皇后美智子の情報(こうごうみちこ) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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皇后美智子と関係のある人
三浦大知: 上皇明仁作詞・上皇后美智子作曲の「歌声の響」を記念演奏した。 皇太子妃雅子: 義母の上皇后美智子が雙葉小学校附属幼稚園に通園していた当時の担任教師が開設した塾に通い、編入学試験の勉強を一年する。 石川浩司: 父は国家公務員(キャリア官僚)、母は上皇后美智子の学友という家庭に長男(他に弟が二人)として出生。 須賀敦子: 1951年、聖心女子大学第一期生として文学部外国語外国文学科を卒業(同大第一期生には中村貞子=緒方貞子、後輩に正田美智子=上皇后美智子がいた)。 安西正夫: 同妻 恵美子(元日清製粉名誉会長正田英三郎の次女、上皇后美智子の妹) 眞子内親王: 上皇と上皇后美智子の初孫。 杉山愛: 0-6, 1-2としたところで体調不良による棄権となる不本意な結果に終わったが、試合後には長年活躍した杉山を労いたいとの考えから観戦に訪れていた上皇后美智子と懇談し労いの言葉をかけられた。 皇太子徳仁親王: 即位後の1年間で、両親の上皇明仁・上皇后美智子から公務を引き継ぎ、皇后同伴での日本各地への行幸啓(式典等含む)をした。 古谷綱正: 従兄弟(伯父である室田小一郎の娘)は、衆議院議員や日本冶金工業社長などを務めた森暁(昭和電工創業者である森矗昶の長男)の前妻で(その妹は吉田茂の側近である福田篤泰に嫁いだ)、また森暁の妹が安西正夫に嫁ぎ、正夫の長男・安西孝之が日清製粉グループ本社会長正田英三郎の次女・恵美子を妻に迎え、さらに英三郎の長女が上皇后美智子なので、古谷家は室田家・森家・安西家・正田家を通して天皇家の縁戚となっている。 緒方貞子: なお、緒方と平成の皇室とは、上皇后美智子の母校が自身と同じ聖心女子大学であるという共通点がある。 宇野哲人: 1960年代には、「浩宮徳仁」と「礼宮文仁」の命名の儀にも携わっており、皇后美智子の依頼で幼少の二人に『論語』を進講してもいる。 眞子内親王: 天皇明仁と皇后美智子にとって初孫であった。 正田英三郎: 上皇后美智子の父であり、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の母方の祖父(外祖父)にあたる。 菅原やすのり: 2005年 - 上皇后美智子を迎えて、映画「マザーテレサ」プレミアムステージ出演。 正田貞一郎: 上皇后美智子の祖父。 愛子内親王: 2019年(令和元年)5月1日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行(前日の2019年(平成31年)4月30日に祖父の天皇明仁が退位し上皇となり、祖母の皇后美智子は上皇后となる)により父の皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位、母の皇太子妃雅子も皇后となる。 昭和天皇: 2014年(平成26年)8月21日、昭和天皇の言動を公式記録した「昭和天皇実録」を宮内庁が24年かけて完成させ、天皇明仁(当時)及び皇后美智子(当時)に奉呈した。 紀宮清子: 上皇明仁、上皇后美智子の長女。 正田建次郎: 上皇后美智子は建次郎の姪にあたる。 正田修: 上皇后美智子の弟。 渡辺みどり: 皇后美智子さま 愛と喜びの御歌(講談社/2007年11月) 今上天皇: ただ、上皇后美智子は平成時代に義父にあたる昭和天皇を「先帝陛下(せんていへいか)」と公の場では呼んでいた他、「○○(元号)の天皇陛下」や明治天皇には「 鮫島有美子: 2019年2月24日、国立劇場で挙行された「天皇陛下御在位三十年記念式典」の記念演奏に於いて、当時の皇后(上皇后美智子)作曲の子守歌「おもひ子」を吉野直子(ハープ)の伴奏で独唱した。 紀宮清子: 清子内親王は長らく内廷皇族として両親の天皇明仁及び皇后美智子の傍らにあって良き相談相手でもあり、特に母親の美智子上皇后は「内親王の存在を心の支えにしていた」との趣旨の言(内親王降嫁前の皇后記者会見)が伝わる。 曽野綾子: 大学の後輩である上皇后美智子とは親交が深く、三浦の生前から夫婦ぐるみで親しかった。 上原善広: 上原が指摘した皇族に嫁いだ女性とは上皇后美智子(日清製粉創業者正田貞一郎の孫)である。 皇太子徳仁親王: また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「『皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい』との大御心を宮内庁に伝えた」とされる。 織田幹雄: 一方で二人は、上皇明仁の学友(正雄は学習院中等科で同級生、和雄は2歳後輩のテニス仲間であり常陸宮正仁親王と同級生)として知られ、上皇后美智子とを繋いだ関係者でもある。 紀宮清子: 同年2月に両親である天皇明仁及び皇后美智子(いずれも当時)に紹介した。 前田陽一: 実妹の神谷美恵子は皇太子妃(現在の上皇后美智子)の相談者だったので、時期は異なるが(昭和期に)兄妹で平成期の天皇・皇后の補佐役を務めたことになる。 |
皇后美智子の情報まとめ
皇后 美智子(こうごう みちこ)さんの誕生日は1934年10月20日です。東京出身の皇族のようです。
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皇孫
生家・正田家
曽祖父:正田作次郎 - 外国米輸入商。 祖父:正田貞一郎 - 日清製粉グループ本社創業者。貴族院議員、東武鉄道会長、如水会(一橋大学)理事長、正五位勲三等・旭日中綬章。 祖母:正田きぬ - 正田醤油社長・文右衛門の長女。弟・卓治はオリエンタル酵母工業会長。 父:正田英三郎 - 日清製粉名誉会長。 母:正田富美子 - 多久藩士・副島家出身。中支那振興会社常務理事・副島綱雄の長女、英国租界(現・中国上海)生まれ。 兄・正田巌 - 元日本銀行監事。夫人は濱口雄幸の長男濱口雄彦の娘・淑。 妹・恵美子 - 昭和電工社長・安西孝之の夫人。 弟:正田修 - 日清製粉グループ本社取締役会長、東武鉄道監査役、花王取締役。夫人は華族・野津道貫侯爵の孫。 伯父:正田建次郎 - 数学者。大阪大学6代総長、武蔵大学学長、勲一等瑞宝章。 従兄:正田彬 - 慶應義塾大学名誉教授、上智大学教授。公正取引委員会顧問。 従兄:脇村春夫 - 東京大学助教授、東洋紡績専務。 従兄:水島恵一 - 文教大学学長。瑞宝中綬章。 『正田貞一郎小伝』9 - 21頁によると、
後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人となり、これが館林における正田家の始まりである。それは、延享、寛政のころといわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これを襲名した。 正田家は代々「米文」の暖簾のもとに米問屋を家業とし、上州館林藩および近郊きっての富商であった。「米文」の名声は江戸はいうまでもなく、大阪方面まで聞こえていた。弘化のころ(1844年 - 1847年)には名主の職にあり、名字帯刀を許されていた。 文政元年(1818年)7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家「中興の祖」といわれている。文右衛門は明治6年(1873年)米穀商を辞め、醤油醸造業を始めたという。 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(角川書店、2002年)385-386頁によると、
郷土史家によれば「正田家の祖先は源義家の孫、新田義重の重臣、生田隼人までいきあたる」というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(天和2年没)からである。 この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を襲名するに至っている。江戸時代は「米文」の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島の米相場を動かす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した米問屋であったが、明治6年、正田英三郎の曾祖父にあたる三代目文右衛門は突然家業をやめ、「亀甲正」という商号で新しく醤油醸造業を始めたという。 美智子が家族とともに、出生から結婚までの大半を過ごした正田英三郎邸は、清水組によって設計・建設され1933年(昭和8年)10月に竣工した木造2階建て和洋折衷洋館。戦後の複合的な増築により屋根などの装飾が複雑に重なり、天窓などのモダニズム建築の要素も加えられた。近世イギリスのテューダー朝形式の英国風の屋根や、当時流行した木組みを表面に見せるハーフティンバー様式も取り入れたデザインは上流邸宅の典型。邸内は1階客室兼書斎の中央にマントルピースを備え、居間にはシャンデリアも下がり、和室も複数存在した。美智子の成婚後は、里帰り時の自動車が玄関に直接横付けできるよう、門、車庫周りを大きく改造した。 2001年6月、前年の英三郎死去に伴う相続税支払いのため、土地建物ともに国に物納され国有財産となる。昭和史の舞台であり稀少な戦前の邸宅が失われることを憂いた地域住民「旧正田邸を守る会」組織や西村眞悟衆議院議員らによって保存運動が展開され、ナショナル・トラスト(国民環境基金)方式によって、保存活用を図りたいと望む動きは全国に広がり、軽井沢町が移築・復元・保存を財務省に申し出るが、「皇后さまご自身は保存を望まれないご意向」が宮内庁長官から伝えられ、築70年目の2003年(平成15年)3月、解体された。跡地には2004年(平成16年)8月26日、品川区立公園であるねむの木の庭が開園した。園名は、美智子が聖心女子学院高等科時代に作った詩「ねむの木の子守歌」にちなんで命名された。竣工時の旧正田邸の門を模した正門、正田邸にあった庭石などがあり、暖炉の煙突をモチーフにしたガス灯などが配されている。園内には、皇后が歌会始で詠んだやまぼうし、ねむの木、ライラックや、美智子のお印である白樺などが植えられている。また、皇太子妃時代に、イギリスから贈られた薔薇プリンセス・ミチコも、初夏と秋に咲いている。 勲一等宝冠章(宝冠大綬章) - (1959年〈昭和34年〉4月10日) オーストリア:オーストリア共和国功績勲章大星章(ドイツ語版) - (1999年〈平成11年〉) ベルギー:レオポルド勲章大十字章(英語版) - デンマーク:エレファント勲章 - エチオピア帝国:シバの女王勲章(イタリア語版) - ドイツ:ドイツ連邦共和国功労勲章特等大十字章 - リトアニア:ヴィータウタス大公勲章大十字章(英語版) - ルクセンブルク:ナッサウ家の金獅子勲章(英語版) - マレーシア:ラム・クラウン勲章(英語版) - ネパール王国:
ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハメダル オランダ:オランダライオン勲章大十字騎士章(オランダ語版) - ノルウェー:聖オーラヴ勲章 - フィリピン:ガブリエラ・シラン勲章(英語版) - ポーランド:白鷲勲章(英語版) - (2002年〈平成14年〉7月3日) ポルトガル:
サンティアゴ・ダ・エスパーダ軍事勲章大十字章(英語版) - (1993年〈平成5年〉12月2日) スペイン:
カルロス3世勲章(スペイン語版) - (1994年〈平成6年〉10月7日) スウェーデン:セラフィム勲章(英語版) - ギリシャ:救世主勲章大十字章(英語版) - タイ:大チャクリー勲章 - モロッコ:ウイサム・アラウアイト勲章 日本赤十字社名誉総裁:1989年(昭和64年)1月7日 – 2019年(平成31年)4月30日 国際児童図書評議会名誉総裁 国際児童図書館名誉会員 『ともしび-皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年12月 『瀬音-皇后陛下御歌集』 大東出版社、1997年4月、ISBN 4-500-00633-8 / 新装版 2007年、ISBN 978-4-500-00724-0 『あゆみ-皇后陛下お言葉集』 宮内庁侍従職監修、海竜社、2005年10月、ISBN 4759309004
『道--天皇陛下御即位十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、1999年10月 ISBN 4-14-080467-X / 新装版 2009年、ISBN 978-4-14-081390-4 『道--天皇陛下御即位二十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、2009年9月、ISBN 978-4-14-081389-8 『道--天皇陛下御即位三十年記念記録集』 宮内庁編、NHK出版、2019年3月、ISBN 978-4-14-081775-9 『はじめての やまのぼり』絵・武田和子 至光社 1991年、ISBN 9784783401995 『五木の子守唄 鮫島有美子』 Denon、1992年(作詞した「ねむの木の子守歌」を収録) 『愛のゆりかご 日本の子守歌』 中目徹編、東亜音楽社、1995年(楽譜、19曲目に作詞曲を収録) 『どうぶつたち (The Animals):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、1992年9月、ISBN 978-4-915777-06-6 『ふしぎなポケット (The Magic Pocket):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、1998年6月、ISBN 4-915777-21-9 『橋をかける--子供時代の読書の思い出』 すえもりブックス、1998年11月 ISBN 4-915777-22-7 / 文春文庫特装版、2009年4月、ISBN 978-4-16-775381-8 『バーゼルより--子どもと本を結ぶ人たちへ』 すえもりブックス、2003年2月、ISBN 4-915777-34-0(第2版) ねむの木の子守歌(作曲:山本正美)
鮫島有美子や横内美知代をはじめ多くの歌手にカバーされている。 非常に優れた運動神経の持ち主で、学生時代にはリレーの選手などに選ばれることが多かった。この当時は勝気な性格であったと伝えられる。 学生時代に学校において出会ったアイルランド人のカトリック教会修道女たちに深い思いを寄せており、一人ひとりの顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。 10代の頃、終戦後に発刊された少女雑誌『ひまわり』の読者欄に自作の詩を投稿し続けていた時期があり、同じ常連の投稿者には同い年の中村メイコがいて、お互いに顔や人物を見知らぬままに一席二席を競う好敵手の間柄であった。正田美智子(当時)の作品の印象は、中村には「とっても綺麗なしっとりとした良い詩」であった。後々になって中村は、投稿時に詩の選者をしていた竹内てるよから告げられて、かつて同誌上で一席二席に名前を並べていた少女が皇太子妃殿下(当時)と同一人物であることを知ったという。 2009年(平成21年)11月6日に皇居の宮殿石橋の間で行われた「天皇陛下御即位二十年に際しての天皇皇后両陛下の記者会見」での自身の発言より。
2002年(平成14年)10月20日、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答より。
「御服装も、それまでの五衣や袿袴に、皇室史上初めて西欧の正装が加えられ、宝冠を着け、お靴を召されました。そのどちらの御服装の時にも、毅然としてお美しいことに胸を打たれます。外国人との交際も、それまでの皇室に前例のないことでした。新しい時代の女子教育にもたずさわられ、日本初期の留学生、津田梅子、大山捨松、石井筆子始め一人一人の上に、当時の皇后様のお気持ちが寄せられていたと思われます。皇室における赤十字との関係も明治の時代に作られました。」 「欧化思想とそれに抗する思想との渦巻く中で、日本の伝統を守りつつ、広く世界に御目を向けられた昭憲皇太后の御時代に、近代の皇后のあり方の基本が定まり、その後、貞明皇后、香淳皇后がそれぞれの時代の要請にこたえ、さらに沢山の新しい役割をお果たしになりました。どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり、近年では、香淳皇后の、皇后のお立場での外国御訪問が、皇室史上例のない画期的なことでございました。先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。」 2002年(平成14年)10月20日、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答より。
1955年(昭和30年)- 1956年(昭和31年)ごろ、東京・銀座の小料理店「井上」2階にて、独身時代の三島由紀夫と見合い風の対面をしている(同店女将・井上つる江談。)
皇室に嫁ぐ際、お印が白樺に決まると、実家の庭に軽井沢から取り寄せたその苗木を自ら植えた。 成婚に際しては作曲家の團伊玖磨が「祝典行進曲」を作曲した。この曲はのちに長女の紀宮清子内親王が民間家庭へ降嫁する際、皇居から帝国ホテルへ出発する内親王を送迎するためにも演奏された。 国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、このことに関し2004年(平成16年)の誕生日に次のように発表した。
結婚の儀当日天皇から授けられた守り刀は、1955年(昭和30年)に、刀剣では最初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された刀工高橋貞次の作。浩宮徳仁親王・礼宮文仁親王の守り刀も彼の作である。 成婚時に「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の東宮御所奥公室に小さな厨房を設置。のちに幼少期の浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの離乳食や弁当もこの厨房で自ら作ったこともある。 皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止。3人の子をすべて自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、母子手帳が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた。なお、のちの礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)、母子手帳の発給を受けることはなかった。 いわゆる「ナルちゃん憲法」に関して、皇后自身は「書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない」としている。 天皇行幸の際には、ほぼ常に妻として同行している(行幸啓)。そのときの服装は、訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。例えば2007年(平成19年)の訪欧時には、各国の国旗の色をあしらった服や、コサージュを着用した。 明治の昭憲皇太后、大正の貞明皇后、昭和の香淳皇后が行ってきた養蚕(皇后御親蚕)を継承している。紅葉山御養蚕所において奈良時代から飼育され続けてきた蚕の品種「小石丸」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。小石丸は今日では全国で飼育されるに至り、各種美術品の修復にも用いられている。養蚕によって作られた絹糸で、皇后のドレスを仕立てたこともある。近年では、眞子内親王・佳子内親王が養蚕を手伝っており、内親王たちの着物に仕立てられたという。 特徴ある活動としては、児童への図書普及への取り組みが挙げられる。1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」では、日本武尊の妃・弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。またこの講演では、幼少のころに家族から聞かされた童話として新美南吉の『デンデンムシノカナシミ』を取り上げ、大人になってからもよく思い出される作品であると紹介した。講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。2002年には、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。なお、その時の祝辞は、『バーゼルより-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。皇后が単身日本国外に行啓した史上最初の例である。 戦没者慰霊の地に赴き、和歌を詠んでいる。 自身の嫁にあたる皇后雅子は同じく旧皇族・旧華族以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。彼女の皇太子徳仁親王(当時)との婚約が内定した際には、「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。 皇太子徳仁親王(当時)の結婚の際には、皇太子妃雅子(当時)にルビーの指輪を贈った。この指輪は自身の結婚の際、姑の香淳皇后から贈られたものであった。また、秋篠宮文仁親王の結婚の際には、同妃紀子に真珠の指輪を贈った。 2006年(平成18年)2月、秋篠宮妃紀子の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。また、紀子妃が前置胎盤で帝王切開が必要なことが分かると、それを心配する言葉を寄せた。
また、同年の誕生日においては、敬宮愛子内親王との面会や彼女の「着袴の儀」を楽しみにしている旨を発表。なお、この年を境に、コメント・会見の際に「敬宮(読み:としのみや)」と呼ばずに「愛子(読み:あいこ)」と呼んでいる。 王室間の交流を持つイギリスのディクソン社からプリンセス・ミチコというバラを献呈されており、皇居の庭にも植えられている。ほかにエンプレス・ミチコというバラが皇后冊立後4周年記念に献呈されたが、「プリンセス・ミチコ」の方がフロリバンダの品種として優れており「美智子さまの薔薇」と言えばこちらを指すのが一般的である。 皇太子妃時代、庶民からの羨望の気持ちを込めて「同じ服は二度と着ない」などともいわれていたが、実際には丁寧に管理され、時には仕立て直しなどリフォームをして繰り返し着用しているという。 公務の際は、洋装に日本独自のもの(佐賀錦など)をあしらったり、国内では訪問先の国花・都道府県花などを身につけたり、国旗を意識した配色の衣服を着用するなどの気配りを見せている。そのファッションセンスは、日本のみならず世界的にも高く評価されており、皇太子妃時代の1985年(昭和60年)・1988年(昭和63年)、皇后時代の1990年(平成2年)の三度、国際ベストドレッサー賞を受賞している。植田いつ子らがデザイナーとして知られる。 1992年(平成4年)に、山形県において開催された秋の国体(第47回国民体育大会、通称:べにばな国体)の開会式臨席の際、暴漢が発煙筒を投じたところ、とっさに片手を挙げ身を挺して隣にいた天皇をかばうなど、常に天皇を気遣っている。 宮内庁職員組合文化祭には白木華子(=白樺子→シラカバ)の名前でひそかに手芸作品を出品したことがある。その時、紀宮清子内親王も「川瀬美子(かわせ・みこ→カワセミ)」の名前で出品した。 音楽に造詣が深く、学生時代からピアノが得意とされる。高折宮次(日本ショパン協会初代会長、1893-1963)よりレッスンを受けている。バチカン訪問の際の音楽会では、即興でグノーの『アヴェ・マリア』の伴奏を弾いた。自宅でじかに演奏に接したピアニストの中村紘子は、あれだけ想いの深い演奏をするピアニストは日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている。またピアニスト・田中希代子の演奏を愛し、1996年(平成8年)に田中が急逝したときには深い悲しみを表している。このほかハープも得意としており、ハープを演奏する写真も撮影されている。2009年(平成21年)のカナダ訪問時に訪れたトロントの小児病院では、子どもたちを前に、子育てのとき子どもたちに歌って聞かせた「揺籃のうた」(北原白秋作詞、草川信作曲)を歌唱した。 1999年(平成11年)、父・正田英三郎の死去に伴い、東京都品川区東五反田五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸が相続の対象になった際は、相続権を放棄。正田邸跡地は小公園「品川区立ねむの木の庭」になっている。 元・宮内庁担当記者の板垣恭介は、皇太子妃時代の記者会見で彼女がクッキーを手作りすることを疑う質問をすると、次の機会で記者らに手作りクッキーを出して笑顔で勧めたり、明仁皇太子の語学に関する話題で不用意な発言をし気まずくなった板垣をかばい、彼のタバコに火をつけながらフォローする言葉をかけてくれて、母校の聖心で「あっ、やばい!」などと下世話なかけ声をかけながらテニスをするという皇后の人柄を、聡明でユーモアがあると好意的に評した。板垣は夫妻のメキシコ訪問時に、明仁皇太子に美智子妃の報道に関する相談を受けたこともある。 「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」 - 1958年(昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評。 「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。いつになったら慣れるのか見当がつきません。(中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」 - 1960年(昭和35年)4月11日、結婚一周年の記者会見で。 「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」 - 1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。明仁親王の「点数をつけることはできないが努力賞ということで」をふまえ。 「平成初めての大会にあたり、1947年(昭和22年)以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになった皇太后陛下に、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」 - 1989年(平成元年)5月31日、平成元年全国赤十字大会にて。 「皇室も時代と共に存在し、各時代、伝統を継承しつつも変化しつつ、今日に至っていると思います。この変化の尺度を量れるのは、皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています。伝統がそれぞれの時代に息づいて存在し続けるよう、各時代の天皇が願われ、御心をくだいていらしたのではないでしょうか。きっと、どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」「(皇室観について)私の目指す皇室観というものはありません。ただ、陛下のお側にあって、全てを善かれと祈り続ける者でありたいと願っています」 - 以上、1994年(平成6年)10月20日、還暦文書回答にて、「皇后美智子が天皇とともに皇室に新風を吹き込んだ」という指摘に対して。 「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」 - 1995年(平成7年)10月20日、誕生日の文書回答にて 「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があってよかったと、国民が心から安堵し喜ぶことのできる皇室でありたいと思っています」 - 1996年(平成8年)10月20日、誕生日の文書回答にて。 「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しをいただいて加わりました」 - 1998年(平成10年)10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して。 「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略)先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」 - 2002年(平成14年)10月20日、誕生日の文書回答にて。 「清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしているときに、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」 - 2005年(平成17年)10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に。 「東宮妃の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、また東宮も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」 - 2006年(平成18年)10月20日、誕生日の文書回答にて 「(かくれみのを用いて)混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田や神保町の古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」 - 2007年(平成19年)5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、「身分を隠し好きなところで一日を過ごすとしたら」という問いに対し。 「皇太子妃の健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、『妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい』という、私の以前の言葉に変わりはありません」 「このごろ愛子と一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。周囲の人のちょっとした言葉の表現や、話している語の響きなど、『これは面白がっているな』と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのようなとき、とても幸せな気持ちになります。思い出してみると、眞子や佳子が小さかったころにも、同じようなことが、たびたびありました」 - 2008年(平成20年)10月20日、誕生日の文書回答にて。 「このたびも私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」 - 2009年(平成21年)4月8日、結婚50周年記者会見にて。先の25周年記者会見での発言をふまえ 「東宮も秋篠宮も孫として昭和天皇のおそばで過ごす機会をたびたびにいただき、また成人となってからは、陛下をお助けするなかでそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います」 - 2009年(平成21年)11月11日、天皇即位20年に際する記者会見にて 「80年前、私に生を与えてくれた両親はすでに世を去り、私は母の生きた齢(とし)を越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出とともに、同じ朝『陛下と殿下の御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います」 - 2014年(平成26年)10月20日、皇后誕生日に際し、80年の傘寿を迎えて 「8月に陛下の御放送があり、現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。私は以前より、皇室の重大な決断が行われる場合、これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり、その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、謹んでこれを承りました。ただ、新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。」- 2016年(平成28年)10月20日、82歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答より。 「陛下の御譲位については、多くの人々の議論を経て、この6月9日、国会で特例法が成立しました。長い年月、ひたすら象徴のあるべき姿を求めてここまで歩まれた陛下が、御高齢となられた今、しばらくの安息の日々をお持ちになれるということに計りしれぬ大きな安らぎを覚え、これを可能にして下さった多くの方々に深く感謝しております。」 - 2017年(平成29年)10月20日、83歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答より。 「約30年にわたる、陛下の『天皇』としてのお仕事への献身も、あと半年程で一つの区切りの時を迎えます。これまで『全身』と『全霊』双方をもって務めに当たっていらっしゃいましたが、加齢と共に徐々に『全身』をもって、という部分が果たせなくなることをお感じになり、政府と国民にそのお気持ちをお伝えになりました。5月からは皇太子が、陛下のこれまでと変わらず、心を込めてお役を果たしていくことを確信しています。」 「陛下は御譲位と共に、これまでなさって来た全ての公務から御身を引かれますが、以後もきっと、それまでと変わらず、国と人々のために祈り続けていらっしゃるのではないでしょうか。私も陛下のおそばで、これまで通り国と人々の上によき事を祈りつつ、これから皇太子と皇太子妃が築いてゆく新しい御代の安泰を祈り続けていきたいと思います。」 「24歳の時、想像すら出来なかったこの道に招かれ、大きな不安の中で、ただ陛下の御自身のお立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれ、おそばに上がりました。そして振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました。義務を一つ一つ果たしつつ、次第に国と国民への信頼と敬愛を深めていかれる御様子をお近くで感じとると共に、新憲法で定められた『象徴』(皇太子時代は将来の『象徴』)のお立場をいかに生きるかを模索し続ける御姿を見上げつつ過ごした日々を、今深い感慨と共に思い起こしています。」 「皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく - そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います。学生時代よく学長が『経験するだけでは足りない。経験したことに思いをめぐらすように』と云われたことを、幾度となく自分に云い聞かせてまいりました。その間、昭和天皇と香淳皇后の御姿からは計り知れぬお教えを賜り、陛下には時に厳しく、しかし限りなく優しく寛容にお導き頂きました。3人の子ども達は、誰も本当に可愛く、育児は眠さとの戦いでしたが、大きな喜びでした。これまで私の成長を助けて下さった全ての方々に深く感謝しております。」 「陛下の御譲位後は、陛下の御健康をお見守りしつつ、御一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています。そうした中で、これまでと同じく日本や世界の出来事に目を向け、心を寄せ続けていければと思っています。例えば、陛下や私の若い日と重なって始まる拉致被害者の問題などは、平成の時代の終焉と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません。これからも家族の方たちの気持ちに陰ながら寄り添っていきたいと思います。」 「先々には、仙洞御所となる今の東宮御所に移ることになりますが、かつて30年程住まったあちらの御所には、入り陽の見える窓を持つ一室があり、若い頃、よくその窓から夕焼けを見ていました。3人の子ども達も皆この御所で育ち、戻りましたらどんなに懐かしく当時を思い起こす事と思います。」 「赤坂に移る前に、ひとまず高輪の旧高松宮邸であったところに移居いたします。昨年、何年ぶりかに宮邸を見に参りましたが、両殿下の薨去よりかなりの年月が経ちますのに、お住居の隅々まできれいで、管理を任されていた旧奉仕者が、夫妻2人して懸命にお守りして来たことを知り、深く心を打たれました。出来るだけ手を入れず、宮邸であった当時の姿を保ったままで住みたいと、陛下とお話しし合っております。」 「公務を離れたら何かすることを考えているかとこの頃よく尋ねられるのですが、これまでにいつか読みたいと思って求めたまま、手つかずになっていた本を、これからは1冊ずつ時間をかけ読めるのではないかと楽しみにしています。読み出すとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます。ジーヴスも2、3冊待機しています。」 「また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリを作ってみたいと思っています。こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに1畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えて下さいました。大変な瓜田に踏み入るところでした。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。」 「皇太子、天皇としての長いお務めを全うされ、やがて85歳におなりの陛下が、これまでのお疲れをいやされるためにも、これからの日々を赤坂の恵まれた自然の中でお過ごしになれることに、心の安らぎを覚えています。」 「しばらく離れていた懐かしい御用地が、今どのようになっているか。日本タンポポはどのくらい残っているか、その増減がいつも気になっている日本蜜蜂は無事に生息し続けているか等を見廻り、陛下が関心をお持ちの狸の好きなイヌビワの木なども御一緒に植えながら、残された日々を、静かに心豊かに過ごしていけるよう願っています。」 - 2018年(平成30年)10月20日、84歳の皇后として最後の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答より。 ^ ただし、それ以前にも民間出身の皇后は多数存在する。皇族以外で初めて立后したのは、奈良時代の聖武天皇の后の光明皇后(藤原光明子)である。光明皇后は父親が藤原不比等、母親が県犬養橘三千代の、いずれも民間人の子である。それ以降、公家から皇后・中宮を出す慣例ができた。しかし、民間人の前例があるとはいえども、「庶民」から立后したのは上皇后美智子が初めてだと思われる。 ^ 非皇族かつ非華族、旧士族以下の意。ただし、実家の正田家は源義家の孫新田義重の重臣生田重幸の子孫と伝わっており、南北朝時代まで遡ると家格は決して低くない。 ^ 通常は避暑地として使用された秩父宮家の別邸。 ^ 午後2時半過ぎ、祝田橋付近で発生。犯人は長野県上伊那郡長谷村(現伊那市)出身で県立伊那北高校卒業の19歳の浪人生。走って馬車に接近、一発投石した。石は外れたもののさらに馬車の幌部分に飛び乗り、護衛官に押さえつけられ引きずりおろされて警視庁丸の内警察署に逮捕された。この模様はそのままテレビで生中継された。犯人は東京都練馬区の東京少年鑑別所に50日間拘留され、精神鑑定の結果、精神分裂症と診断され、未成年者であったこともあり保護観察処分となり釈放された。 ^ 大正天皇・貞明皇后の時代より改革が行われ、続く昭和天皇・香淳皇后も女官制度廃止(それまでの未婚で住み込みとりやめ、既婚女性に自宅からの通勤制で従事させるなど)・乳母は置いたがほぼ母乳で育てる・内親王を学齢まで手元で育てる等を行った。皇太子明仁親王夫妻の改革もこれに続くものである(1977年(昭和52年):昭和天皇・香淳皇后への那須御用邸での記者会見より)。 ^ 帰国後、旧制雙葉高等女学校に入学するも1929年(昭和4年)に英三郎に嫁す(仲人は大蔵省顧問・児玉謙次)。 ^ 重幸。生田隼人は当主の代々名。 ^ このビデオ講演は、NHK教育テレビETV特集(現)で、国民一般にも放送され、大きな反響を呼んだ。出雲大社社務所では、皇后の講演全文を小冊子にして、社頭にて一般に頒布(はんぷ)している。 ^ この時の様子は津川雅彦や小林よしのりも証言している[1] [2]。 ^ 宮内庁公式サイト 英語版 ^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第四条第二項「上皇后に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太后の例による。」 ^ 歴代皇后125代総覧423頁 ^ “軽井沢観光協会公式ホームページ 軽井沢を知る 軽井沢と皇室”. 2016年4月11日閲覧。 ^ 歴代皇后125代総覧424頁8行目 ^ 『週刊朝日』1959年4月12日号 ^ 歴代皇后125代総覧424頁5行目 ^ 歴代皇后125代総覧424頁11行目 ^ 歴代皇后125代総覧424頁12行目 ^ 歴代皇后125代総覧424頁13行目 ^ 歴代皇后125代総覧424頁14行目 ^ 歴代皇后125代総覧424頁15行目 ^ 歴代皇后125代総覧425頁1行目 ^ 歴代皇后125代総覧425頁5行目 ^ (板垣 2006, p. 22) ^ “JAPAN: The Girl from Outside”. 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(2019年1月28日). https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement2/20190128siseihousin.html 」の冒頭部分で、内閣総理大臣安倍晋三(第4次安倍改造内閣)が取り上げた。 ^ 宮内庁. “皇后陛下お誕生日に際し(平成14年)”. https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h14sk.html 2019年6月25日閲覧。 ^ 『読売新聞』2005年11月16日「嫁ぐ朝 強く抱きしめ『大丈夫よ』皇后さま」 ^ 宮内庁、宮中三殿祭祀と両陛下のご健康問題・天皇皇后両陛下のご健康問題について - ウェイバックマシン(2008年10月20日アーカイブ分) ^ 『バザードラボ』2015年07月30日 09時39分「美智子皇后 心筋虚血の疑いで精密検査へ」 ^ 江戸時代後期にあたる1817年5月7日(旧暦:文化14年3月22日)の光格天皇から仁孝天皇への譲位以来 ^ 宮内庁. “公表事項(令和元年6月7日〜6月23日:上皇職)”. https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-r1-0623.html 2019年6月26日閲覧。 ^ “上皇ご夫妻、そろって皇居をご訪問 3月の引っ越し後初”. sankei.com. 2020年9月20日閲覧。 ^ “上皇ご夫妻、仙洞御所に入居 代替わりでの引っ越し完了”. 時事通信 (2022年4月26日). 2022年12月22日閲覧。 ^ “皇后さま、ベルギー元王妃の国葬に参列 ブリュッセル”. 朝日新聞. 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『プリンセス美智子さま物語 知られざる愛と苦悩の軌跡』
祝典行進曲 吉川重国 明仁から徳仁への皇位継承 宮内庁ホームページ (日本語)
海外ニュース映像 日本のロイヤルウエディング(1959年) - British Pathe 皇太子妃 正田美智子さんに決まる - NHK放送史 上皇ご夫妻ご婚約 正田美智子さんと両親の記者会見 - YouTube(TBS NEWS) 皇太子さまご結婚 - NHK放送史 上皇さま上皇后さま ご結婚「朝見の儀」「結婚パレード」 - YouTube(TBS NEWS) 1934年10月20日 - 存命中 表 話 編 歴 媛蹈鞴五十鈴媛命 五十鈴依媛命 渟名底仲媛命 天豊津媛命 世襲足媛 押媛命 細媛命 欝色謎命 伊香色謎命 御間城姫 狭穂姫命 日葉酢媛命 播磨稲日大郎姫 八坂入媛命 気長足姫尊 仲姫命 磐之媛命 八田皇女 草香幡梭皇女 忍坂大中姫 中蒂姫命 草香幡梭姫皇女 難波小野王 春日大娘皇女 春日娘子 手白香皇女507?-539? 春日山田皇女534?-539? 橘仲皇女535?-539? 石姫皇女540?-572? 広姫575? 額田部皇女577?-592 穴穂部間人皇女585?-622 宝皇女630-642 間人皇女645-665 倭姫王668-? 鸕野讚良皇女673-690 藤原安宿媛729-749 井上内親王770-772 藤原乙牟漏783-790 藤原帯子806贈 橘嘉智子815-823 高志内親王823贈 正子内親王827-833 藤原穏子923-931 藤原安子958-964 昌子内親王967-973 藤原媓子973-979 藤原遵子982-1000 藤原定子990-1000 藤原彰子1000-1012 藤原妍子1012-1018 藤原娍子1012-1025 藤原威子1018-1036 禎子内親王1037-1051 藤原嫄子1037-1039 章子内親王1046-1068 藤原寛子1051-1069 藤原歓子1068-1074 馨子内親王1069-1093 藤原賢子1074-1084 媞子内親王1091-1093 篤子内親王1093-1114 令子内親王1107-1134 藤原璋子1118-1124 藤原聖子1130-1141 藤原泰子1134-1139 藤原得子1141-1149 藤原多子1150-1156 藤原呈子1150-1158 藤原忻子1156-1172 統子内親王1158-1159 姝子内親王1159-1162 藤原育子1162-1173 平徳子1172-1181 亮子内親王1182-1187 九条任子1190-1200 範子内親王1198-1206 大炊御門麗子1205-1210 昇子内親王1208-1209 九条立子1211-1222 邦子内親王1221-1224 三条有子1223-1227 近衛長子1226-1229 藤原竴子1230-1233 利子内親王1233-1239 西園寺姞子1242-1246 曦子内親王1248-1251 西園寺公子1257-1259 洞院佶子1261-1272 西園寺嬉子1261-1267 姈子内親王1285-1291 西園寺鏱子1288-1298 徳大寺忻子1303-1308 奨子内親王1319 西園寺禧子1319-1333 珣子内親王1333-1337 西園寺公重女1372頃-1377以後 珣子内親王(1336-1337) (立后無し) (立后無し) 徳川和子1624-1629 鷹司房子1683-1687 幸子女王1708-1710 欣子内親王1794-1820 鷹司繋子1824贈 一条美子1868-1912 九条節子1912-1926 良子女王1926-1989 正田美智子1989-2019 小和田雅子2019-在位中 赤背景は後に即位した女帝 橙色は准母立后による尊称皇后 緑色は薨去後の贈皇后 一覧 カテゴリ 日本の親王妃・王妃 皇后美智子に関するカテゴリ:
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SNAC IdRef 削除依頼中のページ 美智子皇后 日本の皇后 20世紀の后妃 21世紀の后妃 戦後日本の女性皇族 明仁天皇 昭和時代の女性 平成時代の女性 令和時代の女性 勲一等宝冠章受章者 大チャクリー勲章受章者 聖オーラヴ勲章受章者 文学士取得者 日本の慈善家 日本の赤十字の人物 20世紀日本の女性皇族 21世紀日本の女性皇族 聖心女子大学出身の人物 聖心女子学院中等科・高等科出身の人物 正田家 東京都区部出身の人物 1934年生 存命人物 2024/11/23 09:27更新
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皇后美智子と同じ誕生日10月20日生まれ、同じ東京出身の人
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