菅原やすのり: 野口雨情生誕120周年コンサート(水戸県民会館)
権藤花代: 野口雨情の媒酌による結婚式は、兄の住む甲府で行われた。野口雨情は1924年より吉祥寺に居住し、また権藤円立と東京音楽学校(現・東京芸術大学)時代からの親友であった藤井清水(作曲家)も1926年には吉祥寺に転居して、三家族は親交を深めていった。藤井清水の伴奏で権藤円立が歌い野口雨情が講演をする、といった形式の演奏旅行は全国に及び「楽浪園の三羽烏」と呼ばれていた。
近藤正臣: 土と風と空と 野口雨情童謡集より(ビデオ2巻組、ハゴロモ)
権藤花代: 出版社に勤めながら、野口雨情と千葉省三に師事し、『金の星』『童話』などに童謡詩、童話を発表した。
岩村琴美: 野口雨情著「女王」
五代あつし: 枯れすすき 野口雨情抄伝(1997年)
権藤花代: 野口雨情の詩「天の川」の冒頭は「竹に短冊たんたんたん たんたんたんの七夕に」となっており、七夕祭りの楽しさを「た」音の連続によって表している。
平井英子: 野口雨情・中山晋平のコンビによって作曲・作詞された童謡を主に歌っていたが、佐々紅華が作詞・作曲した楽曲も歌い、本人談によると、一番「かわいがって頂いた」のは紅華だという。
中村雨紅: この間、野口雨情に師事する。筆名「中村雨紅」は、養子先の姓「中村」と、敬愛する野口雨情にあやかり「雨」の字を頂くとともに「紅」は「染まる、似通う」という意味を込めて命名した。
石川啄木: 小樽日報では同僚に野口雨情がいた。
中村雨紅: 大正期には童話や童謡を掲載する児童雑誌が創刊され、1918年(大正7年)には鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊、翌1919年(大正8年)には斎藤佐次郎が野口雨情を編集長に迎え『金の船』を創刊。
近藤志げる: 1982年頃から野口雨情などの童謡をテーマとする演目を舞台にかけるようになる。1995年(平成7年度)に文化庁芸術祭参加し、野口雨情没後50年記念公演「志げるとアコーディオンと童謡と」(10月30日なかの芸能小劇場)で、演芸部門優秀賞を受賞した。
人見東明: 早大在学時より詩作に励み、1907年(明治40年)5月に相馬御風・三木露風・加藤介春・野口雨情らと早稲田詩社を起こす。
近藤志げる: 『日本の叙情 アコーディオン歌語り 野口雨情・西條八十の世界』(オーマガトキ、2007年11月21日)OMCA-1078
柳生博: 『いちばん星』で野口雨情を演じたことで全国的に知られる。
林柳波: 童謡の代表的詩人として知られる野口雨情の依頼により、林きむ子は1925年(大正14年)頃から童謡に振付けを行い、雑誌『金の星』に写真入り解説の掲載を始めた。
本居長世: 『通りゃんせ』(野口雨情説もあり)
本居長世: 同年、新日本音楽大演奏会で発表した『十五夜お月さん』は、長女みどりの歌によって一躍有名となり、以後野口雨情等と組んで次々に童謡を発表する(みどりは童謡歌手の第1号となり、童謡歌手のレコード吹き込み第1号ともなった)。
西丸四方: 西丸帯刀の伯父「野口北川」の長男の孫が野口雨情。
西丸優子: 島崎藤村、野口雨情とも血縁関係にあたる。
木暮実千代: 雨情(1957年・東宝) - 野口雨情の妻しづ
佐藤千夜子: 作詞:野口雨情/作曲:中山晋平/編曲:中山晋平
椿基之: 野口雨情抄伝・枯れすすき
篠田三郎: 枯れすすき(1992年 - 2000年、九プロダクション) - 主演・野口雨情
権藤花代: 野口雨情が『童謡十講』の中で「童謡は唄うもの」と語っているように、花代の詩篇は唄うことを前提に書かれているため、多くの作曲家の手により楽譜として出版されている作品が多い。
中村雨紅: 第三日暮里尋常小学校に勤務中の1921年(大正10年)、高井宮の筆名で童謡『お星さん』などが児童文芸雑誌『金の船』に掲載、作品が野口雨情に絶賛される。しかし職場からは理解が得られず、勤務先の校長からは作家との二足のわらじは教職の妨げになると止められたため、敬愛する野口雨情にも絶賛された童話の執筆をやめ、どこでも構想を練ることができる童謡の詩作に専念することとなる。
合田道人: 2015年12月、詩人野口雨情没後70年記念番組、NHK『冬のおくりもの』で司会、「しゃぼん玉」「船頭小唄」を歌唱。
宮川哲夫: 1927年(昭和2年)、5歳のとき、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「波浮の港」がビクターから発売され、全国を風靡した。
相生千恵子: 野口雨情抄伝・枯れすすき
中山晋平: 1920年(大正9年)からは野口雨情と組んで『金の船』から多くの童謡を発表した。他方、「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、野口雨情や西條八十、北原白秋等の作詞による多くの曲を作った。