柏原純一の情報(かしわばらじゅんいち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


柏原 純一さんについて調べます
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柏原純一と関係のある人
藤田平: 12月の契約更改では新庄が球団への要求を吐き出し、「ここまで来たのは2人のおかげ」という中村前監督の退任、柏原純一二軍打撃コーチの解任も不満だが「理解できない交代や抹消や昇格がある」と藤田の采配を批判。 津末英明: 当時の日本ハムの一塁手には柏原純一がおり、あまり出番に恵まれなかった。 野村克也: 南海の選手のうち、野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊がトレードを主張した。 藤原満: 1974年には柏原純一と併用されて出場機会が減少する。 大沢啓二: 1978年に南海から日本ハムへ移籍した柏原純一は「細かいことは気にせず、これから頑張ってくれよ。 杉田久雄: 翌1977年も3勝するが、同年オフの柏原純一移籍騒動に巻き込まれる形になり、柏原との交換トレードで、小田義人と共に南海に移籍。 古葉竹識: 二軍時代は藤原満・片平晋作・柏原純一を指導し、古葉は「現役時代は一度も2軍に落ちたことがなかったので、若手を鍛える日々はとても新鮮でした」と語っている。 伊藤四郎: 引退後は鶴岡一人に請われて南海の東海地区常駐スカウトに就任、のちチーフスカウトを務め、1997年に退任するまで新井宏昌・柏原純一・斉藤和巳ら、多くの名選手を獲得した。 中田翔: 球団では張本勲(1963年)、柏原純一(1983年)に続いて3人目の全試合4番出場となった。 新庄剛志: 自身は実行3日前の広島戦で敬遠された際にバットを出せば届くのではないかと感じ、予め柏原純一打撃コーチ(現役時代に敬遠球を打ち本塁打にした経験がある)、尻無浜啓造打撃投手と大きく外された投球を打つ練習を行っていた。 鶴岡一人: その後、沙知代派の江夏豊と柏原純一が球団に抗議して移籍を要求し、江夏は広島、柏原は日本ハムへとトレードで移籍した。 野村克也: その言葉に説得力がない」、打撃コーチの柏原純一は「外国人選手に対してものを言えない。 野村克也: 当時阪神球団専務だった野崎勝義によると、野村が連れてきたコーチはヘッドコーチに松井優典、投手コーチに八木沢荘六、打撃コーチに柏原純一の3人である。 小田義人: 1977年シーズンオフに柏原純一との交換トレードで杉田久雄と共に南海ホークスへ移籍、南海でも1年目はレギュラーとして102試合に出場するが、その後は片平晋作にポジションを譲る。 河野旭輝: ^ スポーツニッポン2022年3月26日11版、柏原純一の我が道㉕、引退と同時、フロリダでコーチ修行 河野旭輝: 阪神2軍監督時代コーチだった柏原純一は「コーチとしてイロハを教えてくれる人もいた。 広瀬叔功: 就任後は野村解任騒動でバラバラになった選手の気持ちをまとめようと「団結と和」を基本理念に掲げてスタートを切ったが、広瀬が監督に就任した段階で江夏豊、柏原純一は野村に同調し、球団のやり方には納得できないとして江夏が広島東洋カープへ、柏原は日本ハムファイターズへ移籍した。 古屋英夫: 同年の打順は、ボビー・ミッチェル、柏原純一、サム・ユーイングの後の六番を主に務めた。 高畠導宏: 1977年には野村監督解任に伴い江夏豊、柏原純一と共に球団に反旗を翻し、1978年からは選手専任となった野村と共にロッテへ移籍。 島野育夫: 2軍コーチだった柏原純一は「1軍に送り出した亀山と新庄にコーチとして思い切りプレーできる環境をつくったのは島野育夫さんだった。 トニー=ソレイタ: しかし、MVPは、3勝6敗25S防2.85の江夏豊、.310・16本・81打点の柏原純一に次いで3位という結果であった。 トミー=クルーズ: 在籍時は3番クルーズ、4番トニー・ソレイタ、5番柏原純一(柏原とクルーズは入れ替えで3・5番を務めた)のクリーンナップを組んだが、ソレイタや柏原は後にクルーズについて「私生活では良い奴であり、野球では一切、自分に妥協を許さなかった選手」と語っている。 鈴木啓示: 2500奪三振:1979年4月19日、対日本ハムファイターズ前期1回戦(日生球場)、8回表に柏原純一から ※史上6人目 古屋英夫: 1985年は高田繁が監督に就任し、5月に柏原純一が死球を受けて欠場したのを契機に津末英明が代わって一塁手を務める機会が増えた。 定岡智秋: 藤原満に同期の鶴崎茂樹・柏原純一・矢部徳美などの若手内野手が一軍の座を狙っていたが、3年目の1974年9月に一軍初昇格。 野村克也: 柏原純一が一塁手のレギュラーに定着。 永射保: 柏原純一(日本ハム)に敬遠球を本塁打にされたことがあった。 |
柏原純一の情報まとめ

柏原 純一(かしわばら じゅんいち)さんの誕生日は1952年6月15日です。熊本出身の野球選手のようです。

母親、引退、事故、テレビに関する情報もありますね。柏原純一の現在の年齢は72歳のようです。
柏原純一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 柏原純一の野球魂 柏原 純一(かしわばら じゅんいち、1952年6月15日 - )は、熊本県八代市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者・評論家・YouTuber。 実家はイグサ農家で、母親は代用教員をしていたという家庭だった。4人きょうだいの第3子(姉、兄、妹がいる)。八代東高校では3年次の1970年、春の選抜にエースとして出場。1回戦で日大三高の渡部良克(日大)と投げ合うも0-2で完封負けを喫した。同年の夏の甲子園県予選では、準々決勝で熊本一工に延長15回の末、敗退した。 同年のドラフトで南海ホークスから8位指名を受け、外野手として入団。その年の秋季キャンプでは袴のようなダブダブのジャージ姿で現れ、当時評論家として視察に来ていた青田昇に「あれは本当に野球選手か。早く地元に帰したらどうか」と酷評されたが、2年後一軍のレギュラーとなり、大洋の監督に就任した青田の前に野村克也選手兼任監督が柏原を連れて行った。「プロに二軍があるとは知らなかった」というほど、何も知らずに大阪へ来たという。 1973年に一軍に上がり、内野手に転向。 1974年には藤原満と併用され、三塁手として54試合に先発出場するが、ドン・ブレイザーヘッドコーチに失格の烙印を押される。 1975年からは一塁手に回る。 1976年にはレギュラーを獲得して規定打席(22位、打率.260)にも達した。 1977年に連続して2桁本塁打を打ち、南海のホープとして期待される。南海時代、ボサボサ頭で、合宿所の畳部屋に一升瓶と共に寝転がっていた姿を見た漫画家の水島新司が、柏原のその風貌を「あぶさん」のモデルの一人にした。柏原は、1977年シーズン途中での野村の解任に際して球団に反旗を翻し、「ロッテじゃなければ引退する」などといった発言まで出して野村と同じロッテオリオンズへの移籍を直訴したが認められなかった。 1978年に小田義人、杉田久雄との交換トレードで日本ハムファイターズへの移籍が決定する。南海、日本ハムの両球団が対象選手の統一契約書のみの交換でトレードを成立(本人の合意を取り付けないままの書類上による強制トレード:プロ野球史上2例目)させたため、任意引退を覚悟した上で柏原も移籍を拒絶したが、野村夫妻に説得されるなどして最終的には承諾、移籍した。日本ハムでは移籍1年目から4番を任され、全試合に出場して共にリーグ5位の24本塁打、84打点と自身最高の成績を記録し、11年ぶりのAクラス入りに貢献した。 1980年から1984年にかけて5年連続全試合出場を果たし、1980年には自己最高の34本塁打(リーグ7位)、96打点(リーグ5位)を記録。選手会長を務めた1981年には打率.310(リーグ8位)、16本塁打、81打点の成績を挙げ19年ぶりのリーグ優勝に貢献する。巨人との日本シリーズでは、19打数8安打2打点2本塁打と活躍した。 1980年6月、首都高速道路を走行中に衝突事故を目撃し持っていたバットでドアガラスを割り、事故車両に閉じこめられていた負傷者らを救出した。 1981年7月19日の西武ライオンズ戦(平和台)では、永射保から敬遠球を大根斬りしたような打法で本塁打を放った。柏原ばかりがクローズアップされる敬遠からの本塁打ではあるが、最初から本塁打を狙っていたわけではなく、きっかけには柏原の同僚だったトニー・ソレイタの存在が関わっていた。その場面は6回裏2死三塁、打者が柏原で、次打者のソレイタが永射を大の苦手としており、西武ベンチは空いていた一塁を埋めるために柏原を敬遠してソレイタで抑える作戦で考えていたが、永射と捕手の吉本博はベンチの指示に従い、永射は立ち上がっていた吉本に1球目と2球目は外角への投球をしていた。「本塁打狙いより三遊間を抜ける安打を打てば1点は入るだろう」と事前に考えていた柏原が「永射の敬遠球が内角に来たら打ってやろう」と思い、永射の3球目が甘くなり内角気味に来たところ、バットをグリップエンドからしっかり握って思い切り振り込んだ結果、打球がバットの真芯に当たり左中間方向に大きく飛び、外野のフェンスを越えてスタンドに入ってそのまま本塁打となった。これは2017年12月2日にNHK BS1「球辞苑」で敬遠がテーマになった際、出演した柏原がこの本塁打についていろいろと語っていて、失敗をするリスクはなかったとも語っていた。この経験は後に阪神タイガースで指導した新庄剛志にも生かされた。ただ、2018年から日本プロ野球でも申告敬遠のルールが適用されているため、敬遠球を本塁打にしたプロ野球選手は巨人の長嶋茂雄と唯一、外野スタンドまで打球を飛ばした柏原の2人のみとなる。 1985年に就任した高田繁監督の構想から外れる。 1986年に阪神に金銭トレードで移籍。同年は主に左翼手として起用されるが、シーズン終盤には掛布雅之の故障離脱に伴い三塁手もこなした。規定打席には届かなかったが打率.313、17本塁打を記録。 1987年は打撃が低迷。 1988年には村山実監督による若手への世代交代策によって出場機会も減少。同年引退。引退を判断したのはランディ・バースの守備固めで一塁で1試合2失策を記録し、守備には自負があったからこれがこたえ限界だと思って自分で判断したと述べている。 引退後は阪神で一軍守備・走塁コーチ(1989年)→二軍打撃コーチ(1990年 - 1995年)を務め、在任中は新庄を育て、亀山努を1軍に送り出したが、解任。 阪神退団後は阪神コーチで一緒だった島野育夫ヘッドコーチに声掛けで中日ドラゴンズ一軍打撃コーチ(1996年 - 1997年)を務め、本拠地のナゴヤ球場最終年とナゴヤドーム元年に在任をしていたが、狭いナゴヤ球場から広くなったナゴヤドームに移転してからのチーム打率・得点がリーグ最下位、安打もリーグ5位と成績が前年より低迷をしてしまい、その責任を取らされる形で退団。 中日退団後は朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ・サンテレビ野球解説者(1998年)を経て、1999年から2001年まではかつての恩師である野村に請われ、古巣・阪神の一軍打撃コーチを務めたが、3年連続チーム打率・得点がリーグ最下位に低迷。2001年10月8日解任。当時球団社長の野崎勝義によると「打撃担当の柏原コーチが外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手、例えば人気選手の新庄選手しか指導しない。それ以外の選手に熱意を持った指導がない」と語り、当時オーナーの久万俊二郎も「打撃コーチは能力的に無理なのではないか?」と指導力を問題視された。 阪神退団後はTigers-ai野球解説者・サンケイスポーツ(関西版)野球評論家(2002年 - 2003年)を経て、2004年に日本ハムチーム強化部プロスカウトに就任。2006年よりアマ担当「西日本統括スカウト」となり、2014年からは一軍打撃コーチとして13年ぶりに現場復帰。自身29年ぶりにファイターズのユニフォームに袖を通すこととなり、大谷翔平を指導し、2015年10月13日に退任が決まり、2016年からはチーム統轄本部プロスカウトに就任。2017年12月27日に日本ハムから同シーズン限りでの退団が発表され、2018年からは北海道テレビ・GAORA野球解説者。 南海時代、ナイター前の休息時に大阪にある自宅マンションの近所の小学生達に請われてキャッチボールや簡単な野球の指導もした。夕方になり辺りが暗くなった際には、自宅にその近所の子供達を呼び、柏原の奥さんが作った晩ご飯を振る舞った。 日本ハム時代には、ブラザーの電子レンジのCMに夫婦で出演したことがある。掛布雅之も著書の中で、「安芸キャンプの宿舎のロビーにいた美人を大野久がナンパしようとしたところ、『いつもお世話になっています。柏原の妻です』と挨拶され、慌てて逃げた」というエピソードを紹介している。 日本ハム在籍当時はまだトランペットを使う応援がなく、笛を使った応援がされていたが柏原のみリズムの異なる「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった。柏原の阪神移籍後、トランペット応援が主流でありながらも、柏原は個人応援歌は作成されずに笛応援が継続されていた。 各年度の太字はリーグ最高 ベストナイン:3回 (一塁手部門:1978年、1981年、1982年) ダイヤモンドグラブ賞:4回 (一塁手部門:1978年、1979年、1981年、1982年) オールスターゲームMVP:1回 (1982年第2戦) パ・リーグプレーオフMVP:1回 (1981年) 後楽園MVP:1回 (1981年) 初出場:1973年8月9日、対日拓ホームフライヤーズ後期3回戦(大阪球場)、3回裏に桜井輝秀の代走として出場 初安打:同上、6回裏に藤原真から 初盗塁:同上、6回裏に二盗(投手:藤原真、捕手:加藤俊夫) 初先発出場:1973年8月10日、対太平洋クラブライオンズ後期4回戦(平和台球場)、7番・二塁手として先発出場 初本塁打・初打点:1973年8月11日、対太平洋クラブライオンズ後期6回戦(平和台球場)、9回表に三輪悟からソロ 100本塁打:1980年5月19日、対阪急ブレーブス前期9回戦(阪急西宮球場)、3回表に三浦広之から左越3ラン ※史上109人目 150本塁打:1982年5月9日、対ロッテオリオンズ前期9回戦(後楽園球場)、10回裏に仁科時成から左越サヨナラソロ ※史上64人目 1000試合出場:1982年6月16日、対阪急ブレーブス12回戦(阪急西宮球場)、4番・一塁手として先発出場 ※史上229人目 1000安打:1982年8月1日、対阪急ブレーブス後期6回戦(札幌市円山球場)、2回裏に今井雄太郎から左越ソロ ※史上124人目 200本塁打:1984年5月18日、対南海ホークス7回戦(後楽園球場)、8回裏に山内孝徳からソロ ※史上43人目 1500試合出場:1986年8月15日、対中日ドラゴンズ20回戦(ナゴヤ球場)、9回表に吉竹春樹の代打として出場 ※史上83人目 オールスターゲーム出場:3回 (1978年、1979年、1982年) 53 (1971年 - 1974年) 9 (1975年 - 1977年) 6 (1978年 - 1985年) 2 (1986年 - 1988年) 85 (1989年 - 1995年) 75 (1996年 - 1997年) 77 (1999年 - 2001年) 71 (2014年 - 2015年) スーパーベースボール- 出演していたABCテレビのプロ野球中継現行統一タイトル。 ABCフレッシュアップベースボール- 出演していたABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル。 ^ スポーツニッポン 2022年3月6日 26面「柏原純一『我が道』(6)」 ^ “【11月7日】1985年(昭60) 日本ハム・柏原、名簿に名前なし 100%トレード”. SPORTS NIPPON NEWSPAPERS. 2011年10月28日閲覧。 ^ “「あぶさん」モデルの元南海・柏原純一氏も「BIG BOSSを描いてほしかった」と水島さん惜しむ”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. (2022年1月17日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/01/17/kiji/20220117s00001000236000c.html 2022年1月17日閲覧。 ^ スポーツニッポン 2022年3月17日 20面「柏原純一『我が道』(16)」 ^ 山崎武は乳幼児を火事から救出/メモ 2013年12月9日8時3分 日刊スポーツ ^ 前年の1980年にソレイタの5打席連続本塁打を阻止した時の投手が、左キラーの永射であったこともあり、通算打率が1割台で本塁打が0のソレイタの苦手意識は相当なものであった。 ^ 打たれた永射はその当時は柏原と同僚で後に西武で同僚となる江夏豊にこの本塁打について指摘をされていたという。 ^ 阪神新庄が敬遠球打った!ビックリサヨナラ打/復刻野球 : 日刊スポーツ、2016年6月12日閲覧。 ^ 長嶋の場合は1960年7月17日に大洋戦(後楽園)で敬遠球を打ちランニング本塁打を記録。 ^ 当時同僚だった田尾安志によると「オープン戦の終盤、東京での試合の前にミーティングで、監督が『何とか、この苦境を打開したい』とベテランに意見を求めた。最初に指名された掛布は『監督の考えが選手に伝わりにくい感じがします』と話した。新聞を通じてしか監督の考えを知ることが出来ない状況を述べたものだった。次に柏原さんが『ベテランでも、悪かったら叱って下さい』と言い、3番目に意見を求められた私は『勝つための野球をしてほしいです』と答えたところ、場が静まり返った」とのことだった。(日本経済新聞 2019年2月24日『球場が呼んでいる(田尾安志)首脳陣・フロントが押さえたい大物新人のトリセツ』より) ^ スポーツニッポン2022年3月26日、11版、柏原純一の我が道㉕ 引退と同時、フロリダでコーチ修業 ^ わがままの果ての迷走 「新庄引退」のカラ騒ぎ ^ 阪神、松井ヘッドら3コーチ解任へ、時事通信2001年10月8日 ^ 野崎勝義著「ダメ虎を変えた!ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年」朝日新聞出版、2011年、P72 ^ 北海道日本ハムファイターズ公式サイト|2014コーチングスタッフについて ^ 北海道日本ハムファイターズ公式サイト|コーチ退任のお知らせ ^ 退団のお知らせ - 北海道日本ハムファイターズ・オフィシャルサイト 2017年12月27日 熊本県出身の人物一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 阪神タイガースの選手一覧 個人年度別成績 柏原純一 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 柏原 純一 強い信念と精神力で 生き抜いた野球人生本間勝交遊録 - 月刊タイガース 柏原純一の野球魂 - YouTubeチャンネル 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 中沢伸二 一 柏原純一 二 B.マルカーノ 三 島谷金二 遊 真弓明信 外 福本豊 / 簑田浩二 / 佐々木恭介 指 土井正博 表 話 編 歴 投 村田兆治 捕 梨田昌崇 一 柏原純一 二 落合博満 三 有藤道世 遊 石毛宏典 外 福本豊 / 島田誠 / テリー.W 指 門田博光 表 話 編 歴 投 工藤幹夫 捕 中沢伸二 一 柏原純一 二 落合博満 三 スティーブ.O 遊 石毛宏典 外 福本豊 / 新井宏昌 / 栗橋茂 指 T.ソレイタ 表 話 編 歴 1972 大杉勝男 1973 C.ジョーンズ 1974 W.パーカー 1975 加藤秀司 1976 加藤秀司 1977 加藤秀司 1978 柏原純一 1979 柏原純一 1980 小川亨 1981 柏原純一 1982 柏原純一 1983 片平晋作 1984 山本功児 1985 山本功児 1986 ブーマー 1987 ブーマー 1988 清原和博 1989 愛甲猛 1990 清原和博 1991 J.トレーバー 1992 清原和博 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 J.フランコ 1996 片岡篤史 1997 髙木大成 1998 髙木大成 1999 小笠原道大 2000 小笠原道大 2001 小笠原道大 2002 小笠原道大 2003 福浦和也 2004 松中信彦 2005 福浦和也 2006 小笠原道大 2007 福浦和也 2008 A.カブレラ 2009 髙橋信二 2010 小久保裕紀 2011 小久保裕紀 2012 稲葉篤紀 2013 浅村栄斗 2014 T-岡田 2015 中田翔 2016 中田翔 2017 銀次 2018 中田翔 2019 内川聖一 2020 中村晃, 中田翔 2021 中村晃 2022 中村晃 2023 中村晃 2024 山川穂高 表 話 編 歴 1位:島本講平 2位:矢部徳美 3位:門田純良 4位:池内豊 5位:阪田隆 6位:黒田正宏 7位:古川治夫 8位:柏原純一 9位:青木倫一(入団拒否) 10位:瀬戸内忠重(入団拒否) 日本の野球選手 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 野球解説者 日本の野球指導者 中日ドラゴンズ関連人物 日本の男性YouTuber 元NPB選手のYouTuber 熊本県出身のスポーツ選手 1952年生 存命人物 外部リンクがリンク切れになっている記事/2017年9月 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2025/04/01 21:43更新
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kashiwabara junichi
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