鶴見祐輔の情報(つるみゆうすけ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
鶴見 祐輔さんについて調べます
■名前・氏名 |
鶴見祐輔と関係のある人
松浦周太郎: 民政党では鶴見祐輔の片腕的存在となる。 高峰秀子: 12月1日に封切られた『母』は、鶴見祐輔原作の母もの映画で、浅草では45日間のロングランヒットを記録し、翌年にはアンコール上映されるほどの大ヒット作となった。 鶴見俊輔: 鶴見は、父である鶴見祐輔が一高英法科の首席クラスの優等生であったにもかかわらず、倫理的によくない日中戦争や、負けるとわかっていた太平洋戦争の旗振り役となったことを「一番病」と呼び、一番病を攻撃することが自身の戦略であり、著作活動の動機の源泉になっていた、としている。 内山尚三: 妻・章子は政治家・鶴見祐輔の次女。 一海知義: 『決定版 正伝 後藤新平』鶴見祐輔 藤原書店 全8巻 2004-2006。 鶴見俊輔: 父は政治家・鶴見祐輔。 松村謙三: 改進党・日本民主党時代は粟山博・小山邦太郎・鶴見祐輔・中村三之丞・川崎末五郎・松浦周太郎ら旧民政党左派の政治家を結集し松村派を結成、保守合同後は三木武夫が率いる旧国民協同党系の三木派と合同し三木・松村派を結成した。 粟山博: 追放の解除後は、旧民政党左派の松村謙三・鶴見祐輔・小山邦太郎・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動を共にした。 田島道治: 1916年(大正5年)、鉄道院総裁の後藤新平に引き抜かれ総裁秘書となり、1919年(大正8年)には後藤新平、新渡戸稲造、鶴見祐輔、岩永裕吉らとともに外遊をしている。 三木武夫: しかし改進党の幹部会の席で、三木と鶴見祐輔は憲法改正は大規模な軍拡につながり、脆弱な日本経済の破綻を招きかねないので時期尚早であるとの反対意見を唱えた。 中村三之丞: 民政党の親軍派政治家として知られた戦前とは対照的に戦後はリベラルな立場をとり、公職追放解除後は旧民政党系左派の松村謙三・粟山博・小山邦太郎・鶴見祐輔・川崎末五郎・松浦周太郎らと行動をともにした。 鶴見和子: 父は政治家・鶴見祐輔。 小山邦太郎: 鶴見祐輔らとともに明正会結成に参画した。 山路ふみ子: 『母』(原作/鶴見祐輔、1939年、新興) 前田多門: 帝大在学中、新渡戸稲造に師事して、鶴見祐輔、田島道治、岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた。 川田芳子: 賀古残夢監督の作品の常連だったが、賀古が松竹を退社した後は野村芳亭監督に重用され、当時のベストセラーの鶴見祐輔の原作を映画化した1929年(昭和4年)の野村監督の『母』では、万人の涙を誘った。 内村鑑三: 岩永裕吉、金井清、川西実三、黒崎幸吉、沢田廉三、膳桂之助、高木八尺、田中耕太郎、田島道治、塚本虎二、鶴見祐輔、前田多門、三谷隆正、森戸辰男、藤井武らがメンバーになった。 小山邦太郎: 戦前は明正会・立憲民政党に所属したが戦後公職追放され、追放解除後は旧民政党左派の松村謙三・粟山博・鶴見祐輔・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動をともにした。 松浦周太郎: 保守合同後は松村・三木派に所属し、鶴見祐輔・松村謙三・粟山博・小山邦太郎・中村三之丞・川崎末五郎らとともに旧民政党系左派の長老として重きをなす。 田島道治: 鶴見祐輔、前田多門、岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれ、新渡戸の死後は、「故新渡戸博士記念事業実行委員会」を結成し代表となっている。 |
鶴見祐輔の情報まとめ
鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ)さんの誕生日は1885年1月3日です。岡山出身の政治家のようです。
卒業、現在、結婚、解散、事件、趣味、映画、テレビ、兄弟に関する情報もありますね。1973年に亡くなられているようです。
鶴見祐輔のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日 - 1973年〈昭和48年〉11月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の官僚、政治家、著述家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、厚生大臣。 英語を得意とし、第二次世界大戦にかけて米国の対日世論が厳しくなる時期に、現地での講演や出版などを通じて民間外交に尽力した。 1885年(明治8年)1月3日、群馬県多野郡新町で、官営新町紡績所の工場長をしていた父・良憲 と、母・琴子の次男、10人きょうだいの第四子として生まれる。一家は1895(明治28年)年9月に東京市赤坂へ、翌1896(明治29年)年1月に父の郷里である岡山県へ転居した。鶴見は1895年に新町立尋常小学校を卒業、新町立高等小学校に入学し、赤坂区立赤坂尋常高等小学校を経て、1898年に岡山市立岡山高等小学校を卒業。同年、旧制岡山県立岡山中学に入学。中学時代にヘンリー・モートン・スタンリーの『アフリカ探検記』を読んで「日本を抜け出して、世界に出て行かなければだめだ」と決心し、英語の勉強に熱中。1899年(明治32年)夏に一家が愛知県名古屋市へ転居した後は級友池田長康宅に寄寓して岡山中学に通学、池田とは生涯の親友となった。 1900年(明治33年)4月に名古屋で母が病死。中学時代の鶴見は野球に注力していて成績は芳しくなく、母が死に際して「お前はもっと学問のできる子であると思ったのに」と言ったことから、鶴見は母の墓前に首席卒業を誓ったとされる。またこの頃、父の事業が行き詰まり、家計が次第に逼迫していったことから、きょうだいを養い家計を支えるために学課の試験勉強に励んだともいわれている。 1903(明治36年)年3月、岡山中学を首席で卒業し、同年夏に一家が転居していた神奈川県小田原町(現:小田原市)へ移る。同年9月、旧制一高法科甲類(英法)へ次席で入学し、南寮10番に入寮。一高時代には英語教師だった夏目漱石の薫陶を受け、弁論部に所属して全寮茶話会で演説するなどし、撃剣部に所属して稽古掛を務めた。 1906年(明治39年)6月、一高英法科を首席で卒業し、同年7月、東京帝国大学法科大学政治学科(現在の東京大学法学部)に入学。同年10月に父が小田原で死去し、鶴見は長姉・敏子の嫁ぎ先だった廣田理太郎の支援を受け、東京市麹町区にあった廣田の家に寄寓して学業を続けた。 東大在学中に、自身の一高卒業後に一高の校長に就任した新渡戸稲造に心酔し、師事した。新渡戸は内政については民主主義の提唱者だったが、植民政策の実務に携わったことから帝国主義的対外発展に同情的で、鶴見も帝国主義の方へひかれていったとされる。学友の前田多門、石川鉄雄、藤井武、田島道治、青木得三、笠間杲雄、金井清、矢野真、岩永裕吉らと読書会を組織し、卒業まで毎月会合を開いた。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を次席で卒業。同年11月、高等文官試験に合格し、新渡戸の紹介で内閣拓殖局に就職。翌1911年(明治44年)8月に新渡戸と親交のある後藤新平が初代総裁を務めていた鉄道院へ転じた。翌1912年(大正元年)11月に新渡戸の紹介により後藤の娘、愛子と結婚。 語学に長けていた鶴見は、1911年(明治44年)9月に新渡戸の秘書として初めて渡米、その後も国際会議への出席や後藤・新渡戸らに随行しての海外視察などでたびたび外国へ出張し、その経験をもとに旅行記や随筆を出版した。 1916年(大正5年)12月から、東京市内の麻布宮村町の自宅に帝大や一高の学生生徒を招き、月に1回、 河合栄治郎をはじめ官財界の様々な人物を講師とする「火曜会」(別名「ウィルソン倶楽部」)を開催、のちの新自由主義協会設立に発展した。 鉄道省運輸局総務課長 等を経て、1924年(大正13年)2月に鉄道監察官を以って退官。 退官直後の1924年(大正13年)4月、犬養系革新倶楽部青年層の支持を受けて衆議院議員選挙に岡山県第7区(真庭郡・久米郡)から立候補するも、落選した。 同年7月、親交のあったチャールズ・ビアード博士と前駐日大使モリスの勧めを受けて排日移民法施行後の米国へ渡り、ウィリアムズタウンの国政政治学協会をはじめ、200-300箇所の大学・諸団体で日本事情の英語講演を行う。1925年(大正14年)12月に帰国するまでの1年余、日本事情を紹介するとともに、排日移民法を非難して歩いた。 米国滞在中の1925年(大正14年)7月にはハワイ準州ホノルルで開かれた第1回太平洋会議に出席した。翌1926年(大正15年)4月、同会議が太平洋問題調査会となり、日本支部が設立されると理事に就任した。以後、1936年(昭和11年)に米国ヨセミテ国立公園アワニー・ホテルで開かれた第6回会議まで、第二次世界大戦前に行われた太平洋会議に鶴見は毎回出席している。 1926年(大正15年)、米国からの帰国後、後藤新平が前年から展開していた政治倫理化運動に参加し、帰国報告を兼ねて日本各地で遊説。1927年(昭和2年)5-6月には満洲、朝鮮、中華民国(中国)を講演旅行し、同年7月にホノルルで開催された第2回太平洋会議に出席し日本代表として声明を発表。 退官後、鶴見は著述により生計を立てるようになり、1927年(昭和2年)に軽井沢に建てた山荘で執筆活動に励んだ。同年には大日本雄辯會講談社からの依頼を受けて雑誌『婦人倶楽部』に小説『母』を連載した。 1927年(昭和2年)11月、再び米国への講演旅行に出発したが、1928年(昭和3年)1月の解散総選挙を受けて旅行を中止して急遽帰国し、同年2月の第16回衆議院議員総選挙に岡山第1区から立候補して当選。与党政友会と野党民政党の議席数が拮抗する中で、同年4月に新自由主義を標榜して小山邦太郎らと6人で新政党明政会を結成し、キャスティング・ボートを握った。同年7月、新自由主義協会を設立し、同年から翌年にかけて国会閉会期間中に「新自由主義運動」を標榜して全国を遊説。1928年(昭和3年)夏に軽井沢の別荘で『英雄待望論』を執筆、発行部数は50万部を超えた。同年9月渡米し、張作霖爆殺事件における日本の立場について講演旅行をして回り、同年12月に帰国。 1929年(昭和4年)4月、後藤新平が死去。翌1930年(昭和5年)1月、もと明政会所属議員の藤原米造が死去し、故人の代理人が検事局に告発したことをきっかけに、鶴見が島徳蔵ら政友会の関係者から、1928年(昭和3年)4月召集の第55臨時議会において民政党が提出した田中義一内閣不信任案に反対することを条件に金銭を受け取った疑惑が持ち上がった(明政会事件)。疑惑の中、同年2月に行われた第17回衆議院議員総選挙に岡山第1区から立候補するも、落選。同年3月に弟の鶴見定雄が大阪刑務所に収監され、鶴見も大阪地裁検事局で取調べを受けた。同年5月、鉄道省からの事務委託を受けて米国とカナダへ講演旅行に出発し、翌1931年(昭和6年)9月までの約1年4ヶ月間、帰国せずに各地を講演して回る。この頃一時期、不眠症、執筆不振となるが、旅行の後半には著述に没頭するようになった。 1931年(昭和6年)10月、満洲事変直後に上海で開催された第4回太平洋会議に出席し、満洲事変における日本の行動を擁護した。同年11-12月、満洲を視察。1932年(昭和7年)1月には、満洲の問題における日本の立場に関する講演旅行のため、再び渡米した。同年6月、欧州へ渡り、各国で日本事情について講演。米国を経由して1933年(昭和8年)1月に帰国した。 この折とそれ以前の訪米における見聞を同年6月、790ページに及ぶ大著『欧米大陸遊記』を大日本雄辯會講談社から刊行した。満洲事変とそれに誘発された1932年(昭和7年)初頭の第一次上海事変により米国では日本批判が高まっており、鶴見は米国から、日本の立場を説明する特派大使を送るべきだと日本へ電報を数回打ったと回想している。また、1918年(大正7年)の訪米時に、ロシアで前年起きた革命で政権を握った共産主義者を嫌悪する米国世論がロシア人には好意的なのはロシア文学の魅力ゆえであると痛感し、日本文学の英訳を日米両国の出版界に働きかけてきたもののはかばかしい反応が得られず、米国人ヘンクルの申し出を受けて自作小説『母』を自ら英訳。その出版記念晩餐会が1932年2月16日、ニューヨーク43丁目のタウンホールで開かれた。二人の米国人が、日本を批判するスピーチをしたが、鶴見は直接の反論を避けるべきだと判断し、また司会が米国側にも排日移民法の問題あるを挙げてうまく締めくくったほか、他の米国側出席者たちから散会後、政治論を持ち出したのは悪趣味、場外れだと二人へ抗議があったという。この晩餐会では、帝大同窓生の堀内謙介在ニューヨーク総領事が挨拶したほか、鶴見は終了後、滞米中だったジャーナリストの清澤洌や平井好一、有吉眞次、河合英夫と、近所のアイスクリーム屋でソーダ水で祝杯をあげた。 1933年(昭和8年)1月に帰国してから約3年間、編集室を市政会館において後藤新平伝を執筆、並行して『プルターク英雄伝』を翻訳。同年10月に新渡戸稲造が死去し、一高などで追悼演説を行なった。翌1934年(昭和9年)に『プルターク英雄伝』を発行し、1935年(昭和10年)夏に『後藤新平』全四巻を脱稿。 明政会事件の報道の中では、鶴見が「弟に罪をなすりつけてアメリカへ逃げた」と報道した新聞もあり、鶴見の長男俊輔も鶴見が新自由主義協会の活動を放擲してアメリカへ逃げたと思っていた。満洲事変以降、日本では政界に対する軍部の圧力が強まり、同協会を含め自由主義者や第三党の活動は影を潜めた。新自由主義協会の機関誌『新自由主義』は1933年(昭和8年)9月に発禁となった。 1936年(昭和12年)2月、立憲民政党に入党し、同党の公認候補として第19回衆議院議員総選挙に岩手第2区から立候補して当選。同年4月、民政党青年部長。 1937年(昭和12年)1月、永田秀次郎らと宇垣一成内閣成立に参画するも、陸軍の反対に遭って失敗。同年4月、衆院解散を受けて行われた衆院選では岩手第2区から立候補し、当選。同年5月、民政党岩手県支部長。同年12月、人民戦線派の一斉検挙で逮捕された姪の石本静枝の釈放に尽力した。同月、国民使節として渡米し、中学を中退していた俊輔を同行させる。 1938年(昭和13年)2月、訪問先のニューヨークから弟・定雄に、前年に勃発した日中戦争、特に南京事件を受けた米国での反日感情が高まっていることに触れ、米国との開戦を避けるために、国際商業会議所議長ワトソンを介して中国との和平調停工作を行うよう指示。1938年5月に設立された太平洋協会の常務理事に就任し、実質的に会を主宰した。同年10月、河合教授事件で河合栄治郎の著書が発禁となり、鶴見は係争中の河合を支援。 1940年(昭和15年)1月に成立した米内内閣で内務政務次官に就任するも、同年7月に同内閣は総辞職。同月から8月にかけて各政党は解党し、大政翼賛会に合流した。翌1941年12月、日本は米国や英国などを相手に太平洋戦争に突入した。戦時下の1942年(昭和17年)4月に行なわれた衆院選(いわゆる翼賛選挙)では岩手県第2区から立候補し、知米派の鶴見に対してアメリカ合衆国大統領の名を持ち出して「ローズヴェルトの親友を葬れ」と攻撃が加えられたが、当選を果たした。同月上旬には「対敵宣伝機関創設案」を起草し、陸海軍関係者、情報局陸軍関係者の賛同を得たが、情報局の反対に遭い、実現しなかった。鶴見はこの間、太平洋協会の仕事に従事し、1941年(昭和16年)12月から1943年(昭和18年)12月にかけてラジオに出演し、米国の国情を説明するなどした。 1944年(昭和19年)9月、 翼賛政治会(1945年3月以降は大日本政治会)の総務となる。同年12月、九段の憲兵隊司令部で取り調べを受ける。同月、小磯内閣で政府が設立した朝鮮及台湾在住同胞政治処遇調査会の衆議院代表委員。日本本土空襲で東京などが焦土と化しつつあった1945年(昭和20年)5月、熱海へ疎開。 1945年(昭和20年)9月に大日本政治会は解散し、同会の旧民政党系と旧政友会中島知久平派の議員が合流して同年11月に日本進歩党を結成。鶴見は同党の幹事長に就任したが、大日本政治会で総務を務めていたことから1946年(昭和21年)1月に公職追放となる。この頃、敗戦により休眠状態となった太平洋協会の出版部を、俊輔や和子らが参加した雑誌『思想の科学』の出版のために提供した。1947年(昭和22年)9月、熱海から東京都世田谷区成城に移った。 1950年(昭和25年)10月に公職追放解除となり、旧政友と「水曜会」結成。同年11月に「太平洋文化協会」を設立、翌1951年(昭和26年)1月に幣原喜重郎ら36人と発起人に加わり国土防衛民主主義聯盟を旗揚げ、同年9月に旧民政党系の旧友会により結成された新政クラブに参画した。 1952年(昭和27年)2月、新政クラブほか4政治団体の有志による改進党結成にあたり、同党顧問に就任。同年10月の衆院選に岩手県第2区から出馬するも、落選。1953年(昭和28年)2月、改進党の常任顧問に就任、同年4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から立候補して当選。同年7月、太平洋文化協会を太平洋協会に改称、会長に就任。同年10月、改進党の「自衛軍基本法要綱案」起草委員。1954年(昭和29年)、参議院で各派共同提案により自衛隊の海外派兵禁止決議案を提出、原案通り可決成立。 1954年(昭和29年)11月、改進党の解党後、日本民主党 (総裁鳩山一郎)結党に参加し、同党顧問に就任。同年12月に発足した 第1次鳩山一郎内閣で厚生大臣に就任した。 1955年(昭和30年)11月に保守合同で自由民主党(自民党)が結党されると、同党顧問に就任。 1956年(昭和31年)9月頃、参議院本会議で各派共同提案の「国際連合加入決議案」の代表として趣旨説明を行ない、起立多数で原案通り可決された。同年12月、参議院自民党から国連派遣政府代表顧問に推薦されるが、政局を理由に受諾せず。1957年(昭和32年)2月、自民党総務。1958年(昭和33年)3月、自民党相談役となった。 1959年(昭和34年)6月、自民党非公認のまま参院選岩手地方区から立候補するも、落選。同年11月、脳軟化症のため倒れ、東京大学医学部附属病院に1年間入院。鶴見が倒れた後、政治活動のために多額の借金をしていたことが分かり、娘の和子は借金返済のため成城の邸宅と軽井沢の別荘を売却し、1960年(昭和35年)9月に都内練馬区関町に購入した住宅に転居した。退院後は、関町の自宅で療養生活を送る。1964年(昭和39年)春の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲三等からの昇叙)。 1973年(昭和48年)10月末に容態が悪化し、11月1日、関町の自宅で死去、88歳。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈、従四位から従三位に叙される。同月6日に普連土学園講堂で告別礼拝式が行われ、遺骨は多磨霊園の墓地に納められた。 石塚 (2010, p. 11)は、鶴見は集金能力のない清廉な政治家で、子分を養って派閥の長となる人ではなかった、と評している。
戦後は長老として顧問や相談役に祭り上げられ、厚生大臣を3ヵ月間務めたほかは、実権のある閣僚や党役員には就けなかった。 国際会議で難しい内容の議論でさえ通訳は無用とされた英語の達者な人物でありスケールの大きな率直な人柄は周囲の信頼を集めた。 鶴見はスポーツマンで、一高時代は剣道、生涯を通じてゴルフに親しんだ。 妻の愛子(後藤新平の子)との間に2男2女をもうけた。
長男は哲学者の鶴見俊輔。
次女は法学者の内山尚三に嫁いだ。 長姉は工学者で実業家の廣田理太郎に嫁いだ。
弟は外交官となった鶴見憲。
1940年(昭和15年)8月15日: 紀元二千六百年祝典記念章 旅行記、随筆、論文、小説、伝記など日本語の著書42種(57冊)がある。ベストセラーとしては、1928年(昭和3年)に出版した『英雄待望論』が50万部、1929年に出版した小説『母』が24万部発行されている。石塚 (2010, p. 13)は後世に残るものとして『後藤新平』と訳書『プルターク英雄伝』を挙げている。 『南洋遊記』大日本雄弁会講談社、1917年 『欧米名士の印象』実業之日本社、1921年 『鶴見祐輔氏大講演集』大日本雄弁会講談社、1924年 『壇上・紙上・街上の人』大日本雄弁会講談社、1926年 『現代日本論』大日本雄弁会講談社、1927年 『中道を歩む心』講談社、1927年 『英雄待望論』大日本雄弁会講談社、1928年 『日本と世界』アルス、1929年 『母』大日本雄弁会講談社、1929年(新装版『母』上下、角川文庫、1955年) 『自由人の旅日記』日本評論社、1930年 『ナポレオン』大日本雄弁会講談社、1931年(新装版『ナポレオン』潮文庫、1969年) 『欧米大陸遊記』大日本雄弁会講談社、1933年 『バイロン』英雄天才史伝、大日本雄弁会講談社、1935年(新装版『バイロン』潮文庫、1960年) 『読書三昧』大日本雄弁会講談社、1936年 『ヂスレリー』英雄天才史伝、大日本雄弁会講談社、1936年(新装版『ディズレーリ』、潮文庫、1971年) 『新雄弁道』講談社、1941年 『成城だより』全8巻、太平洋出版社、1950年
『新英雄待望論』太平洋出版社、1951年 『北米遊説記』鶴見祐輔、1956年 『子』上下巻、角川書店、1957-58年 『ウィンストン・チャーチル』講談社、1958年(新装版『ウィンストン・チャーチル』講談社現代新書、1965年) 『若き日のともし灯』実業之日本社、1960年 『後藤新平』全4巻、勁草書房、1965-67年
『鶴見祐輔人物論選集』ダイヤモンド社、1968年 『ビスマーク』(英雄天才史伝、講談社、1935年) 『プルターク英雄伝』(改造社 全6巻、1935年)
『プルターク英雄伝』(潮出版社 全1巻、潮文学ライブラリー、2000年) 『欧米大陸遊記』巻末のリストによると、以下を米国で出版しているほか、1927年にジャパンタイムズから“Contemporary Japan”を刊行している。 The History of Chinese Identities(1916年) The Reawakening of the Orient(1925年) They Believe(1926年) Present Day Japan(1926年) The Interpretation of American Foreign Policy(1930年) The Mother(1932年、『母』の英訳) 鶴見は各国の著名人にインタビューを行い、会見記を出版している。会見した人物には、ウッドロウ・ウィルソン、フランクリン・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサー、ハーバート・ジョージ・ウェルズ、バーナード・ショウ、ジークムント・フロイト、ヨーゼフ・ゲッベルス、孫文、蔣介石、胡適らがいる。特にウィルソンを崇拝し、厖大な資料を収集していたが、伝記は書かずにこの世を去った。また特にチャールズ・ビアードと親交があった。 石塚, 義夫『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、2010年。ISBN 9784876019120。 小谷野, 敦『日本の有名一族‐近代エスタブリッシュメントの系図集』幻冬舎〈幻冬舎新書〉、2007年9月30日。ISBN 978-4-3449-8055-6。 岸田, 菊伴 著、現代パンフレット通信社 編『京電疑獄と島徳事件』1931年4月30日。NDLJP:1274699。 ^ 石塚 2010, p. 17. ^ 石塚 2010, p. 270. ^ 石塚 2010, p. 30. ^ 石塚 2010, p. 12. ^ 石塚 2010, p. 11. ^ 父の先祖は岡山県備中松山城の家老鶴見内蔵助(石塚 2010, p. 17)。父・良憲は1889年、鶴見が4歳のときに新町町会議員に当選している(石塚 2010, p. 19)。 ^ 大阪の商人の娘(石塚 2010, p. 17)。名前は「古都」とも(石塚 2010, p. 23)。 ^ 石塚 2010, pp. 11, 17. ^ 石塚 2010, p. 20. ^ 石塚 2010, pp. 20–21. ^ 石塚 2010, pp. 21–22. ^ 石塚 2010, p. 22. ^ 石塚 2010, pp. 11, 23. ^ 石塚 2010, p. 23. ^ 石塚 2010, p. 24. ^ 石塚 2010, p. 26. ^ 石塚 2010, pp. 11, 26. ^ 石塚 2010, pp. 26–31. ^ 石塚 2010, pp. 11, 30. ^ 『第一高等学校一覧 自明治39年至明治40年』第一高等学校、1907年、253頁。 ^ 石塚 2010, pp. 11, 12. ^ 石塚 2010, pp. 12, 31. ^ 石塚 2010, pp. 30–37. ^ 石塚 2010, p. 37. ^ 石塚 2010, p. 31. ^ 石塚 2010, pp. 11, 37. ^ 『官報』第8117号(明治43年7月13日)p.292 ^ 石塚 2010, pp. 11, 38. ^ 石塚 2010, pp. 11, 39. ^ 石塚 (2010, p. 39,40,46)。この件で新渡戸は一高生から「一高生と政府高官の取り持ちをしている」と揶揄されるようになり、このことが新渡戸が一高の校長を辞任する原因となった(石塚 2010, p. 52)。 ^ 石塚 (2010, pp. 39–43)。新渡戸は米国カーネギー平和財団(英語版)により第1回日米交換教授として招聘された(同)。 ^ 石塚 2010, pp. 11, 12, 44–92. ^ 石塚 2010, pp. 60–61. ^ 石塚 (2010, p. 84)。1921年(大正10年)6月に昇進(同)。 ^ 石塚 (2010, pp. 11, 92)。石塚 (2010, p. 99)は、鉄道院(省)で鶴見がどのような仕事をしていたか、どのような実績を挙げたかはほとんどわからない、としている。 ^ 石塚 2010, pp. 11, 92–93. ^ 石塚 2010, p. 93-104. ^ 石塚 2010, p. 13,93-104. ^ 帰国直後の1925年12月に岡山選挙区(久米郡・真庭郡)の衆議院補欠選挙があり、出馬するも落選(石塚 2010, pp. 103–104, 110–111)。鶴見自身は運動に歩かなかったとされる(同)。 ^ 石塚 2010, pp. 103, 193. ^ 「恒久的な組織として設立、理事長に井上準之助」『東京日日新聞』1926年4月7日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.384 毎日コミュニケーションズ 1994年) ^ 石塚 2010, p. 193. ^ 石塚 2010, pp. 13, 105–111. ^ 石塚 2010, pp. 113–114. ^ 石塚 2010, pp. 114–116. ^ 石塚 2010, pp. 11, 107–108. ^ 石塚 2010, p. 119. ^ 『母』は単行本として出版され24万部発行された(石塚 2010, pp. 139, 155)。1929年(昭和4年)に舞台化され(石塚 2010, p. 135)、同年と1935年(昭和10年)、1950年(昭和25年)に映画化されている(石塚 2010, pp. 136, 144–145)。 ^ 『第16回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1928年、389頁。 ^ 石塚 2010, pp. 121–122. ^ 石塚 (2010, pp. 13, 123–124)。同年に大内暢三が加入し7名となった。 ^ 石塚 (2010, pp. 13, 125–126)。新自由主義協会は、新渡戸を会長とし、事務所を内幸町の太平洋ビルに置いて、機関紙月刊『新自由主義』を発行した(同)。 ^ 石塚 2010, pp. 125, 126, 129, 155. ^ 石塚 2010, pp. 125, 128–129, 130. ^ 石塚 2010, p. 134-135,137. ^ 石塚 2010, pp. 125, 139, 146–148. ^ 岸田 1931, p. 41-48. ^ 『第17回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1930年、423頁。 ^ 石塚 2010, pp. 139, 146–148. ^ 石塚 (2010, p. 140)。弟・定雄は1931年(昭和6年)6月に大阪地方裁判所で有罪判決を受けたが、1932年(昭和7年)5月に大阪控訴院(現在の大坂高等裁判所)で無罪判決を受けた(石塚 2010, pp. 140, 151, 157)。 ^ 石塚 2010, pp. 140–143, 149–152. ^ 石塚 2010, pp. 141, 144, 158. ^ 石塚 (2010, p. 154)。席上、新渡戸稲造は、日本を侵略国と批難した中国代表陳立延を批判する演説をした(同) ^ 石塚 2010, pp. 152–153. ^ 石塚 (2010, pp. 158, 160)。同年2月の衆院選には出馬しなかった(石塚 2010, p. 169)。 ^ 石塚 2010, pp. 158, 164–168. ^ 石塚 2010, pp. 168, 171. ^ 『欧米大陸遊記』第六章「反日暴風雨裡の旅」 ^ 石塚 2010, p. 177,181. ^ 石塚 2010, p. 179,180. ^ 石塚 2010, pp. 183–184, 191. ^ 石塚 (2010, p. 190)。編纂室での校閲を経て、1937年(昭和12年)3月に第1巻が刊行された(石塚 2010, pp. 190–191)。 ^ 石塚 (2010, pp. 176–177)。この頃、俊輔は、仲間と万引きを繰り返し、小学校をサボり、女性と交際するなど、不良化した(石塚 2010, pp. 181–182) ^ 石塚 2010, pp. 160, 169–170, 177. ^ 石塚 2010, pp. 179, 187. ^ 石塚 2010, p. 192. ^ 石塚 2010, p. 196. ^ 石塚, p. 196. ^ 石塚 2010, p. 197. ^ 石塚 2010, p. 199. ^ 石塚 (2010, p. 199)。俊輔は翌1938年(昭和13年)3月まで首都ワシントンの斎藤博大使に預けられ、いったん帰国した後、同年9月にマサチューセッツ州コンコードのミドルセックス校(英語版)(予備校)へ入学した(石塚 2010, pp. 199, 200, 201–202)。 ^ 石塚 2010, pp. 203–204, 205. ^ 会長は欠員、副会長に永田秀次郎、松岡洋右(石塚 2010, pp. 200–201)。 ^ 石塚 2010, pp. 14, 200. ^ 石塚 2010, p. 14. ^ 石塚 (2010, p. 202)。河合は1939年(昭和14年)2月に起訴され、同年7月に東京地方裁判所で公判が開かれ、翌1940年(昭和15年)10月に無罪判決を受けた(石塚 2010, pp. 206, 208, 211, 212)。検事局は控訴し、1941年(昭和16年)3月に東京控訴院で公判が開始され、同年10月に有罪判決(石塚 2010, pp. 212, 213)。河合は上告し、1942年(昭和17年)5月に大審院での審理が開始され、1943年(昭和18年)6月に大審院は河合の上告を棄却して有罪が確定した(石塚 2010, pp. 213, 216, 218)。 ^ 石塚 2010, p. 206. ^ 石塚 2010, pp. 11, 210. ^ 石塚 2010, p. 210. ^ 石塚 2010, p. 211. ^ 石塚 2010, p. 215. ^ 石塚 2010, pp. 215–216. ^ 石塚 (2010, p. 211,214,220,235-236)。戦後の1950年(昭和25年)3月にNHK会長が提出した『鶴見祐輔氏の戦前及び戦時中の放送』と題した文書では、戦時中の放送の中でも「毫も侵略的挑発的の言葉は見られなかった」としているが(石塚 2010, pp. 235–236)、「戦時中に反米的な言葉をもって放送した」(石塚 2010, p. 220)との他評もある。 ^ 石塚 2010, p. 221. ^ 石塚 2010, p. 222. ^ 石塚 (2010, p. 224)。麻布区桜田町にあった自邸は満洲国大使館として貸し出され、終戦後は進駐軍に接収され憲兵司令官公館として使用された(石塚 2010, pp. 184–185, 188–189, 224) ^ 石塚 (2010, pp. 224–225)。戦前の自由主義者の中でも、軍部から活動を封じられていた鳩山一郎らは自由党を結成したが、翼賛政治会に属して戦争遂行に協力した議員の多くは自由党には参加せず、進歩党に拠った(石塚 2010, p. 225)。 ^ 石塚 2010, pp. 12, 223, 226–227. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、688頁。 ^ 石塚 2010, pp. 227–228. ^ 石塚 2010, p. 230. ^ 石塚 2010, pp. 236–237. ^ 鶴見は1951年2月に同協会会長に就任、有力企業による維持会員制の組織とした(石塚 2010, p. 237)。 ^ 石塚 2010, p. 237. ^ 石塚 2010, p. 238. ^ 石塚 2010, p. 239. ^ 石塚 2010, p. 240. ^ 石塚 2010, p. 242. ^ 石塚 2010, p. 243. ^ 石塚 (2010, pp. 13, 243)。1992年(平成4年)のカンボジアへの海外派兵の際にはこの決議の存在は無視された由(石塚 2010, pp. 243) ^ 石塚 2010, p. 244. ^ 石塚 (2010, p. 244)。1955年2月の内閣改造にあたって辞職(石塚 2010, p. 246)。 ^ 石塚 2010, p. 246. ^ 石塚 2010, p. 249. ^ 石塚 (2010, p. 250)。同年中に辞任(石塚 2010, p. 252)。 ^ 石塚 2010, p. 253. ^ 石塚 2010, pp. 256, 257–259. ^ 石塚 2010, p. 256. ^ 石塚 2010, pp. 256, 262–263. ^ 石塚 2010, pp. 256, 263. ^ 石塚 (2010, p. 256)。回復後は、身体の自由はなく発語能力も失われたが、意識ははっきりしており、テレビでの相撲観戦が趣味だった(石塚 2010, pp. 207, 259–260) ^ 藤樫準二『日本の勲章 国の表彰制度』(第一法規出版、1965年)p.74 ^ 『官報』第11211号(昭和39年4月30日)19頁 ^ 『官報』第14062号(昭和48年11月9日号)10頁 ^ 石塚 2010, p. 271. ^ 石塚 (2010, p. 271)。鶴見家では1956年に港区北青山3丁目の善光寺に墓地を購入していたが、同年、死去した愛子がキリスト教徒だったことから同寺から埋葬を断わられたため、和子が多磨霊園に墓地を購入し、愛子の遺骨を埋葬していた(石塚 2010, pp. 256–257)。 ^ 石塚 2010, p. 13. ^ 小谷野 2007, pp. 177, 179. ^ 小谷野 2007, pp. 177–178. ^ 小谷野 2007, p. 179. ^ 小谷野 (2007, p. 179)は、廣田が鶴見の従兄弟にあたる、としている。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日 上品, 和馬『広報外交の先駆者 鶴見祐輔 1885-1973』藤原書店、2011年。ISBN 978-4894348035。 北岡, 寿逸 著、北岡寿逸 編『友情の人‐鶴見祐輔先生』私家版、1975年。 国立国会図書館 憲政資料室 鶴見祐輔関係文書 表 話 編 歴 木戸幸一 広瀬久忠 小原直 秋田清 吉田茂 安井英二 金光庸夫 小泉親彦 広瀬久忠 相川勝六 岡田忠彦 松村謙三 芦田均 河合良成 一松定吉 竹田儀一 林譲治 黒川武雄 橋本龍伍 吉武恵市 山縣勝見 草葉隆圓 鶴見祐輔 川崎秀二 小林英三 神田博 堀木鎌三 橋本龍伍 坂田道太 渡邊良夫 中山マサ 古井喜実 灘尾弘吉 西村英一 小林武治 神田博 鈴木善幸 坊秀男 園田直 斎藤昇 内田常雄 斎藤昇 塩見俊二 斎藤邦吉 福永健司 田中正巳 早川崇 渡辺美智雄 小沢辰男 橋本龍太郎 野呂恭一 斎藤邦吉 園田直 村山達雄 森下元晴 林義郎 渡部恒三 増岡博之 今井勇 斎藤十朗 藤本孝雄 小泉純一郎 戸井田三郎 津島雄二 下条進一郎 山下徳夫 丹羽雄哉 大内啓伍 井出正一 森井忠良 菅直人 小泉純一郎 宮下創平 丹羽雄哉 津島雄二 坂口力 米窪満亮 加藤勘十 増田甲子七 鈴木正文 保利茂 吉武恵市 戸塚九一郎 小坂善太郎 千葉三郎 西田隆男 倉石忠雄 松浦周太郎 石田博英 倉石忠雄 松野頼三 石田博英 福永健司 大橋武夫 石田博英 小平久雄 山手満男 早川崇 小川平二 原健三郎 野原正勝 原健三郎 塚原俊郎 田村元 加藤常太郎 長谷川峻 大久保武雄 長谷川峻 浦野幸男 石田博英 藤井勝志 栗原祐幸 藤波孝生 藤尾正行 初村滝一郎 大野明 坂本三十次 山口敏夫 林迶 平井卓志 中村太郎 丹羽兵助 堀内光雄 福島譲二 塚原俊平 小里貞利 近藤鉄雄 村上正邦 坂口力 鳩山邦夫 浜本万三 青木薪次 永井孝信 岡野裕 伊吹文明 甘利明 牧野隆守 吉川芳男 坂口力 坂口力 尾辻秀久 川崎二郎 柳澤伯夫 舛添要一 長妻昭 細川律夫 小宮山洋子 三井辨雄 田村憲久 塩崎恭久 加藤勝信 根本匠 加藤勝信 田村憲久 後藤茂之 加藤勝信 武見敬三 福岡資麿 2001年の省庁再編により厚生大臣と労働大臣は統合された。 表 話 編 歴 星一↓ 柳川宗左衛門† 早川慎一 松本治一郎† 高橋龍太郎 田中耕太郎↓ 梅原真隆 佐々木良作 山本勇造 尾崎行輝 堀越儀郎 柏木庫治 伊藤保平 西園寺公一 岡部常 膳桂之助† 西田天香 赤松常子 岩間正男 徳川宗敬 和田博雄↓ 鈴木清一 広瀬与兵衛 宮城タマヨ 大野幸一 楠見義男 東浦庄治↓ 奥むめお 原虎一 高瀬荘太郎 木下辰雄 金子洋文 青山正一 高良とみ 河崎なつ 岡田宗司 木内キヤウ 大隈信幸↓ 慶松勝左衛門† 稲垣平太郎 水橋藤作 高田寛 兼岩伝一 中村正雄 鈴木直人↓ 荒井八郎↓ 岡村文四郎 鬼丸義斎 井上なつゑ 小泉秀吉 岡本愛祐 川上嘉 中山寿彦 中川以良 丹羽五郎 羽仁五郎 寺尾豊 下条康麿 河野正夫 佐々弘雄↓ 重宗雄三 宿谷栄一 市来乙彦 安部定 大西十寸男↓ 藤井新一 水久保甚作 鎌田逸郎 中野重治 安達良助 堀真琴 松野喜内 木村禧八郎 寺尾博 穂積真六郎 矢野酉雄 藤井丙午 飯田精太郎 小川友三↓ 小野光洋 塚本重蔵 松井道夫 吉松喬† 星野芳樹 北條秀一 三島通陽 小林勝馬 中西功↓ 来馬琢道 新谷寅三郎 松嶋喜作 内村清次 大山安 浅岡信夫 江熊哲翁 松村真一郎 伊東隆治 細川嘉六 小杉イ子 仲子隆 国井淳一↑ 山川良一 高木正夫 加藤正人 杉山昌作 岩沢忠恭 加藤シヅエ 泉山三六 荒木正三郎 大谷瑩潤 長島銀蔵 菊川孝夫 三浦辰雄 常岡一郎 野田卯一↓ 高橋道男 瀧井治三郎 岡田信次 一松定吉 野溝勝 内村清次 平井太郎 藤原道子 栗山良夫 溝口三郎 石川清一 愛知揆一↓ 上条愛一 小笠原二三男 松原一彦 小酒井義男 片柳真吉 宮本邦彦 重宗雄三 堀木鎌三 高田なほ子 羽仁五郎 松本昇↓ 大矢半次郎 石川栄一 矢嶋三義 小野義夫 小林政夫 鈴木文四郎↓ 白波瀬米吉 小林孝平 田中一 須藤五郎 木村禧八郎 細川嘉六† 森八三一 中山寿彦 小川久義 鈴木恭一↓ 椿繁夫 山花秀雄↓ 寺尾豊 加藤シヅエ 加藤正人 高田なほ子 中村正雄 下条康麿 藤原道子 竹中恒夫 柴田栄 重宗雄三 天坊裕彦 鈴木強 占部秀男 野溝勝 北村暢 田中一 杉山昌作 迫水久常 栗山良夫↓ 松村秀逸 泉山三六 大谷藤之助 岩沢忠恭 辻武寿 小笠原二三男 手島栄 平林剛 小野義夫↓ 勝俣稔 阿部竹松 塩見俊二 一松定吉 小酒井義男 大谷瑩潤 荒木正三郎 本多市郎↓ 矢嶋三義 石黒忠篤↓ 常岡一郎 岩間正男 横川正市 谷口弥三郎 大竹平八郎 小林孝平↓ 北条雋八 江藤智 森八三一 堀木鎌三 光村甚助 稲浦鹿蔵 内村清次 柴谷要 小西英雄† 上条愛一↑ 中上川アキ↓ 加藤シヅエ 長谷川仁 迫水久常 源田実 浅井亨 山崎斉 丸茂重貞 北条雋八 鈴木一弘 山下春江 大谷藤之助 渋谷邦彦 二宮文造 小林武 岩間正男 鈴木市蔵 稲浦鹿蔵 森八三一 野知浩之 天坊裕彦 小西英雄↓ 林塩 田中一 重宗雄三 辻武寿 野々山一三 中村順造 藤原道子 鬼木勝利 北村暢 高山恒雄 鈴木強 占部秀男 江藤智 日高広為 横川正市 小酒井義男 野溝勝 豊田雅孝 竹中恒夫 向井長年 手島栄↓ 中村正雄 川野三暁 大竹平八郎 柴谷要 森田たま 光村甚助 松村秀逸↓ 阿部竹松↑ 山高しげり↑ 石原慎太郎↓ 青島幸男 上田哲 今春聴 重宗雄三 長谷川仁 大松博文 三木忠雄 小林国司 二宮文造 田渕哲也 鈴木一弘 上林繁次郎 小笠原貞子 塩出啓典 岩間正男 永野鎮雄 峯山昭範 森八三一 沢田実 加藤シヅエ 小林武 内田善利 向井長年 山田勇 松本英一 藤原房雄 渡辺武 中村正雄↓ 上田稔 若林正武 玉置猛夫 迫水久常 源田実 鈴木強 大竹平八郎 長田裕二 和田静夫 藤原道子 田口長治郎 大谷藤之助 江藤智 亀井善彰 長屋茂 山下春江 田中一 安永英雄 阿具根登 高山恒雄 横川正市 北村暢 宮田輝 市川房枝 青島幸男 鳩山威一郎 山東昭子 斎藤栄三郎 丸茂重貞 小林国司 目黒今朝次郎 田渕哲也 三木忠雄 秦豊 糸山英太郎 鈴木一弘 峯山昭範 片山甚市 佐藤信二↓ 和田静夫 二宮文造 内田善利 山中郁子 案納勝 岡田広 江藤智 迫水久常↓ 阿具根登 藤原房雄 太田淳夫 長田裕二 松本英一 坂野重信 野田哲 向井長年↓ 大谷藤之助 内藤功 福間知之 源田実 立木洋 塩出啓典 柄谷道一 粕谷照美 安永英雄 上林繁次郎 神谷信之助 和田春生↓ 大鷹淑子 神田博↓ 下村泰 渡辺武 小巻敏雄 森下泰 岩間正男 上田稔 近藤忠孝 市川房枝 青島幸男 鳩山威一郎 宮田輝 中山千夏 山東昭子 大鷹淑子 岡部三郎 美濃部亮吉↓ 大河原太一郎 田渕哲也 田沢智治 斎藤栄三郎 村上正邦 長田裕二 岡田広 井上孝 関口恵造 板垣正 源田実 山中郁子 福間知之 丸茂重貞↓ 梶原清 目黒今朝次郎 鈴木一弘 松浦功 田中正巳 峯山昭範 坂野重信 片山甚市 大川清幸 野田哲 江藤智↓ 鈴木和美 二宮文造 阿具根登 太田淳夫 塩出啓典 藤原房雄↓ 鶴岡洋 松本英一 近藤忠孝 中野鉄造 柄谷道一 伊藤郁男 立木洋 粕谷照美 和田静夫↓ 秦豊↑ 宇垣一成↓ 加賀山之雄 横川信夫↓ 鹿島守之助 上林忠次 三浦義男↓ 松本治一郎 木島虎蔵 白井勇 高良とみ 重政庸徳 津島壽一 鮎川義介 横山フク 梶原茂嘉 八木幸吉 永岡光治 鶴見祐輔 青木一男 吉田萬次↓ 早川慎一 西岡ハル 豊田雅孝 雨森常夫 久保等 森田義衛 小沢久太郎 赤松常子 前田久吉 山口重彦 岡三郎 奥むめお 藤田進 土田國太郎 高橋衛 阿具根登 野本品吉 林了↓ 岸良一 苫米地義三 大和与一 高野一夫 高瀬荘太郎 中山寿彦↓ 榊原亨 宮城タマヨ 青山正一 大倉精一†↑ 関根久蔵†↑ 大谷贇雄†↑ 八木秀次†↑ 柏木庫治†↑ 楠見義男† 平林剛↑ 米田正文 鹿島守之助 辻政信 前田久吉 石田次男 金丸冨夫 奥むめお 重政庸徳 天埜良吉 大倉精一 石谷憲男 赤松常子 加賀山之雄 中尾辰義 小平芳平 野上元 木村禧八郎 鮎川義介↓ 原島宏治↓ 下村定 北畠教真 松本治一郎 植垣弥一郎 梶原茂嘉 上林忠次 牛田寛↓ 山本伊三郎 岡三郎 青木一男 鹿島俊雄 鶴園哲夫 大谷贇雄 鈴木恭一 横山フク 岡村文四郎 山本杉 阿具根登 高瀬荘太郎 永岡光治 高野一夫 久保等 野本品吉 田中清一 山口重彦 千葉千代世 須藤五郎 川上為治 基政七 豊瀬禎一 徳永正利 中村順造 向井長年 鹿島守之助 春日正一 玉置和郎 田中寿美子 須藤五郎 楠正俊 柏原ヤス 岡本悟 野上元 内藤誉三郎 山崎昇 小林章 多田省吾 木村美智男↓ 山田徹一 山内一郎 西村尚治 山本伊三郎 瓜生清↓ 大倉精一 小平芳平 矢追秀彦 青木一男 平泉渉 岡村文四郎↓ 重政庸徳 松本治一郎↓ 山本茂一郎 久保等 鹿島俊雄 鶴園哲夫 鈴木力 片山武夫 宮崎正義 徳永正利 原田立 大谷贇雄↓ 永岡光治 山本杉 黒柳明 千葉千代世 横山フク 北畠教真↓ 八田一朗 中尾辰義 内田芳郎 黒木利克 金丸冨夫 山高しげり 梶原茂嘉 米田正文 石本茂 田英夫 志村愛子 鈴木美枝子 町村金五 栗林卓司 柏原ヤス 山本茂一郎 山田徹一 梶木又三 矢追秀彦 玉置和郎 西村尚治 原田立 須藤五郎 春日正一 岡本悟 小平芳平 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tsurumi yuusuke
鶴見祐輔と同じ誕生日1月3日生まれ、同じ岡山出身の人
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