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真崎甚三郎の情報 (まざきじんざぶろう)
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【5月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

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真崎 甚三郎さんについて調べます

■名前・氏名
真崎 甚三郎
(まざき じんざぶろう)
■職業
軍人
■真崎甚三郎の誕生日・生年月日
1876年11月27日 (年齢79歳没)
子年(ねずみ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
佐賀出身

真崎甚三郎と同じ1876年生まれの有名人・芸能人

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真崎甚三郎と関係のある人

石原莞爾: 同じく石原が嫌う真崎甚三郎には「お体はもうよいのですか。


辻政信: この陸軍士官学校事件、真崎甚三郎大将の教育総監罷免、相沢事件を経て統制派と皇道派の対立は頂点に達し二・二六事件の発生につながることになった。


毛利松平: 在学中に真崎甚三郎を訪ね、軍部について意見を求められ「軍は横暴です。


中川小十郎: 1935年(昭和10年)には親しかった平沼騏一郎を通じて陸軍皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎といった将官と交際するようになり、西園寺公望の政治信条とは必ずしも相容れない立場をとるようになっていた。


相沢三郎: 皇道派将校として真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し、統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した相沢事件の犯人。


林銑十郎: 1935年(昭和10年)7月、教育総監として度々、陸軍の人事に横やりを入れてきた皇道派の領袖である真崎甚三郎大将の更迭を実行した。


荒木貞夫: 1929年(昭和4年)、陸軍首脳は「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったが、そのときに荒木も左遷される予定であった。


近衛文麿: 近衞の主張した陸軍の粛清人事とは、真崎甚三郎、山下奉文、小畑敏四郎ら皇道派を陸軍の要職に就け、継戦を強く主張している陸軍主流派を排除する計画であるが、皇道派を嫌悪していた天皇には到底受け入れ難いものであった。


宇垣一成: さらに、昭和17年(1942年)、吉田は、4月に宇垣と平沼騏一郎の会談、10月に宇垣と真崎甚三郎(陸軍皇道派の領袖)の会談を実現させ、12月には東大病院に入院中の近衞文麿への根回しを行い、宇垣に組閣を打診したが、このときは拘束の多い中での組閣は望まないとして宇垣のほうが断っている。


多々良純: 探偵物語 第24話「ダイヤモンド・パニック」(1980年、NTV / 東映ビデオ) - 真崎甚三郎(関東桜会組長)


杉山元: その後は皇道派、統制派の抗争が続くが、荒木の辞任、真崎甚三郎の教育総監更迭を契機に皇道派は勢いを失う。


渡辺錠太郎: 陸相の後任には荒木や真崎甚三郎と親しくしていた林銑十郎が就任し真崎は教育総監に回った。


加藤寛治: 真崎甚三郎と親しく、二・二六事件では事件発生の朝、伏見宮、真崎と協議を行った後三人で参内し、伏見宮が昭和天皇に拝謁したが、天皇の不興を買う。


林銑十郎: このころ、長州閥の排除を目指す「一夕会」(佐官級エリートの集まり)において、今後護りたてるべき将軍として荒木貞夫中将(陸大校長、9期、東京)、真崎甚三郎中将(第8師団長、佐賀)、林銑十郎中将(教育総監部本部長、石川)を挙げている。


石原莞爾: 石原は東條英機を嫌っていたが、東條が属する統制派と対立関係にあった真崎甚三郎も毛嫌いしていた。石原が満洲から参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。


大角岑生: 二・二六事件後、荒木貞夫・真崎甚三郎ほか多数の大将を予備役に編入した陸軍とのバランスを取るために、海軍からも3名の大将を予備役に編入する事になったが、山本英輔・中村良三・小林躋造(中村は大角より3期下、小林は2期下)がその対象となり、この時も大角は現役にとどまることができた。


林銑十郎: ベルリンでは、真崎甚三郎歩兵少佐(9期)や永田鉄山歩兵大尉(16期首席)とも親交をもった。


山根二郎: 1945年、二・二六事件で一時失脚していた行動派の頭目の真崎甚三郎陸軍大将が、親交が深かった山根の父を訪ね松本市浅間温泉に訪れた際に同席し、真崎より当時大変貴重な菓子のおこしをもらったことがあると新宿紀伊国屋ホールでの講演会の際に山根が話したことがある。


永田鉄山: 永田らは機密費を使って、真崎甚三郎悪玉説を流布し、岡田啓介総理大臣は真崎を軍から追放することを内閣の最高方針としたという。


近衛文麿: この大赦論は、荒木貞夫が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。


梅津美治郎: 同年12月に犬養内閣が発足、いわゆる皇道派の荒木貞夫が陸相に就任すると、荒木は真崎甚三郎を参謀次長に据え参謀本部の実権を握らせる。


鳩山一郎: 鳩山が主として軽井沢を舞台に交流したのは、近衛文麿、吉田茂、宇垣一成、真崎甚三郎、松野鶴平、芦田均、笹川良一、赤尾敏といった人々であり、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有は欠かさず、終戦和平工作にも関与した。


山下奉文: 永山少将が佐賀県の出身で、宇都宮太郎・真崎甚三郎・荒木貞夫へとつながる、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属したため、女婿である山下も皇道派として目されるようになった。


上原勇作: 上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。


末次信正: 岡田啓介は末次を警戒し、元老・西園寺公望の秘書・原田熊雄は西園寺に対し、宮中関係者から不安視されていた真崎甚三郎になぞらえて報告している。


末次信正: 陸軍では当初、荒木貞夫、真崎甚三郎ら皇道派とつながりがあったが、のちに林銑十郎と親密な関係にあった。


相沢三郎: 1935年(昭和10年)7月15日に真崎甚三郎が教育総監を更迭された。


荒木貞夫: 真崎甚三郎と共にソビエト連邦との対立を志向した皇道派の重鎮。


真崎甚三郎

もしもしロボ

真崎 甚三郎(まざき じんざぶろう)さんの誕生日は1876年11月27日です。佐賀出身の軍人のようです。

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評価、年譜などについてまとめました。事件、卒業、映画、解散に関する情報もありますね。79歳で亡くなられているようです。

真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、旧字体:眞崎 甚三郞、1876年(明治9年)11月27日 - 1956年(昭和31年)8月31日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功四級。

荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人。皇道派青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した。事件後に設けられた軍法会議においては無罪となった。真崎の事件への関与の度合いについては意見が分かれている。

弟に海軍少将、衆議院議員の眞崎勝次。長男に外務省、宮内庁の官僚で昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹。

1876年(明治9年)11月27日、中農の真崎要七の長男として佐賀県に生まれた。

佐賀中学(現佐賀県立佐賀西高等学校)を1895年12月に卒業後、士官候補生を経て1896年9月に陸軍士官学校に入学した。

陸士第9期卒後に陸軍大学校に入学したが日露戦争が発生したため歩兵第46連隊中隊長として従軍した。

1907年に陸大第19期を恩賜の軍刀を拝領し卒業した。首席卒業の荒木貞夫の他、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也などと同期だった。

第一次世界大戦中は久留米俘虜収容所長も務めた。ちなみに、2006年に公開された映画『バルトの楽園』では板東英二が久留米俘虜収容所長を演じているが、これは真崎甚三郎ではない。真崎が収容所長を務めたのは、1915年から1916年の1年間である。もちろん、真崎は収容所の環境整備のために努力し、従来禁止していた所内での音楽などを許可したのは事実で、衛戍司令官柴勝三郎中将から批判されると、「ドイツ人にとっての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なものであります」と答え、了解を求めた。息子の真崎秀樹によると「父に連れられて俘虜の素人芝居をみたり、クリスマスパーティーに出たことを覚えている」とのことである。

陸軍大佐、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、陸軍少将、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、陸軍中将、第8師団長を歴任。

陸軍の枢要である軍務局軍事課長を真崎はわずか1年しか務めなかった。この件について真崎は後に息子に対して、陸軍機密費の不正蓄積についての疑問を持ったため、機密費の適正な使用と管理について意見を具申したところ、近衛歩兵第1連隊に転出させられたと述べている。この当時、軍の機密費を取り扱っていたのは田中義一陸相、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮陸軍省高級副官の四人であった。田中義一は政界入りする際にシベリア出兵時の機密費を流用して立憲政友会への持参金にしたとの風説があり国会でも追及されている。

本科長、教授部長兼幹事を経て校長をつとめた4年間の陸軍士官学校時代に、精神主義・日本主義に重点を置いた教育に努めた。この時期の生徒には安藤輝三、磯部浅一、渋川善助らがいる。

1929年7月1日からは第1師団長に任命された。

1931年(昭和6年)8月、本来なら真崎が関東軍司令官に任命される順番であったが、本庄繁が関東軍司令官に任命され、真崎は台湾軍司令官に任命された。

1932年(昭和7年)1月、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫の計らいで参謀次長に就任した。皇族である閑院宮載仁親王が参謀総長であったので、慣例にしたがって真崎が参謀本部を取り仕切った。この頃から荒木とともに国家革新を図る皇道派が形成された。派閥の勢力伸張を図り、大尉クラスの青年将校を中心に信望を担ったが、党派的な行動が反発を買い統制派との対立が発生した。

満州事変の原因を、国家革新の熱病に浮かれた軍部の幕僚連が、理想の国家を満州に作り、そこから逆に日本に及ぼして日本を改造するために引き起こされたものと見なしていた真崎は、事変不拡大・満州事変は満洲国内でおさめることを基本方針として収拾にあたった。統制派も皇道派も対ソ戦に備えていたことは同じだが、そのための手段が異なっていた。統制派が総動員体制(真崎から見れば「国家社会主義」体制)の構築・北支進出を狙っていたが、皇道派は満洲国の安定・「皇道精神」に基づく体制構築・対中関係安定・対列強関係修復を目指していた。

第一次上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵した。

熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行されるという建前から、万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえた。有利な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえたとして、拡大派や国家革新推進派からは非難を浴びた。

満州事変後の軍の動きに不満を持つ昭和天皇から真崎は繰り返し叱責された。通常間を置かず裁可される上奏も、真崎の場合には必ず数日留め置かれた。真崎は天皇へのとりなしを梨本宮守正王や伏見宮博恭王のルートを通してこころみたがうまくいかず、最終的には自分が重臣元老(に加え天皇からも)誤解されていると上奏したところ、天皇は「非常な御不興」を示し面目を失った。

さらに原田日記によると、真崎は当時第5旅団長であった東久邇宮稔彦王に対し、「天皇陛下が参謀本部の意見を理解されるよう助力して欲しい」と依頼し、それを筋違いであるとして拒否されると、「ここの宮さんは国家観念に乏しい」と不満を述べている。

真崎は平野助九郎、石丸志都磨等を通して、軍の機密情報を青年将校に漏洩していたため、省部の中堅将校から信頼を失った。

1933年(昭和8年)6月、陸軍大将、軍事参議官となった。

1934年(昭和9年)1月教育総監に就任、天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進し率先して天皇機関説を攻撃した。

齋藤内閣でも引き続き陸相を務めていた荒木は、皇道派青年将校に自重を求めたため声望が低下し昭和9年に病を理由に辞任した。

その後任候補として真崎の名が挙がった。林銑十郎教育総監と柳川平助陸軍省次官からの推薦に対して、真崎を嫌っていた閑院宮載仁親王は、「真崎では不安心だから林にすべし」と述べたため林が陸相に、真崎は教育総監に回った。

陸相となった林は軍務局長の要職に統制派の永田鉄山少将を起用した。 林は皇道派に属すると見られており、真崎もこの人事に賛成したが、永田は皇道派の締め出しを図り、荒木、真崎らに嫌悪感を抱くようになっていた林もこれを追認した。

皇道派と統制派の板挟みになった林は一時辞意を表した。真崎は電話で荒木と林追い落としの相談をしてるのを高宮太平に聞かれ、高宮を部屋に通した夫人と女中を殴りつけ、高宮に黙っていてくれと懇願している。

派閥間の対立はさらに先鋭化し、統制派は真崎の更迭を目論むようになった。林陸相から辞任して欲しいと言われた真崎はこれを拒否し、陸軍三長官会議で決することになった。真崎は林のことを蛇蝎の如く嫌っており、日記には「林」と書かず、わざわざ「土蜘蛛」と書いている。北岡伸一(歴史学者)はこれを読んで「何か背筋の寒くなる思いがした」という。

真崎の評判は極めて悪く、会議の直前に岡田啓介首相は林陸相に対して「内閣が倒れてもいいから真崎だけは辞めさせてくれ」と伝えている。

1935年(昭和10年)7月に参謀総長閑院宮載仁親王臨席で開かれた会議でも真崎は辞任に応ぜず、激怒した閑院宮から叱責される場面もあった。

真崎は本人が同意しないまま教育総監を罷免され、後任には渡辺錠太郎がついた。

昭和天皇も真崎の更迭を歓迎し、「真崎の行動は甚だ非常識であり(ロンドン海軍軍縮会議で強硬論を主張し内閣を揺さぶった)加藤寛治海軍大将と同じような性格ではないのか」と述べて、真崎の退任の挨拶に際しても形式的な「ご苦労であった」との御言葉を与えるのを「加藤のように悪用されては困る」と承知しようとしなかった。

真崎の辞任の経緯は自身の口から青年将校へ漏らされ、さらに統制派を批判する怪文書が作られて配布された。

この文書を読んだ皇道派の相沢三郎陸軍中佐は、1934年に起きた陸軍士官学校事件の影響も受け、同年8月に永田鉄山を殺害した(相沢事件)。

真崎自身によると、軍中央から遠ざけられた三月事件、十月事件の関係者は真崎らを恨み、政界、財界、重臣方面に真崎らを誹謗しており真崎追放を決心し、特に湯浅倉平が天皇に真崎中傷を行い、閑院宮と梨本宮の両者も動かされ、教育総監更迭に至ったとしている。

本庄繁侍従武官長から天皇に上奏書類を非公式に見せ、天皇も「真崎の言うことも一理ある」と発言したが、湯浅の中傷、木戸幸一が真崎の直訴を阻止したために、天皇の考えを変えさせるに至らなかったと主張している。

事件前に磯部浅一は荒木、真崎、杉山元などを訪問し、上層部の動向を確認している。

1936年(昭和11年)1月28日に磯部は真崎のもとを訪れ借金を申し込んだ。真崎は「何事か起こるなら、何も言ってくれるな」と答えている。

皇道派の若手将校は2月26日に、自派による指導体制を確立しようと政府首脳を殺害し二・二六事件が発生した。将校たちは、蹶起趣意書の上奏、昭和維新の大詔渙発、真崎への大命降下という計画を立てていた。

軍事参議官となっていた真崎は、反乱部隊が出発する前の午前4時半頃に亀川哲也から決起の知らせを受け取っている。亀川の証言では真崎は「これまで努力したことが無駄になってしまう」と驚いていたとされている。

真崎は加藤寛治などと連絡を取り、午前8時半に反乱軍が占拠する陸軍大臣官邸に到着した。胸には勲一等旭日大綬章を佩していた。

磯部浅一が獄中で記した『行動記』および供述調書によると、真崎は出迎えた磯部、香田清貞らに対して「とうとうやったか、お前たちの心はヨオックわかっとる、ヨォッークわかっとる」と答えたと言われている。

一方、当時真崎の護衛憲兵で陸相官邸へ同乗していた金子桂伍長はこれを否定しており、「なんということをやったのだ」と叱責したとしている。

真崎はうろたえる川島義之陸相と密談して、反乱部隊を解散させるのは難しいから「蹶起趣意書」、「陸軍大臣要望事項」にそって天皇から詔勅を渙発してもらい事態の解決を図るべきだと主張した。

さらに真崎は伏見宮邸に向かい、ここで加藤と会談した。大詔渙発を目論んで伏見宮博恭王、加藤とともに参内したが、伏見宮を引見した天皇は全く取り合わなかった。

軍事参議官会議において参議官の一人から、「今回の問題は我々の責任でもあるから全員揃って辞職しよう」との意見が出て、それに決まりかけていたのを荒木と真崎は強く反対しとりやめになり反乱部隊に和する「大臣告示」が出されることになった。

寺内寿一が自分よりも早く宮中に参内していることを知った真崎は寺内を怒鳴りつけている。

真崎は事件後の3月10日に、荒木貞夫、川島義之、阿部信行、林銑十郎と共に予備役となった。本庄繁、南次郎も4月22日に予備役入りしている。この内、真崎、荒木、本庄の三名が皇道派であった。これにより現役陸軍大将は寺内寿一、西義一、植田謙吉のみとなった。

陸相官邸における行動、伏見官邸における工作、軍事参議官会議における大詔渙発、戒厳令施行の促進などが反乱者に対する利敵行為とみなされ、4月21日から東京憲兵隊本部の大谷敬二郎大尉らによる取調べを受けた。

真崎は、12月28日から断食を始め、翌1937年1月6日頃からは水も飲まず、息子〔秀樹?〕を2回呼び、遺言めいたことを言った。1月12日頃、衛戍病院に入院し、阿部大将等が面会に行っても許可されなかった。

その後予審を経て陸軍軍法会議法ではなく緊急勅令(東京陸軍軍法会議ニ関スル件(昭和11年3月4日勅令第21号))によって設けられた東京陸軍軍法会議により1937年1月25日に起訴された。裁判は第一師団軍法会議庁舎において6月1日から行われた。裁判官は、上級判士が磯村年予備役大将、判士が松木直亮予備役大将、小川関治郎陸軍法務官(少将相当)が務めた。7月15日の論告では、反乱者を利す罪で禁固13年が求刑された。

真崎は9月25日の東京陸軍軍法会議の判決で無罪となった。判決文の内容は意味不明なものとなった。具体的には

以上ノ事実ニ被告本人ニ於テ其ノ不利ナル点ニ付否認スル所アルモ、他ノ証拠ニ依リ之ヲ認ムルニ難カラズ、 然ルニ之ガ反乱者ヲ利セムトスル意思ヨリ出デタル行為ナリト認定スベキ証拠十分ナラズ

反乱部隊を利した行為は明らかであるが、これが反乱部隊を利せんとする意思に基づくものであるかは認定できなかった、というのが無罪の理由であった。荒木が近衛文麿首相に無罪とするよう頼み込み、近衛は厳罰論に傾いていた杉山元陸相を説得し、これ以上の混乱を引き起こさぬように無罪とするように圧力をかけた。磯村の証言によると、最終的には大山文雄陸軍省法務局長が強硬派の小川を呼び円満解決を図るよう説得した。

杉山陸相から判決文を奏呈された天皇はこれをその場で熟読し、手元に留め置いた。

小川関治郎陸軍法務官は、「判決理由書は有罪論を展開し、主文では無罪とした。誰が判決文を読んでも真崎が有罪であることがわかるようにした」と証言している。荒木貞夫も、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は"無罪"。あんなおかしな判決文はない」と述べている。

証人として出廷した磯部は真崎の態度に幻滅し、『獄中日記』において真崎を呼び捨てにして激しく非難した。

統制派である東條英機首相が国家社会主義体制を構築していく中、反主流派の面々は真崎の元に集まってきた。その代表例が吉田茂で、吉田は対米開戦直後から「英米ト和平ノ手ヲ打ツベキ方針」を真崎に伝達している。真崎本人も、日中戦争と並行して対米戦を遂行することとなった現実を危ぶんでいた。

吉田は真崎・宇垣連立内閣を構想しており、これには真崎も積極的な態度を示していた。しかし宇垣が消極姿勢であったため、構想は立ち消えとなった。

やがて、吉田の仲介で同じく早期終戦を目指していた公爵近衛文麿元首相と接近した。近衛は自らを首班とした内閣を考えており、真崎はこれに不満であった。鈴木貫太郎内閣の成立にも落胆したが、終戦後も政権入りを目指していた。

1945年11月19日、連合国軍最高司令官総司令部は、日本政府に対し真崎らを戦争犯罪人として逮捕し、巣鴨刑務所に拘禁するよう命令。A級戦犯として収監された。他の被告人は、単に被疑者として呼ばれてもみな弁護士を頼んだが、真崎は弁護士をつけなかったという。

真崎への第1回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12月2日に第一ホテルで行われた。

以降、3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は、敵対していた東條英機らの統制派軍人や木戸幸一に対する戦争責任と、アメリカとの戦争を回避しようとしていたことを主張した。

真崎の手紙や遺稿によると、尋問中に自身の欠点として「他に威張ることと、威張られることが、極度に嫌いであった」ことであると述べたところ、アメリカ人の検事から「ア、其はリンカーンと同じ思想じゃ」、「貴下は即ち日本的デモクラシーである」と喜ばれたと記されている。

巣鴨在監日記の12月23日(1945年)には、「今日は皇太子殿下の誕生日である。将来の天長節である。万歳を祈ると共に、殿下が大王学を修められ、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく力強き新日本を建設せられんことを祈る」と記している。

極東国際軍事裁判で不起訴処分を受け、梨本宮守正王を除いて軍人では一番先に釈放された。

同裁判の真崎担当係であったロビンソン検事は満洲事変、二・二六事件などとの関わりを詳細に調査し、「真崎は軍国主義者ではなく、戦争犯罪はない」「二・二六事件では真崎は被害者であり、無関係」という結論を下し、そのメモランダムには、「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」とある。

公職追放を経て、1956年(昭和31年)8月31日、心臓麻痺のため死去。79歳没。 遺言書では、第一に「日本の滅亡は主として重臣、特に最近の湯浅倉平、斎藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智、私欲と、政党、財閥の腐敗に因る」としている。

葬儀は9月3日午後1時から世田谷の自宅において行われ、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。昭和天皇からは祭粢料が届けられた。

評価

『軍ファシズム運動史』を著した秦郁彦は、真崎については戦前戦後を通して「腹黒い野心家」、「陰険な策謀家」、「青年将校を裏切った卑怯者」との評価が定着しており、「その本質は強きを助け、弱きを虐げる小心翼翼とした官僚型野心家」だったのではと記している。

米国立公文書館に保管されていた東京裁判での国際検察局尋問調書を調査した粟屋憲太郎は真崎の「中学時代から親米主義者だった」との弁明や、同じく公文書館から発掘した徳川義親日記にある、二・二六事件取調中"返答に詰まると数珠を出して拝む"などの記録から、前出の秦郁彦の評価も引用して「これまで読んだ尋問調書のうち、真崎の調書は最も格調の低いものの一つであった」と評している。

田崎末松は、真崎の長男の真崎秀樹が戦後に昭和天皇の通訳を務めていることから、昭和天皇は、「風雪三十年の結果、二廻りも三廻りも人間的に成長され円熟され」、「禍根の張本人として消えていったものが実は無類の忠臣であった、というような価値評価の転換も行われていた」のではないかとしている。

真崎の自動車運転手を務めていた石黒幸平(陸軍自動車学校職工)は、真崎大将は情に厚く部下思いであると、陸軍部内はもちろん自動車運転手間にも信望があったと証言をしている。

石原莞爾は真崎のことを嫌悪していた。石原が満州から参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。君の新しい部署を決めるのに三月もかかったのだ」と褒めちぎったが、真崎が自身を満州国から引き離す黒幕と気づいていた石原は、「陸軍の人事は私の関知するところではありません」と握手を拒み、その後も真崎の酒席の誘いを拒むなど徹底的に嫌った。真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。

年譜

1897年(明治30年)11月 - 陸軍士官学校卒業(士候9期)。

1898年(明治31年)6月 - 少尉に任官。歩兵第46連隊附。

1899年(明治32年)5月 - 対馬警備隊附

1900年(明治33年)11月 - 中尉に進級。

    12月 - 陸軍士官学校附(区隊長)。

    1904年(明治37年)2月 - 日露戦争に従軍(~1905年12月)。

      6月 - 大尉に進級。歩兵第46連隊中隊長。

      1907年(明治40年)11月 - 陸軍大学校卒業(19期恩賜)。陸軍省軍務局出仕。

      1908年(明治41年)10月 - 軍務局課員(軍事課)。

      1909年(明治42年)1月 - 少佐に進級。

      1911年(明治44年)5月 - ドイツ駐在(~1914年6月)。

      1914年(大正3年)6月 - 歩兵第42連隊大隊長。

        11月 - 中佐に進級。歩兵第53連隊附。

        1915年(大正4年)5月25日 - 久留米俘虜収容所長。

        1916年(大正5年)11月15日 - 教育総監部第2課長。

        1918年(大正7年)1月18日 - 大佐に進級。

        1920年(大正9年)8月10日 - 陸軍省軍事課長。

        1921年(大正10年)7月20日 - 近衛歩兵第1連隊長。

        1922年(大正11年)8月15日 - 少将に進級。歩兵第1旅団長。

        1923年(大正12年)8月6日 - 陸軍士官学校本科長。

        1924年(大正13年)3月 - 欧米出張(~9月)。

        1925年(大正14年)5月1日 - 陸軍士官学校幹事兼教授部長。

        1926年(大正15年)3月2日 - 陸軍士官学校校長。

        1927年(昭和2年)3月5日 - 中将に進級。

          8月26日 - 第8師団長。

          1929年(昭和4年)7月1日 - 第1師団長。

          1931年(昭和6年)8月1日 - 台湾軍司令官。

          1932年(昭和7年)

            1月7日 - 参謀次長。特に親任官の待遇を賜う。

            1月13日 - 資源審議会委員被仰付

            1月18日 - 宮内省御用掛被仰付

            1933年(昭和8年)

              6月19日 - 陸軍大将親任、軍事参議官。

              6月30日 - 宮内省御用掛被免

              7月7日 - 資源審議会委員被免

              1934年(昭和9年)1月23日 - 教育総監 兼 軍事参議官。

              1935年(昭和10年)7月16日 - 軍事参議官。

              1936年(昭和11年)3月10日 - 予備役編入。

              1941年(昭和16年) - 佐賀県教育会長に就任。

2024/05/22 00:59更新

mazaki jinzaburou


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