重光葵の情報(しげみつまもる) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
重光 葵さんについて調べます
■名前・氏名 |
重光葵と関係のある人
広田弘毅: 重光葵によると、広田は巣鴨プリズン収監中に受けた揮毫の依頼には何十篇でも「物來順応 弘毅書」と書き、まるで自身の経文であるかのようで筆跡も見事なものだったという。 ジョン=フォスター=ダレス: 8月19日にダレスは日本の重光葵外務大臣とロンドンで会談を行い、重光に対して北方領土の択捉島・国後島の領有権をソ連に対して主張するよう強く要求し、「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」と指摘して日本側の対ソ和平工作に圧力を加えたとされる。 都留重人: 1942年(昭和17年)、第二次世界大戦勃発(日米開戦)を受けて辞職して交換船で帰国後、妻の伯父である木戸幸一が重光葵に頼み、外務省嘱託として就職。 荒木貞夫: 一方で、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになった。 西春彦: 東郷が欧亜局長に就くと、その部下となるが、東郷が交通事故で入院している間に重光葵の推薦で青島総領事就任が決まってしまう(以後、東郷と重光の関係が、微妙なものになったとされる)。 汪兆銘: 日本側からすれば、広田弘毅を外務大臣、重光葵を外務次官とする和協外交は、「日満支三国の提携共助」によって対中国関係の改善を進めて平和を確保しようとする方向性をもっていた。 小磯国昭: 陸海軍首脳部も一時はこの工作に賛同したが、重光葵外務大臣が猛反対する。 林市蔵: 娘婿 重光葵(外務大臣) 花山信勝: なお被告の重光葵の手記『巣鴨日記』には、長期間の収監で精神的に消耗していた被告たちにとって、花山との接触はひとつの救いでもあった、という旨の記述がある。 東條英機: 重光葵は「敵」である連合軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵と東條との会話の中で「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を図ったのである」と東條は語っていたという。 松井石根: また、重光葵の『巣鴨日記』によると、人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」であり、獄中では常に国民服姿だったという。 戸川猪佐武: 一方、重光葵・佐藤栄作のような官僚タイプの政治家にはあまり好意的でない描写をしている。 広田弘毅: 天羽の発言は広田名義で駐華公使・有吉明に宛てた公電であったが、この公電の内容を指示したのは外務次官の重光葵であった。 木戸幸一: 東條内閣、小磯内閣の総辞職を経た戦争末期には、重光葵と2人で終戦工作に取り組み、6月には和平方針案の「木戸試案」を作成、鈴木貫太郎内閣の面々や陸海軍に和平方針を説いて回るなど、和平派の中心人物の一人として動いた。 加納久朗: 1909年 東京帝国大学入学(同期に重光葵、芦田均)、伊藤多津と結婚 東久邇宮稔彦王: (外務大臣重光葵、参謀総長梅津美治郎)により日本の降伏文書に調印がされ(日本の降伏)、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。 植松三十里: 2012年8月『調印の階段 不屈の外交・重光葵』(PHP研究所)/2015年7月 文庫化 梅津美治郎: 東京裁判の法廷では、広田弘毅や重光葵等と同様に、証言台には立たず、沈黙を守り続けたが、東郷茂徳の証言内容に対しては、声を荒らげて反論する場面もあった。 明石康: 1954年東京大学教養学部アメリカ学科を卒業後、フルブライト留学生として渡米し、バージニア大学大学院を修了、コロンビア大学で学ぶ(25歳の時、重光葵による日本の国連加盟受諾演説を傍聴席で直接観たと語っている)。 綾部健太郎: 戦後、公職追放解除後はしばらく元外務大臣で戦前には衆議院に議席がなかった重光葵の政界入りのために自分の選挙地盤を譲って支援に回ったため国政から離れるが、重光の死後、自由民主党から国政復帰。 三木武夫: 結局11月24日に鳩山一郎を総裁、重光葵を副総裁とする日本民主党が結成される。 阿部牧郎: 『勇断の外相重光葵』新潮社 1997 沢田廉三: だが素地をつくり、1956年12月に、後任の加瀬俊一の在任時に国連加盟が実現、重光葵(先輩・上司にあたる)外相が議場演説した。 東久邇宮稔彦王: 副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。 松岡駒吉: 1956年12月の国際連合加盟に際し、重光葵外務大臣に同行し国際連合総会に出席。 汪兆銘: 1942年、特命全権大使として南京に赴任した重光葵は1月12日、汪兆銘に国書を奉呈し、翌日より数度にわたって南京の汪公館にて重光と汪の会談がおこなわれた。 ヘレン=ケラー: ケラーを快く思わない者も少なくなく、日本の外交官重光葵の手記『巣鴨日記』によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、ケラーのニュースが耳に入ってきた際、ケラーのことを「あれは盲目を売り物にしているんだよ」とこき下ろす者もいた。 東郷茂徳: 簡潔に言えば、東郷は小磯国昭内閣で重光葵外相が進めたスウェーデンを仲介者とする和平工作を打ち切り、スウェーデン政府の和平仲介中止を指令し、仮想敵国で対日参戦を伺っているソ連を和平仲介に選び、ポツダム宣言発表後もソ連仲介の和平に固執し続けた。 平沼騏一郎: なお、平沼は戦後、A級戦犯として収監された巣鴨プリズン内での重光葵との会話の中で、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。 東條英機: 日本軍の優勢が揺らぎ始める中、東條は戦争の大義名分を確保するため、外相・重光葵の提案を元に1943年(昭和18年)11月、大東亜会議を東京で開催し、同盟国のタイ王国や満洲国、中華民国(汪兆銘政府)に併せて、イギリスやアメリカ、オランダなどの白人国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章」に対抗して「大東亜共同宣言」を採択し、欧米の植民地支配を打倒したアジアの有色人種による政治的連合を謳い上げた。 |
重光葵の情報まとめ
重光 葵(しげみつ まもる)さんの誕生日は1887年7月29日です。大分出身の外交官のようです。
卒業、事件、脱退、現在、映画に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1957年に亡くなられているようです。
重光葵のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29日 - 1957年〈昭和32年〉1月26日)は、日本の外交官・政治家。外交官の重光晶は甥。 大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・重光直愿と母・松子(重光景行の娘)の次男として生まれた。しかし、母の実家(重光家本家)に子供がなかったため養子となり、重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法科大学を卒業する。 文官高等試験外交科合格後の1911年(明治44年)9月、外務省に入省(第20回、芦田均・堀内謙介・桑島主計らと同期)、在ドイツ外交官補、在イギリス大使館三等書記官、アメリカポートランド領事、パリ講和会議日本全権団員、条約局第一課長、在中華民国公使館一等書記官、在ドイツ大使館参事官、上海総領事を経て、1930年(昭和5年)には駐華公使となる。 1931年(昭和6年)9月、日本陸軍の一部が突如満洲を制圧しようと満州事変を引き起こし、国際問題となる。これに対し、重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線によって収めようと奔走。1932年(昭和7年)1月、第一次上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の下、中華民国との停戦交渉を行う。 何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家・尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」と語り、事件の7日後の5月5日、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。このとき重光の隣でやはり遭難し片目を失った海軍大将の野村吉三郎も、後に外相、そして駐米大使となり、日米交渉の最前線に立つことになる。なお、弁当箱状の爆弾が投げつけられた時、逃げなかったことについて「国歌斉唱中だったから」と答えている。 第1次上海事変を中華民国が国際連盟に提訴したことを引き金に、1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする決議案(リットン報告書)が 賛成42ヵ国 対 反対1ヵ国(日本) で採択された。これを不服とする日本は国際連盟から脱退を宣言し国際社会から孤立していく。このころ重光は「欧米の国々は民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。 その後、駐ソ公使(張鼓峰事件、乾岔子島事件に関与)、駐英大使を歴任。特に日英関係が悪化する中での関係好転や、蔣介石政権への援助中止要請などに尽力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだった。 重光が「日本は絶対に(欧州戦争に)介入してはならない」と再三東京に打電したが日本政府は聞き入れず、1940年(昭和15年)9月27日、松岡洋右外相(第2次近衛文麿内閣)がドイツとイタリアとの日独伊三国同盟を締結し、戦争中のイギリスやフランスのみならず、まだ参戦していないアメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。 1941年(昭和16年)12月8日(日本時間)、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる。日本は東南アジアのイギリスやオランダ、アメリカなどの欧米の植民地を次々と占領。外交官として重光はこれに対し「日本はいやしくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と怒っている。 同年12月19日、駐英大使を罷免、本多熊太郎の後を受ける形で駐華大使の発令を受ける。 東條英機内閣・小磯国昭内閣において外相を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対した。しかしながら、東條首相のブレーンとして自らの主張を現実にするため、1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。大東亜の国々が互いに自主独立を尊重して差別なく対等な立場で協力することを宣言した(大東亜共同宣言)。 重光は敗戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で外務大臣に再任され、日本政府の全権として降伏文書に署名するという大役を引き受ける。 1945年(昭和20年)9月2日朝に、東京湾に停泊した米海軍の戦艦ミズーリの甲板上で、降伏文書調印式が行われ、全権団代表として大本営・参謀総長梅津美治郎と共に署名した。重光はこれを「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」と捉え、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。 戦後日本を占領したGHQは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。公用語も英語にするとした。重光葵は、マッカーサーを相手に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求。その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。 外相辞任後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者の弁護の準備を進めていたが、1946年(昭和21年)4月13日に来日したソ連代表検事のセルゲイ・A・ゴルンスキーがジョセフ・キーナン首席検事に対して、重光が第二次世界大戦中に東條内閣、小磯内閣で外務大臣を務めたことを理由として、重光をA級戦犯として起訴するよう強硬に要求してきた。 当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時のアメリカ民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さぶりに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認せざるを得なくなった。結局、4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、1948年(昭和23年)11月12日に有罪・禁固7年の判決を受けた。 裁判においては、高柳賢三・ジョージ・ファーネス両弁護人の尽力などもあって、その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものとなったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決はソ連を満足させるためのGHQによる政治的妥協であると評する声も多かった。事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。貴下の無罪は何人も疑わぬところであった」と憤りを表し、憲兵隊長ケンワージー中佐などは「判決は絶対に覆るはずだ」とまで述べていたという。また主席検事のキーナンは「なんというバカげた判決か。シゲミツは、平和主義者だ。無罪が当然だ。マツイ、ヒロタが死刑などとは、まったく考えられない。マツイの罪は、部下の罪だから、終身刑がふさわしい。ヒロタも絞首刑は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑まではないか。」と重光らの判決を批判している。 4年7ヵ月の服役の後、1950年(昭和25年)11月21日に巣鴨拘置所を仮出所。高柳、ファーネス両弁護士が出迎える中、拘置所のデービス中佐と握手。所員が拍手で見送る中、拘置所を後にし自宅へと戻った。仮出所の処分は、1952年、連合国と日本の講和条約の発効後、講和条約の規定に基づいて、日本政府と極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府との合意により、恩赦により刑の執行を終了した。 重光は講和条約の発効、公職追放解除後は衆議院議員に3回選出された。改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。改進党総裁であった1952年(昭和27年)に野党首班として内閣総理大臣の座を吉田茂と争い、内閣総理大臣指名選挙の衆議院で2位。続く1953年(昭和28年)の総選挙後、少数与党となった吉田の自由党からの連立の呼びかけを拒否する。野党の首班候補として重光の内閣総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず決選投票で敗北。吉田との会談により閣外協力を受け入れた。 同年9月27日、吉田との会談で保安隊の自衛隊への切り替え、長期防衛計画で合意した。その後、鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。1955年(昭和30年)の保守合同による自由民主党の結党に参加。 1954年(昭和29年)12月~1956年(昭和31年)12月の期間、第1~3次鳩山一郎内閣で副総理兼務で、大戦中の3回に続き4度目の外務大臣を務めた。1955年(昭和30年)4月、インドネシアでアジア・アフリカの29カ国が集まるアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、アジア・アフリカの国々が第三勢力として協力し合う方針を打ち出した。日本はこの会議でアジアの一員として国連加盟の支持を得た。 同年8月、アメリカを訪問。ワシントンでダレス国務長官らと会談し、同年8月29日、極東の安定と平和、日米安全保障条約改定の条件などを盛り込んだ共同声明を発表した。
9月1日、重光は国連本部を訪れレセプションを開催し、経済復興した日本が国際社会に貢献できると国連加盟をアピールしたが、12月の国連安全保障理事会では、常任理事国の一国であるソ連が拒否権を行使したため、国連への加盟は達成できなかった。国連加盟を果たすため、鳩山一郎内閣は国交がなかったソ連との国交回復を目ざし、1956年(昭和31年)7月、重光はモスクワで日ソ国交回復交渉に入るが、北方領土問題が難航し交渉を妥結できなかった。このことから重光は、『日ソ平和条約締結のためには歯舞・色丹の2島のみを返還するというソ連案を受け入れるしかない』という旨の電文を東京に打電した。 しかし、鳩山は重光の提案を拒否し、重光をスエズ会議に送ったうえで、自らモスクワを訪問して交渉に臨んだ。しかし、北方領土問題を何ら打開できず、アメリカからは弱腰外交だと批判されたため、鳩山は日ソ平和条約の締結および北方領土問題の解決を棚上げすることとし、10月19日、ソ連との国交回復を意味する日ソ共同宣言だけを行い、これによって『日本の国連加盟に反対しない』旨の内諾をソ連から得た。 同年12月18日、国連総会は加盟76か国の全会一致で日本の国連加盟を承認した。重光は日本の国連加盟が認められたことに対する加盟受諾演説で、「日本は東西の架け橋になりうる」と表明し、国連総会に出席していた加盟国の代表団から拍手で受け入れられた。その直後に国連本部前庭に自らの手で日章旗を高々と掲げた重光は、その時の心境を「霧は晴れ 国連の塔は 輝きて 高くかかげし 日の丸の旗」と詠んでいる。 帰国前の12月23日、日本では第3次鳩山一郎内閣が総辞職して石橋湛山内閣が成立していたため、重光も辞任して岸信介に外相ポストを交代することになった。日本への帰途、同行した加瀬俊一に対して笑顔で「もう思い残すことはない」と語った。2020年現在、日本の外務大臣で外交官の経歴を持つ人物は重光が最後となっている。 帰国した翌月の1957年(昭和32年)1月26日、重光は狭心症の発作により神奈川県湯河原町の別荘で急逝した。69歳だった。遺品等の一部は重光の生家の屋敷である無迹庵(むせきあん)に展示されている。 重光の外務大臣と国際連合への加盟実現の功績に対し、勲一等旭日桐花大綬章が没後授与された。 重光を知る者は「欠点がないことが欠点だ」と彼を評することが多かった。重光は駐華公使のとき第一次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。義足をつけた状態での歩行は大変な困難で実際に100キロも離れた場所に行くこともあったにもかかわらず、彼自身はその事を気にする素振りはなかった。後年ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦するアメリカの水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという(もっとも、松葉杖を落とすなど署名にかなりもたつき、これを「見苦しい引き延ばし」と勝手に解釈したハルゼーに一喝されたという逸話も伝えられる)。 その後、公務に復帰した際、広田弘毅外相(斎藤実内閣)は、重光の体を気遣って当時外交懸案の少なかった駐ソ大使に任命し、駐ソ大使に予定していた東郷茂徳を駐独大使とした。ところが、張鼓峰事件の処理などを巡って重光とソ連外務省が対立、さらにはソ連のマスコミによって「無能な外交官」と批判された(松岡洋右がこの話を聞いて重光に同情し、後に松岡洋右外相の下で行われた主要国大使の一斉解任の際にも、重光駐英大使だけは対象から外されたという)。また、極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だったとされている(上記#敗戦国の全権)。他方、急遽駐独大使となった東郷茂徳のほうもナチス・ドイツに嫌われた挙句に駐独大使を追われ、東京裁判では「親独派」の疑いをかけられる事となり、広田の配慮がどちらも裏目に出る結果となった。 戦後、進駐軍が厚木飛行場に到着した際には、重光は外相兼大東亜相(東久邇宮稔彦王内閣)として横浜市に対し「英米軍を絶対に首都には入れないこと、直接軍政はさせないこと、軍票は使用させないこと」を厳命した。 巣鴨プリズンに収監されている頃に、障害者ながら社会福祉事業家として活躍していたヘレン・ケラーが2度目の来日ニュースが耳に入ってきた際、元将官たちが「あれは盲目を売り物にして居るんだよ」とこき下ろしたことに対して、重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人の為に悲しむべし」と元将官たちを痛烈に批判し、彼らの見解の偏狭さを嘆いている。 近衞文麿とは親交があったが、敗戦後、近衞が戦争に関する自分の責任を回避すべく、天皇や軍部に全責任を転嫁するかのような言動に終始したことについては「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と述べ、近衞を格別厳しく批判している。 戦後、鳩山一郎内閣で外相・副総理を務めた際、鳩山が「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と無神経に発言したため外交官出身の重光は鳩山との関係が悪化した。また鳩山が日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。 位階 1911年(明治44年)12月27日 - 従七位 1916年(大正5年)2月12日 - 正七位 1918年(大正7年)7月31日 - 従六位 1921年(大正10年)1月31日 - 正六位 1923年(大正12年)9月29日 - 従五位 1928年(昭和3年)2月2日 - 正五位 1933年(昭和8年)2月15日 - 従四位 1936年(昭和11年)9月15日 - 正四位 1939年(昭和14年)10月2日 - 従三位 1943年(昭和18年)5月1日 - 正三位 1957年(昭和32年)1月26日 - 従二位(追叙) 勲章等 1916年(大正5年)4月1日 - 勲六等瑞宝章・大正三四年従軍記章 1920年(大正9年)9月7日 - 勲五等双光旭日章 1924年(大正13年)5月31日 - 勲四等瑞宝章 1930年(昭和5年)4月22日 - 勲三等瑞宝章 1940年(昭和15年)
8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1941年(昭和16年)9月13日 - 勲一等瑞宝章 1957年(昭和32年)1月26日 - 勲一等旭日桐花大綬章(追陞) 外国勲章佩用允許 1934年(昭和9年)5月9日 - 満州国:勲二位景雲章 1935年(昭和10年)9月21日 - 満州国:皇帝訪日紀念章 1938年(昭和13年)8月2日 - 満州国:勲一位柱国章 1943年(昭和18年)6月2日 - 中華民国政府 特級同光勲章 1943年(昭和18年)7月27日 - ドイツ国 ドイツ鷲勲章大十字章 『昭和の動乱 上巻』中央公論社、1952年3月。 NCID BN03025568。全国書誌番号:52004519。 『昭和の動乱 下巻』中央公論社、1952年4月。 NCID BN03025568。全国書誌番号:52004520。
『昭和の動乱 上』中央公論新社〈中公文庫〉、2001年10月。ISBN 9784122039186。 NCID BA54105786。全国書誌番号:20228337。 『昭和の動乱 下』牛村圭解説、中央公論新社〈中公文庫〉、2001年10月。ISBN 9784122039193。 NCID BA54105786。全国書誌番号:20228338。 文庫は各・新版刊 『外交回想録』毎日新聞社、1953年9月。 NCID BN07356920。全国書誌番号:53006554。
『重光葵 外交回想録』日本図書センター〈人間の記録 7〉、1997年2月。ISBN 9784820542469。 NCID BA29982974。全国書誌番号:98000235。 『外交回想録』筒井清忠解説、中央公論新社〈中公文庫〉、2011年7月。ISBN 9784122055155。 NCID BB06408354。全国書誌番号:21978479。 『巣鴨日記』文藝春秋新社、1953年5月。 NCID BN0550535X。全国書誌番号:53003909。
『続 巣鴨日記』文藝春秋新社、1953年12月。 NCID BN0550535X。全国書誌番号:54001934。
国広寿 編『庚寅牢吟』国広寿、1989年2月。全国書誌番号:89048093。 『革命外交 重光駐支公使報告書』外務省、1931年12月。全国書誌番号:21492272。
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小林よしのり『いわゆるA級戦犯――ゴー宣SPECIAL』(幻冬舎、2006年、ISBN 4-344-01191-0) 門井慶喜『東京帝大叡古教授』(小学館、2015年、ISBN 978-4093864084) 『重光葵』 - コトバンク 『重光 葵』 - コトバンク 重光葵|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 重光 葵(しげみつ まもる) - 杵築市 重光葵記念館 衆議院>憲政記念館>重光葵とその時代 科学研究費成果報告書「近現代日本の政策史料収集と情報公開調査を踏まえた政策史研究の再構築」(基盤研究 (B) (1)、代表者伊藤隆平成15・16年度、代表者伊藤隆、課題番号:15330024)より
CIA Records - Name Files 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 安田幹太 松原一彦 宇都宮則綱 福田喜東 西村英一 永田節 重光葵 西村英一 小松幹 重光葵 福田喜東 西村英一 野依秀市 重光葵 小松幹 西村英一 綾部健太郎 小松幹 西村英一 綾部健太郎 小松幹 綾部健太郎 西村英一 小松幹 佐藤文生 小松幹 西村英一 西村英一 佐藤文生 阿部未喜男 西村英一 佐藤文生 阿部未喜男 阿部未喜男 西村英一 佐藤文生 西村英一 田原隆 佐藤文生 佐藤文生 阿部未喜男 田原隆 田原隆 佐藤文生 阿部未喜男 阿部未喜男 田原隆 岩屋毅 横光克彦 田原隆 表 話 編 歴 鮫島尚信1870-1872 少弁務使 寺島宗則1872 大弁務使 / 1872-1873 上野景範1874-1879 森有礼1879-1884 河瀬真孝1884-1893 青木周蔵1894-1898 加藤高明1898-1900 林董1900-1905 大使館に昇格 林董1905-1906 小村壽太郎1906-1908 加藤高明1908-1913 井上勝之助1913-1916 珍田捨巳1916-1920 林権助1920-1925 松井慶四郎1925-1929 松平恆雄1929-1936 吉田茂1936-1939 重光葵1939-1941 大使交換中断1941 上村伸一1941-1942臨時代理大使 引揚1942 朝海浩一郎1951-1952 朝海浩一郎1952臨時代理大使 松本俊一1952-1955 西春彦1955-1958 大野勝巳1958-1964 島重信1964-1968 湯川盛夫1968-1972 森治樹1972-1975 加藤匡夫1977-1979 藤山楢一1979-1982 平原毅1982-1985 山崎敏夫1985-1988 千葉一夫1988-1990 北村汎1990-1994 藤井宏昭1994-1997 林貞行1997-2001 折田正樹2001-2004 野上義二2004-2008 海老原紳2008-2011 林景一2011-2016 鶴岡公二2016-2019 長嶺安政2019-2020 林肇2020-2024 鈴木浩2024- 表 話 編 歴 澤宣嘉1873(未赴任) 榎本武揚1874-1880 柳原前光1880-1883 花房義質1883-1887 西徳二郎1887-1897 林董1897-1900 小村壽太郎1900 珍田捨巳1900-1901 栗野慎一郎1901-1904 国交断絶(日露戦争) 本野一郎1906-1908 大使館昇格1908 本野一郎1908-1916 内田康哉1916-1918 国交断絶(ロマノフ朝の崩壊から日ソ基本条約締結まで、日本は反革命の白系ロシア人勢力を支援してソビエト連邦と対立) 田中都吉1925-1930 広田弘毅1930-1932 太田為吉1932-1936 重光葵1936-1938 東郷茂徳1938-1940 建川美次1940-1942 佐藤尚武1942-1946 国交断絶(第二次世界大戦末期から日ソ共同宣言まで) 門脇季光1957-1961 山田久就1961-1963 下田武三1963-1965 中川融1965-1970 新関欽哉1971-1973 重光晶1974-1978 魚本藤吉郎1978-1982 高島益郎1982-1984 鹿取泰衛1984-1987 武藤利昭1987-1990 枝村純郎1990-1991 枝村純郎1991-1994 渡辺幸治1994-1996 都甲岳洋1996-1999 丹波實1999-2002 野村一成2002-2006 齋藤泰雄2006-2009 河野雅治2009-2011 原田親仁2011-2015 上月豊久2015-2023 武藤顕2023- 表 話 編 歴 山座円次郎1913-1914 日置益1914-1916 林権助1916-1918 小幡酉吉1918-1923 芳澤謙吉1923-1929 佐分利貞男1929 重光葵1931-1932 有吉明1932-1935 大使館昇格 有吉明1935 有田八郎1936 川越茂1936-1938 阿部信行1940 本多熊太郎 1940-1941 重光葵1942 谷正之1943-1945 大使交換中断 芳澤謙吉1952-1955 堀内謙介1955-1959 井口貞夫1959-1963 木村四郎七1963-1966 島津久大1966-1969 板垣修1969-1972 宇山厚1972 日華断交 伊藤博教1972-1974 卜部敏男1974-1977 西山昭1977-1980 人見宏1980-1983 原富士男1983-1990 梁井新一1990-1995 後藤利雄1995-1998 山下新太郎1998-2002 内田勝久2002-2005 池田維2005-2008 齋藤正樹2008-2009 今井正2010-2012 樽井澄夫2012-2014 沼田幹男2014-2017 名称変更 沼田幹男2017-2019 泉裕泰2019-2023 片山和之2023- 表 話 編 歴 上海出張所開設1872 品川忠道代理領事1872-1873 領事館に昇格1873 品川忠道1873-1876 館長の肩書が総領事に昇格(在外公館の格式は領事館のまま)1876 品川忠道1876- 安藤太郎1884- 河上謹一1885-1888 高平小五郎1887- 鶴原定吉1890- 総領事館に昇格1891 内田定槌総領事代理 1892- 林権助総領事代理 1892- 山座円次郎事務代理 1893- 大越成徳事務代理 1894- 珍田捨巳事務代理 1896- 諸井六郎事務代理 1898- 松村貞雄事務代理 1899- 小田切萬壽之助1902-1905 永瀧久吉1904-1909 松岡洋右事務代理 1905- 尾崎洵盛事務代理 1907- 武者小路公共事務代理 1908- 有吉明1909-1919 浮田郷次総領事代理 1911- N/A 富田鐵之助 N/A 矢田七太郎-1929 石射猪太郎1929 重光葵1929- N/A 村井倉松 石射猪太郎1932- 三浦義秋 若杉要-1936 岡本季正1937-1938 日高信六郎1938 山崎馨一 N/A 豊田薫1943- N/A 閉鎖1945 日中国交正常化1972 再開1975 西澤憲一郎1975- N/A 橋本逸男1996-1999 市橋康吉1999-2001 杉本信行2001-2005 隈丸優次2005-2008 横井裕2008-2010 泉裕泰2010-2013 小原雅博2013-2015 片山和之2015-2018 磯俣秋男2018-2021 赤松秀一2021-2024 岡田勝2024- 表 話 編 歴 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 東條英機 広田弘毅 武藤章 松井石根 荒木貞夫 梅津美治郎 大島浩 岡敬純 賀屋興宣 木戸幸一 小磯國昭 佐藤賢了 嶋田繁太郎 白鳥敏夫 鈴木貞一 橋本欣五郎 畑俊六 平沼騏一郎 星野直樹 南次郎 重光葵(7年) 東郷茂徳(20年) 松岡洋右:裁判中の1946年(昭和21年)6月27日に病死のため公訴棄却 永野修身:裁判中の1947年(昭和22年)01月5日に病死のため公訴棄却 大川周明:裁判中の1947年(昭和22年)04月9日に梅毒による精神障害が認められ訴追免除 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ イスラエル アメリカ 日本 チェコ 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research ドイッチェ・ビオグラフィー 公文書館(アメリカ) SNAC IdRef 重光葵 昭和時代戦前の閣僚 昭和時代戦後の閣僚 日本の外務大臣 戦前日本の外交官 在ソビエト連邦日本大使 在中華民国日本公使 戦前日本の在中華民国大使 在イギリス日本大使 貴族院勅選議員 昭和時代の貴族院議員 大分県選出の衆議院議員 改進党の衆議院議員 日本民主党の衆議院議員 自由民主党の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 在職中に死去した衆議院議員 満洲国の人物 在上海日本総領事 第一次上海事変の人物 太平洋戦争の人物 第二次世界大戦期の政治家 A級戦犯 公職追放者 大分県立杵築高等学校出身の人物 旧制第五高等学校出身の人物 東京大学出身の人物 障害を持つ政治家 隻脚の人物 大分県出身の人物 従二位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 ドイツ鷲勲章受章者 1887年生 1957年没 2025/01/25 10:20更新
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shigemitsu mamoru
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