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豊田泰光の情報 (とよだやすみつ)
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【4月6日】今日誕生日の芸能人・有名人

豊田泰光の情報(とよだやすみつ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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豊田 泰光さんについて調べます

■名前・氏名
豊田 泰光
(読み:とよだ やすみつ)
■職業
野球選手
■豊田泰光の誕生日・生年月日
1935年2月12日 (年齢2016年没)
亥年(いのしし年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
茨城出身

(昭和10年)1935年生まれの人の年齢早見表

豊田泰光と同じ1935年生まれの有名人・芸能人

豊田泰光と同じ2月12日生まれの有名人・芸能人

豊田泰光と同じ出身地茨城県生まれの有名人・芸能人


豊田泰光と関係のある人

仰木彬: しかし1963年に豊田泰光がチームを去ると、代わりにトニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウィルソンが入団し、バーマが二塁手としてレギュラー出場したことから出場機会が減少。


加倉井実: 高校時代のチームメイトであった豊田泰光が西鉄ライオンズですぐにレギュラー・主力打者となり活躍した一方で、加倉井は巨人の豊富な外野陣の壁に阻まれ控えに甘んじた。


皆川睦男: 豊田泰光とは妙にウマが合い、食事をよく共にしたという。


河野昭修: 翌1953年に豊田泰光が入団すると今度は二塁手にコンバートされ、さらに1954年の仰木彬の入団に伴って河野は一塁手へ転向、この年136試合に出場して打率.264でリーグ19位に入るなど、ようやくレギュラーの座を掴んだ。


関口清治: 三原の西鉄監督時代は2番豊田泰光と常に不動のオーダーだった。


中西太: 大下弘・豊田泰光・関口清治・高倉照幸・河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年に球団初のリーグ優勝を飾る。この年は29本塁打・95打点で二冠王に輝くも、打率は豊田泰光と4毛の差で三冠王を逃す。


永江恭平: 西武において、開幕戦で十代の遊撃手が先発出場したのは1954年の豊田泰光以来だった。


吉田正: 男のいる街 (1958年/豊田泰光)


稲尾和久: 大下弘・中西太・豊田泰光らと共に、西鉄ライオンズの3年連続日本一(1956年 - 1958年)を成し遂げるなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。


田部輝男: ^ 豊田泰光『トヨさんの新・長幼の序』情報センター出版局 1986年、p.40


田部輝男: 豊田泰光がこのしぶとさを随分勉強させてもらったと著書で述べている。


稲尾和久: 実際、島原キャンプでは中西太・豊田泰光・高倉照幸ら主力打者相手の打撃投手を務めており、口の悪い豊田からは「手動式練習機」とも呼ばれていた。


田村満: 1番塚本悦郎、2番豊田泰光、3番中西太に3連続四球を与え押し出し1点。


西村健太朗: 『週刊ベースボール』の「2012年度ベストナイン」ではベスト抑えに選ばれた他、豊田泰光から「巨人の試合で山口、西村の8、9回だけは見応えがあった」と絶賛された。


東田正義: 東田は弱体化するライオンズの中で、中西太や豊田泰光を中心とした野武士野球の後継者として期待された。


渋谷誠司: ^ 週刊ベースボール2005年9月5日号=37号、豊田泰光の「オレが許さん!」第592回より。


高倉照幸: 1957年からは1番打者に定着し、豊田泰光・中西太・大下弘・関口清治らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれた。


篠田勇: 1965年には水戸商の先輩でもある豊田泰光が故障で戦線離脱したため、主に遊撃手として85試合に出場(うち43試合に先発)。


有藤通世: 同年10月19日に監督の山内一弘が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが野村克也、土橋正幸、豊田泰光と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、オーナーの重光武雄が「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ、最終的には山本一義が監督に就任した。


奥柿幸雄: サンケイでは一塁手の豊田泰光、小淵泰輔に衰えが見られ、その後継として大きく期待される。


皆川睦雄: 皆川自身は「221勝のほとんどが野村に助けられたもの」と言っているが、豊田泰光は「好リードでその力を引き出したのは野村だったが、野村もまた抜群の制球力を利用した研究によって、随一の配球理論を構築したという面があるだろう」と述べている。


土橋正幸: スライダーもよかった(豊田泰光


杉本公孝: 1963年は豊田泰光の移籍によって定位置を奪われ、15試合の出場に留まったが、1964年には土屋正孝に代り二塁手のレギュラーとして復活。


鐘ヶ江管一: 国光屋は西鉄ライオンズ、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)の島原キャンプの定宿としても使用されており、仰木彬、稲尾和久、豊田泰光とは晩年まで交流があり、中西太など当時のライオンズの選手との親交は現在に至って続いている。


高嶋秀武: この前日『オールナイトニッポン』生放送終了後に糸居五郎と一緒に信越放送のイベントに出掛け、その日の夜は朝まで飲んで、実況担当当日は試合前に王貞治の特打ちを多摩川グラウンドで見学するというあまり寝てない状態だった上、放送前に食事までしたために結局放送中に眠気が来てしまい、当日の解説を務めていた豊田泰光に心配されたほどだった。


柚木進: 大きなカーブを新興の西鉄が特別苦手にしていたが、若手の中西太や豊田泰光に打ち込まれるようになると南海と西鉄の立場が逆転した。


別所毅彦: 当時、選手兼任コーチで、後年にはフジテレビ・文化放送野球解説者として再び一緒に仕事をした豊田泰光は「やる気がある方だったんですが、選手の扱い方が拙劣。


中西太: 三塁の守備では柔らかなグラブ捌きを見せ、また目の前にフェンスが迫っていても怪我を恐れずに打球を追ったことから、遊撃手を務めていた豊田泰光とともに「金網デスマッチ」と言われていた。


義原武敏: 6回には豊田泰光に本塁打を打たれこの回で降板。


石井藤吉郎: 水戸商業の後輩である豊田泰光は父親のように石井を慕った。


豊田泰光の情報まとめ

もしもしロボ

豊田 泰光(とよだ やすみつ)さんの誕生日は1935年2月12日です。茨城出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

引退、テレビ、父親、病気、現在、兄弟、退社、事故に関する情報もありますね。2016年に亡くなられているようです。

豊田泰光のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - 2016年8月14日)は、茨城県久慈郡大子町出身のプロ野球選手・野球解説者。

現役時代は豪快な打撃で、西鉄ライオンズ(以下、西鉄)黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送、フジテレビ、文化放送、テレビ東京、テレビ大阪、スポーツニッポンなどの野球解説者をつとめた。2006年に野球殿堂入り。

3歳の時に日立市へ転居し、父は建設業を営んでいたが、国民学校(小学校)2年生の時に太平洋戦争に伴うアメリカ軍の空襲が起こったため 母の実家があり自分も生まれた大子町へ疎開し、5年生の時に戦争が終結した後も同地へ留まった。この終戦直後、国民学校(小学校)の教師が持ってきたソフトボールの道具 で野球をやったことが、豊田が野球を本格的に始めるきっかけとなった。

茨城県立水戸商業高等学校に進み、同校3年生だった1952年の夏の甲子園に出場。開会式の選手宣誓を務める。高野連から渡された文章を暗記するだけであったが、校長(岡田実)に宿舎から近い海辺に連れて行かれ、沖に向かって宣誓の練習を何十回もさせられたという。大会では、1回戦で都留高の矢頭高雄-西村一孔の強力バッテリーを打ち崩して5-0と勝利。2回戦(ベスト16)の成田高戦では、エース・穴澤健一から3本の長短打を放つが3-6で敗退した。高校同期に一塁手の加倉井実がいる。

高校No.1遊撃手の評価を受け、立教大学や早稲田大学、また複数のプロ球団からの誘いを受けた。水戸商業の先輩である砂押邦信が監督を務めていた立教大学野球部の夏練習に参加したほか、本人は神宮球場の早慶戦に憧れていたともされる。しかし、父親病気になったため大学進学はあきらめプロ入りに方向転換。西鉄のスカウト宇高勲から積極的な勧誘を受け、同球団への入団を決めた。

1953年、高卒1年目ながら遊撃手のレギュラーとなり、開幕戦となる3月21日のダブルヘッダーで初出場。翌22日には9番打者・遊撃手で初先発出場。高卒1年目ながら遊撃手のレギュラーに定着する。三原脩監督の卓抜した選手起用により、その後は投手の前を打つ8番打者を務め、4月の下旬以降は主に7番打者を打った。調子次第では6番打者を任され、9月の前半には5番打者としても出場した。9月15日以降は2番打者に定着し、強打の2番として活躍。最終的に115試合の出場で規定打席(12位、打率.281)に達し、27本塁打(同僚の中西太・36本塁打に次ぐリーグ2位)、25盗塁を記録した。同年は新人王を獲得し、この年に記録した27本塁打は当時の新人選手の最多記録となった。

プロ2年目の1954年には初のパ・リーグ優勝を成し遂げる。同年の中日ドラゴンズとの日本シリーズでは第6戦で勝ち越し2塁打を放つが、中日のエース杉下茂らに通算24打数4安打と抑えられ日本一はならなかった。

1956年には自ら首位打者となる活躍でチームをリーグ2度目の優勝に導く。この時の打率はチームメイトの中西太とは僅差(5毛差)であった。最終戦を前に中西は本塁打・打点の2冠をほぼ手中にしており、結果次第では戦後初の三冠王が誕生する可能性があったが、チームメイト同士がタイトルを争って雰囲気を悪くすることを懸念した三原監督が最終戦で両者を休ませ、豊田の首位打者が決まった。同年は初のベストナインにも選出された。続いて出場した読売ジャイアンツとの日本シリーズでも第3戦で別所毅彦から逆転につながる2点本塁打を放つなど、24打数11安打と活躍。チームは初の日本一となり、豊田はシリーズMVP、首位打者賞を獲得した。

その後も流線型打線と呼ばれた西鉄の強力な野手の一人として活躍を続け、読売ジャイアンツとの日本シリーズ3連覇に貢献。1957年の日本シリーズでは第1戦で義原武敏から勝ち越し本塁打、最終第5戦で3安打と活躍しシリーズ優秀選手賞を獲得した。1958年日本シリーズでも4本塁打、最終第7戦では4安打と24打数12安打7打点、2度目の首位打者賞に輝き日本一に大きく寄与した。

1959年のシーズン後は三原の退団や大下弘の引退が起こり、中西太が深刻な負傷で試合出場機会が激減。西鉄は優勝から遠ざかったが、同年の豊田は葛城隆雄に次ぐリーグ2位の81打点を記録、18敬遠は当時のパ・リーグ記録となった。その後も安定した成績を残しリーグを代表する遊撃手となった。

1962年には選手兼任で中西新監督を補佐する助監督を務めたがわずか1年で辞任し、同年のオフに国鉄スワローズ(1965年5月10日からサンケイスワローズ、1966年からサンケイアトムズ、1969年からアトムズ)へトレードされた。豊田は10年選手による移籍自由の権利を保有していたが、国鉄への移籍は権利行使による移籍ではなく金銭トレードである。

西鉄を退団した原因は川崎徳次監督の後任として就任した中西との対立だった。前年の1961年オフに成績不振の責任を取る形で川崎が監督を辞任すると、西鉄は「監督:中西・助監督:豊田・投手コーチ:稲尾」という青年内閣を組閣した(中西・豊田・稲尾とも当時20歳代で選手兼任)。しかし中西が三原元監督の娘婿であるということから誰もが中西の采配について文句を言わない中で、豊田だけが助監督の立場でいろいろと口を出したため、結果的にこれが中西との対立に発展した。ただ、本人は出演したテレビ番組の中で、移籍の理由は中西との対立ではなく、現役で脂に乗っている時期に助監督に任命されたことに対して「場当たり的な人事だ」とフロントに不満を持っていたと述べている。その後中西とは関係を修復し、晩年には「太さん」「トヨ」と呼びかける、普通の先輩後輩の関係に戻っていた。

国鉄入りした原因として、当時国鉄のコーチに水戸商の先輩である砂押邦信がいたことが挙げられる。豊田は水戸商時代、当時の立教大学野球部監督の砂押と入学の約束を交わしていたが、それを反故ほごにしてプロ入りしてしまった。そのため、砂押から「最初立教大学に入ると約束したのにプロ入りしたではないか。二度もワシの顔を潰すのか!!」と一喝された。これが原因で砂押には頭が上がらなくなってしまい、国鉄入団となった。また、西鉄の西亦次郎球団社長は、豊田の放出を当初否定したものの、この頃国鉄球団の経営に関与するようになった産経新聞社の水野成夫社長と九州政界の大立者が介入して成立したとも言われている。

協議の中で豊田と金田正一か村田元一のいずれかとの交換トレードも提案されたが、最終的に4500万円のトレードマネーで決着した。この経緯については、資料により国鉄側が交換を提案し、西鉄側があくまで金銭を要求したとするものと、西鉄側が豊田に見合う選手として金田か村田のいずれかとの交換を希望して、国鉄側がこの2人の放出は無理だと断った結果、金銭で解決したとするものとがある。西鉄はこのトレードで得た資金でウイルソン・ロイ・バーマの3外国人選手(いずれも野手)を獲得。1963年の優勝にはこの3人が大きく貢献することになる。

国鉄移籍決定後、豊田は、当時の球団フロントから「福岡はお前の放出が原因でファンが騒動を起こしているから、来るな」と言われ福岡では豊田不在のまま移籍会見が行われたため、豊田に対して「今まで応援してきたのに最後に姿を見せないとはどういうことだ」とファンから批判が起こった。

国鉄への移籍後も1963年に打率.292(リーグ9位)、20本塁打を記録するなど、2年間は中心打者として好成績を残す。しかし3年目から肘の故障が悪化し、2年にわたり治療を続けるものの完治には至らず、常時出場が困難になる。1967年には一定の回復が見られ106試合に出場するが、打率、長打力とも全盛期には及ばなかった。また脚力の衰えもあり、主に一塁手、あるいは代打として起用された。

1968年からは打撃コーチを兼任。同年には2試合連続で代打サヨナラ本塁打を達成し(この記録は豊田と若松勉しか達成していない)、相手投手は2試合とも中日ドラゴンズの山中巽だった。同じ投手からというのはプロ野球史上豊田のみの珍記録である。

1969年シーズン終了後、17年間の現役生活を終えて引退した。

引退後はニッポン放送解説者・サンケイスポーツ評論家(1970年 - 1971年)を経て、1972年には1年間だけ近鉄バファローズ一軍打撃コーチを務め、若手時代の梨田昌孝・羽田耕一の成長に一役買った。キャンプでは夜遅くまで大広間でスイングをさせるなど熱心な指導で、打撃ケージの後ろでは激しい口調となり、伊勢孝夫は一死三塁で凡退した時に「外野フライも打てないのか!」と言われたこともあった。

近鉄退団後の1973年以降は評論活動に戻り、以後40年以上にわたって野球評論を続けた。

1973年はサンスポ、1981年から1985年までは東京中日スポーツ、1986年以降はスポーツニッポンで評論活動を行った。 

1978年には梶原一騎やユセフ・トルコらが設立を企てた、大相撲の高見山と千代の富士をエースとして、フジテレビの放映による新団体「大日本プロレス」(のちにグレート小鹿が設立した同名団体とは無関係)の社長への就任が内定していたが、同団体の設立は結局実現しなかった。

1981年オフには山内一弘の後任監督としてロッテオリオンズから監督就任要請を受けたが、固辞した。

『週刊ベースボール』にはコラム「豊田泰光のオレが許さん!」を1993年から2013年に終了するまでに通算1001回にわたって連載、日本経済新聞ではスポーツ欄にコラム「チェンジアップ」を1998年から2013年まで続けていた。

1994年に発足した日本プロ野球OBクラブには当初から参加(2000年までは副会長・技術委員長も任務)しており、1997年茨城県稲敷郡桜川村(現:稲敷市)でホームグラウンド(桜川村総合運動公園野球場〈現:稲敷市桜川総合運動公園野球場〉 - 茨城ゴールデンゴールズのホームグラウンドでもある)が完成した際のイベントにも登場していたが、運営方針をめぐって大沢啓二ら他の役員と意見が対立し、その後は批判的な立場をとった。

2016年8月14日、誤嚥ごえん性肺炎のため死去。81歳没。8月16日の『プロ野球ニュース』(フジテレビONE)と翌8月17日の『SET UP!!』(文化放送)では豊田の追悼コーナーが放送された。

この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
    出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2017年8月)

    独自研究が含まれているおそれがあります。(2011年7月)

    日本人史上初の遊撃手での首位打者を獲得するなど、遊撃手として屈指の打撃力を誇った打撃型ショートであった。豊田以外の日本人遊撃手の首位打者はプロ野球歴代で西岡剛(2010年)と坂本勇人(2016年)のみである。攻撃力の傑出度を測るRCWINは遊撃手史上最高の数値を記録しており、25歳5か月での1000本安打達成は榎本喜八、土井正博に次ぐ歴代3位タイのスピード記録である。

    豊田がプロ入りした1950年代当時の野球では、遊撃手は打撃力は二の次で守備力が最優先、2番打者はバントか進塁打で走者を進めることが重要、という評価が常識として通用していた。その点で、年間で45失策を記録したが三原に起用され続け、新人王を獲得した豊田のプレースタイルは当時としては異質であった。ただし豊田の盗塁数は多く、「俊足」という点では他の2番打者との共通性を持っていた。

    制約の多い2番打者での起用が多い選手での通算約1600安打は、当時では非常に高い数字だった。西鉄の全盛期にクリーンナップを打っていれば、通算1800安打から1900安打は確実に打っていただろうとするチームメイトの証言がある。

    内野フライを打ち上げた時に、走塁の途中で「俺が捕る」と言い、守備側の選手を混乱させてエラーを誘った。そのエラーをした選手が引退後に審判になり、豊田は「以前に自分がした事を恨んでいて、追い込まれてからきわどいコースをストライクとして取られたらたまらない」と思い、その審判が豊田が出場する試合で球審を務める場合は早めのカウントで打つようにしていたという。

    6(遊撃手) - 4(二塁手) - 3(一塁手)のダブルプレーはプロ野球でもよく見られるが、西鉄の場合(遊撃手:豊田、二塁手:仰木彬、一塁手:河野昭修→中西太)は普段と異なる点がひとつあった。通常このプレーにおいて、遊撃手は二塁手が一塁へ送球しやすいように、二塁手の体の右側へと送球するのがセオリーとなっているが、仰木が「右側に投げられると一塁へ送球しにくい」といったため、豊田は仰木と二遊間を守る時は仰木の体の左側へ送球していた。ただし滝内弥瑞生など、仰木以外の選手が二塁を守る時は二塁手の体の右側に送球していたが、仰木とのコンビが9年間続いたせいで豊田の中には「6 - 4 - 3のダブルプレーの際には二塁手の体の左側に送球する」のが癖になってしまい、国鉄移籍後に遊撃手として出場した際に悪送球を犯している。

    3連敗のあと1勝を返して迎えた1958年の日本シリーズ第5戦、2-3とリードされた9回裏、先頭の小淵泰輔が二塁打で出塁。3番の豊田に打順が回り、強打か送りバントかの判断を迫られたが、ベンチの三原を見ても「お前に任せる」と言わんばかりの知らん顔だった。結局豊田は自分の判断で送りバントをしたが、西鉄のナインはこのシリーズ最も当たっていた豊田が送るとは思わず、ベンチに帰ったら「なぜ打たなかった」と袋叩きに遭ったという。一死三塁となったが、期待のかかった4番の中西がサードゴロに倒れ、二死となって5番の関口清治の場面では、豊田は「どんな神様でもいいです。お願いですから関口さんに打たせてください」と祈っていたという。関口は中前にはじき返し、土壇場で同点に追いついた西鉄は息を吹き返し、この試合稲尾和久の本塁打でサヨナラ勝ち、結局3連敗4連勝でシリーズも制覇した。尚、関口はその同点タイムリーを放つ打席を迎えるまで、この年のシリーズ打撃成績は15打数1安打と不調に見舞われていた。

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索: "豊田泰光" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2017年8月)
    1956年の日本シリーズ制覇稲尾和久、三原脩とともに祝杯を挙げる
    西鉄黄金時代の代名詞として知られるNLマークを、三原と共同で考案したことで知られる。それまでの西鉄の帽子は黒地に白のNマークだったが、これが選手の間で評判が悪かった。そこで三原は水戸商高出身で商業デザインに興味を持っていた豊田を自分の部屋に呼び出し(特に試合に負けた日の夜)、2人でNとLの形に切り抜いた紙を並べたり重ねたりして検討した結果、ニューヨーク・ヤンキースのNYマークを想起させるNLマークが完成したという。1954年の日本シリーズから西鉄の帽子が紺地に白のNLマーク(翌年から地色が黒)に変更されたが、この年に初優勝、さらに1956年からは3年連続日本一に輝いたこともあって、NLマークは川崎徳次監督時代の2年間(1960年・1961年)を除き、親会社西日本鉄道が球団を売却する1972年まで使用された(ただし1966年からはユニフォームにオレンジが加わったこともあって、NLマークもオレンジに変更された)。豊田が監修した2008年の「ライオンズ・クラシック」では、1954年から1959年に使用された西鉄のユニフォームが復刻・使用された。帽子も黒地に白のNLマークの物がそのまま使われ、一般ファンにも販売された。
      黒地に白のNLマークの帽子は、西鉄のマネジャー・常務を務めた藤本哲男が1979年に福岡市中央区に開業した野球用品店「ライオンズベースボールショップ」で現在も購入可能である。

      1958年のオフ、1月には歌謡曲「男のいる街」を発売し、その年上半期のビクターの歌謡曲(流行歌)レコード売上で10位に入り、7万枚を売り上げるヒットとなった。同曲は豊田の公式ホームページで試聴可能となっていて、豊田は「(日本の)スポーツ選手のレコーディング第1号」と述べている。作曲は日立市出身の吉田正で、その後も豊田とは親交を持っていた。吉田の没後の2004年に同市で吉田正音楽記念館が開設された際、吉田の遺品の寄贈式で豊田は体調不良の吉田の妻に代わって出席している。

      通算1000三振記録者を対象とする「千振会」(せんしんかい)の結成を提唱したが、他の対象者の賛同を得られず実現しなかった。

      晩年には、社会貢献として、木製バットの原材料であるアオダモの植樹活動を精力的に行っていた。2008年には茨城県に500万円の寄付を行い、県内の運動公園や文化施設などへ自動体外式除細動器(AED)約20台を設置するための資金に充てられることになった。

      稲尾和久が西鉄入団後に初めて球団寮を訪れた際、稲尾が中央球界では無名の存在だったこともあり、当時の寮長で3学年年上だった豊田は「西鉄に入る? 運転手になるなら本社(親会社の西日本鉄道)へ行け」と稲尾に対して冷たく対応したという。しかしその後は稲尾の人柄や野球に対する姿勢に感銘を受けた。2007年には稲尾の訃報に対して「ショックです。親、兄弟と同じ存在だった」「西鉄というのは稲尾ライオンズ。ライオンズをつくったのは稲尾。わたしの心の中で西鉄ライオンズはきょうで終わりです」とコメントした。その後2012年に稲尾の背番号が再び永久欠番になった際のセレモニーの開会挨拶では、「まるでここに稲尾がいるようで…」と人目も憚らず号泣した。豊田は「稲尾の話だけには弱い」と語っている。

      1990年代初めはテレビ東京のスポーツ番組『スポーツTODAY』(月曜日のコーナー「月曜スポーツ討論会」)にて青田昇、有本義明、ダンカンらとともにプロ野球に関して侃々諤々の議論をしていた。月曜スポーツ討論会の最終回(このとき豊田がフジテレビ解説に復帰することが報告される)でダンカンより本をプレゼントされるが、その本は確執があったとされる別所毅彦著作の『剛球唸る!―栄光と熱投の球譜』であったため、やや引きつった笑みで、「(本を)ありがとう」と言っていた。

      西鉄時代の監督だった三原を“恩師”として晩年に至るまで尊敬しており、自身の連載コラムや著書で「三原さんをプロ野球のコミッショナーにすべきだった」と時折語っていた。また、引退後の身の振り方について、西鉄時代に三原から「合宿先でも空いてる時間は漫画や雑誌ではなく、本を読め」とずっと言われて来て、豊田自身もその忠告を素直に受け入れたから今の評論家活動があると連載コラムや自筆の著書でもたびたび語っていた。

      豊田はプロ野球関係者の葬儀に基本的に参列しなかった。その理由について「グラウンドで戦った先輩や友人、仲間たちの葬式に行ったら、悲しくなってしまってね、涙が止まらなくなって堪らないからです。そういうのが嫌だから、自分は葬式に行かないで自分なりに(故人に)お別れするようにしているんです」と、『週刊ベースボール』のコラムに書いていた。ただし、親交の深い野球ジャーナリストの田村大五の葬儀には参加し弔辞も読んだ。

      野球評論家としては、球界のさまざまな問題点に切り込んだ辛口な批評を行っていた。

      1998年のヤクルト対巨人のテレビ中継でヤクルト監督の野村克也の野球の素晴らしさを引き合いに出し長嶋茂雄の監督能力や選手起用を批判した。テレビの公共電波で長嶋批判を行った人物は過去にも水原茂らがいるが、テレビ局には抗議の電話が殺到し、「長嶋信者」として知られる徳光和夫の怒りにも触れた。

      その一方で豊田は野村のこともねじめ正一との対談の中で「挨拶をしたくもされたくもないほど嫌い」と語っていた。ただ、晩年には野村への感情も軟化したようで、『週刊ベースボール』の連載コラム(「豊田泰光のオレが許さん!」)最終回一回前での連載回顧では「90年代はノムさん(野村克也氏)のヤクルトが全盛時代を迎えるのですが、なぜかノムさんへの言及が少なかったような気がします。オレの筆は、古巣ライオンズへの苦言という方向に走りがちでした。もっとノムさんのどこがすごいのかを書くべきだったかもしれません」「この人とは1935年生まれの同い年。2人で話していると、話が止まらなくなる。(中略)この人、あれだけの実績を持ちながら『この前のアレはどういうことだったのかね。オレには分からん。教えてくれんかね』とよく他人に聞くのです。聞く耳を持つ人が一番エライのですよ、この世界。これはできないことですよ、ホント」と、野村の野球に対する飽くなき探求心とその姿勢に敬意を表している。

      野村は豊田の死去に際して「プロ入りした当時、レギュラーで遠い存在だった」「勝負強さは抜群で、痛いところでよく打たれた。同世代がまた一人逝ってしまった。寂しい限りだ 」とコメントした。

      川相昌弘が2003年に原辰徳から来季のコーチ就任を任命されながら、その後、原が今季限りで辞任し、球団から来季以降の契約の話が来なくて、川相がしびれを切らし引退を撤回して自由契約にしてもらった件で、比較的川相に同情的な声が多い中、「この世界は監督が交代したら、前監督との約束が反故になるのは当たり前」「新しい監督が決まれば、フロントと話し合いをしてチームの方向性を決めてるなどして時間がかかるから、すぐにコーチをやってくれとはならない」「契約を理解していない川相は子供」と述べた。

      文化放送ライオンズナイターには1982年の開始当初からレギュラー解説者として出演し、当時は異例だった「一方的身びいき放送」の解説者として西武ライオンズ(当時)を応援した。しかし、西武球団が長年にわたって自らを1978年末の設立(球団買収)による新球団と見なし、前身の福岡時代の記録を無視し、当時の在籍選手を球団OBとして認めなかったことには不満を持ち、元選手には行き場がないとしてその対応を批判していた。買収から30年が経過した2008年に、埼玉西武ライオンズが西鉄ライオンズの復刻版ユニフォームを着けて公式戦を行い、日本シリーズ3連覇や稲尾の活躍を含めた福岡時代の歴史を各種企画で紹介する「ライオンズ・クラシック」の実施が決まると、豊田はエグゼクティブ・アドバイザーに就任して監修に務め、その初戦となった同年6月28日の対千葉ロッテマリーンズ戦では西鉄時代のユニフォーム姿で始球式のマウンドを務めた。試合後は「この風景を(前年亡くなった)稲尾に見せたかった」と語り、「ライオンズ・クラシック」企画が終了した際にも「こんなにうれしい日々はなかった。これから西武を応援していきます」と感極まった様子で場内の観客にあいさつした。

      2010年に高校の後輩である大久保博元が不祥事でシーズン中に西武の打撃コーチを解任された際は球界から去って世間の荒波にもまれるべきだと述べている。

      2012年のライオンズ・クラシックで、全選手が稲尾の永久欠番『24』をつけてプレーした試合の開始前に、背広姿で挨拶に立った。

      豊田は、引退の翌年(1970年)以降、2000年までフジテレビの専属解説者としてプロ野球中継や『プロ野球ニュース』(1976年開始)で活躍していた(ただし、近鉄コーチとして現場復帰した1972年の他、1987年 - 1992年にかけて専属を離れた時期もあった)。

      これはフジテレビがプロ野球ニュースなどの野球番組で、1990年代前後から野球に詳しくない女性アナウンサーやタレントを起用するようになるなど、野球ニュースとしての低質化が起こったことが要因であったが、これらを差し置いても一番の絶縁の理由は、2001年のプロ野球ニュースの地上波での放送終了であった。終了後はCS放送に移動して同番組は継続されたが、豊田自身は「プロ野球ニュースだけは(地上波で)絶対に終わらせてはいけない」と声を大にして叫んでおり、『週刊ベースボール』の自身のコラムでもこのことについて何度も発言していた(フジテレビ公式サイト内のコラムでも地上波での再開を主張していた)。

      活発なコラム執筆を続ける中で、豊田の活動はプロ野球以外の領域にも広がる場合があった。フジテレビの公式サイトで続けてきたコラムの最終回は川淵三郎・日本サッカー協会キャプテン(会長、当時)との対談の話題であり、神風特別攻撃隊の一員として第二次世界大戦(太平洋戦争)で戦死した石丸進一について語りながら自身の戦争体験を振り返ったコラムをスポーツニッポンの九州版で執筆したこともある。

      文化放送ライオンズナイターの近鉄対西武戦の中継(藤井寺球場)で、一度だけ試合の実況をしたことがある。

      体罰についても、一貫して否定派であり、野球界のみならず他競技の体罰に対しても厳しく批判していた。

      各年度の太字はリーグ最高

      国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)、1969年にアトムズに球団名を変更

      首位打者:1回 (1956年)

      最多出塁数:2回(1959年、1961年)

      新人王 (1953年)

      ベストナイン:6回 (1956年、1957年、1959年 - 1962年)

      日本シリーズMVP:1回 (1956年)

      日本シリーズ首位打者賞:2回 (1956年、1958年)

      日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1957年)

      野球殿堂特別表彰(2006年)

      茨城県民栄誉賞(2006年)

      1000試合出場:1960年8月7日 ※史上54人目

      2試合連続サヨナラ本塁打 (1968年8月24日 - 8月25日)

      3年連続最多四球 ※福本豊、落合博満、柳田悠岐と並ぶパ・リーグ最長タイ

      オールスターゲーム出場:9回 (1955年 - 1960年、1962年 - 1964年)

      7 (1953年 - 1969年)

      70 (1972年)

      豊田泰光の赤えんぴつ

      野球評論家転身当初に担当した、サンケイスポーツの連載コラム。

      チェンジアップ

      日本経済新聞の連載コラム。

      豊田泰光のオレが許さん!

      『週刊ベースボール』で1994年から2013年まで連載していたコラム。

      文化放送ホームランナイター

      1979年 - 2011年頃まで出演。
      ※豊田によると規制なく自由にめったぎれるから出演できるとのこと。

      文化放送ライオンズナイター

      以前はレギュラー解説を務めており、戸谷真人アナウンサーとのコンビで知られた(2006年は久々に一度だけ出演、2009年6月17日の巨人戦、同年8月26日の楽天戦にも出演)。
      前述の「ホームランナイター」も含めて出演がなくなった2012年以降は、ライオンズOBの立場でインタビュー企画等に出演するのみにとどまっている。

      ニッポン放送ショウアップナイター

      1970年 - 1971年、1973年 - 1976年まで出演。

      野球道

      ※フジテレビ系列のプロ野球中継の現行タイトル(2016年現在)。
      1970年 - 1971年、1973年 - 1986年、1993年途中 - 2002年頃に出演(専属契約は2000年度まで。その後は本数契約という形で、地上波副音声・CS放送にて出演)。

      プロ野球ニュース

      地上波時代のレギュラー解説者(上記中継と同じく、一時期専属から離れていたため、出演していなかった)。CS時代の初期(2001年 - 2002年頃)にも時折出演していた。

      激生!スポーツTODAY

      1987年 - 1992年に野球解説者として出演。

      ALWAYS Baseball

      1987年 - 1992年に野球解説者として出演。

      ナマ虎スタジアム

      テレビ大阪のプロ野球中継の現行タイトル(2017年現在)。
      1987年 - 1992年に出演。

      ベーヤンとトヨさんのプロ野球いいたい放題

      1980年頃、文化放送ホームランナイターの前座番組として放送していた10分番組。別所毅彦と共演。

      トヨさんのサンデーラジオI( - アイ)

      2000年10月 - 2001年3月、日曜17:50 - 20:00に放送。19:00以降は一部のNRN系列局にネットされた。

      豊田泰光 ウルトラサンデー

      2001年10月 - 2002年3月、日曜17:50 - 20:00に放送。前年度同様、19:00以降は一部のNRN系列局にネットされた。

      豊田泰光 スーパーウルトラサンデー

      2002年10月 - 2003年3月、日曜17:40 - 19:00に放送。この年から19時台のNRN系列枠が『ラジオふるさと便』となったため、全編関東ローカルとなった。

      豊田泰光 サンデースポーツファミリー

      2003年10月 - 2004年3月、日曜18:00 - 19:00に放送。前半30分はラジオ大阪にネットされた。
      2004年ナイターオフシーズンの番組は、『サンデースポーツパラダイス・エキウリ!』となったため、上記番組を最後に、豊田がパーソナリティを務める同系統の番組は放送されていない。2015年現在この後継に当たるのは『岩本勉のまいどスポーツ』である。

      協和醗酵工業 焼酎・大五郎(現在はニッカウヰスキーが製造し、アサヒビールから発売)

      テレビCM。1980年代後半頃から1997年頃まで出演。その後1998年から今井雅之が主演した。その間、1991年から、とみたいちろう歌唱のCMソング「俺とおまえと大五郎」(作詞:伊藤アキラ・作曲:鈴木キサブロー)が使用されるようになった。

      『豊田泰光のチェンジアップ人生論』(日本経済新聞社:2006年4月、ISBN 4532165407)

      『オレが許さん!波瀾万丈交友録』(ベースボール・マガジン社:2006年8月、ISBN 4583039166)

      『プロ野球を殺すのはだれだ』(ベースボール・マガジン社:2009年3月、ISBN 978-4583101620)

      『「まぐれ」と「極意」 勝負に勝つ上達のセオリー』(日経BP出版センター:2009年10月、ISBN 978-4822265472)

      『豊田泰光 108の遺言』(ベースボール・マガジン社:2013年10月、ISBN 978-4583106359)

      ^ 日立市は1945年の終戦前に日立空襲と呼ばれる空襲と艦砲射撃を受け、大きな被害を出した。

      ^ 同記録は1959年にセ・リーグで読売ジャイアンツの長嶋茂雄が29本を打って更新されたが、高卒新人の記録としては1986年に清原和博が31本塁打を打つまで最多だった。現在でも豊田の記録は清原・桑田武(同数の31本)・長嶋に次ぐ新人歴代4位、高卒新人では歴代2位。また、この年に残した25盗塁は現在でも高卒新人の歴代最多記録である。

      ^ この試合では三原は球場に来なかったため、代理で監督を務めた川崎徳次が三原の意向を受けて両者を休ませている。

      ^ 中西の記録を4年ぶりに更新。1962年に張本勲が並び、その翌年に張本が抜いた

      ^ 『ヤクルトスワローズ球団史』にも「右翼某大物が介入」との記述があった。

      ^ 坂本勇人、イチローも25歳5か月で達成しているが、日数計算した場合は坂本は25歳157日、豊田は25歳168日、イチローは25歳180日で、豊田は歴代4位となる。

      ^ 当時の遊撃手としては他球団の選手の数字(平井三郎〈巨人〉55失策、白石勝巳〈広島〉45失策、吉田義男〈阪神〉38失策など)と比べて特別多かったわけではない。

      ^ 1988年4月に『プロ野球ニュース』の司会が一新され、同番組のスタート以来司会を続けていた佐々木信也が外される一方、土曜と日曜は野球に関する知識不足を自認していたフジテレビ入社2年目の中井美穂アナウンサーが司会を担当していた。

      ^ 地上波版の放送終了の原因は、1990年代以降プロ野球以外のスポーツ(メジャーリーグ、サッカー、総合格闘技等)を特集することが多くなり、タイトルと内容の乖離が目立ってきたこと、最末期に担当していた女性キャスター3名(大橋マキ、宇田麻衣子、荒瀬詩織)が同時にフジテレビ退社することが決定、番組リニューアルを迫られる事態になったことが挙げられる。特に前者はそのタイトルゆえ、野球以外のスポーツ選手によってはインタビューが拒否されるという弊害も起こっていた。

      ^ 1978年まで出演していた荒川博の後任として、1979年4月15日の横浜大洋対巨人戦から出演。

      ^ 1993年9月3日のヤクルト対巨人戦から復帰。

      ^ “豊田泰光氏が死去 プロ野球・西鉄黄金期支える”. 日本経済新聞. (2016年8月15日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG15H3R_V10C16A8CC0000/?dg=1&nf=1 2016年8月15日閲覧。 

      ^ “平成18年度茨城県表彰”. 茨城県 (2016年3月18日). 2017年8月15日閲覧。

      ^ “豊田泰光氏が語る 戦争とプロ野球”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2007年8月16日). オリジナルの2014年6月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140607001201/http://www.sponichi.co.jp/seibu/column/closeup/KFullNormal20070816149.html 2017年8月15日閲覧。 

      ^ 豊田泰光「豊田泰光のオレが許さん 第917回 19年目の自己紹介(1)」『週刊ベースボール』2012年1月23日号、ベースボール・マガジン社、70-71頁、雑誌20444-1/23。 

      ^ “元プロ野球選手、豊田泰光さんが寄付”. 常陽新聞. (2008年6月5日). オリジナルの2014年6月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140606231230/http://www.joyo-net.com/kako/2008/honbun080605.html 2017年8月15日閲覧。 

      ^ 『プロ野球三国志』144頁

      ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年

      ^ 『プロ野球三国志』145頁

      ^ “不倫騒動に監督への造反、無免許交通事故…不祥事から再起を果たしたプロ野球選手たち<SLUGGER>”. THE DIGEST. 2023年2月8日閲覧。

      ^ 『プロ野球トレード史II』、ベースボール・マガジン社、1991年、108頁。 

      ^ 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』ベースボール・マガジン社、1992年、頁。ISBN 4583030339。 

      ^ 立石泰則『魔術師 決定版』(小学館、2002年)678頁。

      ^ “【8月25日】1968年(昭43) サヨナラ男・豊田、2戦連続同じ投手から決着弾”. 2011-10-28. 2011年11月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月28日閲覧。

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      ^ Sports Graphic Number 三原脩生誕100周年記念特集

      ^ 「本年度上半期 流行歌ベスト10」『毎日新聞』1958年7月14日付東京夕刊、2面。1位はフランク永井の「有楽町で逢いましょう」。

      ^ “故・豊田泰光氏の文章力は恐るべき好奇心のたまもの | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2023年2月8日閲覧。

      ^ 井手義弘 (2004年2月13日). “吉田正記念館・開館にむけての準備進む”. ほっとメール@ひたち(茨城県議会議員井手よしひろのブログ). ライブドア. 2017年8月15日閲覧。

      ^ 玉木正之『プロ野球大事典』新潮社〈新潮文庫〉、1990年、322頁。ISBN 4101070121。 玉木は「(他の対象者の)ほとんどが名球会の会員だったせいもあったのだろうが、プロ野球界やそれを支援するスポンサーに、彼のジョークが通じなかったのは残念だ」と記している。

      ^ “野球解説者の豊田泰光氏、茨城県に500万寄付”. MSN産経ニュース. 産経デジタル. (2008年6月4日). オリジナルの2008年6月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080622134758/http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/ibaraki/080604/ibr0806040247002-n1.htm 2017年8月15日閲覧。 

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      ^ “豊田泰光さん死去 野村克也さん、中西太さんの話”. 毎日新聞. (2016年8月16日). https://web.archive.org/web/20160823235538/http://mainichi.jp/articles/20160816/ddm/035/050/036000c 2016年8月17日閲覧。 

      ^ “巨人軍改革論”. 週刊ベースボール (別冊2003年冬季号): 16-17. 

      ^ 「豊田泰光のオレが許さん!」『週刊ベースボール』2010年8月11日号、ベースボール・マガジン社、。 

      有本義明『プロ野球三国志』毎日新聞社、1992年

      茨城県出身の人物一覧

      埼玉西武ライオンズの選手一覧

      東京ヤクルトスワローズの選手一覧

      鯨岡兵輔 - 豊田の親族、元衆議院副議長

      個人年度別成績 豊田泰光 - NPB.jp 日本野球機構

      選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

      野球殿堂 豊田泰光

      豊田泰光旧公式ページ

      豊田泰光新公式ページ

      60 ヴィクトル・スタルヒン

      62 池田豊

      63 中島治康

      64 若林忠志

      65 川上哲治, 鶴岡一人

      69 苅田久徳

      70 天知俊一, 二出川延明

      72 石本秀一

      74 藤本定義, 藤村富美男

      76 中上英雄

      77 水原茂, 西沢道夫

      78 松木謙治郎, 浜崎真二

      79 別所毅彦

      80 大下弘, 小鶴誠

      81 飯田徳治, 岩本義行

      83 三原脩

      85 杉下茂, 白石勝巳, 荒巻淳

      88 長嶋茂雄, 別当薫, 西本幸雄, 金田正一

      89 島秀之助, 野村克也, 野口二郎

      90 真田重蔵, 張本勲

      91 牧野茂, 筒井修, 島岡吉郎

      92 廣岡達朗, 坪内道則, 吉田義男

      93 稲尾和久, 村山実

      94 王貞治, 与那嶺要

      95 杉浦忠, 石井藤吉郎

      96 藤田元司, 衣笠祥雄

      97 大杉勝男

      99 中西太, 広瀬叔功, 古葉竹識, 近藤貞雄

      00 米田哲也

      01 根本陸夫, 小山正明

      02 山内一弘, 鈴木啓示, 福本豊, 田宮謙次郎

      03 上田利治, 関根潤三

      04 仰木彬

      05 村田兆治, 森祇晶

      06 門田博光, 高木守道, 山田久志

      07 梶本隆夫

      08 山本浩二, 堀内恒夫

      09 若松勉

      10 東尾修

      11 落合博満

      12 北別府学, 津田恒実

      13 大野豊

      14 野茂英雄, 秋山幸二, 佐々木主浩

      15 古田敦也

      16 斎藤雅樹, 工藤公康

      17 伊東勤

      18 松井秀喜, 金本知憲

      19 立浪和義

      22 髙津臣吾, 山本昌

      23 アレックス・ラミレス

      24 谷繁元信, 黒田博樹

      25 イチロー, 岩瀬仁紀

      09 青田昇

      10 江藤慎一

      11 皆川睦雄

      13 外木場義郎

      16 榎本喜八

      17 星野仙一, 平松政次

      18 原辰徳

      19 権藤博

      20 田淵幸一

      23 ランディ・バース

      25 掛布雅之

      59 正力松太郎, 平岡凞, 青井鉞男, 安部磯雄, 橋戸信, 押川清, 久慈次郎, 沢村栄治, 小野三千麿

      60 飛田忠順, 河野安通志, 桜井彌一郎

      62 市岡忠男

      64 宮原清

      65 井上登, 宮武三郎, 景浦將

      66 守山恒太郎

      67 腰本寿

      68 鈴木惣太郎, 田邊宗英, 小林一三

      69 三宅大輔, 田部武雄, 森岡二朗, 島田善介, 有馬頼寧

      70 田村駒治郎, 直木松太郎, 中馬庚

      71 小西得郎, 水野利八

      72 中野武二, 太田茂

      73 内海弘蔵, 天野貞祐, 広瀬謙三

      74 野田誠三

      76 小泉信三

      77 森茂雄, 西村幸生

      78 伊丹安広, 吉原正喜, 岡田源三郎

      79 平沼亮三, 谷口五郎

      80 千葉茂

      81 佐伯達夫, 小川正太郎

      82 鈴木龍二, 外岡茂十郎

      83 内村祐之

      84 桐原眞二

      85 田中勝雄, 山内以九士

      86 中河美芳, 松方正雄

      87 藤田信男, 山下実

      88 横沢三郎, 芥田武夫, 永田雅一

      89 池田恒雄, 伊達正男

      90 佐伯勇

      91 中澤良夫

      92 吉田正男

      94 廣岡知男

      95 呉昌征, 村上實

      96 牧野直隆, 保坂誠

      97 山本英一郎

      98 中尾碩志, 井口新次郎

      99 吉國一郎

      00 福島慎太郎

      01 武田孟, 長谷川良平

      02 中澤不二雄, 生原昭宏

      03 松田耕平

      04 秋山登

      05 志村正順

      06 川島廣守, 豊田泰光

      07 松永怜一

      08 嶋清一

      09 大社義規, 君島一郎

      10 古田昌幸

      12 長船騏郎, 大本修

      13 福嶋一雄

      14 相田暢一

      15 林和男, 村山龍平

      16 松本瀧藏, 山中正竹

      17 郷司裕, 鈴木美嶺

      18 瀧正男

      19 脇村春夫

      20 前田祐吉, 石井連藏

      21 川島勝司, 佐山和夫

      22 松前重義

      23 古関裕而

      24 谷村友一

      25 富澤宏哉

      02 フランク・オドール, 正岡子規

      03 ホーレス・ウィルソン, 鈴鹿栄

      1950 別当薫

      1951 南村不可止

      1952 別所毅彦

      1953 川上哲治

      1954 杉下茂

      1955 別所毅彦

      1956 豊田泰光

      1957 大下弘

      1958 稲尾和久

      1959 杉浦忠

      1960 近藤昭仁

      1961 宮本敏雄

      1962 土橋正幸, 種茂雅之

      1963 長嶋茂雄

      1964 J.スタンカ

      1965 長嶋茂雄

      1966 柴田勲

      1967 森昌彦

      1968 高田繁

      1969 長嶋茂雄

      1970 長嶋茂雄

      1971 末次民夫

      1972 堀内恒夫

      1973 堀内恒夫

      1974 弘田澄男

      1975 山口高志

      1976 福本豊

      1977 山田久志

      1978 大杉勝男

      1979 高橋慶彦

      1980 J.ライトル

      1981 西本聖

      1982 東尾修

      1983 大田卓司

      1984 長嶋清幸

      1985 R.バース

      1986 工藤公康

      1987 工藤公康

      1988 石毛宏典

      1989 駒田徳広

      1990 O.デストラーデ

      1991 秋山幸二

      1992 石井丈裕

      1993 川崎憲次郎

      1994 槙原寛己

      1995 T.オマリー

      1996 T.ニール

      1997 古田敦也

      1998 鈴木尚典

      1999 秋山幸二

      2000 松井秀喜

      2001 古田敦也

      2002 二岡智宏

      2003 杉内俊哉

      2004 石井貴

      2005 今江敏晃

      2006 稲葉篤紀

      2007 中村紀洋

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      2009 阿部慎之助

      2010 今江敏晃

      2011 小久保裕紀

      2012 内海哲也

      2013 美馬学

      2014 内川聖一

      2015 李大浩

      2016 B.レアード

      2017 D.サファテ

      2018 甲斐拓也

      2019 Y.グラシアル

      2020 栗原陵矢

      2021 中村悠平

      2022 杉本裕太郎

      2023 近本光司

      2024 桑原将志

      1957 豊田泰光

      1958 中西太

      1959 杉山光平

      1960 近藤和彦

      1961 塩原明

      1962 岩下光一

      1963 王貞治

      1964 K.ハドリ

      1965 林俊彦

      1966 長嶋茂雄

      1967 D.スペンサー

      1968 柴田勲

      1969 足立光宏

      1970 黒江透修

      1971 黒江透修

      1972 長嶋茂雄

      1973 高田繁

      1974 山崎裕之

      1975 中沢伸二, 外木場義郎

      1976 B.ウイリアムス

      1977 福本豊

      1978 若松勉

      1979 水谷実雄

      1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰

      1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正

      1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義

      1983 田淵幸一, テリー, 中畑清

      1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊

      1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二

      1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実

      1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己

      1988 清原和博, 森山良二, 郭源治

      1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸

      1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤

      1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎

      1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也

      1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也

      1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦

      1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾

      1996 大島公一, 鈴木平, イチロー

      1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛

      1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広

      1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司

      2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成

      2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満

      2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之

      2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎

      2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信

      2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁

      2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲

      2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博

      2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広

      2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一

      2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平

      2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩

      2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー

      2013 田中将大, 銀次, 内海哲也

      2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太

      2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太

      2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔

      2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大

      2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃

      2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩

      2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐

      2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎

      2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆

      2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸

      2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ

      1952 与那嶺要

      1953 川上哲治

      1954 日比野武

      1955 飯田徳治

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      1960 金光秀憲

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       捕  野村克也

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       投  杉浦忠

       捕  野村克也

       一  榎本喜八

       二  岡本伊三美

       三  葛城隆雄

       遊  豊田泰光

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       捕  野村克也

       一  榎本喜八

       二  J.ブルーム

       三  小玉明利

       遊  豊田泰光

       外  山内一弘 / 張本勲 / 吉田勝豊

      VIAF

      日本

      日本の野球選手

      茨城県立水戸商業高等学校出身の野球選手

      埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手

      東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手

      首位打者 (NPB)

      パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB)

      NPBオールスターゲーム選出選手

      野球解説者

      日本の野球指導者

      大阪近鉄バファローズ関連人物

      日本の野球殿堂表彰者

      日本のラジオパーソナリティ

      茨城県出身のスポーツ選手

      1935年生

      2016年没

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      野球に関する記事

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2025/03/29 16:10更新

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