里見弴の情報(さとみとん) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
里見 弴さんについて調べます
■名前・氏名 |
里見弴と関係のある人
佐藤春夫: 4月に3年間に長篇を2作ずつ書く約束で、菊池寛、宇野浩二、里見弴と共に報知新聞社客員記者となり、中国へ旅行する。 志賀直哉: 国立音楽大学ピアノ科在学中の孫娘・柳美和子(四女万亀子の娘)がピアノ演奏するなか、葬儀委員長の里見弴が弔辞を述べ、東大寺の上司海雲と橋本聖準が読経、その後参列者による献花が行われた。 児島喜久雄: 学習院初等科より里見弴と親しく、1903年(明治36年)、16歳の時に画家の三宅克己に入門。 清水基吉: 1981年(昭和56年)から、里見弴、今日出海、小林秀雄、永井龍男らと鎌倉文学館設立の計画に加わり、1985年(昭和60年)の開館に漕ぎつけ、1991年(平成3年)から2004年(平成16年)まで、第2代館長を務めた。 小津安二郎: 小津は中学時代から里見弴の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している。 泉鏡花: また春陽堂より『鏡花全集』刊行開始、鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫が編集委員を務めた。 佐々木茂索: 同社の専務を務めていた1933年(昭和8年)11月、不良華族事件の捜査の過程で文士らによる常習賭博が明らかになり、久米正雄、 里見弴らとともに検挙された。 泉鏡花: 里見弴が佐藤春夫に命じ、徳田秋聲が選んだ。 久保田万太郎: 翌年、親友であった里見弴三男結婚の媒酌をし、9月に帝国芸術院会員として宮中に招かれ、昭和天皇と御陪食。 河内仙介: 太平洋戦争中は片瀬で軍需工場の宿舎の舎監をし、戦後は里見弴が久米正雄に世話を頼んだが、純文学志向が強く、それ以降はあまり作品を発表できなかった。 直木三十五: 1920年(大正9年)、里見弴、久米正雄、吉井勇、田中純らによって創刊された『人間』の編集を担当。 宇野浩二: 里見弴・菊池寛・佐藤春夫とともに報知新聞の客員となり長編小説を執筆することになって、以後約1年間月給が入るようになった。 川端康成: 『文學界』にはその後、横光利一、藤沢桓夫、里見弴らも加わった。 江川宇礼雄: 同社で『多情仏心』(原作は里見弴)に出演。 河内仙介: 1925年(大正14年)頃に上京し、新潮社に勤務しながら里見弴に師事し作家を目指す。 江川宇礼雄: 1923年(大正12年)、仲間との窃盗容疑で逮捕され、年末懲役一年の判決を受けるが、里見弴、久米正雄、佐藤春夫らがその文才を惜しんで減刑嘆願を行い、24年(大正13年)3月、控訴審で執行猶予がつく。 東久邇宮稔彦王: 学習院初等科の同期生には異母兄の鳩彦王、有栖川宮威仁親王第一王子の栽仁王、北白川宮能久親王第三王子の成久王、同第四王子の輝久王などのほか、里見弴もおり親友となる。 藤枝静男: 志賀直哉、里見弴、小津安二郎と来浜。 深田久弥: 鎌倉文士の久米正雄と里見弴を重鎮に、小林秀雄、林房雄、川端康成らと鎌倉ペンクラブ結成。 宇野浩二: 直木三十五のすすめで里見弴・菊池寛・久米正雄・芥川龍之介・田中純らと京都経由で大阪に講演旅行(浩二は講演せず)に行った後、芥川龍之介とともに京都経由で下諏訪に旅行し鮎子に会い、諏訪市内の花松館で活動写真を観た。 宇野浩二: 鵠沼の東屋にもしばしば出かけ、里見弴・久米正雄・芥川龍之介・佐藤春夫・佐佐木茂索・大杉栄・江口渙らと過ごした。 志賀直哉: その後1910年(明治43年)、直哉は『望野』の他のメンバー、『麦』(里見弴らが所属)のメンバー、『桃園』(柳宗悦らが所属)のメンバーとともに雑誌『白樺』を創刊する。 久保田万太郎: 他にも里見弴と親交を結び、脚色演出を行う。 有島生馬: 1910年(明治43年)2月に帰国し、武郎、弟・里見弴とともに『白樺』同人となり、セザンヌをいち早く紹介する。 同年、女中の関安子を捨て、里見弴の学友だった原田熊雄の妹・原田信子( - 1978年)と結婚。 久米正雄: 1933年(昭和8年)、不良華族事件の捜査の過程で川口松太郎や里見弴らと共に常習的な花札賭博を行っている容疑が浮上。 中島葵: 官僚・実業家の有島武と陸軍大将・男爵の神尾光臣が曾祖父、小説家の有島武郎が祖父、画家の有島生馬と小説家の里見弴が大伯父に当たる。 那須良輔: そのうち、鎌倉に自身の山荘を持っていた作家・里見弴とは趣味の釣りを通じて親しく、那須は『里見弴全集』の月報に「那珂の庄雑記」を連載した。 志賀直哉: この休筆期間中、直哉は里見弴と一緒に満州・天津・北京を旅行している。 佐々木茂索: ^ 久米正雄、里見弴、佐佐木茂索ら検挙『中外商業新聞』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613) 諏訪根自子: 1934年から、生馬の弟の里見弴はこの事件をモデルに長編小説『荊棘の冠』を発表した。 |
里見弴の情報まとめ
里見 弴(さとみ とん)さんの誕生日は1888年7月14日です。神奈川出身の作家のようです。
兄弟、結婚、事件、映画、父親、母親、事故に関する情報もありますね。1983年に亡くなられているようです。
里見弴のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 - 1983年(昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。本名:山内 英夫(やまのうち ひでお)。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 兄有島武郎・生馬の友人志賀直哉の強い影響を受け、『白樺』創刊に参加。人情の機微を描く心理描写と会話の巧妙を発揮して、高い評価を受け、晩年まで長く活躍した。 1888年(明治21年)、有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれる。生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となり山内英夫となったが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた。 1900年(明治33年)に学習院中等科 (旧制) へと進み、この頃から泉鏡花の作品に慣れ親しむ。同高等科 (旧制) を経て東京帝国大学文学部英文科へと進むが、程なくして同校を退校し、バーナード・リーチにエッチングを教わる。1910年(明治43年)4月、志賀直哉や武者小路実篤らが創刊した雑誌『白樺』に2人の兄と共に同人として参加した。ペンネームの里見は、電話帳をペラペラとめくり指でトンと突いた所が里見姓であったとしている。 志賀の手引きで吉原などで遊蕩し、父母に強硬に許しを請い、大阪の芸妓・山中まさと結婚した。その経歴が『今年竹』『多情仏心』などの代表作に現れている。 志賀の『暗夜行路』冒頭に出てくる友人・阪口は、弴がモデルである。1914年(大正3年)には、志賀とともに松江で暮らし、このことを志賀は『暗夜行路』に、弴は『今年竹』に生かしている。 1914年(大正3年)、夏目漱石の依頼を受けて『母と子』を朝日新聞に連載。 1915年(大正4年)、『晩い初恋』を中央公論に掲載して本格的に文壇デビュー、翌年同誌に『善心悪心』を発表、弴の初期の代表作とされ同年、同名の短編集を刊行、祖母・静子に献じる。 1917年(大正6年)、『新小説』に『銀二郎の片腕』を発表する。 1919年(大正8年)、時事新報に『今年竹』を連載するが中絶、のち完成させる。この年、吉井勇、久米正雄らと雑誌『人間』を創刊した。1920年(大正9年)、『桐畑』を國民新聞に連載する。1922年(大正11年)から翌年大晦日まで、『多情仏心』を時事新報に連載した。同年、兄・武郎の心中事件があり、弴は「兄貴はあんまり女を知らないからあんなことで死んだんだ」と言ったという。 1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)まで、武郎の心中事件を中心とした長編『安城家の兄弟』を3部に分けて発表する。1932年(昭和7年)より6年間、明治大学文芸科教授を務めた。 1933年(昭和8年)、不良華族事件の捜査の過程で文士らによる賭博事件が浮上。同年11月17日、警察に妾(出典ママ)や書店経営者と麻雀をしていたところに踏み込まれて検挙された。菊池寛のとりなしで翌日釈放され、罰金刑を受ける。1940年(昭和15年)、菊池寛賞(戦前のもの)を受賞した。 1945年(昭和20年)、川端康成らと鎌倉文庫創設に参加、1947年(昭和22年)、日本芸術院会員となる。1952年(昭和27年)、『道元禅師の話』を連載、1954年(昭和29年)、十五代目市村羽左衛門の出生の秘密に触れた『羽左衛門伝説』を毎日新聞に連載した。1956年(昭和31年)、短編集『恋ごころ』で読売文学賞を受賞する。 終生鎌倉に住み、鎌倉文士のまとめ役だった。その縁で戦後は大船の撮影所にもよく出入りし、小津安二郎監督とも親しく小津と組んでいくつかの映画の製作にもかかわった。1958年(昭和33年)の『彼岸花』は小津と野田高梧の依頼を受け、映画化のために書き下ろしたものである。四男の山内静夫は松竹の映画プロデューサーであり、この映画の製作も務めた。 弴は舞台への造詣も深く、その縁から歌舞伎、新派、文学座など、原作や戯曲も多く提供し、また演出も行った。代表作に花柳章太郎の当たり役(花柳十種のひとつに選ばれている)となった『鶴亀』(脚色:久保田万太郎)などがある。 1959年(昭和34年)、文化勲章を受章する。1960年(昭和35年)、『秋日和』を発表、同年小津安二郎監督により映画化されている。1961年(昭和36年)に『極楽とんぼ』、1971年(昭和46年)に『五代の民』で2回目となる読売文学賞を受賞した。 1971年(昭和46年)、志賀直哉の葬儀に際し弔辞を読み上げた。 1983年(昭和58年)1月21日に肺炎のため神奈川県鎌倉市の病院で亡くなったが、二十四節気の大寒にあたる命日は「大寒忌」と呼ばれている(文学忌)。 2000年4月、四男の静夫が武郎、生馬、弴の「有島三兄弟」の父の故郷である鹿児島県川内市に弴の小説の原稿や書、水彩画など354点の関係資料を寄贈した。資料には、有島家を題材にした「安城家の兄弟」や「風炎」の原稿、明治時代の通信簿や父の有島武が書いた「結納書」が含まれていた。これらの資料を中心に展示する「川内まごころ文学館」は2004年に開館し、1月30日の開館式には、有島三兄弟の子からひ孫まで約30人が出席した。 父親は実業家の有島武、母親は武の3番目の妻幸。同じく小説家の有島武郎、画家の有島生馬は共に実兄にあたる。 姉の有島愛は旧三笠ホテル経営者の山本直良と結婚、山本直良と愛との三男が作曲家で指揮者の山本直忠である(直忠の長男が作曲家・指揮者の山本直純、直純の長男が作曲家の山本純ノ介)。また直良と愛の息子の山本直正は、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻の二女の与謝野七瀬と結婚した。俳優の森雅之は長兄・有島武郎の息子で、甥にあたる。 妻の山中まさ(1898年生)は大阪の元芸妓で、1915年に18歳で結婚し、1973年に交通事故で没した。まさは里見との間に、長女夏絵(生後間もなく死去)、長男洋一、次男鉞郎(東宝勤務)、次女瑠璃子、三男湘三、四男静夫をもうけた。 中上川彦次郎の二男・次郎吉を旦那に、二代目市川猿之助を愛人に持つ赤坂芸妓の菊龍(遠藤喜久、お良、1895年生)を猿之助から奪って愛人にした。1926年に麹町に妾宅を構えてお良を住まわせ、お良が1952年に子宮癌で亡くなるまで実質上の夫婦として生活を共にした。戦時中のお良と里見との往復書簡が『月明の径―弴・良こころの雁書』(文藝春秋、1981年)が最晩年に刊行されている。お良没後はお手伝いの外山伊都子(1930年生。沼津の船大工の娘、沼津高女卒)と暮らした。伊都子は里見の没後、1985年に『新潮45』に「『多情仏心』に捧げたわが半生」を寄稿した。 西園寺公望の秘書であった原田熊雄は友人で、姻戚(原田の妹が里見の兄である有島生馬の妻)でもあった。その縁で、原田が公刊を前提に口述筆記していた日記(『西園寺公と政局』)の校訂を依頼されるが、全編の6分の1ほどが終わった段階で、日記が空襲などに備えて図書寮に保管されることになったため、中断した。原田の没後、日記の岩波書店からの公刊に尽力した。この日記を『西園寺公と政局』と命名したのは里見である。 『恋ごころ ほか』講談社文芸文庫 『初舞台、彼岸花 ほか』 講談社文芸文庫 『安城家の兄弟』 岩波文庫(上中下) 『極楽とんぼ』 岩波文庫 『道元禅師の話』 岩波文庫 『多情仏心』 岩波文庫(上下)、新潮文庫 『善心悪心』 岩波文庫 『今年竹 前後篇』 岩波文庫 『木魂、毛小棒大』 中公文庫(十二の短篇選集) 『大道無門』 青木書店 『秋日和 ほか』 夏目書房(武藤康史編) 『彼岸花/秋日和 小津映画原作集』 中公文庫
『君と私-志賀直哉をめぐる作品集』 中公文庫(文庫オリジナル) 『垣のぞき』 かまくら春秋社
山内静夫 『八十年の散歩』 冬花社 2007年 ※実子による回想記を収む。 小谷野敦 『里見弴伝 〈馬鹿正直〉の人生』 中央公論新社、2008年 『別冊かまくら春秋 追悼素顔の里見弴』 かまくら春秋社、1983年 奥野健男「里見弴伝」(『現代日本文学館15 有島武郎、里見弴集』 文藝春秋) ^ “里見弴について”. 鎌倉 西御門サローネ. 2016年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月14日閲覧。 ^ 紅野敏郎 (1986), “里見弴”, 日本大百科全書 : Encyclopedia Nipponica 2001, さえ‐しつ, https://kotobank.jp/word/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E5%BC%B4-69372 ^ 百年文庫4 秋. ポプラ社. (2010-10-12). pp. 170-171. ISBN 9784591118863 ^ 吉井勇夫人の供述から文士連の賭博暴露『中外商業新聞』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 久米正雄、里見弴、佐佐木茂索ら検挙『中外商業新聞』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613) ^ 「小津安二郎(神奈川の20世紀 第四部・大船残照:2)/神奈川」『朝日新聞』1999年11月10日、神奈川版、26面。 ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)159頁 ^ “薩摩川内ゆかりの作家・里見しのび「大寒忌」”. 南日本新聞. (2016年1月27日). http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=72727 2016年2月2日閲覧。 ^ 「数多いゆかりの文化人 遺物続々、古里へ(鎌倉発)」『朝日新聞』2004年6月26日、33面。 ^ 「里見とんの原稿や書、川内市に寄贈 四男の山内さん /鹿児島」『朝日新聞』2000年4月26日、鹿児島版、25面。 ^ 「「有島3兄弟」の子孫ら一堂に 文学館開館で川内へ /鹿児島」『朝日新聞』2004年1月31日、鹿児島版、31面。 ^ 文豪の女遍歴 里見弴ーー愛人お良との暮らしを軸に小谷野敦 幻冬舎plus, 2017.12.12 ^ "里見弴・詳細年譜". 小谷野敦ウェブサイト. 2017年5月18日. 2017年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月18日閲覧。 ^ 里見弴 事 山内英夫「緒言」『西園寺公と政局 第1巻』岩波書店、1950年6月30日。 里見弴 - NHK人物録 西御門サローネ - 鎌倉市にある旧里見邸を保存・公開 FAST ISNI
VIAF WorldCat ノルウェー フランス BnF data ドイツ イタリア イスラエル アメリカ 日本 チェコ 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research IdRef 19世紀日本の小説家 20世紀日本の小説家 読売文学賞受賞者 文化勲章受章者 日本藝術院会員 明治大学の教員 有島家 旧制学習院高等科出身の人物 学習院中・高等科出身の人物 横浜市出身の人物 私の履歴書の登場人物 1888年生 1983年没 鎌倉霊園に埋葬されている人物 Titlestyleにbackgroundとtext-alignを両方指定しているcollapsible list使用ページ ウィキデータと異なるNHK人物録ID FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 ICCU識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/22 21:41更新
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