木村荘十二の情報(きむらそとじ) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
木村荘十二と関係のある人
ヘンリー大川: 木村荘十二監督によるPCL第1回自主制作作品『音楽喜劇 ほろよひ人生』へ主演、劇中挿入歌『恋は魔術師』も歌う。 佐々木祐滋: 『千羽鶴』(木村荘十二監督、1958年) 木村荘八: 異母弟・木村荘十二は映画監督である。 林光: 1956年の木村荘十二監督『森は生きている』以降映画音楽も多数手がけているが、中でも新藤兼人監督作品は、1959年の『第五福竜丸』から遺作『一枚のハガキ』まで、そのほとんどを担当した。 紙恭輔: PCL自主製作第1回作品で日本初の本格的音楽映画といわれる木村荘十二監督の『ほろよひ人生』、成瀬巳喜男監督初のトーキー作品『乙女ごころ』、山本嘉次郎監督『エノケンの青春酔虎伝』、内田吐夢監督『裸の町』などの音楽を手掛け、日本の初期映画音楽、特に日本のミュージカル映画を形作った。 室生犀星: 8月「あにいもうと」が木村荘十二監督、ピー・シー・エル映画製作所製作、東宝配給で映画化され封切。 嵯峨善兵: 1935年(昭和10年)にP.C.L.映画製作所へ移り、木村荘十二監督の『都会の怪異七時三分』等に出演。 佐伯秀男: 『都会の怪異七時三分』(『都會の怪異 7時03分』) : 監督木村荘十二、原作牧逸馬、脚本小林勝、主演中野英治、製作PCL映画製作所、配給東和商事映画部、1935年10月9日公開 - 出演・「ボディ辰村」役 丸山定夫: おもな代表作に『妻よ薔薇のやうに』(1935年、成瀬巳喜男監督)、『彦六大いに笑ふ』(1936年、木村荘十二監督)、『巨人伝』(1938年、伊丹万作監督※『レ・ミゼラブル』の舞台を日本に置き換えた映画。 新藤兼人: うなぎとり(1957年10月1日公開、木村荘十二監督、歌舞伎座・近代映画協会・松竹) 毛利菊枝: 映画では、1937年の『からゆきさん』(木村荘十二監督)が初出演作となり、およそ100本の作品に出演。 内田吐夢: 興山で「精簡」(リストラ)され、木村荘十二とともに炭坑労働に従事した。 木村荘十: 異母弟木村荘十二は映画監督。 中野英治: 『都会の怪異七時三分』 : 監督木村荘十二、P.C.L.映画製作所、1935年 東坊城恭長: そこで東坊城は、木村荘十二、伏水修監督の入江たか子主演作、2本のトーキーの脚本を書き、また、同年のPCLほか4社合併による「東宝映画」の設立後、入江は東宝と専属契約し、同プロダクションは解散した。 村田実: この『街の手品師』撮影・封切前後は木村荘十二を等持院の自宅の書生に招き、日活野球部にいた中野英治を俳優部に採用しているが、次作『大地は微笑む』の撮影直前に急病で倒れ、溝口健二が代わり成功させた。 細川ちか子: 横田とはP.C.L.の映画で木村荘十二監督の『三色旗ビルディング』(1935年)などで兄妹共演している。 宇野重吉: 同年、木村荘十二監督の『河向ふの青春』で映画に初出演する。 ヘンリー大川: 純情の都(1933年 木村荘十二監督) 佐伯秀男: 『三色旗ビルディング』 : 監督木村荘十二、原作サトウハチロー、脚本小林正・永見柳二、主演徳川夢声、製作PCL映画製作所、配給東和商事映画部、1935年7月12日公開 - 出演・「ヘンリイ」役 ヘンリー大川: 兄いもうと(1936年 木村荘十二監督):小畑 役 河村弘二: 1936年、P.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『彦六大いに笑ふ』で映画デビュー。 東坊城恭長: からゆきさん 1937年 脚本 監督木村荘十二、共同脚本畑本秋一、主演入江たか子、清川虹子 PCL映画製作所・入江ぷろだくしょん提携作品 佐伯秀男: 『女軍突撃隊』 : 監督木村荘十二、原作中野実、脚本永見柳二、主演藤原釜足・堤真佐子、製作PCL映画製作所、配給東和商事映画部、1936年1月22日公開 中野英治: 翌1935年(昭和10年)、第一映画を退社、P.C.L.映画製作所で木村荘十二監督の『都会の怪異七時三分』に主演した後に、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)によるマキノトーキー製作所の設立に参加した。 ヘンリー大川: 音楽喜劇 ほろよひ人生(1933年 木村荘十二監督):アサオ 役 内田吐夢: この時に半数の日本人が帰国を選択するが、内田は中国に残留することを選択し、同じく中国残留を選択した持永只仁、木村荘十二、岸富美子らとともに満映の設備を継承した東北電影の立ち上げに参加。 |
木村荘十二の情報まとめ
木村 荘十二(きむら そとじ)さんの誕生日は1903年9月4日です。東京出身の映画監督のようです。
映画、現在、卒業に関する情報もありますね。1988年に亡くなられているようです。
木村荘十二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)木村 荘十二(きむら そとじ、1903年9月4日 - 1988年8月10日)は東京府出身の映画監督。 牛鍋チェーン店"いろは"経営者木村荘平の正妻の十二男として、東京市芝区三田四国町(現在の東京都港区芝)の"いろは"本店に生まれる。幼くして父を亡くし、4歳から二代目木村荘平夫妻に育てられる。小学校卒業後、奉公に出されたが、異母兄木村荘五に引き取られて教育を受け、荘五と共に新しき村に参加。 1924年に映画界入りを果たし、1930年『百姓万歳』で映画監督デビュー。1932年、新興キネマをストライキで解雇される。 1933年、自らの独立プロダクション音画芸術研究所とピー・シー・エル映画製作所(東宝の前身)の提携で、社会派映画『河向ふの青春』を作る。 以後はPCLに所属。軽喜劇『音楽喜劇 ほろよひ人生』(1933年)などを経て、1936年、室生犀星原作の『兄いもうと』や三好十郎原作の『彦六大いに笑ふ』で進境を示し、PCLの代表的監督と目されるに至った。 1941年、満洲映画協会に移り、当地で敗戦を迎える。戦後も大陸に残って中華人民共和国の文化工作に協力。1953年に帰国してからは、『森は生きている』(1956年)など児童映画や反核映画を作り、日本共産党に入党した。 1986年、日本映画復興会議から特別功労賞を受ける。 異母姉木村曙や異母兄木村荘太、異母弟木村荘十はいずれも作家。異母兄木村荘八は画家。 妻は木村静江。1970年代以降は東京都江東区大島在住。地域の子供向けに、定期的に映画上映会を開催した。 百姓万歳(1930年) 都会病患者(1931年) 沈黙の愛(1931年) 故郷(1931年) 陽気な食客(1932年) 笑ふ父(1932年) 河向ふの青春(1933年) 音楽喜劇 ほろよひ人生(1933年) 純情の都(1933年) 只野凡児 人生勉強(1934年) さくら音頭 涙の母(1934年) 続・只野凡児(1934年) エノケンの魔術師(1934年) 放浪記(1935年) 三色旗ビルディング(1935年) 都会の怪異七時三分(1935年) 女軍突撃隊(1936年) 魔術の女王(1936年) 兄いもうと(1936年) 母なればこそ(1936年) 彦六大いに笑ふ(1936年) からゆきさん(1937年) 日本女性読本(1937年) 新選組(1937年) 牧場物語(1938年) 揚子江艦隊(1939年) 海軍爆撃隊(1940年) 蘇少妹(1945年) 森は生きている(1956年) 長崎の子(1956年) うなぎとり(1957年) 千羽鶴(1958年) お母さんの幸福(1958年) 海ッ子山ッ子(1959年) 海の恋人たち(1960年) 暴れん坊大将(1960年) 未来につながる子ら(1962年) 日本映画データベース
VIAF WorldCat ドイツ 日本 日本の映画監督 満映の人物 日本共産党の人物 東京都区部出身の人物 日本のサイレント映画監督 1903年生 1988年没 プロジェクト人物伝項目 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/10/29 23:04更新
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kimura sotoji
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