島津保次郎の情報(しまづやすじろう) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


島津 保次郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
島津保次郎と関係のある人
伊沢蘭奢: 『愛の楔』(監督島津保次郎、1922年) 高尾光子: 『輝く昭和』 : 監督島津保次郎、原作・脚本村上徳三郎、主演井上正夫・八雲恵美子 - 善吉長女実は渡辺の娘小夜子 及川道子: 『生活線ABC』 : 監督島津保次郎、サイレント映画、1931年10月16日公開 ※撮影中に病気のために降板 川島雄三: 島津保次郎、吉村公三郎、小津安二郎、野村浩将、木下惠介らの助監督を経る。 筑波雪子: 女 監督島津保次郎、主演藤野秀夫、八雲恵美子 小桜葉子: 「明日天気になアれ」(島津保次郎監督)では主役を演じ、飯田蝶子、吉川満子などと共演。 桑野通子: 男性対女性(監督:島津保次郎、1936年) 池部良: 監督希望だったが、戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、文芸部に配属されて早々部長に面食いだからと言われ、当時は子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演する。 藤本真澄: 終戦までに成瀬巳喜男監督の『秀子の車掌さん』や島津保次郎監督の『母の地図』、今井正監督の『望楼の決死隊』、山本薩夫監督の『翼の凱歌』などをプロデュースした。 河村黎吉: 同年に蒲田撮影所に復帰し、島津保次郎監督の『愚者なればこそ』等に出演したが、同年7月に撮影所長兼監督の野村芳亭が下加茂撮影所に異動、下加茂撮影所での時代劇製作強化のため大久保忠素、清水宏、柳さく子、志賀靖郎、小川国松らとともに下加茂へ移り、下加茂改組第1作の『元禄女』を始め、野村監督『海賊髑髏船』『復活』(1925年)では柳と主演。 谷よしの: デビュー作は、島津保次郎監督の『浅草の灯』(1937年)。 高尾光子: 『海は笑ふ』 : 監督島津保次郎、原作・脚本五所平之助、主演岩田祐吉・英百合子 進藤英太郎: 時代劇映画に連続出演する一方、渡辺邦男監督の『熱砂の誓ひ』、島津保次郎監督の『緑の大地』、さらに『ハワイ・マレー沖海戦』『阿片戦争』などの戦争映画にも出演する。 村田実: 同年6月26日、溝口健二、島津保次郎、小杉勇ら映画人に見守られながら44歳(満43歳)で死去した。葬儀は小石川の関口教会で各社撮影所の合同映画葬、映画監督協会葬として盛大に開かれ、棺は溝口健二、牛原虚彦、島津保次郎、衣笠貞之助、井上金太郎、青島順一郎の肩に担がれ祭壇に安置された。 筑波雪子: 城ケ崎の雨 監督島津保次郎、主演中浜一三 田村道美: 時の花形 1940年 監督島津保次郎、脚本山形雄策、撮影鈴木博、音楽飯田信夫、製作主任関川秀雄、出演丸山定夫、沢村貞子 酒井米子: 『愛の楔』 : 監督島津保次郎、松竹蒲田撮影所、1922年 澤蘭子: 1932年10月27日に公開された島津保次郎監督によるトーキー作品『歓喜の一夜』では、岡との主演共演が実現した。 恩田清二郎: 『緑の大地』:監督島津保次郎、製作東宝映画東京撮影所、配給東宝映画、1942年4月1日公開 - 副校長 柳さく子: 『日曜日』 : 監督島津保次郎、サイレント映画、1924年5月11日公開 筑波雪子: 妖星地に堕つれば 監督島津保次郎、主演鈴木伝明、英百合子 佐伯秀男: 『兄の花嫁』 : 監督・原案島津保次郎、脚本山形雄策、主演高田稔、製作東宝映画東京撮影所、配給東宝映画、1941年1月18日公開 - 出演・「息子肇」役、79分の上映用プリントをNFCが所蔵 筑波雪子: 踊り子の指輪 監督島津保次郎、主演武田春郎、英百合子 鈴木傳明: 牛原監督以外では、清水宏監督の『京子と倭文子』、島津保次郎監督の『海の勇者』などに主演し、1926年(大正15年)には『海人 南国篇・都会篇』で監督・脚色も兼ねた。 筑波雪子: 新珠 監督島津保次郎、原作菊池寛、主演鈴木伝明、諸口十九 筑波雪子: 多情仏心 監督島津保次郎、原作里見弴、主演島田嘉七、宮島健一 坪内美詠子: その後、島津保次郎監督の『お琴と佐助』、小津安二郎監督の『浮草物語』などの話題作に出演し、その美貌が人気を集めると共に、1935年には幹部に昇進し、名実共に、松竹の看板女優となる。 上原謙: 1937年、これを前面に押し出した島津保次郎監督の『婚約三羽烏』が大ヒット。 田村道美: 二人の世界 1940年 監督島津保次郎、原作塚本靖、原作・脚本山形雄策、音楽服部正、製作主任谷口千吉、主演丸山定夫、英百合子、原節子 田村道美: 兄の花嫁 1941年 監督島津保次郎、脚本山形雄策、撮影宮島義勇、音楽服部正、製作主任関川秀雄、出演高田稔、山田五十鈴、原節子、江川宇礼雄 |
島津保次郎の情報まとめ

島津 保次郎(しまづ やすじろう)さんの誕生日は1897年6月3日です。東京出身の映画監督のようです。

映画、卒業、解散、ドラマ、家族、父親に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1945年に亡くなられているようです。
島津保次郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6月3日 - 1945年〈昭和20年〉9月18日)は、大正・昭和期の映画監督。松竹蒲田撮影所で蒲田調と呼ばれる小市民映画を多数製作し、松竹の代表的監督となった。 東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)三越日本橋本店の真正面に老舗の海苔商「甲州屋」を営む父・音次郎の次男として生まれる。 正則英語学校(現・正則学園高等学校)に入学するが、幼いころから極度の映画好きであった島津は学校をさぼって近くにあった映画館・錦輝館へ行って映画を見ていた。当時から映画監督への道を志しており、逓信省の宣伝映画のシナリオ公募に入選した経験もある。卒業後、実家の手伝いで、福島で下駄用桐材の切り出しに携わる。しかし、松竹が映画事業に乗り出すことを知り、父の友人の紹介で小山内薫の門下生として、松竹キネマ蒲田撮影所に入社する。 1920年、小山内に従って松竹キネマ研究所に移る。同研究所には牛原虚彦や伊藤大輔、村田実らも参加した。翌1921年、研究所第1回作品の『路上の霊魂』で助監督と照明係(クレジット上では光線)を、第2回作品で牛原の監督デビュー作でもある『山暮るる』で助監督を務めた。同年、大阪で『寂しき人々』を撮って監督デビューするが、封切られずじまいに終わっている。 研究所の解散後、蒲田撮影所に復帰。牛原の『剣舞の娘』で助監督を務めたのちに監督として一人立ちする。初めは『遺品の軍刀』などの美談ものを手がけていたが、1923年、ハウプトマンの原作を伊藤大輔が脚色した『山の線路番』で認められ、その写実的な作風で松竹蒲田のトップクラスの監督となった。同年9月1日に関東大震災で撮影所が罹災。京都に機能移転するために多くのスタッフ・俳優が京都に移ったが、島津は東京に残った。そこで城戸四郎が蒲田撮影所の代理所長に就任、彼の主導により『お父さん』『蕎麦屋の娘』を製作。1924年に撮影所が復帰し、その半年後に城戸が正式に撮影所長に就任。城戸の指揮の下、これまでの新派的な作風にかわり、蒲田調と呼ばれるサラリーマンや庶民の日常生活を描く小市民映画が製作されていくが、島津は同年にすでにサラリーマン喜劇の『日曜日』(1924年)などを発表しており、蒲田調の先駆的存在となった。 1927年(昭和2年)2月には、映画を批判する文壇人に対抗する映画実際家連盟「友達の会」に参加。映画界の地位向上にも貢献した。 以降は庶民生活を生き生きと活写し、日常的なユーモアを写実的に描いた作風で知られた。「写実派」と呼ばれた島津はトーキー時代に入るとその才能をさらに大きく開花させる。『上陸第一歩』で初めてトーキー作品を手がけ、『嵐の中の処女』(1932年)や『隣の八重ちゃん』(1934年)の若々しく爽やかな感覚は他の追随を許さなかった。『その夜の女』(1934年)では「ネオ・リアリズム」を名乗った写実映画が話題となった。 また、「メロドラマ」の名手として観客の呼べる監督の一人に数えられるようにもなり、谷崎潤一郎の『春琴抄』を脚色した『お琴と佐助』(1935年)をはじめ、多くの文芸作品も手掛けていくが、ここでもリアリティーあふれた彼らしさを前面に押し出したものに仕上がっている。 撮影所が蒲田から大船に移行しても、メロドラマの『家族会議』(1936年)や浅草オペラの姿を描いた『浅草の灯』(1937年)、松竹三羽烏と呼ばれた上原謙・佐分利信・佐野周二が主演の『婚約三羽烏』(1937年)、そして島津の代表作とされる『兄とその妹』(1939年)などで独特な描写などが評価された。 1939年、東宝に移り、『光と影・前後篇』『白鷺』『緑の大地』などの大作を残すが、松竹時代のように傑作には恵まれなかった。 敗戦直後の1945年9月18日に胃がんにより東大病院(当時は東京帝国大学医学部附属病院)で亡くなった。享年49。墓所は新宿区勝興寺。 名監督として知られる島津も、助監督時代は旧態依然とした撮影所で苦労をした。あるロケーションで、監督が「生きのいいチューリップの花束が必要だ」と言い出し、島津助監督は御殿場から小田原まで汽車に乗って花を買いに出かけた。撮影は朝7時から始まるので、まだ暗いうちから出かけなければ間に合わなかったが、買った花は午後には萎れてしまい、翌日もまた早起きして行かなければならなかった。ところが監督は意地悪く、午前中には花の出るカットを撮影せず、毎日毎日およそ十日ほどこの早起きが続いた。最後の日に監督が「もう花のくだりはやめた」と言ったので、島津はガッカリし、生涯その監督にはつかぬ決心をしたという。トーキー時代に入るまで、無声時代の活動写真の現場では助監督の身分はどこもこのようなものだった。 島津は撮影中の映画に対し、全幅の希望をかけ、心からこれを楽しみ、いつくしんだ。このため、昭和10年の『お琴と佐助』の完成後に一部の批評家からクレームがついた際には、このことで激しい文章のやり取りをしている。 島津の門下には、五所平之助、豊田四郎、吉村公三郎、木下惠介、佐伯清、谷口千吉、関川秀雄らがおり、松竹ホームドラマ=蒲田調の作風はこれらの弟子に受け継がれ日本映画の本流を形成してゆくことになった。 映画監督島津昇一は実子で、東映で活躍していたが父親同様早世している。 寂しき人々(1921年) 山谷堀(1922年) 山の線路番(1923年) 自活する女(1923年) 剃刀(1923年) お父さん(1923年) 蕎麦屋の娘(1924年) 茶を作る家(1924年) 日曜日(1924年) 南島の春(1925年) 村の先生(1925年) 祖国(1925年) 新己が罪(1925年) お坊ちゃん(1926年) 海の勇者(1927年) マルセーユ出帆(1928年) 多情仏心(1929年) 麗人(1930年) 愛よ人類と共にあれ(1931) 生活線ABC(1931年) 上陸第一歩(1932年) 嵐の中の処女(1932年) 隣の八重ちゃん(1934年) その夜の女(1934年) お小夜恋姿(1934年) お琴と佐助(1935年) 家族会議(1936年) 朱と緑(1937年) 浅草の灯(1937年) 婚約三羽烏(1937年) 兄とその妹(1939年) 光と影・前後篇(1940年) 嫁ぐ日まで(1940年) 白鷺(1941年) 闘魚(1941年) 緑の大地(1942年) 母の地図(1942) 私の鶯(1943年) 日常の戦ひ(1944年) ^ 大竹徹『個人別領域別談話集錄による映画史体系』日本大学芸術学部映画学科、1979年、6頁。 ^ 映画製作の実務者が「友達の会」を結成『大阪毎日新聞』昭和2年2月16日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p19 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊) ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社) ^ “島津保次郎”. アテネ・フランセ文化センター. 2024年6月12日閲覧。 島津保次郎 - allcinema 島津保次郎 - KINENOTE 島津保次郎 - 日本映画データベース ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の映画監督 日本のサイレント映画監督 松竹の人物 東宝の人物 正則学園高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 胃癌で亡くなった人物 1897年生 1945年没 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにあるallcinema人物識別子 ウィキデータにあるKINENOTE ID ウィキデータにあるJMDb人物と企業識別子 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2025/04/06 23:30更新
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shimadu yasujirou
島津保次郎と同じ誕生日6月3日生まれ、同じ東京出身の人

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