本多光太郎の情報(ほんだこうたろう) 冶金学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
本多光太郎と関係のある人
近角聡信: 日本の磁気学は、明治初期に来日したジェームズ・アルフレッド・ユーイングの磁気ヒステリシスの研究以来、常に世界的水準を保ち続け、また、その応用面においても、本多光太郎のKS磁石鋼の発明以来、多くの有名な発明を生んできた。 茅誠司: しかし、茅が師事していた本多光太郎は、茅の考え方に否定的だった。 南方熊楠: 同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、寺石正路、芳賀矢一、山田美妙、本多光太郎などがいた。 三津田健: 風雪 / 鉄の神様本多光太郎(1965年、NHK) - 北条時敬総長 長岡半太郎: その結果、長岡の弟子にあたる本多光太郎や日下部四郎太・愛知敬一・石原純が東北帝国大学教授となった。 細川俊之: 鉄の神様 本多光太郎(1965年、NHK) 長岡半太郎: 本多光太郎 - 物理学者、冶金工学者。 長岡半太郎: 1902年8月4日、長岡と本多光太郎は「鋼、Ni、Co、Ni鋼の磁歪」を発表。 茅誠司: 1923年(大正12年)- 3月 東北帝国大学理学部物理学科卒業、のち本多光太郎に師事 増本量: 1922年(大正11年)東北帝国大学理学部を卒業後、同大学鉄鋼研究所(現:東北大学金属材料研究所)に入所し、本多光太郎の下で金属学の研究を始めた。 田中舘愛橘: 初期の航空研究所には航空学科の教官や理科大学の航空物理学講座担当の教官が所員となり、寺田、田丸卓郎、本多光太郎らが所属して研究に勤しんだ。 八木秀次: 八木は東北帝国大学理科大学の本多光太郎の知遇を得、のちに長岡半太郎に伝え、長岡と本多の推薦で海外留学が八木に命じられた。 村上武次郎: 近重眞澄の推挙で、1916年新たに設立される東北帝国大学に臨時理化学研究所(所長本多光太郎、現:東北大学金属材料研究所)に赴任する。 八木秀次: 10月に興亜工業大学(現・千葉工業大学)の顧問(顧問教授)の本多光太郎の後任として、同大学の相談役に就任。 佐々木孝丸: 鉄の神様 本多光太郎(1965年) - 本多光太郎 三島徳七: 1917年にKS鋼を発明した東北帝国大学の本多光太郎は磁石開発における競争相手であった。 長岡半太郎: 本多光太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。 武井武: この「OP磁石」は、本多光太郎の「KS磁石」や三島徳七の「MK磁石」と共に世界的に有名。 鈴木梅太郎: 長岡半太郎、本多光太郎と共に理研の三太郎と称される。 田中舘愛橘: 愛橘の教え子としては長岡半太郎、中村清二、本多光太郎、木村栄、田丸卓郎、寺田寅彦などがいる。 |
本多光太郎の情報まとめ
本多 光太郎(ほんだ こうたろう)さんの誕生日は1870年3月24日です。愛知出身の冶金学者のようです。
卒業、結婚に関する情報もありますね。1954年に亡くなられているようです。
本多光太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1954年(昭和29年)2月12日)は、日本の物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者。 1932年に日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。長岡半太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。
1881年(明治14年) - 桑子尋常小学校卒業。 1885年(明治18年) - 随念寺高等小学校卒業。 1887年(明治20年) - 上京、大学予備門に入学。 1889年(明治22年) - 第一高等中学校入学。 1894年(明治27年) - 東京帝国大学理科大学物理学科入学。 1897年(明治30年)7月10日 - 東京帝国大学理科大学物理学科卒業。 ドイツおよびイギリス留学。 1911年(明治44年)2月22日 - 東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となる。 1916年(大正5年) - 臨時理化学研究所第二部研究主任。 1917年(大正6年) - KS鋼を発明。 1919年(大正8年) - 東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長就任。 1922年(大正11年) - 東北帝国大学附属金属材料研究所初代所長就任。 1931年(昭和6年)6月15日 - 東北帝国大学総長に就任。 1934年(昭和9年) - 新KS鋼を発明。 1937年(昭和12年)4月28日 - 第1回文化勲章を受章する。 1940年(昭和15年) - 興亜工業大学(現・千葉工業大学)設立に参画。 1942年(昭和17年) - 興亜工大顧問に就任。 1949年(昭和24年)4月1日 - 東京理科大学初代学長に就任。 1951年(昭和26年)- 文化功労者に選ばれる。 1954年(昭和29年)2月12日 - 死去。勲一等旭日大綬章を贈られる。墓所は岡崎市大和町の妙源寺。 KS鋼、新KS鋼はいずれもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼の一種工具鋼(1913年に島根県の安来鉄鋼合資会社の伊部喜作らが国産初の合金化に成功)の一種である磁石鋼という名称になっており、工具鋼が鉄鋼材料で最も硬い部類に属するので、これが現代の硬質磁性材料と呼ばれる由縁である。 1915年、加熱しながら化学反応の測定ができる本多式熱天秤を開発。多くの科学者が利用し業績を上げたことから、2016年に分析機器・科学機器遺産に指定された。 研究組織の運営にも手腕を発揮し、東北大学金属材料研究所の設立に尽力し、同研究所を材料科学の世界有数の拠点に拡充発展させる礎を築いた。 日本金属学会の創設(1937年)を提唱し尽力した。初代会長を務めた。 航空計器材料研究所(のちの電磁材料研究所 =電磁研)初代理事長。
自身が指導している研究者に対しては毎日のように実験の進行状況を「どおだあん(どんな状況だ?)」と言って確認していただけでなく、論文に対しても細かい指示を行っていた。このため、本多が輩出した研究者たちは「本多スクール」の出身者ともいわれる。本多は研究者としてだけでなく研究指導者としてもその才能を発揮していたといえるだろう。 身の回りの細かいことは気にかけず大雑把であったという。
羽織は紐の結び目が左右で大きく偏って結ばれ、雨でも晴れでもいつも洋傘を手に歩いていた。「傘があれば、雨でも濡れんでええわなあ。晴れなら荷物と反対の手にバランスが取れてええわなあ」と語ったと伝えられる。 身なりもこだわらず、着物は古いものをいつまでも長く用い、履物は底が相当磨り減るまで履いた。 雑種の犬を連れて大学に出勤したと伝えられている。 鉄に関して、「鉄」の旧字体「鐵」が「金・王・哉」に分解できることから、「鐵は金の王なる哉」と評した。また、色紙に「今が大切」「つとめてやむな」と揮毫したものが残されている。 小さいころは学校の成績も悪く、大きな体で、年中青ばなをたらし、「はなたらしの光さん」とあだ名をつけられる学校嫌いの子だった。 評定河原球場に5千円の私費を投じ、スタンドを寄贈した。 1936年(昭和11年)に深見篤慶の遺稿が出版された際に、同郷の人物として序文を寄稿している。 1947年(昭和27年)8月6日、昭和天皇が戦後巡幸で東北帝国大学金属材料研究所を視察した際には、研究所の沿革と現状について説明を行った。 1917年(大正6年)5月21日 - 従五位 1940年(昭和15年)5月31日 - 正三位 1940年(昭和15年)7月13日 - 勲一等瑞宝章 英国鉄鋼協会ベッセマー賞 (1922年5月4日) 帝国学士院会員 (1922年12月26日) 米国金属学会名誉会員 (1924年) 米国フランクリン協会エリオット・クレッソン・メダル (1931年5月20日) ドイツ、ゲッティンゲン大学名誉理学博士 (1933年11月) 文化勲章 (1937年4月28日) 東北帝国大学名誉教授 (1940年7月31日) 仙台市名誉市民 (1949年5月2日) 文化功労者 (1951年) 勲一等旭日大綬章 (1954年2月12日) 岡崎市名誉市民 (1961年7月1日) ^ “本多光太郎資料館”. 岡崎おでかけナビ. 岡崎市観光協会. 2022年6月13日閲覧。 ^ Kotaro Honda - Nomination Database ^ “『月報 岡崎の教育』1985年5月号” (PDF). 岡崎市教育ポータルサイト OKリンク. 岡崎市教育委員会. 2022年6月13日閲覧。 ^ 長岡半太郎、幸田露伴ら九人受賞『東京日日新聞』(昭和12年4月17日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p654 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 現 日立金属安来工場冶金研究所 ^ 久保田邦親:「冷間工具鋼の合金設計に関する研究」島根大学博士論文、(2010) ^ 文化勲章拝受の人々-本多光太郎『大阪毎日新聞』(昭和12年4月29日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p657 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ “本学博物館の「本多式熱天秤」が分析機器・科学機器遺産に”. 東京工業大学 (2016年7月26日). 2022年9月12日閲覧。 ^ みやぎ野球史)狭くて本塁打続出、評定河原 - 朝日新聞 ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、392頁。ISBN 978-4-487-74410-7。 ^ 『官報』第1440号「叙任及辞令」1917年5月22日。 ^ 『官報』第4020号「叙任及辞令」1940年6月3日。 ^ 『官報』第4057号「叙任及辞令」1940年7月16日。 ^ 『官報』第3123号、大正11年12月27日。 ^ “仙台市名誉市民”. 仙台市. 2022年6月8日閲覧。 書籍『本多光太郎伝』 (石川悌次郎著、日刊工業新聞社、1964年〔昭和39年〕) 書籍『本多光太郎―マテリアルサイエンスの先駆者』 (平林真編、本多記念会監修、アグネ技術センター刊、2004年〔平成16年〕) 資料館 本多記念室 (宮城県仙台市青葉区片平2-1-1 東北大学金属材料研究所本多記念館内) 資料館 本多光太郎館 (愛知県岡崎市欠町大山田1-1 岡崎市東公園内) - 本多の幼いころの勉強部屋だった家屋を移築したものである。 東北大学史料館(宮城県仙台市青葉区片平2-1-1)において「本多光太郎文書」(1911-20年頃の研究ノート、実験記録、論文原稿等)が保存・公開されている 東北大学金属材料研究所 三島徳七 - MK鋼 森暁 - NK鋼 電磁材料研究所 日本の十大発明家 財団法人本多記念会 本多会館 - まなびの杜(東北大学広報誌)
表 話 編 歴 初代 櫻井房記 1881-1883 初代 寺尾寿 1883-1896 第2代 中村精男 1896-1930 第3代 中村恭平 1930-1934 事務取扱 田中伴吉 1934 第4代 大河内正敏 1934-1945 第5代 平川仲五郎 1945-1949 第6代 本多光太郎 1949-1951 初代 本多光太郎 1949-1953 事務取扱 松月秀雄 1953-1955 第2代 真島正市 1955-1966 第3代 菊池正士 1966-1970 第4代 小谷正雄 1970-1982 第5代 吉識雅夫 1982-1990 第6代 西川哲治 1990-2001 第7代 岡村弘之 2002-2005 第8代 竹内伸 2006-2009 第9代 藤嶋昭 2010-2018 第10代 松本洋一郎 2018-2021 事務取扱 岡村総一郎 2021-2022 第11代 石川正俊 2022- 東京理科大学 人物 カテゴリ メディア 表 話 編 歴 職務代行者 佐藤昌介 1907-1910 事務取扱 岡田良平 1911 初代 澤柳政太郎 1911-1913 第2代 北条時敬 1913-1917 事務取扱 小川正孝 1917 第3代 福原鐐二郎 1917-1919 第4代 小川正孝 1919-1928 第5代 井上仁吉 1928-1931 第6代 本多光太郎 1931-1940 第7代 熊谷岱蔵 1940-1946 第8代 佐武安太郎 1946-1947 第8代 佐武安太郎 1947-1949 第9代 高橋里美 1949-1957 第10代 黒川利雄 1957-1963 第11代 石津照璽 1963-1965 事務取扱 元村勲 1965 第12代 本川弘一 1965-1971 事務取扱 水野弥彦 1971 第13代 加藤陸奥雄 1971-1977 第14代 前田四郎 1977-1983 第15代 石田名香雄 1983-1989 第16代 大谷茂盛 1989-1990 事務取扱 吉永馨 1990 第17代 西澤潤一 1990-1996 第18代 阿部博之 1996-2002 第19代 吉本高志 2002-2006 第20代 井上明久 2006-2012 第21代 里見進 2012-2018 第22代 大野英男 2018-2024 第23代 冨永悌二 2024- 学部長/主事 山形仲芸 1888/1888-1894 山形仲芸 1894-1901 心得/校長 山形仲芸 1901/1901-1912 山形仲芸 1912-1918 吉村寅太郎 1887-1894 吉村寅太郎 1894-1897 澤柳政太郎 1897-1898 菊池謙二郎 1898-1900 中川元 1900-1911 三好愛吉 1911-1915 武藤虎太 1915-1921 岡野義三郎 1921-1928 玉虫一郎一 1928-1932 阿刀田令造 1932-1943 野口明 1943-1949 事務取扱/校長 萩庭三寿 1949/1949-1950 中川謙二郎 1906-1910 事務取扱/校長 中川元 1910-1911/1911-1912 神谷竜彦 1912-1915 心得/主事 新保徳寿 1915/1915-1921 新保徳寿 1921-1934 鶴見一之 1934-1944 鶴見一之 1944-1945 田中正三郎 1945-1948 事務取扱/校長 内田黍郎 1948-1949/1949-1951 雀部顕宜 1926-1933 三矢英松 1933-1944 事務取扱 飯野哲二 1944-1945 羽生隆 1945-1949 高柳真三 1949-1951 近藤正二 1939 石川哲郎 1939-1941 八木精一 1941-1944 佐武安太郎 1944 佐武安太郎 1944-1946 佐藤彰 1946-1947 佐藤彰 1947-1948 黒川利雄 1948-1952 カテゴリ メディア 東北大学 東北大学 源流・前身諸機関 人物 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research zbMATH ドイッチェ・ビオグラフィー IdRef 本多光太郎 19世紀日本の物理学者 20世紀日本の物理学者 日本の冶金学者 日本の発明家 東北大学総長 東北大学の教員 千葉工業大学の教員 東京理科大学学長 東京理科大学の教員 東北大学金属材料研究所の人物 理化学研究所の人物 電気磁気材料研究所の人物 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 日本学士院会員 帝国学士院会員 日本学士院賞受賞者 文化勲章受章者 正三位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 三河国の人物 愛知県出身の人物 1870年生 1954年没 経歴が年譜のみになっている人物記事 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2015年1月-4月 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 ZBMATH識別子が指定されている記事 DTBIO識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2025/01/22 17:51更新
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