谷口千吉の情報(たにぐちせんきち) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
谷口 千吉さんについて調べます
■名前・氏名 |
谷口千吉と関係のある人
平田昭彦: 33号車応答なし(1955年、谷口千吉監督) - 浅沼浩 佐伯秀男: 『黒帯三国志』(『黒帶三国志』) : 製作田中友幸、監督谷口千吉、原作下村明、脚本松浦健郎・山崎巌・谷口千吉、主演三船敏郎、製作・配給東宝、1956年1月29日公開 - 出演・「伊庭八郎」役 新藤兼人: 国定忠治(1960年3月29日公開、谷口千吉監督、東宝) 水木洋子: 1938年12月、都内の乃木神社で当時東宝の助監督だった谷口千吉と挙式するが、翌年10月に協議離婚をした。 梶野悳三: 「鰊漁場」は「ジャコ万と鉄」として1949年に谷口千吉監督、黒澤明、谷口千吉脚色、三船敏郎、月形龍之介主演、1964年にも深作欣二監督、高倉健、丹波哲郎主演で再映画化され、小説も改題された。 国弘威雄: 紅の海(1961年、谷口千吉監督、東宝) 黛敏郎: 潮騒(東宝、谷口千吉監督、1954年) 田村道美: 二人の世界 1940年 監督島津保次郎、原作塚本靖、原作・脚本山形雄策、音楽服部正、製作主任谷口千吉、主演丸山定夫、英百合子、原節子 本多猪四郎: 同期で山本門下の黒澤明や谷口千吉は親友である。 岡本喜八: 復員後に東宝へ復帰し、マキノ雅弘や谷口千吉、成瀬巳喜男、本多猪四郎らに師事して修行を積む。 島津保次郎: 島津の門下には、五所平之助、豊田四郎、吉村公三郎、木下惠介、中村登、佐伯清、谷口千吉らがおり、日本映画に与えた影響の大きさは計り知れない。 山本嘉次郎: 本多猪四郎、谷口千吉、黒澤明、高峰秀子などを育て、三船敏郎を映画界に送り出したことでも知られ、また榎本健一ともっとも息の合った監督でもあった。 新藤兼人: 誰が私を裁くのか(1951年5月18日公開、谷口千吉監督、大映) 三船敏郎: 三船のデビュー作は谷口千吉監督・黒澤明脚本の『銀嶺の果て』(1947年)で、雪山に逃げ込む銀行強盗三人組のひとりという主演級の役を演じた。 佐竹明夫: 早稲田大学理工学部建築科卒業後、三菱電機大船工場に勤務していたが、バスの中で谷口千吉監督にスカウトされ、1951年東宝に入社し、映画『死の断崖』で俳優デビュー。 成瀬巳喜男: 同時期に東宝争議によって東宝撮影所の機能が麻痺したため、成瀬も山本嘉次郎、黒澤、谷口千吉らと共に東宝を離れ、映画芸術協会を設立、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督することになる。 若山セツ子: 1949年、『青い山脈』での丸メガネの女学生・笹井和子役で人気を獲得し、同年に東宝の映画監督であった谷口千吉と結婚。 桜井浩子: 同年『紅の海』(谷口千吉監督作品)で本格的にデビュー。 毒蝮三太夫: 谷口千吉監督『潮騒』など東宝や大映の青春映画に出演するも、東京都立大森高等学校卒業の頃に児童劇団を辞め、日本大学芸術学部映画学科では新劇をやるために影万里江、増山江威子、稲吉靖司、北浜晴子、豊原ミツ子らと「劇団山王」を組織し、石原慎太郎の『処刑の部屋』などを演じた。 竹林進: 大盗賊(1963年10月26日、東宝) - 谷口千吉監督助手 有川貞昌: 1962年(昭和37年)、『紅の空』(谷口千吉監督)で特技監督の円谷を補佐し、特技演出を務める。 平田昭彦: 不良少年(1956年、谷口千吉監督) - 監察医務官・宮下 伊福部昭: この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。 平田昭彦: 黒帶三国志(1956年、谷口千吉監督) - 伊庭俊介 川本喜八郎: 1950年に『暁の脱走』(谷口千吉監督)を最後に東宝を解雇されると、フリーの人形美術家となる。 竹林進: 紅の空(1962年3月21日、東宝) - 谷口千吉監督助手 佐藤允: 劇団のユニット出演で『坊っちゃん』や『思春の泉』に佐藤 充名義で出演した後、映画監督の谷口千吉からプロデューサーの藤本真澄を紹介されて、1956年に東宝へ入社。 門脇三郎: 奇巌城の冒険(1966年 谷口千吉監督) - ペシルの兵 仲代達矢: 谷口千吉監督の映画『裸足の青春』では準主役で起用され、千葉泰樹監督の『大番』、『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・人斬りジョーの演技でも存在感を示す。 久保明: 不良少年(1956年、谷口千吉監督) - 光一 |
谷口千吉の情報まとめ
谷口 千吉(たにぐち せんきち)さんの誕生日は1912年2月19日です。東京出身の映画監督のようです。
人物、主な監督作品などについてまとめました。映画、卒業、結婚、離婚、趣味に関する情報もありますね。95歳で亡くなられているようです。
谷口千吉のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年(明治45年)2月19日 - 2007年(平成19年)10月29日)は、日本の映画監督。妻は女優の八千草薫。東京府寺島村出身。 東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部英文科在学中は、千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて1930年に中退。1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社する。山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務める。同期には、亀井文夫、本多猪四郎がいた。ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友である。 1947年、山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。これは三船敏郎の俳優デビュー作でもあり、山男の谷口が北アルプスでロケをしたことで、『キネマ旬報』ベスト・テン7位を獲得するなど高い評価を受けている。この作品にサード助監督として付いた岡本喜八は、以降多くの谷口作品に助監督として付く事となった。 「芸術の黒澤、娯楽の谷口」と謳われて、東宝ではアクション路線を担当した。谷口本人があまり積極的に映画製作を行わなかった事や、私生活での問題などもあり、1950年代後半には会社から3年近く干された事もあった。1960年代にはB級アクション映画や喜劇映画が回ってくるようになり、監督本数は減少した。1970年の日本万国博公式記録映画の総監督を経て、1975年の『アサンテ サーナ』を最後に監督作品はなく、最後まで表立った活動は見られなかった。 2007年10月29日、誤嚥性肺炎のため死去。95歳没。 人物私生活では結婚を3度している。最初の結婚は脚本家の水木洋子で、1938年12月に乃木神社にて式を挙げたが、翌年の1939年にスピード離婚をしている。1949年には初監督作品の『銀嶺の果て』の撮影現場で知り合った若山セツ子と電撃結婚をしたが、後の1956年に『乱菊物語』の撮影で知り合った八千草薫と不適切な関係になり若山と離婚した。いきなり谷口に捨てられた若山は、女優としての役柄の不満も相まって、精神不安定になり女優生命を縮めることになった。1957年に八千草薫と結婚しているが、この不倫スキャンダルが祟り、谷口自身も映画監督として3年近くメガホンを取らせて貰えず干されてしまった。 大学時代から登山に熱中し、日本山岳会会員でもあった。山歩きを趣味とした八千草ともども夫婦で登山を楽しんでいたという。 谷口が監督に予定されていた日本・インドネシア合作映画『栄光のかげに』が政治上の都合で制作中止となり、それに代わる作品として『ゴジラ』が企画された際に、プロデューサーの田中友幸は再び谷口に監督を打診したが、谷口は「人間ものでないものは撮れない」としてこれを断った。 主な監督作品東宝ショウボート(1946年) 銀嶺の果て(1947年) ジャコ万と鉄(1949年) 暁の脱走(1950年) 魔の黄金(1950年) 愛と憎しみの彼方へ(1951年) 誰が私を裁くのか(1951年) 死の断崖(1951年) 霧笛(1952年) 激流(1952年) 吹けよ春風(1953年) 赤線基地(1953年) 潮騒(1954年) 裸足の青春(1956年) 乱菊物語(1956年) 嵐の中の男(1957年) 国定忠治(1960年) 男対男(1960年) 紅の海(1961年) 紅の空(1962年) やま猫作戦(1962年) 大盗賊(1963年) 独立機関銃隊未だ射撃中(1963年) 馬鹿と鋏(1965年) 国際秘密警察シリーズ
国際秘密警察 絶体絶命(1967年) 奇巌城の冒険(1966年) カモとねぎ(1968年) 公式長編記録映画 日本万国博(1971年) アサンテ サーナ(1975年 自主上映) 2024/06/12 07:01更新
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taniguchi senkichi
谷口千吉と同じ誕生日2月19日生まれ、同じ東京出身の人
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