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小鶴誠の情報 (こづるまこと)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

小鶴誠の情報(こづるまこと) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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小鶴 誠さんについて調べます

■名前・氏名
小鶴 誠
(読み:こづる まこと)
■職業
野球選手
■小鶴誠の誕生日・生年月日
1922年12月17日 (年齢2003年没)
戌年(いぬ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
福岡出身

小鶴誠と同じ1922年生まれの有名人・芸能人

小鶴誠と同じ12月17日生まれの有名人・芸能人

小鶴誠と同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


小鶴誠と関係のある人

藤村富美男: 首位打者は小鶴誠に譲り三冠王にはなれなかったが、藤村の大活躍は甲子園に入場できない人もでる大盛況でプロ野球の隆盛を招き、そのスポーツマンとしての功績は現在でも評価が高い。


岩本義行: 自身も二リーグとなった同年、3月11日の開幕第2戦(下関市営球場対中日)でセ・リーグ第一号本塁打をバースデー・アーチも兼ねて満塁で放つと、この年3番小鶴誠、5番大岡虎雄とクリーンアップを組み、水爆打線と呼ばれた強力打線を構成し、シーズン127打点に加え、史上初のトリプルスリー(打率.319 39本塁打 34盗塁)を達成してリーグ優勝に大きく貢献した。


ロバート=ローズ: チームは3位に終わったものの同年のシーズンの153打点は小鶴誠(松竹)の161打点(1950年)に次ぐプロ野球歴代2位の記録となり、打点王を獲得。


原田信吉: 小鶴誠が欠場したために全試合(11勝1敗)に出場し、3戦目までに10打数6安打の活躍ぶりで3番に抜擢されて一軍に定着。


真田重蔵: 後年の小鶴誠らとの不和には、生え抜きである真田といわゆる赤嶺一派に属し大映スターズから移籍した小鶴らとの確執に加え、こうした差別待遇も背景があったとされる。


真田重蔵: 日本シリーズ終了後に実施された最高殊勲選手(MVP)投票では小鶴誠の12票に対し、真田は7票(投票総数41票)で次点にとどまり、獲得はならなかった(これに関する詳細は後述)。


松井稼頭央: その後9月27日のダイエー戦では2長打を放ち、1950年に小鶴誠が記録した日本プロ野球記録の85長打に並んだ。


大沢清: 松竹ロビンスから移籍入団した小鶴誠に四番を譲るが、三番一塁手としてフル出場。


横溝桂: 投手として入団し、故障で平山智や小鶴誠がレギュラーを張っている外野手に転向した。


米川泰夫: 米川は2ヶ月ほどまともに練習していなかった上に無死満塁の場面での初登板となったが、3番・小鶴誠、4番・大岡虎雄、5番・加藤正二のクリーンナップを打ち取ってピンチを切り抜けた。


別当薫: また、前年の笠原和夫を超える129得点の日本記録を樹立(翌年に小鶴誠が更新)。


金山次郎: 1950年、2リーグが分裂で赤嶺昌志のセ・リーグ総務の就任に伴いセントラル・リーグの松竹ロビンスに小鶴誠、三村勲と共に移籍。この年、三村勲との1・2番コンビ、小鶴誠・岩本義行・大岡虎雄のクリーンナップトリオで水爆打線と呼ばれた強力打線を形成し、セ・リーグの初代チャンピオンとなった。


石本秀一: 1953年の小鶴誠や金山次郎ら、赤嶺派の広島入りも石本の情熱溢れる説得によるもの。


松山昇: 1回に金山次郎、綱島新八、小鶴誠を三者連続三振に仕留めて、派手にデビューした。


金山次郎: 1953年、石本秀一に要請され、小鶴誠・三村勲・片山博と共に広島カープに移籍。


青田昇: また、この年は打率も山本一人・小鶴誠と僅差で争うが、閉幕試合の南海ホークス戦で三塁手・山本の目の前にセーフティバントを決めて競り勝ち、打率.306で首位打者も獲得、二冠王となった。


三村勲: 赤嶺の事を慕っていた三村はのちに共に行動をする事になる金山次郎、小鶴誠らと共に赤嶺の後を追って急映フライヤーズに移籍する。


鶴岡一人: 自身も選手兼任監督ながら青田昇(読売ジャイアンツ)、小鶴誠(大映ユニオンズ)と三つ巴の首位打者争いを繰り広げ、最終打席に敬遠で歩かされたことで、青田と6毛差の3位に終わった。


野村克也: 1963年には小鶴誠(松竹ロビンス)のプロ野球シーズン記録51本塁打(同上)を破る52本を残し、340塁打・135打点は当時のパ・リーグ記録。


金山次郎: 1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠、加藤正二、古川清蔵、三村勲、野口正明、岩本章、井上嘉弘、藤原鉄之助らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。


石本秀一: 一時は後援会員が4万人ぐらいになり、会費一人年200円で、当時のお金で数千万円を集めて、創立3年目には小鶴誠、金山次郎、三村勲というスター選手獲得を始め、創成期のチームを支えた。


後藤修: 松竹では小鶴誠、巨人では川上哲治・長嶋茂雄、南海では野村克也、西鉄では稲尾和久・中西太と昭和を代表する大選手とチームメイトであった。


高野裕良: 1950年5月ごろの対松竹ロビンス戦で小鶴誠が打った痛烈なゴロを右の素手で受けたところ、親指と人差し指の間に裂傷を負い、人差し指も負傷した。


金山次郎: 1949年に金星スターズが永田雅一によって買収され大映スターズとなり、そのチームに小鶴誠らと共に移籍。


川上哲治: 1949年には当時の日本記録であるシーズン129打点を叩き出した(翌年に小鶴誠が更新)。


西沢道夫: 翌1950年は46本塁打を記録したが、日本プロ野球史上初の50本塁打を達成した松竹ロビンスの小鶴誠(51本)に及ばず、本塁打王は取れなかった。


大下弘: 逝去翌年の1980年に小鶴誠・千葉茂と共に野球殿堂入り。


白石勝巳: トップバッターはアメリカから呼び寄せた銭村健四に譲るが、引き続き白石は正遊撃手も務め、エースの長谷川良平、4番打者の小鶴誠とともに、オールスターゲームにファン投票で選ばれ出場している。


近藤健介: 移籍初年度の主要2冠獲得は、2017年アルフレド・デスパイネ以来6年ぶり6人目、日本出身者では1950年小鶴誠(松竹ロビンス)・別当薫(毎日オリオンズ)以来73年ぶり4人目。


山本浩二: この時代の広島の主力選手であった、エースピッチャー・長谷川良平、4番・小鶴誠、韋駄天・金山次郎らのプレーを間近で見る機会に恵まれ、特に小鶴にはバッティングフォームを真似るほど憧れた。


小鶴誠の情報まとめ

もしもしロボ

小鶴 誠(こづる まこと)さんの誕生日は1922年12月17日です。福岡出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

引退、現在、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2003年に亡くなられているようです。

小鶴誠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

小鶴 誠(こづる まこと、1922年(大正11年)12月17日 - 2003年(平成15年)6月2日)は、福岡県飯塚市出身のプロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ。

1942年名古屋軍に入団。戦後の1948年に急映に移籍すると、新田恭一の指導で腰の回転を利用したゴルフスイング打法を習得し、翌1949年に打率.361で首位打者を獲得。翌1950年セ・パ両リーグ分立に伴って松竹へ移籍すると、水爆打線の中核として51本塁打、161打点の二冠王で最優秀選手を獲得するなど、同年の松竹の優勝に貢献した。なお、同年の161打点、376塁打、143得点は日本プロ野球記録。1953年に広島へ移籍し、1958年に引退引退後は国鉄・阪神などでコーチを務めた。1980年に野球殿堂入り。美しい打撃フォームで、風貌もジョー・ディマジオに似ていたことから和製ディマジオと呼ばれた。

飯塚商業専修学校を経て、社会人野球の八幡製鐵でプレー。1942年に職業野球の名古屋軍に入団するが、出身地にちなんだ飯塚誠の偽名を登録名に用いた。これについて、八幡製鉄は軍需工場で転職が認められていなかったことから大学進学の名目で退職したため、あるいは、名古屋軍理事の赤嶺昌志が小鶴を強引に引き抜いたところ八幡製鉄のメンバーやファンから激しい怒り買ったことから、赤嶺が恭順の意志を示したため、の諸説がある。小鶴自身も「飯塚」と場内アナウンスされても、自分のことではないような不思議な感覚だったという。なお、同年の9月1日には本名の小鶴誠に戻している。

1年目からレギュラーとして活躍するが、翌1943年オフに応召のため名古屋軍を退団。

1946年に中部日本軍に復帰する。1948年に球団代表であった赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って退団。急映フライヤーズに移籍した。この間、のちに松竹ロビンスの監督も務める新田恭一に指導を受け、腰の回転を使いダウンスイングで打つゴルフスイング打法を習得した。肩をいからせ、腕力で打つ選手が多かった当時の強打者の中で、小柄で腕力もない小鶴の腰の回転を利用した円滑なスイングは新鮮であった。新田が元ゴルファーだったこともあり、「ゴルフ・スイング」は当時の流行語となった。しかし同時に、その名称から「下からアッパースイングで打つ打法」という誤解も招いた。同年に打率.305で首位打者・青田昇にわずか1厘差で打撃成績2位に入る。

1949年に再び赤嶺に従って大映スターズに移籍。バットを力まずに振る感覚を身につけ、打撃奨励のためのラビットボールと呼ばれる飛ぶボールが採用されたこともあり、飛躍的に打撃成績が向上した。同年は打率.361で首位打者を獲得した。

1950年セ・パ両リーグ分立の際に、セ・リーグ総務に移った赤嶺の斡旋で松竹ロビンスに移籍。岩本義行・大岡虎雄・金山次郎らとともに「水爆打線」と呼ばれた強力打線を形成した。この年は前年に生まれた藤村富美男の日本記録の46本を更新、さらに11月2日の対大洋ホエールズ戦(日生球場)の3回に、大洋の今西錬太郎からレフトへ日本プロ野球史上初のシーズン50本目の本塁打を放つ。シーズンを通して130試合の出場で打率.355・51本塁打・161打点の成績で、リーグ優勝に貢献。打率は.362の藤村富美男に及ばなかったものの、本塁打・打点の2冠とシーズンMVPを獲得した。51本塁打は1963年に野村克也(52本)に破られるまでは日本プロ野球記録で、1964年に王貞治(55本)に破られるまではセ・リーグ記録であった。161打点・143得点・376塁打は現在でも日本プロ野球記録である。さらにこの年は28盗塁を記録し、日本球界唯一の50本塁打20盗塁を達成している(51本塁打28盗塁という記録は当時MLBでも達成者がおらず、2024年にロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平が上回るまで世界唯一の記録だった)。同年の長打率.7287は王貞治に抜かれるまで23年間、85長打は松井稼頭央に抜かれるまで52年間日本記録だった(長打数は現在もセ・リーグ記録)。しかしシーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、日本シリーズでは活躍できなかった。なお、川上哲治の「ボールが止まって見えた」という言葉について、実際には小鶴が50本塁打を達成した際の発言で「知名度のない小鶴では記事にならないから」という理由で報知新聞の記者が川上の発言に変えたとする説がある。

1951年からは飛ぶボールの廃止と椎間板ヘルニアの悪化により、成績を落とした。治療法も無い時代であったため、余りの痛みのために腰の感覚が無くなる程だったという。

1953年に松竹が大洋と合併した際に、金山次郎・三村勲ら赤嶺一派のメンバーとともに広島カープへ移籍。石本秀一監督と樽募金で資金を集めた広島市民の熱意により移籍が実現し、球界の大スター入団に広島の町は沸き返った。往年の力は発揮出来なかったが、この年は自己最多の33盗塁を記録するなど奮闘し、ファンも意気に応えて人気投票1位でオールスターゲームに送り出した。打撃力の乏しい広島では不動の四番に座り、1954年(.297〔9位〕)、1955年(.285〔6位〕)と2年連続で打撃ベストテンに顔を出した。

1958年に現役引退したが、同年のシーズンオフに「チーム若返り策」の名目で戦力外を告げられた。その時、小鶴は球団代表の河口豪に対して、「(自分より)実力の劣る選手がいるのに何故自分なのか。まだまだ現役でやれる自信がある」「この球団は広島閥が強すぎる」「引退を勧めるならば、コーチ就任の話ぐらいあってもいいのでは」と不満をぶつけている。それに対して河口は「君は性格的にコーチは向いていないだろう。それに現役時代より給料は格段に落ちる。ならば勇退とした方がすっきりとするのではないか」と説得し、小鶴も受け入れた。後に河口は、球団幹部だった松田恒次から「小鶴に引退してもらったのは白石監督をやりやすくするためだ」と聞かされたという。

その後、白石率いるカープは1960年に球団初の勝率5割を達成したが、白石から門前真佐人が監督を引き継いだ1961年~1962年にチーム成績は低迷し、観客動員数も落ち込んでしまう。危機感を抱いた球団社長の伊藤信之は小鶴を監督として招聘しようとするが、球団役員の意志統一が図れず、伊藤は辞任してしまう。代わって球団社長に就任した松田恒次は白石を監督として再招聘したため、小鶴がカープに復帰する機会は永遠に失われてしまった。

引退後はラジオ関東解説者(1959年 - 1963年)を経て、国鉄・サンケイ一軍打撃コーチ(1964年 - 1965年)、阪神一軍打撃コーチ(1968年)→東京駐在スカウト(1969年 - 1976年)を歴任。阪神時代は投手として入団した桑野議を打者に転向させたほか、掛布雅之の入団テストを担当。球界から離れた後は東京都練馬区でビル管理会社を経営し、1980年に野球殿堂入り。還暦までバッティングセンターに通い続けて毎日200球ほど打ち込み、打撃を追求し続けていたという打撃の職人であった。

2003年6月2日に心室細動のため豊島区の病院で死去。満80歳没。

野球の虫と言われたほど研究熱心で、苦手なカーブを徹底的な練習で克服し、戦後にホームランブームが訪れると飛距離を伸ばすゴルフスイング打法にのめり込んで自分のものにするなど、その努力が空前の本塁打記録として実を結んだ。また、通算240盗塁を記録した走塁と、強肩を活かした守備も評価が高かった。

プライベートでは物静かで温厚な冗談好きの紳士であった。

各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB歴代最高

名古屋(名古屋軍)は、1944年に産業(産業軍)に、1946年に中部日本(中部日本軍)に球団名を変更

首位打者:1回 (1949年)

本塁打王:1回 (1950年)

打点王:1回 (1950年)

最多出塁数:1回(1949年)

最高殊勲選手(MVP):1回 (1950年)

ベストナイン:2回 (外野手部門:1949年、1950年)

野球殿堂競技者表彰(1980年)

100本塁打:1950年9月10日、対広島カープ13回戦(広島総合球場)、中山正嘉から本塁打 ※史上3人目

1000安打:1952年7月27日、対読売ジャイアンツ14回戦(大阪球場)、西田亨から安打 ※史上11人目

1000試合出場:1953年4月28日 ※史上17人目

シーズン最多得点:143 (1950年、前年の別当薫の日本記録を更新)

シーズン最多打点:161 (1950年)

シーズン最多塁打:376 (1950年)

シーズン50本塁打以上:1回(1950年) ※史上初

シーズン40本塁打以上:1回(1950年) ※史上2人目

10試合連続打点 (1950年5月17日 - 5月31日)

オールスターゲーム出場:3回 (1951年、1953年、1956年)

48球場での本塁打

32 (1942年 - 1943年、1946年 - 1947年)

24 (1948年)

3 (1949年 - 1952年)

15 (1953年 - 1958年)

61 (1964年 - 1965年)

57 (1968年)

飯塚 誠 (いいづか まこと、1942年 - 1942年8月31日)

小鶴 誠 (こづる まこと、1942年9月1日 - 1958年、1964年 - 1965年、1968年)

映画『人間の翼 最後のキャッチボール』(1996年、シネマクラフト) - 名古屋軍時代の同僚である石丸進一の伝記映画に監修として参加。

^ いずれも前年の藤村富美男を抜く

^ 週刊ベースボール2012年4月16日号 P78

^ 『プロ野球トラブルの歴史』36頁

^ ベースボールマガジン2012年1月号51ページ

^ 松尾雅博 (2014年7月23日). “【乾坤一筆】わが故郷が生んだ大打者「小鶴誠」”. サンケイスポーツ. オリジナルの2021年5月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210510064423/https://www.sanspo.com/baseball/news/20140723/hig14072311300001-n2.html 2021年1月3日閲覧。 

^ “最高の野球人 川上哲治”. ケアニュース(シルバー産業新聞、「ねんりんピック新聞2011in熊本」からの転載. (2012年3月15日). オリジナルの2022年11月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221129184447/https://www.care-news.jp/wadai/kawakami_n_2011 2021年1月3日閲覧。 

^ 参考・河口豪著『栄光の広島カープ風雪25年』恒文社、1975年

^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』271頁

^ 『GREAT PLAYERS 栄光のタイトルホルダー列伝』55頁

『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年

『GREAT PLAYERS 栄光のタイトルホルダー列伝』ベースボールマガジン社、2004年

『ベースボールマガジン1973年春季号 プロ野球トラブルの歴史』ベースボール・マガジン社、1973年

福岡県出身の人物一覧

中日ドラゴンズの選手一覧

北海道日本ハムファイターズの選手一覧

大映ユニオンズの選手一覧

松竹ロビンスの選手一覧

広島東洋カープの選手一覧

個人年度別成績 小鶴誠 - NPB.jp 日本野球機構

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

この人にこの技あり 第18回:小鶴誠の「新田式打法」(ベースボール・マガジン社 SportsClick より)

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治、鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一、二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義、藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂、西沢道夫

78 松木謙治郎、浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘、小鶴誠

81 飯田徳治、岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳

88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一

89 島秀之助、野村克也、野口二郎

90 真田重蔵、張本勲

91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎

92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男

93 稲尾和久、村山実

94 王貞治、与那嶺要

95 杉浦忠、石井藤吉郎

96 藤田元司、衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫、小山正明

02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎

03 上田利治、関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治、森祇晶

06 門田博光、高木守道、山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二、堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学、津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹、工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜、金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾、山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信、黒田博樹

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一、平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿

60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登、宮武三郎、景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三

69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧

70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚

71 小西得郎、水野利八

72 中野武二、太田茂

73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄、西村幸生

78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎

79 平沼亮三、谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫、小川正太郎

82 鈴木龍二、外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄、山内以九士

86 中河美芳、松方正雄

87 藤田信男、山下実

88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一

89 池田恒雄、伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征、村上實

96 牧野直隆、保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志、井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟、長谷川良平

02 中澤不二雄、生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守、豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規、君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎、大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男、村山龍平

16 松本瀧藏、山中正竹

17 郷司裕、鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉、石井連藏

21 川島勝司、佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

02 フランク・オドール、正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄

投手:須田博

捕手:田中義雄

一塁手:川上哲治

二塁手:苅田久徳

三塁手:水原茂

遊撃手:上田藤夫

外野手:鬼頭数雄, 山田伝, 中島治康

投手:別所昭

捕手:土井垣武

一塁手:川上哲治

二塁手:千葉茂

三塁手:藤村富美男

遊撃手:杉浦清

外野手:大下弘, 坪内道則, 金田正泰

投手:別所昭, 中尾碩志, 真田重男

捕手:土井垣武

一塁手:川上哲治

二塁手:千葉茂

三塁手:藤村富美男

遊撃手:木塚忠助

外野手:青田昇, 別当薫, 坪内道則

投手:藤本英雄

捕手:土井垣武

一塁手:川上哲治

二塁手:千葉茂

三塁手:藤村富美男

遊撃手:木塚忠助

外野手:小鶴誠, 別当薫, 大下弘

1936秋 中根之

1937春 松木謙治郎

1937秋 景浦將

1938春 中島治康

1938秋 中島治康

1939 川上哲治

1940 鬼頭数雄

1941 川上哲治

1942 呉波

1943 呉昌征

1944 岡村俊昭

1946 金田正泰

1947 大下弘

1948 青田昇

1949 小鶴誠

1950 小鶴誠

1951 川上哲治

1952 別所毅彦

1953 大友工

1954 杉下茂

1955 川上哲治

1956 別所毅彦

1957 与那嶺要

1958 藤田元司

1959 藤田元司

1960 秋山登

1961 長嶋茂雄

1962 村山実

1963 長嶋茂雄

1964 王貞治

1965 王貞治

1966 長嶋茂雄

1967 王貞治

1968 長嶋茂雄

1969 王貞治

1970 王貞治

1971 長嶋茂雄

1972 堀内恒夫

1973 王貞治

1974 王貞治

1975 山本浩二

1976 王貞治

1977 王貞治

1978 若松勉

1979 江夏豊

1980 山本浩二

1981 江川卓

1982 中尾孝義

1983 原辰徳

1984 衣笠祥雄

1985 R.バース

1986 北別府学

1987 山倉和博

1988 郭源治

1989 W.クロマティ

1990 斎藤雅樹

1991 佐々岡真司

1992 J.ハウエル

1993 古田敦也

1994 桑田真澄

1995 T.オマリー

1996 松井秀喜

1997 古田敦也

1998 佐々木主浩

1999 野口茂樹

2000 松井秀喜

2001 R.ペタジーニ

2002 松井秀喜

2003 井川慶

2004 川上憲伸

2005 金本知憲

2006 福留孝介

2007 小笠原道大

2008 A.ラミレス

2009 A.ラミレス

2010 和田一浩

2011 浅尾拓也

2012 阿部慎之助

2013 W.バレンティン

2014 菅野智之

2015 山田哲人

2016 新井貴浩

2017 丸佳浩

2018 丸佳浩

2019 坂本勇人

2020 菅野智之

2021 村上宗隆

2022 村上宗隆

2023 村上頌樹

1950 小鶴誠

1951 青田昇

1952 杉山悟

1953 藤村富美男

1954 青田昇

1955 町田行彦

1956 青田昇

1957 青田昇, 佐藤孝夫

1958 長嶋茂雄

1959 桑田武, 森徹

1960 藤本勝巳

1961 長嶋茂雄

1962 王貞治

1963 王貞治

1964 王貞治

1965 王貞治

1966 王貞治

1967 王貞治

1968 王貞治

1969 王貞治

1970 王貞治

1971 王貞治

1972 王貞治

1973 王貞治

1974 王貞治

1975 田淵幸一

1976 王貞治

1977 王貞治

1978 山本浩二

1979 掛布雅之

1980 山本浩二

1981 山本浩二

1982 掛布雅之

1983 山本浩二, 大島康徳

1984 宇野勝, 掛布雅之

1985 R.バース

1986 R.バース

1987 ランス

1988 C.ポンセ

1989 L.パリッシュ

1990 落合博満

1991 落合博満

1992 J.ハウエル

1993 江藤智

1994 大豊泰昭

1995 江藤智

1996 山崎武司

1997 D.ホージー

1998 松井秀喜

1999 R.ペタジーニ

2000 松井秀喜

2001 R.ペタジーニ

2002 松井秀喜

2003 A.ラミレス, T.ウッズ

2004 T.ローズ, T.ウッズ

2005 新井貴浩

2006 T.ウッズ

2007 村田修一

2008 村田修一

2009 T.ブランコ

2010 A.ラミレス

2011 W.バレンティン

2012 W.バレンティン

2013 W.バレンティン

2014 B.エルドレッド

2015 山田哲人

2016 筒香嘉智

2017 A.ゲレーロ

2018 N.ソト

2019 N.ソト

2020 岡本和真

2021 村上宗隆, 岡本和真

2022 村上宗隆

2023 岡本和真

2024 村上宗隆

1950 小鶴誠

1951 青田昇

1952 西沢道夫

1953 藤村富美男

1954 杉山悟, 渡辺博之

1955 川上哲治

1956 宮本敏雄

1957 宮本敏雄

1958 長嶋茂雄

1959 森徹

1960 藤本勝巳

1961 桑田武

1962 王貞治

1963 長嶋茂雄

1964 王貞治

1965 王貞治

1966 王貞治

1967 王貞治

1968 長嶋茂雄

1969 長嶋茂雄

1970 長嶋茂雄

1971 王貞治

1972 王貞治

1973 王貞治

1974 王貞治

1975 王貞治

1976 王貞治

1977 王貞治

1978 王貞治

1979 山本浩二

1980 山本浩二

1981 山本浩二

1982 掛布雅之

1983 原辰徳

1984 衣笠祥雄

1985 R.バース

1986 R.バース

1987 C.ポンセ

1988 C.ポンセ

1989 落合博満

1990 落合博満

1991 広沢克己

1992 L.シーツ

1993 広沢克己, R.ローズ

1994 大豊泰昭

1995 江藤智

1996 L.ロペス

1997 L.ロペス

1998 松井秀喜

1999 R.ローズ

2000 松井秀喜

2001 R.ペタジーニ

2002 松井秀喜

2003 A.ラミレス

2004 金本知憲

2005 今岡誠

2006 T.ウッズ

2007 A.ラミレス

2008 A.ラミレス

2009 T.ブランコ

2010 A.ラミレス

2011 新井貴浩

2012 阿部慎之助

2013 T.ブランコ

2014 M.ゴメス

2015 畠山和洋

2016 筒香嘉智

2017 J.ロペス

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2019 N.ソト

2020 岡本和真

2021 岡本和真

2022 村上宗隆

2023 牧秀悟

2024 村上宗隆

 投  真田重男

 捕  荒川昇治

 一  西沢道夫

 二  千葉茂

 三  藤村富美男

 遊  白石勝巳

 外  小鶴誠 / 青田昇 / 岩本義行

日本の野球選手

新日本製鐵八幡硬式野球部の選手

中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手

北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手

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東京ヤクルトスワローズ関連人物

阪神タイガース関連人物

日本の野球殿堂表彰者

20世紀日本の実業家

福岡県出身のスポーツ選手

1922年生

2003年没

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プロジェクト人物伝項目

ウィキデータにある日本野球機構選手識別子

2024/11/20 13:20更新

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