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真弓明信の情報 (まゆみあきのぶ)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

真弓明信の情報(まゆみあきのぶ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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真弓 明信さんについて調べます

■名前・氏名
真弓 明信
(読み:まゆみ あきのぶ)
■職業
野球選手
■真弓明信の誕生日・生年月日
1953年7月12日 (年齢71歳)
巳年(へび年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
熊本出身

(昭和28年)1953年生まれの人の年齢早見表

真弓明信と同じ1953年生まれの有名人・芸能人

真弓明信と同じ7月12日生まれの有名人・芸能人

真弓明信と同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


真弓明信と関係のある人

鳥谷敬: 8月30日の対広島戦(甲子園)で、自身初にして、阪神の遊撃手では1980年の真弓明信以来33年ぶりに4番で起用された。


久保康生: 2009年に高校の先輩である真弓明信が阪神監督に就任すると、その下で久保は一軍投手コーチとして投手起用の采配を揮った。


原辰徳: なお、同じ社宅には真弓明信も住んでいた。


脇谷亮太: しかし、阪神の真弓明信監督が、審判の判定は誤審であると抗議するも判定が覆らなかった。


ランディ=バース: バースは膝が悪くプレー中は装具を着用しており、足が速いとは言い難かったが、走塁は上手かったと真弓明信と池田親興が振り返っている。


根本陸夫: 中日ではトラブルメーカーであったウィリー・デービスも3番打者として機能し、真弓明信も初めて1番打者としてレギュラーとなり、前年の外野から本職の遊撃に戻って本領を発揮する。


長崎慶一: 8月1日の中日戦(甲子園)には前日の試合でランディ・バースが自打球を当て骨折したため、一塁手としてスタメン出場を果たすが、一塁守備にぎこちなさを感じた首脳陣は、翌2日から真弓明信を一塁に回した。


金城致勲: その後は内野手に回り、1979年には真弓明信の阪神移籍に伴い、開幕戦に7番打者、遊撃手として抜擢される。


古沢憲司: 1978年オフに真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史との交換トレードで田淵幸一と共に西武ライオンズへ移籍。


南牟礼豊蔵: 1994年には外野守備に不安がある石嶺和彦の補佐として重用され、打撃面でも勝負強さから真弓明信、長嶋清幸、米崎薫臣とともに代打四人衆として活躍した。


福田功: その後は同級生の真弓明信監督の招聘で阪神タイガース球団本部編成部課長(2010年 - 2011年)を務め、星野の招聘で東北楽天ゴールデンイーグルスではチーム統括本部運営部長(2012年)→チーム統括本部スカウト部副部長兼プロスカウトグループマネージャー(2013年)→チーム統括本部スカウト&ディベロップメント部副部長(2014年 - 2019年) を歴任。


安藤統男: 真弓明信の首位打者、藤田平の2000安打と話題はあったが、小林が「体力、気力の限界」と現役引退を表明。


平野恵一: 2010年は真弓明信監督の指示で再び内野手登録となる。


松中信彦: 一塁手で3回、指名打者で1回同賞を受賞しており、異なる3ポジションでの受賞は真弓明信、落合博満以来3人目。


基満男: 太平洋・クラウンで同僚だった真弓明信は「基さんには、守備から打撃から野球を教わったよ。


日野茂: 太平洋→クラウン時代には真弓明信を育て、西武一軍コーチ時代は練習でも試合でも、常に選手の先頭に立って大声を張り上げて引っ張っていき、二軍監督時代は岡田悦哉前監督から引き継いだチームをイースタン・リーグ3連覇(1985年)に導く。


岡田彰布: オープン戦で本塁打を2本放つ活躍をしたが1980年の先発内野手は、一塁手ヒルトン、二塁手加藤博一、三塁手掛布雅之、遊撃手真弓明信の布陣でスタートした。


村山実: また、主力選手であった真弓明信は故郷の福岡ダイエーホークスへのトレードが決まりかけていたが、村山が自身のクビを賭けて全力で阻止した。


鬼頭政一: 2年連続最下位に終わったが、在任中は真弓明信・吉岡悟・鈴木治彦・若菜嘉晴・大田卓司・山村善則を積極的に起用。


江夏豊: 1980年7月22日のオールスターゲーム第3戦(後楽園球場)では、セ・リーグが2-0と勝っていたが9回裏に1点差まで詰め寄られ、無死満塁のピンチを背負った野村収(大洋ホエールズ)を救援し、レオン・リー、有藤通世(共にロッテオリオンズ)、山内新一(南海ホークス)を3者連続三振に打ち取り、先制打を放った真弓明信、本塁打を放った掛布雅之を抑えてMVPを獲得した。


竹之内雅史: 1979年、田淵幸一・古沢憲司とのトレードで真弓明信・若菜嘉晴・竹田和史と共に阪神タイガースへ移籍し、開幕から4番打者に座る。


掛布雅之: ただし、若くして引退したため、解説者になった当初は現役時代の同僚だった真弓明信や阪神以外にも中畑清、落合博満、村田兆治といった自身より年上の現役選手も多くいたため、そういう選手に対しては「~選手」と敬称を付けていた。


弘田澄男: 22打数3安打0本塁打で打率.136と指名打者の成績としては物足りなかったものの、3安打の全ては後続のクリーンナップへチャンスをつなげる役割を果たしており、特に第1戦の8回表には真弓明信の二塁打を足掛かりに弘田が送りバントから打球が一、二塁間を抜けるヒットへと作戦を変えるバスターで出塁して、3番打者のランディ・バースが試合を決める3ランホームランを演出した。


岡田彰布: しかし当時の野手陣には三塁手に「ミスター・タイガース」掛布雅之、遊撃手として岡田が入団する前年に太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズから加入して、後に岡田の後任で阪神監督を務めることになる真弓明信、二塁手に中村勝広・榊原良行と、ヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトン、一塁手に真弓が加入前まで遊撃手だった藤田平がおり、岡田の入る場所は無かった。


ドン=ブレイザー: この年の阪神はブレイザー自身が敢行した開幕前のクラウンライターライオンズとのいわゆる「世紀のトレード」(田淵幸一、古沢憲司を放出し、真弓明信、若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史を獲得)や、江川事件によって読売ジャイアンツから小林繁を獲得しての戦力アップも要因の一つだが、ブレイザーの手腕による面も大きかった。


湯浅明彦: 真弓明信が打ったサヨナラホームランの打球が自分のすぐそばに飛んできたことがあるという。


若菜嘉晴: 柳川商業から阪神時代までチームメートであった真弓明信とは「ナッパ」、「ジョー」と呼び合うなど、親友として知られる。


金本知憲: 同年4月14日の対巨人戦で犠牲フライを本塁に返球できなかったり、17日の対横浜戦では二塁走者の生還を2度許すなど満足な送球ができず、打撃でも打率.167と不振であったため、翌18日の試合前に真弓明信監督に「これ以上出てもチームに迷惑をかける」と自ら申し出てスタメンから外れ、左翼守備を葛城育郎に譲った。


曽田康二: 初奪三振:同上、8回表に真弓明信から


梨田昌孝: 近鉄は小林繁投手コーチ、真弓明信打撃コーチ(後にヘッド兼打撃コーチ)と梨田の3人を『近鉄男前三人衆』として売り出し、この3人を起用した近鉄百貨店の広告が近鉄沿線の駅ポスターや車内中吊りに掲げられた。


真弓明信の情報まとめ

もしもしロボ

真弓 明信(まゆみ あきのぶ)さんの誕生日は1953年7月12日です。熊本出身の野球選手のようです。

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結婚、テレビ、引退、事件、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。真弓明信の現在の年齢は71歳のようです。

真弓明信のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

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真弓 明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日 - )は、福岡県大牟田市出身(熊本県玉名郡南関町生まれ)の元プロ野球選手(外野手、内野手)、野球解説者・野球評論家、タレント。2009年から2011年まで阪神タイガース第31代監督を務めた。

熊本県玉名郡南関町生まれだが、小学3年生の時に福岡県大牟田市へ転居。小学6年生の時に、同じ社宅に暮らす原貢(後に読売ジャイアンツに入団する原辰徳の父)が監督を務める三池工業高校が夏の甲子園で優勝し、その優勝パレードに感動したことがきっかけで野球選手を志すようになった。

歴木中学校進学後に本格的に野球を始めるが、野球部以外の運動部も掛け持ちで参加していた。特に、陸上部では三段跳で11 m 99 cmを記録し、大会で2位に入賞したことがある。

柳川商業高校では若菜嘉晴と同期だった。若菜は、中学校時代に地元のライバル校だった羽犬塚中学校に在籍しており、地区大会の準決勝で対戦したこともあった。高校では1年次からベンチ入りし、2年次からは遊撃手、三塁手としてレギュラーを獲得。チーム自体は「九州一の強豪」という評価を受け、1970年春季九州大会では福岡県予選南部決勝まで進むが、大濠高に敗退。その後も県予選で敗れ、在学中に甲子園に出場することはなかった。

若菜は高卒で地元の福岡に本拠地を置く西鉄ライオンズに入団し、真弓は社会人野球の電電九州に進んだ。電電九州では、正遊撃手およびその控え選手の故障で、1年目から遊撃手のスタメンを得ることとなり、第43回都市対抗野球大会でベスト8となり日本産業対抗野球大会にも出場した。それらの活躍もあり、1972年のドラフト会議で西鉄から3位指名され、その後ライオンズの経営を引き継いだ福岡野球株式会社と契約。1年前に入団した若菜と再び同僚になった。背番号は2。担当スカウトは武末悉昌。

1973年5月5日の対日拓ホームフライヤーズ戦(平和台野球場)で、9回表に遊撃手の守備固めとしてプロ初出場。守備機会はなかった。5月15日の対阪急ブレーブス戦でも9回裏から遊撃手の守備固めとして出場するも、2つのエラー(記録上は、1つは内野安打)を喫し、翌日二軍落ちする。同年7月よりおよそ3か月間、アメリカの1A・ローダイ・ライオンズに留学する。このアメリカ留学で、当時日本ではそれほど行われていなかったウエイトトレーニングを練習に加えるようになった。

1974年から背番号が42に変更される。本人は、スポーツ新聞の記事でこのことを知った。同年は、23試合に出場しプロ初安打を放った。

1975年に当時の監督江藤愼一から打撃の才能を見い出され、一軍定着を果たす。同年にはプロ初本塁打・初打点を挙げている。フロントはキャンプでの成果によっては解雇するつもりだったとされるが、それを聞いた江藤が「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と球団に抗議して残留となった。

1977年に、福本豊の使うタイプのバット(いわゆるタイ・カッブ式)を使用するようになる。同年は主に中堅手として70試合に先発出場を果たす。同年のシーズン後に結婚。後に、3人の娘を授かっている。

1978年には、5月から一番打者、遊撃手に定着、初の規定打席(リーグ18位、打率.280)に到達する。同年は、オールスターゲームに初選出され、遊撃手のベストナインにも選ばれた。

1978年オフに田淵幸一、古沢憲司との「世紀のトレード」で若菜、竹之内雅史、竹田和史とともに阪神に移籍することになる(実際には田淵と真弓、若菜、竹田との1対3のトレード、古沢と竹之内の1対1との2つのトレードがまとまった形となって、真弓もそのように語っていた)。本人は球団が国土計画に売却され、本拠地が福岡県から埼玉県所沢市に移ることから引っ越しの準備中だった。当初、阪神へのトレードは真弓ではなく永射保で話が進んでおり、真弓は西武へ行く若手選手を集めた秋季練習にも参加していたが、阪神の新監督に就任したドン・ブレイザーが機動力のある野手を望んだため、永射ではなく真弓になったという。トレードはテレビのインタビューで初めて知り、「セ・リーグだったら名前も売れるだろうな」と思ったという。後に球団から正式にトレードを通告された時は、思わず「ありがとうございます」と言ってしまった程嬉しかったと後年振り返っている。阪神移籍する前の太平洋時代に同僚に誘われ、後楽園球場の巨人対阪神戦を観戦していたことがあり、満員のファンの前でプレーをしてみたいと感じたことがあったという。移籍後の背番号は7となった。

移籍1年目の1979年から、1番・遊撃手として定着。長打力のある1番打者として移籍後も変わらぬ活躍を見せ、同年5月20日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)ではサイクル安打を達成する。この試合では、自身2本目の初回先頭打者本塁打を放っている。同年は125試合に出場し、自身初の二桁本塁打となる13本塁打を放った。

1980年は、中西太打撃コーチ(同シーズン途中から監督代行)の指導により、飛距離の出やすい細く軽いバットを使用するようになり、1番打者ながらセ・リーグ5位タイの29本塁打を放った。10月12日には、対中日戦ダブルヘッダー(ナゴヤ)で、ダブルヘッダー2試合連続初回先頭打者本塁打を達成する。

1981年は、故障の影響もあり前年よりは成績が落ちたものの、翌1982年には全130試合に出場。同年は打率.293で、初の打撃ベストテン入り(10位)を果たした。

1983年には岡田彰布の故障で7月12日対巨人戦から二塁手に転向し、若松勉に競り勝ち打率.353で首位打者を獲得。二塁手のベストナインにも選出される。残り10試合になった際に、首位打者のタイトルのために安藤統男監督から欠場を勧められるが、これを断固拒否し試合に出場した。

1984年も岡田が一時外野手にコンバートされたことにより、そのまま二塁手のレギュラーを務めた。同年、通算1000試合出場と通算1000安打を達成している。

1985年にこの年就任した吉田義男監督の指示で岡田と入れ替わる形で外野手(主に右翼手)に転向した。真弓はライオンズ時代の1977年は主に外野手で出場していたので経験済みのポジションであった。外野手はライバルが大型選手や外国人選手であることが多く、意識して長打を狙うようになったと後年振り返っている。同年6月9日の対横浜大洋ホエールズ戦(札幌円山球場)でセカンドランナーだった真弓は元同僚である若菜と本塁で交錯し、左肋骨不全骨折で1か月弱戦線を離脱するものの、1番打者として、打率.322(リーグ5位)、自己最多の34本塁打、84打点の好成績でリーグ優勝に貢献、外野手のベストナインにも選出された(この受賞で、クラウン時代と合わせて、3つのポジションでベストナインを受賞した。3ポジションでのベストナイン受賞は落合博満に続き史上2人目であった)。日本シリーズでは奇しくも古巣ライオンズとの対戦になり、元同僚の東尾との対戦もしていた。シリーズでもペナントレースの勢いをそのままに打率.360、2本塁打と活躍、2リーグ分裂後初めての日本一に貢献をして優秀選手賞にも選ばれた。

1986年は、7月6日の対巨人戦(甲子園)で、水野雄仁から自身2回目の5試合連続本塁打を記録。同本塁打は、阪神球団通算4500本目の本塁打であった。同年は、2年連続の打率3割を記録、本塁打も28本放った。このシーズンの掛布雅之故障離脱中は真弓が三塁手に回っている。

1987年は、10月13日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮球場)で、荒木大輔から通算41本目(セ・リーグでは38本目)の初回先頭打者本塁打を記録。同記録は歴代2位で、セ・リーグのみの記録としてはリーグ最多である。

1988年は、自身2度目の全試合出場を果たす。また同年には、個人事務所として「有限会社オフィス眞弓」を設立している。

1989年7月23日の対巨人戦(甲子園)で、桑田真澄から本塁打を放ち通算250本塁打を達成するも、12年間続けていた100試合出場が途切れる。

1989年シーズン限りで、真弓より2歳年上の 佐野仙好が引退してチーム最年長選手となり、翌1990年シーズン限りで真弓より3歳年下だが、阪神入りは4年早い工藤一彦が引退したことで、真弓が1979年に阪神に移籍した時点で阪神に在籍していた選手が誰もいなくなり、移籍選手であるにもかかわらず、1995年の引退まで真弓がチーム在籍最古参選手となった。

1992年以降は、新庄剛志・亀山努・久慈照嘉らの台頭で代打中心の出場となった。同年には、代打満塁本塁打を放つなど活躍し、阪神で唯一のファン投票でのオールスター出場を果たす。また、通算3000塁打も達成している。

1994年には代打の切り札として、代打逆転満塁本塁打を放つなど活躍。代打で17安打・30打点と勝負強さを発揮した。同年の代打30打点は日本記録である。

1995年のシーズンでは、阪神・淡路大震災で満足な自主トレーニングができず、急ピッチな調整の結果足の肉離れを発症し阪神移籍後としては初めて開幕を二軍で迎えた。怪我や調整失敗の影響からかバッティングが不振を極めた。その結果二軍落ちも度々経験し、8月頭には再び足の肉離れで3度目の二軍落ち、そしてシーズン終盤フロントと話し合い、球団は引退試合やセレモニーも用意して引退を勧めたが、真弓はこれを固辞して現役にこだわった。交渉は決裂し、他に獲得の意思を示した球団もなかったため、そのまま現役を引退した。この年のシーズン開幕前の阪神・淡路大震災の影響で自宅には被害がなかったが甲子園・鳴尾浜球場までの移動が困難になったため、原付バイクで通い、若手選手に交じって選手寮虎風荘に寝泊まりしていたことがあった。

現役引退後は朝日放送・サンテレビの野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めた。

2000年に大阪近鉄バファローズの一軍打撃コーチに就任。背番号は75。当時、監督の梨田昌孝、投手コーチの小林繁とともに「男前首脳陣」として話題となり、3名で洋菓子メーカーモロゾフのホワイトデーイメージキャラクターにも起用された。

2002年から一軍ヘッドコーチとなる。同年8月16日の対西武戦(西武ドーム)では、前の試合で退場処分を受けて出場停止だった梨田に代わって監督代行を務めた。2回途中で西武先発の松坂大輔をノックアウトし、この回の終了時点で近鉄が9-0とリードしていたが、近鉄先発のジェレミー・パウエルが突然崩れ、4回終了時点で9-10と逆転を許す。7回表に吉岡雄二が同点本塁打を放つものの、その裏に松井稼頭央の2点本塁打で勝ち越され、そのまま10-12で敗れた。9点以上の差を逆転されての敗戦は史上7度目のことであった。

2004年に近鉄とオリックス・ブルーウェーブの合併に伴ってヘッドコーチを退任し、翌2005年から前述の解説に復帰した。また、一時期洋服の青山のイメージキャラクターを務めており、降板後もチラシのモデルで登場している。朝日オートセンターのCMには長く出ていて、同社でイベントがあるときは、解説者時代にもゲストとして呼ばれることがあった。

2007年夏、梨田が北海道日本ハムファイターズから監督就任を要請された際、すぐに真弓にヘッドコーチを打診。だが、真弓は親族の世話をみることを理由に断った。

2008年に阪神がリーグ優勝を逃した責任を取って監督を辞任した岡田彰布の後任として、10月23日に阪神の監督就任を球団から要請され受諾。10月27日に正式に就任が発表された。就任時の会見で「投手を含めた、センターラインもそうだが、守りが重要。守れるチームが強い、日本一を狙えるチーム」と語った。背番号は本人の希望から太平洋入団時の2と阪神時代の7を合わせた72となり、秋季キャンプからチームの指揮に当たった。キャンプ視察などもありこの年のドラフト会議は12球団の監督の中で唯一欠席した。

就任1年目の2009年に、盤石のリリーフ陣「JFK」の一角として活躍した久保田智之の先発転向、新井貴浩の一塁からのコンバート、今岡誠のファーストコンバート、新外国人ケビン・メンチの右翼手固定を行ったが、成績は上向かず、自身の誕生日でもある7月12日に自力優勝の可能性がなくなった。しかし、打線ではシーズン途中に入団したクレイグ・ブラゼルの活躍、鳥谷敬と新井の後半戦での復調、投手陣は入団以降伸び悩みが続いていた能見篤史をエースとして一本立ちさせた好材料もあり、8カード連続で勝ち越すなど順調に勝ち星を重ね、ヤクルトの失速もあり猛烈な3位争いを繰り広げた。しかし結局、10月9日の最終戦でヤクルトに敗れ4位となり、クライマックスシリーズ出場はならなかった。

2010年はシアトル・マリナーズから城島健司、新外国人選手としてマット・マートン、ランディ・メッセンジャーらが加入しチームの底上げを図った。野手では一塁手に前年途中入団したクレイグ・ブラゼル、二塁手には関本賢太郎とのレギュラー争いを制した平野恵一、三塁手には新井貴浩を起用し、マートンは右翼手で金本は引き続き左翼手として起用した。このため野手の布陣で生え抜きのレギュラーは遊撃手の鳥谷のみとなり外様で大きく固められた打線となった。金本は右肩の故障で連続フルイニング出場が途切れることにはなったが、その代役として4番を新井に据えたが前年とは比較にならないほど打線が好調で、1リーグ時代を除けば球団最高のチーム打率となる.2895、3割打者5人、90打点以上5人(うち100打点以上3人)、チーム安打は1458を記録して60年ぶりにセ・リーグ記録を更新した。オールスター前は首位で折り返したが、8月・9月と2か月連続で負け越し、特にナゴヤドームでは2勝10敗と大きく負け越したことが響き、5年ぶりの優勝は逃した。シーズン終了時点では3位だったが2位の巨人が最終戦で敗れたことでペナントレースは2位に繰り上がってCS初の甲子園での開催権を獲得した。その2年ぶりのCSでは3位・巨人と対戦したが2連敗で敗退した。

2011年から新たに2年契約を結んだが、このシーズンは打線に前年ほどの好調さはなく、6月には最下位に沈むこともあった。同月に開かれた親会社阪神電気鉄道の株主総会では株主から真弓の選手起用や続投に苦言が呈される一幕もあった。その後、一時は2位まで順位を上げたものの失速し、3位争いをすることとなった。9月には、順位に関係なく来季続投との報道がなされ、一部では続投要請が出されたとも書かれたが、坂井信也オーナーは続投が既定路線であるとも述べつつも、要請自体については否定した。しかしながら、続投への反発がファンから沸き起こり、9月末の試合では応援メガホンがスタンドから投げ込まれ、10月には観戦に来ていた坂井オーナーにファンが野次を飛ばすこともあった。チームも4位に沈み、巨人とのクライマックスシリーズ出場権争いを行っていたが成績は上向かず、10月中頃に前月の報道を覆して、成績によって解任するとの報道がなされた。10月16日にレギュラーシーズン4位以下が確定して2年ぶりのBクラスとなり、同日、クライマックスシリーズに駒を進めることができなかった責任を取るとして監督を辞任することが球団から発表された。シーズン最終戦まで指揮を執り、最終的なチーム打率は.255でリーグ1位、防御率は3位だった。カード別勝敗では優勝の中日に9勝13敗と負け越したものの、ヤクルトに14勝10敗、横浜に12勝10敗2分け、巨人とは11勝11敗2分け、広島にも12勝12敗と、数字上は中日以外とは互角、もしくは勝ち越している。しかし、最大連勝はわずか「4」と、ここぞという勝負時に勝てない試合がシーズンを通して続いた。25日の辞任会見ではBクラスに終わった理由を「監督としての力がなかった」と語った。阪神OBの江夏豊は「通算勝率は5割を上回っており、決して悪い監督ではない」とフォローする一方で、采配については問題があったと指摘している。

2012年からは再び朝日放送・サンテレビの野球解説者、日刊スポーツの野球評論家を務める。

初球を打って本塁打・長打になることが多かった。初回先頭打者本塁打を通算41本打っており、福本豊に次ぐ歴代2位の記録を持っている。そのため、福本と共に「史上最強の1番打者」として名前を挙げられることも多い。堅守・俊足の選手でもあり、3つの異なるポジション(遊撃手・二塁手・外野手)でベストナインを受賞している。また、ライトゴロも記録している。三塁手や一塁手の守備経験もあることから、ユーティリティプレイヤーの素質も兼ね備え、走塁面でもシーズン34盗塁を記録したこともある。

プロ入り当初は主に守備固めとして、全盛期は中軸打者、後年は代打の切り札と様々な出場条件にもかかわらず、その全てで結果を出せる実力と人気を兼ね備えた選手であった。しかし怪我もやや多く、ライオンズ時代の1978年から11年連続規定打席に達していたが、欠場が一桁にとどまったシーズンは4シーズンだった。

1982年のシーズン中、11連勝から一転8連敗を喫し(6月から7月にかけての時期だった)、チーム全体が重苦しい雰囲気で悪循環に陥っていた時に、移動バスの中で加藤博一とともに突然「馬鹿騒ぎ」をし、コーチが2人に謝りながら鉄拳制裁を行い、その光景が面白かったためにチームの雰囲気が一変、ようやく連敗から脱出できたというエピソードを、著書『ジョーの野球讃歌』で語っている。また、同年の8月31日には刑事事件にまで発展した横浜スタジアム審判集団暴行事件が起きて、当時コーチだった島野育夫と柴田猛が打席に入っていた藤田平の三塁方向への飛球から大洋の石橋貢の守備(フェアゾーンで捕球態勢に入っていた石橋が捕れずにファウルゾーンに転がったが、三塁の塁審だった鷲谷亘が石橋のグラブに当たっていないとファールの判定していた場面)を巡って抗議をして、後に鷲谷と岡田功らへの暴力行為によって退場となり、その時に島野と柴田以外のほとんどの選手までもが集団で審判員に取り囲んだりしていたが、それを止めに入っていた選手は真弓だけだったという。

ヒッティングマーチ(応援歌)の原曲は「ミッキーマウス・マーチ」で、代打の時は、1度しかない打席でファンがヒッティングマーチで楽しんでほしいという意図から、真弓はコールされてから打席に入るまでの時間を遅くし、初球にも手を出さなかった。1980年代後半頃は、真弓の打席で外野スタンドのファンがこの曲に合わせて「真弓、真弓、ホームラン」と歌いながら1列になって左右に移動する光景が見られた。この動きは真弓ダンスと呼ばれたが、このダンスで甲子園の外野スタンド自体がわずかながら揺れていることが明らかになり、スタンドが老朽化していた(耐震補強工事は阪神淡路大震災の後に行われた)こともあってこのダンスは自粛されることになった。現在では、タイガースが勝利した後、阪神高速の高架下にファンが集まって、真弓ダンスをするのが恒例となっている。なお、同時期に中日ドラゴンズに在籍したケン・モッカの応援歌にもこの曲が使用されていた。

2010年9月9日の中日ドラゴンズ戦では延長10回裏にクレイグ・ブラゼルの退場処分が下されたが、野手を使い切っていたために交代要員不在という事態となり、投手の西村憲を外野手として起用。試合は引き分けに終わっている。 2011年9月23日にも上記と酷似した状況で、西村が代走で出場している。 投手采配は投手コーチの久保康生(高校の5年後輩)に任せていた。

名字の漢字は、戸籍上は旧字体で「眞弓」と書くが、NPB公式サイト・阪神タイガース公式サイト・自身の公式サイトなど対外的な通名として、常用漢字で「真弓」と表記している。

真弓という名字は、隠岐次郎左衛門広有が後醍醐天皇から与えられた姓であり、真弓明信は、この隠岐次郎左衛門広有の子孫であるという。

愛称は「ジョー」(Joe)。アメリカに野球留学した際、青木一三に「お前はジョー・ディマジオのような選手になれ」という理由で付けられた。

通算先頭打者本塁打歴代2位の記録を持ち、1983年に首位打者を獲得、1985年には一番打者として打率.322、34本塁打というクリーンアップ並みの成績を残したことなどから、「史上最強の1番打者」または「恐怖の1番打者」とも言われている。

糸井嘉男がプロ野球選手になりたいと思ったのは糸井が小学3年生の頃に直接試合を観戦して真弓の本塁打をみたことで憧れを抱いたのが理由の一つと糸井は語っている。奇しくも、糸井自身も2017年に阪神に入団して背番号7を背負っていた。

各年度の太字はリーグ最高

太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に球団名を変更

※通算成績には2002年近鉄での監督代行1試合(敗戦)を含む

首位打者:1回 (1983年)

ベストナイン:3回 (1978年、1983年、1985年)

日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1985年)

月間MVP:1回 (1985年9月)

サンスポMVP大賞:1回 (1991年)

ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」 (2011年)

初出場:1973年5月5日、対日拓ホームフライヤーズ前期6回戦(平和台野球場)、9回表に遊撃手で出場

初盗塁:1974年4月29日 対ロッテオリオンズ前期5回戦(川崎球場)、9回表に二盗(投手:八木沢荘六、捕手:榊親一)

初安打:1974年6月23日 対南海ホークス前期13回戦(平和台野球場)、9回裏に田中章の代打で出場、山内新一から単打

初先発出場:1974年9月29日、対ロッテオリオンズ後期13回戦(平和台野球場)、8番・二塁手で先発出場

初打点:1975年6月22日、対阪急ブレーブス前期13回戦(平和台野球場)、7回裏に今井雄太郎から

初本塁打:1975年8月20日、対日本ハムファイターズ後期8回戦(後楽園球場)、9回表に野村収からソロ

100本塁打:1983年9月6日、対読売ジャイアンツ22回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に江川卓から左越2ラン ※史上128人目

1000試合出場:1984年6月28日、対ヤクルトスワローズ16回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に吉竹春樹の代打で出場 ※史上247人目

1000本安打:1984年8月19日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、6回表に川口和久から右前安打 ※史上128人目

150本塁打:1985年7月10日、対ヤクルトスワローズ12回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に梶間健一から左越先頭打者本塁打 ※史上77人目

200本塁打:1987年5月4日 対横浜大洋ホエールズ6回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に堀井幹夫から左越ソロ ※史上52人目

1500本安打:1988年4月27日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に欠端光則から左前安打 ※史上56人目

1500試合出場:1988年7月31日、対横浜大洋ホエールズ19回戦(阪神甲子園球場)、5番・右翼手で先発出場 ※史上89人目

250本塁打:1989年7月23日 対読売ジャイアンツ19回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に桑田真澄から左中間へ2ラン ※史上30人目

3000塁打:1991年9月26日、対ヤクルトスワローズ26回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に川崎憲次郎から適時二塁打 ※史上31人目

2000試合出場:1994年7月31日、対横浜ベイスターズ18回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に藪恵市の代打で出場 ※史上28人目

サイクルヒット:1979年5月20日、対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)、(1回:本塁打、3回:単打、5回:三振、7回:二塁打、9回:三塁打)※史上31人目

通算初回先頭打者本塁打:41本(表24本、裏17本)※歴代2位

セ・リーグ通算初回先頭打者本塁打:38本(表21本、裏17本)※セ・リーグ記録

5試合連続本塁打:2回(1980年6月25日 - 7月6日、1986年7月1日 - 6日)

代打3打席連続本塁打 ※史上2人目(過去の達成者は1984年マーシャル・ブラント、後に1996年藤立次郎・2011年ジョシュ・ホワイトセルが記録)

    1989年5月31日、対ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)、9回表に内藤尚行からソロ

    1989年6月1日、対ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、9回表に尾花高夫から2ラン

    1989年6月18日、対横浜大洋ホエールズ10回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に欠端光則から3ラン

    シーズン代打打点:30(1994年)※日本記録

    オールスターゲーム出場:9回 (1978年、1980年 - 1982年、1985年 - 1988年、1991年)

    2 (1973年)

    42 (1974年 - 1978年)

    7 (1979年 - 1995年)

    75 (2000年 - 2004年)

    72 (2009年 - 2011年)

    全て2012年復帰

    スーパーベースボール(朝日放送テレビテレビ朝日系列)

    ABCフレッシュアップベースボール(ABCラジオ・JRN/NRN系列)

    サンテレビボックス席(サンテレビジョン)

    真弓&勝成のExpert GOLF(サンテレビジョン)

    探偵!ナイトスクープ(朝日放送テレビ、顧問として)

    忍者返し水の城 宇都宮釣り天井の謎(テレビ朝日、俳優として出演、1996年4月30日)

    おはよう朝日です(朝日放送テレビ、木曜スポーツコーナー担当、木曜6:45 - 7:58 2008年1月 - 10月)

    元気イチバン!!ぶっちぎりプレイボール(ABCラジオ、水曜17:30 - 17:55 2008年4月 - 10月)

    真弓明信の思いっきりゴルフ(サンテレビ

    アスリートゴルフ(サンテレビ

    江連忠のGRADE.GOLF(サンテレビ):プロゴルファー江連忠と共演

    熱血!!タイガース党(サンテレビ):1999年の党首=総合司会を担当

    伊藤史隆のOn-site RADIO(ABCラジオ、2016年9月26日)

    阪神電気鉄道:阪神なんば線

    朝日オートセンター

    東光リミー・ドルチェマルガリータ(ゴルフウェア)

    オートバックス(掛布雅之と共演、阪神選手時代)

    ヤマトインターナショナル「クロコダイルウェア」(当時の阪神主力選手たちと共演)

    『熱球悲願"ジョー"の野球讃歌』(恒文社、1983年)ISBN 4770405189

    『猛虎は死なず』(ベースボール・マガジン社、1991年)ISBN 4583029497

    『タイガースに捧ぐ』(ザ・マサダ、1996年)ISBN 4915977242

    『新装版 猛虎は死なず』(ベースボール・マガジン社、2009年)ISBN 9784583101590

    本多史泰著『Good bye!真弓明信:1995年のピリオド.』(一番出版、1996年)ISBN 4795216371

    「男の夢」(1985年、作詞:高田直和、作曲:三木たかし)

    「愛はふたたび」(1985年、村尾亜紀とデュエット、作詞:高田直和、作曲:三木たかし)

    ^ ドラフト指名時点ではまだ「西鉄ライオンズ」だった。入団直後のキャンプではまだ太平洋のユニフォームが出来上がっていなかったため、西鉄のユニフォームを着用しており、2009年に発売された『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝』Vol.6で真弓が西鉄のユニフォームで練習をしている貴重な映像が収録されている。また、1978年10月17日の球団売却・25日の商号変更から12月6日のトレード成立までの僅かな期間「西武ライオンズ」所属だったことになる。

    ^ 2008年のCSは改修工事で甲子園が使用できず京セラドーム大阪で開催した。

    ^ 外野手に転向後に掛布が欠場時に三塁、バースが欠場時に一塁を守っている。現役最後の試合では一塁を守った。

    ^ この4シーズンのうち、1982年と1988年は全試合出場。後は1979年が5試合、1986年が7試合欠場だった。阪神がリーグ優勝、日本一を達成した1985年は11試合、首位打者を獲得した1983年は18試合欠場している。1978年から88年までの規定打席に到達していた期間で最も多く欠場した年は1981年で19試合。

    ^ ベースボール・マガジン社が1989年に発行した『激動の昭和スポーツ史 2 プロ野球編(下)』の「昭和57年」の項「阪神コーチが審判に暴行」の記事で、暴行したコーチ陣を真弓が止めに入っている状態の写真が1枚のみ掲載されている。

    ^ こうした例は、八木沢(八木澤)荘六や谷沢(谷澤)健一などにもみられる。

    ^ “プロフィール - オフィス真弓”. 2018年3月31日閲覧。

    ^ 高校時代 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ 『野球小僧 6月号 2012』白夜書房、p.205

    ^ ノンプロ時代 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ 西鉄-太平洋時代 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ アメリカ野球留学 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ 太平洋-クラウン時代 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ ベースボールマガジン社ムック「俺たちの太平洋・クラウン 福岡ライオンズ、最後の6年間」で若菜嘉晴が証言。また、真弓自身もライオンズ最終年にレギュラーに定着してベストナインも獲得していたので、トレードがあるとは思っていなかったのと、若菜は真弓より先に自身のトレードを知らされていた模様で秋季練習には参加していなかったと述べている。

    ^ 【1月22日】1979年(昭54) もう食事の心配なし!真弓明信 新天地で張り切る

    ^ [1]

    ^ 阪神タイガース選手時代 前篇 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ 30年前の熱気よ、もう一度 阪神タイガース、天地を行く(1)

    ^ 真弓明信が今だから明かしてくれたホームランを打つための“狙い球”。

    ^ 【プロ野球OBに会いに行く】若菜さんも参った!木下富雄さんの走塁【若菜嘉晴】【高橋慶彦】 - YouTube

    ^ 阪神タイガース選手時代 日本一篇 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ 阪神タイガース選手時代 後篇 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ 【9月27日】1995年(平7) 異例の4時間討議の末に…真弓明信に引退勧告

    ^ 震災年オフに引退…原付通勤も 真弓明信氏の回顧録

    ^ 真弓・梨田「男前対決」 阪神、30日から日ハム戦 朝日新聞、2009年5月30日

    ^ 阪神真弓新監督「誠心誠意戦う」 日刊スポーツ、2008年10月28日。

    ^ “14失点大敗…また最下位、真弓虎ズタボロ”. SANSPO.COM (2011年6月6日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ “株主容赦なし!虎・坂井オーナーがタジタジ”. SANSPO.COM (2011年6月17日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ “続投!阪神・真弓監督にノルマないの?”. SANSPO.COM (2011年9月13日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ “真弓監督5位でも続投!南社長が明言”. デイリースポーツ (2011年9月13日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ “虎・総帥、真弓監督続投要請「知らん!」”. SANSPO.COM (2011年9月22日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ “阪神・真弓監督へ虎党怒りのメガホン投げ”. SANSPO.COM (2011年9月30日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ “大事件!!阪神・坂井オーナー、ヤジられた”. SANSPO.COM (2011年10月3日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ “阪神決断!CS逃せば真弓監督解任!!!”. SANSPO.COM (2011年10月13日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ “阪神の真弓監督が辞任 CS進出消滅で”. デイリースポーツ (2011年10月16日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ “阪神、CS消滅で真弓監督の“辞任”発表”. SANSPO.COM (2011年10月16日). 2011年10月16日閲覧。

    ^ Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ 眞弓の姓の由来 | Profile | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    ^ ベースボールマガジン社ムック「俺たちのパシフィック・リーグ クラウンライター・ライオンズ」29ページ

    ^ 引退の糸井 小3の夏に見た「背番号7」に心が震えた 涙が止まらなかったトレード通告” (2022年9月22日). 2022年9月22日閲覧。

    ^ “【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2016年11月23日). https://www.sanspo.com/gallery/20161122-JEYGFEERFFNUPIAFIRRQJ3A66A/ 2017年9月8日閲覧。 

    ^ Data | 真弓明信オフィシャルウェブサイト

    福岡県出身の人物一覧

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    日本人のマイナーリーグ選手一覧

    プロ野球28会

    ミッキーマウス・マーチ - 真弓明信の阪神時代のヒッティングマーチの原曲。

    キン肉真弓 - 真弓明信がこのキャラクターの名前の由来になっている。

    個人年度別成績 真弓明信 - NPB.jp 日本野球機構

    選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

    オフィス眞弓

    森茂雄 1936

    石本秀一 1936 - 1939

    松木謙治郎 1940 - 1941

    若林忠志 1942 - 1944

    藤村富美男 1946

    若林忠志 1947 - 1949

    松木謙治郎 1950 - 1954

    岸一郎 1955

    藤村富美男 1955 - 1957

    田中義雄 1958 - 1959

    金田正泰 1960 - 1961

    藤本定義 1961 - 1965

    杉下茂 1966

    藤本定義 1966 - 1968

    後藤次男 1969

    村山実 1970 - 1972

    金田正泰 1973 - 1974

    吉田義男 1975 - 1977

    後藤次男 1978

    ドン・ブレイザー 1979 - 1980

    中西太 1980 - 1981

    安藤統男(統夫) 1982 - 1984

    吉田義男 1985 - 1987

    村山実 1988 - 1989

    中村勝広 1990 - 1995

    藤田平 1996

    吉田義男 1997 - 1998

    野村克也 1999 - 2001

    星野仙一 2002 - 2003

    岡田彰布 2004 - 2008

    真弓明信 2009 - 2011

    和田豊 2012 - 2015

    金本知憲 2016 - 2018

    矢野燿大 2019 - 2022

    岡田彰布 2023 - 2024

    藤川球児 2025 - 現在

    1957 豊田泰光

    1958 中西太

    1959 杉山光平

    1960 近藤和彦

    1961 塩原明

    1962 岩下光一

    1963 王貞治

    1964 K.ハドリ

    1965 林俊彦

    1966 長嶋茂雄

    1967 D.スペンサー

    1968 柴田勲

    1969 足立光宏

    1970 黒江透修

    1971 黒江透修

    1972 長嶋茂雄

    1973 高田繁

    1974 山崎裕之

    1975 中沢伸二, 外木場義郎

    1976 B.ウイリアムス

    1977 福本豊

    1978 若松勉

    1979 水谷実雄

    1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰

    1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正

    1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義

    1983 田淵幸一, テリー, 中畑清

    1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊

    1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二

    1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実

    1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己

    1988 清原和博, 森山良二, 郭源治

    1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸

    1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤

    1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎

    1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也

    1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也

    1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦

    1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾

    1996 大島公一, 鈴木平, イチロー

    1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛

    1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広

    1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司

    2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成

    2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満

    2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之

    2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎

    2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信

    2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁

    2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲

    2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博

    2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広

    2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一

    2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平

    2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩

    2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー

    2013 田中将大, 銀次, 内海哲也

    2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太

    2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太

    2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔

    2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大

    2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃

    2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩

    2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐

    2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎

    2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆

    2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸

    2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ

    1950 藤村富美男

    1951 川上哲治

    1952 西沢道夫

    1953 川上哲治

    1954 与那嶺要

    1955 川上哲治

    1956 与那嶺要

    1957 与那嶺要

    1958 田宮謙次郎

    1959 長嶋茂雄

    1960 長嶋茂雄

    1961 長嶋茂雄

    1962 森永勝治

    1963 長嶋茂雄

    1964 江藤慎一

    1965 江藤慎一

    1966 長嶋茂雄

    1967 中暁生

    1968 王貞治

    1969 王貞治

    1970 王貞治

    1971 長嶋茂雄

    1972 若松勉

    1973 王貞治

    1974 王貞治

    1975 山本浩二

    1976 谷沢健一

    1977 若松勉

    1978 水谷実雄

    1979 F.ミヤーン

    1980 谷沢健一

    1981 藤田平

    1982 長崎啓二

    1983 真弓明信

    1984 篠塚利夫

    1985 R.バース

    1986 R.バース

    1987 篠塚利夫, 正田耕三

    1988 正田耕三

    1989 W.クロマティ

    1990 J.パチョレック

    1991 古田敦也

    1992 J.ハウエル

    1993 T.オマリー

    1994 A.パウエル

    1995 A.パウエル

    1996 A.パウエル

    1997 鈴木尚典

    1998 鈴木尚典

    1999 R.ローズ

    2000 金城龍彦

    2001 松井秀喜

    2002 福留孝介

    2003 今岡誠

    2004 嶋重宣

    2005 青木宣親

    2006 福留孝介

    2007 青木宣親

    2008 内川聖一

    2009 A.ラミレス

    2010 青木宣親

    2011 長野久義

    2012 阿部慎之助

    2013 T.ブランコ

    2014 M.マートン

    2015 川端慎吾

    2016 坂本勇人

    2017 宮﨑敏郎

    2018 D.ビシエド

    2019 鈴木誠也

    2020 佐野恵太

    2021 鈴木誠也

    2022 村上宗隆

    2023 宮﨑敏郎

    2024 T.オースティン

     投  鈴木啓示

     捕  中沢伸二

     一  柏原純一

     二  B.マルカーノ

     三  島谷金二

     遊  真弓明信

     外  福本豊 / 簑田浩二 / 佐々木恭介

     指  土井正博

     投  遠藤一彦

     捕  山倉和博

     一  谷沢健一

     二  真弓明信

     三  原辰徳

     遊  高橋慶彦

     外  山本浩二 / 田尾安志 / 松本匡史

     投  小松辰雄

     捕  八重樫幸雄

     一  R.バース

     二  岡田彰布

     三  掛布雅之

     遊  高木豊

     外  山崎隆造 / 杉浦享 / 真弓明信

    1位:中島弘美

    2位:山口富雄

    3位:真弓明信

    4位:久木山亮

    5位:上林成行(入団拒否)

    6位:加藤敏彦(入団拒否)

    7位:中川信秀

    8位:貞山健源

    9位:待井昇

    10位:金城致勲

    ISNI

    VIAF

    日本

    日本の野球選手

    柳川高等学校出身の野球選手

    NTTグループ九州野球クラブ及びその前身チームの選手

    埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手

    阪神タイガース及びその前身球団の選手

    首位打者 (NPB)

    NPBオールスターゲーム選出選手

    日本の野球監督

    大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の監督

    阪神タイガース及びその前身球団の監督

    野球解説者

    福岡県出身のスポーツ選手

    熊本県出身のスポーツ選手

    1953年生

    存命人物

    外部リンクがリンク切れになっている記事/2024年1月

    野球に関する記事

    プロジェクト人物伝項目

2024/11/17 02:30更新

mayumi akinobu


真弓明信と同じ誕生日7月12日生まれ、同じ熊本出身の人

吉本 由美(よしもと ゆみ)
1948年7月12日生まれの有名人 熊本出身

7月12日生まれwiki情報なし(2024/11/18 01:06時点)

井上 真二(いのうえ しんじ)
1966年7月12日生まれの有名人 熊本出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 井上 真二(いのうえ しんじ、1966年7月12日 - )は、熊本県玉名郡南関町出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。右投右打。 …

村上 美香(むらかみ みか)
1971年7月12日生まれの有名人 熊本出身

村上 美香(むらかみ みか、1971年7月12日 - )は、日本のフリーアナウンサー。元熊本県民テレビアナウンサー。血液型はB型。既婚。 熊本県熊本市出身。2人姉妹の次女に生まれる。熊本県立第一高等…

松本 野々歩(まつもと ののほ)
1983年7月12日生まれの有名人 熊本出身

松本 野々歩(まつもと ののほ、1983年7月12日 - )は、日本の歌手。熊本県生まれ、東京都出身。 世界のわらべ音楽を親子と届けるユニット「チリンとドロン」や、「あそび」を通して様々な表現を考え…

岩崎 陽子(いわさき ようこ)
1966年7月12日生まれの有名人 熊本出身

岩崎 陽子(いわさき ようこ、1966年7月12日 - )は、日本の漫画家。熊本県上益城郡出身。かに座で、血液型はA型。好きなものはオカルト・酒・和風など。 出典がまったく示されていないか不十分です…


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浅野 真弓_(アーチェリー選手)(あさの まゆみ)
1976年6月27日生まれの有名人 佐賀出身

浅野 真弓(あさの まゆみ、1976年6月27日 - )は、佐賀県出身の女性アーチェリー選手。2000年シドニーオリンピックアーチェリー個人日本代表。 2005年世界選手権で女子個人6位、2006年…

吉田 真弓_(女優)(よしだ まゆみ)
1965年7月17日生まれの有名人 千葉出身

吉田 真弓(よしだ まゆみ、1965年7月17日 - )は、日本の元女優。本名、竹田 真弓(旧姓の本名は芸名と同じ)。 千葉県出身。ジャパンアクションクラブに所属していた。 ジャパンアクションクラ…

吉田 真弓_(声優)(よしだ まゆみ)
1982年8月26日生まれの有名人 神奈川出身

吉田 真弓(よしだ まゆみ、1982年8月26日 - )は、日本の女性声優。アイムエンタープライズ所属。神奈川県出身。 日本ナレーション演技研究所・劇団ヴォアレーヴ出身。日本ナレーション演技研究所の…

真弓 倫子(まゆみ ともこ)
1971年6月27日生まれの有名人 鹿児島出身

真弓 倫子(まゆみ ともこ、1971年6月27日 - )は、日本の元女優、歌手、タレント。鹿児島県出身。エムティ企画に所属していた。 堀越高等学校卒業。 原宿で街頭スカウトされて、芸能界入り。 デ…

小野 真弓(おの まゆみ)
1981年3月12日生まれの有名人 千葉出身

小野 真弓(おの まゆみ、1981年3月12日 - )は、日本の女優・タレント・グラビアアイドル・歌手である。千葉県流山市出身。血液型はO型。サンミュージックプロダクション所属。十文字学園女子大学短期…


梶原 真弓(かじわら まゆみ)
1967年2月12日生まれの有名人 埼玉出身

梶原 真弓(かじわら まゆみ、1967年2月12日 - )は、日本の女優、タレント、声優である。埼玉県戸田市出身。オスカープロモーション所属。 浦和実業学園高等学校卒業。 1985年(昭和60年)…

伊勢 真弓(いせ まゆみ)
1984年11月10日生まれの有名人 広島出身

伊勢 真弓(いせ まゆみ、1984年11月10日 - )は、広島県出身の元レースクイーン、イベントコンパニオンである。 2009年4月末でスタイルコーポレーションを退所。その後結婚し、現在は一時の母…

吉野 真弓(よしの まゆみ)
1971年2月20日生まれの有名人 東京出身

吉野 真弓(よしの まゆみ、1971年2月20日 - )は、日本の女優。東京都出身。旧芸名:木内まさこ。 中学生だった1984年に、5代目ユニチカマスコットガールに選ばれる。高校卒業後の1989年、…

三浦 真弓(みうら まゆみ)
1950年2月13日生まれの有名人 岩手出身

三浦 真弓(みうら まゆみ、1950年2月13日 - )は、日本の女優。本名同じ。 岩手県下閉伊郡岩泉町出身。貞静学園高等学校卒業。文学座、フリーを経て、リューカンパニーに所属していた。 妹は、…

本多 真弓(ほんだ まゆみ)
6月20日生まれの有名人 東京出身

本多 真弓(ほんだ まゆみ、1973年6月20日 - )は、日本の女優、声優、演劇プロデューサー。 桐朋学園短期大学芸術学部演劇学科卒業。劇団青年座研究所卒業。 2001年、本多真弓が演劇ユニット「…


新山 真弓(にいやま まゆみ)
1953年10月18日生まれの有名人 東京出身

新山 真弓(にいやま まゆみ、1953年10月18日 - )は、日本の元女優。本名同じ。旧芸名、笛 真弓。 東京都出身。東洋女子高等学校卒業。オフィス82に所属していた。 1970年代初頭よりテレ…

田中 真弓(たなか まゆみ)
1955年1月15日生まれの有名人 東京出身

田中 真弓(たなか まゆみ、1955年〈昭和30年〉1月15日 - )は、日本の声優、女優、ナレーター。日本芸術専門学校特別講師。本名:阿部 真弓(あべ まゆみ)。東京都渋谷区代々木上原、杉並区浜田山…

浅野 真弓(あさの まゆみ)
1957年1月21日生まれの有名人 東京出身

浅野 真弓(あさの まゆみ、1957年〈昭和32年〉1月21日 - )は、日本の元女優。東京都出身。身長162cm。本名は柳 淳子(やなぎ じゅんこ、旧姓は島田)。旧芸名は島田 淳子(当時の本名)、浅…

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