らが不二映画社を作って独立したため、急遽、端整な顔立ちだった清水が主演スターに抜擢され、『桃色の誘惑』で主演デビューする。 溝口健二: 俳優:梅村蓉子、浦辺粂子(16本)、田中絹代、菅井一郎(15本)、進藤英太郎(12本)、中野英治、酒井米子(10本)、田中春男(9本)、夏川静江、清水将夫(8本)、入江たか子、山田五十鈴(7本)、沢村春子、河津清三郎、毛利菊枝(6本)、岡田嘉子、岡田時彦、山路ふみ子、柳永二郎、小沢栄太郎(5本) 上山草人: 当時の大スター鈴木伝明、田中絹代、岡田時彦らが共演し、アメリカからマック・スウェインらも出演するという豪華出演者による大作映画となった。 小杉勇: 当時の日活は看板スターであった鈴木傳明や岡田時彦などが去り、新しいスターを必要としていた。 山本冬郷: 自ら監督と主演を兼ねて、岡田時彦、伊志井寛、藤川三之助、瀬川つる子と共演した大作『幻の帆船』を製作するが、失敗に終わる。1931年(昭和6年)9月、松竹蒲田を脱退した鈴木傳明、高田稔、岡田時彦と共に不二映画社の創立に参加、同年12月31日に公開された鈴木重吉監督映画『栄冠涙あり』などに出演したが、僅か2年で解散。 |
岡田時彦の情報まとめ
岡田 時彦(おかだ ときひこ)さんの誕生日は1903年2月18日です。東京出身の俳優のようです。
人物・エピソード、おもなフィルモグラフィなどについてまとめました。映画、卒業、解散、退社、現在、結婚に関する情報もありますね。30歳で亡くなられているようです。
岡田時彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)岡田 時彦(おかだ ときひこ、本名・高橋英一、明治36年(1903年)2月18日 - 昭和9年(1934年)1月16日)は、大正・昭和初期の日本の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優であった。 東京市神田区宮本町(現・千代田区外神田2丁目)に生まれる。父の放浪癖のため、川崎に3年、茅ヶ崎に1年、その後逗子に移るなど各地を転々とした。大正4年(1915年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、青柳信雄らがいた。旧制・逗子開成中学校(のち中退)には抜群の成績で入学したが、伊勢佐木町の映画館で観た『名金』に感動して、学業そっちのけで浅草六区に足を運ぶほど映画に熱中した。 大正9年(1920年)、4月に設立され、山下公園に撮影所をもつ横浜の映画会社大正活映(大活)の俳優募集に応募し、17歳で入社。「野羅久良夫」または「野良久良男」の芸名をもらう。大活はハリウッドでの俳優経験をもつトーマス・栗原を撮影監督として、純映画劇の製作を始める。同年8月に公開した、同社設立第一作である栗原監督の『アマチュア倶楽部』で映画デビューを果たす。続いて12月公開の『葛飾砂子』に出演。本名「高橋英一」名義で何本かの短編理想映画に出演し、同社文芸顧問として脚本を担当していた谷崎潤一郎にかわいがられ、「岡田時彦」という芸名をもらう。 大正11年(1922年)、大活は栗原監督病臥のため解散。東京・蒲田の松竹キネマに吸収される。それに伴い、前年にすでに「大活」を退社していた同期入社の内田吐夢(当時俳優)、井上金太郎らのいる、京都へと移る。帰山教正の映画芸術協会、マキノ省三のマキノ等持院撮影所を経て、兵庫県芦屋の帝国キネマ芦屋撮影所、大阪府下中河内郡小阪町(現在の東大阪市)の帝国キネマ小阪撮影所へと移る。 大正14年(1925年)、小阪撮影所が東邦映画製作所に改組された第一作として、伊藤大輔監督の『煙』に主演する。伊藤監督の主宰する伊藤映画研究所(伊藤大輔プロダクション)に稲垣浩らと三か月ほど住み込みの研究生となる。同年、日活大将軍撮影所に入社した。 大正15年(1926年)2月公開の『紙人形春の囁き』(溝口健二監督)に出演。同作はキネマ旬報ベスト・テン7位に入った。同年10月公開の阿部豊監督のソフィスティケイテッド・コメディ『足にさはつた女』に出演。昭和2年(1927年)3月公開の主演作『彼を繞る五人の女』では岡田嘉子や当時18歳の夏川静江と共演、ベスト・テン2位に入った。モダンでスマートな阿部監督作品にて近代的な知性と憂鬱を漂わせた繊細な演技を披露した。映画誌「映画時代」の同年度のファン投票では当時の大人気スター・阪東妻三郎に400票以上も差をつけて第1位に輝き、トップスターの仲間入りをした。 昭和3年(1928年)、『母いづこ』(阿部豊監督)で入江たか子と共演。11月、『激流』(村田実監督)などで、中野英治とともに昭和初期の典型的なモボ像を確立した。昭和4年(1929年)2月公開の『日本橋』(溝口健二監督)で梅村蓉子と共演。 同年、松竹蒲田撮影所へ移る。小津安二郎監督の信頼を受け、『その夜の妻』、『お嬢さん』、『淑女と髯』、『東京の合唱』、『美人哀愁』に出演し、どこにでもいるような小市民を飄々と演じきり、新境地を開拓。松竹蒲田の哀愁とユーもアをたたえた小市民喜劇において才能を発揮した。また、鈴木傳明、高田稔と共に松竹蒲田の三羽烏と呼ばれた。 昭和6年(1931年)9月、28歳のとき、当時の松竹の人気俳優、鈴木傳明、高田稔らとともに退社し、不二映画社およびその撮影所「不二スタジオ」を豊島園に設立、阿部豊監督の作品に主演するが、1年足らずでまもなく解散。 昭和7年(1932年)、宝塚を退団したばかりの田鶴園子と結婚(非入籍)。 昭和8年(1933年)、京都に舞い戻り、かつて大活同期の内田吐夢が発掘した女優入江たか子の「入江ぷろだくしょん」、かつて不二映画社の作品を配給した新興キネマ京都太秦撮影所(帝国キネマ太秦撮影所の後身)に入社し、溝口健二監督の『瀧の白糸』、『祇園祭』に出演した。 同年、長女鞠子(岡田茉莉子)が出生。村田実監督の『青春街』に出演したが、この頃から持病だった結核が悪化、同年12月に大阪市の大阪赤十字病院に入院した。年末にいったん小康を得たものの、昭和9年(1934年)1月16日、兵庫県西宮市の寓居で息を引き取った。満30歳没の早世だった。葬儀では谷崎潤一郎が弔辞を読んだ。墓所は横浜市久保山墓地。 『青春街』のあとに『神風連』(1934年公開)で入江たか子の相手役として主演することが決まっていた。監督の溝口健二は当時病臥に伏していた岡田の回復を二か月の間待っていたが、ついにあきらめて主演を月形龍之介に迎えて撮影を開始したという。 人物・エピソード愛称は本名に由来し、「英パン(エーパン)」だった。端正な容貌から、デビュー当時はルドルフ・ヴァレンティノに因んで「和製バレンチノ」として売り出された。が、一流のスタアになったのは「和製」を返上してからだった。 妻が宝塚歌劇団卒業生田鶴園子、娘が女優岡田茉莉子であることでも知られる。時彦逝去時、娘の茉莉子はまだ満一歳を迎えたばかりで父の記憶は現在もない。以後茉莉子は田鶴が女手ひとつで育て上げた。岡田時彦、岡田茉莉子、両者とも名づけの親は谷崎潤一郎である。 楳図かずおの長編大作・洗礼に"岡田寺彦"という名の俳優が登場する。 昭和4年、雑誌『新青年』6月号に「岡田時彦」名義の探偵小説『偽眼のマドンナ』が掲載されているが、これは「映画俳優が書いた小説」という特集に名前を貸したものであり、実作者は渡辺啓助である。 おもなフィルモグラフィ◎印は小津安二郎監督作品 アマチュア倶楽部(大正活映、1920年) ※デビュー作 葛飾砂子(大正活映、1920年) 蛇性の婬(大正活映、1921年) 神代の冒険 (映画芸術協会、1922年) 懐かしの母(マキノ等持院撮影所、1924年) 女に甘き男の群(マキノ等持院撮影所、1924年) 林檎(マキノ等持院撮影所、1924年) 煙(東邦映画製作所、1925年) 人間礼讃(東邦映画製作所、1925年) 新生の愛光(日活大将軍撮影所、1926年) 女房可愛や(日活大将軍撮影所、1926年) 紙人形春の囁き(日活大将軍撮影所、1926年) 足にさはった女(日活大将軍撮影所、1926年) 彼を繞る五人の女(日活大将軍撮影所、1927年) 人形の家(日活大将軍撮影所、1927年) 結婚二重奏(日活大将軍撮影所、1928年) 維新の京洛 竜の巻 虎の巻(日活太秦撮影所、1928年) 激流(日活大将軍撮影所、1928年) 近代クレオパトラ(日活大将軍撮影所、1928年) からたちの花(日活太秦撮影所、1929年) 若者よなぜ泣くか(松竹蒲田撮影所、1930年) ◎お嬢さん(松竹蒲田撮影所、1930年) ◎その夜の妻(松竹蒲田撮影所、1930年) ◎淑女と髯(松竹蒲田撮影所、1931年) 夫よなぜ泣くか(松竹蒲田撮影所、1931年) ◎美人哀愁(松竹蒲田撮影所、1931年) ◎東京の合唱(松竹蒲田撮影所、1931年) 天国の波止場(不二映画社、1932年) もだん聖書(不二映画社、1932年) 瀧の白糸(入江ぷろだくしょん、1933年) 祇園祭(新興キネマ、1933年) 新しき天(入江ぷろだくしょん、1933年) 間貫一(新興キネマ、1933年) 青春街(新興キネマ、1933年) ※遺作 2024/06/23 05:38更新
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okada tokihiko
岡田時彦と同じ誕生日2月18日生まれ、同じ東京出身の人
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