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村山富市の情報 (むらやまとみいち)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

村山富市の情報(むらやまとみいち) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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村山 富市さんについて調べます

■名前・氏名
村山 富市
(読み:むらやま とみいち)
■職業
政治家
■村山富市の誕生日・生年月日
1924年3月3日
子年(ねずみ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
大分出身

(大正13年)1924年生まれの人の年齢早見表

村山富市と同じ1924年生まれの有名人・芸能人

村山富市と同じ3月3日生まれの有名人・芸能人

村山富市と同じ出身地大分県生まれの有名人・芸能人


村山富市と関係のある人

田中康夫: 村山富市内閣には発足当時「理念なき野合」と評する意見が多かった中、「55年体制の二項対立を越えた内閣」と高評価を下していた。


長尾立子: 1996年1月5日、村山富市首相が退陣を表明。


山本有二: 羽田内閣総辞職に伴う1994年6月29日の内閣総理大臣指名選挙では、自民・社会・さきがけ3党は日本社会党委員長の村山富市を擁立したが、中曽根康弘・海部俊樹両元首相や渡辺美智雄らが村山擁立に反発し、新生・公明・民社・日本新ほか旧連立与党が海部を擁立。


保坂展人: 同年9月23日に村山富市社民党党首から二度目の党首を打診されたことに激怒していると土井から告げられる。


井脇ノブ子: 1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に初めて無所属で旧大分1区から出馬、8,288票得票、7名中7位で村山富市(後の第81代内閣総理大臣)らに敗れ落選。


安倍晋三: 同年8月11日、衆議院議員選挙区画定審議会は、政治改革四法における「小選挙区300・比例代表200」の具体的な区割り案を村山富市首相に勧告。


関山信之: 当初は社会主義協会に所属したが後に右派に転向、村山富市の側近として活動した。


西川きよし: 1994年6月の第129回国会・参議院本会議の首班指名投票では、村山富市と海部俊樹に票が分散するなか、当時衆議院議長の土井たか子に票を投じ、1999年7月の第145回国会・参院本会議の国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)の採決では賛成票を投じた。


赤松広隆: 村山富市委員長や国会対策委員長の野坂浩賢らが水面下で自民党の亀井静香らに接触し、自民・社会・さきがけ3党による新しい枠組みでの連立政権の樹立を志向したのに対し、赤松らは羽田内閣への復帰を主張し、自民党を含めた連立政権の樹立に抵抗した。


今津寛: 1994年、羽田内閣総辞職に伴う内閣総理大臣指名選挙において、自民・社会・新党さきがけ3党が推した村山富市日本社会党委員長ではなく、旧連立与党側が擁立した海部に投票し、その後海部に従って自民党を離党。


中西績介: 我々社民党には全く関係ない」と意に介さず、村山富市以来の路線を堅持する立場を明らかにした。


保岡興治: 当選後は小渕派に所属するが、1994年の羽田孜首相後の首班指名選挙では、自民党が推す日本社会党委員長の村山富市ではなく、元首相の海部俊樹に投票し、海部に従い離党。


簗瀬進: 1994年6月30日、自社さ連立政権の村山富市内閣で建設政務次官に就任した。


畑英次郎: なお、旧大分1区は自民党ベテランの村上勇や、畑が初当選した当時は中堅議員だった、後に首相を務める日本社会党の村山富市、後に大分市長を務める民社党の木下敬之助らがおり、これらの有力候補も必ず一度は落選を経験しているが、畑は初当選以来、一度も落選していない。


丸谷金保: 在学中には哲学研究部に入り、穂積五一が運営する私塾で学生寮の「至軒寮」に出入りして、小林與三次、村山富市など保守革新を問わない幅広い人脈を築く。


鳩山由紀夫: 脱原発活動を行っている鳩山は、細川護煕、村山富市、小泉純一郎、菅直人の元首相4人と一緒に、EUの執行機関・欧州委員会の委員長であるウルズラ・フォン・デア・ライエンに対して、EU内での原発反対を求める書簡を2022年1月27日付で送った。


野中広務: 2013年6月には、亀井靜香、村上正邦の呼びかけに呼応し、石原慎太郎、桜井新、島村宜伸、仙谷由人、平野貞夫、村山富市、矢野絢也らと円卓会議の創立に参加した。


岡野加穂留: また、岡野と親交があり明治の先輩でもある村山富市元首相が、死去した小渕の弔辞を読んでいる。


山口哲夫: さらに、村山富市内閣下で社会党が原発反対などの基本政策を転換すると、これに抗議して社会党を離党し、新社会党の結成に参加し、書記長となった。


岡野加穂留: 革新派では、村山富市内閣のブレーン、福島瑞穂・社民党党首への応援と交流などと、政治的イデオロギーにとらわれない政治活動をも行っている。


中曽根康弘: 1991年に復党し、1994年の首班指名選挙では村山富市首班に反発し、小沢一郎と共に海部俊樹を担ぐが失敗する。


北村浩一: 村山富市


山本政弘: 議員引退後も影響力を維持し、1993年には村山富市に委員長就任を働きかけた。


野坂浩賢: 村山富市の側近であり、党国対委員長として1994年(平成6年)に自民党・さきがけとの連立政権である村山内閣を実現させ、建設大臣に就任した。


小里貞利: 羽田内閣で閣外協力に転じた日本社会党の委員長村山富市、同党国会対策委員長の野坂浩賢らと、自民党幹事長森喜朗と共に水面下で接触し、自社さ連立政権樹立に向け、交渉を進めた。


橋本龍太郎: 1994年に発足した「自社さ連立政権」の村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務し、1996年の村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。


久保亘: 9月 後継委員長に久保と村山富市国会対策委員長が有力視されるが結局村山で一本化。


北岡伸一: 安倍首相は過去の「植民地支配」と「侵略」を謝罪した村山富市首相談話の文言を使用しない考えを表明していたが、北岡はそれを踏まえ、同年3月9日に「日本は侵略戦争をした。


海部俊樹: 1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。


渡辺美智雄: さらに、村山富市への首班指名選挙でも「社会党の委員長を首相なんかに推せるか」と派閥オーナーの中曽根と共に造反し、連立政権の統一候補となった海部俊樹に投票した。


村山富市の情報まとめ

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村山 富市(むらやま とみいち)さんの誕生日は1924年3月3日です。大分出身の政治家のようです。

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現在、兄弟、卒業、解散、結婚、事件、引退、事故、家族、テレビ、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。

村山富市のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

村山 富市(むらやま とみいち、1924年〈大正13年〉3月3日 - )は、日本の政治家、労働組合指導者。第81代内閣総理大臣。勲等は桐花大綬章。

労働組合運動から日本社会党に所属し政治家となり、大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、日本社会党委員長(第13代)、内閣総理大臣(第81代)、社会民主党党首(初代)、名誉党首を歴任した。

2019年(令和元年)11月29日に中曽根康弘が死去したことに伴い、令和初期に存命する内閣総理大臣経験者としては最高齢、かつ唯一の大正生まれの人物となった。2024年11月時点において、歴代の内閣総理大臣では東久邇宮稔彦王、中曽根に次いで三番目の長寿記録保持者であり、百寿(満100歳)を迎えている。

大分市議会議員、大分県議会議員を経て、衆議院議員として国政に参画した。社会党が左右分裂していた時代には左派社会党に所属。衆議院議員に当選後、日本社会党の党内では政権構想研究会や水曜会に所属するなど、一貫して社会党右派として活動した。衆議院では社会労働委員会や予算委員会の理事を務め、物価問題等に関する特別委員会では委員長に就任した。日本社会党国会対策委員会委員長などを務めたのち、山花貞夫の辞任にともなう日本社会党委員長選挙に立候補し当選した。

非自民・非共産連立政権では与党第一党の党首として、非自民政権であった細川内閣や羽田内閣を支えたが、改新結成騒動などを巡り対立が激化し、連立政権から離脱した。55年体制で社会党と対立してきた自由民主党との連立を決断して自社さ連立政権を樹立して第81代内閣総理大臣に就任し、1994年6月30日から1996年1月11日まで在任した。その後、日本社会党を解党させるとともに、新たに社会民主党を結成し、同党の党首や特別代表を務めた。現在は学校法人明治大学の顧問や大分県職員連合労働組合の特別顧問を務めるとともに、明治大学校友会の名誉会長などの名誉職を務める。また、明治大学より名誉博士の名誉学位を授与されている。

1924年、大分県大分市の漁師の家に11人兄弟の6男として生まれた。村山家は網元であったが、村山が14歳のときに父が他界している。そのため新聞配達などをしながら苦学を続けた。1936年、大分市立中島尋常小学校卒業、1938年、大分市立大分高等小学校卒業後、東京に出て、昼間は機械工場や印刷工場などで働きながら、夜間は東京市立商業学校に学んだ。

1943年、旧制明治大学専門部政治経済科に入学し、哲学研究部に所属した。このころ、同じく明治大学に通っていた丸谷金保に誘われ、穂積五一が運営する学生寮「至軒寮」に入った。1944年、学徒動員で石川島造船所に配属された。同年、成人し徴兵検査を受け、学徒出陣で宮崎県都城市の日本陸軍歩兵第23連隊に二等兵として入隊。1945年8月15日、幹部候補生として陸軍軍曹の階級で終戦を迎えた。

1946年、旧制明治大学専門部政治経済科を卒業した。1948年、大分県漁村青年同盟の書記長に就任した。漁業協同組合設立等の成果を収め漁村青年同盟が解散すると、その後は大分県職員労働組合の書記として活動した。

1951年、大分市議会議員選挙に立候補したが、次点で落選。1953年、ヨシヱ夫人と結婚。再起を期した1955年、大分市議会議員選挙に日本社会党から立候補し、当選(以後当選2回)。1963年、大分県議会議員選挙に支持者の後援で立候補し、当選(以後連続3回当選)。1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、トップで初当選(同じ自治体議員経験者たる社会党新人代議士に竹村幸雄)。以降、落選1回を挟み、通算当選8回。1973年には横路孝弘や田英夫らと「新しい流れの会」に参画。

1991年7月、土井たか子に代わり田邊誠が社会党委員長に就任すると、村山は国会対策委員長に就任した。1992年のPKO国会では、国会対策委員長として陣頭指揮を執って粘り強く抵抗したものの、6月に自公民3党の賛成多数で成立。国会対策委員長として国会運営に携わったことから、自民党の梶山静六、公明党の神崎武法ら、各党国会対策委員長とのパイプを持つに至った。1993年1月、田邊誠に代わり山花貞夫が社会党委員長に就任したが、村山は国会対策委員長に留任した。

同年7月、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を回復できず、一方の社会党も新党ブームに埋もれ議席をほぼ半減させた。8月、社会党を含む8会派により非自民連立政権である細川連立内閣が発足。山花貞夫は政治改革担当大臣として入閣したものの、総選挙での敗北の責任を取り委員長辞任を表明した。後任の委員長には委員長代行久保亘と村山が有力視されるが、委員長選挙への立候補を久保が辞退。9月に行われた委員長選挙では、無投票当選阻止を図って立候補した翫正敏を大差で破り、村山が社会党委員長に当選した。当選後、書記長には久保亘を起用した。

1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明すると、連立与党は次期首班に新生党党首羽田孜(細川内閣で副総理兼外務大臣)を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。しかし、首班指名直後に新生党、日本新党、民社党などが社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表。社会党の与党内での影響を抑えるためのもので、「改新」は連立与党内で社会党を大きく上回る最大勢力となった。しかし社会党には事前の相談がなかったため、村山はこれに強く反発して社会党の連立離脱を表明、羽田内閣は少数与党で発足することとなる。羽田政権下、社会党内では久保亘、佐藤観樹、上原康助、赤松広隆らが連立復帰を主張する一方、山口鶴男、大出俊、野坂浩賢らは連立離脱を支持した。

6月25日、進退窮まった羽田内閣が総辞職し、社会党を巡り自民党・連立与党が協議を行うなか、自民党総裁の河野洋平が社会党委員長首班の連立政権を打診し、自社さ共同政権構想に合意した。しかし、自民党総裁経験者である海部俊樹が「社会党委員長を首班に支持できない」と主張し、それに中曾根康弘も同調し、連立与党は海部俊樹を統一候補に指名した。6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となった。その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足した。ここに1947年の片山内閣以来47年ぶりの社会党首班内閣誕生となった。また、1955年の自民党誕生以降から2010年6月に民主党の菅直人が内閣総理大臣に就任するまでの間では、自民党籍を有したことのない唯一の内閣総理大臣であった。

1994年7月、第130回国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した(後述)。

1994年11月消費税率を3%から4%に引き上げ、さらに地方消費税1%を加える税制改革関連法が成立。 1995年1月17日、兵庫県南部地震に伴う阪神・淡路大震災発生時、日本国政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落した(後述)。3月20日には「オウム真理教」幹部による地下鉄サリン事件が起こった(後述)。その後、公安調査庁の調査結果を尊重し、オウム真理教への破壊活動防止法適用を公安審査委員会に申請した(後に基準を満たさないとされ適用は見送られる)。

5月10日、自由民主党幹事長森喜朗が「村山総理は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、総理大臣官邸での村山との会話を洩らした。この発言を受け読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。その結果、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受け、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。

6月9日、衆議院本会議で自民・社会・さきがけ3会派共同提出の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(不戦決議)が可決された。6月21日、全日空857便ハイジャック事件が発生した際には、警察の特殊部隊に強行突入を指示し鎮圧した(後述)。7月、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足させた(後述)。同月、第17回参議院議員通常選挙が行われた。この選挙は、非自民首相の大型国政選挙としては、自民党が結党した1955年以来、初めてであった。この選挙で日本社会党は大きく議席数を減らしたため村山は辞意を漏らしたが、与党側が慰留したことから首相を続投し、内閣改造を行った。8月15日、『村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」』(通称村山談話)を閣議決定した(後述)。

1996年1月5日、首相退陣を表明した。村山の退陣については前年から様々な形で憶測が流れており、前年の参院選における社会党大敗の時には河野洋平に対し退陣の意向を漏らしたともされていた。しかし新年度予算審議を目前に控える中、退陣は早くとも予算の成立以降と考えられていたため、突然の発表は大きな衝撃を与えた。翌6日の新聞社説は一様に厳しく批判し、村山政権の政策に対しては「歴代政権が手をつけなかった成果は特筆される」などと好意的な毎日新聞も、退陣には「国民を愚ろうするにもほどがある」と怒りを込めたほどだった。

退陣の背景については、社会党内の久保書記長との関係悪化、住専問題で国会を乗り切ることへの不安、沖縄の米軍基地使用問題の泥沼化の懸念といった憶測がなされた。

自社さ政権協議にて、自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意した。11日に内閣総辞職し、橋本連立内閣が発足した。

村山内閣の間、首相秘書官は、園田原三(社会党中央本部)、河野道夫(左同)、岩下正(大蔵省)、乾文男(左同)、槙田邦彦(外務省)、金重凱之(警察庁)、小林武仁(左同)、古田肇(通産省)が務めた。主治医として下條ゑみ医師(国立国際医療センター)が従事。総理大臣公邸では、ファーストレディー役の二女・中原由利、社会党中央本部の田中稔、八木隆次らが秘書を務めた。

橋本連立内閣では入閣せず、首相退任後は党務に専念した。1996年1月17日、日本社会党委員長選挙にて秋葉忠利を破り再選された。1月19日には党名を社会民主党に改称し、初代党首に就任した。しかし、所属議員のうち30人が新党さきがけ代表幹事鳩山由紀夫が提唱した新党構想に呼応し、同年9月に社民党から離党した。衆議院解散を前に衆議院議長土井たか子を社民党党首に迎え、自らは特別代表(選挙闘争本部長兼務)に就任した。第41回衆議院議員総選挙で新設の大分1区から出馬し小選挙区勝利で再選(同区では自民党現職衛藤晟一も比例復活)。

11月、第2次橋本内閣にて社民党は閣外協力に転じた。その後、1997年の沖縄特別措置法案採決には与党ながら反対に回った。1998年6月、社民党が自民党との政権協議を破棄し、自社さ連立政権は崩壊した。

1999年、7月衆院本会議での国旗国歌法の採決で反対票。10月には中国での建国50周年の軍事パレードに参加した。

1999年、野中広務らと共に北朝鮮を訪問した(村山訪朝団)。2000年5月30日には衆議院本会議で、首相在任中に脳梗塞で倒れ、内閣総辞職後の5月14日に死去した小渕恵三に対する追悼演説を行った。

2000年6月の衆議院解散とともに政界を引退した。2006年4月、「内閣総理大臣として国政を担当しその重責を果たすとともに、多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たした」功労により、桐花大綬章を受章した。

2000年7月2日、創立された日朝国交促進国民協会の会長に就任。

2000年10月、原文兵衛の後任として、財団法人女性のためのアジア平和国民基金の2代目理事長に就任した。2005年1月24日、村山は基金を2007年3月に解散すると宣言した。2007年3月6日、記者会見の席上、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる河野談話)に対する内閣総理大臣安倍晋三の「私の内閣で変更するものではない発言」について触れ、「(女性のためのアジア平和国民基金は)河野談話の精神を踏まえ活動している。(安倍晋三)総理が『河野談話を継承する』と言う限り(総理を)信頼している」と述べた。同年3月31日、女性のためのアジア平和国民基金は解散した。

2005年4月17日、村山政権時代に建設が決定された京都迎賓館の開館式典に小泉純一郎首相(当時)、橋本龍太郎元首相、森喜朗元首相らと共に出席した。

2005年7月16日、大分県大分市王子中町の市道交差点で自動車を運転中、自転車に乗った小学4年生男児と接触し、男児の両腕に怪我を負わせた。事故は報道され、元首相が自ら自動車を運転しているという意味でも、国民を驚かせた。

2009年、中国での建国60周年記念の軍事パレードに参加した。

2013年1月、日中友好協会名誉顧問として同協会訪中団に名誉団長として参加。団長の元自由民主党幹事長加藤紘一・同協会会長、元防衛庁長官中谷元・自由民主党衆議院議員らとともに中国を訪問。唐家璇中日友好協会会長(元国務委員)と会談した。同2月、加藤らとともに首相官邸にて安倍晋三総理大臣に面会し、唐との会談の内容などについて報告した。その際記者団に対し、日中首脳会談実現への期待を表明した。また安倍総理が進める「村山談話」の路線変更については反対する考えを示した。また同年2月、社民党本部移転のため取り壊しが決まった旧社民党本部(社会文化会館)の「お別れ会」に伊藤茂らとともに出席。あいさつの中で「党勢低迷し歯がゆい」「議員少なく寂しい限り」と嘆いた。同年5月には安倍首相が「村山談話」についての発言をある程度軌道修正する姿勢を見せたものの、基本方針はその後も変えないままであるため、同年7月に参加した憲法改正に反対する集会での講演においても「村山談話」の見直しについて、「日本が国際的に孤立する」と述べてなお強く反対した。同月の第23回参議院議員通常選挙において社民党が得票数を大幅に減らし惨敗したことを受け、同年8月BS-TBSの番組内で「もう社民党なんてものにこだわらないで、憲法改悪などの共通課題で党派を超えて協力を呼びかけていく体制ができれば一番いい。次の衆院選までにはそういう体制をつくっていくことが大事」と発言、また記者団に対しても「社民党はこのままいっても先がない。党にこだわらず勢力を結集しなければならない。新しい党をつくることがあっていい」と述べ、社民党が野党再編の火付け役となって憲法改正反対や脱原発などを基軸とする新党の結成を目指し、社民党は発展的に解消すべきだとの考えを示した。

2014年2月、従軍慰安婦問題などで日韓関係が冷え込むなか韓国を訪問して村山談話の意義を講演、鄭烘原韓国首相と会談して韓国政府に日韓首脳会談の実現を呼びかける。2014年10月9日、韓国の崇実大から名誉博士の学位を授与された。授与の理由は「日本の蛮行に対する許しと和解の意味で、日本の良心的指導者である村山元首相に名誉博士の学位を授与する」としている。2015年3月11日、さとやま・草莽の会の結成に参画した。

2015年4月の大分県知事選挙で社民党大分県連合は、自民党と公明党が推薦する現職候補と民主党が支援する新人候補との間で対応を決めきれずに「自主投票」となったが、村山は自民党系候補を全面支援した(2015年大分県知事選挙)。

2015年9月、抗日戦勝70周年式典に日本政府とは無関係の立場で私的に出席するため訪中していたところ体調不良を訴えて入院した。

90歳を超えてもなお社民党名誉党首、NPO法人日本ベトナム平和友好連絡会議会長など多数の要職の座にあり、2015年の時点で自宅のある大分と東京を往復し政治活動を行っていた。

社民党は2020年11月14日、東京都内で臨時党大会を開き、希望する党員・地方組織の立憲民主党への合流を認める議案を賛成多数で可決し、分裂が確定的となった。元党首の村山は「やむを得ないこととはいえ、党が分かれてさらに小さくなることは残念でならない」とのコメントを発表した。

2020年12月24日、高齢のために党大会出席などの役目を果たせないとの判断から、社民党名誉党首と顧問を辞任した。社民党員は続けるとしている。

2021年7月11日、大分の自宅を訪れた立憲民主党の枝野幸男代表と面会。「先生がお元気なうちに、もう一回、リベラルな政治を作ります」と語った彼を激励しつつ、面会終了後には自ら玄関の外まで見送って「頑張れよ」と声援を送った。 2022年9月28日に衆院議員会館で開かれたイベントにビデオメッセージを送った。

2024年3月3日に満100歳の誕生日を迎えた。地元の大分合同新聞に対して「100歳と言われても実感できない。今は一日一日を家族と過ごせることを幸せに思っている」とメッセージを寄せている。

村山内閣は、1994年に55年体制下で続いてきた保革対立に終止符を打った自社さ連立政権だった。

渡邉恒雄は2000年に「よい意味で進歩的内閣で、社会党の反安保・反米、国歌・国旗反対を潰して、国論統一の幅をぐんと広げてくれたことが最大の功績」と村山を称した。

総理大臣就任後の所信表明演説の中で村山内閣の施政方針として「人にやさしい政治」「安心できる政治」を掲げた。

社会党と新党さきがけが結んだ政策合意に対し自由民主党が参画し、1994年6月に「自社さ共同政権構想」として合意され、村山内閣、第1次橋本内閣の政策綱領となった。

日本国憲法の尊重

小選挙区比例代表並立制の実施

税制改革の前提として行政改革の断行

条件つきながら消費税の引き上げの方向を認める

自衛隊と日米安全保障条約を維持

国際連合平和維持活動に積極的に参加

国際連合安全保障理事会常任理事国参加問題には慎重に対処

1995年8月15日の戦後50周年記念式典において村山は、日本が太平洋戦争前、同戦中に行ったとされるアジア諸国への「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪する「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する内閣総理大臣談話を閣議決定の上で発表した。村山以降の歴代内閣も全て歴史認識で談話の踏襲を明言している。「村山談話」という名称が定着しており、日本政府の公式見解として扱われる。

1994年6月30日、自らの意に反して思いがけず自民党・社会党・新党さきがけの三党連立政権の首相に指名された村山は「衆議院で僅か70議席程度しか持っていない社会党の委員長が総理に選ばれたことは憲政の常道から考えてあり得ないことだが、こうした内閣が生まれてきたことには何らかの必然性があり歴史的な役割が課せられているのではないか。ちょうど戦後50年の節目であり自民党政権では解決できなかった過去の戦争の歴史認識問題など内外の諸課題にけじめを付ける」と決意して新政権樹立の三党合意事項に「過去の戦争を反省する決議を行う」との内容を盛り込み「50年問題プロジェクト」を立ち上げた。

首相就任後、ASEAN諸国を歴訪した村山は「アジア各国は日本に対して表向きは良い顔をするが、実際は経済大国になった国は再び軍事大国になるのではないか、日本は過去の戦争の後始末を付けていないではないか、また過ちを繰り返さなければいいが、という疑念を言外に感じた」と述べる。

1995年6月9日、衆議院本会議で過去の日本が行った侵略と植民地支配を謝罪する「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が採決されるが自民党議員からも多数の欠席者が出て全会一致で可決できなかったことを受け村山は談話の作成を決心する。

五十嵐広三官房長官を中心に複数の学者などが、村山が過去の演説で発言した内容などを盛り込んだ形で談話の文案を作成した。村山は談話の文章が完成後、日本遺族会会長の橋本龍太郎通産大臣に根回しの意味で談話の文章を見せると、橋本が「文章の中で終戦と敗戦を使われているが敗戦で統一した方が良いのではないか」と指摘し村山も賛成する。

戦後50年目の終戦記念日である1995年8月15日、村山は「社会党の委員長が総理になった以上この程度の談話が出せなければ意味がない」と異議が出るなら首相辞任を暗に匂わせる形で談話の閣議決定に臨み、内閣改造で新しい官房長官に就任した野坂浩賢も談話に異議を唱える閣僚がいれば即座に罷免する覚悟であった。閣議で古川貞二郎官房副長官が談話を読み上げ、野坂が「異議ありませんか」と言うと、タカ派と言われる江藤隆美総務庁長官、平沼赳夫運輸大臣、島村宜伸文部大臣を含む全閣僚(村山改造内閣)が一言も異議を唱えず談話に署名して満場一致で閣議決定され、村山談話を発表した。

村山は談話発表当時「当然のことを言ったに過ぎない」として後継首相が談話を踏襲するとは思っていなかったが、村山の後を受けた橋本龍太郎首相以降 、岸田文雄首相に至るまで全ての内閣が歴史認識についてこの談話を踏襲する旨を明言している。

保守系議員などにより村山談話とは見解を異にする内容のコメントが発せられ、その度に中国、韓国の政府から反発が起きた。「日本は戦後、戦時中におこなったとされる侵略行為については当事国に公式に謝罪し補償も済ませているのでこれ以上の謝罪論は不要である」との批判がある一方、逆に「この談話は結局のところ『戦争に日本政府は巻き込まれた。悪いとは思うが仕方がなかった』という立場を表すに過ぎない」との批判もある。

村山自身も1995年10月5日の参議院本会議において「日韓併合条約は、当時の国際関係等の歴史のなかで法的に有効に締結され、実施された」と述べ、どっちつかずの態度を示したため中韓から批判され、同年の大阪APECでは江沢民首席と金泳三大統領に露骨に無視される扱いを受けた。

村山談話は日本国政府の公式な歴史認識とされている。小泉純一郎首相も戦後60年の終戦記念日である2005年8月15日に村山談話を踏襲する内容の小泉談話を発表した。

2008年11月、田母神俊雄航空幕僚長は「日本は侵略国家だったか」という論文を発表。麻生太郎政権から村山談話の政府見解とは異なる認識を示したとして厳しい批判を受け更迭された。

2015年、首相就任前は村山談話に批判的な発言をしたことがある安倍晋三が戦後70年の節目に当たりどのような首相談話を出すかが国内外から注目されるが、同年1月5日の年頭記者会見で「安倍内閣は村山談話を含め歴代内閣の立場を継承している。その上で未来志向の新たな談話を発表したい」と発言し、村山談話の踏襲を明言した。

オーラルヒストリー『村山富市の証言録』などの中で村山談話について「もともと日本国内には過去の戦争は正しかったのか過ちだったのか明確な統一見解が無かった。その中で過去の戦争を総括する政府見解として村山談話を出し戦後50年の節目に一応のけじめを付けることができた。中国、韓国、ASEANなどアジア全体が村山談話を評価し、後継の歴代内閣も踏襲していることで一つの国際的な定義になっている。村山談話に反対する人の中には、当時の世界情勢の中で日本だけが悪いとは言えないのではないか、日本の戦いは欧米の植民地支配からアジアを解放するためのものだった、日本が戦ったからアジア諸国は独立できたのではないか、良い面もあったとして戦争を正当化する意見もある。しかし戦争の拡大に反対する慎重論もあったが軍の暴走を阻止できず日本がアジアにおいて侵略、植民地支配を進めて行った事実に間違いはない。過去の歴史を直視して謙虚に認め反省しお詫びすることでアジア諸国との信頼関係を築いていくべき。中国などで日本には歴史的事実を認めない政治家もいると指摘されると、日本は思想、言論の自由が認められているので色々と言う人もいるが大多数の国民は村山談話を支持しているので安心してほしいと応えている」などと述べる。

また1995年8月15日の談話成立当時を振り返り「衆議院本会議で決議した『歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議』(1995年6月9日)には自民党内からも欠席者が続出したように自民党議員の中には本音の部分では侵略、植民地支配の認定に抵抗があったのではないか。しかし自民党は村山政権が成立する前は野党に転落して悲哀を舐めてきたので、ここで村山さんに辞められるのだけは困るというので談話に署名したのではないか。実際、閣議で官房副長官が談話を読み上げても閣僚はみんな黙って少し下をうつむいているだけで一言の発言もなく満場一致で決まった。この談話は村山と言う名前がついているが決して総理大臣個人の談話ではなく閣議で決めた談話である。全会一致の国会決議をすることは出来なかったが、そのために閣議決定して政府の方針として示すことになったので村山談話は逆に重い物になった。少なくとも僕の前で談話に抵抗した者はいない」などと述懐している。

自らの人生を「めぐり合わせの人生」と語った。欲の無い性格で大分市議会議員から県議会議員、衆議院議員、社会党委員長を経て内閣総理大臣を務めたのも「全ては自分の意思ではない。たまたまと偶然、めぐり合わせの連続で周りから背中を押されてやらされてきた。だが総理になった以上は一生懸命やる以外にないと腹をくくった」と語る。社会党委員長と首相に就任した時「なんでわしがこの席に座ることになったんじゃろ」と言った。

首相在任中は亀井静香や野中広務など自民党内でも武闘派と称された議員から熱烈に支持され、亀井、野中は後年も村山を最高の首相だったと褒めちぎっている。

首相在任中は「自衛隊の日本国憲法との合憲性」という、長年の日本社会党の政策を転換する苦渋の選択を迫られた他、阪神・淡路大震災や、オウム真理教事件、全日空機ハイジャック事件など大災害、大事件が頻発したことなどもあり、辞任後に睡眠薬を飲みながら首相を務めたと報じられた。

首相在任中、妻が持病(腰痛)のため、公務に同伴できない状態だったため、秘書をしていた娘が同行した。総理大臣公邸には娘夫婦、孫2人と同居した。

首相就任直後、イタリアのナポリで開かれた先進国首脳会議に参加した。国際会議への出席は当然ながら初めてであったため、出発前に宮澤喜一元首相が「通訳がいるので、言葉のことは心配いりませんよ」などのアドバイスをした。

首相在任中は、首相経験者で同い年の竹下登元首相が、村山のよき相談相手になっていた(竹下は1924年2月26日生まれ、村山は同年3月3日生まれで殆ど同時期に誕生している)。なお村山は、歴代内閣総理大臣で大正生まれ最後の総理大臣でもある。

首相在任中にベトナムの要人と会談した際に「ベトナムが成長したのは日本のお陰です」と、社交辞令を言われた際に「それは違いますぞ。まずはあんたたちが頑張ったから今のベトナムがあるんじゃ。日本はそのお手伝いをしただけじゃ」と言葉を返した。それ以降、ベトナムの要人は村山に尊敬の念を浮かべて社交辞令を超えた会談となった。国会議員を辞めた後も、ベトナムに行き来している。

サミット開会前のレセプションで、腹痛と下痢を起こして中座、翌日も一部の会議を欠席するなどし、関係者を心配させた。海外訪問の経験が少ない村山は、滞在中は現地の飲食物に非常に注意しており、滞在先の総領事公邸で出された食事にしか手をつけなかった。しかし会談前に首脳が屋外で歓談した際、ウェイターが差し出した桃ジュースにうっかり手を出してしまい、それにあたってしまったと後に述懐している。同日夕刻のレセプションのころにはすでに体調が悪く一切料理に手をつけていない。八幡和郎などは、外務省などが村山の健康管理を充分におこなっていなかったと批判している。

自身の政権運営に対し大きな反省があるとする一方で、民主党政権はどの内閣も上回るほどの史上稀に見る酷い政権であると野田佳彦内閣の消費税増税方針に対して批判している。

「拉致問題が片づかないから話が出来ないということでは、永遠に話はできない。日本はミサイルが飛んできて全てを断絶したが、隣の国が災害になって非常に困っているという時に食糧が足りないと言われれば、コメを送るというようなことは当然あってもいいのではないか」と発言(1999年ごろ)。

トンちゃんの愛称で呼ばれる。社会党は村山をモデルとしたマスコット「とんちゃん人形」を発売していた。なお、総理大臣在任中の海外メディアでの通称は「トミー」であった。

村山の後、親が政治家ではない総理大臣は2010年の菅直人までいなかった(森喜朗の父は国会議員ではなかったが地元の町長を務めていた)。

現在の閣僚資産公開制度が始まった1987年以降、村山の資産は歴代総理中の最下位で、明治時代に建造された自宅の時価が「数十万円台」と発表されたため、清貧というイメージを持たれた。

庶民派宰相と呼ばれ政界引退後も生活ぶりは質素で慎ましく、大分市内を移動する時は自転車を使っている。

政権発足後の8月、総理周辺が夏休みの計画を立てようとすると、「わしは年中無休の漁師の出身。いらん」と断り、周囲がそんなことをすれば世界の行政府の物笑いの種になると説得した。その後「では民宿に泊まりたい」と希望したので、関係者がいくつかの民宿を探したが、「総理が泊まりたい? 冗談はやめてくれ」とどこもまじめに取り合わず、結局、箱根の高級旅館で過ごすことになった。

長い眉毛がトレードマークとして知られている。日本テレビの『進め!電波少年』では松村邦洋が自慢の眉毛を切るという企画に了承した。

2007年、第21回参議院議員通常選挙にて「村山が比例区に立候補するのか」との問い合わせがあり、関係者を困惑させた。原因は、大分県選挙区無所属候補の松本文六が、村山とのツーショットの選挙ポスター5000枚を張り出したためと見られている。

身長は173cmと、1920年代生まれとしては長身である。

長女は真里(1955年6月8日生)、次女はファーストレディーを務めた中原由利、孫が二人いる。

大分市の自宅の隣が大関千代大海(現・九重親方)の実家で、千代大海が幼少のころ、村山から頭を撫でられたり、飲み物をくれたりしたという。

相撲 - 少年時代に、後の関脇 玉乃海と相撲を取ったことがある。

バスケットボール - 2010年よりbjリーグ・大分ヒートデビルズをサポートする「名誉ブースター」に就任している。

1924年 - 11人兄弟の六男として誕生。

1936年 - 中島尋常小学校卒業

1938年 - 大分高等小学校卒業後、上京し昼間は機械工場、印刷所で働きながら夜学に通う。

1942年 - 東京市立商業学校卒業

1943年 - 旧制明治大学専門部政治経済科入学。

1944年 - 石川島造船所配属。

1944年 - 学徒出陣で宮崎県都城市にある、大日本帝国陸軍歩兵第23連隊に二等兵で入隊(最終階級:陸軍軍曹)。

1946年 - 旧制明治大学専門部政治経済科卒業

1948年 - 大分県漁村青年同盟書記長。

1951年 - 大分市議会議員選挙落選。

1953年 - ヨシヱ夫人と結婚

1955年 - 大分市議会議員選挙当選(当選2回)。

1963年 - 大分県議会議員選挙当選(当選3回)。

1972年 - 第33回衆議院議員総選挙に旧大分1区より立候補し、当選(以後通算当選8回)。社会労働委員会に所属。右派の「水曜会」入会。

1973年 - 横路孝弘北海道知事、田英夫元社民連代表と「新しい流れの会」に参画。

1976年 - 第34回衆議院議員総選挙当選(2期目)。

1976年 - 大分県佐伯市の「じん肺振動病問題」で患者救済の道を作る。

1979年 - 第35回衆議院議員総選挙当選(3期目)。

1980年 - 第36回衆議院議員総選挙、次点で落選。

1983年 - 第37回衆議院議員総選挙、トップ当選で衆議院議員に返り咲く(4期目・以後4回の選挙ではいずれもトップ当選)。

1986年 - 第38回衆議院議員総選挙当選(5期目)。

1990年 - 第39回衆議院議員総選挙当選(6期目)。

1991年 - 衆議院物価問題等に関する特別委員長。

1991年 - 日本社会党国会対策委員長。

1993年 - 第40回衆議院議員総選挙当選(7期目)

1993年 - 日本社会党委員長。

1994年 - 内閣総理大臣。

1996年 - 初の小選挙区制度での総選挙となった第41回衆議院議員総選挙で大分1区から立候補し、当選(8期目)。

1996年 - 社会民主党党首。

1996年 - 社会民主党特別代表。

2000年 - 総選挙前に政界引退を発表。

2000年 - 財団法人女性のためのアジア平和国民基金理事長。

2002年 - 「八月のかりゆし」リウボウ役で映画出演。

2006年 - 桐花大綬章受章。

日朝友好議員連盟(初代会長)

金森和行 インタビュー・構成『村山富市が語る「天命」の五六一日』ベストセラーズ、1996年8月。 

内閣総理大臣官房 監修『村山内閣総理大臣演説集』日本広報協会、1998年4月。 

王雅丹 訳『我的奮闘歴程』2005。 

薬師寺克行 編『村山富市回顧録』岩波書店、2012年5月。 

辻元清美インタビュー『そうじゃのう…――村山富市「首相体験」のすべてを語る』第三書館、1998年

後藤田正晴・村山富市・岡野加穂留述、明治大学政治経済学部編『若者と語る』明治大学生時経済学部、2002年。

大沼保昭・岸俊光編、和田春樹ほか講演『慰安婦問題という問い――東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』勁草書房、2007年。ISBN 9784326248391

中曽根康弘ほか著、『私の後藤田正晴』編纂委員会編『私の後藤田正晴』講談社、2007年。ISBN 9784062139342

佐高信共著『「村山談話」とは何か』角川書店、2009年。ISBN 9784047102002

梶本幸治・園田原三・浜谷惇編『村山富市の証言録――自社さ連立政権の実相』新生舎出版、2011年。ISBN 9784990604004

『慰安婦問題とアジア女性基金 デジタル記念館』和田春樹共編 青灯社 2014

『検証安倍談話 戦後七〇年村山談話の歴史的意義』山田朗,藤田高景共編 明石書店 2015

『こんなに違う!村山談話と安倍談話』佐高信共著 七つ森書館 2015

村山富市稿「私の履歴書」『日本経済新聞』日本経済新聞社、1996年。

村山富市稿「慰安婦問題『河野談話を継承』こそ重要」『朝日新聞』朝日新聞東京本社、2007年4月5日、15面。

村山富市稿「めぐり合わせの人生」『文藝春秋』89巻13号、文藝春秋、2011年11月1日、79-81頁。

『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(山田洋次 監督、松竹、1995年): 本人役

『八月のかりゆし』(高橋巖 監督、ギャガ・コミュニケーションズ、2002年): リウボウ役

『チコちゃんに叱られる!』(NHK、2018年9月7日): VTRゲスト

^ 非自民首相であった羽田孜と鳩山由紀夫は1993年まで自民党衆議院議員であり、細川護熙も参議院議員時代は自民党員で田中派の旗揚げに参加している。また、総理退陣後も含めて自民党籍を有しなかった政治家としても片山哲以来である(片山の後任である芦田均、吉田茂は総理退陣後に発足した自民党に参加した)。 また、のちの2011年に就任した野田佳彦(ただし細川が代表を務めた日本新党出身)を含め、1955年の自民党発足以降の内閣総理大臣で自民党所属歴が無い内閣総理大臣は2019年現在3名である(村山・菅・野田)。

^ 衆議院での与党第一党党首経験者への弔辞は野党第一党党首が行うのが慣例であり、本来なら民主党代表の鳩山由紀夫が行うはずだが、小渕の遺族側が拒んだため、野党の党首経験者で首相経験もある村山が例外的にこれを行った。

^ 村山・橋本政権当時、与党のさきがけに所属していた。

^ 当時の日本社会党は社会民主主義政党を標榜しており、共産主義政党や社会主義政党ではない。その英文表記も「Social Democratic Party of Japan(日本社会民主党)」で、現在の社会民主党の英文党名と全く同一であった。

^ マスコミ報道では「側にいた大食漢の武村蔵相につられて食べ過ぎたため」「食べ慣れないオリーブ油を多量に使ったイタリア料理を食べたため」など諸説が飛びかっていた。

^ 村山内閣成立に伴い、自宅は観光名所となり、観光バスに乗った団体客が訪れた

^ また、『ニュースステーション』で村山の弟が記者会見する際の会場にされた。

^ コメ市場の部分開放、河野洋平との政治改革関連法案の修正合意、国民福祉税構想など。

^ 村山富市元首相 きょう100歳の誕生日「日本がどこまでも平和な国であるように」 FNN、2024年3月3日

^ 本田雅俊 (2008-07-29). 総理の辞め方. PHP研究所. pp. 222-231. ISBN 978-4-569-70085-4 

^ 村山富市「私の政治人生」村山富市・佐高信『「村山談話」とは何か』角川書店、2009年、98頁。

^ 村山富市「私の政治人生」村山富市・佐高信『「村山談話」とは何か』角川書店、2009年、113頁。

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^ 尖閣問題で意見交換。菅官房長官「大いに話を」日中友好協会が訪中2013年1月28日 MSN産経ニュース

^ 村山元首相、安倍首相に1月末の訪中会談内容を報告2013年2月1日 MSN産経ニュース

^ 社民が旧党本部でお別れ会=村山元首相「低迷歯がゆい」2013年2月27日 時事ドットコム

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^ 村山元首相が訴え「談話を見直せば日本は孤立する」2013年7月2日 MSN産経ニュース

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石原信雄『官かくあるべし ― 7人の首相に仕えて』小学館、1997年。ISBN 9784094020311。

佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』文藝春秋、2006年。ISBN 4163681205。

清原芳治『村山富市 ― その軌跡と使命』大分合同新聞文化センター、2006年。

後藤謙次『ドキュメント 平成政治史 1 崩壊する55年体制』岩波書店、2014年4月17日。ISBN 978-4000281676。 

    玉流館

    憲法9条にノーベル平和賞を

    菅直人 - 自民籍のない総理大臣(次の自民中心の第1次橋本内閣では閣僚)。在任中に大災害(東日本大震災)が発生。

    歴代内閣ホームページ情報:村山富市 内閣総理大臣(第81代)

    村山富市 - NHK for School

    伊藤博文

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      村山富市

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