田中義一の情報(たなかぎいち) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
田中 義一さんについて調べます
■名前・氏名 |
田中義一と関係のある人
小泉策太郎: 高橋是清総裁をかついでの第二次護憲運動、田中義一総裁の実現に活躍したことで、「政界の策士」の名を喧伝された。1927(昭和2)年田中内閣の行政制度審議会委員(親任待遇)となったが、1928(昭和3)年、田中義一内閣に久原房之助が入閣することに反対し、首相と意見を異にして脱党。 岡田啓介: 田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、斎藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。 若槻礼次郎: 若槻は立憲政友会総裁・田中義一と政友本党総裁・床次竹二郎を待合に招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。 牧野伸顕: 田中義一は天皇の権威を利用した政権運営を行ったが、天皇は田中に対して不信感があり、牧野、西園寺、鈴木侍従長は天皇の任命大権を利用した。 タモリ: 本名の「一義」は、祖父が尊敬していたという政治家・田中義一から名前をもらおうとしたところ、上下の画数の差が大きく「頭でっかちな子供になる」という理由で上下ひっくり返して「一義」にしたものだと言われる。 沢田正二郎: 正二郎の葬儀は谷中斎場で営まれ、日比谷公園新音楽堂で催された告別追悼会では、菊池寛が司会し、山田耕筰が追悼の曲を指揮し、その盛大な葬儀では、時の首相・田中義一、坪内逍遙、頭山満、高田早苗早稲田大学総長らが弔辞を贈っている。 西園寺公望: 勅使となった河井彌八侍従次長は、牧野が「憲政の常道」に従って第二党の政友会総裁である田中義一への大命降下が適当だと考えているという事を伝え、西園寺も同意見であると述べ、田中義一に大命が降下した。 高橋是清: その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。 田中龍夫: 1910年(明治43年)9月20日 、陸軍軍人・田中義一の長男として山口県萩市に生まれる。 米内光政: 1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した加藤友三郎を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった田中義一、斎藤実、岡田啓介、林銑十郎、阿部信行は、いずれも予備役か退役の陸海軍大将であった。 望月圭介: 望月と岡田は共に田中義一内閣での閣僚で旧知の仲であり、岡田は望月と直接会って説得しようとしていたが、望月はその前に即座に否定し望月の下で政務次官を務めたことがある秋田清の入閣を推薦した。 汪兆銘: 蔣介石は渡日し、田中義一首相らと会談する一方、宋慶齢の妹宋美齢との結婚話を進めた。 古川薫: 『不逞の魂』新潮文庫 1989(田中義一の若き日を描く) 山本悌二郎: 昭和2年(1927年)に田中義一内閣で、また昭和6年(1931年)に犬養内閣で、それぞれ農林大臣として入閣する。 前田米蔵: 1927年、田中義一内閣の法制局長官に就任。 大倉喜八郎: 政界からは首相・田中義一を始め若槻禮次郎、浜口雄幸、床次竹二郎、清浦奎吾、関屋貞三郎など、実業界からは三井高棟(三井財閥)、岩崎小弥太(三菱財閥)、安田善三郎(安田財閥)、馬越恭平、浅野総一郎(浅野財閥)ら、国外からは張作霖、陳宝琛、段祺瑞、蔣介石などであった。 望月圭介: 閣僚は3度、田中義一内閣の逓信大臣のちに内務大臣、岡田内閣の逓信大臣。 柴田家門: 同郷に田中義一、藤井幸槌がいる。 鳩山一郎: ただし、1924年(大正13年)の政友会分裂では政友本党に参加して一時期政友会を離脱していたが、1926年(大正15年)には自身が中心となって合計26名で政友会に復党し、田中義一総裁に気に入られて復党早々に幹事長に登用されて党内の反発を受けた。 浜口雄幸: 立憲民政党総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任(任期:1929年7月 - 1931年4月)して組閣を行う。 西園寺公望: しかし元老時代の西園寺は、田中義一内閣崩壊時の小川鉄相に対する態度のように、各派にバランスを取り、いずれに対しても中立的な存在と認識されることでその権威と影響力を保った。 松村謙三: この問題で民政党は中野正剛が質問に立ち、「満州某重大事件」として真相をオブラートに包みながら田中義一内閣の政治責任を厳しく追及した。 高橋是清: 4月:田中義一内閣の大蔵大臣に就任(3度目)、3週間の支払猶予を認める緊急勅令渙発と大量の紙幣増発で恐慌を沈静化させる。 小原直: 田中義一内閣の原嘉道司法大臣の下で司法次官に抜擢され、以後、濱口・犬養・斎藤内閣の司法次官を務める。 望月圭介: ちょうどその時に田中義一から大臣要請の電話があり一考すると答え電話を切ると選挙区の人たちが、ぜひ受けろ望月はいいかもしれないが自分たちが困る、と騒いだ。 西園寺公望: これは田中義一が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の上奏の不一致を昭和天皇に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。 大塚惟精: 石川県知事を1日で退いた理由として、赴任直前に義父の上原勇作と対立関係にあった田中義一元陸軍大臣(立憲政友会総裁)が内閣総理大臣に就任したためにその下で働く事を嫌悪したからだとする説がある(小田部雄次「大塚惟精」『現代日本朝日人物事典』)。 三土忠造: 1927年(昭和2年)昭和金融恐慌の際に成立した田中義一内閣では初め文部大臣となるが、大蔵大臣であった高橋が恐慌への対応を終えたとして大臣を辞する時に三土を後任に推薦したため、そのまま大蔵大臣に横滑りする。 鳩山一郎: また、この時期の政友会は田中義一及び犬養の後任の鈴木喜三郎両総裁の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまったことになる。 原嘉道: 田中義一内閣の司法大臣や太平洋戦争開戦当時の枢密院議長を歴任した。 |
田中義一の情報まとめ
田中 義一(たなか ぎいち)さんの誕生日は1864年7月25日です。山口出身の軍人のようです。
事件、父親、結婚、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。1929年に亡くなられているようです。
田中義一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6月22日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。 陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)を歴任した。 元治元年6月22日(1864年7月25日)、萩藩士・田中信祐、みよの三男として、長門国阿武郡萩(現:山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという。 13歳で萩の乱に参加。若いころは村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入る。 陸軍教導団で学んだ後、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。 また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。 日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。 1910年(明治43年)、在郷軍人会を組織した。 1915年(大正4年)、参謀次長。原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務め、この時にマスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。 1918年(大正7年)、田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵に叙され陸軍大将に進級するなど慶事が続いた。その一方で、シベリア出兵での様々な意見の対立や前線のコルチャークら白軍の敗北、さらには尼港事件への対応、主導していた第二次満蒙独立運動など激務に追われていた。さらに追い打ちをかけたのは、西原借款問題などで原内閣が帝国議会で轟々たる非難を浴びたことからくる心労が重なったことである。 1921年(大正10年)、狭心症に倒れ、6月9日に辞任して大磯での静養生活を余儀なくされた。大臣を辞職してしばらくすると原敬暗殺事件が起こったこともあり、回復してからも軍事参議官の閑職に留まるなど大事をとっていた。 1924年(大正13年)の第2次護憲運動の際に立憲政友会は分裂して第1党の地位を失った。総裁であった高橋是清は辞意を表明して後任選びが始まった。だが、最有力候補であった横田千之助は分裂を惹き起こした当事者ということで辞退し、やむなく党外から総裁を迎え入れる話となった。 当初、伊東巳代治と田健治郎の名前が挙がったが、両者ともかつて内紛で政友会を追われた経緯があり、これを辞退した。次に官僚出身ながら国民の人気がある後藤新平を迎えようとしたものの、後藤はかつて関東大震災後に自分が立案した帝都復興計画を政友会の反対で潰された経緯からこれも拒否、唯一就任に応じたのが田中であった。 1925年(大正14年)4月7日、田中は宇垣陸相と会見して現役退役願いを提出(治安警察法第5条により現役軍人は政治結社に加入できないため)。同年4月10日、予備役に編入した。将来は元帥ともいわれた田中であったが政界への転身を図り、高橋是清の後の政友会総裁に就任した。 田中は就任の際、300万円の政治資金を持参金としたことから、陸軍機密費から出たものではないかとする陸軍機密費横領問題が浮上。告発を受けた東京地方裁判所検事局が取り調べを行ったが、1926年(昭和元年)12月27日、証拠不十分で不起訴処分としている。なお、取り調べに携わっていた検事は、捜査途上で変死体となって発見されている。また、在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑もあった。真相は不明であるが、在郷軍人会の育ての親である田中の政友会総裁就任及び対立する憲政会(後に立憲民政党)の軍縮政策が在郷軍人の投票行動に影響したのは間違いなく、高橋前総裁時代に出されていた軍部大臣の文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定されるなど、党の政策が軍備強化・対外強硬路線へと転換する。 折りしも田中の総裁就任直前に、唯一の潜在的競争者であった横田千之助が死去したことにより、田中を阻む人物が党内からいなくなったことも大きかった。田中の政友会招聘を最終的に決めたのは横田であったが、星亨・西園寺公望・原敬らの側近であった横田は板垣退助の自由党以来の自由主義と伊藤博文の立憲主義を併せ持つ政友会本流の継承者であり、第2次護憲運動と大正デモクラシー・軍縮路線の有力な担い手であったからである。1926年(大正15年)1月28日、田中は貴族院勅選議員となった。 さらに、田中の誘いで政友会に入党した人物も、それまでの政友会とは異質な人々であった。鈴木喜三郎は国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長・枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、久原房之助は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。やがて成立した田中内閣では、鈴木が内務大臣、同じく平沼系とされる弁護士の原嘉道が司法大臣に抜擢され、さらに鉄道大臣に小川平吉、外務政務次官に森恪(外相は田中の兼務)、内閣書記官長に鳩山一郎が任じられた。3人とも政友会の古参であるが、小川と森は国粋主義者として知られ、鳩山は鈴木の義弟で協力者であった。 2度の護憲運動や大正デモクラシーで活躍した政友会の古参幹部も閣僚には任じられたが、重要ポストからは外された。当時、青年政客として名を馳せていた肥田琢司に政治活動の協力を求め、第四代朝鮮総督の人選では肥田の推薦により山梨半造を任命した。 鈴木・原によって治安警察法が強化され、森・小川によって軍部と連携して中国への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られた。もっとも、憲政会→民政党がリベラルな人々の支持を集めていく中で、これに代わる支持基盤をより保守的な人々に求めることで新たな支持層を開拓して、その受け皿になろうとした努力の現われとも考えることも可能である。こうした政策と第16回衆議院議員総選挙で鈴木が画策した選挙干渉によって、党勢は回復したものの、政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していくことになる。 田中の没後に起きた統帥権干犯問題における政友会と軍部の連携も、単に立憲民政党への対抗というよりも政友会の変質に伴う「親軍化・右傾化」現象の反映であった。その後も短期の犬養毅総裁を経て、鈴木喜三郎・久原房之助・中島知久平(久原と同じ軍需関連の政商)と、親軍派あるいは国粋主義派な総裁が同党の分裂・解党まで継続されることになる。 1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった(昭和金融恐慌)。 若槻内閣は同年4月17日に総辞職を表明し、代わって立憲政友会総裁の田中が4月20日に組閣した。田中内閣には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となった。 外務大臣:田中義一(兼任)
外務次官:吉田茂 → 後に自由党(政友会正統派の流れを汲む)総裁、内閣総理大臣 内務大臣:鈴木喜三郎 → 後に政友会総裁 大蔵大臣:高橋是清 → 元政友会総裁・内閣総理大臣 陸軍大臣:白川義則 海軍大臣:岡田啓介 → 後に内閣総理大臣 司法大臣:原嘉道 → 後に枢密院議長 文部大臣:三土忠造 → 後に政友会正統派総裁代行委員のひとり 商工大臣:中橋徳五郎 逓信大臣:久原房之助 → 後に政友会正統派総裁 鉄道大臣:小川平吉 法制局長官:前田米蔵 → 後に翼賛政治会筆頭総務 内閣書記官長:鳩山一郎 → 後に自由党(政友会正統派の流れを汲む)総裁、民主党総裁、内閣総理大臣 蔵相に起用された高橋是清は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化した。 田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更した。田中は外務大臣を兼任し、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用して、「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせていた。森は事実上の外相として辣腕を振るい、山東出兵や東方会議の開催、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開されるが、ある程度の協調が望ましいとする田中と、あくまでも積極的な外交をよしとする森は、やがて対立するようになる。そこに事務方の外務次官としてやってきたのが、奉天総領事をつとめ、中国問題に詳しいと自負していた吉田茂であった。 1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙が行われた。田中は主張を全国に知らしめるため、首相ならびに政友会総裁としての抱負をレコードに吹き込み、全国の関係者に配布した。また、同時期、社会主義的な活動が目立ったことから、同年3月に全国の社会主義者、共産主義者を一斉に検挙した(三・一五事件)。この選挙後に、人事のもつれから辞意を表明した閣僚を昭和天皇に慰留させ、天皇を政局に利用したと批判され(水野文相優諚問題)、貴族院は異例の田中首相問責決議を可決した。 同年6月4日に起きた張作霖爆殺事件に際して、帝国の国際的な信用を保つためにも容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。 なお、この直後の6月8日、田中は上野駅で暴漢に短刀で襲撃されるも無事。犯人と張作霖爆殺事件との関連性はなかった。 このことを野党に批判され、立憲民政党の中野正剛は「尼港事件の際に田中が「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞したことは国務大臣として責を負うた適例であったが、済南事件の責任を福田司令官に帰し、満洲事件を村岡司令官に帰したことは厚顔無恥である」とした。この批判に対して田中は「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ」と反論豪語したが、中野は「政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の国軍は何百万人居っても足らないこととなる」とさらに糾弾した。 以上のように田中は軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたが、天皇に対してもその旨を奏上していた。にもかかわらず、事件から一年もかけたのちの1929年(昭和4年)6月27日に田中は最終報告として「関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった」旨を昭和天皇(以下「天皇」)に奏上した。真相追及や厳正な処分に陸軍の反発や日本の恥をさらすとして反対する閣僚がいたためと思われる。この報告に天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問した。なお、田中は自分の行為を「奏聞」「上聞」(天皇に経緯を報告する)と捉えていたようだが、天皇は「上奏」(天皇に処理を進言し裁可を求める)と捉えていたようである。このあと奥に入った天皇は、同年に就任したばかりの鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」との旨を述べた。これを鈴木が田中に伝えたところ、田中は諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職の決意を伝えた。7月2日に内閣総辞職。 通説では天皇が怒ったため、田中は辞職を決意したとされている。なぜ、これほど天皇が怒ったかについて釈然としない印象を持つ者も多く、秦郁彦は、日本軍人の関与の証拠はなく、他の犯人の証拠もないとしながら、河本を適当な理由で行政処分に付するといった、田中の上奏文の訳の分からなさを取り上げて、天皇の怒りを買ったのだろうとしている。その上で、通説が定着したのは、鈴木貫太郎から子息の鈴木一がまた聞きして『天皇さまのサイン』に話を紹介し、それが天皇があの時は自分も若かったからと自ら反省したと、俗っぽく解釈されるようになったからとしている。一方で、秦は、国会での政敵からの追及の他、関係者の厳正な処分の断念に至るまでに田中が陸軍で孤立していったことも紹介している。通説が語るような内閣総辞職の経緯は、例えば『昭和天皇独白録』にも述べられているが、この著述は天皇の開戦責任が問題になりかねない終戦直後の時期に天皇の自己弁護のために纏められた性質を多分に持ち、この事件を「このとき内閣が総辞職したため、以降、天皇は立憲君主制の枠組みに従い、不本意であっても内閣の上奏をそのまま裁可することにした」という結論につなげる理由にしており、しばしば、そのおおもとが、天皇の戦争責任を否定しようとする側の者からの主張である点に注意を要する。 狭心症の既往があった田中に、張作霖爆殺事件で天皇の不興を買ったことはやはり堪えた。退任後の田中は、あまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年(昭和4年)9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。 そして、翌29日午前6時、田中は急性の狭心症により死去した。65歳没。田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れが完全に途絶えた。墓所は多磨霊園。 昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても口を挟まないことを決意した。 政治家としては厳しい評価の田中であるが、性格は気さくだった。 田中が政友会総裁として遊説中、ある人物が田中に語りかけてきた。田中は「おう、ところで、親父さんは元気でやっとるかね」と言い、その人物は「はい、おかげさまで」と返した。その場を離れてしばらくして、田中の側近が「総裁とあの御人はどういう関係なのですか?」と尋ねると「いや、全く知らん奴だよ」と田中は答えた。唖然とする側近に向かって田中は「どんな人間だって父親はいるだろう。その父親の体調を気遣ったまでさ」と笑いながら言ったという。 田中内閣が発足したのち、内閣書記官長の鳩山一郎は、当時流行りはじめたゴルフに夢中になり、閣議を欠席するほどだった。他の閣僚が田中に苦言を呈したが、田中は「そうか、ゴルフちゅうもうんは、そげん面白いもんかのう」と言って、鳩山には何も注意しなかった。 対中国積極外交を主張する奉天総領事時代の吉田茂は、外務次官のポストを得ようとしたが、田中内閣に拒絶され、スウェーデン大使となった。吉田は首相官邸に行き、田中に長時間にわたり次官の自己推薦を行った。その間、田中はひどくつまらなそうに吉田の話を聞いていた。吉田は「これで次官は棒に振ってしまったが、せいせいした」とスウェーデンに発つ準備をしていた数日後、田中から電話があり「ところで吉田君、次官になってもらうよ、まさか異論はないだろうね」といわれ、吉田は次官就任を快諾した。 タレントのタモリは、生誕時には田中を尊敬していた祖父によって「義一」という名をつけられる予定であった。しかし画数の多い「義」が上に来ると頭でっかちな子になるとされ「一義(森田一義)」となったとしている。 田中信祐 - 萩藩士 (婚族)みよ
(婚族)大築壽天(すて) - 陸軍軍人大築尚志の六女(1874-1937)。1893年に結婚。北青山に約1000坪の本邸があり、隣に中島久万吉邸、向かいに川村景明邸があった。
田中政子 - 長女。陸軍中将橋本勝太郎の養女となる。 (婚外)出口ふみ - 群馬県藤岡町の川魚屋「富士川」の娘(1898-?) 。五番町の別宅に住み、一男四女をもうける。
(婚族)小澤太郎 - 三女の婿。台湾総督府官僚、元山口県知事、衆議院議員、参議院議員
小沢克介 - 二男。衆議院議員、弁護士。山口県弁護士会会長、裁判官訴追委員会委員、裁判官弾劾裁判所裁判員 小沢順子 - 長女。名古屋高等裁判所判事・宇野栄一郎の妻 小沢夏子 - 二女。ワイ・デー・ケー会長・坂本典之の妻 小沢明子 - 三女。繊研新聞社・井出重之の妻 小沢由己子 - 四女。松竹・山方浩の妻 1886年(明治19年)11月27日 - 正八位 1892年(明治25年)1月27日 - 従七位 1895年(明治28年)3月14日 - 正七位 1900年(明治33年)4月30日 - 従六位 1904年(明治37年)10月24日 - 正六位 1907年(明治40年)12月27日 - 従五位 1911年(明治44年)2月10日 - 正五位 1915年(大正4年)10月20日 - 従四位 1918年(大正7年)10月10日 - 正四位 1920年(大正9年)10月20日 - 従三位 1924年(大正13年)2月15日 - 正三位 1925年(大正14年)5月15日 - 従二位 1929年(昭和4年)9月29日 - 正二位 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章 1901年(明治34年)11月30日 - 勲五等瑞宝章 1906年(明治35年)4月1日 - 功三級金鵄勲章 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章 1918年(大正7年)9月29日 - 勲一等瑞宝章 1920年(大正9年)9月7日 - 男爵・旭日大綬章・戦捷記章 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章 1929年(昭和4年)9月29日 - 旭日桐花大綬章・帝都復興記念章 1914年(大正3年)9月18日 - ブルガリア王国:神聖アレキサンダル第二等勲章 1918年(大正7年)3月28日 - 支那共和国:二等文虎勲章 1927年(昭和2年)10月5日 - ポーランド共和国:オドロゼニアポルスキー勲章グランクロア 1929年(昭和4年)7月29日 - デンマーク王国:ダンネブロ勲章グランクロア 1929年(昭和4年)9月28日 - イギリス帝国:聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス 『地方ト軍隊トノ関係ニ就テ』本郷聯隊区、1911年9月。全国書誌番号:40064382。 田家秀樹編 編『地方ト軍隊トノ関係ニ就テ』帝国在郷軍人会本部、1911年10月。全国書誌番号:40064383。
『社会的国民教育 一名・青年義勇団』博文館、1915年5月。 NCID BA35940764。全国書誌番号:43009953。 綾部致軒編 編『田中中将講演集』不二書院、1916年3月。 NCID BA90469797。全国書誌番号:43010710。 『壮丁読本』丁未出版社、1916年4月。 NCID BN11978050。全国書誌番号:20098769。 『未入営補充兵のしるべ』新月社、1917年9月。全国書誌番号:42002814。 『欧洲大戦の教訓と青年指導』新月社、1918年5月。全国書誌番号:43009969。 『壮丁のために』帝国在郷軍人会本部〈壮丁読本 第2編〉、1918年5月。 NCID BC02538162。全国書誌番号:43010770。 若月保治編 編『田中中将青年修養談』新月社、1918年7月。全国書誌番号:43026244。 野中正編 編『帝国の使命と青年の覚悟』誠文堂書店、1918年11月。 NCID BA4756105X。全国書誌番号:43010786。 『大処高処より』兵書出版社、1925年2月。全国書誌番号:43048784。 尚友倶楽部史料調査室・伊藤隆編 編『寺内正毅宛田中義一書翰』芙蓉書房出版〈尚友ブックレット 33〉、2018年7月。ISBN 9784829507414。 NCID BB26773228。全国書誌番号:23092799。 海は甦える(1977年、TBS、演:山本麟一) 熱い嵐(1979年、TBS、演:鈴木瑞穂) 経世済民の男 高橋是清(2015年、NHK、演:大友康平) ^ 『田中義一伝記』などはこれを否定するが、古島一雄の回想録によれば、軍人出身の田中がどこから票を集めるのかと問い質したところ、「俺は在郷軍人300万を持っている」と応えたと記していること、また政友会総裁就任に伴う和歌山県での在郷軍人会副会長退任演説で政友会が主張していた両税委譲の必要性を説くなど、遠回しに政友会へ支援を求める発言も行っている。 ^ 当初は前内閣が任じた出淵勝次次官が留任していた。 ^ 田中が死亡したのが別宅であったことから、妾宅で腹上死したのではないかという憶測がある。『田中義一伝記』によるとこの女性は、入籍はしていないが田中を長年支えてきた女性であるという。これとは別に、自殺説がある。松本清張は『昭和史発掘』において、中島亀次郎「田中義一大将の切腹」(『文藝春秋臨時増刊 昭和の三十五大事件』1955年、所収)を引用し、田中の死について、一部で腹上死説、さらには自殺説が流布していることを紹介し、「田中の死が発表どおり狭心症の発作であったか、または自殺だったかは判断のしようがない」としている。 ^ 「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」『昭和天皇独白録』(文藝春秋、1995年(平成7年)) ^ 岩波新書編集部編『日本の近現代史をどう見るか』2010年2月 67頁 (第3章「日清・日露戦争は日本の何を変えたのか」原田敬一) 岩波新書 ^ 「政友会後任総裁問題で退役を願い出る」『中外商業新報』1925年4月8日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp.386-387 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 「いよいよ予備役編入」『大阪毎日新聞』1925年4月10日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.387 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 機密費事件は証拠不十分で不起訴に決定『東京朝日新聞』昭和元年12月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p380-381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 望月和彦「大正デモクラシー期における政界再編」2010年3月(『桃山法学 15』) ^ 総選挙抱負をレコードに吹き込む『大阪毎日新聞』昭和3年2月1日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 上野駅で暴漢に襲われる『東京朝日新聞』昭和3年6月9日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 襲撃犯人は変質者『東京日日新聞』昭和3年6月12日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 中野正剛『國民に訴ふ 中野正剛大演説集』平凡社、1929年4月5日、201頁。 ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う』 上、文藝春秋、1999年12月10日、50-57頁。 ^ 後藤致人『内奏』、109-114 ^ 原田熊雄著『西園寺公と政局 第一巻』岩波書店、1950年。 ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う』 上4、文藝春秋、1999年12月10日、56-57頁。 ^ “『拝謁記』の張作霖爆殺事件における昭和天皇発言と定説との違い(坂東太郎)”. Yahoo!ニュース. Yahoo!. 2023年11月27日閲覧。 ^ 松本清張「「満州某重大事件」」『昭和史発掘』 3巻、文藝春秋〈文春文庫〉、1978年8月25日、80-81頁。 ^ “タモリ、本名の由来に驚きの声「不思議なご縁」”. ザテレビジョン (2018年5月27日). 2021年8月6日閲覧。 ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017/07/25、「田中義一」の章 ^ 「陸軍大将男爵田中義一特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113507600 ^ 『官報』第1034号「叙任」1886年12月9日。 ^ 『官報』第2571号「叙任及辞令」1892年1月28日。 ^ 『官報』第3510号「叙任及辞令」1895年3月15日。 ^ 『官報』第5046号「叙任及辞令」1900年5月1日。 ^ 『官報』第6401号「叙任及辞令」1904年10月29日。 ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。 ^ 『官報』第8290号「叙任及辞令」1911年2月13日。 ^ 『官報』第967号「叙任及辞令」1915年10月21日。 ^ 『官報』第1858号「叙任及辞令」1918年10月11日。 ^ 『官報』第2467号「叙任及辞令」1920年10月21日。 ^ 『官報』第3443号「叙任及辞令」1924年2月18日。 ^ 『官報』第3858号「叙任及辞令」1925年7月3日。 ^ 『官報』第828号「叙任及辞令」1929年10月1日。 ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。 ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。 ^ 中野文庫 旧・金鵄勲章受章者一覧 ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。 ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。 ^ 『官報』第1850号「叙任及辞令」1918年10月2日。 ^ 『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。 ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。 ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。 ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。 ^ 『官報』第644号「叙任及辞令」1914年9月22日。 ^ 『官報』第1695号「叙任及辞令」1918年3月30日。 ^ 『官報』第235号「叙任及辞令」1927年10月8日。 ^ 『官報』第777号「叙任及辞令」1929年8月1日。 “総動員計画設定処務要綱案”. 田中義一内閣 (1929年6月18日). 2018年8月26日閲覧。 “国民精神総動員実施要綱”. 第1次近衛内閣 (1937年8月24日). 2018年8月26日閲覧。 “国民精神総動員強化方策”. 平沼内閣 (1939年2月9日). 2018年8月26日閲覧。 迪宮裕仁(1939年)『国民精神総動員委員会官制 御署名原本(昭和14年勅令第80号)』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ 田中義一伝記刊行会『田中義一伝記』(同会、1957年 - 1960年) 復刻:ゆまに書房(上下)、2006年 雨宮昭一『近代日本の戦争指導』(吉川弘文館、1997年) ISBN 4642036660 纐纈厚『田中義一―総力戦国家の先導者』(芙蓉書房出版、2009年6月) ISBN 978-4829504536 『寺内正毅宛田中義一書翰』(尚友ブックレット・尚友倶楽部史料調査室編、芙蓉書房出版、2018年) 田中上奏文 田中義一内閣 オラガビール(寿屋がかつて発売したビール)
落語家の雷門福助は田中義一が陸軍大臣時代に運転手の助手を務めていた。 蜷川新 国民精神総動員中央連盟
『田中 義一』 - コトバンク 田中義一 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館 田中義一関係文書(所蔵) | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館 歴代内閣ホームページ情報:田中義一 内閣総理大臣(第26代) | 首相官邸ホームページ 「国民に告ぐ」 田中義一首相 - NHK放送史 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 山縣有朋 西郷従道 大山巌 大山巌 高島鞆之助 大山巌 高島鞆之助 桂太郎 児玉源太郎 寺内正毅 石本新六 上原勇作 木越安綱 楠瀬幸彦 岡市之助 大島健一 田中義一 山梨半造 田中義一 宇垣一成 白川義則 宇垣一成 南次郎 荒木貞夫 林銑十郎 川島義之 寺内寿一 中村孝太郎 杉山元 板垣征四郎 畑俊六 東條英機 杉山元 阿南惟幾 東久邇宮稔彦王 下村定 カテゴリ 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 大久保利通 木戸孝允 大久保利通 伊藤博文 大久保利通 伊藤博文 松方正義 山田顕義 山県有朋 山県有朋 西郷従道 品川弥二郎 副島種臣 松方正義 河野敏鎌 井上馨 野村靖 芳川顕正 板垣退助 樺山資紀 芳川顕正 板垣退助 西郷従道 末松謙澄 大隈重信 内海忠勝 児玉源太郎 桂太郎 芳川顕正 清浦奎吾 原敬 平田東助 原敬 大浦兼武 原敬 大隈重信 大浦兼武 大隈重信 一木喜徳郎 後藤新平 水野錬太郎 床次竹二郎 水野錬太郎 後藤新平 水野錬太郎 若槻礼次郎 浜口雄幸 鈴木喜三郎 田中義一 望月圭介 安達謙蔵 中橋徳五郎 犬養毅 鈴木喜三郎 山本達雄 後藤文夫 潮恵之輔 河原田稼吉 馬場鍈一 末次信正 木戸幸一 小原直 児玉秀雄 安井英二 平沼騏一郎 田辺治通 東條英機 湯沢三千男 安藤紀三郎 大達茂雄 安倍源基 山崎巌 堀切善次郎 三土忠造 大村清一 植原悦二郎 片山哲 (臨代) 木村小左衛門 廃止 内事局長官・(内事局官房自治課長・官房職制課長) - 国務大臣地方財政委員会委員長・全国選挙管理委員会委員長・(総理庁官房自治課長) - 国務大臣地方自治庁長官 - 国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣 内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官) 建設院総裁 - 建設大臣 - 国土交通大臣 厚生大臣 - 厚生大臣・労働大臣 - 厚生労働大臣 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官) 文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官) 神社本庁総長(宗教法人化) 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長) 外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官) 内閣総理大臣・(終戦連絡中央事務局長官) - 内閣総理大臣・(連絡調整中央事務局長官) - 外務大臣・(外務省連絡局長) - 外務大臣・(外務省国際協力局長) 表 話 編 歴 高島鞆之助 田中義一 松田源治 原脩次郎 若槻禮次郎 秦豊助 永井柳太郎 岡田啓介 兒玉秀雄 永田秀次郎 結城豊太郎 大谷尊由 宇垣一成 近衛文麿 八田嘉明 小磯國昭 金光庸夫 小磯國昭 松岡洋右 秋田清 豊田貞次郎 東郷茂徳 井野碩哉 廃止 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス
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SNAC IdRef 田中義一 大正時代の閣僚 昭和時代戦前の閣僚 日本の内閣総理大臣 日本の外務大臣 日本の陸軍大臣 日本の内務大臣 拓務大臣 大日本帝国陸軍大将 19世紀の軍人 20世紀の軍人 日本の在郷軍人会の幹部 日本の男爵 日露戦争の人物 シベリア出兵の人物 貴族院勅選議員 大正時代の貴族院議員 昭和時代の貴族院議員 在職中に死去した日本の貴族院議員 日本の初等教育の教員 正二位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 功三級金鵄勲章受章者 大英帝国勲章ナイト・グランド・クロス ダンネブロ勲章受章者 陸軍大学校出身の人物 陸軍士官学校 (日本)出身の人物 長門国の人物 山口県出身の人物 1864年生 1929年没 多磨霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 2024/11/22 01:16更新
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tanaka giichi
田中義一と同じ誕生日7月25日生まれ、同じ山口出身の人
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