木谷実の情報(きたにみのる) 囲碁 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
木谷 実さんについて調べます
■名前・氏名 |
木谷実と関係のある人
高川格: 第8期(1953年) 4-2 木谷実八段 藤沢朋斎: 1948年頃の大手合での木谷実戦で最初に試み、「創造性に欠ける」などと批判を浴びつつも信念でこの手法を使い続けた。 河野臨: 父親に碁を教わり、小学4年生ごろから仁風会(木谷実の「土曜木谷会」の後継の会)に参加して、さらに小林光一の研究会に参加するようになり、のちに小林に師事。 木下華声: 同じ隊に、木谷実、並木一路、今井正がいた。 大平修三: 10歳の時、木谷実九段に岐阜で七子で 指導碁を受け、翌1941年にも三子で対局したことで内弟子となり、平塚に移る。 小川誠子: 40代からは囲碁の普及活動に力を入れ、2010年に棋士会会長となり(2年間)、同年9月19日「心の唄 10」(木谷実九段の三男・木谷正道が主催するコンサート)「やさしい囲碁入門講座」開催。 武宮正樹: 田中三七一・木谷実に師事。同じ木谷実門下の石田芳夫、加藤正夫と並んで「黄金トリオ」「木谷三羽烏」と呼ばれ、木谷一門黄金時代の一翼を担った。 坂田栄男: 橋本宇太郎不参加)に優勝、また中日五番碁(中日新聞社)で木谷実・宮下秀洋・高川格と連破する。 藤沢朋斎: 1946年に木谷実、岩本薫、橋本宇太郎、藤沢による四強豪戦に出場するが、途中で中止となる。戦後、1946年七段時に「新夕刊」紙で木谷実八段との三番碁を打ち、1勝2敗で敗れた。 長谷川章: 続く第6期の挑戦者決定リーグでも、3勝2敗で木谷実、坂田栄男と同率決戦となったが、坂田に敗れた。 高川格: 第14期(1959年) 4-2 木谷実九段 呉清源: これは呉、藤沢朋斎、橋本宇太郎、坂田栄男、木谷実の各九段と高川本因坊の6人によるリーグ戦で、呉としては既に打ち込んだ相手との互先の対局となったが、第1期は8勝2敗の成績で優勝。 武宮正樹: 1965年 木谷実門下に入門(通い弟子)。 梶原武雄: 木谷実の内弟子の道場が四谷に移転した時、その弟子達の研究会を梶原が始める。 本因坊秀哉: 1938年、木谷実との引退碁を打ち、1940年1月18日、実力制初代本因坊の決定を見ることなく熱海の旅館で死去。 山部俊郎: 1965年本因坊戦リーグでは山部ら4人が4勝2敗(木谷実が病気欠場)でプレーオフとなり、「4人ですることはなんでも山部さんが上手ですよ」という呉清源の予想通り、藤沢秀行、橋本宇太郎を破ってに挑戦者となるが、4連覇中の本因坊栄寿(坂田栄男)に0-4で敗れる。 小林千寿: 日本棋院所属、木谷実九段門下、六段。 前田陳爾: この頃、木谷実の「怪童丸」と並んで、「鬼童丸(奇童丸)」「彗星児」と呼ばれる。 島村俊廣: 翌1956年にはリーグでは、木谷実と5勝1敗の同率で、これも決戦に勝って2年連続挑戦となるが、挑戦手合には2勝4敗で敗れる。 小林千寿: 6歳で木谷実の内弟子となる。 杉内雅男: 1958年の本因坊戦リーグでは、木谷実、坂田栄男、杉内の3人が5勝2敗となり、同率決戦のトーナメントのくじ引きで不戦勝を引き当て、木谷に勝った坂田を破って挑戦者となった。 岩本薫: 1947年の第4期は、初のコミ4目半を導入した五番勝負で、挑戦者の木谷実八段に3勝2敗で防衛。 |
木谷実の情報まとめ
木谷 実(きたに みのる)さんの誕生日は1909年1月25日です。兵庫出身の囲碁棋士のようです。
生涯、棋歴などについてまとめました。現在、病気、家族、結婚、引退に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
木谷実のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)木谷 實(きたに みのる、1909年1月25日 - 1975年12月19日)は、囲碁の棋士。兵庫県神戸市出身、鈴木為次郎名誉九段門下、九段。木谷道場主催。紫綬褒章受章。従四位勲二等瑞宝章。日本棋院囲碁殿堂入り。大倉賞受賞者。 20世紀の棋士の中でも指折りの存在とされており呉清源と共に大正時代から活躍。また、自宅を木谷道場として内弟子をとりタイトルを争うトップ棋士から普及に専念する地方棋士まで多くの棋士を育てた。 弟子たちは1970年代初頭から1990年代半ば頃までタイトル戦線を席巻し、現在孫弟子まで含めた一門のプロ棋士は50人以上、段位の合計は500段を突破している。 弟子に大竹英雄名誉碁聖・加藤正夫名誉王座・二十四世本因坊秀芳・武宮正樹九段・小林光一名誉棋聖・二十五世本因坊治勲・小林覚九段・ほか多数。 若くして天才と呼ばれ、1924年に日本棋院が設立されるとすぐに参加している。そこで中国から来た呉清源と出会い、後に彼は友人でありかつ最大の好敵手となる。この頃、海山太郎が経営する大相撲の二所ノ関部屋に居候して日本棋院へ通っていた。 木谷と呉は1933年から1936年ごろに「新布石」と呼ばれる革新的な序盤理論を発表している。 彼らは1939年から「世紀の対局」とも称される「鎌倉十番碁」を打ったが、その結果は呉の勝利に終わっている。本因坊には3度挑戦して獲得は失敗するなど大タイトルには恵まれなかったため「悲劇の棋士」と呼ばれることもある。また、新布石を初めとした新機軸を多数創案した。 また全国から優秀な少年を集めて育成した「木谷道場」からは多くの大棋士が巣立ち、昭和後半のタイトル戦線をほぼ独占するほどの勢いを示した。 アマチュア指導にも力を注ぎ、土曜木谷会(のち仁風会)を主宰。 大食漢であり、あるときには朝五杯、昼六杯、夜七杯と、どんぶりめしを食いあげたといわれる。1923年(大正12年)の関東大震災には鈴木為次郎の神田の下宿で遭遇し、昼食にかかろうとする時で木谷はおはちを抱えて外に飛び出した(鈴木為次郎談)。 病気で医師や家族が休場をすすめても、なかなか聞き入れず、「偉大なる駄々ッ子」の異名があった。 また、ベテランとなって後、その存在の大きさから「大木谷」と呼ばれた。 妻の美春は長野県の地獄谷温泉にある温泉宿「後楽館」の経営者の長女。棋士の小林禮子は三女。小林光一名誉三冠は婿(禮子の夫)。棋士で女流本因坊などを獲得した小林泉美は孫(禮子の子)。元五冠王の張栩九段は孫の夫(泉美の夫)。棋士の張心澄はひ孫(泉美の子)。 生涯明治42年1月25日、父十作、母菊江の長男として神戸市水木通に生まれる。 1917年 8歳の頃から鳥居鍋次郎に師事。 1918年 鴻原正広、久保松勝喜代に師事。 1917年 父方の祖父没、遺言により父も實を棋士として立たせることを決意。 1921年に12歳で弟子入りの為東京へ、鈴木為次郎の弟子となる。 1922年 鈴木の内弟子となる。 1923年 この年創立の中央棋院に通う。9月関東大震災。12月鈴木とともに大塚の家に世話になる。 1924年(大正13年)15歳2月15日付で入段。7月日本棋院設立。初段棋士として参加。 1926年 春、日本棋院定式手合で二段に昇段。同年夏、推薦により三段に進む。独立した棋正社と日本棋院との間で行われた院社対抗戦に、日本棋院側の代表として出場し、ジゴをはさんで8連勝を果たす。 1927年 (昭和2年)3月、四段に進む。4月、日本棋院大手合開始。東宮甲組四段棋士として参加、5勝3敗、三等に入賞。1月~5月掲載の東京日日新聞主催新進打切碁戦で十人抜きを果たし「怪童丸」と呼ばれる。日本棋院社対棋正社敗退手合で8人抜き。 1928年 春期大手合、二等に入賞。 1929年(昭和4年)呉清源三段と初手合。黒の天元マネ碁。春季大手合全勝優勝。秋期大手合三等に入賞。 1930年 2月15日、五段に昇進。春、鈴木為次郎のもとから独立。妹ともに青山に居をかまえる。 1931年 (昭和6年)1月~4月の「新進打切碁戦」で呉清源四段との持碁打ち直しを含んで五人抜く。10月10日、美春夫人と結婚。麹町に新所帯。 1932年 秋期大手合、三等に入賞。8月西荻窪に転居。 1933年(昭和8年)時事新報主催で呉清源五段と十番碁を打つ。三勝三敗で中止。11月、呉清源とともに後楽館に滞在し新布石を発表。木谷と呉の研究を囲碁ライターの安永一がまとめたものだった。「新布石法」は、またたくまに囲碁界で大ブームとなる。3月長女誕生。 1934年(昭和9年)、呉清源(五段)との第一次十番碁を開始。三勝三敗で、第六局で打ち切りとなる。2月、六段に昇進。5月、呉清源五段らと満州国、中華民国訪問に出発。7月朝鮮を経て帰京。秋期大手合三等に入賞。12月、処女作「布石と定石の統合」を出版。滝野川区中里に移る。12月次女誕生。 1935年 秋期大手合二等に入賞。12月長男誕生。 1936年 1月1日付けで七段の免状授与。4月「勝抜き三番棋戦」で1昭和9年2月以来十人抜きを達成、懸賞金三千円を獲得。秋期大手居準三等に入賞。9月、次女没。 1937年 6月17日「本因坊名人引退碁」挑戦者決定6人リーグ開始。夏、平塚に移る。12月次男誕生。 1938年(昭和13年)4月「名人引退後」挑戦者決定リーグで五戦全勝。6月26日、本因坊秀哉名人との引退碁を開始。打ち継ぎ15回を経て、12月4日に終局。木谷の先番五目勝に終わる。この対局の模様を、川端康成が観戦記に書き、さらにそれをもとに、小説『名人』を執筆した。小説中では木谷は大竹と呼ばれている。いわば引き継ぐ形になった本因坊と名人は木谷本人は獲得できなかったが弟子たちがタイトルを獲得した。 1939年 6月、「木谷・呉清源十番碁」開始。12月、三女禮子誕生。 1940年「木谷・呉清源十番碁」 6局目まで呉の5勝1敗で先相先に打込まれる。第一期本因坊戦(全日本選手権)選士級本戦開始。第三次優勝。12月、父没。 1941年(昭和16年)、呉清源七段との第2次十番碁は、呉の6勝4敗で終わる。 1942年 前期大手合で篠原正美六段を白番で破り、八段の昇段点を獲得。9月1日に呉清源とともに八段に昇進。5月四女誕生。7月、木谷会発会(毎週土曜日) 1944年 6月14・15日応召のため壮行譜として呉清源八段と記念対局。7月3日、朝鮮第22部隊(京城・龍山)に赴く。9月29日、除隊。9月、五女誕生。 1945年(昭和20年)、4月山梨疎開、7月平塚の自宅が戦災のため全焼。10月平塚に戻る。 1946年 藤沢庫之助七段との三番碁。木谷二勝一敗。 1947年(昭和22年)、林有太郎七段と三番勝負を行い第四期本因坊戦の挑戦者に決定。岩本薫和本因坊に挑戦するが、2-3で敗退。三男誕生。 1948年 大手合復活。 1953年(昭和28年)、高川秀格本因坊に挑戦するが、4-2で敗退。 1954年(昭和29年)、高血圧(脳溢血)で倒れ、二年間の療養に入る。 1956年 12月第二期最高位戦リーグで前田陳繭八段を破り、九段に昇進。 1957年(昭和32年)、1月、第一期「高松宮賞・東京新聞社杯争奪・囲碁選手権」三番勝負にて林有太郎七段を破り優勝。3月、第二期最高位戦で坂田栄男九段に挑戦し、3-1でタイトル奪取。4月「日本最強決定戦」で13年ぶりに呉清源九段と対局。 1958年(昭和33年)、第三期最高位戦で島村利博八段の挑戦を3-2で退け、最高位を連覇。3月第五期日本棋院選手権で坂田に挑戦するも敗れる。 1959年(昭和34年)、高川秀格本因坊に挑戦するが、4-2で敗退。最高位戦で坂田栄男の挑戦を受け、3-2で敗退。 1960年(昭和35年)、第7期NHK杯戦優勝。 1961年 5月四谷三栄町に道場を開設。 1962年(昭和37年)、7月、日本棋院棋士会長(1964年6月まで)「木谷一門百段突破記念祝賀会」開催。(8月)。 1963年 12月、二度目の脳溢血発作で倒れ日本棋院で静養し翌朝帰宅。同月31日東大病院に入院。 1964年(昭和39年)、2月50日ぶりに対局に復帰。7月、名人戦リーグ対局中病状悪化、手合いから遠のく。 1965年(昭和40年)、6月、日本棋院理事に選出される。10月、紫綬褒章を受章。 1968年(昭和43年)、7月、美春夫人とともに第3回大倉賞を受賞。第六期プロ十傑戦でファン投票により14位に選ばれたため、病気休場中の身ながら、12月24日、一回戦で本田邦久七段と対局して敗れる。この碁が正規の手合いとしては最終局となる。 1969年 木谷實九段還暦祝賀会。6月理事を辞任。7月日本棋院顧問に就任。 1970年(昭和45年)、「木谷一門二百段突破記念大会」(3月)。 1971年 門下生の石田芳夫七段が「本因坊」を獲得。木谷の宿願を代わって果たす。 1972年 8月、ハワイ棋院創立25周年記念囲碁大会が行われ一門を引き連れてハワイを訪問。 1973年 7月、三度目の脳溢血発作に倒れる。9月茅ヶ崎病院で療養生活。 1974年 3月、三女の禮子と弟子の小林光一が結婚。5月、退院自宅療養。 1974年(昭和49年)、3月木谷道場閉鎖、平塚へ戻る。 1975年(昭和50年)、12月19日心不全のため平塚の自宅で死去。享年66。21日自宅で葬儀。28日、日本棋院葬。従四位勲二等瑞宝章に叙せられる。 1977年 「木谷實全集」刊行開始。6月20日、孫の小林泉美誕生。 1978年 5月、「木谷實全集」完結。 2010年(平成22年)、第7回囲碁殿堂入り。 棋歴最高位戦(1957、1958) 囲碁選手権戦(1957) NHK杯(1959) 本因坊戦挑戦者(1947、1953、1959) 2024/06/13 06:28更新
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kitani minoru
木谷実と同じ誕生日1月25日生まれ、同じ兵庫出身の人
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