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尾崎行雄の情報 (おざきゆきお)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

尾崎行雄の情報(おざきゆきお) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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尾崎 行雄さんについて調べます

■名前・氏名
尾崎 行雄
(読み:おざき ゆきお)
■職業
政治家
■尾崎行雄の誕生日・生年月日
1858年12月24日 (年齢95歳没)
午年(うま年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

尾崎行雄と同じ1858年生まれの有名人・芸能人

尾崎行雄と同じ12月24日生まれの有名人・芸能人

尾崎行雄と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


尾崎行雄と関係のある人

古在由直: ワシントンの桜として知られる東京市長尾崎行雄がアメリカに贈った桜2000本は害虫病害により焼却処分されたが、その代わりとして贈った3000本は当時農事試験場長を務めていた古在由直が指揮して育てたものである。


潮崎哲也: さらに7月5日の西宮での対オリックス戦では、同日2本塁打を放っていた門田博光を含むブルーサンダー打線を相手に新人としては1962年の尾崎行雄以来となる8連続奪三振を記録した。


塩川正十郎: 日本相撲協会運営審議委員会委員、東洋大学総長、財団法人尾崎行雄記念財団顧問、財団法人国民政治協会会長、自由国民会議代表、時代を刷新する会会長(三代目)、ベストヒット歌謡祭実行委員会名誉会長を務めた。


川松真一朗: 尾崎行雄財団「咢堂塾」・政治特別講座1期生として修了。


三木武夫: 一方翼賛体制に批判的な鳩山一郎、尾崎行雄らは1941年(昭和16年)11月10日には同交会を結成し、その他西尾末広、松本治一郎らが参加した興亜議員連盟などが結成されたが、三木はそれらに加わることはなかった。


大隈重信: 陸海軍大臣を除く大臣はすべて憲政党員であり、進歩党系からは大隈の他に松田正久大蔵大臣、大東義徹司法大臣、尾崎行雄文部大臣、大石正巳農商務大臣が入閣し、旧自由党系からは板垣を含む3人の大臣が入閣する、日本初の政党内閣であった。


原敬: 原と松田は勅語に従う方針を立てていたが、尾崎行雄を中心とする桂内閣打倒の動きは止められなかった。


末広鉄腸: 1884年(明治17年)、成島柳北が没し、鉄腸は社長没後の朝野新聞を支え、犬養毅・尾崎行雄らを補強した。


犬養毅: 1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てる。


山中巽: 夏の選手権は準々決勝で、この大会に優勝した浪商の尾崎行雄と投げ合うが0-14で大敗した。


海部俊樹: このとき当選していれば、尾崎行雄や師匠である三木などに続いて衆議院議員在職五十年に到達するところであった。


嵯峨健四郎: 土橋正幸、尾崎行雄と並ぶフライヤーズの20勝投手として球界に知れ渡った。


鶴岡一人: 自らの人脈をフルに生かした情報網を築き、選手発掘にも精力的に動き、稲尾和久・広岡達朗・長嶋茂雄・山本一義・長池徳士・柴田勲・高田繁・田淵幸一、尾崎行雄、山本浩二にはプロ入り前から目をつけ、特に長嶋・柴田については入団契約直前までこぎつけた。


柴田勲: 準決勝で、これまで甲子園で2勝している因縁の浪商と対決、柴田と尾崎行雄との投手戦となり、延長11回の熱戦の末2-4で敗退した。


平田英之: “さらば球界の名士…“怪童”尾崎行雄氏 長嶋さんも驚いた剛速球”.


野坂参三: 大会委員長山川均、司会の荒畑寒村のほか、日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。


ウィリアム=ジレット: 行隆(1865-1942)は尾崎行雄の弟で、行雄とともに1888年に渡米以来、アメリカで暮らしていた。ジレットは1912年に東京市長の尾崎行雄がワシントンD.C.に桜の木3000本を贈ったのを新聞記事で読み、苗字が同じことに気づいて行隆に尋ね、兄弟であることを知った。


大隈重信: 9月22日、松方との協議で大隈は外相に就任したが、尾崎行雄の回想によれば、一時大隈が怒って入閣が流れそうになったこともあったという。


醍醐猛夫: 7月3日から4日にかけては東映戦(後楽園)で2試合にまたがり、杉田久雄・尾崎行雄・金田留広からプロ野球タイ記録の4打席連続本塁打を放ち、「これで王にも少しは近づいた記録ができた」と喜んだ。


田淵豊吉: 尾崎行雄はこの演説を「日本国民の良心の叫びとして、わが国議会演説史にちりばめられた不滅の宝石であった」と絶賛する。


西村省一郎: 8月18日には東映の尾崎行雄に投げ勝ち完封勝利、プロ初勝利を初完投初完封で飾った。


松方正義: 松方と接したことのある尾崎行雄は松方を「鈍重」と評し、「(松方が)もし薩摩人でなかったら総理大臣になれなかったろう。


是久幸彦: 準決勝で、これまで甲子園で2勝している因縁の浪商と対決、柴田と尾崎行雄との投手戦となり、延長11回の熱戦の末2-4で敗退した。


石川啄木: 上田敏による序詩と与謝野鉄幹の跋文が寄せられたほか、尾崎行雄(当時東京市長)への献辞が記された。


薮田安彦: 父親は、尾崎行雄を擁した浪商高校の1961年の夏の甲子園優勝時のメンバーであり、近大、電電近畿でプレー。


ハーバート=スペンサー: 日本では1877年尾崎行雄抄訳『権利提綱』、1881年松島剛訳『社会平権論』がある。


川崎秀二: 保守合同による自由民主党結党後は、松村謙三・古井喜実らとともに日中国交回復への土台固めに務める傍ら、尾崎行雄記念財団理事長として1960年(昭和35年)に尾崎記念会館(後の憲政記念館の母体)を建設する。


基満男: 初安打:1967年5月9日、対東映フライヤーズ3回戦(後楽園球場)、2回表に尾崎行雄から


柴田猛: 準決勝で浪商と対戦するが、尾崎行雄の控え投手であった藤崎正雄(近大-日本新薬)に抑えられて敗退。


松本治一郎: 1946年に翼賛議員であったことから公職追放されるが、連合国軍最高司令官総司令部から「松本と尾崎行雄の2人は真の民主主義者だ、絶対に立候補させねばならぬから松本の追放を解除し今日中に立候補できるよう手配せよ」と通告によりまもなく解除される。


尾崎行雄の情報まとめ

もしもしロボ

尾崎 行雄(おざき ゆきお)さんの誕生日は1858年12月24日です。神奈川出身の政治家のようです。

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人物、栄典などについてまとめました。現在、解散、事件、病気、再婚、結婚、引退に関する情報もありますね。95歳で亡くなられているようです。

尾崎行雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年11月20日〉- 1954年〈昭和29年)10月6日〉は、日本の政治家、教育者。号は咢堂(がくどう。最初は学堂、愕堂を経て咢堂)。

日本の議会政治の黎明期から第二次世界大戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有し、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。政友会時代を除き、政権与党に属したことはなかった。東京市長時代の1912年(明治45年)にアメリカ・ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜(ソメイヨシノ)の苗木を寄贈したことでも知られ、返礼として日本に初めてハナミズキをもたらした。

聖公会信徒。正三位勲一等(1946年5月4日付返上)。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。伊勢神宮内宮前の饗土橋姫神社左隣の参道の奥に鎮座する合格神社の祭神。世界連邦建設同盟(現・世界連邦運動協会)初代会長。

安政5年11月20日(1858年12月24日)、相模国津久井郡又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)生まれ。幼名は彦太郎。

行雄の父・尾崎行正の生家は漢方医を業とし、漢学者・藤森弘庵の私塾に桂小五郎(木戸孝允)の先輩として学んだ。尾崎家の先祖は今川義元の家来で、武田信玄に攻め立てられて没落した。尾崎家は天正18年(1590年)に後北条氏が滅びてから又野に移り、累世相続いて里長となる。掃部頭行永以前の尾崎家先祖が住んでいたといわれる伏馬田城というのは現在の相模原市緑区牧野(まぎの)にあったが、その城跡一帯は現在尾崎ヶ原といわれている。

父・行正(彦四郎)は、戊辰戦争の際、官軍土佐藩迅衝隊総督の板垣退助の徳を慕って馳参じ、隊長・美正貫一郎の率いる断金隊(旧武田家臣の子孫たちで構成された部隊)に加わって会津戦争を戦い抜き、貫一郎の討死後は断金隊の2代目隊長に任ぜられた。明治維新後は弾正台の役人となった。

行雄は11歳まで又野村で過ごした後、父・行正に従い明治元年(1868年)に番町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学び、次いで明治4年(1871年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。その後、明治5年(1872年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。父は熊本転任が予定されていたため、東京遊学を許し、行雄に弟を同行させて慶應義塾へ向かわせた。

明治7年(1874年)に弟と共に上京し、当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾童子局に入学するやいなや塾長の福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となる。福澤諭吉は慶應義塾の英語教師を務める聖公会のカナダ人宣教師のA・C・ショーに塾生に対するキリスト教教育の機会も与え、信仰を持った尾崎は、明治8年(1875年)のクリスマスにショーよりキリスト教の洗礼を受ける。この時、8人の日本人がショーから洗礼を受けたが、そのうちの3人は尾崎を含む慶應義塾に学ぶ生徒だった。 また、当時慶應義塾で学んでいた尾崎は工学寮(のちの工部大学校、現・東京大学工学部)に転じようと決意したとき、ショーについて英語と高等数学を学んだ。 その後、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、反駁する論文を執筆して慶應義塾を退学し、福澤の友人で工学寮(のちの工部大学校)の校長ダイヤーと大鳥圭介に紹介文を書いてもらい、染物屋になるため明治9年(1876年)に工学寮に再入学した。しかし、学風の違いや理化学への嫌気から『曙新聞』などに薩摩藩閥の横暴を批判する投書を始め、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後、慶應義塾に戻り、朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三田演説館で演壇に立ったりするなどした。 明治12年(1879年)には福澤諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆となる。

当時、海軍省の長谷川貞雄相手に講演した強兵論『尚歩論』が機縁となり、矢野文雄に誘われ、明治14年(1881年)に統計院権少書記官という官職に就任する。しかし明治十四年の政変でわずか2か月あまりで下野した。

明治15年(1882年)、『報知新聞』の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加するが、大隈重信の奇妙な脱党に不信感を覚えた。翌年、東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出される。政府の条約改正案に対して強い反対運動が起こると、尾崎は反欧化主義の急先鋒となり、後藤象二郎を担ぎ出し、大同団結運動を進めた。相談した結果、後藤を正装させて、宮内省に向かわせたが明治天皇と会うことは許されず、クーデターを計画し始めた尾崎は、明治20年(1887年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた。尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて“愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。星亨や林有造らの土佐派と友好を結び、知己の間を廻った。

父が神風連の乱で九死に一生を得て伊勢で余生を楽しんでいた縁故をたどり、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬して当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。伊勢では投票用紙に「尾崎行雄」としか書いたことのない選挙人が2代・3代にわたって少なくない。この時代の選挙はまさに戦争同然であり、尾崎も何度も刺客に襲われそうになっているが、地元の猪狩の鉄砲隊を組織してこれを追い返すなどしている。

第1次松方内閣の第3議会における軍艦製造費削除問題などで活躍し、『朝野新聞』などから絶賛される。

第2次伊藤内閣では第6議会で、民党六派は内閣弾劾上奏文を提出し、尾崎がその説明に当たった。第一に政府の不当解散、第二に政府の軟弱外交、第三に政府の議会軽視、第四に伊藤博文の事ごとに袞竜の袖に隠れる行為を批判し、伊藤博文は顔色を変えたといわれる。この採決は149対144というわずか5票の差で否決された。

日清戦争が始まると、東亜の大計を立てるべきとの論文を次々に執筆し、世論の指導に努めた。日清戦争後の第4回総選挙後は各派とも従来の恩怨を忘れ、挙国一致して外敵に抗する議決を広島の大本営で可決した。伊藤博文が後に幾多の障害を排して自ら政党の組織に乗り出し、立憲政友会を創ったのは、日清戦争における各派の協力ぶりを見て政党敵視の観念を放棄したからだといわれている。三国干渉に伊藤が屈すると対外強硬派の先頭に立ち、政友有志会を組織して演説した。

この間、尾崎は進歩党に属した。時局便乗派の徳富蘇峰の『国民新聞』などが松方正義と大隈重信の近接が最上の時局救治策であるとの主張を盛んに唱導したこともあってか、第2次松方内閣が成立すると、その外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、「二十六世紀事件」や樺山資紀の食言などで、尾崎自身も倒閣に動いた。しかし、勅任官でありながら進歩党の会議に出席し、内閣を攻撃したことで懲戒免職処分となった。大隈はその後10月31日に辞表を提出し、進歩党系の官僚も政府から去った。

明治31年(1898年)6月21日、進歩党と自由党が合同して憲政党が結成された。大隈と板垣に大命が降下し、第1次大隈内閣(が成立した。尾崎は40歳の若さで文部大臣として入閣した。この際、大隈の保証によって明治天皇が懲戒を免除する裁可を行っている。そのうちに第6回総選挙は同年8月14日に行われ、憲政党は圧倒的に勝利したが内部抗争や猟官運動が露骨となり、星亨が大隈を攻撃するなど内閣は大揺れに揺れた。8月22日、尾崎は帝国教育会からの依頼により神田一ツ橋の同会で演説したが、大隈内閣の外相候補でもあった伊東巳代治の経営する『東京日日新聞』に言葉尻をとらえられて攻撃された(共和演説事件)。倒閣を目指していた星亨ら自由党派閥による尾崎攻撃は10月頃から激しさを増し、10月21日、板垣が尾崎の罷免を上奏した。これを受けた天皇は大隈と尾崎に不信感を持っていたこともあり、首相である大隈に是非を問うこともなく辞職を求めた。10月24日、尾崎は病気を理由に文相を辞任し、後任に星亨と江原素六を挙げていたが、その後任を巡って憲政党は分裂、隈板内閣も総辞職した。

第2次山縣内閣が発足すると、憲政本党の最高幹部に属していたが、伊藤博文を訪問して義和団の乱以来のロシア帝国との関係を話し合って意気投合。立憲政友会の創立に参加して憲政本党を離脱、政友会の総務委員の一人となり、尾崎は星亨と共に院内総務を任じられた。桂内閣が発足すると党務執行の常務委員の5人に選ばれた(尾崎、原敬、星亨、片岡健吉、大岡育造)が、まもなく星が暗殺され、党務の中心は尾崎と松田正久の2名に命じられた。しかし、その後に伊藤とも対立して離党。片岡健吉や加藤高明もこれに倣い、同志研究会を組織し、その後は猶興会などを経て政友会に復党と、めまぐるしく所属政党を変遷する。

明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで東京市長に就任。尾崎の東京市長在任中に、東京市が東京鉄道を買収し、東京市電気局を設置した。夫人の逝去を受けて外交官の尾崎三良の娘・テオドラ(日本名は英子。尾崎三良と彼が下宿していたモリソン家の当主で英語教師のウイリアム・モリソンの娘パディアとの間に生まれた)と再婚したが、ハーフの英子との結婚は尾崎に対する種々の誤解を生じさせたようである。結婚後は英子の勧めもあって駐日英国公使館員ジョン・ガビンズから軽井沢の土地を購入し別邸「莫哀山荘」(莫哀は「哀しみのない」という意味)を設け、莫哀山荘は軽井沢の名所とさえなった(後述)。

明治37年(1904年)2月、日露戦争の開戦後に第1次西園寺内閣が発足。西園寺公望が桂太郎の反撃を受けて総辞職し、第2次桂内閣が発足すると、明治41年(1908年)12月21日、尾崎は猶興会を改組して紅葉館で河野広中らと又新会を成立させるが、自身は総裁・西園寺の下で再び政友会に復帰する。他方、犬養毅や大石らは立憲国民党を結成した。この時、幸徳秋水らの大逆事件と南北正閏問題が起こり、桂内閣は西園寺を推薦して総辞職した。

西園寺公望が二個師団増設案から陸軍大臣・上原勇作の声明・辞任で退陣に追い込まれ、長州軍閥によって内務大臣となっていた桂が擁立されて桂園時代が終わると、桂太郎が宮中・府中の別を乱るものと難じ全国的な国民運動が巻き起こった。大正元年(1912年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と首相・桂を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。これらの集会は全国で行われ、各地に咢堂会が生まれ、尾崎が壇上に立つと聴衆からは「脱帽々々」と喝采が鳴り止まず、しばしば口を開かせなかった。

第3次桂内閣退陣後、山本権兵衛が組閣すると、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党。以後、政友倶楽部、亦楽会、中正会、憲政会、革新倶楽部と移る。

第1次山本内閣がシーメンス事件で総辞職し、清浦奎吾が首相就任に失敗すると、大隈重信に再びお鉢が回り(第2次大隈内閣)、尾崎は中正会を代表して司法大臣として入閣した。部下には平沼騏一郎や鈴木喜三郎を置き、蔵相・若槻禮次郎、外相・加藤高明、海相・八代六郎辞職後の内閣改造で活躍する。加藤高明を党首に担ぎ出して憲政会を結成、最高幹部に就任する。

大隈重信が疲労などから辞職し、後を受けた寺内内閣がシベリア出兵問題で早々に終焉するとついに原内閣が誕生した。尾崎はこれを好意に思い、1919年、第一次世界大戦後のヨーロッパ(欧州)諸国視察の外遊に出る。当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、このヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、態度を変化させ一貫した軍縮論者となった。既に欧州の主流は反軍国主義であり、日本はこれに逆行しようとしていたからである。

また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢や、西尾末広と反軍演説を行った斎藤隆夫の除名に反対の意思を示す(棄権など)など議会制民主主義を擁護する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった。

憲政会を離党すると、ついに無所属議員となり、のち30年あまりを無所属で通した。無所属になったことは政界での尾崎の出世の妨げとなり、閣僚経験は2度の大隈内閣で経験したのみに止まり、総理大臣はおろか衆議院議長・副議長、戦後国会での常任委員長になることは終に無かった。

国家主義・国民主義的な観点から軍縮論者となっていた尾崎は、全国遊説の旅に出る。大正13年(1924年)、超然内閣である清浦内閣が成立すると、これに反対する第二次護憲運動が始まる。護憲三派が成立し衆議院総選挙の結果、護憲三派が勝利し、加藤高明内閣が成立する。

昭和に入り政党内閣が続き、昭和4年(1929年)には「政党内閣の頂点」と言われる立憲民政党の濱口内閣が成立する。だが昭和6年(1931年)に満州事変の勃発後、軍部の政治介入が相次ぎ、政党政治は危機に陥った。昭和7年(1932年)に5・15事件で犬養毅が暗殺されると政党内閣は終焉した。尾崎はこの現状を憂慮して『墓標に代えて』と題して遺言を執筆し、雑誌『改造』に掲載された。

二・二六事件の後の廣田内閣が1年足らずで潰れ、林銑十郎が組閣すると昭和12年(1937年)2月17日、尾崎は議会で登壇し『正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上』なる2時間におよぶ辞世を詠み、新聞は全面を埋めて尾崎の演説を掲げた。近衛内閣が誕生して日中戦争が泥沼化へ入ると、西尾末広の演説に連座した事件で、議院の構内に尾崎の銅像を建設する計画も中止された。大政翼賛会結成、ドイツ、イタリアとの三国同盟を経て東條英機が内閣を組閣すると、尾崎は議会政治に見切りを付け山荘に篭り、もはやあまり上京もしなかった。太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942年)に行われた第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。昭和18年(1943年)、前年の総選挙の際に田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙批判を行った中に引用した川柳の「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(尾崎不敬事件。一審で懲役8か月・執行猶予2年の判決、1944年(昭和19年)に大審院で無罪確定)。

敗戦後には逗子市の山荘・風雲閣は訪問客に溢れ、宮中にも招かれるとともに新憲法案を自ら構想している。

1945年(昭和20年)11月1日に発行された雑誌『新生』に寄稿。この時の原稿料は1枚100円、コメや肉付きという待遇であった。

尾崎は勲一等旭日大綬章を返上(1946年)して政界引退を決意していたが、三重県を中心とした支持者が中心となって無断で推薦し、1946年の総選挙では全県一区でトップ当選。中選挙区制となった1947年の総選挙でも三重2区からトップ当選を果たした。戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、支持層の高齢化に加えて自身の健康も優れず、終に昭和28年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選した。これを機に政界からの引退を表明し、衆議院から名誉議員の称号を贈られた。94歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録である。

昭和29年(1954年)10月6日、直腸がんによる栄養障害と老衰のため入院先の慶應病院で死去。享年97(95歳没)。墓所は鎌倉の円覚寺。

人物

永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。

出生地の神奈川県相模原市緑区又野にある尾崎家の屋敷跡と、3回目の引っ越し先であり、のちに父・行正が隠居していた三重県伊勢市川端の旧邸宅を改築して、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。伊勢神宮に隣接する合格神社に祭神として祀られている。また、国会前庭の敷地内にある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものであり、銅像も建立されている。

軽井沢は好んで訪れていた場所として知られ、明治39年(1906年)から貸別荘での滞在をはじめ、大正3年(1914年)には別荘を建てた。滞在中は乗馬などを楽しみ、その颯爽とした乗馬姿は土地の名物ですらあったという。昭和11年(1936年)に行われた軽井沢避暑地50周年の式典では名誉総裁を務め、熱弁をふるった。別荘の「莫哀山荘」には、石川啄木や与謝野鉄幹・晶子夫妻が滞在したり、九条武子と柳原白蓮が訪れお茶会を催したり、また駐日米国大使のジョセフ・グルーに別荘を貸し出したりした。軽井沢の開拓者であるショー家ともよく時間を共にしていた。軽井沢を訪れたチャールズ・リンドバーグもこの別荘を訪問している。第二次世界大戦時にはこの別荘に駐日イタリア大使館が疎開している。なお娘の相馬雪香は晩年、終生の地を幼少期から慣れ親しんだ軽井沢とし、当地で死去した。

東京市長在任中にエリザ・シドモアの提案から高峰譲吉などと協力してアメリカ合衆国へソメイヨシノ2,000本を贈り、ポトマック川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されてしまい、後に3,100本の桜が新たに植樹されている。その返礼としてアメリカよりハナミズキが贈られ、日本に初めてハナミズキをもたらした人物としても知られている。この寄贈を記念して全米桜祭りが毎年行われている。

大隈重信によれば「無邪気な面白い」男であり、気に入らないことがあれば、学校を出たばかりの時代でも、相手が福澤諭吉であろうと食ってかかった。改進党結成当時の大幹部であった河野敏鎌や前島密らが政府に復帰した際には怒り狂い、大隈に対しても「学校(東京専門学校)を叩き潰してやる」と威嚇していたという。

9年にわたる東京市長在任は、政争が激しく短期の在任での交代が多かった東京市長の中で最も長いものである。

金銭的にも清廉潔白で有名であった。もっとも戸川猪佐武によると、犬養毅に「そりゃ確かに君は清廉潔白で献金をもらわんかもしらんが、その代わり、我々に借金をするじゃないか。そしてその金を返さないじゃないか。借りた金を返さんのも清廉潔白のうちか。」とやり込められて、さすがにぐうの音も出なかったという。戸川によると、尾崎は「原敬は金が欲しい議員には金をやって、ポストが欲しい議員にはポストをまわして、それで子分を増やしたのだ。」と言っていたということで、田中角栄シンパとして有名だった戸川は「そんなことを言っているから尾崎は政界で孤立したのだ。」と書いている。

のちに内閣総理大臣となる三木武夫は政界入りした当初、尾崎を政治上の恩師と仰いだ。30歳で初当選した三木は、議事堂で尾崎と同じ控室になった。最長老議員と最年少議員の組み合わせは新聞でもよく取り上げられ、隣り合わせで座っているとよく写真を撮られたと、三木は晩年回顧している。

昭和25年(1950年)には英語国語化論を提唱したこともある。

1950年5月から6月に訪米。100歳になったらワシントンで余生を過ごしたいと語った。

栄典

1898年(明治31年)7月5日 - 正三位

1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章

1916年(大正5年)7月14日 - 勲一等旭日大綬章

1938年(昭和13年)2月11日 - 金杯一個

1906年(明治39年)3月23日 - イギリス:ロイヤル・ヴィクトリア勲章メンバー

2024/06/23 22:15更新

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尾崎行雄と同じ誕生日12月24日生まれ、同じ神奈川出身の人

山田 麗(やまだ れい)
1991年12月24日生まれの有名人 神奈川出身

山田 麗(やまだ れい、1991年12月24日 - )は、日本の女優、モデル、ソプラノ歌手である。 神奈川県逗子市出身。国立音楽大学声楽科およびオペラ・ソリストコース卒業、二期会オペラ研修所マスター…

瀬戸 奈保子(せと なおこ)
12月24日生まれの有名人 神奈川出身

瀬戸 奈保子(せと なおこ、12月24日 - )は、日本の女性声優、ナレーター。神奈川県出身。フリーで活動。 以前は、ケッケコーポレーションに所属していた。 ケロケロちゃいむ(セツナ) こちら葛…

安藤 瞳(あんどう ひとみ)
1981年12月24日生まれの有名人 神奈川出身

安藤 瞳(あんどう ひとみ、1981年12月24日 - )は、日本の女優、声優。神奈川県出身。 東洋英和女学院小学部、東洋英和女学院中学部・高等部、東洋英和女学院大学卒業。 小学校時代は、友人が…

渡辺 穣(わたなべ じょう)
1967年12月24日生まれの有名人 神奈川出身

渡辺 穣(わたなべ じょう、1967年12月24日 - )は、日本の男性俳優、声優。神奈川県出身。身長173cm、体重65kg。演劇集団 円所属。 桐朋学園短期大学中退。1992年、円演劇研究所入…

小林 翼(こばやし つばさ)
1998年12月24日生まれの有名人 神奈川出身

小林 翼(こばやし つばさ、1998年12月24日 - )は、日本のYouTuber、元子役タレント。 キリンプロに所属し、子役タレントとして活躍。母親もCMや舞台で活躍していた。 現在は、Yo…

相原まり(あいはら まり)
【乙女新党】
1999年12月24日生まれの有名人 神奈川出身

12月24日生まれwiki情報なし(2024/06/26 21:14時点)

平尾 昌晃(ひらお まさあき)
1937年12月24日生まれの有名人 神奈川出身

平尾 昌晃(ひらお まさあき、1937年〈昭和12年〉12月24日 - 2017年〈平成29年〉7月21日)は、日本の作曲家、作詞家、歌手。社団法人日本作曲家協会・常務理事、社団法人日本音楽著作権協会…

小松原 一男(こまつばら かずお)
1943年12月24日生まれの有名人 神奈川出身

小松原 一男(こまつばら かずお、1943年12月24日 - 2000年3月24日)は、日本の男性アニメーター、キャラクターデザイナー。亡くなるまで、有限会社オープロダクション取締役。 1970年代…

塚原 次雄(つかはら つぎお)
1948年12月24日生まれの有名人 神奈川出身

12月24日生まれwiki情報なし(2024/06/25 20:21時点)

赤坂 七恵(あかさか ななえ)
1979年12月24日生まれの有名人 神奈川出身

赤坂 七恵(正式には「恵」の右上に「丶」が付く。あかさか ななえ、1979年12月24日 - )は、神奈川県出身の元女優。当時の所属芸能事務所は「オフィスギャラリー・アンド・エルフ」。 身長:166…


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尾崎行雄と近い名前の人

尾崎 行雄_(野球)(おざき ゆきお)
1944年9月11日生まれの有名人 大阪出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 尾崎 行雄(おざき ゆきお、1944年9月11日 - 2013年6月13日)は、大阪府泉大津市出身のプロ野球選手(投手)。 同姓の…

尾崎 由香(おざき ゆか)
1993年5月15日生まれの有名人 東京出身

尾崎 由香(おざき ゆか、1993年5月15日 - )は、日本の声優、女優、歌手、タレント、元子役。東京都出身。研音所属。旧芸名は尾崎 千瑛(おざき ちあき)。 0歳の頃にパンフレットに写ったこと…

尾崎 由衣(おざき ゆい)
1984年2月25日生まれの有名人 東京出身

尾崎 由衣(おざき ゆい、1984年2月25日 - )は、日本の女優。東京都出身。身長158cm、体重42kg、B81cm、W57cm、H82cm、靴のサイズ23.5cm。血液型はA型。明治大学法学部…

尾崎 雄貴(おざき ゆうき)
1991年5月27日生まれの有名人 北海道出身

尾崎 雄貴(おざき ゆうき、1991年5月27日 - )は、日本の男性歌手であり、Galileo Galilei、BBHF(旧称:Bird Bear Hare and Fish)のボーカル・ギター担当…

尾崎 加寿夫(おざき かずお)
1960年3月7日生まれの有名人 東京出身

尾崎 加寿夫(おざき かずお、1960年(昭和35年)3月7日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー解説者。ポジションはフォワード。奥寺康彦に次いで日本人として2人目のサッカー・ブンデスリー…

尾崎 裕(おざき ひろし)
1950年3月11日生まれの有名人 兵庫出身

尾崎 裕(おざき ひろし、1950年(昭和25年)3月11日 - )は、日本の実業家。大阪ガス相談役。 兵庫県宝塚市出身。大阪府立北野高等学校を経て、東京大学工学部卒業後、1972年大阪ガス入社。…

尾崎 ななみ(おざき ななみ)
1988年2月17日生まれの有名人 三重出身

尾崎 ななみ(おざき ななみ、1988年2月17日 - )は、日本のファッションモデル、タレントである。ホリ・エージェンシーに所属(2012年退社)。 三重県伊勢市出身。2007年「ミス東京ガール…

尾崎 菜々(おざき なな)
1982年9月12日生まれの有名人 大阪出身

尾崎 菜々(おざき なな、1982年9月12日 - )は、日本のタレント、元グラビアアイドルである。旧芸名、尾崎 ナナ。相本 あきこ。通称、おざこ。大阪府出身。アーティストボックス、Fang、リップ、…

尾崎 沙也(おざき さや)
1984年1月25日生まれの有名人 神奈川出身

尾崎 沙也(おざき さや、1984年1月25日 - )は、日本の女性タレント、モデル。神奈川県出身。血液型B型。本名:河村 さや。 1997年11月から1998年9月までテレビ東京『おはスタ』のお…

尾崎恵理(おざき えり)
1980年5月19日生まれの有名人 愛知出身

尾崎恵理(おざき えり、1980年5月19日 - )は、日本の元タレント。1997年から2000年までの約4年間、プロダクション尾木に所属し、活動。大学2年時に、芸能界を引退。 愛知県出身。 名古…

尾崎 礼香(おざき あやか)
1990年6月6日生まれの有名人 大阪出身

尾崎 礼香(おざき あやか、Ayaka Ozaki、1990年6月6日 - )は、日本の女優・タレント・グラビアアイドルである。 大阪府出身。 ナインズプロモーション所属。ショーレストラン「美少女戦…

尾崎 亜衣(おざき あい)
1984年2月25日生まれの有名人 東京出身

尾崎 亜衣(おざき あい、1984年2月25日 - )は、日本の女優。東京都出身。身長158cm、体重42kg、B81cm、W57cm、H82cm、靴のサイズ24.5cm。血液型はA型。女優の尾崎由衣…

尾崎 朋美(おざき ともみ)
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尾崎 朋美(おざき ともみ、1981年4月18日-)は、フリーアナウンサー、気象予報士。ウェザーマップに所属していた。 愛知県名古屋市 出身。高校生時代はモデルとして、テレビCMや雑誌広告に出演。…

尾崎 千秋(おざき ちあき)
1937年6月2日生まれの有名人 京都出身

尾崎 千秋(おざき ちあき、男性、1937年〈昭和12年〉6月2日 - )は元京都放送・ラジオ大阪アナウンサー・フリーアナウンサー・ラジオパーソナリティー。 京都府京都市出身。1960年同志社大学…

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